古志青年部

古志青年部は、「古志」俳句会の50歳未満の会員からなります。

とことこと徒歩の小鳩の小春かな イーブン美奈子

 日本へ遊びに行ったら、奈良駅で托鉢僧を見かけた。黒の法衣に網代笠、手には鉢という姿だ。タイ人の夫が近づいて写真など撮る。外国人観光客には物珍しいのだろう。とはいえ、日本人の私にとっても日常の光景とは言いがたい。日本の僧侶は時間を問わず托鉢するものなのか、普段は托鉢でなく自炊で食をまかなっているのかなど外国人の疑問にも、「たぶん、そう」としか答えられない。僧というものが、全然身近ではないのだ。

 タイでは、托鉢は当たり前の風景である。
 僧は、朝早く托鉢に出る。昔は「てのひらをかざし、手の筋が見える時刻」すなわち暁光がうっすら差してくる時間帯に寺を出るとされていた。今どきは時計を見るのだろうが、てのひらで夜明けを知るとはなかなか風流だ。食事は全て喜捨されたもので済ませる。正午を過ぎたら、水分以外の食物を摂ってはならない。これがタイ人の常識なので、白昼に托鉢していたり、金銭をもらっていたりする日本の僧を見ると不思議な気がするのだろう。

 タイの托鉢は、原則として素足である。ただ、昨今の都会ではちょっと無理で、ゴム草履くらいは履く(舗道は朝でも熱いし、危険だ)。人々は托鉢の時間に合わせて米を炊いておき、やはり素足で跪いて捧げる。鉢は日本のものより大きい。米もおかずも、袋菓子やパックのジュースもみな同じ鉢に入れてしまう。何もかも混じってしまっては食べられないじゃないかというのは俗な私の短慮で、出家した者は食に拘泥してはならず、もらい受けたものをそのまま食するものなのだそうだ。僧侶は信者に経を唱えて去ってゆく。

 タイ北部や東北部では、餅米が主食のため、托鉢も餅米となる。蒸した餅米は、クラティップという竹などで編んだ籠に入れておき、指先で少しずつ丸めながら僧の鉢に入れていく。私も旅先で体験したことがあるが、いかんせん俗人なので、指に直接触れた餅米を他人(僧)に食べさせるなんて不潔ではとびくびくしてしまった。これも余計な心配なのだそうだが、コロナ下ではさすがに手袋などしていただろうか。なお、タイの宿やホテルは「托鉢セット」を用意してくれるところも多い(下の写真)。前の晩に頼んでおき、ちょっと早起きすればいいだけ。何とも安易だが、お正月だけ神社にお詣りする日本人のようなものだ。

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観光宿の托鉢風景。


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托鉢セット。僧は大勢歩いてくるので少しずつ鉢に入れる。すべて差し上げたら、最後の僧には花を差し上げる。僧は鉢以外に頭陀袋も持っているので、花は袋に入る。


 隣国ラオスの観光名所・ルアンパバーンは、僧侶が長い列をなす托鉢の光景で有名。ここでも主食は餅米である。

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 もちろん、私と違って毎朝きちんと米を炊き、家の前に座る人もたくさんいる。近所の寺からいつも決まったお坊さんが托鉢に回ってくるのである。そんな人たちにとっては、朝のほんのひとときが心を静めてくれる大切な時間となる。




とことこと徒歩の小鳩の小春かな イーブン美奈子




【タイ便り、イーブン美奈子さんより】



からすみや猫には多く語る人 市川きつね

 夏に岩魚釣りに山に入ると、青々と茂った木々のあちこちに蜘蛛の巣がかかっているが、秋にはすっかり消えている。落ち葉が川に敷き積もり、空気が澄んで山らしいにおいがする。繁殖期を迎えた岩魚は夏に比べて黒っぽい色に変わる。

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夏の岩魚


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秋の岩魚


 岩魚は渓流魚の中で一番警戒心が高く、水質汚染に弱く、個体数が少ない。岩魚が釣れる渓流に行くだけでも登山と同様で大変だが、釣れるかどうかは分からない。もうすぐ50歳になる釣り好きの知人も、生涯数匹しか岩魚を釣ったことはないという。
 津南の秋山郷に「平家茶屋」という焼きたての岩魚が食べられるお店がある。岩魚を食べるためだけに片道1時間の山道を何回も連れて行ってもらった。塩を強くきかせた尾はもちろん骨まで食べつくした。成人してからは一度も行っていない。私の運転ではきっと行けないと思う。残念ながら未だに鈴木牧之の道を辿りきれていない。

 一方、素人で釣りの技術が未熟でも釣れるというのがアオリイカだ。9~10月はイカのサイズも大きいし引きも強いので釣りごたえがある。シンコと呼ばれる小さいアオリイカが8月頃に生まれて、釣るのにちょうどいい大きさになるのがこの時期だ。イカは船を出さなくても堤防から釣ることができる。
 烏賊釣りのための釣り具は小魚の形をした普通のルアーとは異なり、エギというエビに似た釣り具を使う。釣ったばかりの新鮮なアオリイカはやわらかくて実に美味だ。刺身はもちろん、沖漬けにしたり、バター醤油で炒めてもおいしい。アオリイカはあまり市場に出回らないので、それを味わえるのは釣り人の特権と言えるだろう。


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 新潟県独自の歳時記である『越佐俳句歳時記』(新潟日報事業者出版部、平成2年刊行)から「烏賊」の項を引用する。

烏 賊(烏賊舟 烏賊釣)
 烏賊漁は初夏から始まり冬に及ぶが、その産卵期である初夏が最も美味である。どこでも釣れるが、佐渡沖は烏賊の宝庫とまでいわれ、ここの産のものは味も優れている。水平線上に並ぶ烏賊釣りの火は、夜明けになったかと錯覚する程の明るさで、まさに夏の夜の風物詩といえる。
 大衆的な軟体魚で、さしみ、煮物、するめ、塩辛など、どうして食べても美味である。最近は、一夜干しという軟らかい半乾燥のものが、ことに主産地佐渡の港の売店をはじめ、日本海沿岸の海産物店に出回っており、人気を得ている。

四五枚の烏賊干し島の駐在所   長谷川回夫
沖はるか烏賊釣る舟の灯を曳きて   市原きよ女
海女の瞳の濡れて烏賊火を見て佇てり   数馬あさじ
烏賊舟の灯の途切れたるところあり   児玉葭生
沖鳴りや芭蕉の道に烏賊を干す   石黒正裕

「銀河」の項では、烏賊釣りについて以下のように言及している。

…烏賊釣り舟の漁火が燃えている空に、降るようにかかる天の川は、一番美しいのではなかろうか。

 佐渡には人生で2回しか行ったことがない。小学6年の修学旅行では、烏賊捌き体験をさせてもらった。屋外で魚を調理することも、その場で食べることも新鮮だった。
 2回目は今年の夏で日帰り旅行だった。わずかな時間だったが、流刑地だった名残で佐渡には上方方言があることを初めて知った。近いうちにまた訪れたい。



からすみや猫には多く語る人 市川きつね




【新潟便り、市川きつねさんより】


虫たちの恋の邪魔せん日の出見ん イーブン美奈子

 雲海は、タイ語でタレーモークという。タレーは「海」、モークは「霧」のこと。やはりタイでも「海」に見立てるのだ。英語やフランス語でもそうらしく、「海」以外の表現をする言語はあるのかしらと逆に知りたくなる。なお、雲と霧は、中身は同じだが表現が違う。タイの人が「霧」と呼びたくなるのは、雲を突くほどの高山が少ないせいだろうか。「タレーメーク(雲の海)」と呼ぶこともなくはないようだが、あまり聞かない。雲海は、歳時記では夏の季語。タイでは反対に寒季の風物である。寒季はだいたい10月半ばから2月半ばとなる。

 雲海の発生する条件は、昼夜の寒暖差が大きいこと、晴れていることなど。暑季は夜の気温があまり下がらないし、雨季はもちろん雨が降るので、寒季がシーズンになるわけだ。タイというと、とにかく暑い国だと思われがちだが、北部や東北部の国境付近は山岳地帯である。寒季の夜、山頂の気温は零度近くに下がる。だが太陽が昇ると、Tシャツで歩けるくらいになる。つまり、一日のうちに20度くらい気温が変わる。そんなわけで、雲海がよく見られる。

 雲海を見たくて訪れたのは、東北部ルーイ県チエンカーン郡のプートークという山だ。かれこれ5年以上前のこと。2月の初めで日の出は遅い季節だが、暁闇の朝5時に宿を出た。山まではレンタルのオートバイで向かう。気温は一桁。ジャケットとマフラーはしっかり着けていたものの、手袋と携帯用カイロがあればよかったと後悔。

 プートークは標高500メートル弱の小山である。五合目くらい(といってもすぐだが)まで自家用車で登れる。そこから山頂までは乗合のソンテウ(幌付きの荷台に10人ほど乗れる簡易バス)を使う。駐車場付近に屋台が立ち並んでいるのもタイらしい。たくさんの観光客が賑やかに串焼きや熱いコーヒーを買っている。ほぼ全員がタイ人である。バンコクなど都市部の平野では10年に一度ほどしか寒い日が来ないので、「寒さ」が嬉しくてたまらないのだ。山頂で凍えながら夜明けを待つ。空が白んでくるのと同時に薄い霧が流れてくる。街が見えていたはずなのに、いつの間にか雲の上に佇んでいることに気づく。

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 他にも北部チエンマイ県、チエンラーイ県、ナーン県などに1,000メートル超の山々があり、雲海が眺められる。もうすぐ観光シーズンである。

 プートークの絶景に味を占め、その後、宮崎県の国見ヶ丘にもわざわざ登りに行った。直後にコロナ禍が世界を襲うとは露知らず、のんきなものである。前の晩は雨催いで「雲海ねえ……雨がねえ……」と仲居さんにも言われたのだが、実に幸運で、地元のタクシー運転手さんでさえ「人生で一番の雲海」と驚くほどの雲(霧?)が湧いてくれた。

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虫たちの恋の邪魔せん日の出見ん イーブン美奈子




【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


瓜提灯道なき道を照らすもの 市川きつね

8月6日、剣道の昇段審査が魚沼市の堀之内体育館で行われた。魚沼地域では初段から三段までの昇段審査は8月の第一週に十日町市、小千谷市、魚沼市、南魚沼市の順番で毎年会場を変えて行われる。この4つの地域は縮の生産地として『北越雪譜』に登場する。

 縮は越後の名産にして普く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれど、さにあらず、我住魚沼郡一郡にかぎれる産物也。

市場とてちゞみのある市は、まえにいへる堀の内十日町小千谷塩沢の四ケ所也。初市を里言(りげん)にすだれあきといふ。雪がこひの簾の明(あく)をいふ也、四月のはじめに有。堀の内よりはじむ、次に小千谷、次に十日町、次に塩沢、いづれも三日づゞ間を置てあり。年によりて一定ならず右四ケ所の外には市場なし。


堀之内は十日町市の東側に位置する地域で、十日町市の中心部から堀之内体育館まで車で30分程度の距離にある。驚いたことに宮柊二記念館が体育館の目の前にあった。宮柊二の名前を知っていても、これまで宮柊二と新潟県を結び付けて認識していなかった。彼は堀之内の出身なのだ。

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館内では宮柊二の生涯を伝えるDVDを視聴できる。英子夫人の語る柊二の人柄や短歌への姿勢などを聞くことができて興味深かった。柊二が師である北原白秋の秘書を辞めて富士製鋼所に就職した際のエピソードが特に印象的だった。その後従軍や結婚を経て、昭和28年歌誌『コスモス』を創刊する。コスモス短歌会は現在会員数2,000人を超える大結社で、去年80歳を迎えた高野公彦から小島ゆかりに代表が替わった。

空ひびき土ひびきして吹雪する寂しき国ぞわが生れぐに
年明けし越後三山郷人の心のごとく雪はかがやく
わが歌は田舎の出なる田舎歌素直懸命に詠ひ来しのみ
 
宮柊二は20歳で上京して以来横浜や東京で暮らした。堀之内を詠んだ作品は故郷への強い愛が感じられる。これは個人的な推察だが、一兵卒としての従軍経験があるからこそ故郷への思慕の念がより強まったのではないだろうか。豊かな水量をたたえる魚野川のほとりに位置する堀之内の景観は十日町出身の私から見ても美しい。戦争から帰ってきた柊二の目に故郷はどれだけまぶしく映ったことだろう。

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柊二の生家である丸末書店は現在も営業している。




瓜提灯道なき道を照らすもの 市川きつね




【新潟便り、市川きつねさんより】



縁先の僧に道聞く涼しさよ イーブン美奈子

 タイ北部メーホンソーン県のクンユワム郡(注1)。初めて聞く地名だという方も多いだろう。しかし、ここには日本人が決して忘れてはならない戦跡がある。第二次世界大戦の痛ましい傷痕であり、そして同時に、タイと日本の人の心の歴史である。

 ようやくこの地を訪れることができたのは、タイに住み始めてから20年も経ってからだ。ビルマと国境を接する地で、面積は郡ひとつで東京都や大阪府よりずっと広いが、ほぼ全域が山岳地帯である。なお、メーホンソーン県はタイで最も人口密度の低い県で、住民はシャン族や山岳民族が多く、タイ語以外にシャン語や中国語も使われている。

 クンユワムには、かつて日本軍の基地があった。かのインパール作戦では、ビルマのジャングルを命からがら越えた敗残兵らがこの町の人々に助けられている。タイの人たちは日本兵に民家や寺の軒を貸し、水と食べ物を与え、病人や怪我人の看護もしてくれたのである。なぜ、他国の、しかも兵隊をそこまでして助けたのか。「タイ人は仏教徒で優しいから」という人もいるが、それだけなのだろうか。

 現地に赴き、タイ日友好記念館に向かった。展示品は、軍刀(「サムライ」と呼ばれた)、軍服や鞄、飯盒といった品々の他、開戦の詔勅、軍票もある。展示しきれずに転がされている鉄帽、そして、庭には錆びついたトラックが何台も並んでいる。これらの遺品を収集し、記念館を建てたのは日本人ではない。1995年にクンユワム警察署長に就任したチューチャイ・チョムタワット警察中佐だった。彼は赴任の挨拶のため民家を回っているうち、どの家でも日本兵の使っていた物を宝物のように所持していることを知った。それらを買い集めて作った戦争博物館が現在はタイ日友好記念館として運営されている。詳しくは、チューチャイ氏が本を書いており、日本語訳も出版されている(注2)

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タイ日友好記念館

 1943年6月、補給ルートとして北部チエンマイ県からメーホンソーン県を通りビルマのタウングーへ至る道路の建設が開始された。工事は最初タイ側に任されたが遅々として進まなかったため、ビルマに向けて進軍していた陸軍第15師団が整備することになった。クンユワムは日本兵が大勢やってきたおかげで経済も活性化し、町の人たちは喜んだという。チューチャイ氏が人々に聞いたところによると、その頃の日本兵には缶詰などが豊富に補給されていたが、米や野菜などの生鮮品、酒や煙草は地元の物を買っていたそうだ。特にバナナは人気だったらしい。日本人には3倍くらい高い値段で売ったそうだが、軍票があってお金持ちなので誰も文句を言わなかった。農繁期には兵士が子守をしてあげるなど、暮らしにも役立っていたという話が残っている。

 そんな風に友好関係ができていたため、飢えた敗残兵らがビルマから退却してきた時には、町中の人が彼らを助けた。住む場所として多くは寺が使われたが、とても間に合う人数ではなく、民家一軒に10人、20人という日本兵が寝泊まりした。だから、どの家にも日本兵の所持品があった。戦後78年経った現在では、彼らのことを覚えている人はごく僅かだろう。私が初めてクンユワムの地名を知った20年程前には、『さくらさくら』を日本語で歌えるおばあさんがたくさんいたと聞いた。子供の頃に兵隊さんと一緒に歌ったのである。

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ムワイトー寺。当時、病院として開放された。

 インパール作戦の退却ルートとして使われたクンユワムへの道は「白骨街道」と呼ばれている。飢えと病気で将兵がばたばたと倒れ、弔いも叶わずその場に埋められたからだ。クンユワムに戻ってから亡くなった人も多くいた。クンユワムでは慰霊塔がいくつも建てられ、今ではボランティアのタイ人・日本人が清掃など管理をして下さっている。前述のチューチャイ氏は日本政府に対し、日本人と思われる遺骨のDNA鑑定も申し入れてくれている。しかし、無下にも拒否された。『さくらさくら』を歌っていたのは国の都合で徴兵されただけの、私たちと変わらないただの青年たちなのだ。家族のいる日本に帰りたかっただろうに、遺骨さえ回収してもらえないとは、考えるだけで涙が出てきてしまう。

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トーペー寺の慰霊碑

 せめてもの思いでお参りだけさせて頂いた。クンユワムを回ってみて感じたのは、生身の人と人との交流があったという歴史で、ただの人には敵も味方もないということである。最後に、専門知識があるわけでもなくクンユワムの名を伝えたい思いだけで書いた記事であることをお断りし、もし史実に誤りがあれば是非ご教唆願う次第である。



縁先の僧に道聞く涼しさよ イーブン美奈子




(注1)クンユアム郡とも表記。


【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


このへんの桑売はみな子どもかな 市川きつね

 十日町市には映画館がない。そのため、車で片道1時間以上走って長岡市か上越市まで行かなければ映画を観ることができない。私の住んでいる地域はどちらかと言うと上越市寄りなので、上越市の映画館に行くことが多かった。そしてついでに寄れる高田城址公園で遊ぶのが楽しみだった。

 上越市と聞けば上杉謙信の居城であった春日山城を知る人が多いと思うが、高田城も面白い歴史を持つ城だ。築城工事は1614年から始まり、東北、北陸、信越の13の大名たちに工事の手伝いを命じて、わずか4か月あまりで完成したという。初代城主は徳川家康の六男松平忠輝。彼の義父伊達政宗が工事のまとめ役だった。しかし忠輝はわずか2年後に改易される。その後も藩主の入れ替わりが続き、「徳川四天王」の一人に数えられた榊原康政を藩祖とする榊原家が1741年から明治維新まで藩主を務めた。それまでの藩主も譜代大名や老中を出す家柄出身だったことから、高田が江戸時代を通じて重要な地であったことがうかがえる。

 こういった歴史について私はほとんど無知だったが、上越市立歴史博物館で小中学生向けワークシートの答えを探しながら館内を巡ることで学んだ。たまたま高田城址公園を訪ねた5月18日が国際博物館の日だったので、園内にある博物館も高田城三重櫓も小林古径記念美術館も入場料無料だった。

 高田城址公園は東洋一と誉れ高い睡蓮の花の名所である一方、春はお花見に来る観光客でにぎわう。私も以前は毎年お花見に行った。博物館のワークシートによると、1909年の師団(独立して戦闘が行える陸軍最小の部隊単位)の高田入場を記念して2200本もの桜が植えられたらしい。私が毎年見ていたのはその桜だったのだ。
 公園の遊具で子どもを遊ばせていると、偶然、高校卒業後自衛隊に就職した同級生に会った。高田に家を建てて住んでいるという。現在高田に陸上自衛隊の基地があるのも、師団が設置されたことの流れを汲んでいるのだろう。

 博物館のワークシートからいくつか問題を引用します。答えが気になる方はぜひ上越市立歴史博物館をお訪ねください。


〇つぎのア~ウは、上越市にある城の名前です。年代が古い順にならべてみましょう。
 ア 春日山城  イ 高田城  ウ 福島城

〇日本にはじめてスキー術を伝えた人は、だれでしょうか。

〇1945年は、高田測候所で観測をはじめてから一番多く雪がふった年でした。高田ではどのくらい雪がつもったでしょうか。



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(6月11日撮影。高田城址公園の蓮は、藩の財政を立て直すため外堀に植え蓮根を育てたのがはじまり。見ごろは7月下旬~8月中旬。)




このへんの桑売はみな子どもかな 市川きつね



【新潟便り、市川きつねさんより】


舌出して壁の守宮も暑からん イーブン美奈子

 ソンクラーンは、現在も祝われている伝統的なタイ正月だ。毎年4月13日から15日までが祝日。この3日間、巷は「水掛け」の人々で溢れ返る。水鉄砲やたらい、ホースにドラム缶まで駆使し、盛大に水を掛け合い、全身ずぶ濡れになって遊ぶいささか乱暴な祭なのだが、遠い外国からも観光客がわざわざ水を掛けられに押しかけるため、今や国家の大事な収入源となっている。コロナ自粛が解禁となった今年2023年は、プラユット首相自ら、バンコク一の激しい水合戦が繰り広げられるカオサーン通りに出向き、祭の楽しさをアピールした。

 さて、この過激な水遊びは、ナーガが大海の水を吹き出して遊ぶと雨が降るという信仰にもとづき、次の耕作期に向けて祈る意味があるそうだ。

 ナーガはインド神話上の蛇の神である。彫刻や絵画ではよくコブラの姿で表現される。「ナーガ」はサンスクリット、タイ語では「ナーク」。ナーガという名の一神がいるのではなく、ナーガ族というか、たくさんのナーガが地下や水界にいるのである。王も存在し、ナーガの王のことを「ナーガラージャ(タイ語ではナークラートまたはパヤーナーク)」という。宮殿は金銀や宝石に満ち溢れている。天気を制御する力を持ち、怒らせると旱魃などを起こす。人間に変身することもできる。

 仏教では龍信仰と習合し、ナーガラージャは「龍王」として取り入れられている。龍王と聞いて私がまず思い出すのは、『源氏物語』の須磨のシーンである。

そのさまとも見えぬ人来て「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」とて、たどりありくと見るに、おどろきて、「さは、海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけり」と思すに、いとものむつかしう、この住まひ堪へがたく思しなりぬ。

 大嵐に見舞われた夜、源氏の君の夢に得体の知れぬ不気味な者が現れ、「宮」からお呼びがあるのになぜ参上しないのかと詰る。はっと目が覚めて、さては自分が美しいので「海の中の龍王」に魅入られたのだと源氏の君は思う(美しいと自覚しているところはさすが)。

 この龍王だが、ナーガのことと考えると腑に落ちる点が多い。まず、嵐を起こしたのは龍王なのではないか、ということ。続く明石の帖では、京でも風雨・雹・雷に見舞われていることが明らかにされるが、天子の政に対して神が怒っているらしいのである。前述の通り、ナーガは天気を操ることができ、怒ると悪天候になる。次に、「宮」が「海の中」にあること。ナーガの宮は、海、池、古井戸など水の中にある。また、夢に出てきたのは王ではなく、「そのさまとも見えぬ人」だが、これは下っ端のナーガが人に変身し、王の使いとしてやって来たと考えれば合点がいく。さらに、龍王は「いといたうものめでするもの」だと書かれている。ナーガの王は宮に美しい宝石など集めて愛でているそうだから、まさしく「ものめで」をする存在である。中国の伝説では、龍王は海中に水晶宮を持っているといい、浦島太郎の龍宮城もそれから発展したものだと思うのだが、元祖はナーガの宮だったのではないかと勝手に思っている次第である。

 『源氏物語』では、龍王は薄気味悪いもの、おどろおどろしいものとして描かれている。だが、インドのナーガに立ち戻ってみると、仏陀の守り神だったことがわかる。ナーガの王は何柱も存在し、それぞれ名前が付けられているが、中でも有名なのはムチャリンダだろうか。成道後の仏陀が風雨に襲われた時、ムチャリンダというナーガの王が現れ、その大きな体で仏陀を七重に取り巻き、七つの頭で大きな傘を作り、仏陀を守った。この姿の仏像はタイでも多く見られる。光背のような七つの頭は、コブラの形をしている。

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頭は七つ。バンコクにて。


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寺院の階にもナーガ像がよく見られる。タイ北部ナーン県にて。


 ところで2022年11月1日、ナーガは「タイの象徴」の一つに指定された。観光事業振興のためのソフト・パワーを構築するのが目的らしい。利用し過ぎて怒りを買わなければよいのだが。




舌出して壁の守宮も暑からん イーブン美奈子




【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


木流衆こもれる夜の煙かな 市川きつね

3月の中旬を過ぎると雪の降らない日が続き、厳しい寒さが徐々に和らいでくる。この時期にタイヤ交換をする人が多いが、中には5月になるまでしない人もいる。4月中はもう降らないと断言できないからだ。実際、4月9日は久しぶりに雪の予報だった。現在よりも降雪量が多かった過去は、もかもかと雪の降る中で入学式が行われることはざらだった。

雪解けが始まって楽しみなのが山菜採りだ。ふきのとうが真っ先に顔を出すと、こごめ(クサソテツ)、うど、木の芽(アケビの新芽)、ぜんまい、わらびなどが続々と出てくる。山菜取りの名人は日々濃さを増す若葉の色から、いつ何が山のどこで採れるかという計算を行うという。
上越市に住む叔母は毎年春に大量の山菜を届けてくれる。今回はふきのとう、こごめ、うど、タラの芽をどっさりくれた。ふきのとうは何といっても天ぷらが美味しい。春はどこの蕎麦屋さんでも天ぷらに必ずふきのとうが出る。ふきのとうは揚げることで苦みが和らぐ。ふきのとうを茹でて細かく刻んで味噌に混ぜ込んだふき味噌を作る家庭も多い。
こごめは茹でて胡麻やマヨネーズを合えても美味しい。山菜の中でも調理の手間がかからない上に、子どもも食べやすい。
木の芽はどこにでも生えていて採りやすい山菜だが、とにかく苦い。私の父は茹でただけの木の芽に生卵をかけてわしわしと食べるのが好きだ。子ども心に得体の知れないものを好む人だと思っていた。大人になってからも父の食べ方は真似できない。
山菜の中で個人的に思い入れがあるのはぜんまいだ。ぜんまいは食べられるようになるまで手間がかかるが、長期間の保存がきくため、冬季の農作ができない地域にとって大切な食材だ。正月の料理にも欠かせない。
ぜんまいは採ってきたら綿を取って茹でる。取れきれない綿は茹で上がってから取る。綿を取るのは幼いときから手伝った。5歳以下の子どもでもできる作業だ。綿がうまく取れると気持ちがいい。
その後、茹でたぜんまいを天日干しにする。ぜんまいを揉みやすい大きさの塊に分けて、筵の上で一つずつ揉んでいく。1日に何回も揉んで、繊維を分断して柔らかくする。日和が続くとあちこちでぜんまいを揉んでいる人の姿を見かける。


祖父は山菜採りが上手だった。蝮もよく捕まえてきた。蝮は蝮焼酎にすると売れた。蝮を捕るための装備をして山に入っても捕まらない人が多いのに、祖父は手ぶらで入っても捕まえてきた。それを酒瓶に入れるのは祖母の役割なので、嫌で仕方なかったという話をよく聞かされた。捻挫などの怪我をしたときは蝮焼酎を含ませたティッシュペーパーを患部にあてると治りがはやいと祖母は言っていたが、世にもおそろしい臭いがするので嫌いだった。結果として治りがはやまったのかどうかは分からない。
何歳のときだったか、あるとき祖母が「じいちゃんのぜんまいは今年でなくなった」と言った。祖父が死んだのは何年も前のことで、祖父と過ごした記憶もほとんどないのに、その人の採ったぜんまいを死後何年も食べ続けてきたという事実に驚いた。


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木流衆こもれる夜の煙かな 市川きつね




【新潟だより、市川きつねさんより】



手を舐めてゐたりきのふの恋の猫 イーブン美奈子

今年のバレンタインデーは、タイ初の同性婚のニュースで賑わった。婚姻が受理されたのは、戸籍上男性の二人。手続きはバンコク都内の区役所で行われ、婚姻登録証を手にした二人の様子が報道された。末長い幸せをお祈りしたい。

さて、タイはLGBTQに理解がある国だと思われているようだが、必ずしもそうとはいえない。たとえば我が子が同性愛者だった場合、すぐに受け容れられる親なんてそうはいないし、子の側も親の気持ちはわかるからなかなかカミングアウトできない。巷では差別用語もかなり頻繁に耳にする。ただ、それらはプライベートな場での話である。就職や昇進で差別されたという話は少なくとも私の周りでは聞かない。私の夫(タイ人)の前の上司は男性で、今の上司は女性だが、どちらもLGBTQだと思うと夫は言っている。仕事さえできれば性別は何でもいいので誰も気にしない。公私混同はしないのだ。

先日、日本の新聞記事を読んでいたところ、岸田文雄首相が同性婚を否定する理由として「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ」と述べた旨が書かれていた。価値観や社会が変わって何が悪いのか。社会なぞ放っておいても変化するに決まっているのだから問題にもならない。あえていえば、日本のジェンダーギャップ指数は2022年は146か国中116位だったそうで(世界経済フォーラムおよび世界銀行の発表による)、男女の格差さえ大きい社会なのだから、そんな価値観は積極的にどんどん変えるべきである。

一個人の感慨として、タイが変化を恐れずに同性婚を認めたことは、清々しい出来事だった。私は俳句を作っているが、俳句も変わることを恐れていては何も生めないのだ。若い頃は常に変わりたいと思っていたはずなのだが、知らぬ間に自分も保守的になっている。そんな日に一陣の風を吹き込んでくれたようなニュースだった。




手を舐めてゐたりきのふの恋の猫 イーブン美奈子



Cat Whisker
写真・ネコノヒゲ(Cat Whisker)。2023年1月、バンコク。 



【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


目の前で裂いて熊胆取り出せる 市川きつね

流雪溝という排雪のための施設を聞いたことがあるだろうか。要は雪を流すための側溝のことだ。除雪の際、住民は流雪溝の蓋を開けて、スコップやスノーダンプを使って雪をどんどん落とし込む。流雪溝の中には水が流れているので、その水の力で雪を移動させるのだ。流雪溝があるおかげで、雪下ろしされた雪が道路脇に積もったままになることはない。

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流雪溝ができる以前の商店街。捨て場のない雪の高さに注目してほしい。

通学時に流雪溝の蓋が開いているのは怖かった。私が小学生だった当時は、子どもたちが歩いているすぐそばで流雪溝の蓋を開けたままの除雪作業がされていた。同じ登校班で前を歩いている子が、流雪溝に落ちて目の前から消えた瞬間は今でも覚えている。幸い流雪溝の中蓋が閉じてあったので、落ちたのはその子の足だけで、流されはしなかった。中蓋がされていなかったらと思うと恐ろしい。現在、登下校時は、進行方向右側の歩道にある流雪溝は必ず閉じられている。

十日町地域に流雪溝が設置されたのは昭和47年。川の水をポンプアップして流すことで排雪施設として機能している。その総延長は約50キロに及ぶ。流雪溝に排雪できる時間はそれぞれの地域ごとに異なり、決まった時間にだけ水が流れる仕組みだ。私の職場では9時半になると社員全員で除雪を行う。あまり除雪を頑張りすぎると汗をかくしへとへとになってその後の業務に差し支える。翌日は筋肉痛になる。張り切りすぎないことが肝心だ。

ちなみに前回紹介した津南町では流雪溝と呼ばれるものはなく、普通の側溝に常に水が流れているのでいつでも排雪が可能だという。

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津南町の側溝。たしかに盛んに水が流れていた。





目の前で裂いて熊胆取り出せる 市川きつね




【新潟便り、市川きつねさんより】



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