古志青年部

古志青年部は、「古志」俳句会の50歳未満の会員からなります。

第十二回古志青年部ネット句会(2017年冬)

古志青年部ネット句会のご案内です。


【古志青年部ネット句会(2017年冬)】

●日程
 投句期間:12月1日から12月19日まで
 選句期間:12月21日から26日
 選が見られる期間:12月28日から翌月20日まで

●句座
 三句出句三句選

●兼題


石塚直子


鉛筆の太さこの子の汗の手に イーブン美奈子

 この夏、バンコクで「こども俳句教室」を開催した。
 きっかけは、サロンオデュタンのオーナー加古川成子さん。成子さんはピアニストでいらっしゃるが、現在、趣味や勉強会のための場として「サロン」を経営されている。単に会場を貸すだけではなく、サロン主催のイベントも開催。私もずいぶん前から「一緒に何かやりましょう」と声をかけて頂いており、今回の俳句教室が実現した。採算度外視の企画だが、快く「いいですね」と言って下さったのである。
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 場所はご提供頂けたが、肝心の子どもが集まってくれなければ始まらない。俳句やりましょう、とウェブサイトに広告を載せたくらいで来るわけはないのだ。そこで、日本人会「バイリンガルの子どものための日本語同好会」でアドバイザーをされている日本語教育専門家の深澤伸子さんに相談した。インターナショナル校やタイの学校に通うハーフのお子さんにも是非挑戦してもらいたい旨を話すと「俳句はとってもいいわよ。長い作文を日本語で書くのは難しいけれど、俳句はきっとできる。普段あまり日本語を使わない子でも、日本語で自己表現ができれば、すごく自信になる」と大賛同して下さった。他の日本語教室の先生や代表者の連絡先も教えて下さり、また、自ら生徒の親御さんに声をかけ、チラシを配って下さった。
 更に、日本人会「メナム句会」のメンバーがボランティアで当日の手伝いをすると言って下さり、日本人学校と学習塾から20代の若い先生達も応援に来て下さることになった。1人は俳句甲子園の出場経験者。プログラムには吟行も入れてあり、引率の問題もあったのだが、若い先生が同行して下さったのは大変心強かった。

 さて、当日。病欠の子を除き小1から中1まで10名が参加。付き添いの親御さんや弟・妹達も一緒になって、和やかに近くの公園を散策した。とはいえ、タイだから、日本の歳時記にあるものが簡単に見つかるわけではない。季語を見つけられるかどうか私は内心どきどきしていたが、全くの杞憂だった。外に出ると、皆、一生懸命ノートにメモを始め、「季語カード」が足りなくなって慌てて追加するほどたくさん書いてくれた。
 教室に帰り、俳句を作る。低学年の子は、お手伝いの先生やお母さんに見てもらいつつ作ったが、周囲が何を言っても、自分が納得するまでは紙に書かず、首をひねっているのが印象的だった。作品は「第9回石田波郷俳句大会ジュニアの部」に応募し、2作品が入選した。

ごむぞうりすなにまみれてへやのまえ
いしばしさな(小1)

汗拭う我が足下で犬休む
米地隼介(中1)

 「吟行」なんて言葉は初めて知ったに違いないが、サロンのアンケートに「ぎん行が楽しかったです」と書いてくれた子もいた。日本語で「薫風」と書かれた石碑を見つけ、季語と知って早速俳句に詠んだ子もいた。たった10人、たった2時間のために、大変多くの方の力を貸して頂き、多くの時間を割いた。でも、それでいいと思う。課題はまだまだあるが、次回に向けて進んでいかなければとあれこれ思案している。


鉛筆の太さこの子の汗の手に イーブン美奈子



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【タイ便り、イーブン美奈子さんより】

「漱石の一句」(九) 関根千方

平成26年、漱石から子規へ送った手紙があらたに発見されたというニュースがありました。手紙の日付は明治30年8月23日。さらに、その中に未発表の俳句が二句ありました。

禅寺や只秋立つと聞くからに
京に二日また鎌倉の秋を憶ふ


二句目は鎌倉で療養中だった妻への思いを詠んだ句です。この年の6月、漱石は実父が亡くなったため、鏡子と東京に戻ります。その長旅のせいで鏡子は流産します。鏡子はそのため鎌倉で療養しました。「また」というのは、漱石自身がその3年前である明治27年、神経衰弱に苦しむ自身の療養のため鎌倉円覚寺に参禅しているからです。

明治27年というと、5月に北村透谷が自殺し、8月に子規も従軍した日清戦争が起った年です。西暦にすると1894年。この世紀末から新世紀に変わる数年間、漱石の人生はたいへんなスピードで動きます。句の背後を知る意味でも、子規との関係と一緒に少し年譜をたどってみます。

明治27年(1894年)
12月、鎌倉円覚寺に参禅。

明治28年(1895年)
1月、根津の子規庵で句会に参加。
4月、東京を去り、松山へ赴任。
同月、子規の従弟で、漱石の教え子でもある藤野古白が自殺。
5月、神戸で子規が喀血し倒れる。
8月、療養のため子規が松山にもどり、漱石の下宿先(愚陀仏庵)に移り住む。
10月、子規が東京に戻る。
同月、子規へ句稿を送る(5句)
同月、子規へ句稿を送る(46句)
同月、子規へ句稿を送る(42句)
11月、子規へ句稿を送る(50句)
同月、子規へ句稿を送る(18句)
同月、子規へ句稿を送る(47句)
同月、子規へ句稿を送る(69句)
12月、東京に戻り鏡子と見合い、婚約。
同月、子規へ句稿を送る(41句)
同月、子規へ句稿を送る(61句)

明治29年(1896年)
1月、子規へ句稿を送る(40句)
同月、子規へ句稿を送る(20句)
3月、子規へ句稿を送る(101句)
同月、子規へ句稿を送る(27句)
同月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、熊本に赴任。
6月、鏡子と結婚、式を挙げる。
7月、子規へ句稿を送る(40句)
8月、子規へ句稿を送る(30句)
9月、子規へ句稿を送る(40句)
10月、子規へ句稿を送る(16句)
同月、子規へ句稿を送る(15句)
11月、子規へ句稿を送る(28句)
12月、子規へ句稿を送る(62句)

明治30年(1897年)
1月、柳原極堂が松山で「ほとヽぎす」を創刊。
同月、子規へ句稿を送る(22句)
2月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、子規『俳人蕪村』を発表。
5月、子規『古白遺稿』を刊行。
同月、子規へ句稿を送る(61句)
6月、実父(直克)逝去。鏡子流産。
8月、鏡子が療養する鎌倉別荘へ行く。
10月、子規へ句稿を送る(39句)
12月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、正月まで小天温泉へ旅する。『草枕』の題材となる。

明治31年(1898年)
1月、子規へ句稿を送る(30句)
2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
5月、子規へ句稿を送る(20句)
9月、子規へ句稿を送る(20句)
10月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

明治32年(1899年)
1月、子規へ句稿を送る(75句)
同月、子規『俳諧大要』を発表。
2月、子規へ句稿を送る(105句)
5月、長女(筆子)誕生。
9月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、阿蘇登山。
10月、子規へ句稿を送る(29句)

明治33年(1900年)
1月、子規「叙事文」にて、写生文を提唱。
7月、英国留学の準備のため帰京。
8月、子規を訪問する。
9月、子規「山会」を開催。
同月、英国へ出発。

愚陀仏庵を子規が去ってから、漱石はまるで俳句によって病を癒すかのような勢いで大量の句を作っては、子規へ送り続けています。むしろ、俳句という病にかかったかのようでもあります。ところが、明治32年、長女・筆子の誕生以降、句作の量が激減し、子規への句稿もその年末でストップします。翌年は年間19句しか遺していません。子どもの誕生が漱石の病を軽減したのか、まるで俳句を作りながら新しい命を求めていたかのようにすら思えます。

ところで明治30年の2月、子規へ送った句稿の中に不思議な句があります。


菫程な小さき人に生れたし


菫のような可愛さにあこがれる女性の句と思う人もいるようですが、まぎれもなく、夏目漱石の句です。

この句は有名な句なので、今更付け足すまでもなく、すでに解釈がなされています。やはり、熊本時代の句であるだけに、熊本を舞台にした小説『草枕』(明治39年)の世界とつなげて、面倒な人の世を離れて、ひっそりと菫のように生きたいという気持ちと解されることが多いと思います。

また「菫程な小さき人」という表現は、明治41年の作品『文鳥』に再び現れます。『文鳥』は小説とも随筆とも日記とも言えないような小品(写生文)です。漱石は、教え子の鈴木三重吉のすすめで、文鳥を飼います。その文鳥が、このように書かれています。

《文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いているような気がする。》(明治41年『文鳥』)

ここからこの一説をもとに菫の句を解釈されることもあります。例えば、詩人の清水哲男はこう評しています。《人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんな風な人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう》。たしかに「累々と徳孤ならずの蜜柑かな」(明治29年)の蜜柑しかり、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」(明治30年)の木瓜の花しかり、この句は菫に自己の理想を詠んでいることは、疑いようがありません。

いずれにしても、先ほどの『草枕』の隠遁詩人の世界からつながる解釈です。ただ、先ほどの年譜を見ると、この句を詠んだとき、漱石は結婚したばかりであることがわかります。このときの漱石の心を思うと、下五の「生れたし」は自分自身のことでもあると同時に、これから生まれてくるであろう誰か、つまり、未来の子どもに向かって自身の理想を投げかけているようにも聞こえてきます。

なぜなら「生れたし」と言って、生まれたいと思っているのは作者ですが、作者は既に生まれてしまっているわけです。もし、生まれるのが自分ではない他者である場合、この「生れたし」は「生まれてほしい」という意味にもなります。もちろん、もし生まれ変われるなら、という隠れた気持ちを読みとれば作者自身のことになるわけですが。五七五だけなら、どちらの読みも可能です。

もし、明治30年に妻・鏡子が流産せずに子どもが生まれていたら、この菫の句は子ども向かって詠んだ句として解釈されていたかもしれません。


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参考:明治30年の子規の句に「送漱石」と前書きのある句があります。
萩芒来年逢んさりながら
萩が咲き芒が咲く来年の秋にまた会おう。自分は病床におり、どうなるかわからないがという気持を込めた「さりながら」です。

*漱石は『草枕』の中で菫について、こんな風に書いています。
《日本の菫は眠っている感じである。「天来の奇想のように」と形容した西人の句はとうていあてはまるまい。こう思う途端とたんに余の足はとまった。足がとまれば、厭になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民を乞食と間違えて、掏摸(すり)の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。
 余は草を茵(しとね)に太平の尻をそろりと卸した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦も未練もない代りには、人に因って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎や三井を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観を無辺際に樹立している。天下の羣小(ぐんしょう)を麾(さしまね)いで、いたずらにタイモンの憤を招くよりは、蘭を九畹(えん)に滋(ま)き、蕙(けい)を百畦に樹えて、独りその裏に起臥する方が遥かに得策である。余は公平と云い無私と云う。さほど大事なものならば、日に千人の小賊を戮(りく)して、満圃の草花を彼らの屍に培養うがよかろう。
 何だか考が理に落ちていっこうつまらなくなった。》(『草枕』)



【漱石の一句、関根千方さんより】

「子規の一句」(九) 岡崎陽市


和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男  子規
 
 
明治33年の作。
この年、子規は満33歳。
みずからを詠んだ句だろう。「自画像」だ。
 
和歌に、俳句に、心血をそそいでやってきたという子規の自負が感じとれる。
 
これが子規の句ではなく他の誰かの句なら、真実味は薄れるかもしれない。
 
誰が詠んだ句なのかということは、作品本位という考え方からいえば重視すべきではないかもしれない。だが、誰が詠んだ句なのかを知ることによって、句の味わいがまったく違ってくることもある。
 
この句はまさしくそうした句だと思う。
 
 
 
子規の俳句に関する知識は膨大だったようで、生涯にわたってまとめつづけた俳句分類集には、室町時代から江戸時代末期までの約10万句が記されているという。
 
俳句を大きく前に進めようと志すなら、本当の意味で何が新しいのか、何が可能性と真実を秘めているのかを、誤らず見極めることも重要だ。
 
子規の積み重ねた知識は、そのために充分なものだったのだろう。
 
 
ちなみに子規が遺した句は、約2万4千句だそう。
 
創作期間を約20年とすると、1年で1200句ほど詠み遺していることになる。これもまた俳句に痩せる思いだ。
 
筆者の1年間の「古志」への投句数は96句。
そのために詠んでいる句が400句ほど。
 
子規の半分も詠んでいないことになる。
 
俳句誌に安住しすぎず、師の選句に頼りすぎす、自分でどれだけ俳句に痩せる思いができるか、それも重要かもしれない。
 
 
子規の年表には、明治33年「新聞日本に『叙事文』を連載、写生文を提唱」。明治34年「新聞日本に『墨汁一滴」』を連載」とある。
 
明治33年、34年の句。以下にも惹かれました。
 

新年の白紙綴ぢたる句帖哉
仏を話す土筆の袴剥ぎながら
鐘の音の輪をなして来る夜長哉
筆ちびてかすれし冬の日記哉
春の日や病牀にして絵の稽古


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参照② 写生文|Wikipedia 

【子規の一句、岡崎陽市さんより】

「漱石の一句」(八) 関根千方

明治43年8月26日、漱石は療養中の伊豆で大量の血を吐き、危篤状態に陥ります。数日生死をさまよい、一命を取り留めます。これが世に「修善寺の大患」と呼ばれる事件です。このときのことは、翌年4月に発表された随筆『思い出す事など』に書き記されています。 

『思い出す事など』は随筆ですが、ところどころに俳句や漢詩が挿し込まれています。それらはみな危篤状態から意識を取り戻してまだまもないころにできた句であり、詩です。以前、ロンドン滞在中、神経衰弱に陥った状態でも、子規の訃報に対して句を詠んだと述べましたが、漱石は自分が生死の淵をさまよっているときでも句を詠み、詩を詠みます。病によって不自由な状態にある時のほうが、自由に詠めると言います。
 
《ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑な春がその間から湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄の如何はまず措いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然と漲なぎり浮かんだ天来の彩紋である。吾ともなく興の起るのがすでに嬉しい、その興を捉えて横に咬み竪に砕いて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない趣を判然と眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる遑さえない。》(『思い出す事など』) 

まるで『草枕』の一説にでもありそうな一文です。そして、このような心持ちを忘れないうちに書きとめようとしたのが、この随筆『思い出す事など』であり、そこに句や詩を挟むのは、その善し悪しとは関係なく、ただこのときの心のありようを伝えたいからなのだと言うのです。 

ロンドンから帰国した漱石は大いなる心の傷を癒すかに『草枕』を書きましたが、この『思い出す事など』という随筆とその中に散らばっている俳句と詩は、胃の傷を癒したと言えるかもしれません。 

そこで、私が思い出すのは、小林秀雄のこんな言葉です。 

《確かに生の経験の内にリアリティを一番強く感じる、だけどそれはあまり生々しすぎるのじゃないでしょうか。だから創作があるのでしょう。創作はいつでも一つのフォーム(形)を取る。その形に、その生の経験を仕立て上げなければならない。創作の喜びというのは、その経験を形に仕立て上げる喜びです。その喜びは人のためではない、自分で自分の経験を整理したいという要求なのです。「生の経験」といい、「生だ、生だ」と言うけれど、本当は誰もこれについての自覚を持たぬ。経験を味わってみないものです。》(「経験と創作」) 

どんな経験であれ、それが生きた経験として味わえるようになるには、形がいる。経験の生々しさに形が与えられるまでの時間、おそらく、漱石はこの「経験を形に仕立て上げる喜び」を大いに感じていたはずです。 

なので、今回はあまり句そのものについて、あれこれ分析しても仕方がありません(今回に限らず漱石の句はその善し悪しを云々しても仕方がないものばかりですが)。ただ、漱石の心のありようを見ていきたいと思います。 


秋の江に打ち込む杭の響かな 


澄んだ秋空に杭の音が響き渡る。意識を取り戻して十日ばかりしたとき、漱石は何度かこんな感覚に見舞われたそうです。 


別るるや夢一筋の天の川


見舞いに来た東洋城と別れるとき、夢うつつの中でできた句。漱石は《風流のうちでも、ここにあげた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた》と書いています。 


秋風や唐紅の咽喉仏 


実況のように口に浮かんだ句。漱石は胃潰瘍の悪化により、大喀血をして意識を失いました。 


朝寒や生きたる骨を動かさず 


意識を取り戻して、明朝、貧血のせいでしょうが、自分の腕が持ち主を失ったように動かなかったと書いています。 


腸に春滴るや粥の味 


しばらく葛湯や重湯など不味いものしか食べられないとき、漱石は立派な食事を想像でこしらえたと書いています。やっと許された粥のうまさ。「沁みる」ではなく「滴る」とするところが、漱石の胃袋の状態を現しているようにも思えます。 


肩に来て人懐かしや赤蜻蛉 


この句は「人よりも空、語よりも黙」という言葉の後に書かれています。直前に《自然を懐かしいと思っていた》と書いていますから、意識(自分)と自然(赤蜻蛉)の関係を反転させて詠んでいるのでしょう。一度死に、そして生き返って仰ぐ秋の空。赤蜻蛉が生々しい。

以下は、漱石が同時期に手帳に書き残した句です。


秋風やひゞの入りたる胃の袋
逝く人に留まる人に来る雁
生残る吾恥かしや鬢の霜
生き返るわれ嬉しさよ菊の酒
生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
朝寒も夜寒も人の情かな
ぶら下る蜘蛛の糸こそ冷やかに


かろうじてこの世に生き延びた漱石は、その翌年から年一作のスピードで『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『明暗』(未完)と書き上げていきます。晩年といっていい数年ですが、生かされた命をすべて文学に注ぎ込みました。何かに書かされるかのように。


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*漱石はこの随筆の中でドストエフスキーの話をしています。修善寺の大患以後の漱石の文学に、実はドストエフスキーが大きな影響を与えていると言われています(たとえば『明暗』の小林のような登場人物)。漱石は、死刑宣告を受けていながら、死刑台の上で死を免れたドストエフスキーと自分を結びつけているわけですが、この話の裏にあるのは「大逆事件」です。大逆事件は修善寺の大患と同年に起きます。漱石は直接的な言及をしていませんが、「イズムの功過」のような講演に、イズムに盲目的に支配されることに対して批判的な主張をしています。ただし幸徳秋水や大石誠之助のように冤罪で死刑になったものがいます。漱石の博士号辞退は、幸徳処刑の一ヶ月後の出来事であり、そこになんらかの関係がありそうな気もしてきます。

【漱石の一句、関根千方さんより】

「子規の一句」(八) 岡崎陽市

正岡子規の誕生日は、1867年(慶応3)10月14日。
命日は、1902年(明治35)9月19日。
 
子規の生涯はわずか34年だった。
 
以前どこかで読んだ記事が、いまも頭に残っている。
 
それは、「子規は若くして、志なかばで亡くなったのであり、遺した俳句については十分に成熟したものといえるかどうか」といった内容の記事だった。その上で俳句革新運動や文筆などの業績を讃えていた。
 
子規は、年齢でいえばいよいよこれからというときに亡くなった。が、それが天命だった。
 
長生きも芸の一つと聞いたことがあるが、人の一生とはつくづくわからないものだ。
 
 
 
妹に七夕星を教へけり 子規
 
 
明治32年の作。
この年、子規は満32歳。
七夕は初秋の季語。
 
七夕の夜。兄が妹に織姫と彦星の二つ星を教えながら、その物語について語っている。しずかに夜がふけてゆく。
 
子規の妹は、正岡律。
子規を献身的に看病したようだ。
 
そんな妹の将来を思い案じながら、子規は二つ星を教えたのだろう。
 
この句は子規と律の句であると同時に、すべての兄と妹の句でもある。
 
妹のしあわせを願う兄。兄をしたう妹。そうした兄妹像が、七夕の夜の星空を背景に浮かびあがってくる。
 
一枚の絵画として描きあらわしても美しいことだろう。
 
子規は病苦から、折々、律に厳しくあたったといわれているが、この句にあらわれているような優しさが子規の根底にあったからこそ、律は献身的な看病をつづけられたのかもしれない。
 
 
律は子規の死後、正岡家の家督を継ぎ、後年、財団法人子規庵保存会初代理事長を努めたという。
 
1941年(昭和16)5月24日、満70歳で亡くなっている。
 
一生には限りがあるが、人は一人で生きているのではない。
子規の遺志は、律をはじめ多くの人々によって引き継がれ、現在に至っている。
 
 
子規の明治31年の年表には、「新聞日本に『歌よみに与ふる書』を連載。」とある。
 
明治31年、32年の句。以下にも惹かれました。
 

昼寝する人も見えけり須磨の里
月さすや碁をうつ人のうしろ迄
朝顔にあさつての莟多き哉
紙ににじむ秋海棠の絵の具哉
遣羽子の風に上手を尽しけり


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参照① 七夕|季語 
参照② 正岡律|Wikipedia 


【子規の一句、岡崎陽市さんより】

第十一回古志青年部ネット句会(2017年秋)報告

第十一回古志青年部ネット句会(2017年秋)を行いました。

三句出句三句選、席題(相撲・蜩・檸檬)。
古志青年部員14名が参加。 

以下、大谷主宰の入選句です(一部お直しがあります)。


特選句
かなかなや五右衛門風呂を焚きくれし 藤原智子
どんと来てどんと受けたる相撲かな 藤原智子
広島は大きな日向檸檬生る 高角みつこ

入選句
はつけよい無敵の父のその昔 田村史生
山といふ山かなかなのしぐれゆく 田村史生
山人は相撲に勝つて又山へ 関根千方
とびとびの棘匂ひけり檸檬の木 金澤諒和
氏神の手足となつて相撲せん 石塚直子
気に入らぬ世に齧りつく檸檬かな イーブン美奈子
良き風に足をとられて負相撲 辻奈央子



大谷主宰は総評で、
特選で頂いた句は、いずれもめでたい句です。
「向日性」をいつも句作の柱においておきたいものです。

   どんと来てどんと受けたる相撲かな
この句のような姿勢が句作においても大事だと思います。
と書いておられました。
これを、自分の「句作の柱」とするとともに、自分の生き方の柱とし、自分という「人間を磨い」て成長していきたい。

石塚直子

※次回のネット句会は、2017年12月に行います。

猫笑ふやうに伸びして秋日和 イーブン美奈子

 リトマス試験紙というものがある。酸性なら赤、アルカリ性なら青に変わる、あれだ。紫陽花も土壌のpH度によって花の色が変わるというが、タイには、この性質を利用した面白い飲み物がある。「アンチャンマナーオ」である。
 アンチャンとは花の名で、和名を蝶豆(チョウマメ)、英名Butterfly Peaという。マメ科の蔓植物。大変よく見かける花で、何の手入れもしていない垣根にも平気で巻きつく。花色は主に濃紺だが、紫や、稀に白、ピンクもある。

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 マナーオとは、ライムのこと。タイでは料理の酸味にレモンではなく、このマナーオを使う。トムヤムクンのスープが酸っぱいのもマナーオの汁による。
 ドリンクのアンチャンマナーオは、アンチャンの花を煮詰め、濾した濃紺の汁にシロップを加え、氷などで薄めて作る。色はもちろん、きれいなブルー。見た目も涼やかだ。そこにマナーオを垂らすと、瞬時に赤紫色に変わる。まるで魔法をかけたようで楽しい。からくりは、もうお分かりだと思うので、割愛。花自体に味や香りはあまりないが、酸味が中和されるためか、ただのライムジュースより飲みやすい感じがする。

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 アンチャンの花は食紅ならぬ「食青」ともいうべきもので、ゼリーや砂糖菓子、お餅など、様々な菓子に使う。米をアンチャンで染めた青いご飯まである。知らなければぎょっとしてしまうような青色だが、天然素材なので安心してよい。食に涼感を求めるのは、熱帯ならでは。また、アンチャンの花には、アントシアニンという抗酸化物質が多く含まれ、目の疲れを癒すなどの効能もあるそうだ。
 この成分は、石鹸やシャンプーにも使われる。アンチャンシャンプーの愛好者によると「髪が太く抜けにくくなりました」とのこと。製品はスーパーマーケットでも簡単に入手できるので、タイ旅行のお土産にいいかも知れない。
 
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猫笑ふやうに伸びして秋日和 イーブン美奈子


【タイ便り、イーブン美奈子さんより】

「漱石の一句」(七) 関根千方

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明治34年9月、子規が死んだとき、漱石はロンドンにいました。11月になって子規の訃報を知らせる虚子の手紙が届きます。漱石は子規追悼文を返送しますが、そこに「倫敦にて子規の訃報を聞きて」と前書きをした句が詠まれています。


筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
招かざる薄に帰り来る人ぞ


末尾に「皆蕪雑(ぶざつ)句をなさず」とあり、漱石の動揺ぶりが伺えます。当時、漱石は神経衰弱、今でいう鬱病を発症していました。この時ちょうど、文部省から命じられて12月に帰国するところでした。

そんなぎりぎりの精神状態の中であったにも関わらず、漱石は手紙に俳句を詠むわけです。まず、そのことに驚かされます。これは単なる「創作意欲」などというものではないし、「義理人情」という言葉でも軽いものがあります。どんな状態にあっても、死者となった人生最大の友を悼む、純粋な力が俳句を詠ませるのだと思います。

そして、もう一つ驚かされるのは、漱石がたとえ最悪の精神状態であっても、句が詠めるだけの力を身につけていたということです。

話は少し変わりますが、先日、身近な人の死をテーマに俳句を詠まれた方(Aさん)から、気になる質問を受けました。「この連作、ぜんぶフィクションだったらどうですか?」と。その方は俳句の創作過程で「これはフィクションでも作れる」と思ったそうなのです。

これは私にとって、俳句における虚実の問題をあらためて考えさせられた出来事でした。このとき、私は「おそらく句の評価が変わらないと思いますが、句を作った人間の評価は変わると思います」と答えました。しかし、そう答えながらも、どこかしっくり来ず、気になるものが残りました。

たしかに、自分の経験したことでなければ句が詠めないわけではありません。王朝時代の歌も、行ったことのない場所を詠んだり、してもいない恋を詠んだりすることは普通でした。いまでも連句を巻くときなどは、経験を離れて、時代や場所を越え、年齢や性差も越えて、自由な想像だけで句を詠みます。Aさんが「フィクションでも作れる」と思ったのは、考えてみれば当然です。

フィクションは偽り(False)ということではありません。むしろ、想像力によって創作されるものは、すべてフィクションです。真偽については括弧に入れる。善悪や美醜、聖俗などについても、実は同様に括弧に入れます。俳句は創作である以上、事実の報告ではないし、また完全な絵空事でもない。


猿を聞人捨子に秋の風いかに (野ざらし紀行)


上五の「猿を聞人」は、猿の鳴き声に涙した詩人・杜甫のことです。杜甫は、子どもをとられて鳴く母猿の腸がずたずたにだったという故事(「断腸」の語源)をふまえた詩を「秋興八首」の中にのこしています。芭蕉は、捨て子に《袂より喰物なげてとをる》、つまり食べ物を投げてやっただけでそのまま見捨て行ったと書いています。しかし、この捨て子が実際にいたのかどうかは、さだかではありません。

一家に遊女も寝たり萩と月  (奥の細道)


この芭蕉の句も実際の出来事なのかどうなのか、よく語られますが、現実か否かはっきりしません。むしろ、実際の出来事なのか、フィクションなのかが問われるようになったのは、近代以降といっていいと思います。

柳田国男は「故郷七十年」のなかで、若いときに作詩、作歌の題詠の稽古をしたことが、一種の情操教育となったと述べています。つまり、実際の恋を知らないうちに、恋の歌の詠み方を教養として身につけたということです。

そして過去を振り返ってみて、《ロマンチックなフィクションで、自分で空想して何の恋の歌でも詠める》という側と《自分の経験したことでなければ詠めない》あるいは《ありのままのことを書く真摯が文学だ》という側との二つの対立を経験したと書いています。

では、漱石はどうだったか。漱石はどちらにも与せず、調和すべきと論じました。

《かくして人心の向上に念がある以上、永久にローマン主義の存続を認むると共に、総ての真に価値を発見する自然主義もまた充分なる生命を存して、この二者の調和が今後の重なる傾向となるべきものと思うのであります。》(教育と文芸)

漱石がこだわったのは、そもそも「文学とは何か」という問題でした。ロマン主義であれ自然主義であれ、それが文学であるならば、そこには同様に立脚すべき何かがなければならないと考えていました。この「文学とは何か」という問いに正面から向き合い(『文学論』)、そして行き詰まったあと、漱石が見出したものは「自己本位」ということでした。

漱石は大正3年、東京高等工業学校の学生たちへの講演で、科学者と文学者の違いについて、こんなことを言っています。 

《あなた(工業学校の学生)の方では技術と自然の間に何ら矛盾はない。しかし私どもの方には矛盾がある。即ちごまかしが効くのです。悲しくもないのに泣いたり、嬉しくもないのに笑ったり、腹も立たないのに怒ったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとするので――これはある程度まで成功します。これは一種のartである。(中略)かくartは恐ろしい。われわれにとっては、artは二の次で、人格が第一なのです。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心にして考えるということです。一口にいえば、文芸家の仕事の本体即ちessenceは人間であって、他のものは付属品装飾である。》

虚実や真偽といった対立だけではありません。内容と形式であれ、オリジナルと模倣であれ、どちらかがあればいいわけではない。両方にいい面と悪い面があるのは当然です。漱石にとって、それらは二次的な付属品であり、重要なのは、自己という人間に立脚することでした。それは現代を生きる我々にとっても、少しも変わらぬ問題のように思えてなりません。

*:正岡子規も『俳諧大要』のなかで、こんなことも言っています。
《空想と写実を合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず、空想に偏璧し写実に拘泥するものはもとよりその至る者に非るなり》(正岡子規『俳諧大要』)


【漱石の一句、関根千方さんより】

「子規の一句」(七) 岡崎陽市

先月8月19日(土)・20日(日)に、
愛媛県松山市で第20回「俳句甲子園」が開催された。
 
子規・漱石生誕150年記念大会でもあったようだ。
 
今年の優勝は、開成高校。
準優勝は、愛知県立幸田高校。
 
最優秀句は、開成高校・岩田奎さんの句、
 
「 旅いつも雲に抜かれて大花野 」
 
開成高校の優勝は、今回で通算10回目。
 
市内大街道商店街で開会式・予選などが行なわれる大会初日は、松山の夏の風物詩となっている。
 
雨で順延となっていた松山市三津浜花火大会も、20日(日)の夜に開催された。すぎゆく夏を惜しむかように、11000発の花火が夜空をいろどった。
 
 
すでに歴史ある大会となっている俳句甲子園。
 
今年で第20回ということは、今回参加した高校生たちが生まれる前から開催されている俳句大会ということになる。
 
当然なのかもしれないが、若手の俊才も多く輩出している。
俳句の新時代をひらいていくであろう方々。
 
古志青年部部長・石塚直子さんも、下館第一高校のメンバーとして第8回大会で準優勝。今後もご活躍が期待される一人だ。
 

 
 
心清ししばらく蝿もよりつかず   子規
 
 
明治30年の作。
清談と前書きがある。
蝿は三夏の季語。
 
心が清らかに澄んでいる。身体から発せられるそうした気配をかんじとって、しばらくは蝿もよりつくまい。
 
清談は、世俗的ではない趣味・芸術・学問の話のこととある。
 
文学について仲間と語りあっているのだろう。そしてその興奮がさめたころには、しんと澄みきった心持ちになる。
 
ご経験のある方もおられるのではないかと思う。
 
この句は、そうした目には見えない心持ちを、目に見えるように詠んである。
 
心清らかに居ることを示すために、その逆の存在である蝿をもってきた。そこにこの句の巧みさを感じた。
 
くすっと笑ってしまうようなおかしみも含んでいる。
「しばらく」という措辞も的確で揺るがない。
 
この年、子規は満30歳。
若い仲間たちが集まっての清談だったなら、みな理想に目をかがやかせていたことだろう。
 
 
年表には「松山で、俳句雑誌ほととぎすが創刊される。12月24日、子規庵で第1回蕪村忌。」とある。
 
明治30年の句。以下にも惹かれました。
 

一つ落ちて二つ落ちたる椿哉
団扇出して先づ問ふ加賀は能登は如何
枕もとに長命菊のさかりかな
わが物も昔になりぬ土用干
朝顔のさまざまの色を尽す哉


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参照②  蠅|季語 


【子規の一句、岡崎陽市さんより】

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