古志青年部

古志青年部は、「古志」俳句会の50歳未満の会員からなります。

【新連載スタート!】市川きつねさん「新潟便り」

今月から、古志青年部の市川きつねさんによる「新潟便り」の連載が始まります。
偶数月15日掲載予定です。みなさま乞うご期待ください!
「タイ便り」「北海道便り」「奈良便り」と合わせて応援よろしくお願いします。


石塚直子


好きに入り好きに出てきて寺涼し イーブン美奈子

『カーンカーウ・キン・クルワイ』というタイの伝統曲がある。よく知られた軽快な曲で、多くはラナートという木琴で演奏される。カーンカーウは「蝙蝠」、キンは「食べる」、クルワイは「バナナ」の意味だが、蝙蝠がバナナを食べているわけではなく、英名Banana Batというヘラコウモリの一種がいるのだそうだ。鼻が長く、ちょっと不細工。花の蜜や花粉を食べるらしい。

世界には非常に多種の蝙蝠がおり、1000種類とも1200種類を超えるともいわれる。タイ国内では少なくとも138種が確認されている(国立チュラーロンコーン大学の2011年のデータによる)。残念ながら、曲に登場するカーンカーウ・キン・クルワイ(Banana Bat)は現在のタイでは見られないようだ。

私にとって馴染み深いのは、洞窟に棲む小型の蝙蝠だ。名所の一つにワット・カウチョンプラーンという寺院があり、西部ラーチャブリー県に所在する。裏山に洞窟があり、日が暮れると何百万いや何千万という蝙蝠が飛び出してくる。夫の実家から車でほんの15分ほどなのだが、何度見に行っても飽きない。見物する場合は、日没前から待機しておくのがいい。時間が来ると、山の一か所から蝙蝠の群れが噴き出すように現れ、瞬く間に黒い帯ができる。蝙蝠たちの大河が蛇行しながら夕空を流れていくさまはなんとも言えない感動を呼ぶ。洞窟の蝙蝠が全て外に出るまで優に2時間はかかるそうだ。カーンカーウ・パーク・ヨンというオヒキコウモリの仲間だという。

他に、フルーツバットと呼ばれるオオコウモリの名所もある。これも古刹で、たとえばチャチューンサオ県のワット・ポー・バーンクラー。境内の木に大きな木の実のようにぶら下がる。この種の蝙蝠が中国や他の東南アジア諸国で食用にされているのだが、タイではあまり聞かない。そもそも寺の蝙蝠なんか食べたらばちが当たりそうでもある。近頃では、食用蝙蝠は新型コロナウイルスをヒトに感染させたと目の敵にされているが、遠巻きに眺めている分には害もなく、至ってのどかなものである。

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ワット・カウチョンプラーンにて。空の黒い帯が蝙蝠の群れである。





好きに入り好きに出てきて寺涼し イーブン美奈子





【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


ふたかみも滴る頃ぞ蓮華会式 田村史生

先日、朝日新聞の読書欄に、文芸評論家の斎藤美奈子さんが「関西の人は定型句のように、奈良には何もないよというけれど、全国的に見れば、そこはやっぱり古代ロマンに彩られたあこがれの地だ」と嬉しいことを書かれていた。そして、「シルクロードを通じて大陸とつながり、考古学や神話を介して時間も超える奈良には、人の心も自由にする力があるのかもしれない。ゆえに奈良には奇譚が似合う。」と続けられ、その極北ともいうべき小説として、折口信夫(釈迢空)の「死者の書」を紹介されていた。然り然り!

「死者の書」は、二上山に眠る古代史の悲劇のヒーロー大津皇子と、當麻寺の至宝當麻曼荼羅を一夜で織り上げたという中将姫、この奈良を代表する(!)二つの伝説にまつわる幻想小説である。

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二上山は、奈良県香芝市と大阪府南河内郡にまたがり、雄岳と雌岳二つの山頂が並ぶ美しい山である。奈良側からは西方に位置し、夕日が沈む場所として古くから信仰の対象とされ、春分の日と秋分の日には、ちょうど雄岳と雌岳の間に夕日が沈むことで知られている。

大津皇子は、天武天皇を父、大田皇女を母に持ち、文武両道に秀でたうえにその人柄から人気があり、それ故皇位継承のライバルである異母兄の草壁皇子とその母である持統天皇により、謀反の罪で自殺に追い込まれたと言われ、その墓が二上山雄岳にある。何故大津皇子が二上山に葬られたかは謎であるが、太陽の沈む西には死者の世界があり、その結界の守りとするためという説もあるらしい。姉の大伯皇女が弟を偲んで詠んだ歌「うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む」が、万葉集に残されている。

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當麻寺は、奈良県葛城市、二上山の麓に伽藍が広がる612年創建の古寺である。天平時代の東西両塔が創建当時のまま残っており、また日本最古の梵鐘や石燈籠も名高い。本尊である国宝綴織(つづれおり)當麻曼荼羅は、およそ4メートル四方のタペストリーに、極楽浄土が描かれていて、1250年前に現れた奇跡の曼荼羅として尊ばれてきた。毎年、中将姫の命日である4月14日には當麻練供養(ねりくよう)が、曼荼羅が織り上げられた7月22日夜と23日朝には蓮華会式(れんげえしき)が営まれる。

中将姫は、奈良時代の貴族、藤原豊成の娘。美しく清らかな心を持つ女性であったが、実母の死後、継母に疎まれ、やがて當麻寺へ出家する。姫が極楽浄土への思いを募らせていると、阿弥陀如来と観音菩薩の化身が現れ、蓮糸で當麻曼荼羅を織り上げて極楽の姿を示したと言われる。そして、姫は阿弥陀如来の来迎を受けて無事極楽へ往生したという。中将姫の物語は、能や浄瑠璃、歌舞伎の演目となり、また、婦人薬「中将湯」を商品化した津村順天堂のかつてのシンボルマークとしても親しまれた。

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それにしても、この二つの伝説を、時空を超えた恋愛ものに仕立てあげてしまうとは、さすが折口信夫というべきか。「したしたした」「ほほきほほきいほほほきい」・・・おどろおどろしくも格調高い世界。これから暑い季節にはもってこいです。

折しも、7月16日より(8月28日まで)「中将姫と當麻曼荼羅―祈りが紡ぐ物語―」特別展が、奈良国立博物館で開催されますので、ご興味ある方は、「古代ロマンに彩られたあこがれの地」奈良へ是非!

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ふたかみも滴る頃ぞ蓮華会式 田村史生




【奈良便り、田村史生さんより】


弁慶の告白を聞く夏の雲 髙橋真樹子


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日本海へと迫り出した神威岬はエゾカンゾウの花咲く清々しい季節になった。「神威」とはアイヌ語で「神」の意。起伏に富んだ稜線が続く海岸には「義経北行伝説」にまつわる場所が数多く存在する。奥州衣川を逃れ蝦夷地に渡った義経と恋仲になったアイヌ首長の娘が荒波にのみこまれ怨念が岩となり、和人の女性を乗せた船が通るとこの娘を怒らせ海が大荒れになるとして江戸時代は岬一帯は女人禁制だった。今でも「女人禁制」と書かれた看板が立っている。本当は和人が岬から奥地へ定住してしまうとニシン漁を始めとした権益を損なうことを恐れた松前藩による規制だった。ニシン漁の働き手の多くはアイヌ文化の人々。和人との交易を続けているうちに松前藩から場所請負人として任された商人たちの支配下に置かれてしまっていた。

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北海道に「義経北行伝説」に関係する場所が100ヶ所以上あり、その多くはニシン漁の盛んだった日本海側に集中している。

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刀掛岩

弁慶が腰の刀が邪魔になり岬の岩をひねってかけたという「刀掛岩」、暖をとるために積んだ薪が化石化したと伝えられる「薪積岩」、義経を慰めるため弁慶がアイス文化の人々と相撲をした土俵跡。義経が残していった兜がそのまま岩になった泊村のカブト岬の兜岩等々・・・

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ここは弁慶岬。岬の先端が裂けた様になっており、この岩と岬の間を「ベルケイ」(裂けたところ)とアイヌ語で言ったのを和人が「ベンケイ」と訛ったという説がある。弁慶の舎弟である常陸坊海尊が義経再挙のために蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は常に岬に立ち援軍を待っていたのだとか。日本海側の「義経北行伝説」は荒々しく、力を誇示した言い伝えや義経とアイヌ首長の娘との恋の話が多い。これらの伝説は江戸時代初期、アイヌの英雄伝説を題材に作られたとも言われている。ニシン漁の働き手として多くのアイヌ文化の人々を支配するために義経を伝説の英雄に見立てるのは都合が良かったのだろう。弁慶が岩をもひねるとなれば抑止力にもなる。和人と対等に交易し互いの文化を尊重しあっていた頃と比べれば、アイヌ文化の人々にはとても生きにくい時代となってしまった。

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日本海を離れ恵庭市の西側、支笏洞爺国立公園から流れくるラルクマナイ川にある滝で昭和14年、大量の砂金が発見された。義経は牛若丸と呼ばれていた頃、金売吉次に伴われて京都から奥州へ下った。吉次は仕事で奥州の金を京まで運んでいた。義経の軍資金として吉次の持っていた黄金が密かに渡されていたのかも知れない。発見者は中に入っていた古文書を解読したともいわれているが今となっては不明である。

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弁慶洞  間口15m 奥行16m

十勝の本別町には「義経山」「静山」「源氏洞」そしてこの「弁慶洞」がある。「義経北行伝説」によると義経主従12人は蝦夷ヶ島に渡ってから10年ほど後、本別に辿り着いた。山や沢には葡萄やコクワの芳醇な香りが満ち、とりきれないほどのキノコがあって実りの豊かさにみな驚き喜び、ひと冬をこの洞窟で過ごした。「義経山」はアイヌ語で「サマイクル・サン」。人間の生活に必要な知恵を教える文化の神を指す。アイヌ神話によると、ある年「サマイクル」は12匹のオオカミを引き連れてこの山に住み着いた。狩りにはオオカミが供をする。「サマイクル」は「チョー、チョー」とオオカミを呼び集めたが、後にアイヌ文化の人々も犬を呼ぶときに同じ掛け声になったという。義経は家の建築、狩猟、農耕、道具の作り方などを教えたため「サマイクルカムイ」とも伝えられている。12匹のオオカミは義経の従者。義経の伝説は蝦夷ヶ島の奥地へと進んでゆくと以前紹介した平取町も含め、アイヌ文化の人々の生活の質を向上させる指導者、英雄、神とも伝えられる。内容は日本海側同様、アイヌの英雄伝説と御伽草子と類似した話が多い。

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「義経北行伝説」は江戸時代初期ににわかに書かれた伝説である。東北地方はその足跡を一本の道で繋ぐ事ができるが蝦夷ヶ島は点々に散らばる。行動経路を辿ることは難しい。義経が蝦夷ヶ島に渡ったとする伝説が生まれた背景には、幕府や松前藩が蝦夷を掌握するために「義経=オキクルミ」とアイヌ文化の人々に強制することで絶好の抑止力となった事だろう。アイヌ文化の祖先に狩猟や農耕を教えた神は400年以上時代を遡った和人の英雄だったことになる。だが義経が蝦夷ヶ島に渡ってきた頃は考古学上、北海道は擦文文化期。アイヌ文化の発生は鎌倉時代後半まで待たなければならないという矛盾は残ってしまう。狩猟や採集が主な生活の時代だったからこそ、義経が登場し農耕や家の作り方を教えたとしたら・・・。この伝説のパワーは現代も衰えていない。北海道を初めて走った蒸気機関車は「義経号」。日本海側の港町では義経や弁慶を冠したお祭りが現在も続いている。公園や食品のネーミングにもなっている。北海道にとって義経と弁慶は、いにしえと変わらず身近な存在である事に変わりない。




弁慶の告白を聞く夏の雲 髙橋真樹子




【北海道便り、髙橋真樹子さんより】


がさといふ蛇かはたまた物の怪か イーブン美奈子

 プラドゥーという木がある。高級家具用の硬材として、東南アジアに多く植えられている。日本では印度紫檀(インドシタン)、印度花梨(インドカリン)などと呼ばれる。

 バンコクでは街路樹にもなっている。3〜5月、山吹色の小さな花が木いっぱいに咲く。暑季のこの期間にしか咲かない。だが面白いのは、シーズン中“何度も”咲くことだ。蕾やら七分咲といった予兆はなく(素人目には)、ある朝いきなり景色が山吹色に変わっているという風情。昼頃からはらはらと散り、翌日にはすっかり落花してしまう。全く惜しげもない散りざまは見事としか言いようがない。これが何度も繰り返される。

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 今年、初めて花を見たのは3月11日だった。例年より少し早かった気がする。近所に何本もあるのだが、必ず同時に咲く。ソメイヨシノと同様、接木で殖やしたクローンなのかもしれない。

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 私にプラドゥーの木のことを教えてくれたのは、在タイ日本人の先輩だった。20年くらい前の話だ。「海軍の花」だという。ただ、一つ腑に落ちなかったのは「散り際が良いから、海軍の花になったんですよ」という説明だった。散り際? まるで旧日本軍の言いそうなことではないか。タイの海軍が「玉砕」をしたなんて話は聞いたことがない。

 タイ海軍の花に指定されていることはよく知られた事実である。公式ウェブサイトにも書かれているし、海軍の歌の中にも出てくる。一般のタイの人たちが言うには、「プラドゥーの幹のように強いから」または「プラドゥーの花が一斉に咲いて散るように、一致団結しているから」なのだそうだ。

 日本人の先輩が「散り際」云々とおっしゃったのはおそらく思い込みで、日本的なものの見方で解釈してしまったせいだろう。〈世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし〉〈散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき〉と、日本の人は散ることを惜しみ、散ることを美と感じる。だが、タイの人は咲くのも散るのも「みな一斉に」という点に美を感じるのだ。

 さて、このプラドゥーの花は散った後に円盤型の実をつける。面白いので一つ採ってきた。翼果(よくか)という種類の果実で、風に運ばれる。中には種が一個だけ入っている。

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がさといふ蛇かはたまた物の怪か イーブン美奈子



【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


みづいろの水ながれゆく皐月かな 田村史生


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十津川村は、奈良県最南部、紀伊半島の内陸部にあり、三重県・和歌山県と県境を接する、日本で一番広い村である。どれくらい広いかというと、琵琶湖よりも、東京23区よりも広く、日本一長い距離(八木〜新宮間を6時間)を路線バスが走っていることでも知られる。
 
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先日、絶好の気候に誘われて、久しぶりにこの村を訪れた。まず向かったのは、日本一長い生活用鉄線の吊り橋、谷瀬(たにぜ)の吊り橋である。十津川(熊野川)に架かるこの橋は、全長297m、幅は2m、高さは54mであり、地元の方はバイクや自転車でも渡るという。かつては通学路でもあったが、近所の小学校が廃校となってからは、主に渡るのは観光客らしく、20名以上は同時に橋に乗らないように、という注意書きがある。
 
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過去に2度ほど渡ったことがあるのだが、この日は風が強いせいか、かなり揺れる。怖い。一度あきらめて引返し、小さい子供が平気で渡ってる姿を見て、折角来たのだからと思い直し、再度チャレンジ。やはり揺れる。両側の手すりには手が届かないので、かぱかぱと外れそうにも感じる板の上を、ふらふらとバランスを取りながら歩くしかない。怖い怖い。前を行く家族連れは、子供たちがずんずん進み、その後をお母さんが、最後にやたらしゃべりながらお父さんが続く。明らかに、お父さんが一番怖がっている。途中で人とすれ違う際は、お互いに動けなくなってしまい、顔を見合わせて笑うしかない。いや、ちゃんと笑えているかどうかも分からない。怖い怖い怖い。渡り切ると、小さな売店が一軒あるだけで、すぐに引返すことになる。僕も含めて、観光客はただ渡るためだけにこの橋を渡るのだ!帰りは少し余裕が出てきて、すれ違う際にもちゃんとした笑顔ができるように思えた。たったの一往復で、かなりの達成感である。

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次に向かったのは、名勝瀞峡。一旦奈良を出て和歌山へ入り、畏れ多くも熊野本宮大社の前を素通りし、熊野川沿いを走って、また十津川村へ入ったところに、三重・奈良・和歌山の三県境を跨ぐ巨岩奇石の大峡谷、瀞峡の入り口がある。この時期は、特に新緑が美しい。そして、カヌーや遊覧船が行き交う川のすぐ側、切り立った崖の上に建つのが、築100年を越える瀞ホテルである。今はホテルは廃業しているが、カフェとして再開され、その立地と建物の風情から人気を博していて、この日も、既に予約が一杯で、入ることはできなかった。奈良市からここまで、車で3時間以上。十津川村の広さを実感しつつ、橋を渡るだけ、カフェで時間を過ごすだけで十分楽しめるというのは、何と贅沢なことか。不要不急とは豊かなことでもある、ということを改めて実感する。

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帰りは、十津川温泉郷に寄ってみる。十津川温泉郷は、温泉地温泉、十津川温泉、上湯温泉の三つの地域に分かれていて、こじんまりとした、まさに鄙びた温泉地であるが、全国で初めて「温泉かけ流し宣言」をしたというだけのことはあり、全ての温泉施設がお湯の循環や再利用を一切せず、沸かさず、消毒せず、薄めず、こんこんとかけ流しているというこだわりぶりである。僕が立ち寄った温泉地温泉の公衆浴場「滝の湯」は、その名のとおり、露天風呂のすぐ脇を滝が流れ落ちるという、これまた贅沢なものであった。ああ、気持ちいい。

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みづいろの水ながれゆく皐月かな 田村史生




【奈良便り、田村史生さんより】


この道を一歩ふみ出す麦の秋 髙橋真樹子

郭公が鳴き始めるとそろそろ畑仕事を始める頃。辛夷がたくさん咲く年は豊作。郷土誌に見つけた北海道での懐かしい言い伝え。
今年はものすごく雪は多かったし辛夷もこんもりと咲いた。あとは郭公が鳴くのを待つばかり。北国にもやっと春がきた。

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交易とは互いに品物と品物を交換し合うことによって取り引きをする事。西行や慈円は北海道を「えぞが千嶋」と和歌に詠んだ。陸奥の向こう側には「蝦夷」という動物や海獣の毛皮を交易品にする、自分達とは異なった人々が住んでいるという漠然とした捉え方が時代のトレンドだったのかも知れない。その後鎌倉時代に入ると本州の人々(和人)から「えぞが島」と呼ばれるようになった。和人が残した文書を元に文献史学で歴史を知る事ができる16世紀頃までを考古学から交易の様子を探り続けることにする。

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国土地理院地図より

「えぞが島」に和人と呼ばれる多くの集団が渡ってきたのは鎌倉時代以降とされている。当初和人勢力は道南と呼ばれる北海道南部の一部地域を基盤としていたが時が進むと奥地へも足を伸ばして行った。交易ルートとして石狩低地帯の水系は日本海側、太平洋側からと重要な役割を果たしていた。
和人は日本海側から石狩川を上り、流れの緩やかな千歳川へと船を進め、現在の恵庭市や千歳市に行き着いたのか、この辺りの遺跡からはたくさんの本州産の遺物が見つかっている。
川にはたくさんの鮭が上り、山で射止めるヒグマや鹿の皮はアイヌ文化期の人々にとっては大切な交易品。豊富に採れた地域だからこそ和人との交易も盛んに行われたのだろう。

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恵庭郷土資料館蔵

恵庭市ユカンボシ川近くのアイヌ文化期の墓には「腰刀」が副葬されていた。鞘にエイの皮が巻かれており、鎌倉時代から南北朝時代のものと推定される。恵庭市にある遺跡墓からは数多くの腰刀が出土し「キセル」や「鉄鍋」なども副葬されている。アイヌ文化の人々は製鉄の習慣がなかったから和人との交易品とされている。千歳市末広遺跡では伸展葬のアイヌ墓とは違う屈葬の墓が2つ見つかった。アイヌ文化の人々の村に根をおろした和人の商人夫婦と見られている。自分達の墓地にまったく異なる仏式の葬法で和人が葬られることを受け入れ、和人もアイヌ文化の人々との生活を享受していた様子がうかがえる。

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厚真町の宇隆1遺跡から出土した中世の常滑焼(厚真町軽舞遺跡調査整理事務所)

この壺は、奥州平泉で多く出土している常滑焼の広口壺と同様の性質を持つ。奥州藤原氏に関わる者たちが北海道に持ち込み、塚を作って埋めた可能性があるという。経塚に使われたものだ。経塚とは経文を書写して地中に埋めた塚。藤原氏の直轄地だった北上川流域から船に乗せ太平洋を北に上り、厚真川を利用して運ばれたと推測される。これが本当に経塚だとしたら。しきたりにのっとって埋めるのだから、そこには僧侶と信者がいて仏教を奉じる人々が少なからず定住していたことになる。仏教の布教が行われたと考えられるほど濃密な和人の営みがあったようだ。

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和人もアイヌ文化の人々も交易には川を巧みに利用した。地図下部の太平洋側「むかわ」町を流れる「鵡川」。川を上ると「占冠」(シムカップ)、現在のトマムリゾート辺りに出る。ここからは空知川の支流を経由して内陸の十勝へ、そして道北やオホーツクへと進んで行ける。道北のアイヌ文化の人々は「千島」や「カムチャッカ」「クナシリ」に移り住んだ集団もあり、北方のサハリンや大陸との交易を盛んに行っていたことが遺跡や遺物に見られる。違う言語を持つ同士交易の手法はどのようなものか。アイヌ文化の人々は北東アジア先住民と直接相手に接触する事なく物々交換を行う「沈黙交換」と呼ばれる奇妙な習俗もあったようだから形はさまざまだったのだろう。

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日本の歴史で室町期頃には道南の函館から松前にかけて定住する多くの和人により交易の様相も変化していった。若狭内浦字山中に昭和初期まで残されていた室町期の蝦夷地と若狭との交易を謡った唄で知ることができる。

商踊り(山中踊り)
皆一様にお並びやれ        皆一様にお並びやれ
若狭の浜より船に乗り        越前岬に使えたり
イヨ商踊りを一踊り          越前岬押し出して
加賀の湊へつかえたり        商踊りを一踊り一踊り

加賀の港を押し出して       じかんの市へとつかえたり
商踊りを一踊り一踊り        じかんの市も押し出して
夷が島へとつかえたり       商踊りを一踊り一踊り
夷が島では夷殿と         商元では何々と
唐の衣や唐糸や          じんやじやこうや、たかの羽や
商踊りを一踊り           よろつの商仕廻りて
いざ戻ろうよ、我が国へ      商踊りは是まで揃ふ

若狭の港町の活気と生き生きとした躍動感が伝わってくる。
「唐の衣」はアイヌ文化の人々が交易品としてアムール川下流の北東アジア先住民から手に入れたもの。以前ご紹介した「蝦夷錦」のことと思われる。道南に定住した和人はアイヌ文化の人々との交易で「唐の衣」を手に入れ蝦夷の地で日本海ルートの商人に売り渡し、若狭を通して日本全国に流通したことが読み取れる。「交易」と「商い」が混在した時期である。江戸時代に始まった「北前船」の原型は室町時代にすでにあったという事。小林一茶が句に詠んだ蝦夷産の「棒たら」「干鮭」は「北前船」によって全国へと流通していった。




この道を一歩ふみ出す麦の秋 髙橋真樹子




【北海道便り、髙橋真樹子さんより】


代る代る違ふ鳥来る彼岸かな イーブン美奈子

パイナップルはフィリピンで「ピーニャ(Pinya)」というそうだ。それで、ピニャ・コラーダの名前に合点がいった。ピニャ・コラーダは、パイナップルジュースとココナッツミルクをシェイクしたラム酒ベースのカクテルである。

だが、調べてみると、このカクテルの発祥の地はカリブ海のプエルトリコだった。名前はスペイン語で「裏ごししたパイナップル」の意味。スペイン語の「ピニャ(piña)」が遥かフィリピンに伝わったのだ。

なぜか。それは、フィリピンがかつてスペイン領だったからである。パイナップルはもともとフィリピンにはなく、17世紀、スペイン人により南米から持ち込まれたという。しかも、当時のパイナップルは果物ではなく、繊維の原料だった。フィリピンの布地「ピーニャ」は、パイナップルの葉の繊維から作られ、最高級の礼服に仕立てられるが、この繊維産業をスペイン人が植民地で始めたというのである。

さて、タイ農業振興局のホームページによると、タイには、フィリピンからやや遅れた1680〜1700年の間にパイナップルが伝来したそうだ。当時のタイはアユッタヤー王朝ナーラーイ王の時代であり、ポルトガルと通商が行われていた。最初に伝わった品種は、インタラチット種(Singapore Spanish)らしい。葉の繊維はタイでも利用されるが、フィリピンほど盛んではない。

現在、タイで栽培されている品種は、他にパッターウィア種(Smooth Cayenne)がある。日本での呼称はハワイ種など。タイには20世紀になって伝わった。また、マレーシアのペナン島経由で伝わった品種もあるそうで、プーケット種(Mauritius Pine)がそれである。

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私事だが、先日、コロナ禍の暇つぶしにパイナップルを丸ごと買って剥いてみることにした。上の写真は、シーラーチャーという品種で、プーケット種の中でも人気の産地ブランド。ずっしりと重いが、どうせ家にいるので食べ切れるだろうという目算だ。早速包丁を入れてみると、驚いたことに皮を剥くのが「非常に簡単」だった。昔のパイナップルは芯が固く、棘を取るのにも難儀した記憶があるのだが。

面白いので、今度は別の品種も買ってきた。次の写真はタイで生まれた新品種だが(上から順に、ティプコ・ホームスワン種、バーンカー種、プーレーチエンラーイ種)、どれも改良が進んでいる。甘みが増して酸味が減り、皮は薄くなり、芯は柔らかくなり、棘は浅くなっている。

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かつて、バンコクの和食屋ではデザートに決まって「西瓜とパイナップル」が出てきて、ちょっとがっかりしたものだった。この2つは、タイでは一年中収穫できる安価な果物だからだ。だが、大航海時代に遡る植民地の歴史が背景にあったとは、複雑な思いである。パイナップルごとき、では全然ないのである。 





代る代る違ふ鳥来る彼岸かな イーブン美奈子





【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


梅が香や庚申堂へ遠回り 田村史生

最近、よく散歩をするようになった。元々運動不足だったのが、在宅勤務が増えてさらに歩かなくなったことと、単純なので、スマホに万歩計アプリを入れて、日々数字が見えるようになったことが大きい。前回が「寅」の話だったからという訳でもないが、今回は「申(猿)」の話、猿沢池界隈のお散歩コースをご紹介したい。

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猿沢池は、周囲わずか360mの小さな池であるが、水面に興福寺五重塔が映る様子は、奈良の代表的な景観である。池の周りを歩くと、多くの亀や鴨とともに、一匹の青鷺を見ることができる。池端にある采女神社は、奈良時代に、帝の寵愛が衰えたことに悲観し、身投げをした采女の霊を慰めるために建立されたという。また、「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」という猿沢池七不思議も伝えられている。

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猿沢池の北側に位置する興福寺は、710年の平城京遷都に合わせて、藤原不比等が飛鳥から移転したもので、藤原氏の氏寺として藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大し、南都七大寺の中で、最も密接に奈良の街とつながりながら発展した寺といわれる。広い境内に、五重塔、三重塔、東金堂、北円堂などの国宝が並び、2018年にリニューアルされた国宝館には、仏像界のスーパースター(!)阿修羅像を含む八部衆や十大弟子立像、天燈鬼・竜燈鬼立像をはじめ、多くの国宝や重要文化財が展示されている。また、猿沢池から南東の方向、かつて興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘には、1909年にオープンし、関西の迎賓館と呼ばれる奈良ホテルが、優雅な佇まいを見せている。

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猿沢池から南へ進むと、元興寺の旧境内を中心とする、ならまちと呼ばれる地域がある。元興寺は、718年に、これも飛鳥から平城京に移転され、平安時代前半までは、南都七大寺の中で指導的な役割を果たし、盂蘭盆会や灌仏会などもこの寺から起こったといわれる。今は小さな境内であるが、国宝の極楽堂や僧房などがあり、丁度、紅梅が見頃となっていた。

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江戸時代末期から明治時代にかけての面影を今に伝えるならまちは、格子や土塀等特徴ある町屋が並び、老舗の和菓子や伝統工芸品の店と、新たなカフェや雑貨屋が混在する人気スポットである。そのならまちでよく見かけるのが、町家の軒先に吊るされた赤い猿らしきぬいぐるみ、「身代わり申」。ならまちの中心部には、庚申信仰の拠点としての庚申堂があり、災厄をもたらす存在である三戸(さんし)の虫が猿を嫌うことから、身代わり申を町中に吊り下げるという風習が生まれとされる。形は少し違うが、京都八坂界隈のくくり猿はいとこ、飛騨高山のさるぼぼは親戚のようなものかも(すみません、違うかも)。
 
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猿つながりでいうと、昨年、猿沢池のすぐ西側、スタバの目と鼻の先に、猿田彦珈琲の関西初となる店がオープンした。奈良の300年企業であり、工芸をベースにした生活雑貨の企画販売を行う中川政七商店他とのコラボによる複合商業施設、その名も鹿猿狐ビルヂングの一角である。何故、関西初出店が大阪でも京都でも神戸でもなく奈良なのか。ちょうど、大阪から来られたらしいお客さんが、店員さんと話をされていた。店員さんによると、中川政七商店と猿田彦珈琲の社長同士のご縁が決め手だったようである。そのお客さんは、大阪に出店されていないことを、しきりに悔しがっておられた。まあお気持ちは分かりますが、そう遠くもないので、是非奈良へ通ってくださいな。お散歩の後の珈琲は格別ですよ。

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梅が香や庚申堂へ遠回り 田村史生




【奈良便り、田村史生さんより】


うららかな空白のある歴史かな 髙橋真樹子


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――その昔この広い北海道には、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく暮らしていた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう
(知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』)

知里幸恵は1903(明治36)年現在の登別市に誕生したアイヌ女性である。祖母から聞いたカムイユーカラ(アイヌ民族に伝わる叙情詩)を東京の金田一京助の元へ身を寄せ日本語への翻訳を完成させた。アイヌ文化は文字を持たず自然の神々の神話や英雄の伝説などを口伝えの豊かな表現で語り継いできた。幸恵の文章から遠い昔、ここに暮らす人々が何者にも侵されることなく、自然を慈しみ心豊かに暮らしていた頃の事と容易に察せられる。擦文文化期からアイヌ文化へと移りかわって行ったのは12、13世紀ごろの頃のこと。つい最近までは、アイヌ文化成立の13世紀から明治期までを「アイヌ文化期」と考古学上設定していが、現在はアイヌ文化として「12~13世紀以降、サハリン・千島・北海道・北東北のアイヌの人々が狩猟や漁撈、植物採取に加えアムール川下流域や沿海州、そして本州の和人と交易を持ちつつ育んできた独自の文化で現在まで延々と受け継がれている」との認識へ変容しつつある。アイヌ文化はオホーツク文化人の様に他の地域から移り住んできたのではなく、古の時代から北海道で暮らしを繋いで来た人々を中心に時代の変容とともに交易を繰り返し磨き上げてきた独自の文化という事になる。もちろん多くの困難を乗り越えての今日である。引き続き交易を軸に中世までのアイヌ文化を追ってみる。

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擦文文化期からアイヌ文化への移行は土器使用から漆器への変化に見られる。漆器は太刀と共に本州から交易によってもたらされ偏重された。他にも鉄や鉄製品、貨幣などが遺構から発見されている。一方大陸との交易も引き続き行われサハリンを経由してガラス玉や銅鋺などがもたらされた。アイヌ文化が提供するのは、本州に対してはワシ羽や鹿皮、ヒグマ皮、海獣皮、大陸に対しては本州産の鉄器や陶器、ヒグマ皮、そして最も重要だったのはラッコや黒貂などの上質な毛皮。これらはアムール川下流を経由してヨーロッパまで運ばれ、アイヌ文化の人々はヨーロッパや中東で作られたガラス玉を入手していた。遠く海を越えてもたらされた神秘的なガラス玉に高い価値を見い出し、本州産の鉄を加工したものと合わせてネックレスを作り、宗教儀礼に使用するようにもなった。自分達が暮らす世から向こうの世界へ「送り」の儀礼。本州や大陸との交易によって相手と自分達の違いを意識するようになり、その事が独自の「文化」を育み磨き、交易をさらに深める事となった。

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本州に残された歴史書や和歌に当時の北海道の様子を見ることが出来る。源頼朝は奥州藤原氏を倒し、後白河法皇に「鷲羽一堰」を献上した。『吾妻鏡』によれば藤原基衡も仏師運慶に「鷲羽・水豹皮」を送っている。このころ「夷賊」と呼ばれていたアイヌ文化との交易によって手に入れた品物だろう。ではアイヌ文化ではどの様な手法で動物を射止めていたのか。

浅ましや 千島のえその つくるなる とくきのや杜 ひまはもるなれ
藤原顕輔[顕輔集]

「千嶋のえぞ」は矢毒文化を持っていることを都の人々は知っていた。毒はトリカブト。時代は遡り、オホーツク人を経由し擦文人にもたらされアイヌ文化へ継承された。矢毒文化は1955年、生け捕りした熊の御霊を神の国へ送り返すアイヌ文化の伝統儀式「イヨマンテ」が事実上禁止されるまで続けられていた。現在も北海道にはトリカブトが自生している。

いけたもる あま見るときに 成りにけり えぞが千嶋を けぶりこめたり
西行[山家集]

あたらしや えぞが千嶋の 桜花 ながむる色も なくて散るらん
慈円[花月百首]

本州とアイヌ文化の交易でもたらされた品々が都人にまでも達し、和歌にも「千嶋」「えぞが千嶋」が詠まれる様になった。
どの様な人々が住み、風習や文化を持っているのか漠然としているからこそ心に「えぞが千嶋」を浮かべて詠まれたのではないか。吉野奥千本の西行庵にて「えぞが千嶋」に想いを馳せていたとしたらなんと壮大な世界だろう。
「えぞが千嶋」を詠んだ尊い和歌の数々も交易の賜物のように思えてくる。

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『吾妻鏡』を読み進めると、源頼朝が討伐した藤原泰衡の多くの敗残兵が「えぞが千嶋」に逃げ込み、アイヌ社会の中に同化した者もいたとか。源実朝の時代に「えぞが千嶋」に追放された海賊の子孫が「渡党」となり津軽海峡を往復して交易を行った。船が漂流し流れ着いた本州の人々、和人も少なからず存在し「渡党」を侵食し始め争い事も起きるようになっていったようだ。知里幸恵の神謡はこの時代には当てはまりそうにない。ずっと古の時代のことかもしれない。アイヌ文化を詳しく文献史学でさかのぼれるのは16世紀頃。この時代から300年ほど待たなければならない。



うららかな空白のある歴史かな 髙橋真樹子




参考文献:関口明他(著)『アイヌ民族の歴史』(2015)山川出版社


【北海道便り、髙橋真樹子さんより】


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