2006年11月05日

婚差会つうしん99号


2006年10月26日発行

konsakai@big.or.jp



●私と婚差会 VOL.3●

● チャイナドレスの思い出
 初めて婚差会のメンバーとじかに出会えたその時、私は光沢のある水色の地に、白と銀色の刺繍模様の入ったチャイナドレスを着ていた。当時何の肩書きもなく、組織にも所属しない私の、まさしく「チャイナドレスにかけた夜」だった。
 その夕べというのは、フィフティネット(女性議員の数を全体の半数にすることを目指した団体)がNPO法人になったお祝いパーティで、女性運動のただなかにいる人たちが多く出席されるのを見込んで、単身「営業」に乗り込んだのだった。これから起こそうとする、無謀かもしれない裁判をサポートしてもらうために。
 話しかけられやすいように、なんでもいいから目立つ必要を感じた私がそのスタイルを選んだのは、今思い出すとこっけいで、涙ぐましく、純粋に必死だったのだと感じる。いろいろな方々と少しずつ言葉を交わすことができ、お酒も飲めて嬉しかった。そうしてパーティも終わろうとする頃、婚差会のお二人から「婚外子集まれ!民法改正から婚外子差別撤廃を落とすな!!」の集会のビラを手渡されたのであった。婚外子でもあり非婚の母でもある私にとって、「つながりたいっ」と思った一瞬で、今もそのシーンはありありと脳裏によみがえる。2001年3月15日の夜のことだった。もちろんチャイナドレスを着替えて電車で帰宅したのだが、会場だった大阪天満橋のドーンセンターの着替え室に脱いだまま、酔いがまわったのも手伝ったのだろう、忘れてきてしまった。後でその忘れ物を取りに伺ったとき「大変珍しい忘れ物でした」と言われたオマケつきだった。
● 分籍と氏の変更 私の試み
 戸籍というもののあり方に胡散臭さを感じていた私は、二十歳の誕生日を待って分籍の手続きをした。誕生日が祝日で、翌日が日曜日、その次の月曜日だったと思う。市役所の市民課窓口で対応した男性職員は、一瞬私の幼そうな顔を見、怪訝そうな面持ちで申請書を受け取り、無言で事務処理を行った。分籍に関して読んだ本では、「分籍すると二度と親元の戸籍には戻れませんよ」と脅しめいた言葉をかけられると書いてあったが、何のことはなかった。筆頭者という言葉が当時の私の氏名の上に何でもないように被さっているのをまじまじと見たものだ。「父親」が筆頭者だった戸籍の重い鎖からは外れたという快感があった。きらびやかな振袖を着るよりよっぽど私らしい、二十歳の小さなイベントだった。
 分籍を機に、私は姓を考え始めた。累々たる姓の系譜のなかで、婚姻を境に圧倒的多数の女性が自分の姓を失わされるのは、明らかに女性差別ではないか。新たな戸籍が作成されるたびに繰り返される女性の側の排除に、家制度のいやらしさの名残を感じていた。私の場合、「父親」=母がたまたま結婚した男性であって、その男の家の姓を名乗るのは欺瞞めいたものを感じていて、一体感とかいうものはなかったのだった。母をいじめ私に冷淡な暴力男の姓をずっと使うのはとにかくいやだった。
 かといって母の旧姓を使う気にもなれなかった。母が結婚のために棄て去った姓をのこのこ拾いにいくようなことはしたくなかったし、何より母の家のイメージが鮮明にしみついていたので、ノーサンキュウだった。すでに会ったことのある人や家のイメージが連想されるものは選べなかった。時任の姓は、当時読んだ志賀直哉の『暗夜行路』の主人公の、時任謙作に由来している。小説の中で、兄は愛されるのに自分は父から愛されない葛藤にあるとき、自分の出生の秘密を知った彼がつぶやいた「僕の祖先は誰でもない、僕自身だ」という言葉に共鳴したからだった。そのほかにも、渡辺淳一の『阿寒に果つ』に描かれた時任純子にもひそかに憧れを抱いていて、私はこれしかない!という思いでこの姓を自分の姓に選んだのだった。
 その後ずっとこの姓で生きてきて、出産前に2度目の氏の変更を家庭裁判所に申し立て、戸籍の氏名も書き換えられた。やっと戸籍に自分の色を塗りこめた感じがした。
 分籍や氏の変更など、「普通」の二十歳そこそこの女性がおよそ手を出しそうにない試みに至った心理的基盤を、婚差会のなかでは普通に話せる。私が感覚で動いたことに、明確に理論でわかってくれる。よく言われた「変人ぶり」をすんなり受けとめてもらえることが、私にはこの上なく心地いい。戸籍制度や婚姻制度にひとりで対峙してきた個を生きたい魂が、ここでは気持ちよく深呼吸できるのだ。共感しあえるって素晴らしい。
●出さなかった手紙
 実は子どもを出産して、3カ月くらいたった頃、ようやく子どもとの生活のリズムに慣れてきたのが嬉しくて、私は婚差会に宛てて手紙を書いたことがあった。親もきょうだいもなく非婚で出産した私のことを誰かに伝えたかったのかもしれない。私の周りにはこの出産を批難したり攻撃してくるような人はいなかったが、また家族のように強烈に喜んでくれる人も不在だった。もちろん友人たちや職場関係の人たちはたくさんのお祝いをしてくれ、交代でひっきりなしに子どもの顔をのぞきにきてくれたのだったが、夜にはそれぞれの家族のもとに帰ってしまう。お泊りで世話をしに来てくれた友人もいたが、ずっと一緒にいてくれるわけではない。一段落ついたら新しい誰かに知らせたくなったのだろう。無心に眠る平和そのもののわが子の寝顔を傍らに、婚差会につらつらと手紙をしたためたのだった。
 ところが、4カ月になる前、最初の職場復帰のための保育園入園のための手続きや、ならし保育から哺乳瓶での人工乳をうけつけない息子のために育児休業を再取得する際のすったもんだで、結局投函する機を逸してしまい、そのままどこかへ紛れ込んでしまった。
 その次にやっと出会えたのが、それから5年たったあの「チャイナドレスの夜」だったのである。連なるべきものは時を隔てようともいずれ連なりゆく。
● 婚差会とともに歩んだ裁判
 2001年が明けてから、冬から春にかけて、私の心は揺れに揺れていた。提訴することを決めて、送りつけられたお金を全額返還しスッテンテンになったものの、裁判のパートナーである弁護士が見つからない。裁判全体で最初の試練の時期だった。裁判をしようと心は決まっているのに、味方の法律家が近くにいないのは、こんなに心細くて不安なものなのか。ぎりぎりの不安に苛まれていながら、文無しになっても断わられ続けても、それでも何かを始める前のエキサイティングな高揚が全身にみなぎっていた。魂はぴかぴかに光っているのを感じていた。5人目に出会った弁護士の雪田樹理さんは、この時のハイになっている私をご覧になって、「この人大丈夫かなぁ」と思われたらしい。「裁判を楽しみたい」と語った私は異質な相談者だったのだろう。「奥野京子弁護士とともに担当します」とFAXが届いて、やっと地に足がついた感じがしたのだった。3月の終わりの頃だった。
 「婚外子集まれ!民法改正から婚外子差別撤廃を落とすな!!」の集会が4月21日茨木市の男女共生センター・ローズワムで開催され、その打ち合わせのテーブルで裁判を全面的に支援しようと言ってくださって、追い風がさらに強まった気がした。
 5月に入って報道される立場になった頃も神経をすり減らした時期だった。相手の悪い噂がいっぱい耳に入ってきて、ちょっと怖くなってきた。提訴することがテレビでわかったら嫌がらせを受けるのではないか。住んでいるアパートに石を投げつけられるのではないか。子どもに危害を加えられたりしないだろうか。さらわれたり、ホームから突き落とされたりしないだろうか…。被害妄想に陥っていた私に、「うちへおいで」と声をかけてくださったのが善積京子さんだった。この時期この支えがなかったら、私と幼い息子はどんなふうに過ごしていただろう。5月24日、訴状提出と記者会見の当日も(ついでに最終面接も)、京子さんの家から出て、京子さんの家に帰った。1週間近くも、まさに子どもと二人「かくまってもらった」のだった。
 つうしん80号から、ほぼ毎回つうしんの発行作業にかかわってきた。80号では別冊で「なぜ私が裁判にもちこんだのか」を書き、その後も裁判の進行報告をおりおりの雑感とともに寄せた。「支援する会」も立ち上げていただいた。たくさんのカンパも寄せていただいて、世の中とつながっている幸せを感じていた。失業して、世間から弾き飛ばされたような気がしていた私にとって、この裁判はまぎれもなくおびただしい変化と連なりをもたらしてくれた。
 2002年3月、一審敗訴の後、控訴を決めるまでが二番目の試練だった。全面的に退けられた判決に、「もうやめといたら」という声もたくさん聞こえてきた。おりしも、編集の仕事の契約が更新されないことがわかって、敗訴と失業のダブルパンチをくらった気がしていた。無力感にさいなまれ打ちひしがれていた私が、「背中を押してほしい」と心細い声で京子さんに電話をかけたとき、彼女はこう言った。「支援は続けるよ。だけど控訴するかどうかを決めるのは当事者で運動のための裁判じゃないと思う」。この言葉をかみしめて、私は本当に控訴を決意したのだ。そうだ。このまま終わりにするのは自分自身がいやなのだ。
 控訴審がスタートして間もなく、8月31日、最初の出会いの場所であるドーンセンターで、弁護士のお二人を招いて「シングルマザー・セクハラ裁判を考える会」を催してもらった。こういう集会の準備に手馴れた大田季子さんが、タイトルの横断幕と強力マグネットをごろごろと持ってきてくださったのには感激した。「冷蔵庫にくっついてるのを今朝とってきたの」。こういった手作りの支援がとてもありがたかった。
 三番目にしんどかったのが、裁判所から和解案を提示されたときだった。和解の内容は「公表はなし。何の意味もない解決金100万」で、到底満足できるものではなかったが、一審のきわめて辛い敗訴経験で、裁判官の心証をよくしておく努力をしなかった反省から、一度は蹴った和解案をのむと雪田樹理弁護士に自分で連絡をしたのだった。その夜から、相手が和解を蹴って裁判続行の連絡が入るまでがかなりきつい時間だった。ここまで頑張ってきて、最後の最後に私自身の心を裏切ってまで裁判所に「いい子」を演じざるを得なかったことの苦しいことったらなかった。「判決が欲しいです。あちらが蹴ってくれますように」。祈りを捧げた数日間ののち、祈りは届いて裁判続行の連絡が入ったのだった。
 こんなふうに裁判の道のりにはしんどい時期が用意されていたのだが、婚差会はそのつど手を差し伸べて助けてくれた。裁判を楽しむという贅沢を味わえたのは、いい仲間と素敵な弁護士がいてくださったからこそできたこと。華やかにお祝いなんてしてもらえた経験をもたずにきた私にとって、逆転勝訴パーティは生涯でもっともたくさんの人に祝ってもらえたビッグイベントだった。
●これからの私
 こんなふうに、出会ってからずっと、物心両面支え続けてもらった私であるが、今はとにもかくにも、生活基盤をなんとかしてもう少し安定させたい。ハローワークでの私の仕事は、自身の失業経験やカウンセリングの勉強をしてきたことが活きて、とても好きなものではあるのだけれど、何せ非常勤職員という身分で、毎年更新の時期にはクビがつながるかどうかの不安にさらされ続けている。ボーナスも昇給もない。なのにけっこう特別な仕事を任されたりして、使われ損な気がしないでもない。ただ、窓口に来られた求職者の方々が、来られたときより少しでもほっとした表情で帰られるのを見るのが嬉しくて、ひとり親の家計の苦しさも顧みず続けている。子どもが小学校入学の年の4月からで、その息子が5年生だから、5年目だ。当初はまだ子どものアレルギー疾患で急に休んだりすることもたびたびあって、休みを取りやすいこの仕事が都合がよかったのだが、高学年になって体力的にも精神的にもしっかりしてきたので、そろそろ私自身の仕事にシフトしたいと考えている。年齢的にもここらあたりが最終のラストスパート、間に合うかどうかだろう。来年の今頃は、どこか別の職場で相談業務を中心にした常勤の仕事に就いていきいきと働いていたいと思う。こんなことを書いていたら、昨晩、人事院へ「私を常勤にしてください」と手紙を書いている夢を見た。
 親を早く失ったのは、それはそれで寂しかったのだけれど、考えようによれば私くらいの年代から浮上してくる、親の介護の心配からはすでにまったく解放されている。子育てに手をとられる時期を過ぎ、あとは精一杯働いて、子どもの教育費を稼ぎ、人並みに税金を納められるようになることが、私に課せられた使命なのではないだろうか。お世話になった人々への恩返しの意味でも、私の子どもに生まれてくれたルイのためにも。
 ・・・とつぶやいてみたものの、このまま生真面目に遊び続けているのが私らしい気がしている。

※婚差会と私 原稿大募集
 長らくご愛読いただいている「婚差会つうしん」ですが、来年2月100号の発行を区切りに婚差会ではつうしん発行業務をお休みさせていただくことになりました。
 そこで、今回皆さんからの原稿を大募集いたします。「私と婚差会」のテーマでご自由に書いてください。
 原稿はEメールまたはFAXで 追手門学院大学 善積研究室宛


●戸籍が出来てしまった・・・・●

 娘R(17歳)は、母親である私ブンタが出生届の差別記載を拒否したことから、生まれて17年の間、戸籍に記載なしのまま住民票その他をもって数々の行政手続き等をクリアしてきました。特に2002年8月には児童扶養手当受給もやっとの思いで獲得することができ、残された課題はパスポート取得のみ、というところに2006年10月19日出発の海外研修(修学)旅行がやってきたのです。
 国籍確認訴訟(大阪高裁で敗訴確定)、外務省交渉、京都府の各関係当局との交渉など、やれるだけはやった‥と思いますが、確信犯には譲歩の余地無しということでしょう、外務省旅券課長を超えてさらに上の、大臣官房総務課の指示で、出生届の受理証明書と引き換えのかたちでパスポートが出ました。戸籍抄本は修学旅行から無事充実して帰ってきた現在でも、提出していないけど(意地)。
 わたしは悩み、娘も苦しみある時には覚悟を決めたりもし、二人暮らしの我が家では相当な内戦?状態の日々がありました。しかし、おととい帰ってきた娘がパッチリ収種(USA西海岸5泊ホームステイで興味深いこといろいろ体験)してきたので、やはり、これでよかったのだと、思えます。また、私の課題については、わたしなりにやればよいと思うことができるようになりました(しばらく傷だらけでくやしくて泣けましたが)。
  Lemon+Cのメンバーにも、日常的に海外渡航の必要に迫られているともいえる(インターナショナルスクール通学)戸籍のない子どもがいます。それに、神戸で長年にわたって外務省交渉を続けている「みこれん」のながきさんの格闘もあります。滋賀県のDV被害者の方の子どもさんも、来年秋の修学旅行が海外に決定したという事です。
 傷ついたとか言ってる場合ではないのでありました。立場はシフトしますが、戸籍のないこの方たちをこれからは全力でサポートして、「戸籍なんかない方が自由でいいじゃん」という社会の実現をめざしてがんばっていきます。今まで、応援していただいてありがとうございました。そしてこれからも、注目とご支援をよろしくお願いします・・・
                 2006.10.28.
                            ブンタ(しばさき ふみえ)

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●これからのスケジュール●   
    
2006年
11月18日(土)事務局会議
12月9日(土) 事務局会議(忘年会)

2007年
1月27日(土) 事務局会議
2月17日(土) つうしん100発行
3月(日は未定)100号記念パーティー

 *つうしん発行日は朝10時30分に阪急茨木市駅改札口集合。作業場所は追手門学院大学善積研究室筍娃沓押Γ僑苅院Γ坑僑坑院いつも夜9時過ぎまでかかるので、手伝える人は途中からでもご参加ください。
 *事務局会議は朝11時から信岡法律事務所(筍娃供Γ僑械僑押Γ娃横横押地下鉄御堂筋線「淀屋橋」下車、裁判所方面へ徒歩8分)で。いつも午後3時頃までやっています。




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2005年10月26日

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婚差会の紹介

婚差会とは?・・・婚差会は、1977年、ウーマンリブの中で、婚姻制度に捉われないで生きていくための女たちの会として結成されました。結成当時の名前は「グループ・せきらん」です。その後、メンバーに子どもが生まれて、婚外出生の子として差別されるという問題に直面しました。婚姻制度に縛られないで生きていくためには、子どもが差別されるという問題を解決しなければならなかったのです。リブの小グループであった「グループ・せきらん」は、婚外子差別をなくすという、明確な目標を持った運動団体になりました。名前も「婚外子差別と闘う会」に変わりました。
1982年から、出生届の差別記載に対する窓口闘争が始まりました。出生届は、嫡出・非嫡出のチェック欄、父欄に親の名前を記入できない、父親であっても「認知」しなければ父としては届出人になれない等、子どもを婚外と婚内に分けて登録するように作られています。この差別記載を拒否して出生届を受理させていく窓口闘争が、婚外子差別との闘いの第一歩でした。そうした闘いの中で、この差別記載の根拠とされているのが、民法900条であるということを知ったのです。900条4項但書は、嫡出子と非嫡出子の法定相続分を、2対1と定めていますが、そのために、子どもを嫡出と非嫡出に区別する必要があるというのです。子どもを、婚外と婚内に分けて登録する差別の元凶が民法900条だったのです。
1989年、東京や名古屋のグループと一緒に、900条改正の要望書を法務省に提出しました。その後も、署名活動、集会、国連へのロビー活動等、900条改正に向けた取組みを集中して行なってきました。運動が窓口闘争から次の段階へと進んだと言っていいでしょう。
しかしながら、900条の改正が、婚外子差別を全て解決するものでないことは明らかです。900条の対象は「認知子」、つまり、父を持つ婚外子です。父のいない婚外子の問題は、そこに含まれていないのです。嫡出子と非嫡出子の間の、相続上の差別が撤廃されたからといって、それで「嫡出」「非嫡出」という子どもの区分けがなくなる訳でも、婚外子に対する差別がなくなる訳でもありません。今ではあまり使われなくなった婚外子の差別呼称に、「父なし子」という言葉がありますが、この「父なし子」という言い方に端的に表われているように、婚外子差別の根本の問題は、法的な父子関係に差があるということなのです。婚内子の父子関係は婚姻によりますが、婚外子の父子関係は「認知」によらなければなりません。「認知」は、そもそもが跡継ぎのスペアーを用意しておくという「家」のための制度でした。「認知」するかしないかは男の一存によります。婚差会の中には、こうした男の特権としての父子関係の確立を拒否したいという強い思いが、当初からありました。900条の改正は、相続に関して、「認知子」の地位を「嫡出子」と同じところまで引き上げはしますが、婚内子の父子関係は婚姻により、婚外子の父子関係は「認知」によるという、親子関係の差異そのものに手をつけるものではないのです。

婚姻制度に縛られずに女が自由に生きるために、また、子どもの人権を守るためにも、婚姻や「認知」の有無に関わらず、子どもの知る権利としての父親確定の制度や子どもに対する責任としての父親の養育責任を追及する制度の確立が必要だと、私たちは考えます。
一方で、「親が子の養育に対して全面的に責任を負わなければならない」という社会の考え方は、親子関係をゆがめています。親が自分の人生を犠牲にすることなく、子どもの人権を守るため、社会が子どもの養育をサポートする、また親が子どもを養育できなくなったとき、社会が親に代わって責任を持って養育するシステムを、もっと充実させることが急務です。そして、そのためには、親子法の見直しも必要と考えます。|



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