ころころえぜる日記

院長のゆるりな日記です。時々、受付嬢やら亀やららくだやらちび達やら登場します。

ブログ移転のご報告。

ども。
毎度、院長です。
何があったというわけではありませぬが、いつの間にかというか呆気なくというか、診療所内に最近出来たばかりのデジタル戦略部門の段取りのもと、ブログの住所変更となりました。
詳細は新しい住所のところにアップした記事をご参照いただければ幸いです。
特にライブドアブログになんの不満もなく、というか、そういう不満が出てくるような知識もなく、とにかくひたすら文字を打ち込める場所が与えられていたところで、2008年からここまできたわけです。
「今の時代はnoteです」とかでデジタル戦略部員のお膳立てがあり、やむなくお引っ越しとなりました。
数年前にはエリムガーデンの管理をお任せしている比嘉代表からも、「芳賀さん、これからの時代はnoteですよ」とか言われ続けた歴史もありましたが、そういうのも聞かぬふりをしてきたのでしたが。。
患者さんからも、「うふふ。私、先生と違って、noteでブログ書いてるんです」とか自慢され(?)るのも振り切ってここまできていたのでしたが。
ここにきて、全てがお膳立てされてしまい、ちゃぶ台返しはできないような外堀がため、内堀がためにあっており。
んで、noteというサイトの中に「ころころえぜる日記」の屋号はそのまま、移転しております。
えぜる亀やらなんやらも一緒にお引越ししています。
拙者といたしましては、このライブドアブログに慣れ親しんでおりまして、時々こちらにも登場したく思うておりますが、そないなまめなことができるかどうかは不明です。
ひとまず、これからはまず、noteの駒込えぜる診療所をご覧いただければ幸いです。
また、インスタグラムでも駒込えぜる診療所でご検索ください。
これまでブログでアップしてきた画像や公開していなかったこぼれ画像なども、少しずつアップしていく予定です。
それではまた〜。
今までこのライブドアのブログをお読みいただき感謝です。
また無料でこのような場を提供してくださっていた、ライブドア様にも感謝です。
引き続きnoteやインスタグラムの方でお会いしましょう!
noteの記事はライブドアの記事同様、特にアカウントなしで読めますので、そのまま検索してお越しください。

駒込えぜる診療所
院長。

背面飛び。

ども。
毎度、院長です。
ずいぶんご無沙汰しておりました。
あれこれ日々のことでぶちぶち思うところはあったのですが、もう少し結果が出てから発信したいと思うているうちに、2ヶ月近く間が空いてしまいました。
今、これまでになく(多分自分の人生で最大級かもしれん)集中して取り組んでいることがあるのですが、それの結果がなかなか出ないのです。
そういうところから、もどかしいな・・・と思いつつも気がついたところまでをここに書き留めておこうと思います。

2018年に単行本化した雑談外来の本には収録しなかった記事のことを、最近振り返っております。
あの本は一般向けのところもあったので、コテコテの信仰的な内容はカットしたという経緯がありまして、収録しないこととなったのでした。
拙者、自分の人生をたとえると、背面跳びをしていると言えるのですが、その辺にまつわる話だったのでした。
他の人はそれぞれの人生をどういうふうに捉えているのかな?と興味を持ち、ここ数年のうちに複数の方々にインタビューしてきております。
著名な作家は
「湖に浮かべたボートをこぐように
人は後ろ向きに未来へ入っていく
目に映るのは過去の風景ばかり
明日の景色は誰も知らない」
と言っていたり、別の作家においては、
「象徴の森をゆくが如く」と表現されたりします。
拙者は前者のイメージに近いのですが、拙者にとってはスーッと、もしくはおずおずとボートで未来に入るのではなく、跳躍するという意識が強いのです。
そしてまた、象徴の森のような現実は、神のパズルを解く中での象徴的事象に遭遇しているような気がしています。
エリムガーデンの運営をお願いしているトレーナーなどは、「人生って、ボルタリングをしている感じかな」と言っておりました。
人生っていうのはゲーム感覚で、いいタイミングと良い位置で掴めるチャンスがあるかないか探している、というところがあるようです。
とても楽しそうに語っておりましたし、そういう雰囲気で人生を邁進しているように見えます。
また、別の方にインタビューすると、「ハードル競争ですね。必死にバーを押し倒したり、転んだりしながら、それでもなんとか進んでいる感じ」と申しており。
まあ・・・確かにその方の人生、ほんまにそういう感じでして。。。むむむ。
障害物多くてハードルは高くて大変そうではありますが、とにかく起き上がっております。
と、こんな感じで自分の人生を俯瞰する時、皆様はどういうふうにいうのでしょうか。

どういう経緯でそうなったのかはよくは覚えてはいないですが、小学校5年生くらいの頃、拙者と同級生の1人が、走り高跳びの練習をすることになったのでした。
拙者はミニバスケットボール部に所属し、同級生は日本舞踊を習っておったのです。
当時陸上部というのはなかったので、何らかの陸上大会に向けて、寄せ集め的な形で練習していたのだと思います。
その同級生は小麦色の肌で手足が長く、小さい顔の中の大きなクリクリした目が愛らしい、エキゾチックな女の子。
そんな目立つ外見にも関わらず、彼女は控えめで穏やかな性格で、拙者たちはよく漫画の話で盛り上がっておったのでした。
最初拙者たちは、はさみ跳びとかベリーロールとか、正面からバーを超えていく跳躍法で、走り高跳びの練習しておったのですが、ある程度の高さを飛べるようになった頃、指導する先生から背面跳びを教えてもらうことになったのでした。
それまでの正面跳びのように、バーを見ながら跳躍するのではなく、背面からバーに向かって跳躍するという、この画期的な跳躍法は、それまでの跳躍法より高く跳べるということでした。
拙者らはまず助走の練習からスタートしたのですが、拙者はどうにも背面からバーに向かってはいけないのでした。
バーを目で確かめられない不安があったのか、単に体の使い方がわからなかったのか、その時の心境は思い出せないのです。
ただ、背面跳びは助走の段階までは何とかなるのだけど、いざバーを前にすると足が止まってしまうのです。
 バーの前で立ち尽くすー
拙者にはこの跳躍法は無理だ。背中からは飛び越えられない・・・
一方、同級生は何度かの練習で、ふわりと背面でバーを超えてゆくことができたのでした。
同級生の柔らかい弓形の跳躍姿は、まさに空中で踊っているようだったです。

結局、拙者は走り高跳びでは大会に出場できず、走り幅跳びに回された記憶があります。
この同級生とはその後も、漫画のやり取りとか映画を見に行ったりとかで仲良くしていたですが、中学になりクラスが離れ部活が違い友達が変わりなどする中で、いつの間にか疎遠になり中学校卒業以降会わずじまいであります。
しかしその後、拙者が大学に入ってしばらくしてから、この友達は拙者の夢にもよく出てきておりました。
ここ10年くらいは出てきておりませんが、それまでは数ヶ月に1度くらいの割合で、夢で会っておりました。
この同級生からいただいていた漫画などは、拙者は大学に進学して実家を離れてもなお、その後実家が転居するまで、拙者の部屋だった場所の一角に宝物のようにして保管しておりました。
しかし実家が転居するにあたり、経年劣化による日焼けで小麦色になった、古本独特の匂いが漂うその漫画を手放すことにしました。
「憧れ」というものの存在を、自分の中に、同級生と遊んだその地に、保管していたのだと思います。

拙者が人生の要所要所で何かを思い立ち、何かを選択し進んでいく時、そこには現実からの跳躍という感覚があり、それも背面から飛び越えていくという感覚があります。
見えない未来に向かって背面から飛び込んでいく、という感覚で、これは小学生の時にできなかった背面跳びを、人生の中で練習し続けているかのようです。
何度も飛び越えてはバーを落としてきたような気がするのですが、それでも練習し続けるという感じ。
もしくは、やっぱり背面で飛び越えることができないまま、立ち尽くしているのかも知れないのだけど、気持ち的には背面で飛び越えようとしている感じ。
そういう長い長い期間の練習を経て、今度こそは背面からバーを飛び越えたいと思い、日々外的には何の変哲もない日常を送っています。
こういうことは、あくまで拙者の心の中の運動なのです。
今取り組んでいるところで、もしかしたら以前よりもバーに対する背面からの入り方、角度や力の抜き加減、というものを意識できるようになってきているのかも知れない、という気がすることがありました。
今度こそは背面からバーを落とさずに跳躍できるのかも・・・と期待しつつ願いつつ、目の前のことに集中しているところです。
この辺りの感覚については、結果が出たらもう少し細かく伝達できるのですが、現時点においてはまだわからないのでもどかしいところです。
など。
何のことか分かりづらいかも知れぬが、拙者の現在地にて。

最近の読書状況。

ども。
毎度、院長です。
ご無沙汰していますですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
新型コロナウイルス感染拡大で、なんだかんだと行動自粛が続いておりますが、皆様も無事過ごされていると良いなと思うております。
拙者は変わらずの毎日ではあります。
もともと自宅と診療所の往復が主たる行動範囲で、たまに意を決してというか、衝動的にというか、遠出する感じでありましたので。
もともと引きこもっているタイプの人には苦にならないこの事態ではあるのですが、それでも拙者には衝動的なところがたまに出てきますので、その時に行きたいところに即座に行きづらい感覚があるという、その感覚的なところへの違和感が少しずつ溜まってきており。
実際、離島に行ってみようとか思って当日船だとか飛行機だとかバスだとか調べると運休していたり、海外は難しいとかだったり、物理的に遮断されているところもありますし。
この閉塞感がじわりじわり拙者の読書生活に影響を与えておるようで。
振り返ってみると、海外の小説、もしくは旅行日記を読み続けていることに気が付きました。
海外の小説を読むと、その土地の空気感とか文化とかに触れるような気がして、ちょっとした旅行気分になったりするのが好ましく思えていたのかもしれないです。
とっかかりは当初、海外の小説という限定はしていなかったのですが、こういう時期なのでカミユの「ペスト」を読み始めたところからだったような気もします。
アルジェリアのオラン市でペストが発生したという設定で、新型コロナウイルス感染で拙者らが昨年から目の当たりにしている種々の不条理が、端正に書かれている小説です。
種々の寓意を含みつつ進められていく物語の中に、時代を超えて人種を超えて共通するものを受け取りつつ、アルジェリアの風景などに、ちょっと不穏な旅行者気分になったりしていたのでした。
また、「ペスト」と同じく感染症の蔓延を描いたジョゼ・サラマーゴの「白の闇」は、今回読み直してはいないのですが、頻繁に思い出していました。
同書で描かれるのは、視界が突然真っ白になり「ミルク色の海」が広がる謎の伝染病の蔓延という設定で、医者の妻だけが視力を失われず、その妻を中心にしてなんとか生き残りをかける、というような物語です。
この物語も寓意に富み、会話においても全くかぎかっこがない文章で、拙者はとても好感をもった文体です。登場人物の生々しさがなく、物語の骨格や寓意そのもののが前面に出てくる感じです。
そういうわけで、このブログの2018年9月8日の記事「漆黒のエレジー」は、似ても似つかぬわけですがそれでも当時、「白の闇」を意識した文体が頭の中に浮かんできたので、書き留めた次第でした。
あの作者はポルトガルの人だったよな、ポルトガルはこのコロナ禍の中、どういう感じなんだろうなど思いを馳せておりました。
つい最近は武田百合子のロシア旅行記を読んだりしたのち、今はプルーストの「失われた時を求めて」を読み始めたところです。
吉川一義訳で14巻あり、最後まで読めるかどうか定かではありませぬが、通勤電車の中や休みの日にぼちぼち読み進めております。
今も読んでいたのですが、ちょいと気分転換にブログを書いております。
この本では、フランスのお菓子やら料理、風土や色彩、匂いなど、とても豊かに表現されていて、少しだけフランスに旅行しているような気分になれます。
読み始めた時には、相当虚弱で過敏な語り手の観察眼についていけない感じがしたのですが、途中からやっとなれてきました。
拙者、物語を読むときに手こずるのが、この慣れの感覚です。
カラマーゾフの兄弟なども、物語の進み具合や語り手の感覚的なものになれたのが、1巻目の後半くらいまで進んだ頃でした。
思想系の本だと、こういう慣れはそこまで必要とされない感じがします。
結論や論理展開が一直線で、わかりやすく感じることが多いのです。
物語だと、人物や状況描写が延々と続くので、その場の設定に馴染むのに時間がかかる感じです。
う。書いていて思うたのですが、もしかするとこれは、拙者の想像力の乏しさに由来するものかもしれぬ。むむむ。
のちに私は、人生の随所で、たとえば修道院などで真の聖人というべき活動的慈愛の化身にずいぶん巡り逢ったが、その人たちはたいてい忙しい外科医のような、快活で、実際家らしい、無関心な、つっけんどんな表情をしていた。それは人間の苦痛を前にいかなる憐憫も同情もあらわさない顔であり、人の苦痛を傷つけるのを少しも怖れない顔であるが、その優しさを欠いた、感じの悪い、だが崇高きわまりない顔こそ、真の善意の顔なのである。(失われた時を求めて1/プルースト)
こういう文章があちこちに出てくるこの本は、密度が濃い感じで、そうそう、そういう人いるよな〜とか、妙に共感したりしつつ、フランスの風景を味わっております。

伝染病の世の中、普段読まなかった本を読むにはちょうど良い、息の長い時間が与えられているような気がします。
以上、拙者の最近の読書状況でした。

2021年春の巻。

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ども。
毎度、院長です。
ご無沙汰しておりますが、皆様はお変わりありませんでしょうか。
拙者も特に変わりなく、診療所と自宅の往復の毎日でありますが、春めいてきた3月に梅の花を見ようとまだ眠そうなえぜる亀を引き連れての青梅方面への花見を計画したのでした。
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その日はとても天気が良く、木々や岩が光を浴びて、直視できないほどキラキラ輝いており。


青梅より先のなんというところだったか、とにかくひたすら奥多摩方面に向かっていったわけであります。

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快晴の中、散策するのに人はほとんどおらず、新型コロナウイルス感染云々などがどこのことやら、というような呑気な風景でありました。



しかし。そういえば拙者、梅の花を見にきたはずじゃったが、梅の花はなく・・・・・・・・・?
・・・!





前後左右上下見渡すと、どうやら下車駅を間違えたようであり。むむ。


ひとしきり岩場を散策したのち、標識を頼りに最寄駅までてくてくてくてく。











小一時間くらい歩いて、1時間に1本か2本程度しかない電車に乗って、帰宅の途に着く。
途中駅で、わんさと山ガールと呼ばれる軍団にも遭遇。
しみじみ観察しておりましたが、登山用のあれこれはとても機能的にできているよう。
拙者はそういうものを持っていないので、今回のような岩を登ったり降ったりの散策をしておると、荷物が邪魔になったり(ポケットの中に突っ込んだえぜる亀も含め、手荷物がなんだかちょろちょろ多い)、汗をかいた後冷えたり、途中で脱いだ上着が重いなどあったのでした。
次回までに、山ガールたちを見倣っておく必要を覚えた次第でありました。

で。
移動中の時間に読もうと本を持参していたのですが、この本がなかなか面白かったのでした。
昨年7月くらいに同業者の趣味人から「とにかくおすすめの本だから」ということで、わざわざメールがきたので、すぐに図書館に予約を入れたのですが、すでに100人近く待っている状態でした。
この同業者の趣味人は、拙者が普段読まない小説(それも海外の作家の翻訳もの)をおすすめしてくることが以前にもあり、今回も小説だったので、「あまり読まない小説だし、図書館で借りればいいか」と思っていたのでした。
しかし待機人数100人近く、どんくらい待つんだろう・・・
ということで待つこと8ヶ月、ようやく拙者の番が回ってきたようで、図書館から貸出可能との連絡あり。
嬉々として受け取りに行き、読んだわけですが、とても新鮮です。
「掃除婦のための手引き書/ルシア・ベルリン」というもので、電車の中でも読みやすいのです。
ごくごく短編で、詩の魂を持った散文、という感じです。
こういうのも小説というのか、と驚きです。いやはや、こういうのが小説というのか、という感じか。
散文というのは歩行しているような感覚ですが、詩というのは跳躍とか踊るというイメージです。
これは、ヴァレリーの指摘したところでありますが、このルシア・ベルリンの小説には、詩的なものというのか、突然の跳躍とか舞踏のイメージの表現があちこちにあります。
バサッとある瞬間を言葉で切り取って、印象的で象徴的なイメージを表現する俳句のような、どきっとするくらいの清々しい言葉の切り口が、短編の中に散りばめられています。
理知的作業を重ねた、緻密な構成による文芸というより、直感的、感覚的な舞踏表現のような物語の断片というのか、そういうものが惜しげもなくあちこちにあり、とてもおもしろく思いました。
物語で、暗に何か書き手の価値観とか教訓をたれるとか、何かを示唆するとか、そういう読者への宿題がなく、書きっぱなしな感じがとても良い読後感となっているような気がします。

など。
散策と読書感想でした。

近況報告。

ども。
毎度、院長です。
読書三昧のここ数ヶ月ですが、自分の意識の変化に少し気がついたので、書き留めようと思いました。

拙者がキリスト教信仰を持ってまもなくして、聖書の勉強をしたいと切望するようになり。
聖書の註解も種々あり、あれこれの勉強会に出席するようになりました。
仕事もしているので、神学校などにわざわざ入るとかいう選択肢は持てず、一般信徒向けに系統だって教えているプロテスタント福音派の牧師が主催する勉強会に、熱心に通うようになりました。
その団体がやっていた聖書塾だとかそういうのにも入り、そこで聖書信仰というものを叩き込まれました。
これは、聖書は誤りなき神の言葉であると信じる信仰、と言うもので、聖書は神の霊感によって書かれた、誤りなき神の言葉である・・・と呪文のように教えられました。
そうであるなら、なぜこの箇所とこの箇所は違うのか、矛盾があるじゃないか、など主催牧師に突っ込んでいっても、拙者にとって納得のいく回答は得られず。
ついには拙者の質問は無視され、その組織から阻害された感覚を抱くに至る。
まあ、七面倒臭い反抗的な信者で、洗礼を受けて間もないからサタンが入り込みやすい、とでも思われていたのかもしれないだろうし、実際そうだったのかもしれません。
拙者、今も昔も反抗心やら攻撃性やら好奇心やらは健在ですし、いちいち言わんでいい一言が多いタイプです。
そういう性質なので、対人関係でもトラブルはあるですし、自分でも馬鹿みたいなほんまにアホな経験を数々してきております。
そういうところで、その聖書信仰とやらをとく福音派の勉強会とは距離を置くようになり、しかし信仰を持ってから日も浅く、自分がこのままだと一人カルト化してしまうのではないか、変な聖書の読み方をしてしまうのではないか、との不安がありました。
って言っても、信仰のことに関心のない方からすると、拙者の悩みってなんのことか分かりづらいのではないかと思います。
でも、皆さんにも多少あると思うのですが、正誤、善悪などの二元論的な考えに人間は陥りやすく、さらに信仰者なんてのは「信じるか、信じないか」というような2択で迫ってくるようなところに、一旦は結論を出してしまった人たちなわけなのです。
その2択にまんまとのってしまった拙者のことですから、聖書を読むにも2択なわけなのです。
正しいのか、間違っているのか。正当か異端か。

所属教会も定まらず、近くのカトリック教会に行ってみたり聖路加病院の聖公会に行ってみたり、浮き草のような信仰生活を6〜7年くらい続けており。
しかし、2014年夏頃、プロテスタント系雑誌への拙者の連載話がきた時に、編集者から「プロテスタント教会所属じゃないとちょいとまずいんすよ」と言われ。
まあこの際なんでもいいか、どの教団教派も教理的に絶対正しいというのはないわけだし、そんなら自宅から通いやすいところで、っつう感じで、現在所属しているプロテスタント教会に入会したのでした。
そういう曖昧な信仰生活をしてきていたわけですが、ここ数年でだいぶ自由になってきた感覚があるのです。
何からって、その「聖書信仰」ってやつからです。
現在所属している教会も「聖書信仰」というのを信条としているようですが、そこまでガチガチに言ってこない。
信仰的に浮き草のような生活をしているときは、なんだか自分の聖書の読み方が間違ってるんじゃないか、異端に走るような解釈をしてるんじゃないか、と不安でした。
でも、この数年前から、「もし間違った読み方をしていたら、そんときは神様がなんとかしてくれるでしょう」というようなお気楽な感覚が出てきており、あまりガチガチの2択で物事を捉えすぎない感じになってきた気がします。
これは信仰的になったとかそういう「高尚」なものではなく、自分の頭のネジが緩んできている感じなのです。
自分の頭のネジが緩んできて、自分の当たり前と思っているような価値観に対して、なんでそう思うのか、というふうに追及できるような感じです。
それまで、自分の頭はネジがきちっとどこもかしこもかたく締められていたのが、少しずつ緩んできて、自分から少しずつ感覚が離れていく感じというか。
自分を俯瞰するほどの距離感はないのですが、自分の信じているあれかこれか、でなく、自分の知らないあれもこれも、って感じとでもいうか。
色々な雑駁な価値観の中に自分の価値観が置かれるようになり、そこから自分の価値観はなぜそういうふうに形作られ、何を根拠にそういうふうに思うのか、という形で再取り込みしている感じです。
そこで、拙者は「何を信じているのか?」「何から救われているのか?」「三位一体ってやっぱりなんなんだ?」「人の罪のために死にたもうイエスキリストって、神の自作自演の救済劇なのか?」ということを考えるのです。
こういうのは、信仰の初めの初めの時に抱いていた疑問なのですが、なんとなく分からないけれど信仰が深まるにつれて、聖霊の導きにより真理は開示されると教えられていました。
信仰生活15年、いづくんぞ真理を知らんや。未だ迷える子羊なりし我が身は。
しかし、信仰生活初期に比べて大きく違うのは、こういうふうにおおっぴらに気兼ねなく、迷える子羊宣言ができるようになったところでしょうか。
カンケーないですが、エリムガーデンのステンドグラスにも迷える子羊が描かれており。
年齢を経て、ふてぶてしさに磨きがかかったと言えばそれまでですが、信仰的に解釈すると、神の大庭で客人として遠慮がちだったものが、子としての自覚を持ち安心して意見を言えるようになった、とでもいうのか。
で、キリスト教は「信じるものは救われる」と言いますが、もしかすると、何を信じているのか、何から救われているのかも曖昧なまま、信仰的な生活をおくるうちに、「信じるものは(足を)すくわれる」ってところに行き着いてはっとする、なんてことになるんじゃないか、と思ったりします。
こういう風に言っていくと、無神論というやつにぶつかるのです。
信仰を持ってからしばらくの間は、「あの著者は無神論者だから」とか言われていた人の本は、自分もその考えに感化されるのが恐ろしくて、手にすることもできない状況だったのですが、最近はそういうふうに簡単に「無神論だから」「洗礼を受けてないから」「あの人は他の宗教だから」とか言って、簡単にカテゴライズすることへの反発心が出てきています。

信仰者としては、じわりじわり裏街道に入ってきているように感じるのですが、そういう裏街道にも面白い先達者がおるようで、読書が楽しみです。
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登場者
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院長・・駒込えぜる診療所長
受付嬢・・診療所受付担当
覆面美容部員・・受付嬢の一人(寿的退職)
@えぜる編集部・・当ブログ編集担当部署
えぜる亀・・診療所に生息する亀。
風車の桃七・・忍者らしきもの。
はえとりくもこ・・お掃除担当蜘蛛
営業部長兼衛生顧問・・幹部候補
衛生部員・・虫を握りつぶす職人


その他部署一覧
えぜる放送部・・診療所音楽担当
えぜる捜査隊・・捜す係
HP制作委員会・・HPを管理する会

東京えぜるん
教派を超えたキリスト教集会。
2時間程度の会で途中参加OK。
聖書や教材を中心にゆるゆると。
どなたでも参加自由。
お茶菓子代200円。
駒込えぜる診療所集合。
担当:院長
*1か月以上先の日程については、状況により変更の可能性もあります。念の為、月初めに日程の再確認をしていただけると幸いです。


第162回東京えぜるん
2019年12月15日(日)11:30〜18:30
第8回クリスマスライブ
出演者募集中!
場所:Cafe dolce vita
東京都新宿区北新宿1-12-11
エトワールビル北新宿B1
03-3364-1530
大久保駅徒歩3分
office_dolce_vita@yahoo.co.jp
 
第163回東京えぜるん
2020年1月26日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ11:45〜57

<2月はお休み>

第164回東京えぜるん
2020年3月1日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ12:1〜11

新型コロナウイルスの影響で、しばらく東京えぜるんはお休みとなります。

第165回東京えぜるん
2023年7月15日(土)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ12:1〜11

第166回東京えぜるん
2023年9月16日(土)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ12:12〜

第167回東京えぜるん
2020年6月 日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ

第168回東京えぜるん
2020年7月 日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ

第169回東京えぜるん
2020年8月 日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ

第170回東京えぜるん
2020年9月 日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ

第171回東京えぜるん
2020年10月 日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ

第172回東京えぜるん
2020年11月 日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ

第173回東京えぜるん
2020年12月 日(日)15時〜
場所:えぜるの森
ヨハネ

第174回東京えぜるん
2020年12月13日(日)11:30〜18:30
第8回クリスマスライブ
出演者募集中!
場所:Cafe dolce vita
東京都新宿区北新宿1-12-11
エトワールビル北新宿B1
03-3364-1530
大久保駅徒歩3分
office_dolce_vita@yahoo.co.jp










えぜるプロジェクト
東日本大震災
被災者支援ボランティア
〒985-0052 塩釜市本町9-23
代表:山田みちえ
民宿 外川屋
塩竈市浦戸寒風沢字湊136-3
TEL:022-369-2359
(ブログ2011年12月26日参照)
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