日本へ遊びに行ったら、奈良駅で托鉢僧を見かけた。黒の法衣に網代笠、手には鉢という姿だ。タイ人の夫が近づいて写真など撮る。外国人観光客には物珍しいのだろう。とはいえ、日本人の私にとっても日常の光景とは言いがたい。日本の僧侶は時間を問わず托鉢するものなのか、普段は托鉢でなく自炊で食をまかなっているのかなど外国人の疑問にも、「たぶん、そう」としか答えられない。僧というものが、全然身近ではないのだ。
タイでは、托鉢は当たり前の風景である。
僧は、朝早く托鉢に出る。昔は「てのひらをかざし、手の筋が見える時刻」すなわち暁光がうっすら差してくる時間帯に寺を出るとされていた。今どきは時計を見るのだろうが、てのひらで夜明けを知るとはなかなか風流だ。食事は全て喜捨されたもので済ませる。正午を過ぎたら、水分以外の食物を摂ってはならない。これがタイ人の常識なので、白昼に托鉢していたり、金銭をもらっていたりする日本の僧を見ると不思議な気がするのだろう。
タイの托鉢は、原則として素足である。ただ、昨今の都会ではちょっと無理で、ゴム草履くらいは履く(舗道は朝でも熱いし、危険だ)。人々は托鉢の時間に合わせて米を炊いておき、やはり素足で跪いて捧げる。鉢は日本のものより大きい。米もおかずも、袋菓子やパックのジュースもみな同じ鉢に入れてしまう。何もかも混じってしまっては食べられないじゃないかというのは俗な私の短慮で、出家した者は食に拘泥してはならず、もらい受けたものをそのまま食するものなのだそうだ。僧侶は信者に経を唱えて去ってゆく。
タイ北部や東北部では、餅米が主食のため、托鉢も餅米となる。蒸した餅米は、クラティップという竹などで編んだ籠に入れておき、指先で少しずつ丸めながら僧の鉢に入れていく。私も旅先で体験したことがあるが、いかんせん俗人なので、指に直接触れた餅米を他人(僧)に食べさせるなんて不潔ではとびくびくしてしまった。これも余計な心配なのだそうだが、コロナ下ではさすがに手袋などしていただろうか。なお、タイの宿やホテルは「托鉢セット」を用意してくれるところも多い(下の写真)。前の晩に頼んでおき、ちょっと早起きすればいいだけ。何とも安易だが、お正月だけ神社にお詣りする日本人のようなものだ。
托鉢セット。僧は大勢歩いてくるので少しずつ鉢に入れる。すべて差し上げたら、最後の僧には花を差し上げる。僧は鉢以外に頭陀袋も持っているので、花は袋に入る。
隣国ラオスの観光名所・ルアンパバーンは、僧侶が長い列をなす托鉢の光景で有名。ここでも主食は餅米である。
もちろん、私と違って毎朝きちんと米を炊き、家の前に座る人もたくさんいる。近所の寺からいつも決まったお坊さんが托鉢に回ってくるのである。そんな人たちにとっては、朝のほんのひとときが心を静めてくれる大切な時間となる。
とことこと徒歩の小鳩の小春かな イーブン美奈子
【タイ便り、イーブン美奈子さんより】