220px-Affiche-MinaTannenbaum理由を必要としない愛という友情

『ミナ』はマルティーヌ・デュゴウソン監督の長編デビュー作だ。この作品は海外で高く評価され、ボストン批評家協会で最優秀外国語映画賞にも輝き、デュゴウソンが次作『恋人たちのポートレート』(96年仏)を監督する足がかりとなった作品でもある。グランド・ホテル形式で多数の主要人物を浅く広く描いてしまった『恋人たちのポートレート』は、残念ながら私の記憶に薄くしか残っていない。だが、『ミナ』はタイトル・ロールのミナと彼女の子供時代からの親友・エセルのみに焦点を絞り、彼女達の関係とそれぞれの運命の異なり方を通して、人間が生きて行く上で必要なのは、やはり何をおいても周囲から認められ、愛されることだと率直に描いた傑作だ。ミナとエセルは同じ年の同じ日に生まれたユダヤ系フランス人の少女達として冒頭から登場するが、後に有名な画家となったミナのドキュメンタリーを撮影する過程で、彼女の従妹によるナレーションを挟みながら、リアルタイムではなく、回想という形式でミナとエセルの物語は展開する。あるきっかけで出会った幼き日の二人は、ダサイ眼鏡をかけていたり、多少太っていたりということで、十代になっても学校では脚光を浴びることのないアウトサイダー同士だった。それでも、二人は何とかクラスメート達に馴染もうと、彼女達なりのお洒落をして、パーティーに参加しようとしたりしながら、一般的な女学生の華やかな青春を追い求める。そうした姿は健気であると同時に、観ていて痛ましくも感じる。こうした思春期を送ったことのある観客なら、すぐに二人に感情移入できたことだろう。

G63181136663328やがて、成長するにつれていち早くダサイ自分から解放されたのはミナの方だった。彼女は新進画家としての才能を認められ、個展までをも開ける身分になることに成功。幼少からコンプレックスだった分厚い眼鏡もコンタクトに変え、同じ画家のハンサムな彼氏と同棲するようになったミナには、最早十代の頃の暗さは無くなっていた。しかし、一方のエセルはまだ自分が本当にやりたい事を発見できないまま、自分への劣等感を相変わらず募らせながら悶々とした日々を送っていた。ミナのように何者かになりたいと気持は焦るばかりで、何一つ上手く行かない…が、そんなある日、彼女は大胆な決意をする。ミナの名前を騙ってマスコミ嫌いな美術界の大御所のインタビューを試みたのだ。そして、何とか成功。その成果が認められて、エセルはジャーナリストの仲間入りを果たす。彼女は仕事にのめり込み、その面白さを実感しては頭角を現してトントン拍子に出世を果たすように…しかし、自分の名前を勝手に利用したことを知って怒らせてしまったことや、彼女の絵画ディーラーに軽く見染められたことが原因となり、エセルはミナと喧嘩別れして疎遠になってしまうのだった。しかも、エセルがキャリアを積んで人生順風満帆になる反面、元来の気の強さが災いしてミナはボーイフレンドとも気持が噛み合わなくなって別れ、憧れていたディーラーにも恋愛以前に画家としても見捨てられてしまう。こうしてミナは、生活のために贋作をも描かねばならないほどに落ちぶれてしまうようになった。

imagesCA5YBY5Cミナとエセルは同じ日に生まれ、ユダヤ系である以外には性格も価値観も実は全く共通点が無かった。ミナは画家となっても尚、心の奥底ではダサくて誰にも愛されない自分の過去に怯え、故に何事にもやたらとこだわる自意識過剰気味な女性。それに対してエセルは、同じようにコンプレックスを抱きながらも、自分で自分を愛することができる女性だったため、どんな状況下でも気楽でポジティヴであり続けることができた。そんなエセルの周囲に彼女を慕う人々が集まるようになるのとは対照的に、ミナの暗い自尊心と不安感は人々を彼女から遠ざけ、気づけば彼女は一人孤独のどん底に陥ってしまっていた。そんな辛い生活の中、ミナは長年会っていなかった元彼とたまたま再会する。既に新しい彼女がいる様子ではあったが、彼はミナと過ごした日々を懐かしみ、淋しさで一杯だったミナの心が最も欲していたような会話を、去り際に短くだが交わしてくれた。ミナは孤高の芸術家であり続けることではなく、自分が必要としているのは人の温もりだと、その時に気づいたのかもしれない。それからしばらくしてミナは気分を一新し、再び友達になりたいと、久方振りにエセルに再会しては何気なく申し出る素振りを見せる。気位が高かったミナは、自分をがんじがらめにしていた自尊心をようやく放棄する決心がついたのだろう。人の良いエセルは素直にミナからのアプローチを喜び、二人は今度ゆっくり会おうと日取りを決めて約束する。その日のミナは笑顔を隠せないほど喜びを味わい、エセルと再び絆を取り戻すことで、一から生まれ変われると信じていたのだろう…

Romane_Premiere_Mina_4-narrschだが、既に結婚していて未だ夫とラブラブ状態にあったエセルは、彼から旅行に行こうと持ちかけられる。その日程はミナと会う約束をした日と重なってしまっていた。エセルはミナと会うから行けないと一度は拒むが、ミナとは別の日に会えばいいだけだろうと提案する夫の言い分に流されてしまう。エセルはミナの留守電に、約束の日は予定が入ってしまったからまた日を改めて会おうとメッセージを残すが…それを聞いたミナがどれだけ絶望し、自殺までしてしまうなどとは、エセルは知る由もなかった。エセルには自分の代わりになる近しい存在が他にいるのだろうと、ミナは感じてしまったに違いない。ならば脈がまだありそうな元彼に慰めてもらえばいいのに…と観る側の多くはここで思いがちだろう。だが、画家として名声を得つつあった当時の彼女しか知らない元彼は、所詮はミナの真の姿を知らないままの存在だったのだ。再び子供時代からの執拗なコンプレックスと孤独に苛まれながら落ちぶれた姿を、ミナは彼には見られたくなかったはずだ。ミナにとって最終的にはエセルだけが、彼女がどう変わろうとも背負い続けている苦悩を理解し、分かち合うことができる相手――すなわち、永遠の親友だったのだ。そのため、会う日程を変更して欲しいというだけのメッセージでも、ミナは自分がエセルを必要としているほどに、エセルは自分を最早必要としてはいないと感じてしまい、深く傷ついてしまったのも無理がなかったのだ。

1913777物語後半でのミナは、ひたすら誰かに必要とされ、愛されたかったに違いない。それも、画家であるミナ・タネンバウムではなく、単なる一人の人間として。この映画は、画家やジャーナリスト等の肩書き無しに、純粋に一人の人間として他者から求められることが、実はいかに難しいかを残酷なまでに描いた作品でもある。例えば、ミナが元彼との関係を解消することなく、彼と結婚していたとしても、終盤でやはり彼女は途轍もない孤独に陥り、エセルを求めていたのではないかと私は思う。元彼は画家としての彼女を愛し、結婚していたならば妻としての彼女しか愛せなかったかもしれないからだ。最も近かった親友と、近過ぎた故に些細なことで疎遠になってしまった経験を持つ者は多いだろう。私もその一人で、そうした体験は未だに心に小さな傷となって残っている。疎遠になりつつも後年、寄りを戻せた関係もあれば、そのまま放置されているものもある。放置されたままの関係の旧友には、私など必要ないのだろうと思っては悲しくなることもしばしばだ。子供だから、親だから、伴侶だから、仕事仲間だから、恋人だから、趣味が同じだから…そうした理由を必要とせずに、全て超越した絆こそが本当の友情であり、誰もが欲する真実の愛なのかもしれない。映画のラストでは、一通りミナの生涯について語り終えた案内役の従妹が、今度は自分について少々語ろうと思っていたはずが、撮影クルーが帰り仕度をし始めてしまうのを観て愕然とする。ドキュメントの案内役以外の意味では、誰も彼女になど興味を抱いてはいなかったのだ。‘待って!これから私が登場する話がまだあるのに…’と叫ぶ彼女の姿は、他者に求められる存在となることが、いかに難しく、稀で、貴重であるかを改めて痛感させる。そんな深刻なテーマを秘めつつも、ユーモアやフランス映画独特のエスプリでミナとエセルを描いた『ミナ』は、面白くてちょっぴり悲しい映画にも、重くてちょっぴり笑える映画のどちらにも、観る人によってその様相が変わることだろう。皆さんにとってこの作品がそのどちらになるか、ご覧になって答えを見つけ出してもらいたい。

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『ミナ』予告編