ころころえぜる日記

院長のゆるりな日記です。時々、受付嬢やら亀やららくだやらちび達やら登場します。

院長がいません。

ご無沙汰しています。@えぜる編集部です。
唐突ですが、院長が「駅伝やりて〜」とつぶやいたまま、本当に駅伝やりに出ていってしまいました。
3月11日、本当に塩釜市の寒風沢島に到着しそうな勢いです。
ということで、ブログの更新ができていないことをお詫び申し上げると同時に、只今入っています所の現状報告をしておきます。

現在、仙台あたりでたすきリレーをやったとか、なんだかそういう情報も入ってきています。
1月末の頃には群馬県前橋の奥の方で「からっ風つめて〜。赤城おろしか〜。」とかなんとかつぶやきつつ、温泉に入りながら駅伝続けている、という報告も受けていたのですが。
どういう経路で駅伝を続けているのか分かりませんが、今年の冬は冬眠するどころではなく、被災地復興に向け寒風沢島に向かって走っているようです。

ところで。
院長が出かけている間に、えぜる亀の置物の様なものが診療所に届けられたり、ミクロの世界のものの様な小さな小さな紙のザリガニやらカニやら、じゃがりこのご当地ものやら、なんやらかんやら普段見ないようなものがあれこれ診療所に届いています。
次の機会にでも、「贈物特集第2弾」と題して特集を組みたくなるような妙なパッケージの贈物の画像を、@えぜる編集部の方で整理して、ブログにアップするようにしておきます。

院長つぶやき。

運動不足の皆様、もしくは冬眠中の皆様。
拙者からの提案ですが。
2012年3月11日(日)に、宮城県塩釜市寒風沢島で駅伝やりませぬか。

新年です。

ども。
毎度院長です。

年が変わってもこの挨拶に変わりなく。
皆様のお正月はいかがでしたでしょうか。
正月といえば駅伝。
何度も飽きずにいいますが、やっぱ駅伝は国技指定ものだとおもう。
・・・ここまで断言していて、すでに国技指定という事はないよな。

今年も箱根の駅伝では、「汗のしみ込んだたすき」をつなげない走者が出てきたりして。
そういうのを解説者がいちいち「ああ。汗のしみこんだたすきが、ここで途絶えてしまいました!!あの強豪校が・・・」というような情動を揺さぶるような劇的な言い回しでいちいち説明するのも、なかなか仰々しくて良しです。
時々出かけるスポーツジムで、マシーンの上で走りながら音楽番組とかを適当にみていたりするですが、あの音楽番組に出るアイドルの人たちもなんや仰々しいですな。
昔の山口百恵さんとかの時代の人達って、にこりともせず、直立不動のまま淡々と歌っていたと思うです。
あれはあれで別の意味での過剰さがありますが、いまどきは満面の笑みで歌ったり懇願したりする様で、遅ればせながら、ここ40年程度のアイドルの表現方法の変遷のようなものを考察しておりました。

ところで、先日今年初めての東京えぜるんがありました。
そこで参加者の方と話をしていた中で、ゲイジュツの事についてのあれこれを思うたです。
昨年の大震災後から時々宮城県塩釜市寒風沢島に行っておりますが、前回行った時に「現実的な援助とか役に立つ何かっていうのは、拙者のような非力なものにはたちうちできん。でも、でもですぞ。自分が何もできないにしても、アイデアだけでも何か出せないものか」と、地盤沈下している岸壁に立てられた、海に浮かぶようにしてたたずむ仮設待合室の暗がりの中で考えていたです。
「あああ。花火打ち上げるとか、地域の祭りを例年通りやるとか、音楽祭だとか演劇だとかの芸術祭だとかをやるとか、この現実の上にもうひとつ何かが欲しい。」と思うたです。
寒風沢駅伝とかラグビーをやるとか、もしかしたらありなのかもしれません。
駅伝をやる場合、島には適度な坂道もありますが、東洋大の「山の神・柏原」選手でないとトップスピードを維持できないようなものではありませんので、コースとしては大丈夫です。

ラグビーの名選手、松尾雄治さんがかつてお父さんに「なんでラグビーのボールはあんな形してんの?」と聞いた所、お父さんが「ラグビーっちゅうんは、一人で遊べんようになっとるんや。仲間がおらんと遊べんように、ああいう形に神さまがしたんや。」と答えたとか。
実際の所、ラグビーボールのだ円形の起源自体は別の理由があるようですが、このお父さんの答えは示唆に富みます。
確かにラグビーボールを一人で壁打ちしてもあらぬ方向に飛んでいき、なかなかテニスなどのように壁打ち練習が一人でできなかったり、一人遊びができませんわな。
ラグビーボールは仲間を必要とするボールであり、ラグビーは関係性の中でその面白さが存分に味わえるスポーツなのかもしれません。
とはいえ、ラグビーボールはそのものが被写体として成り立ちそうな、別の用途もありそうなんすが。
それはおいておき。

おっと。またスポーツネタに脱線しましたが。
被災した離島で、目の前の現実の上で一致できる何か、一緒に汗を流せる何か、一緒に笑いあえる何かって何かないのかな。
復興というのは、被災から時間がたつにつれ、どうしても地域差や個人差が顕著になってくると思うんです。
そういう時に、もう一度「生きててえがっだ。ひとりじゃねぇべ。」と思えるような、一致できる感覚を持てる何かがあるといいのかな、と思ったわけです。
これは現地の方々の思いとは全く的外れな、お気楽で不謹慎な思いなのかもしれません。あくまで現地に住んでいない拙者の個人的な思いです。
現実を「なんとかすっぺ」「やるしかねえべ」でやり続けていても、なかなか将来像が描きにくい現実が続くとしたら、という事を拙者なりに考えていたです。
そして考えていくうちに、ゲイジュツとかスポーツというものの必要性を、目の前の現実と同等に現実的なものとして感じたです。

ゲイジュツというのは逃避とか人生の余暇を使ってやるものではなく、現実生活に密着した所から飛び出すように、絞り出されるようにして繋がっているもので、人間にとってなくてはならないものなんだ、という感覚。
現実が現実的で圧倒的であればある程、洞窟に壁画を書きたくなるというか、土をこねて像を作りたくなるというか、筒に皮を張ってたたきたくなるというか、歌いたくなるというか踊りたくなるというか。
そういう所でみた、ピカソのマンドリンとギターという絵は本当に美しいと思ったです。
あなたは私の嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。(詩編30:12)

ああ。。。寒風沢。応援すっぺよ〜。

2011年の外れに。

ども。
毎度院長です。

2011年も終わりです。
今年もいろいろとありましたが、このブログの1年最後を締めくくる話題は、相も変わらぬ緩めなものが良いじゃろうと思い。

東京えぜるんというキリスト教系集会を月に2回(このブログ右端の方に案内があります)、診療所界隈でやっております。
その東京えぜるんで12月18日にクリスマス会をやりましたが、これの報告などを。
それまでの東京えぜるんは、通常の聖書(新改訳、新共同訳、口語訳など)を利用して、聖書の神ってどんな神様?というあたりを中心に、聖書には何が書かれてあるのか、という事を真面目に見ていっていたです。
その勉強会も一区切りとなり、次に新約聖書の中のイエスが話したたとえ話について、想像力を働かせてみんなでやいのやいの感想を述べ合ってみようじゃないか、というような会になりました。
それまでにも特定の聖書箇所をみんなで輪読していたのですが、ある勉強会でイエスが十字架にかけられる時の群衆とのやり取りの描写を輪読している際、参加者の方から「なんかこれって演劇になりそうな輪読ですね。」という指摘を受けていました。
ま、確かにイエスの受難劇という演劇やら歌やらありますので、その感想は至極まっとうなわけです。

そこからヒントを得たのかなんなのか、牧師さん企画演出により、クリスマス会の時に聖書で演劇ができそうな「ガリラヤのイェシュ−」というセケン語訳聖書を参加者の方に輪読していただきつつ、絵本めくりを拙者が担当し、牧師さんが樹音(じゅね)という木製のオカリナのような楽器を、場面に応じてたどたどしく吹きつつ、まさに前衛的なミニシアターでの演劇風景が繰り広げられたのでした。
初見で皆さん朗読していますし、全てがたどたどしいです。
さらに、このセケン語訳聖書というのが、なかなか読みづらいというか、妙な訳なのでたどたどしさ全開です。

セケン語訳聖書というのは、新約聖書をギリシャ語から気仙地方の方言(ケセン語)で訳された山浦玄嗣先生の第2弾という感じのもので、「お助けさま」田舎百姓大工イエスの聖書物語をケセン語を中心に、地の文を幕末期の日本語風に、ユダヤ地方と日本の地域とを上手にリンクさせながら、方言コスプレ万歳の味わい深い訳なのです。

そのセケン語訳聖書を使用した、東京えぜるんでのクリスマス降誕朗読劇を味わっていただくために、当日朗読したセケン語訳を一部引用しておきます。
イェシューさまのお生まれ
お助けさまなるイェシューさまがお生まれになさった次第は、今から物語る通りでござる。
イェシューさまの母御前(ははごぜ)マリアは、その頃ヨセフと許嫁(いいなずけ)の間柄でござった。

この国では婚約調(ととの)えば法の上ではすでに妻でござる。

ところが、いまだヨセフと一緒にならぬというに、あろうことかマリアの腹にお子がいるということが知れ申した。実を申せば、これこそは、神様の尊い御息(おんいき)がかかって孕(はら)んだお子でござった。

が、神ならぬ身のヨセフにはこのことの知れようはずもござらぬ。国の掟にしたがえば、かかる姦婦は不義の相手もろとも石打の極刑と定められてござる。ところが、

夫となるべきヨセフというお人はまことに俠気(おとこぎ)のあるやさしい男でござった。それで、マリアの不始末を表沙汰にしてことを荒立て、むごい仕置きを致すことは避け、なろうことなら内々に分かれてやりたいものだと、腹は立てども千々(ちぢ)に心を傷めてあらぬ手だてを考えていた折も折、ご覧あれ、神様からのみ使いがヨセフの夢枕に立って、このように語りなさったのでござる。
「ダビデ〔王家〕の血筋に連なるヨセフよ。懸念は無用ぢゃ。憂うることなく、マリアを妻に迎えよ。マリアの腹におわすお子は、恐れ多くも神様がその尊い御息を吹きかけなさって、孕ませたるお子である。マリアは男のお子を産む。そのお子をイェホシューアとお名づけ申せ。このお子は、やがて己(おの)が国民(くにたみ)をその過ちから助け出そうほどに。」
かかることの起きたのはすべて、〔神さまの御言葉(みことば)を授かりて民に伝えた、かのいにしえの〕御言葉(みこと)持ち〔イザヤさま〕の口を通して語られた、我らが御あるじなる神様の御言葉が世に成ろうとてのことでござった。

「見よ。娘、孕みて男子(おのこ)を産まむ。その名は≪神共(かみとも≫」

すなわちこれは、「恐れ多くも神さまが我らと共におわします」との意(こころ)でござる。
ヨセフは夢から覚めるや、我らが御あるじなる神さまのみ使いに言われた通り、マリアを妻に迎えたのでござるが、男のお子が生まれるまでは、妻と枕を交わすことはござらなんだ。かくて、そのお子のお名をイェホシューアとおつけ申した。

とは言え、このお子は後に天離(あまざか)るガリラヤの舌訛(しただ)みたる鄙(ひな)にてお育ち遊ばされしほどにイェホシューアと呼ばれることなく、かの地の訛りにてイェシューさまと呼ばれることと相なったのでござる。
(ガリラヤのイェシュー)

この奇妙な朗読劇が終了した後は院長特製カレーを食べました。
クリスマス会に参加される方からの差し入れでいただいていた数十種類のカレー用スパイスをふんだんに使ったカレーだったので、なんとなくそれなりの味に仕上がりぬ。
ほっ。

食事もひと段落している間に、何やらたくさん荷物を抱えてこられていた参加者が荷物置き場にもそもそと立ち去られ。
この方が拙者にカレーのスパイスを差し入れていたり、クリスマス会にパンを焼いてきたり、ワインを持参していたり、何かと自給自足というか、自分で何でも持ってきてやってこられる方であります。
そういうことのため、荷物が非常に、これまた非常に多い方ではありましたが、なんと。
他の参加者がワインなどでくつろいでいる横で、小型映写機のようなものを置き、サックスのようなものを取り出し、スピーカーのようなものを横に置いているではありませぬか。
「電気を消してもらってもいいですか?」ということで、室内の電気を消した所、その小型映写機のようなものから天体が映し出され。
これ、自宅用プラネタリウムだったようです。
おなかも満腹、ほろ酔い加減の皆さんに、なんちって満天の星空で雰囲気を演出した後、うやうやしくその方がスピーカー(アンプ)に繋がれたサックスのようなものを取り出し、吹くです。
どんな名曲を吹くのかと思って固唾をのんで待って・・・まって・・・まっって。。。
ぉぉぉ。。。。まってくれ〜。

最初の曲はある程度きちんと吹いていた気がする。
しかし、合計何曲やったのか数え切れないほど、演奏しておりましたが、一つ一つすごかったです。
聖者の行進という曲を吹きたいようなんすが、最初はうまくいっても途中から吹けなくなる。
で、何度もチャレンジしても途中から吹けなくなるため、演奏者が「あ〜。吹けないから次の曲」とかいう感じで次の曲へ。
しかしたどたどしい演奏につき、なかなか次の曲も曲の全容がつかめない。
もしくは全容がつかめても何の曲なのか分からない。
例えば聖者の行進にチャレンジして失敗した後、カーペンターズの曲に、それからコンドルは飛んでゆく、とか。
ここまでは分かる。
しかし、CMのいいちこのバックミュージックとかを演奏された日には誰もわからず。
こうなってくると会場はイントロ早押しクイズ状態になっており、たどたどしい演奏から何の曲かを誰が一番早く気がつくか、というようなゲームとなりにけり。
演奏者には失礼じゃが、拙者らは途方もなくもりあがりにけり。
この演奏者の選曲も脈略がなく、それがまたクイズ形式に拍車をかけており、更にすごかったのが、演奏者が真面目にやっているのは分かるんすが、真面目に音を外します。
「あ〜緊張する!!」「緊張すると息が続かない!」とか、演奏者のMCも真面目が過ぎてユーモラスになり、その滑稽さが絶妙なおかしさを醸し出します。
真面目にやっても的確な音が出せないでいる時、参加者の方が「もう1音上」とか「その音をシャープにして」とか、みんなで演奏している感じになってきてるです。
「あ〜。この満天の夜空で、音楽が楽しめて、しあわせ〜。」とかいう声も聞こえてきたり。
みんなも「そうだよな〜。」とかゆるゆる笑い。
診療所の天井の梁だとかのゆがみで、自宅用プラネタリウムが映し出す冬の夜空もゆがんでおったりするだけに、この小さなしあわせ感は妙に笑いを誘います。

この抱腹絶倒の音楽パフォーマンスののち、別の参加者が銀河鉄道の夜の朗読を、自宅用プラネタリウムによる「なんちって満天の星空」の下で披露。
朗読者の独特のたどたどしさが、自宅用プラネタリウムによる満天の星空に山手線の電車の音が絡まって、なかなかシュールです。
現代版銀河鉄道の夜ってこれか?!って感じでした。
こういう打ち合わせは一切しておらず、まさにかくし芸大会と化した、今年の東京えぜるんのクリスマス会の巻。

拙者、楽しむということの真髄というか、本質的な所を体験させてもらった気がしました。
途方もないプレゼントを、この東京えぜるんを通じて戴いたんだなぁ、と思います。

本物の夜空でもない、なんちって満天の夜空に本物のサックスではない、正体不明の電気式楽器。
楽器演奏している当事者が、その電子楽器の名前を覚えていないという妙。
プロの演奏でもない、音を外しがちな素人演奏で、本物の音楽会の様相とはまったく違うバラエティ番組風の演奏風景。
評価基準がどこにあるかで物事の良し悪しの評価というのは決まると思いますが、評価の枠から外れた所に、こんなに豊かな面白さ、楽しさがあるんだな〜と思ったです。
このかくし芸大会を通じて、その方々の心意気に対する尊敬とか敬意というものが、じわじわとわいてきていたです。
今年の東京えぜるんは新春音楽びっくり箱という企画をやりましたが(2011年1月24日記事)、その時にも、同様の感動を覚えました。

獲得するとか効率よくやるとか前に進むとか、そういう所からずれた所の楽しみとか味わいとかいうものを、東京えぜるんで垣間見ている気がします。
その東京えぜるんで今後使う聖書がセケン語訳聖書というのも、偶然ではない気がします。
聖書を、そして自分や自分を取り巻く周囲の事象や人々を、
「頭でひととおりの理解ができる」以上に「腹の奥までも響いてくる」(ガリラヤのイェシュー)
感覚を、東京えぜるんで引き続き模索し楽しめればいいな、と思っています。

来年も1月22日に、このクリスマス会の延長戦(?)というかなんというか。
新春・芸のびっくり箱をとり行う予定です。
出演希望の方は東京えぜるんまでご連絡下さい。

では、今年もお世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
皆様にとっても、来年がよい年でありますように。

寒風沢島再訪・編集後記

DSCF0590今回の塩釜・寒風沢島訪問において、拙者、自分の卒業校の同窓会には欠席しているくせに、なぜか他の人の所の同窓会に出席することになったです。
同窓会っていうの自体に出席したのは、自分の事に関しては今までの拙者の人生で、たったの1回しかありませんでしたが。

事の流れとしては、東日本大震災被災者支援のえぜるプロジェクトのスタッフである、手芸の先生が出席される同窓会会場で、えぜるプロジェクトで製作している手芸品やTシャツ、絵葉書等の雑貨のお店が初出店したため、それの見学というような感じになりました。
えぜるプロジェクトの手芸部の先生は仮設住居の方々に手芸を教えておられ、そこで作製したコースターやらえぜるねことかいうキャラクターグッズのようなものやらなんやら、あれこれお店に並んでおりました。
コースターの売れ行きはいま一つでしたが、えぜるねこというキャラクターグッズものというか、単純にねこのぬいぐるみなわけですが、これは飛ぶように売れており。
「売れ残ったコースターは診療所にどうぞ」とかで、素人くささ満開のコースターはお土産に持たされましたが。
この手芸の先生、少し変でした。

えぜるねこのぬいぐるみが飛ぶように売れており、なんとなくえぜる亀のぬいぐるみがここにあったらこんな感じで飛ぶように売れるのかな・・・とか思った拙者と@えぜる編集部は、えぜる亀の話をその手芸の先生に真面目にしたです
えぜる亀物語(@えぜる編集部バージョン・けちな院長編)
趣を異にする2つの上品な庭園が観光名所として知られる、東京駒込。
この2つの庭園にはどれぞれに池があり、そこに生息する亀達がいました。
散歩が趣味の駒込えぜる診療所院長が2つの庭園周辺を散策している折、干乾びて瀕死状態にある小さな亀を見つけます。
いずれかの庭園からはぐれ出てしまった亀だろうとあたりをつけた院長は、鶴の恩返しとか、浦島太郎とかの恩返しものの昔物語を算段しつつ、教科書通りその瀕死の状態の亀を池に戻すつもりでしたが、池に戻すにも両者の庭園は数百円の入園料がかかるのです。
普段使いではない1万とか10万とか万単位のお金の計算になるとアバウトになる割に、10円とか100円単位の所になると妙にけちな院長は、そのまま瀕死の亀を診療所に持って帰ります。
結局亀を診療所で飼うことになり、それが一番お金がかかるということに気が付く頃には、いつものように後の祭りなわけでした。

診療所で亀を飼うことになりましたが、なかなかこの亀は偏食傾向にあり、与えたものを食べません。
飼育に苦慮していた時、たまたま診療所スタッフが食べ残していたじゃがりこに向かって、亀がのそのそと動いてゆくではありませんか。
この亀、じゃがりこが好物だったようです。
そこで、当時この亀には名前がなかったため、「じゃがりくがめ」とか「亀りこ」でも名付けておこうとか言ってた矢先、院長の見た夢によると、「お前の拾ってきた亀は、お前を竜宮城に連れていく。この亀をえぜる亀と名付けなさい。」というお告げがあったとかなかったとかで、そのまま<えぜる亀>という名前になったのでした。

えぜる亀ははぐれ亀となり瀕死状態になるまでに、何らかの事情により心的外傷体験負ったのか分からないのですが、なかなか視線を合わせず心を開きません。しかし、人の気配がする所を好みます。
ひっそり院長の肩にしがみついたりポケットに入りつつ、えぜる亀は院長の散歩に同行したりジムい通いやら温泉に入りにいったりしますが、「ペットお断り」という壁に阻まれ、一匹はじき出されることもしばしあります。
そういう時はじゃがりこの空き箱の中に黙って入ったり、じゃがりこの箱がない場合は、人の邪魔にならないように店の外で蹲っていたりします。
えぜる亀の後ろ姿(甲羅)には、人の根源的な孤独感や寂しさのようなものが漂っており、「多くの人の重荷を背負っている亀だ。この亀はおそらくは拙者を背負うて竜宮城に行くのではなく、人の重荷を背負って一匹で竜宮城に行くのじゃろう。」と院長はいっていますが、おそらくは院長、聖書とか童話とかの曲解だと思います。
など、上記内容(特に良く把握できないえぜる亀の情緒的側面にスポットを当てる形)をえぜるプロジェクトの手芸の先生にお伝えしてたです。
手芸の先生:「ああ。サングラスして甲羅干ししている亀なイメージですね。」
拙者:「は。サングラスして甲羅干しですか?」
手芸の先生:「甲羅干ししないと弱ってくるし。それに亀って、すぐ干乾びるし。」
拙者:「で、甲羅干しにサングラスですか。」
手芸の先生:「UVも気になるでしょうしね、亀も。」
とか。
ぉ。少しだけずれているような、手芸の先生。
また発見してしまいました。
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登場者
登場者
院長・・駒込えぜる診療所長
受付嬢・・診療所受付担当
覆面美容部員・・受付嬢の一人(寿的退職)
@えぜる編集部・・当ブログ編集担当部署
えぜる亀・・診療所に生息する亀。
風車の桃七・・忍者らしきもの。
はえとりくもこ・・お掃除担当蜘蛛
営業部長兼衛生顧問・・幹部候補
衛生部員・・虫を握りつぶす職人


その他部署一覧
えぜる放送部・・診療所音楽担当
えぜる捜査隊・・捜す係
HP制作委員会・・HPを管理する会

東京えぜるん
キリスト教プロテスタント系集会。
2時間程度の会で途中参加OK。
聖書や教材を中心にゆるゆると。
どなたでも参加自由。
お茶菓子代200円。
駒込えぜる診療所集合。
担当:院長
東京えぜるん運用資金の一部を
えぜるプロジェクトに寄付します。

第58回東京えぜるん
2012年2月5日(日)15時〜
場所:えぜるの森
日本人のためのバイブル・ディスカッション
(1-4)ルカ15:1,2,11〜32
(2-1)ヨハネ4:1〜18

第59回東京えぜるん
2012年2月19日(日)15時〜
場所:えぜるの森
日本人のためのバイブル・ディスカッション
(2-2)ヨハネ9:1〜12
(2-3)ヨハネ8:1〜11

第60回東京えぜるん
2012年3月4日(日)15時〜
場所:えぜるの森
日本人のためのバイブル・ディスカッション
(2-4)ヨハネ3:1〜10
(3-1)ルカ10:38〜42

第61回東京えぜるん
2012年3月18日(日)15時〜
場所:えぜるの森
日本人のためのバイブル・ディスカッション
(3-2)ルカ5:27〜32
(3-3)ルカ19:1〜8

えぜるプロジェクト
東日本大震災
被災者支援ボランティア
〒985-0052 塩釜市本町9-23
代表:山田みちえ
民宿 外川屋
塩竈市浦戸寒風沢字湊136-3
TEL:022-369-2359
(ブログ2011年12月26日参照)
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