conjuringありきたりな幽霊談の戦慄心理トリック

『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(原題:"The Blaire Witch Project" 99年米)を観た時、実はPOV(Point of View)とモキュメンタリー形式で描かれた作品以外のホラー映画には未来がないのではないかと感じた。登場人物と同視点からの体験を強いるPOVカメラは恐ろしい物を映し出さなくとも、視界に何かが飛び出してくるかもという恐怖感で観る者を縛りつける。モキュメンタリーは他のドラマ映画と何ら変わらぬフィクションでありながら、敢えてドキュメンタリー・タッチで構成することにより、同様に恐ろしい物を映し出さなくとも、本当に起こったか本当に起こっている出来事のように観る者にリアリスティックな疑似恐怖体験をさせる。何れも頭ではトリックだと分かっていても、設定にそれなりの説得力があれば観客をまんまと恐怖のどん底に落とす効果絶大だ。加えてPOVモキュメンタリーはリアリズムが最大の武器なので、観客を震え上がらせるためにさほど優秀な脚本も必要ない上、かなり低予算で作ることが可能。出演者が無名であるほど演技している俳優を観ているという感覚は失せるし、ストーリーの筋が通っていなくても、オチが組み込まれていなくても、それをもって作品はより現実味をおびるからだ。お化け屋敷的に無暗に客を驚かせて怖がらせるだけのPOVモキュメンタリーが『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』成功の後に量産され、かなり質の低い作品が多いことは残念だが、POVモキュメンタリー・ホラーの可能性はまだまだ無限にあり、真面目にさえ作れば最低限でも、何がいつ、どのようにして飛び出してくるか予測不能な不安を促すシチュエーションを生み出すことはできるだろう。一度でもよくできたPOVモキュメンタリーを観てしまったら、古典的なドラマ形式で恐怖を追求した作品からは、‛所詮は映画’という印象を受けざるを得なくなるだろうと、ほぼ確信していた。が、しかし…これはとんでもない間違いだった。

少し前に『死霊館』(原題:"The Conjuring"13年米)というホラー映画を観た私は、いい歳して我ながらつくづく恥ずかしくなるほど恐怖に慄き、しかもその後数日間は真昼間でも一人で自宅にいるだけで怖いという悪夢のような毎日を過ごす破目に。正直なところ、‘死ぬ前にこれだけは観ておけ’と題して紹介する映画に、この手のただただ観客を怯えさせることを目的としたホラー映画を含めることはまずないだろうと当初予想していたが、大の大人を、しかも大概のホラー映画でいかにおぞましい描写を見せられても‘所詮は作り物’と受け流せる自信満々だった自分を、ここまでビビらせてくれたことに敬意を表し、かつ、一人でも多くの方に自分が味わったのと同等の恐怖という拷問を受けていただきたいので、死ぬ前に観てくださるよう取り上げることにした。ビックリ形式の怖さもある作品なので、そうした部分はネタバレしないように気をつけながら、まずは作品ならびに物語についてざっとご紹介を…

『死霊館』というかなりふざけた邦題を哀れにもつけられてしまったこの作品は、『ソウ』シリーズ(原題:"Saw"04~10年米)で最も抜きん出ていた第一作目の監督・原案を務めたオーストラリアのジェームズ・ワン監督の幽霊・悪霊モノ系ホラー映画。尊敬する監督はデヴィッド・リンチ(多分に初期)、ダリオ・アルジェント、そして日本では塚本晋也という、ホラー街道をまっしぐらに驀進してくれそうな映画作家だ。『ソウ』シリーズには二作目以降からは主に製作総指揮という形でのみ携わり、『デッド・サイレンス』(原題:"Dead Silence"07年米)や、そこそこヒットした『インシディアス』(原題:"Insidious"11年米)を含む小粒なホラー映画の監督業に励んできた。『インシディアス』でもスタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(原題:"The Shining"英米合作)を彷彿とさせる雰囲気を見事に小規模ながら低予算で再現し、幽霊・悪霊モノ系ホラー映画作家としての頭角を現していたが、それは主に作品前半だけにとどまり、惜しいことにラストに近づくにつれて‘所詮は作り物’感覚が増して恐ろしさは激減してしまったと思う。その翌々年にワン監督が発表した『死霊館』は、『インシディアス』のそうした未熟な点を見事に克服し、前半で効果的だった恐怖効果もパワーアップさせた完成度の高い作品だ。BGMは控えめにして‘その場にいる’感を強め、物静かな中だからこそうるさいほどのショッキングな効果音はかなりのインパクトがある。カメラは全編通してではないものの、シチュエーションに応じてドキュメンタリー・タッチに切り替わり、正統派ホラーでありながらリアリズムの追求も放棄していない。そこそこ知名度があり演技力は確かだが、あまりにも有名な役者の起用も当然のように避けており、予算上の関係等で仕方なくそうしたわけではなく、物語よりも役者の存在が大きくなり過ぎないよう意図的で適切なキャスティングもなされていると思われた。そして何より、恐ろしいイメージが流れる場面もあるが、それが映し出される以前から既に観客を戦慄状態に追い込むことに成功している点が称賛に値する。けれども、この映画…はっきり言って筋書は笑ってしまうほどありきたりなお化け屋敷話なのだ。

conjuring05人姉妹の親であるペロン夫妻は米ロードアイランド州ハリスヴィルの片田舎の古い館を購入して、一家で引っ越してはそこでの新生活に明るい未来像を思い描いていた。だが、入居当日から不可思議な出来事が起こり始め、それらはやがてエスカレートしては彼らに霊現象だと認める以外にないほどの恐怖を与えることとなる。怯える娘達を案じるペロン夫人は著名な超常現象・悪魔研究者である、エドとロレイン・ウォーレン夫妻に助けを求めた。霊視能力のあるロレインが検証した結果、不運なことにせっかく購入したペロン一家の新居は忌まわしい過去のある幽霊屋敷だということが発覚。すぐにでも引っ越したいものの、ローンも組んでいるし頼れる親戚等もいない。しかも、館の悪霊は既にペロン一家全員に憑りついているため、今更どこに逃げても意味はないとウォーレン夫妻は言う。悪霊とは何らかの悪い方向に彷徨ってしまった霊魂が悪魔に乗っ取られたものだというキリスト教の概念を踏襲しているウォーレン夫妻は、館ごと悪魔祓いをする以外に問題解決の手立てはないと主張。では、さっさとエクソシズムしてくださいとお願いしたいところだが、悪魔祓いは悪魔憑きの証拠を提示して教会に認めてもらい、更にバチカン(つまりはローマ法王庁)の許可を取らねば行うことができない。ペロン一家にかなりの危険が迫っていると確信したウォーレン夫妻は、スタッフを呼び寄せて取り急ぎ悪魔憑きの証拠集めを開始するが、その間にも悪霊の力は益々強大化してしまい、最早エクソシスト資格を持つ神父のお出ましを待っている場合ではなくなってしまう…

conjuring1こんな程度の話で夜中に一人でトイレに行けなくなったのか?と、私を笑い者になさっている皆様は、どうぞお一人で真夜中に家中の灯りを消してこの作品鑑賞に是非ご挑戦あれ。今回、冒頭でPOVモキュメンタリー形式がいかに効果的であるかを述べたのは、優れた恐怖映画の本質は物語の内容よりも、それをどういう形で見せるかという点にあることをご理解してもらうため。生存本能の最大のサポーターでもある恐怖は、人間の感情の中で最も支配的で強力なもの…その凄まじい恐怖という感情を観客に最大限に味わわせることこそホラー映画の目的とするところであり、どれほど使い古されたストーリー設定でも、監督の手腕一つでそれは見事に達成できるということを『死霊館』は証明する作品だ。ワン監督はいくつかの極めてシンプルな手法を用いてこのありふれたホーンテッド・ハウス話で起こる一つ一つのシークエンスを演出し、最初は一歩ずつおとなしく恐怖のレベルを上げて行き、中程からラストのクライマックスに向けては一気にレベルをフルパワーで上げてしまう。前半では多少、観客に安心して観ていられるシーンも挿入されているからこそ、このラストへのスパートは思いがけず高速で、もうこれ以上は恐ろしくて観たくないと思っても無理矢理視界に投げ込まれてくるような勢いがある。POV手法を用いることなく、これほど強制的に恐ろしい物を観せられる、あるいは観せられそうという心理状態に観客を追い込むことができる映像作家というだけでもワン監督は素晴らしい。そうした状況に観客を追い詰めるために、この作品にはスタートから様々な心理的影響を与える効果が用意されている。

この映画の主人公は実はペロン一家ではなく、ウォーレン夫妻だ。作品のオープニングではウォーレン夫妻が過去に扱った心霊現象事件の記録映像を観客は観せられる。この事件は悪霊が憑りついた人形の話で、人形の顔こそおどろおどろしいが、これまたありがちなちょっと不気味という程度の話に過ぎない。ドッキリ効果も控えめで、この人形に悩まされた女性二人がウォーレン夫妻に相談を持ちかけて経緯を話すというし形で描写されているので、二人の恐怖体験の再現シーンはあるものの、結局は既に起こって終わったことでもある。つまりは現在進行中というわけではない上、体験した二人は無事に生きて語っているので、それだけでかなりの安心感をもって観ていられる導入箇所だ。加えて体験者の二人の話し方が、まるで修学旅行の夜中に怪談話でもしている女子高生を彷彿とさせる。しかし、この一見陳腐なシークエンスは、まさに単なる怪談話っぽい故に、‘これから怖い話が始まる’、そして‘これから自分は怖い物語を疑似体験する’という概念のようなものを観客の無意識に刷り込む効果が実はあるのだ。ウルトラ級の直球だとは思うが、この手の心理作戦を試みた映画が昨今むしろレアなので、私には効果覿面だった。次にワン監督が放ったショットもかなりストレート。ペロン一家が‘死霊館’に越してきた当日、子供達や夫妻は嬉々として探求心にもかられながら新しい我が家に駆け込んで行くが、飼い犬だけは玄関前で座り込み、父親がどんなに促しても家に入るのを拒む。観る側はこの作品が幽霊屋敷話だと知った上で観ているケースがほとんどだと思うので、犬が何故に拒むのかは勿論察することができる。しかし、犬も自分も分かっているのに、肝心のペロン一家は全くご存じないという現実がここで再認識されるところとなり、故にこれから彼らが‘お化けがいる建物内でそれだけはやめてください!’と叫びたくなるような行為をそうと知らずに散々しまくってくれるだろうという嫌な予感が高まる効果がこの些細なシークエンスには盛り込まれているのだ。

そして、当然のようにその予感は的中する。あらゆる子供の遊びがある中、あろうことかペロン家の5人姉妹の間で大ブレイク中の遊びが、‘Hide and Clap/ハイド・アンド・クラップ(隠れんぼと鬼さんこちらを合わせたような内容)’。引っ越し当日の晩から、娘たちは鬼役の子供に目隠しをして、手を叩いて隠れている場所のヒントを与える他の子供達を探させるという遊戯に興じてしまう。ホラー映画で仕方なく目が見えない状態で登場人物が歩き回らねばならないシチュエーションは観た記憶はあるが、自ら目隠しをして周囲に何の危険もないと思い込んだ子供が、‘死霊館’で手が叩かれる音だけを頼りに歩き回るというのは、状況的にあまりにも無防備さを感じさせるもので、冒頭の人形と犬の態度で蓄積された恐怖と不安に心配がプラスされる。ここではまだ悪霊は登場しないが、この遊びの最中に娘達は偶然塞がれていた地下室を発見してしまい、ただでさえ古くてだだっ広い重々しい空気が漂う不気味な地下室が存在すると分かるだけで、ペロン一家の新居は一層‘死霊館’感満点になってしまう。地下室は地下室というだけで薄気味悪いものだが、何故か板で厳重に封鎖されていたという事実が超イヤな感じ…そしてここでお約束。観客としては‘お化けがいる建物内でそれだけはやめてください!’とまたも叫びたくなることを先刻ご承知で、ワン監督は父親に興味を抱かせてマッチの灯りのみで地下室を探検させてしまう。幽霊・悪霊モノ系ホラーに弱い人は、既にこの段階で心臓バクバク状態になるだろう(例=私)。このシークエンスはほんの序の口なのでネタバレさせていただくが、別段怖い物は何も画面に映らない。しかし、恐怖映画の恐ろしさは映し出された内容の恐ろしさだけでなく、何か恐ろしいものが映るかもしれないという余計な想像力を観客に勝手に働かせてしまうことだ。観終わってから思い返せば何ら怖い映像が含まれていなかったこのようなさほど意味のない場面でも、人形+犬+ハイド・アンド・クラップで充分尋常でない心理状態の土台を築かされた観客にとっては、チケット代の何分の一かくらいの恐怖は存分に堪能できただろう。

conjuring2とは言え、ここまで観終えて一先ず観る側はハイド・アンドクラップが終了しただけでも若干安堵できる。そして同時に、子供達が二度と作中でハイド・アンドクラップを遊ばないようにと祈るだろう。しかし、ワン監督はその点も計算済みだったと思う。後にまだ学校に入学していない末娘と母親が、二人っきりで家にいる最中にハイド・アンドクラップをまたも遊んでくれてしまうのだ。その結末はここでは記さないが、何も見えない状態で聴覚だけに頼って行動するという状況そのものが、人間にとってある種の根源的な恐怖感を抱かせる心理効果絶大だとよく理解した上でワン監督はこのハイド・アンドクラップという遊戯を取り入れたように思う(脚本家のお手柄かもしれないが)。これはPOVとは正反対の恐怖の感じさせ方。登場人物にPOV(視点)そのものが存在しない中、観客には全てが見えている。見えているのは自分だけという意識が、自分はこれからスクリーン上で何を見てしまうのだろうという畏怖を掻き立て、目隠しした人物が手を伸ばした先に何が現れるのか?手の鳴る方向へこの人物は本当に進むべきなのか?そうした余計な想像をまたも観客がしてしまう余裕を残すためにじっくりと間を取りながら、母子のハイド・アンドクラップは続いて行く。オチがどうであれ、感覚的に落ち着かない気分をここでまたも観る側は味わうわけだ。

前述通り、物語そのものは大して怖くないのだが、これから怖い思いを自分はするだろうという概念や予感、そしてこうした不安感を極度に高めるシチュエーションがいくつも繰り返され、この映画は何よりも観客を心理的に疲労困憊させて行く。疲れきった観客は、大きな物音や登場人物の悲鳴だけにも不意を突かれたかのように、敏感に反応してしまうようになる。ちなみに、この作品は人間の悲鳴をも恐怖を引き出す小道具的に使用しており、これもまた人間にとって恐怖心を呼び覚ます根源的な要素だと実感した。馬鹿馬鹿しい例えかもしれないが、大概の犬は生まれて初めてであったとしても、狂犬病予防注射を受けに接種が行われている場に到着する少し手前で先へ進むことを拒むだろう。既に接種の場で恐怖の鳴き声を上げている他の犬達の声を聞き取ってしまうからだ。同じ生物の悲鳴は、おそらく全ての生物にとって警告的効果があるのではないかと、少なくとも我が家の犬を観察する限り考えざるを得ない。しかも、犬が先へ進むのを拒むにとどまらず、震え出すことから、恐怖心に訴えて発される警報なのだろう。大昔からやたらめったら女優が絶叫しまくるホラーやサスペンスは多いが、意外と単純に観る者の恐怖心を煽る効果がかなりあるのではないか。そして、これにはどういう心理作用があるのかは不明だが、大人の悲鳴よりも子供の悲鳴の方が聞いていて遥かに恐ろしい。ワン監督は其の辺りも計算済みなのだろう。『死霊館』は子供の悲鳴、それも本気で心底怖がっているような悲鳴満載だ。姉妹のうちの二人が眠っている夜中の寝室で妹が何かに足を引っ張られ、姉の悪戯かと思って文句を言おうとするが、姉は隣のベッドでスヤスヤ眠っていることに気づくシークエンスでは、天才子役と称賛したくなるほど妹は凄まじい絶叫ぶりを披露してくれるのでお楽しみに。しかも、この場面では妹には途中からある人物が見えてしまうが、姉には見えない。

妹「ドアのところに誰かいる」
姉「え?何も見えないわ」
妹「いるよ!いるんだってば!」
お約束:状況を把握していない姉が‘お化けがいる建物内でそれだけはやめてください!’と心の中で大合唱している観客を無視してドアの前まで確認しに行ってしまう。
姉「ほら、やっぱり誰もいないじゃない」
妹「お姉ちゃんのすぐ後ろに立ってるよ」

台詞は私が適当に記憶に基づいて翻訳したので、字幕とは異なるが…「すぐ後ろに立ってるよ」…世界中の怪談話で数えきれないほど語られてきただろう台詞とは言え、だからこそ幼少時にその手の怪談話を聞いた時の恐怖が蘇るトリガーともなり、姉の視点同様に観客にはその何者かの姿は見えないのに、背筋が何年ぶりにゾクゾクしまくった。私に限らず、お化けに弱い方なら何方でも、「すぐ後ろに立ってるよ」という言葉だけは一生誰からもかけて欲しくないだろう。

conjuring3最後に特筆しておきたいポイントは、作中に登場する古いオルゴールの効果。このオルゴールは引っ越した日に末娘が‘死霊館’の前にある大きな池の近くで拾った物。オルゴールと言っても取っ手を回すと音楽が流れ、箱の中から丸い鏡が出てきて回転しだすという凝ったアンティークだ。そして、これもまたかなり使い古されたお約束なのだが、無邪気な末娘は家にいるお化けとお友達になってしまう(母親は例によって例の如く、単なる架空のお友達ごっこだとしか思わない)。そのオルゴールの鏡を覗き込めばお化けのお友達に会えると末娘が言うもので、母親とロレインがそれぞれオルゴールを回しながらその鏡を見つめるシーンが一回ずつあり、その度にスクリーンにオルゴールの鏡がアップで映し出される。鏡の中に人影等が見えたが振り返っても誰もいない…というシークエンスは過去のホラーやサスペンス映画に如何ほどあったこどだろう?無数。故にまたも観客は勝手に何か恐ろしい物が鏡に映るだろうと余計な想像をしてしまい、目を背けたいけれど、とどのつまり恐怖を味わいたくてホラー映画観ているのだから目を背けるのは勿体ないという心理の狭間で葛藤を余儀なくされる。そして結局は見続けてしまうのだが、このオルゴールの鏡にはご親切にエセ催眠術で使われる小道具のような渦巻模様が削り込まれているから、ついつい渦が回る様子が面白くて一層目が背けにくい状態に仕立ててあるのだ。ここに至っては、ワン監督の小賢しさが恨めしく思えるほどだった。『死霊館』のような映画を観る人間のほとんどは過去に数多の恐怖映画を観ていることなど彼はお見通しで、それを逆手に取って恐ろしい映像を観せるまでもなく、かつて観た怖い映画の記憶が自然と喚起されるよう、敢えて直球やお約束を観客に投げてくるわけだ。

また、ペロン一家やウォーレン夫妻が実在した(する)人達であり、この映画が実話に基づいていることもラストでしっかり上映後も恐怖が消えないよう刻印してもくれている(超有難迷惑)。物語が終わってやっと恐怖から解放されたと思いきや、エンド・クレジットで現実の人物達の当時の写真を羅列するとは、何というサディスティックな作り。‘怖かったけど、ただの映画だし!’と100%確信をもって思うことすら許してくれない。映画だから大部分が脚色されていると考えるように努めても、全部が全部でっち上げではないだろうという気持ちがそれを上回ってしまう。ウォーレン夫妻はインチキ霊能者だったという証拠をネットで探しても見つからない(涙)。しかし、何よりも悩まされたのは、この映画を見てからしばらく(と言うか、実は今も…汗)、鏡を見るのが怖くて仕方なくなってしまったという事実。ワン監督のことだから、そうした後遺症に苦しむ観客も続出すること折り込み済みで、あの鏡付きオルゴールを出したとしか思えない。見事過ぎる。ワン監督は現在、人気カーチェイス映画の最新作の監督に抜擢され撮影中で、それはそれでお目出度いご出世だが、それが終わったらまた必ずホラーに戻ってくれることを切願中。『死霊館』と同年に発表した『インシディアス 第二章』(原題:"Insidious Chapter2"13年米)は、少々急いで適当に作ってしまったような出来ではあったが、それでも夜中に家中真っ暗にして一人で観たらそこそこ怖い映画に仕上がっていたし、今後もホラー映画監督として躍進していただきたい。ワン監督にホラー映画の巨匠となる上で唯一欠けてるものは、アルジェントのような自身のホラー映画よりも怖い容姿くらいだろう。認めるのは非常に情けないが、この記事を書いているだけで『死霊館』の恐ろしさが蘇ってしまったので、気分を沈めるために爽やか過ぎるワン監督のお写真を貼っておくこととしよう。

James_Wan追記:毎回記事を書く際には、きちんと取り上げる映画を観直して展開や台詞等を確認しながらやっていますが、今回は誠に申し訳ありませんが怖くて二度と観ることができない作品につき、鑑賞時の記憶だけを頼りに分析させていただきました。よって細々とした作品のディテールに一部誤りがある可能性がありますが、ブログ主の哀れな心理状態をご配慮の上お許し願います。また、この記事を読んで興味を抱かれて『死霊館』をご覧くださる方もいらっしゃるかと思いますが、ご覧になって「何だよ、全然怖くないじゃん!」と感じられても怒らないでください。私も劇場でこの作品を観たのであれば、今現在ほどビビっていなかったかと思います。しかしながら、私は愚かにもこの映画を舐めてかかって、家で一人で夜中にオンラインで観てしまいました。しかも、海外サイトで観たので字幕もなく、一層‘映画を観てるだけ’という感覚が薄れやすい状態で観てしまいました。過去記事でも書いた記憶がありますが、映画館でホラー映画を観た場合は家までの帰路で意識は現実にしっかり戻され、かなり怖い作品であっても回復は割とスムーズにできるものと思います。ですが、家で観てしまいますと恐怖感が何となく家中に充満しますよね?貴方は違いますか?私はそうです。加えて『ブレア・ウィッチ~』鑑賞後も後遺症で悩まされはしましたが、あれは舞台が屋外だったのでまだマシでした。『死霊館』は邦題が示す通り家が舞台ですから、全く別個の物であれ、自分の家という建物の中にいるだけで恐怖が再び襲ってくるのです。更に言うなら、作中では洗濯等の家事が行われているシーンもあり、主婦でもある私の日常の中でそうした場面を思い出さずにいられない状況があまりにも多いのです。今回この映画を頑張って取り上げたのは、恐怖の素を分析すれば後遺症を克服できるかもと願っての意味もありましたが、今のところ効果無しというか、むしろ逆効果でした。何書いてるんだか自分でもわけが分からなくなってきましたが、とにかく以上をご了承願います。


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『死霊館』予告編