古志青年部

古志青年部は、「古志」俳句会の50歳未満の会員からなります。

天界へ押すな押すなと曼殊沙華 田村史生

明日香村は、奈良県の中央に位置する小さな村であるが、飛鳥時代(592年〜710年)の宮殿や史跡が多く発掘されていることで知られ、全域が古都保存法対象地域となっている、日本で唯一の自治体である。

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僕は大阪出身で、小学校の遠足で初めて明日香へ行ったのだが、それ以前からこの地に対して憧れがあり、その元となったのは、一本のCMであったと記憶している。1970年代後半の当時の国鉄(今のJR、念のため・・・)の「一枚のキップから」キャンペーン(その後続くのが、「いい日、旅立ち」「エキゾチックジャパン」)でとてもミステリアスに取り上げられていて、子供心に強い印象を持ったのだった。今回、ググってみたところ、何とYouTubeに懐かしの国鉄CM集というのがあって、そこから40数年前のCMを探し出すことができた。スマホ時代恐るべし。「万葉の山々は日本のルーツ。飛鳥の人たちはここから何を見たのか」というナレーションとともに、大和三山等が紹介され、最後に二上山の上空にUFOが現れる、というもの。そう、これこれ!以来、明日香はずっと特別な場所なのである。

(写真は亀石)
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明日香といえば、蘇我馬子の墳墓と言われる石舞台古墳、飛鳥美人の壁画で有名な高松塚古墳、日本最古の仏教寺院である飛鳥寺、そして、僕が少年時代にミステリアスな妄想をさらに膨らませることになった、亀石、猿石、酒船石、鬼の俎・鬼の雪隠といった、謎の石造物等々・・・見どころ満載であるが、日本人の心の故郷とも言われる、その風景も大きな魅力である。明日香は米どころでもあり、この季節は稲田が美しい。
 
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明日香村の中心にある甘樫丘は、標高148mの緩やかな丘であるが、古くは「日本書紀」のなかにも記述が見られ、飛鳥時代には、蘇我蝦夷・入鹿親子が権勢を天下に示すために、麓に邸宅を築いていたといわれる。丘には遊歩道が整備され、様々な万葉植物が植えられているが、268段の急な木の階段を登っり切った頂上の展望台からは、東に明日香、西に大和三山や二上山等を一望することができる。

 (写真は、甘樫丘展望台より。右に耳成山、左に畝傍山とその向こうに二上山)
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また、明日香には、緩やかな斜面に沿った棚田が多く見られ、中でも稲渕の棚田は、日本の棚田百選にも選ばれ、300枚あまりの水田と畑により、農村の原風景を強く残している。四季折々の美しい姿を見せてくれるが、秋には彼岸花が咲き、真っ赤な花と緑の棚田とのコントラストが見事である。彼岸花の仲間であろう黄色い花や白い花も咲いている。また、例年、棚田沿いは案山子ロードと名付けられ、秋分の日前後に、彼岸花祭りと合わせてユニークな案山子コンテストが行われている。昨年は、コロナ禍のため祭りは中止だったが、案山子たちはちゃんと立っていた。今年はどうなるか。尚、棚田周辺には駐車場がないので、ご注意を!
 
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ということで、国鉄のCMのおかげで、僕の明日香への思いは育まれた訳だが、よく考えると明日香村にはJRの駅はない。電車で行かれる場合は、近鉄(飛鳥駅)でどうぞ!

 
*彼岸花の写真2枚は昨年以前のものです。

 
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天界へ押すな押すなと曼殊沙華 田村史生

 


 
【奈良便り、田村史生さんより】



みごとなる長老の髭ぬくめ酒 髙橋真樹子

 『日本奥地紀行』は英国人旅行家で紀行作家でもあるイザベラ・バードの旅行記。まだほとんど知られていなかった北海道を初め、日本の地方都市における庶民の暮らしや文化を世界に向けて紹介した。特に日本の先住民族として古くからの文化と伝統を守り、外国人にも分け隔てない思いやりを示したアイヌ民族を高く評価している。1878(明治11)年8月16日に通訳の伊藤鶴吉を通訳件世話係として同伴し北海道(蝦夷地)を訪れた。人々がほとんど訪れない地域への強い興味。明治維新頃の北海道と言えば赤蝦夷が住む未開の地と揶揄され、日本人にもほとんど真実が知れまわっていない。

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七飯町の大沼国定公園

―――――夕焼けが辺りをピンクと緑に包み、その色に染まった水面には、蓴菜のなめらかで柔らかで大きな葉が浮かんでる。また木々の生い茂る山々のその上には、駒ヶ岳火山のほとんど何にもおおわれずギザギザに尖った山頂が夕陽を浴びて赤く輝いている(『日本奥地紀行』 本文より)

写真は大沼・小沼・蓴菜沼の湖沼からなる大沼国定公園。8月17日、イザベラ・バードは箱館(函館)から約29kmの道のりを一人っきりで馬に乗ってこの地にやって来た。箱館で別行動だった伊藤鶴吉と合流し目的地、平取(現在の北海道沙流郡平取町)を目指す。

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札幌市立図書館蔵『郷土史ふれない』より

「日本奥地紀行」なぜ平取が奥地なのか?道東や道北にもアイヌ民族は生活を営んでいたはず。イザベラ・バードが見ていた地図は1876(明治9)年、英国が日本に灯台を置く位置を検討するために作成した地図で、北海道は道南、道央地方だけが掲載されていた。つまり、彼女にとって地図の右上端に位置する「平取」が、日本の奥地だったのだ。
 
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平取町を流れる沙流川

―――――二人の少年に案内してもらい、一艘の「丸木舟」[チプ]で佐瑠太川[沙流川]をできるだけ遠くまで遡ることにした。実に美しい川であり、言いようもない美しさに満ちた森や山の合間を曲がりくねりながら流れていた。私は老水夫のような気分に浸っていた(『日本奥地紀行』 本文より)

8月23日、イザベラ・バードは佐瑠太川下流の門別からアイヌ民族の若者2人のサポートを受け、アイヌ民族の「丸木舟」で平取を目指した。アイヌ語を母国語とするアイヌ民族の中には数人日本語を話せる者がいて伊藤鶴吉を挟み、イザベラ・バードとやり取りをした。沙流川はアイヌ語で「砂が流れて詰まらせる」の意。日高山脈の幌平岳を源とし、四季折々の風情を映してゆったりと流れる美しい川。現在も毎年8月にはアイヌ語で「チプサンケ」という舟の進水の儀式が行われている。イザベラ・バードも乗った丸木舟が古来そのままの形を継承している。

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丸木舟 アイヌ文様が装飾として彫られている


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アイヌ民族の家「チセ」 平取町二風谷コタン

―――――家々は外から見たところはあまりに小ぎれいで清潔なので驚いた。この点ではどの集落も「模範集落」だった。ごみはどこにも落ちておらず、(中略)肥溜もごみの山もなく、家、それも手入れが行き届いてきちんとした家だけが、砂の上にすっきりと立っていた。(『日本奥地紀行』 本文より)

イザベラ・バードが滞在した二風谷コタン(集落)跡地には「チセ」の他、水力を利用して精白する道具「イユタプ」や高床式倉庫「プ」、仔熊のおり「へペレセツ」などが復元され、かつてのコタンのような空間に生まれ変わっている。
 
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平取町二風谷アイヌ文化博物館所蔵   トゥキパスイ、トゥキ、オユシぺ(棒酒箸・杯・天目)

―――――<酒>が漆塗りの杯[トゥキ]に注がれ、それぞれの杯の上に一本のすばらしい彫刻のある<棒酒箸>[イクパスイ]が置かれた。これらは大変大切にされている。男たちは杯を持つ手を数度手前に引き上げるようにしたあと、その棒酒箸を手に取って<酒>に浸したのち、その神酒の雫を火に六回、そして「神」すなわちてっぺんの辺りからたくさんの白い削りかけ「イナウキケ」が螺旋状に垂れ下がった木の棒[イナゥ]に数回振りかけた。(『日本奥地紀行』 本文より)

棒酒箸や杯のアイヌ名が現在のそれと異なるのは、アイヌ語の発音を和語に記す難しさからだろう。[イクパスイ]の作成はアイヌ民族男性の腕の見せどころ。この棒酒箸は人間とカムイ(アイヌ民族の神)の仲立ちをする役割を果たす。杯や天目台は和人との物々交換で手に入れていたようだ。さまざまな大名家の家紋が入っている。漆塗文化を持たないアイヌ民族は宝物のように扱っていた。

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平取町 義経神社

―――――これまで外国の人には一切見せてこなかった私たちの神社をお見せしますと言った(中略)小さな社には一つの像が納まっている。これは歴史上の英雄義経の像で、象眼のある真鍮の鎧を着、種類はわからないが金属製の<御幣>を手にしていた。(中略)義経が自分たちに親切だったということが語り継がれて来たというだけの理由で、アイヌの人々の記憶の中に生きながらえてきたのには、何かほろりとさせられるものがあった。(『日本奥地紀行』 本文より)

義経神社は1798(寛政10)年、北方調査のため蝦夷地に来た近藤重蔵が、アイヌ民族が持っていた真鍮の鎧は昔々アイヌ民族を救った英雄の物という話を聞き、それは源義経に違いなと京都の仏師に作らせた義経像を御神体として祀ったのが始まり。

―――――生物・無生物を問わず自然を崇拝する中にあって、義経崇拝は唯一の例外をなすように思われる。彼らは義経のおかげを大いにこうむっていると信じており、これからも自分たちのために力になってくれると思っている物も一部にいる。(『日本奥地紀行』 本文より)

岩手県平泉町の衣川館で自刃したはずの義経は、実は蝦夷地で生き延びていたという伝説が北海道には数多くある。ここ平取(アイヌ名ピラトリ)でも、義経はアイヌ民族と融和し、農耕や船の作り方、操作、機織りの技法を伝授し、義経をカムイ(神)と尊敬していたと伝わっている。「義経北行伝説」は北海道の道南地方、特に日本海側沿岸に多く、最終的には、ここピラトリのアイヌコタンに辿り着き、アイヌ民族に崇拝されていたと言われている。この言い伝えは口頭伝承で、書物になったのはアイヌ民族と和人が交流を持つようになった江戸中期以降。アイヌ民族は自然の中のカムイ(神)を崇拝している民族である。真実はいかに。現在の社殿は日本建築であるが手水舎の屋根は葦で吹いたチセ(アイヌ民族の家)の作りをしている。

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―――――私は昨日[二十七日]アイヌの元を辞した。着たきりで眠り、身体も洗えなかったためにとても疲れたのは事実だが、ほんとうに名残り惜しかった。(中略)私に何度も会ったことのある人々は、私にお別れを言いたいと、手に手に土産をもってやってきた(その中には立派な熊の毛皮もあった)。もしもその半分でももらったとしたら、馬をもう一頭増やさねばならなくなるほどのたいへんな量だった。(『日本奥地紀行』 本文より)

明治初期のアイヌ民族が西洋人女性にも分け隔てなく接し、お互い思いやりを持って過ごした4日間交流を持てた証のエピソードではないだろうか。平取を出発したイザベラ・バードは箱館から蒸気船に乗り横浜へ向かった。




みごとなる長老の髭ぬくめ酒 髙橋真樹子




参考文献:イザベラ・バード(著),金坂清則(訳注)『完訳日本奥地紀行 3 (北海道・アイヌの世界)』(2012)平凡社 (東洋文庫 ; 823)


【北海道便り、髙橋真樹子さんより】


驟雨はや無かつたやうな緑かな イーブン美奈子

砲丸の木というグロテスクな植物がある。南アメリカ原産だそうで、英名はCannonboll tree。サガリバナ科ホウガンノキ属。

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この木はタイで大変よく見られる。タイ名は英語や日本語と同様「ルークプーンヤイ(砲丸)」というのだが、別名の「サーラランカー」の方が通りがいい。サーラとは、沙羅(娑羅)のこと。「祇園精舎の鐘の声……」の「沙羅双樹」だ。ランカーは、国名のスリランカを縮めたもの。つまり、「スリランカの沙羅双樹」だというのである。

私の知っている沙羅双樹とは、釈尊が涅槃に入った時、臥床の四方にあった双樹(二本で一対)で、白い花がはらはら散ったというものだ。インドではフタバガキ科サラノキ属のShorea robustaを指すそうだ。日本では主に夏椿のことを沙羅双樹と呼んでいるが、花は白いからいいだろう。ところが、この「スリランカの沙羅双樹」は白くもなければ、まさに砲丸としかいえない実をごろごろ付けるのだから、どうもありがたみが感じられない。

だが、タイでは、この木こそ沙羅双樹だと思っている人が多く(注)、寺の境内にもよく植えられている。本家本元のスリランカでは、涅槃図にこの木が描かれているらしい。どこでどんな風に入れ替わったのか教えて欲しいものである。

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先日、この砲丸の実を写真に撮り、日本の人に見せびらかしたところ、「中身はどうなってるの? 採ってきてみてよ」とリクエストされ、早速一つ盗みに行った。まあ、食べられる実ではなさそうだし、私以外に欲しがる人もいなさそうなので、白昼堂々、植木鋏を持ってコンドミニアム共同の庭へ。小さめの実を選んだつもりだが直径15センチ、重さは1.5キロほど。実の付け根の枝も太さ1センチはあり、苦労してようやく切り落とした。

さて、目的は中身を見ることなので、カッターナイフを当ててみたが、全く歯が立たない。皮というより、殻である。叩くと金属のような音がした。鉈か電気鋸でもなければ割れそうになく、結局断念した。

花期は特になく、ほぼ一年中咲いては実がなっている。落ちた実も転がったまま、見向きもされずに残っている。




驟雨はや無かつたやうな緑かな イーブン美奈子





(注)タイでは他に、インド沙羅(Shorea robusta)やタイ沙羅(Shorea siamensis)も沙羅双樹とされている。



【タイ便り、イーブン美奈子さんより】



ひとの世の不思議を想ふ金魚かな 田村史生

お祭りの縁日で、金魚すくいを楽しみにされていた方は多いと思うが、金魚すくいの達人が、1匹をどれほどのスピードですくうかご存知だろうか。

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(写真は、高級金魚らんちゅう)

奈良県北部に位置する大和郡山は、1580年に筒井順慶が築城し、豊臣秀吉の弟秀長の居城でもあった郡山城の城下町にして、全国屈指の金魚の街である。江戸時代、山梨・甲府の柳澤吉里が、国替えの際に金魚を持ち込んで以来、幕末から明治以降、藩士や農家の副業として盛んに行われるようになった金魚の養殖は、1970年代には国内はもとより海外へも輸出、当時ほどではないものの、今でも年間約6000万匹が流通しているという。
そんなわけで、大和郡山を歩くとそこらじゅう金魚だらけである。例えば、追手門・櫓・天守台等が復元されている郡山城址公園、その足元のマンホールには赤い金魚が描かれている。

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近鉄郡山駅近くの柳町商店街は、金魚ストリートと呼ばれ、ほぼ全ての店舗に金魚の水槽が置いてある。かつて話題になった電話ボックスの水槽は撤去されているが、自動販売機や自動改札口(駅ではない)の水槽は健在で、その中で金魚が悠々と泳いでいる。金魚が泳ぐカフェとして人気の「柳楽屋」で飲んだきんぎょソーダは、本物の金魚鉢に入れられていた。
 
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また、金魚グッズが揃う「こちくや」には、金魚すくい道場が併設されており、ちょうど訪れた日は月例杯が行われていて、大人も子供も真剣にポイを握りしめ水槽に向かっていた。道場に通う人のなかには有段者も多く、最高位は9段とのこと。

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金魚の養殖池がのどかに広がる辺りまで足を伸ばせば、金魚の養殖を始めて100年という「やまと錦魚園」が、金魚資料館を無料で開放していて、金魚すくいでお馴染みの和金から、1匹数10万円の値が付くという高級金魚らんちゅうまで、約40種類の金魚を見ることができる。

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尚、大和郡山では、毎年8月の第3日曜日に市立体育館その名も金魚スクエアで、全国金魚すくい選手権が行われている。個人戦(小中学生の部・一般の部)と団体戦(3人1組)があり(今年は個人戦のみ)、1人1枚のポイで3分間にすくった数を競う。過去の最高記録は87匹というから、ほぼ2秒に1匹という計算になる。ちなみに、奈良の場合は奈良県予選(さらにその前に大和郡山市予選)があり、奈良県民にとっては理不尽なほど(!)狭き門である。他都道府県の方で腕に覚えのある方は是非チャレンジを!金魚の街で、お待ちしています。

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ひとの世の不思議を想ふ金魚かな 田村史生

 



 【奈良便り、田村史生さんより】



はまなすの岸つづくこと国自慢 髙橋真樹子


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自粛中もお構いなしに遊びまわるエゾリス。胡桃を何処からか持ってきて食べては殻を散らかして。あらあらと言いながら日々片付けてやる。前回、小林一茶が蝦夷やおろしや(ロシア)句を詠んでいた事に感動さめやらず。一茶はいつ頃、この二つの国の様子に興味を抱いたのだろう。幕府は江戸時代中期まで「蝦夷のことは蝦夷次第」と蝦夷地を異域の地とみなし松前藩に任せきりにした。藩は「蝦夷地」に赴く人を許可制とし出入りを取り締まっていた。故に実情が江戸に伝わることは少なく、蝦夷地は辺境の地、鬼や獣のような人が住むところとイメージされてきた。「おろしあ」とはフィンランドから外満州まで広く支配していたロシア帝国の事と思われ、そこに住む赤い毛の異人を「赤鬼」、国を「赤蝦夷」と揶揄した本が市井に出回ったのは天明3年(1783)頃である。内容は獣のような人が住む蝦夷地の更に北には、地獄の赤鬼のようなものがいると庶民に思わせた内容から、千島列島(北方領土)を南下しアイヌと交易を始めたロシア商人と幕府が直接交渉することを勧めたものまで。この頃の一茶は20代前半。俳人大川立砂宅に奉公していたが、関連した句は残されていない。まだ耳にしていなかったのかも知れない。寛政4年(1792)、ロシア人ラクスマンが伊勢国からロシア帝国へ流れ着いた伊勢国の漂流民、大黒屋光太夫と小市、磯吉を連れ蝦夷地は根室に訪れ開国を迫る。松前藩は長崎へ行くよう促すがラクスマンは3人を置いて松前より帰国した。後年、磯吉と一茶は後年夏目成美の俳句サロン随斎会で対面する事となる。ラスクマン帰国から10年後の文化元年(1804)9月、長崎にロシア人レザノフが皇帝の親書を携えて長崎に来航。一茶はこの頃初めて「蝦夷地」や「おろしあ」の噂を江戸の町で聞いたようだ。一説には四国の旅の途中に耳にしたという話もある。



門の松おろしや夷の魂消べし
梅が香やおろしやを這はす御代に


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幕府が厚岸に建立した臨済宗 国泰寺の三つ葉葵


レザノフが長崎に来航した文化元年(1804)、幕府はロシア帝国に蝦夷地を奪われアイヌとタッグを組み攻撃されては一大事と考え、今まで松前藩任せにしていた蝦夷地の直轄に乗り出し、先住民であり独自の文化を持つアイヌへ和人化、仏教への改宗を強要した。このような情報は、幕府の役人や随行員により逐一江戸にもたらされた。一茶は先住民の存在を知らず、未開の地の人々に仏教文化が開花して行くことを素直に喜んだ。また、大黒屋光太夫と10年の漂流生活から帰国した磯吉が夏目成美の別邸に招かれ、「おろしあ」話を披露したことが一茶の日記で確認することができる。



御仏やエゾの果迄御代の鐘
おくゑぞや仏法わたる花も咲

 

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幕府は松前藩や近江商人に任せてきたアイヌとの交易権を幕府自身が直接交易に関わる方式に切り替え、息のかかった江戸商人たちに委ねられ続々と経済資本が進出してきた。これを聞いた一茶は素朴な人々であろう先住民アイヌにとって蝦夷地に行った商人はなんてひどい事をするのだと、アイヌの人々の気持ちを代弁している。



来て見ればこちらが鬼也蝦夷ヶ島
商人やうそをうつしに蝦夷が島



文化9年(1812)、一茶は50歳を迎え故郷柏原に腰を落ち着けた。所帯持ちとなり「おらが春」を迎えたが、蝦夷地への関心はさらに続いた。ナポレオンによるロシア遠征の年、千島列島で測量をしていたロシア艦隊のゴローニンが国後島の松前藩士に捕縛された年でもある。



ゑぞ鱈も御代の旭に逢ひにけり



           
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アイヌの住宅「チセ」天井から吊るし囲炉裏の煙で燻している鮭や鱈。この干鮭や干鱈が松前より北前船で日本海は敦賀まで。北国街道を通って柏原の一茶に届いたのであろう。柏原に腰を落ち着けた一茶へ蝦夷地の情報を届けたのは前回ご紹介した岩間乙二である。松前藩家老である蠣崎波響に雇われ、箱館や松前に滞在し俳諧で活躍する傍ら、幕府直轄地から松前藩蝦夷地復帰運動に加わっていた乙二。書簡の内容をすべて鵜呑みできないかも知れないが、弱者の生活を他人事とは思えなかった一茶にとって江戸商人の悪徳ぶりは許すことはできなかったのではないか。



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はまなすの岸つづくこと国自慢 髙橋真樹子





【北海道便り、髙橋真樹子さんより】



この色もその色も好き更衣 イーブン美奈子

ようやく出会えた花がある。カンラパプルックという大樹の花だ。「タイ桜」と呼ばれる花の一つで、戦中の在タイ邦人も故郷を偲びながら眺めたという。文献にはよく出てくるのに、どんなに探してもこれまで見つからなかった。

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(4月15日、バンコク)

カンラパプルックはマメ科で、英名はピンクシャワーなど。2~4月にピンク色の花が咲き、散る頃に白へ変わる。

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(4月15日、バンコク)

このカンラパプルックには、様々な伝承があって面白い。『三界経』(注1)という仏典には、北倶盧洲(ほっくるしゅう)(注2)に高さ100ヨート、枝葉を伸ばした幅100ヨートのカンラパプルック樹があると書かれているそうだ。1ヨートは16キロメートルだから、スケールの大きな話だ。ここで願い事をすると富が得られるとか。また、ヒマパーンの森(注3)の七湖の一、チャッダンタ湖のほとりにあるという言い伝えもある。

カンラパプルック樹は理想の木とみなされ、至上の天界の象徴となった。寺院の壁画には、枝々に金銀財宝が吊るされた木として描かれ、幸福が表現されている。スコータイ時代から、寺で行事があるときにカンラパプルック樹に見立てた木(何の木でもよい)を立てる風習があったそうだ。「カンラパプルック樹」に吊るした色紙の番号で景品がもらえる福引は、おそらく今でもあると思う。

実は、私は「幸福」イコール「財宝」という表現にこれまで首をひねっていた。タイの人たちはお寺に行くと必ずといっていいほど金運を願うし、人の誕生日には「おめでとう、健康でお金が儲かりますように」と祝福する。物質主義のようで、どうも好きになれなかった。

だが、よく考えたら、精神的な幸福とは衣食住が満たされて初めて望めるものである。つまり、タイの人たちは最低限の幸福しか欲しがっていないのだ。金銭のことを言わない方が豊かな人間であると勘違いしていた自分の傲慢を、今ちょっと反省している。

さて、長い間探していたカンラパプルックは、なんと家近くの運河端に咲いていた。『青い鳥』みたいな話だが、新型コロナウイルスの蔓延で遠出ができない状況になっていなかったら、未だに気づかぬままだったかもしれない。




この色もその色も好き更衣 イーブン美奈子




(注1)タイ語は『トライプーム』(1345)。スコータイ朝のリタイ王が著したという仏教宇宙論。
(注2)須弥山(しゅみせん)をめぐる四大洲(四大陸)の一つ。 北方にあって、他の三洲よりすぐれ、寿命千歳の楽土という。
(注3)須弥山の麓にあるとされる森で、『三界経』や、『ラーマーヤナ』のタイ版である『ラーマキエン』に著されている。想像上の様々な動物が棲む。


【タイ便り、イーブン美奈子さんより】


この先の花は如何と問はれけり 田村史生

さて、前回の続きて、吉野である。すっかり新緑の季節となったが、1か月ほど時を戻そう。

*写真は、西行庵
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中千本から上千本へは、上り坂を延々歩き、花見というよりもハイキングの様相となってくる。特に花矢倉へ向かうくねくね道は、舗道を歩いても、近道である急な山道を登っても、運動不足の身にはかなりきつい。周囲を桜に囲まれていなければ、たぶん無理。花に押されて何とか進む感じである。辿り着いた花矢倉展望台からは、金峯山寺蔵王堂をはじめ吉野の街並みを桜が埋め尽くす絶景を望むことができる。よくポスターで見かける、これも吉野を代表する景色である。なお、花矢倉の名は、源義経の忠臣佐藤忠信が、追い来る兵に矢を雨のように浴びせたこと、にちなんでいるという。

*写真は、花矢倉展望台より
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花矢倉を超えてしばらく行くと正面に吉野水分(みくまり)神社の楼門が見えてくる。水の配分を司る天之水分(あめのみくまり)大神を主神とし、「みくまり」が訛って「みこもり」となり、子授けの神として信仰を集めているという。社殿は、この神社の霊験によって誕生されたとされる豊臣秀頼によって再建されたもの。境内の枝垂れ桜が名高い。
その先は、徐々に人家も少なくなり、山道となってくる。途中、高城山展望台というこれも桜の名所を過ぎ、ようやく奥千本口に到着する。奥千本口へは、中千本からマイクロバスで来ることもできるが、バスに乗るとそれはそれで、別の林道、木々に遮られた暗い道を揺られるうちに、同じ吉野でも随分遠くへ来たなあと感じることとなる。

*写真は、吉野水分神社
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奥千本口にある修行門から、とてつもなく急な坂を上りきると、金峰(きんぷ)神社がある。参道の左右には、吉野には珍しくソメイヨシノが植えられている。金峰神社は、吉野山の地主神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)が祭神。修験道の行場で藤原道長も祈願したと言われる。すぐ近くに、源義経が弁慶らと追っ手から逃れるために隠れたという義経隠れ塔がある。金峰神社の鳥居の前にも、一本の枝垂れ桜があり、これもまた美しい。

*写真は、金峰神社
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金峰神社からは大峰山へ向かう山上道を進む。ここからは、れっきとした登山である。山上道をそれ、谷筋の細道を崖から転げ落ちないよう注意深く降りていくと、え、こんなところにという感じの小さな空地が開け、ひっそりと、本当にひっそりと置かれているのが西行庵である。西行が3年ほど隠棲したとされるこの場所は、桜の名所にして紅葉の名所、近くには西行が水を汲んだとされる苔清水があり、今も水が湧き出ている。それにしても、どなたが名付けたか知らないが、「下千本」「中千本」「上千本」ときて、この地を「奥千本」としたのは、なるほど、である。吉野のどの桜も素晴らしいが、奥でひっそりと出会う花もまた味わい深い。

*写真は、西行庵への道
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そう言えば、今年複数のTV番組で吉野の桜が特集され、所謂花守の方々のお仕事が紹介されていた。わずか3人で3万本の桜の世話をされているという。勿論1年間毎日世話をされているわけで、僕などは、僅か1週間の見頃のために大変やなあとか思ってしまうのだが、桜にとっては、花が咲いて散るのも1年間の営みの中の過程にすぎないということを改めて認識した次第。でも、その1週間に一喜一憂するんですよね、やっぱり。これからも。

*今回の写真は全て昨年以前のものです。


 

この先の花は如何と問はれけり 田村史生




【奈良便り、田村史生さんより】


新茶汲むときには蝦夷の話しなど 髙橋真樹子


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今年の桜開花は観測史上2番目に早かった。3月の気温が高めだったことが要因のようだが、年々早くなっている。北海道は雪解けとともに福寿草が咲き、蕗の薹が斑雪の間に顔を見せる。辛夷が咲けば桜、桃、梅と続く。白樺も芽吹き足元にはクロッカス、水仙、チューリップ・・・三寒四温を繰り返しながらではあるが長い冬という重荷をおろし、開放感に満ちた季節である。最南端の町、松前町は北海道の中でいち早く桜の開花を迎え桜の名所松前公園では約250種、1万本の桜が咲き誇る。大山桜、染井吉野、南殿・・・また松前ならではの品種も可愛らしい。

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<南殿>


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<翁桜>


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松前の地域品種<江良>


松前町は4月に椿も咲く。北海道内で椿!温暖なこの地域に限って植栽されている。松前町に椿を植栽したのは中世に北前船など海運業で財を為した近江商人。

 
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<松前公園の椿>

幕末まではアイヌ人が住む「蝦夷地」と思われている北海道。実はこの松前町には鎌倉時代から和人と言われている人々が住んでいた。日本海の親潮に乗った船が漂着したのが始まりと、または秋田、津軽、津軽地方から新しい生活を求め移住してきた人々、源頼朝の奥州攻に敗れた藤原泰衡の残党がのがれてきたとも伝えられている。1380年前後(足利義満が花の御所に居を構え頃)、近江八幡やその周辺の商人が琵琶湖を経由し敦賀から船で渡ってくるようになった。船には米や味噌、着物等の生活必需品が積まれ、帰り航路は松前の海の産物(昆布、干鮑、干貝柱)を大阪、京都に運び、それらは遠く唐津や果ては中国までも運ばれ勢力を拡大していった。巨額の富を得た商人は松前にも邸宅を構え近江と同じ庭を作るために椿を植栽し現在に至っている。近江商人はたくさんの文化も運んで来た。信仰や文芸、寄港地の芸能(唄、民謡、踊り)や言語(方言)・・・それらはこの松前の地に馴染む様に変化を重ね熟成した。江戸時代後期の松前藩家老、蠣崎波響は画を京都の円山応挙に師事し俳句は奥州俳諧四天王の一人、松窓乙二と交流を持った。乙二は夏目成美の随斎庵で小林一茶と知り合い、書簡を交わす仲となった。一茶と蝦夷地に繋がりという、予想だにしない事実に驚き興奮!しかも蝦夷地にまつわる句を詠んでいるではありませんか・・・・

神国の松をいとなめおろしや舟
春風の国にあやかれおろしや舟

文化元年の句。前句の「松」は松平、徳川の事。我が国の神の権威や幕府の外交にロシアは何もできまいと言わんばかり。後句の「春風」は「神風」を表しているのか。江戸ではロシアを「赤蝦夷」と揶揄したり、幕府は東蝦夷地(現在の道東)を直轄地としてアイヌの和人化政策による蝦夷地の経営を始めた頃。ロシア人レザノフの長崎来航事件の直後に詠んでいる。世情に敏感に反応する一茶が伺える。
 
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<蝦夷錦の山丹服>市立函館博物館より許可を頂き掲載

蝦夷錦は清朝からアムール川(中国黒竜江)、樺太を経由しアイヌの人々から近江商人にもたらされた。赤地または紺地に金糸、銀糸などで雲竜の文様を織り出したもの。鎖国の時代ではあったが山丹人(樺太沿岸の民族)やロシア人が貿易を求めて蝦夷地に来ていたことは江戸に住む市井の人、一茶の耳にまで届いていた。

ゑぞ鱈も御代の旭に逢いにけり
塩引きやエゾの泥迄祝はるる

一茶が柏原に帰郷した後の句。北信濃にも近江商人があやつる北前船が運ぶ、鱈や鮭の塩引きが流通していたことが伺える。鱈や鮭の珍しさや美味しさは伝わってくるが「エゾの泥迄」というあたり、見下しや偏見が見えかくれしているようだ・・・

芭蕉忌やエゾにもこんな松の月

夏目成美の俳諧サロン「随斎会」等で交遊のあった俳人松窓乙二。乙二は松前藩の家老蠣崎波響とも交流があり、その縁で松前や箱館に長逗留し俳句結社「斧の柄社」を結び同地では俳壇の指導にもあたった。
芭蕉を慕った乙二は蝦夷地でも芭蕉忌を催し、一茶とも書簡のやりとりをしていた。「松の月」の「松」は松尾芭蕉の「松」か「松前」の「松」か。この句は蝦夷もまた良きところと感じてくれたかなと期待してしまう。

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江戸風を吹かせてゆくや蝦夷が島
来てみればこちらが鬼なり蝦夷が島
商人やうそうつしに蝦夷が島

これらの句が詠まれた前年、幕府は蝦夷地を直轄地とし江戸の息のかかった商人を大勢送り込んだ。それまで蝦夷地は「鬼のような姿の人が住み」「風雅や文化も寺もない」「銭金さえない未開の土地」というイメージと偏見を抱かれていた。しかし、一茶は乙二らを通じ蝦夷地の実情を知る事で「江戸風」を吹かせて暴利を貪る日本の商人こそ鬼ではないか!と庶民派らしい目線で詠んだ。実は近江商人の時代からすでに「こちらが鬼」だったのだ。「うそうつし」も・・・
北海道は文化の歴史がつまびらかになっている時代は短く、日本の他の地域より圧倒的に少ない事はどこか淋しい。そんな中、一茶が蝦夷地に興味を持ち、乙二との書簡を通し、偏見を持った見方から幕府のやりように蝦夷地の立場を思いやるような掲句を詠むまでの心の変わり様を知れて一茶の時代の移り変わりへの敏感さにおおいに励まされた心地である。

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<松前町福山波止場から眺める津軽海峡。かすかに見えるのは津軽半島>





新茶汲むときには蝦夷の話しなど 髙橋真樹子






【北海道便り、髙橋真樹子さんより】


鶏の土突つきゐる涅槃かな イーブン美奈子

 田舎から、朱欒が来た。新型コロナウイルスの発生以来、タイでも宅配便や通販、デリバリーが大活躍している。

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 朱欒を送ってくれたのは、義理の叔母だ。数年前に夫が会社を早期退職し、田舎に引っ込んで姉たちと暮らしている。世の中はコロナで不景気だから、さっさとスローライフに移行したのは、後から思えばいい決断だったかもしれない。とはいえ、田舎とは暇なもの。それで、朱欒の世話にハマっているというわけだ。

 初めて知ったのだが、朱欒は実がついてから、食べられる大きさになるまで、半年近くかかる。タイでは、年に2回収穫できる。普通は、4月くらいと、12月くらいだ。そして、おいしいのは断然、暑季真っ盛りの4月の方である。

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 タイ語で朱欒はソムオーという。バンコクでも、よくソムオー売りを見かける。ピックアップトラックにたくさん積んでやって来て、その場で手早く剥いてくれるのだ。私も見よう見まねで、田舎から来たまるまる一個の朱欒を剥いた。厚い皮はくるくる剥いてもいいが、最初に包丁で実全体を四つ割にしてからの方が簡単。それから外皮の内側にある白い綿のような皮を剥がし、包丁で芯を切り落としながら房を一つずつ分けていくが、下手に扱うとばらばらになってしまう。一個全て剥き終えた頃、ようやくコツがつかめてきた。

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 朱欒は、もちろんそのまま食べるが、タイ料理には“ヤム・ソムオー”という和え物もある。ほぐした朱欒に、ナムプラー、砂糖、ライム、唐辛子などで味を付け、好みで茹で海老や赤玉葱などを添える。

 さて、その叔母自慢の朱欒だが、甘くてみずみずしくて最高だった。もぎたてに敵うものはないと感動した。実は、ここまでは昨年の話。今年の4月も楽しみにしていたのだが、なんと3月に大風が吹いて十数個もの実が全部落ちてしまったそうだ。残念極まりない。




鶏の土突つきゐる涅槃かな イーブン美奈子




【タイ便り、イーブン美奈子さんより】

法螺貝の声満山に花の朝 田村史生

奈良に住んでみて一番よかったことは、吉野へ気軽に行けるようになったことかもしれない。
吉野山にはシロヤマザクラを中心に三万本の桜があるという。特に名高いエリアが、麓から順に下千本、中千本、上千本、奥千本と続く。といっても、下千本から奥千本まで全て歩くとすれば片道約三時間、花見というよりは、登山寄りのハイキングという感じである。また、開花や満開も下千本から順に始まり移っていくので、全山満開という時期はない。例えば、今年の吉野の満開予想は、例年より早く下千本四月二日頃、中千本四日頃、上千本七日頃、奥千本十二日頃だそうである。なので、それぞれの見頃に合わせて、毎年二~三回は吉野へ通うことになる。
*写真は中水神社からの「一目千本」

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下千本へは、近鉄吉野駅からロープウェイで、徒歩であれば七曲りというくねくねの坂道を登って行く。車の場合、すぐ近くに下千本駐車場があるが、桜の時期は厳しい交通規制があり通行禁止である(昨年は新型コロナ感染症の影響で花見客が少なく、例外的に駐車場まで行くことができた。)。下千本は吉野山の入り口であるが、そこはもう既に別世界である。
*写真は下千本展望台から

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下千本から中千本へは、土産物屋や茶屋に挟まれた参道を進むことになる。銅の鳥居(かねのとりい)を過ぎると、やがて、前方に巨大な屋根が見えてくる。金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂である。吉野・大峰やさらに続く和歌山の熊野は山岳信仰の聖地とされ、山伏や修験者が活動していた。その山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し発達したのが修験道であり、その開組とされている役行者(えんのぎょうじゃ)が創立したのが金峯山寺である。本尊蔵王権現三体(幼い頃のうちの子供たち曰く「青い人たち」)は、日本最大の秘仏とされ、その独特の像容にはいつも圧倒され、魅きつけられる。毎年春と秋に御開帳されていて、今春は三月二十七日~五月五日に公開予定である。
*写真は金峯山寺蔵王堂

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金峯山寺を過ぎた辺りからが、中千本エリアでも最も賑わう場所である。吉野名産の葛餅や桜ようかん等を売る和菓子屋、巨大な蛙が出迎えてくれる陀羅尼助(だらにすけ)丸の薬屋、そして、かつて古志の花の句会が行われていた櫻花壇をはじめとする由緒ある旅館が建ち並ぶ。ほとんどの旅館は、表から見ると平屋か二階建てだが、裏が急な崖となっているため、下へ向かって二階、三階となっていく。所謂吉野建てと呼ばれる特殊な作りで、一階奥にある広間は、谷を挟んで山と向かい合っていて、特に桜の時期は絶景となる。櫻花壇の前には、季語と歳時記の会により植樹された山桜と紅枝垂れ桜が一本ずつ、その側の立て札には、櫂先生の「幸の桜」という文字が書かれている。見下ろす谷の川沿いには、島崎藤村ゆかりの秘湯吉野温泉元湯があり、また、中千本から向かいに見えるのが如意輪寺で、後醍醐天皇の勅願寺であり、楠木正成の息子正行が最後の出陣の折、扉に刻んだ歌などが残っている。
*写真は櫻花壇

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下千本を通らずに中千本へ行くには、吉野駅からバスに乗るか、車であれば、桜の時期も通行可能な如意輪寺まで行き(駐車場が空いていればであるが)、そこから谷を越えて歩くか、そして裏技は、川沿いの吉野温泉元湯から(これも駐車場が空いていればであるが)、急峻な小道を一気に歩いて登るかである。一昨年の花の句会、僕は所用があり一泊が叶わず、二日目のみの参加であったが、朝出発が遅れてしまい、車をすっ飛ばして、何とか朝の句会の投句に間に合った。その時、運動不足の体に鞭打って、半泣きになりながら登ったのがこの小道である。(その節は、関係者の皆様にご迷惑をお掛けし、失礼いたしました。)
*写真は中千本公園からの如意輪寺

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そして、その小道を登り切った所にあるのが、吉野でも随一の桜の鑑賞ポイント、吉水神社である。ここも役行者による創立とされ、後醍醐天皇の潜居先のひとつであり、源義経と静御前の別れの場所であり、太閤秀吉の花見の宴の舞台でありと、何度も歴史に出てくる神社である。吉水神社からは、花盛りの中千本から上千本にかけてを一望することができ、この景色こそが「一目千本」と呼ばれている。境内の隅に小さなカフェができていて、そこで見事な花景色と一緒に味わう桜餅は、もう、絶品である。
*写真は中千本公園

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あー、書き切れない。ここからは上千本、奥千本と、さらに山の奥へと入り込んでいくことになるが、それは次回にさせていただくということで。今年も日本全国で思う存分、桜が咲き誇りますように。
*今回の写真は全て昨年以前のものです。

 



法螺貝の声満山に花の朝 田村史生





【奈良便り、田村史生さんより】


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