ffee6b8e63子供達の任侠劇

容疑者が入って行った家を電柱の影に潜んで張り込んでいた刑事が、あまりに動きが無いもので退屈し、同じ道端にいた子供達と無邪気にも晴天の空の下で遊び始める。刑事の温かい人柄も感じられる、ほのぼのとした映像が続く…と、いきなり犯人が背後から現れ、バットで刑事の頭部を激しく殴打する。刑事の脳天はあっと言う間に割れてしまい、大量の鮮血が勢いよく噴き出した。一瞬にしてそれまでの穏やかな光景が一転し、スローでこの惨劇が描写されたシークエンスを観た時、この映画を撮った監督は今までにないセンスの持ち主だと衝撃と共に実感した。映画の題名は『その男、凶暴につき』(89年日本)。監督はビートたけし改め北野武。彼のデビュー作だった。

o0330018610597683332しかし、北野映画がその本当の魅力を発揮するようになったのは、『ソナチネ』からだと思う。自分が所属する組内の権力抗争の罠に嵌められ、それと知らずに子分数名と共に東京から沖縄に移転させられた中年のヤクザ・村川(北野監督自ら演じている)が主人公。沖縄に到着してしばらくはろくにすることもなく、子分達と美しい沖縄の海辺で日中は紙相撲の真似事をしたり、夜は花火合戦で遊び呆けるばかりの様子が延々と描かれる。しかし、敵側の組に雇われた殺し屋がやがて現れ、黙々と一人ずつ殺しては去って行く。こうして一人減り、二人減り、子分がついに残り三人だけになってしまった村川は、ようやく身内にも騙されたと悟り、彼を沖縄に行かせて敵対する阿南組に殺させようとした同じ組の高橋を追い詰めては車ごと焼き殺すが、その際にさらに二人の子分を失ってしまう。それでも村川はたった一人生き残った子分、まだやっと青年になったばかりのような若い良二だけにはカタギに戻るよう言い残し、機関銃片手に阿南組にも一人で襲撃をかけ、激しい銃撃戦の末に彼らを皆殺しにする。村川達が使っていた海辺の家では、ひょんなことから出会っては村川に恋するようになった若い女・幸が彼の帰りを待ちわびていた。しかし、村川が幸の元に戻ることはなく、沖縄の野道に停めた自分の車の中で自らも銃で頭を撃ち抜いて死んでしまう…

128638755750116214485ただ、それだけの映画だ。それなのに『ソナチネ』が観た者の心に余韻を残し続けるのは、実はこれが‘子供’を描いた映画だからなのだ。まずは前半でヤクザ達とトラブルを起こした男を村川らが東京湾でクレーンに吊り下げ、海に沈めて殺すシークエンスがそのことを示唆しているように思う。「2分くらいやってみるか」との指示を村川が出すが、2分沈めただけでは男は死なず、次は何分と沈める時間をどんどんエスカレートさせて行く。この様子は、まるで子供がトンボを捕まえては羽を一本ずつもぎ取ったらどうなるか…そんな残酷な行為を好奇心をそそられながら実験的に行っているかのようなのだ。さらに沖縄では、付き合っていた男に強姦されそうになっていたところを、たまたま村川に助けられ、それ以降ずっと彼の元を去ろうとせずに、子分達の仲間入りを果たした幸の存在が、一層この映画の童心という魂を浮き彫りにしている。前述したように彼女は村川を好きになり、ある日二人だけで散歩していた際に彼を誘惑しようとするが…いきなり来ていたTシャツを脱ぎ捨てて上半身裸になるという、成熟した女性とは思えないほどにその方法はストレートで青臭い。それを見て村川は一瞬驚いて沈黙したものの、「オッパイ見せちゃうなんて凄いな!」と笑って言い、幸は少女のようなはにかんだ笑顔を返すのだった。このシークエンスを大人同士でなく、小学生くらいの少年と少女に置き換えて想像して欲しい。何の違和感も無いどころか、大人が演じるよりもしっくり来るのではないか。そもそも、彼女を暴行しようとした相手から救ってあげたのも、まるで苛めっ子から正義感の強い‘男の子’が‘女の子’を助けてあげたのと同じ構図なのだ。幸が村川に惚れて、ついてまわるようになるのもこう考えると実に古典的で、かつ純粋な展開だったりする。

128638681274616128917この作品に登場する村川と子分達、そして幸は全員が全員、‘子供’なのだ。おそらく村川達のほとんどがヤクザになったのも、幼い頃の浅はかな憧れから、普通の大人になりきれなかったからだろうと推測できる。抗争があって無いような沖縄に飛ばされ、時間を持て余してしまった彼らが、故にヤクザからただの‘男の子’へと立ち戻り、自然にあふれた地で思う存分遊ぶようになったのは極めて当たり前の流れだ。海一つあれば何一つ玩具がなくても子供が遊べるように、拳銃を脇に置いて彼らは‘子供’に返っただけのこと。村川は‘子供’達のお山の大将として君臨し、どうしろこうしろと次々に新しい遊びを命じる。当初はヤクザらしくないということで、斜に構えては気が進まない様子だった子分達も、いつの間にか本業を忘れて遊びに夢中になる。一人だけ遊ぶのを拒否し続けては暑いのを堪えてスーツ姿に徹していた、当時まだ無名だった大杉漣が演じる片桐という子分も、遂に折れてアロハ・シャツに着替えて登場するシーンにはクスッと笑わずにはいられない。こうしたちょっとしたユーモアも随所に散りばめられているのが、『その男、凶暴につき』にはなかった、この映画の大きな魅力の一つでもある。

128638290586216212745_sw13村川が幸と二人で過ごす時間が増えると、面白くないと少々不貞腐れる子分もいた。その姿はまるで‘男の子’だけで楽しんでいたところを、一目置いている憧れのボスを‘女の子’ごときに奪われてヤキモチを焼いている‘子供’そのものだ。こうした微妙な心の動きを人間なら誰しも多かれ少なかれ、子供時代に体験しているのではないかと思う。故にこの作品は、一般人の日常からは程遠い任侠の道に生きる者達を中心に展開する内容ながら、誰もが共感できる甘酸っぱいノスタルジーにも溢れている。だが、その一方で飽くまでもヤクザを描いている映画なので、このまま遊び続けて終わることはないだろうと、観客は予想しながらこの作品を観続けることとなる。実はそこがこの作品の見事なカラクリの一つだ。延々と描写される童心に返った村川達の姿を可愛らしく描いては親しみを覚えさせることで、この作品は観客を彼らの親のような心境へと追い込んで行く。このまま何も問題が起こらないわけはないと、観客は心配しながらも村川達を見守る破目になる。

b0137183_19323169「知らない人について行ってはいけません」
、「暗くなる前に家に帰って来なさい」等と、我々は幼い頃によく親に注意されたものだった。そんな忠告を村川達に向かって叫びたくなるのは、物語後半で敵の殺し屋が登場し始めるあたりから…殺し屋と言っても気障なヒットマンなどではなく、この映画の殺し屋は無表情な釣り師の姿をした不気味な初老の男だ。沖縄の海辺にならどこにでもいそうな出で立ちで、忍び寄ることすらせずに、普通に歩いて来ては一人ずつ静かに村川の子分を一発で撃ち殺しては、そのまま何事も無かったかのように去って行く殺し屋は実に不気味だ。無論、この殺し屋が老け顔なのは、‘子供’に戻っている村川達とは対照的に、必要以上に年齢を重ねた‘大人’として印象づけるためだろう。太陽がさんさんと降りそそぐ中、海辺でフリスビーをしていた最中に、ケンと呼ばれる子分が狙われていることに気づく間もなく目前で殺されてしまった際、村川と幸はただ呆然とするだけだった。銃を携帯していなかったからではない。その段階では完全に‘子供’に戻ってしまっていた彼らにとって、この殺し屋は到底太刀打ちできない、怖くて得体の知れない‘大人’だったからだ。冒頭で紹介した『その男、凶暴につき』のシークエンスにおいて、目の前で刑事が撲殺されるのを目の当たりにした少年達も同じ気持ちだったことだろう。このように‘子供’の世界にいきなり‘大人’をバイオレンスとして投入し、無垢な風情を瞬時に破壊してしまう手法は、以降の北野映画でもよく観られる独特の演出だ。観る側はその早技に主人公ら同様にショック状態にしばらく陥らざるを得ない。残酷だが、この見事な切れ味のある手法は北野映画のファンにはたまらなく魅力的でもある。

128637758329616127198_sw3この作品が公開された当時、何故にラストでせっかく生き残った主人公が自殺してしまうのかが話題になっていた。何かのインタビュー記事で、北野監督はそれが必然的な展開で、「大した意味はない」と語っていた覚えがぼんやりとある。私の記憶が正しければ、一見何の答えも出していないようなこの監督の言葉は、実に的確に主人公が死を選んだ理由を物語っていると思う。幸と良二だけを残して、他の仲間は全て死んでしまった。ここで彼らを再び‘子供’に置き換えると、仲間は全て遊び終えて‘家に帰ってしまった’という解釈が成立する。故に誰もいなくなり、つまらなくなった村川も‘家に帰る’=死ぬことを選んだに過ぎないのだろう。また、村川にとってはヤクザ稼業そのものすらもが遊びだったのかもしれない。最後の決死の襲撃も、隣町の敵対する‘男の子’達のところへ仲間の仇討ちをしに行くのと同じ程度の行為だったとも理解できるからだ。だからこそ、彼は阿南組襲撃直前に、‘まだカタギになれるのだから
と良二に言い聞かせ、運命を共にすることを望んだ彼をやんわりと拒絶したのだ。このシーンでの二人の素朴な会話からも、カタギになる=‘大人’になる=成長する=生き続ける…という含みが漂い、村川は最期までそれを成し得ることができなかった男だと解釈できる。私から見ると、一番可哀想なのは‘女の子’であり、ヤクザでもないがために襲撃への参加者からは当然のように外され、取り残された幸だ。彼女は最後まで村川が助けて守り愛した‘女の子’だったが故に、‘男の子’だけの危険な遊びには加えてもらえなかった。さらに村川は彼女の元に生きて戻って、二人のリトル・ロマンスを続けるのではなく、‘男の子’達と‘家に帰る’道を選択してしまったのだから尚のこと憐れだ。最後の襲撃に向かう前、幸は村川に「また、帰ってくる?」と訊ねる。村川は照れながら、「もしかして」と答えるが、幸は既に彼が戻って来ない予感がしていたのだろう。村川が持っていた機関銃を撃ってみていいと許可をもらった幸は、そんな淋しさを吹き飛ばそうとするような勢いで撃ちまくる。‘女の子’だというそれだけで村川達の‘男の子’同士の世界には完全に入れてもらえていなかった悔しさが、村川を失うだろうという不安と共に表現されている一場だ。私自身もかつては‘女の子’だったのでよく分かってしまう…いつもは一緒に遊んでくれていた男子達が少し激しい遊びをする時だけは、何となく「女の子はダメ」という雰囲気を醸し出し、仲間外れにされたように感じた淋しさを。

128638166563816210812『ソナチネ』同様に海外でも評価が高かった『HANA-BI』(98年日本)や『BROTHER』(01年日・英・米合作)等の作品でも、北野監督自らが演じる主人公は常に‘男の子’であり、‘女の子’には優しく、あるいはどう扱ってよいのか分からずに戸惑うような幼さを残している。夫婦の絆を軸に描かれている『HANA-BI』でも、自分達の子供が死んでしまった北野と岸本加世子演じる夫婦は‘大人’を捨て、‘男の子’と‘女の子’に戻って旅行に出る。夫が‘男の子’から‘大人’に戻るのは、何者かが二人の旅を妨害しようとする時だけだ。そうした相手に対しては、妻の知らないところで彼は想像を絶するような凶暴性を発揮する。‘大人’が‘子供’に戻るには、それだけの犠牲を払わねばならないということか。一方の『BROTHER』は、私の中では『ソナチネ』の姉妹的…と言うより兄弟的な作品として位置づいている。舞台は沖縄でなくアメリカへと移るが、この作品に登場する主要な人物達も‘子供’としてしか生きられないことに変わりはない。だが、『ソナチネ』の人物らが小学生くらいのイメージだったのに対し、こちらは中高生くらいの印象。渡米してからもギャングを結成し、裏社会でのし上がって行く主人公らはヤクザ稼業そのものを最初から派手にゲームのように楽しんでいるからだ。その分、格好良さは『ソナチネ』よりも数段上で、物語としてもより洗練されているのでこちらも是非ご覧いただきたい。本当を言えば、私は『ソナチネ』よりも『BROTHER』の方が若干好きなのだが、やはりどちらも甲乙つけ難く、今回は北野映画の原点とも称すべき前作を、迷った挙句に取り上げることにした。

o0330018610597683329さて、北野監督はビートたけしの名前でも別途、全く違ったお馬鹿な作風の映画も撮っている。正直なところ、それらはあまりにも下劣かつ稚拙で私の好みには合わない。誤解のないように申し上げておくが、下劣も稚拙も面白ければ嫌いなわけではない。だが、ことビートたけしの下劣と稚拙に関しては、映画という大画面で作品として観るよりも、テレビという茶の間と繋がった小宇宙で味わう方が、日常性や庶民感覚が加わって親しみやすい。映画はビートたけしのギャグには大き過ぎる媒体のように思う。けれどもいかに低俗であれ、北野武ではなくビートたけしの映画の方こそ、業界が仕事というかたちで彼に求める
‘大人’=職業コメディアンとしての色合いを出して作られた作品であり、逆に北野武として監督している映画の方にこそ彼が純粋に自身の‘子供’を解放して作っているように私には感じられる。北野武という映画作家の中には、多分に永遠の‘子供’が存在しているのだろう。故に彼の作品の主人公は署内の規則を守れない刑事や、ヤクザという社会的不適合者ばかりなのだ。‘子供’のままに成長した者は、アウトサイダーとして生きるしかない。そうした視点を頭の片隅に置きながら、『ソナチネ』をはじめとする彼の傑作の数々を、既に観られた方々にもご再見願いたい。きっと単なるヤクザ映画とは違う何かが、その時にはっきりと感じてもらえるだろう。特に海外では高く評価されつつも、バイオレントなだけの作風との偏見を抱かれがちな北野映画だが、その実体は静寂で優しく、ユーモラスで愛おしく、何よりも純粋無垢で不思議と懐かしいのだ。

作品関連情報リンク集:Wikipedia
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『ソナチネ』予告編