開催中の冬季五輪で初めてフィギュア・スケートに国別対抗チーム戦なるものが導入され、噂によると女子フィギュアを最後に放送したがった米NBC局の一身上の強いご要望で、個人戦よりも先に行われることになってしまったらしい。まずは個人戦に向けて備えたいだろう選手達の気持ちを無視して、こうした流れになったのは残念だが、浅田真央がトリプル・アクセルで転倒してしまったので、個人的には今回はチーム戦が先だったことを有難く思っている。だが、実はこのチーム戦が先とう構成には恐ろしい落とし穴があるのだ。転倒等のミスをした上で1位を逃した日本女子はとても幸運だったとしか言いようがない。ショートとフリーでほぼ完璧な演技をしながらも、2位に位置づけられてしまったイタリアとアメリカの女子選手らは、それがいかに悲劇的な状況を示しているかに気づいているのだろうか?フィギュア・スケートという競技はジャッジによる評価によって勝ち負けが決定するものであり、一度でも出された選手への公式スコアが次の大会で同等の演技をしたとして一気に上がることはまずない。つまり、今回のチーム戦で出されたスコアに矛盾しないスコアを個人戦で出さねば、どちらかの採点がミスジャッジだったということになってしまうので、ショートとフリー両方で1位だったロシアの選手がミスをしない限り、ほぼ完璧な演技をして既に彼女の下に位置付けされてしまったイタリアとアメリカの女子選手は、個人戦でも良い演技をしたところで勝てる見込みは既に無いも同然。浅田・鈴木の日本女子選手はむしろミスをして1位を逃したことで、ほぼ完璧な演技ができれば勝てる可能性を残せたのだ。同じ立場でもアメリカの選手はともかく、イタリアの選手はこのあたりを見極める経験値が豊富なので、彼女がこの状況をふまえて個人戦に臨まねばならないと思うとあまりにも憐れだ。こうした意味からも、やはりチーム戦は先に行われるべきではない。チーム戦があるいかなる競技でも、やはり選手達は個人戦での金メダル獲得を一番に望んで五輪を目指し続けてきたはず。選手達はそれぞれ違った個人の物語を背負い、最終的には一人で闘い抜くことになるからだ。さて、今回は1964年の東京オリンピック男子10000m走で、誰も予想していなかった優勝を見事に成し遂げたアメリカのビリー・ミルズという選手を描いた『ロンリー・ウェイ』(原題:"Running Brave"83年米)という映画を取り上げようと思う。この実話に基づいた物語の中には、文字通り一人で闘い抜いた孤高のアスリートの姿がある。ミルズは五輪での優勝以前に一時は大学生の頃にランナーとして注目を浴びもしたが、その後はスランプに陥り、何とか五輪出場選抜で代表入りを勝ち取ったが、誰からも期待されない中で五輪に出場した選手。その際にはコーチもトレーナーもおらず、レースを中継していたアメリカのアナウンサーさえ彼の名前をろくに覚えていなかった。加えてミルズには他の一般的なアメリカ代表選手にはなかっただろう、ある特殊な苦悩を乗り越えねば栄冠を手中にできない背景があった…
ミルズはネイティブ・アメリカンのハーフで、貧しいインディアン保有地で生まれ育った。クロスカントリー走者としてスカウトされ、カンザス大学にスポーツ奨学生として入学したが、ネイティブ・アメリカンであることへの差別に耐え、彼には予想しえなかった白人社会の価値観に順応するだけで当初は苦労する。コーチのイーストンは自分の選手らを勝利に導くことに余念がなく、審判に見られないように他の選手を腕で弾くコツまで伝授するような人物だった。大きくリードして勝ちが見えていてもゴールまで力を抜かずに全力疾走しろというのは当然としても、背後から追い上げて勝利するのもダメ、勝利した後に他の走者へ励ましの声をかけるのもダメ…ミルズがそうだったように、この映画を観る側もイーストンの絶対勝者的思想には首を傾げたくなる部分が多いだろう。そもそもイーストンはネイティブ・アメリカンは良いランナーであっても、結局は途中で投げ出してキャリアを棒に振ってしまうものだと懸念していた。実際、彼が過去にそうした走者を何人かコーチしてきた経験からたどり着いた結論だ。一体どうしてネイティブ・アメリカン走者は長続きしないのか?それは作中でミルズ自身をも襲ったカルチャー・ギャップ等の問題があったからだと想像できる。ミルズは自分は絶対に投げ出さないと何度も主張し、やがてカンザス大学のスター走者になって行くが、そうした中でも新たな問題に彼は直面するようになる。一つは上手く白人社会に馴染み、パットという白人のガールフレンドもできた彼の生き方を、保有地の仲間達が認めてくれなかったこと。カンザス大学への入学が決まった当初は自分のことのように喜び、保有地の出世頭として自慢に思ってくれていた仲間達だったが、ミルズに招かれて彼の大学での生活を垣間見てからは態度が一変。彼らにネイティブ・アメリカンとしてのアイデンティティーを失ってしまったかのように責められ、ミルズは落ち込んでしまい、レースでも結果が出せなくなってしまう。もう一つの問題は、イーストンが彼をやたらとレースに出場させ、ミルズの意思とは相反する競い方を常に強要したため、いつしか走る喜びを感じられなくなってしまったことだ。ミルズにとって走ることは一に喜びであり、二にそれをもって保有地の家族や友達に誇りに思ってもらえることだった。その両方が失われてしまった時、遂に彼はイーストンに「俺も所詮は今までコーチが言っていた通りのインディアンの一人だったよ!」と言い残し、大学を辞めて保有地へ戻ってしまう。続きを読む
ミルズはネイティブ・アメリカンのハーフで、貧しいインディアン保有地で生まれ育った。クロスカントリー走者としてスカウトされ、カンザス大学にスポーツ奨学生として入学したが、ネイティブ・アメリカンであることへの差別に耐え、彼には予想しえなかった白人社会の価値観に順応するだけで当初は苦労する。コーチのイーストンは自分の選手らを勝利に導くことに余念がなく、審判に見られないように他の選手を腕で弾くコツまで伝授するような人物だった。大きくリードして勝ちが見えていてもゴールまで力を抜かずに全力疾走しろというのは当然としても、背後から追い上げて勝利するのもダメ、勝利した後に他の走者へ励ましの声をかけるのもダメ…ミルズがそうだったように、この映画を観る側もイーストンの絶対勝者的思想には首を傾げたくなる部分が多いだろう。そもそもイーストンはネイティブ・アメリカンは良いランナーであっても、結局は途中で投げ出してキャリアを棒に振ってしまうものだと懸念していた。実際、彼が過去にそうした走者を何人かコーチしてきた経験からたどり着いた結論だ。一体どうしてネイティブ・アメリカン走者は長続きしないのか?それは作中でミルズ自身をも襲ったカルチャー・ギャップ等の問題があったからだと想像できる。ミルズは自分は絶対に投げ出さないと何度も主張し、やがてカンザス大学のスター走者になって行くが、そうした中でも新たな問題に彼は直面するようになる。一つは上手く白人社会に馴染み、パットという白人のガールフレンドもできた彼の生き方を、保有地の仲間達が認めてくれなかったこと。カンザス大学への入学が決まった当初は自分のことのように喜び、保有地の出世頭として自慢に思ってくれていた仲間達だったが、ミルズに招かれて彼の大学での生活を垣間見てからは態度が一変。彼らにネイティブ・アメリカンとしてのアイデンティティーを失ってしまったかのように責められ、ミルズは落ち込んでしまい、レースでも結果が出せなくなってしまう。もう一つの問題は、イーストンが彼をやたらとレースに出場させ、ミルズの意思とは相反する競い方を常に強要したため、いつしか走る喜びを感じられなくなってしまったことだ。ミルズにとって走ることは一に喜びであり、二にそれをもって保有地の家族や友達に誇りに思ってもらえることだった。その両方が失われてしまった時、遂に彼はイーストンに「俺も所詮は今までコーチが言っていた通りのインディアンの一人だったよ!」と言い残し、大学を辞めて保有地へ戻ってしまう。続きを読む