October 08, 2006

反プーチン・ジャーナリスト射殺

 かの有名な反プーチン派ジャーナリスト、アンナ・ステパーナヴナ・パリトコーフスカヤ(Анна Степановна Политковская)が銃殺死体で発見されたという。日本で一般的な表記をすれば「ポリトコフスカヤ」ね。過去にも一服盛られて毒殺されかけたと言われているが、ついに殺されましたか。

 いやまあ、単純に権門の仕業だと決め付けることは出来ない。もともと国民に人気の高いプーチンを陰謀論で語り、敵であるチェチェン武装勢力(ロシア連邦の側に立てば『テロリスト』)に肩入れするなど、国内では反感を買っていた。誰に殺されても不思議ではない。


 現在のロシア連邦は、ソ連よりもジャーナリストにとってはやりにくい国だという。ソ連時代は、どこまで報道すればどの程度の危険があるのか、割と明確に線引きがされていた。だが今は、何を報道したら、何が返ってくるのかはわからない。些細な報道で記者が殺された事例も後を絶たない。

 例えばサマラ州トリアッチ市ではほとんど毎年ジャーナリストが殺されている。トリアッチは、日本で言えば豊田市のような位置付けの地方都市である。日本では豊田どころか東京だって、記事がらみで記者が殺される事件はそうそうは起きない。しかしロシアでは、地方都市の地方新聞記者でさえ殺され得るのである。

 その理由のすべてを必ずしも「強大な公権力」に結びつけるべきではない。何しろ20ドルで人殺しを雇える国なのだから。サーカス団の団長選や大学の教授選なんかでも、競争相手を始末する事件がたまに起きているほど。ケチな不正を暴かれた地方のちょいとした有力者が、ゴロツキにカネを握らせて記者を殺しに差し向けるぐらいは容易なことである。

 また、公権力の暴力にしても、記者の暗殺に関しては、公権力全体が一丸となって行っていると見るのはどうか。ロシア連邦は国家を束ねる求心力に欠き、セクションや地域の分離・分裂傾向が強い。これは公権力の一体性をも奪っている。公権力が一枚岩として行使する暴力は、法技術に基づいた段階的な弾圧が可能である。だが、中堅以下の人間が独断で行使する場合こそ、短絡的な手段に出る方が容易だ。その点、ソ連時代の方が共産党を紐帯とした力の行使の仕組みがあり、わかりやすかった。



 さて、今回のパリトコーフスカヤ殺害は、誰によるいかなる動機で行われたか。

 まぁ反プーチン記事を書いていたからプーチンが命じたのだろう、などと嬉々として「断定」するようになっては大学院を辞めて、コルホーズで芋でも掘った方がいい。あまつさえ、こうした誰でも思いつく推測をもって、「自分は世界の秘密と、それを形作る陰謀を知るに至った」と思う段階に達すると、青酸カリを飲んでから25口径で頭を撃ち抜いて、フィヨルドに身を投げた方がいい。いやまあ「絶対に」プーチンによる指示や示唆がなかったと言うつもりはないが。

 何にせよ、求心力を欠き、セクショナリズムや地域ナショナリズム、あるいは単純な功利主義などが渦巻き、権力闘争が盛んな社会においては、有力者や公権力に楯突くと、どこの誰がいかなる動機で動き出すかわからないところが恐ろしいわけであります。



 ちなみに私が師事している親方は、日露の某会議に於いてプーチン本人に対して「プーチンとラスプーチンは似ていますね」と定番の冗談を言ってプーチンを激怒させたという。小声で「冗談でもないのですが」と続けたとさえも。よく生きて帰ってきたものである。

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