2006年08月30日

ローマ・クラブ(蛇足)『韓非子』に人口問題が!

本書『成長の限界』の第犠呂遼粗(P-13)に次の話が載っています。「現在,人々は,五人の息子をもつことは多すぎないと考えている。そして息子もまた,五人の息子を持つ。かくて祖父が死ぬ前に,すでに二十五人の跡継ぎがいる。それゆえ,人はますます増え,富はますます少なくなる。かれらは一生懸命に働き,ほんのわずかしか得ることがない。」これは『韓非子』からの引用です。中国古代で既に人口問題を取り上げている例として載せたのでしょうか。著者もなかなか教養がありますね。『韓非子』を読んでいる西洋人というのは珍しいのではないでしょうか。

『韓非子』は中国の戦国時代(前5世紀から前3世紀,秦の始皇帝が統一するまで)末期に書かれたもので,法によって国を統一するべきとする政治哲学の書といえるでしょう。

原文は次のとおりです(太字の部分が本書に引用された部分に対応します):古者丈夫不耕,草木之實足食也;婦人不織,禽獸之皮足衣也。不事力而養足,人民少而財有餘,故民不爭。是以厚賞不行,重罰不用而民自治。今人有五子不為多,子又有五子,大父未死而有二十五孫,是以人民眾而貨財寡,事力勞而供養薄,故民爭,雖倍賞累罰而不免於亂。――『韓非子』の五翥篇(ゴトヘン)にあります。この「翥」というのは古い漢字で「樹木の芯を食い破る虫」ということで「物事を損ない破る」ということのようです(漢字源による)。要するに昔は人口が少なかったのでお互いに相争うこともなく人民も平和に暮らしていたが,今や人口が増えて持分が少なくなり,争うようになってしまった,ということです。・・・今も昔も変わらないということでしょうか。もっともその程度が今は地球規模で,というところが違いますが。

以上,このBlogとしては本論から離れえた余談でした。まあ,ティーブレイクということでご勘弁ください。

 

  

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2006年08月28日

ローマ・クラブ(3)人口増加

  本文の解析結果に入る前に,もう一つだけエクスポネンシャルな事象の場合にとても便利な計算法を紹介しておきましょう。増加率が分かっている場合,倍増するに要する時間は70を増加率で割ればよいのです。たとえば1970年頃の人口増加率は2.1%でしたが,この場合は70÷2.133年で2倍に膨れ上がる,ということです。

さていよいよ本文に書かれている分析〜予測の結果を一つずつ見ていきましょう。『成長の限界』をお持ちの方は,参照ページを開いてグラフをご覧ください。

P-21図5に世界人口の増加の予測が示されています。1958年時点での予測で,1970年の実際の人口はこの予測をやや下回るものだったようです。

2000年時点での国連のデータベースによりますと,60.7億人,増加率1.6%(前年比)となっています。『成長の限界』の図5と比較すると,当時の予測の65億人に比べやはり下回る傾向にあり,増加率もかなり下がってきています。それにしても1958年時点での2000年の予測の誤差が10%に満たないというのは素晴らしい精度だと思います。

全体に予測を下回る傾向にあるとは言え,それでも国連の予測によると2050年には90億人に達します。この人口を養うだけの食糧は果たして得られるのでしょうか?これについてはもう少し『成長の限界』を読み進めてから検討したいと思います。

  
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2006年08月26日

ローマ・クラブ(2)倍倍ゲーム

 これから本論の要約と現在から見て何が言えるかを考えていきます。

世の中の現象は,時間的な変化の様相により2つのパターンが考えられます。一つはリニア(線形)な変化で,平たく言えば「一定の割合」で変化する現象です。横軸に時間を,縦軸にその事象の変化量をとると,この場合グラフは直線になります。二つ目は,エクスポネンシャル(指数関数または幾何級数的とも言い,『成長の限界』ではこの幾何級数的という言葉を使っていますが,私にはエクスポネンシャルの方が馴染みやすいのでそちらを使わせていただきます)な変化で,いわゆる「複利」計算になるものです。環境に関する現象はほとんどがこのエクスポネンシャルで近似することができるようです。ローマ・クラブで使われたシステムでは全てこのエクスポネンシャルな経時変化を仮定しています。

このエクスポーネンシャルな変化の代表的なものとして,日本では曽呂利新左エ門のとんち話があります。秀吉が「褒美をとらす。何でも望みのものを申せ」といったところ曽呂利が「米一粒から始めて毎日倍倍で一月の間ください」と言ったところ秀吉は「よしよし。欲の無い奴だ」と。ところが1ヶ月後,その量は城の米倉を超す量になり,秀吉は悲鳴を上げてついに曽呂利に謝ったという頓知話です。これなど愛嬌の有る話で済みますが,フランスに子供向けの話があって,倍倍ゲームの恐ろしさを想像させるにはこちらの方が向いています。この『成長の限界』にも引用されていますので,少し長いですが引用させていただきます(P-17):

「つぎのようなフランスの子ども向けのなぞなぞは,幾何級数的成長のもう一つの側面,すなわち,それが,一定の限界に近づくことを例示している。あなたが池をもっていて,その中で水蓮(睡蓮?)を育てているとする。その水蓮は,毎日二倍の大きさになる。もしその水蓮がとどめられることもなく成長するならば,三〇日でその池を完全におおい尽くして,水の中の他の生物を窒息させてしまいそうだ。しかし,長い間,水蓮はほんの小さなものだと思っていたので,それが池の半分をおおうまで,それを刈ることにわずらわされまいと心に決めていたとする。いつその日が来るだろうか。答えはもちろん,二十九日目である。あなたは,あなたの池を救うのに一日しか残されていないのだ。」

このようにエクスポネンシャル(倍倍)で変化する事象に対しては,多くの人は事が本当に差し迫るまで気にしないで毎日のことに追われて暮らし,半分になった時に気づいてももう手遅れになってしまっています。環境問題の大半はこうした事が普通ではないでしょうか。大衆は話を聞いても「そんなものか」ぐらいで,行動には出ないものですが,心理的にフランスの子ども話状態なのでしょう。さて,あなたは?

 

  
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2006年08月24日

オリンピック開催地争奪戦

 2016年のオリンピックに向けて今や報道は「東京か福岡」の話ばかりで,果たしてオリンピックを開く意味について基本から考え直してみようという話はついぞ耳にしません。これはいったいどうしたことなのでしょうか。

オリンピックを開催するとなると莫大なエネルギーがそのためだけに消費されることになり,それが地球の環境,というよりももはや地球の寿命と言った方が適切に思われますが,それに与える影響を誰も考えないのでしょうか。いつも言うことですが,マスコミというのは「公権」のやることをチェックするのが大きな役目の一つのはずですが・・・

これもいつもお話しているように,「良いこと」の裏には必ず「悪いこと」がついてまわるものです。コインに表と裏が有るように,良いことだけでは済まないものです。それを何かをしようとする者たち,特に政治家や企業家たちは良いことしか言いません。それによるネガティブな影響はたとえ気がついていても決して口にはしないでしょう。私たち市民はこのことによほど気をつけて,主催者側のもののいうことは「眉に唾して」聞くようにしなければなりません。

本来ならば,ジャーナリズムが内容を徹底解析して,ネガティブな影響を浮き彫りにして市民に提示するべきなのに,日本のジャーナリズムには常にこの機能が欠落しているようです。テレビや新聞をみても,聞こえてくるのは「どちらが勝つか」ばかりで,財政的にどちらが強いかだけの泥仕合を報道しているだけです。情けなくなってしまうのは私だけではないと思うのですが。

市民もオリンピックの経済効果ばかりに目を奪われて,報道によると福岡市の一部の市民などはなにか景気の良いお祭りが始まるとでもいうように興奮しているだけです。

私たち日本の市民も,もう少し冷静に理知的に「持続可能な社会」を実現することに関心を持つべきではないでしょうか・・・。「宇宙船地球号」は燃料が尽き,内部での食糧サイクルは破綻状態,ゴミの山は大きくなるばかり,沈没寸前なのですよ! 国連関係のホームページをチェックするだけでも,ヒステリックではない客観的なデータや予測を読むことができます。ぜひ一度覗かれてみてはいかがでしょうか。それをしてから,オリンピックについて一度真剣に考え直してみましょう。

 

  
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2006年08月22日

ローマ・クラブ

 ほとんどの方が「ローマ・クラブ(The Club of Rome」という言葉をご存知だと思いますが,その内容を詳しくご存知の方は案外少ないのではないでしょうか。

1968にローマクラブがスタートしました。そして個人的なことで恐縮ですが,私がパリに住み始めた1972ちょうど第一の報告書『成長の限界』が発刊されたのです。その内容を知った時は大変なショックでした。日本ではあまり取り上げられなかったことを後で知り,2重のショックを受けたものでした。それはともかく,30年以上経った今,その報告書を読み返してみましたが,改めてその内容にショックを受けました。少しも「古い話」ではないのです。その後数年おきに続編が発刊されていますが,敢えて私はこの30年前のレポートが生きていることの重要性を強調しながら,その要点をこのBlogを通してお忙しい皆様にお伝えしたいと思います。それだけの価値があると思っています。参照する文献は大来佐武郎監訳による『成長の限界――ローマ・クラブ「人類の危機」レポート――』(ダイヤモンド社)です。

そもそもローマ・クラブとはどんなものか,『広辞苑』によると,「1968年,ローマで初会合を開いた科学者・経済学者・教育者・経営者などの民間組織・環境汚染・人口増加などの面から人類の生存の危機に警告を発し,以後南北問題などに活動」とあります。最後の部分はやや事実と異なる私には思えるのですが,まあ全体的には簡略によく説明されていると思います。

状況の分析と将来予測のために使われたモデルは,当時アメリカのMIT(マサチュセッツ工科大学)のフォレスター教授らによって開発されシステムズ・アナリシスです。

序論(P-11)に,得られた結論として次の3項目があげられています(ちょっと長いですが引用させていただきます):

1.            世界人口,工業化,汚染,食糧生産,および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば,来るべき100年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は人口と工業力のかなり突然の,制御不可能な減少であろう。

2.            こうした成長の趨勢を変更し,将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態は,地球上のすべての人の基本的な物質的実用が満たされ,すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。

3.            もしも世界中の人々が第一の結末ではなくて第二の結末にいたるために努力することを決意するならば,その達成するために行動を開始するのが早ければ早いほど,それに成功する機会は大きいであろう。

(1)の「100年以内に」とは現時点でみれば決して大袈裟ではないのではと思われます。2070年代にどうなっていることやら。現状からみると,地下資源の枯渇などによるよりも,むしろ温暖化による劇的な天候不順に起因する食糧不足,災害の頻発などによる経済的な打撃などが大きく影響するのではないでしょうか。

(2)に「持続可能な」という言葉が使われているのに驚きました。もっと最近になってから使われ始めた言葉だと思っていました。この言葉の初出はどこの誰によるものなのでしょうか?持続可能な社会が実現可能であると言い切っていますね。はたしてそれはどうやって実現できるのか,本文が楽しみです。

(3)は当然のことですね。それなのにどうして為政者どもは反対の方向を歩み続けるのでしょうか。30年後の今でも,いえ尚一層経済成長の速度を上げるべく血道をあげているように見えます。此れに歯止めを掛けるのは私たち国民ひとりひとりの選択しかありません。そう選挙という手段です。そしてこれしか与えられていないのです。

(続きます)

 

  
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2006年08月15日

真実は納得するもの,知って理解するものではない

 学者とか哲学者,宗教学者,心理学者などいわゆる学者とか専門家という人たちのほとんどはただただ「饒舌」なだけで,真実からは程遠いところを歩き回っているように見受けられます。真実は言葉では説明できないことはもちろんですが,真実を勉強しようとしている人たちの助けになるならともかく,彼らの饒舌はそれに少しでも近づくどころかどんどん遠ざかり混乱を招いている場合が多いのではないでしょうか。

真実は単純であるはずです。老荘には遠く及ばないとしても,アインシュタインはそれがよく分かっていた人の一人です。「真理を表す方程式は単純であるべき」という彼の信念からそれが伺えます。

少なくとも真実はどんな教養の無い田舎のおばあさんにも彼らなりに「納得」できるものでないと意味がありません。まさにブッダはそれの名人だったのでしょう。

「人を見て法を説け」。たとえ真実を説いたとしても,それを受け止める側は自分の人生経験をベースに理解しますから,とてもそのまま理解されることはありません。そこでブッダも悟った直後では,とても無理なこととして他人に説法するなどは考えもしなかったようです。しかし結局は考え直して,少しでも多くの人びとの苦しみを癒してあげようと,説法の旅を始めたとのことです。その際に,それぞれの人毎にその人の体験や価値観に合わせて説いたということです。それ以外に方法は無いわけです。いわばブッダは実践家であると同時に優れたコンサルタントだったのですね。

西洋の哲学の何と饒舌なことか。どんどん真実から遠ざかっているのに。彼らの思考が分析的だからでしょうか。唯一思想として一読に値するものはマルクス・アウレリウスの『自省録』のみです。

ある人が鯛の刺身を食べて美味しかったという。私は「彼にどんな風に美味しかったの?」と聞けば,彼は知っている限りの言葉を使っていかに美味しかったかを説明してくれるでしょう。しかし,私にそれ以前に食べたことが無ければ,全く理解不可能です。彼の百万言よりも,その刺身を一切れ食べさせてもらえれば,一瞬に問題は解消してしまいます。私がフランスに住んでいた頃,ときどき羊の脳みその料理を楽しみましたが,もし貴方が食べたことが無いとしたらどう説明してもその美味しさをあなたに「納得」させることはできないでしょう。真実とはそういうものなのです。では難しいことかというとそうではありません。何らかのきっかけでストーンと納得してしまえば,どうということもないものです。簡単なことなのです。その納得する方法というのはそれぞれの人によって千差万別で,これという万人に通用する決定的な方法はありません。よく言うように,山の頂上は一つですが,そこへ至る道は何本もあります。ひとはそれぞれ自分に合った道を見つけ出さなければなりません。それがまあ修行といえば言えるのではないでしょうか。その道を発見できるかどうかは「縁」とか「出逢い」によるのでしょうね。あなたにも素晴らしい出逢いがありますように・・・

 

  
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2006年08月11日

「百姓は生かさず殺さず」

 85日のBlogに「残業をやめよう!」というタイトルで,自分の時間を確保することの大切さと,それを現在の環境の中で実現する手っ取り早くて,私たち庶民側からできる(はずの)方法として「残業を止める」ことを提案しました。

時間こそ一番大切なものです。考える時間が無い,というのは自己を放棄して自分の人生を他人に預けるようなものです。

本を読む時間がないから,知識を集めることができず,知恵も身につきません。

海外へ勉強にいくこともできません。日本をよくするために有効な情報や知恵が一杯あるのに勿体無いことです。海外で暮らしてみると日本の全てと真実が良く見えてくるものですが,時間がないから何処へもいけない,で終わってしまうわけです。

私たち一人一人が知恵をつけて日本の現状を暴き,改革を考えるようなことにならないように,お上は国民をきり無く働かせるのではないでしょうか。これは日本の伝統的支配の形のようです。江戸時代には,百姓をしぼれるだけ絞り上げました。「百姓は生かさず,殺さず」の言葉がそれを示しています。

当然のことに,百姓(民衆)には不満が溜まります。そこで2回のお祭り騒ぎでごまかしたのでした。現代と違って百姓はもとより,商人でも番頭から下っ端まで全従業員は盆と暮れ(年末,正月)の休みしかありませんでした。その盆と暮れの2回の休みにあわせて行われたイベントが「お祭り」です。このときだけは飲めや歌えやの大騒ぎが公的に許されたのでした。いわゆるこの時ばかりは「無礼講」だったのです。

現代でも労働者は盆・正月にでも合わせない限り有給休暇はとれません。お上公認の上で年2回の国民的休暇が許されているわけです。それに加えて現代の「お上」が一般民衆の不満を逸らせるために工夫していると思われるのが,スポーツなどの英雄を作り上げ,一時の代替経験で自分が英雄になったような錯覚を起こさせることです。問題意識をごまかす。同時に弱者からの上昇の可能性を示していかにも努力次第で誰にでもチャンスがあるように錯覚させる。実際は英雄になれるのは宝くじで1等が当たるよりも可能性は低いのに。マスコミも何故こうも簡単にこのお上の策略に乗せられるのでしょうか?世界サッカーでも,ゴルフにしても,テニスにしても,衛星実況放送というのはべらぼうな金が掛かるものだのに。ただでさえ少ない「自分の時間」をただただスポーツ観戦という一時的な憂さ晴らしに消費させる。同時にべらぼうなエネルギー浪費にも組しているというべきでしょう。

「働けど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る」石川啄木・・・。日本の庶民,一般大衆というのは永遠にこういう一生を送ることになっているのでしょうか。

 

  
Posted by konton_1937 at 20:02Comments(4)

2006年08月05日

残業をやめよう!

人間らしい生き方をどなたも望んでいると思います。そのためには,働いている時間睡眠時間それ以外の時間,この3つのバランスがとても大切です。1日はだれでも24時間与えられていますし,それ以上持っている人は誰も居ません。

睡眠時間は普通6〜8時間。残りは16〜18時間。もし8時間労働が守られるなら,残りの「自分の時間」は8〜10時間です。これに「自分の時間」としては週休と有給休暇があります。しかしこの「自分の時間」は女性の産休を除いてほぼゼロに近いのが日本です。

実労働時間を他国のそれとOECDのデータで比較して見ましょう。2005年で比較してみると;日本(1,775時間/年)に対してアメリカ(1,804),イギリス(1,672),旧西ドイツ(1,421),フランス(1,535),オランダ(1,367)です。因みに韓国は2,394で飛びぬけて多いですね。かつてのバブル時代の日本に似ています。日本はバブル崩壊から抜け出ていないのにこの数字です。アメリカも貧困層が厚いからではないでしょうか。同じヨーロッパだのにイギリスが悪いのは何故でしょうか?アメリカと同じアングロサクソン系でサッチャーイズムの影響がまだ残っているのでしょうか。

日本はドイツに比べて25%も年間労働時間は多いのです。年に350時間も違うのですよ!第二次世界大戦で同じように全てを失った国なのに,60年後のこの違いはどうして生じたのでしょうか?国民の意識と政治に全てを帰すことができるのではないでしょうか。

日本では,働く時間がそれ以外の時間を侵食してしまっています。残業,有給休暇の食いつぶしが普通になってしまっています。有給休暇の日数などは一応国際的なレベルになっているはずなのに,実際には取れない。例によって本音と建前というか,「世間」がそうなっているというか・・・。仕事も無いのに周りが帰らないから帰れない。或いは仕事が多くて帰れない。仕事などは作れば(探せば)きり無く有るものです。

まあ,このようにしてコマ鼠のように働きづめにはたらいているのが日本人の大半です。とても健全な「人生」とはいえません。スローライフどころではない,否人間的人生です。

ですから当面の日本での課題は(そして多分韓国でも中国でも同じでしょうが),スローライフを云々することではなく,残業を止めること(少なくすること)です。なんとお粗末な話でしょうか。とても「文明国」とは言えません。でもそれが日本の現実,私たちの毎日の生活なのです。

「それ以外の時間」を少しでも取り戻せれば,考える時間を持つことができるようになります。そうなれば少しずつでも「お上」に全てを預けてしまうこともなくなっていくでしょう。小泉劇場の中で踊らされることもなくなるでしょう。民主主義の土台をつくることがようやくできるということです。

 

  
Posted by konton_1937 at 23:39Comments(7)

2006年08月01日

人柄と悟り

 私たちは,いろいろな「人柄」を演じることができます。良い子/悪い子から始まって,勇敢な人/臆病な人,思いやりの有る人/傲慢な人,無欲な人/強欲な人・・・

毀誉褒貶」という言葉があります。広辞苑によると「・・・褒めたりけなしたりの世評」とあります。あくまでも他者による評価で本人の本質とは関係ないものです。それなのに,私たちは普段それをとても気にして,いろいろな「人柄」を演じ続けています。

これらのものを超越したところに悟りがあります。世の中の評価や尺度には捉われないようになることです。宇宙はニュートラルなのです。地球も自然も全て中立なのです。人間が勝手に良い悪いを決めただけで,それを人間の世界では「分別」あることとしています。この分別とは,文字通り,本来一つのものを二つに分けて考えることです。そしてそのことがひとの不幸を作り上げている根本原因であることに気が付けば,問題は一瞬にして解消してしまいます。実はこれが悟りなのです。いかがですか?簡単ですね・・・

 

  
Posted by konton_1937 at 21:35Comments(3)