古志青年部

古志青年部は、「古志」俳句会の50歳未満の会員からなります。

「漱石の一句」(七) 関根千方

明治34年9月、子規が死んだとき、漱石はロンドンにいました。11月になって子規の訃報を知らせる虚子の手紙が届きます。漱石は子規追悼文を返送しますが、そこに「倫敦にて子規の訃報を聞きて」と前書きをした句が詠まれています。



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筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
招かざる薄に帰り来る人ぞ


末尾に「皆蕪雑(ぶざつ)句をなさず」とあり、漱石の動揺ぶりが伺えます。当時、漱石は神経衰弱、今でいう鬱病を発症していました。この時ちょうど、文部省から命じられて12月に帰国するところでした。

そんなぎりぎりの精神状態の中であったにも関わらず、漱石は手紙に俳句を詠むわけです。まず、そのことに驚かされます。これは単なる「創作意欲」などというものではないし、「義理人情」という言葉でも軽いものがあります。どんな状態にあっても、死者となった人生最大の友を悼む、純粋な力が俳句を詠ませるのだと思います。

そして、もう一つ驚かされるのは、漱石がたとえ最悪の精神状態であっても、句が詠めるだけの力を身につけていたということです。

話は少し変わりますが、先日、身近な人の死をテーマに俳句を詠まれた方(Aさん)から、気になる質問を受けました。「この連作、ぜんぶフィクションだったらどうですか?」と。その方は俳句の創作過程で「これはフィクションでも作れる」と思ったそうなのです。

これは私にとって、俳句における虚実の問題をあらためて考えさせられた出来事でした。このとき、私は「おそらく句の評価が変わらないと思いますが、句を作った人間の評価は変わると思います」と答えました。しかし、そう答えながらも、どこかしっくり来ず、気になるものが残りました。

たしかに、自分の経験したことでなければ句が詠めないわけではありません。王朝時代の歌も、行ったことのない場所を詠んだり、してもいない恋を詠んだりすることは普通でした。いまでも連句を巻くときなどは、経験を離れて、時代や場所を越え、年齢や性差も越えて、自由な想像だけで句を詠みます。Aさんが「フィクションでも作れる」と思ったのは、考えてみれば当然です。

フィクションは偽り(False)ということではありません。むしろ、想像力によって創作されるものは、すべてフィクションです。真偽については括弧に入れる。善悪や美醜、聖俗などについても、実は同様に括弧に入れます。俳句は創作である以上、事実の報告ではないし、また完全な絵空事でもない。


猿を聞人捨子に秋の風いかに (野ざらし紀行)


上五の「猿を聞人」は、猿の鳴き声に涙した詩人・杜甫のことです。杜甫は、子どもをとられて鳴く母猿の腸がずたずたにだったという故事(「断腸」の語源)をふまえた詩を「秋興八首」の中にのこしています。芭蕉は、捨て子に《袂より喰物なげてとをる》、つまり食べ物を投げてやっただけでそのまま見捨て行ったと書いています。しかし、この捨て子が実際にいたのかどうかは、さだかではありません。

一家に遊女も寝たり萩と月  (奥の細道)


この芭蕉の句も実際の出来事なのかどうなのか、よく語られますが、現実か否かはっきりしません。むしろ、実際の出来事なのか、フィクションなのかが問われるようになったのは、近代以降といっていいと思います。

柳田国男は「故郷七十年」のなかで、若いときに作詩、作歌の題詠の稽古をしたことが、一種の情操教育となったと述べています。つまり、実際の恋を知らないうちに、恋の歌の詠み方を教養として身につけたということです。

そして過去を振り返ってみて、《ロマンチックなフィクションで、自分で空想して何の恋の歌でも詠める》という側と《自分の経験したことでなければ詠めない》あるいは《ありのままのことを書く真摯が文学だ》という側との二つの対立を経験したと書いています。

では、漱石はどうだったか。漱石はどちらにも与せず、調和すべきと論じました。

《かくして人心の向上に念がある以上、永久にローマン主義の存続を認むると共に、総ての真に価値を発見する自然主義もまた充分なる生命を存して、この二者の調和が今後の重なる傾向となるべきものと思うのであります。》(教育と文芸)

漱石がこだわったのは、そもそも「文学とは何か」という問題でした。ロマン主義であれ自然主義であれ、それが文学であるならば、そこには同様に立脚すべき何かがなければならないと考えていました。この「文学とは何か」という問いに正面から向き合い(『文学論』)、そして行き詰まったあと、漱石が見出したものは「自己本位」ということでした。

漱石は大正3年、東京高等工業学校の学生たちへの講演で、科学者と文学者の違いについて、こんなことを言っています。 

《あなた(工業学校の学生)の方では技術と自然の間に何ら矛盾はない。しかし私どもの方には矛盾がある。即ちごまかしが効くのです。悲しくもないのに泣いたり、嬉しくもないのに笑ったり、腹も立たないのに怒ったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとするので――これはある程度まで成功します。これは一種のartである。(中略)かくartは恐ろしい。われわれにとっては、artは二の次で、人格が第一なのです。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心にして考えるということです。一口にいえば、文芸家の仕事の本体即ちessenceは人間であって、他のものは付属品装飾である。》

虚実や真偽といった対立だけではありません。内容と形式であれ、オリジナルと模倣であれ、どちらかがあればいいわけではない。両方にいい面と悪い面があるのは当然です。漱石にとって、それらは二次的な付属品であり、重要なのは、自己という人間に立脚することでした。それは現代を生きる我々にとっても、少しも変わらぬ問題のように思えてなりません。

*:正岡子規も『俳諧大要』のなかで、こんなことも言っています。
《空想と写実を合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず、空想に偏璧し写実に拘泥するものはもとよりその至る者に非るなり》(正岡子規『俳諧大要』)


【漱石の一句、関根千方さんより】

「子規の一句」(七) 岡崎陽市

先月8月19日(土)・20日(日)に、
愛媛県松山市で第20回「俳句甲子園」が開催された。
 
子規・漱石生誕150年記念大会でもあったようだ。
 
今年の優勝は、開成高校。
準優勝は、愛知県立幸田高校。
 
最優秀句は、開成高校・岩田奎さんの句、
 
「 旅いつも雲に抜かれて大花野 」
 
開成高校の優勝は、今回で通算10回目。
 
市内大街道商店街で開会式・予選などが行なわれる大会初日は、松山の夏の風物詩となっている。
 
雨で順延となっていた松山市三津浜花火大会も、20日(日)の夜に開催された。すぎゆく夏を惜しむかように、11000発の花火が夜空をいろどった。
 
 
すでに歴史ある大会となっている俳句甲子園。
 
今年で第20回ということは、今回参加した高校生たちが生まれる前から開催されている俳句大会ということになる。
 
当然なのかもしれないが、若手の俊才も多く輩出している。
俳句の新時代をひらいていくであろう方々。
 
古志青年部部長・石塚直子さんも、下館第一高校のメンバーとして第8回大会で準優勝。今後もご活躍が期待される一人だ。
 

 
 
心清ししばらく蝿もよりつかず   子規
 
 
明治30年の作。
清談と前書きがある。
蝿は三夏の季語。
 
心が清らかに澄んでいる。身体から発せられるそうした気配をかんじとって、しばらくは蝿もよりつくまい。
 
清談は、世俗的ではない趣味・芸術・学問の話のこととある。
 
文学について仲間と語りあっているのだろう。そしてその興奮がさめたころには、しんと澄みきった心持ちになる。
 
ご経験のある方もおられるのではないかと思う。
 
この句は、そうした目には見えない心持ちを、目に見えるように詠んである。
 
心清らかに居ることを示すために、その逆の存在である蝿をもってきた。そこにこの句の巧みさを感じた。
 
くすっと笑ってしまうようなおかしみも含んでいる。
「しばらく」という措辞も的確で揺るがない。
 
この年、子規は満30歳。
若い仲間たちが集まっての清談だったなら、みな理想に目をかがやかせていたことだろう。
 
 
年表には「松山で、俳句雑誌ほととぎすが創刊される。12月24日、子規庵で第1回蕪村忌。」とある。
 
明治30年の句。以下にも惹かれました。
 

一つ落ちて二つ落ちたる椿哉
団扇出して先づ問ふ加賀は能登は如何
枕もとに長命菊のさかりかな
わが物も昔になりぬ土用干
朝顔のさまざまの色を尽す哉


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参照②  蠅|季語 


【子規の一句、岡崎陽市さんより】

第十一回古志青年部ネット句会(2017年秋)

古志青年部ネット句会のご案内です。


【第十一回古志青年部ネット句会(2017年秋)】

●日程
 投句期間:9月1日から9月19日まで
 選句期間:9月21日から26日
 選が見られる期間:9月28日から翌月20日まで

●句座
 三句出句三句選

●兼題
 


石塚直子


「漱石の一句」(六) 関根千方

明治29年の作品にこんな句があります。
 

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累々と徳孤ならずの蜜柑かな


論語の「子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り」(徳不孤、必有鄰)を使った一句。徳のある者は決して孤立することはなく、必ず隣に慕ってくる者がいるという意味です。ご存知の通り、漱石は「木曜会」をはじめとして、弟子が豊富で、後年「漱石山脈」と言われるほどでした。この句が読まれたのは熊本時代ですが、五校の学生が漱石を主宰にして、俳句結社(紫瞑吟社)を立ち上げるほど、すでにその「徳のある者」の傾向がみられます。
 
たしかに、漱石が徳のある人物であったことは、疑いようがありません。しかし、老子の言葉に「上徳は徳とせず、是を以て徳あり」(上徳不徳、是以有徳)という言葉があるように、ほんとうに徳の高い人は徳にしばられることがないと言われます。なので「徳は弧ならず」と声高に言ってしまえば、有徳とは言えなくなってしまいます。そう考えると、この「蜜柑」が上手く効いていることがわかってきます。つまり、論語を上手く脱臼しているようにもとれます。
 
つまり、この「蜜柑」はアレゴリーです。漱石が赴任した愛媛も熊本も蜜柑の名産地であり、もちろんその風土からきた素材ですが、この「蜜柑」にはそれだけではない、何らかの抽象性を帯びています。

徳治主義、つまり徳のあるものが民を治めるべきだという考えは、儒教の政治思想です。そもそも論語が書かれた時代は戦国時代であり、国家の枠組みが流動的で、価値観も安定しない下克上の時代です。簡単に言えば、儒教は争い合っている統治者への批判でもあったわけです。儒教だけでなく、諸子百家による哲学はそういう時代に生まれたものです。
 
漢学に通じていた漱石は、おそらく本来の徳治主義とは程遠い、明治政府に対して、違和感を持っていたのではないでしょうか。深読みすれば、そこに「徳孤ならずの蜜柑」を持ってきて、政権を批判しているようにもとれます。本当の徳を知るものたちは、政権のないところに累々と転がっているのだと。
 
漱石は晩年、国家から文学博士の学位記を授与されますが、辞退しました。辞退の理由は「是から先もただの夏目のなにがしで暮らしたい」というものだったそうです。漱石の「自己本位」は、このように自由な存在=蜜柑であることを貫くことです。
 
繰り返しますが、漱石には自然と弟子が集まってきて「漱石山脈」と呼ばれるような人のつながりを育てました。漱石は身分や権力によってではなく、自由な個人であることを貫いて生きてきたからこそ、人が慕ってきたわけです。結社もそういうものでなければならないと思います。
 


【漱石の一句、関根千方さんより】


「子規の一句」(六) 岡崎陽市

正岡子規の一句鑑賞。その6回目。
 
今回は明治29年の句のなかから1句選んだが、以下の2句が気になってさいごまで迷った。
 
 
春の山畠となつてしまひけり
 
鶯の鳴きさうな家ばかりなり
 
 
拙いながら、まだひろく世に知られていない子規の佳句をご紹介したいと考えているのだが、選句は本当に大変だ。
 
俳句誌を主宰している方々は、毎月毎日、何百という句の選をされているわけだから敬服する。
 
しかも仕事はそれだけではない。
 
自らも佳句を詠み、独自の俳風をひらき、会員を育て、俳句の世界にとって有益な業績もあげてゆかねばならない。様々な雑事にも追われることだろう。
 
優れた俳句を詠む方はたくさんいるが、俳句誌の主宰については誰にでもつとまるものではないと感じた。
 
迷った末、今回はこの句を選んだ。
 

 
鶯の鳴きさうな家ばかりなり     子規

 

明治29年の作。
根岸と前書きがある。
鶯は三春の季語。
 
子規庵のある東京根岸の春の家並み。日がうららかにさして、どの家からも鶯の鳴き声がきこえてきそうだ。
 
めでたさ・華やかさという点ついて、こちらの句が秀でていると感じた。
 
春の山の句は、山が人の手によって畑となるまでのこつこつとした営みを、読者に思わせてくれる句だ。鶯の句と同様に景も大きい。「なつてしまひけり」と拍子抜けしたような感慨も面白かった。
 
だが、鶯の句のすべての家々をまぶしんで言祝ぐようなめでたさ・華やかさがとても心地よかった。
 
根岸は鶯の名所だったようだが、根岸だけでなく、日本中の春の家並みを讃えているかのようにも感じられた。
 
 
この年、子規は満29歳。年表には「カリエスと判明し、手術。仰臥の状態となる。新聞日本に『俳句問答』を連載」とある。 
 
明治29年の句。以下にも惹かれました。
 

紙あます日記も春のなごり哉
えらい人になつたさうなと夕涼
団扇もて我に吹き送れ不二の風
夕烏一羽おくれてしぐれけり
障子明けよ上野の雪を一目見ん



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参照①  鶯|季語 
参照②  根岸  子規庵 
参照③  新聞「日本」


【子規の一句、岡崎陽市さんより】


大太刀の奉納の日や初蛍 前田茉莉子

 日本刀の魅力はどこにあるんだろうか。母曰く、私は博物館に連れて行くと、子供の頃から日本刀を食い入るように見ていたらしい。あまり記憶はないのだが、あの恐ろしい美しさに子供の頃から憑りつかれていたのかもしれない。
 大人になって、友達の影響で私の中での日本刀ブームに火をつけることになった。きっかけはゲームだった。日本刀を見に、博物館に行き、様々な本を読んだ。日本刀は、美しさも1つの魅力だ。また、持ち主が変わる名刀も多い。そのため、名刀の代々の所持者を知ると、日本の歴史の流れが分かるのもまた、魅力の一つと言えよう。
 その名刀の1つ。熊本の蛍丸。少し前の熊本便りでも紹介したものだ。熊本地震によって、奉納先である阿蘇神社の全壊。再現プロジェクトは途絶えるのではと大変心配されたが、その阿蘇神社よりプロジェクトを続けてほしいと依頼され、そして、6月17日に阿蘇神社に奉納され、私たちの前に姿現すことができたのだ。
 その蛍丸の奉納の儀式のニュースを私は家で見ていた。仕事の関係で残念ながら奉納の儀式には行けなかった。奉納の儀式に行けなかったのは残念だったけど、阿蘇の方々をはじめ、全国の刀剣ファンたちが駆け付けてくれ、震災後の復興へまた一歩進んだともいえる明るいニュースとなったのだ。私はその蛍丸をいつこの目で見ることができるか、気になって仕方なかった。熊本市内のどこかで展示してもらえないものかと日々、情報をチェックし続けた。
 そして8月、ようやく展示されることになったのだ。肥後の里山ギャラリーで8月7日~9月22日、なんと観覧料無料で見ることができるのだ。私は早速休みを8月9日とって行くことにした。

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 8月9日、その日はあいにくの雨だったが、その雨のおかげか、暑さが和らぎ、ある意味外出に適した日となったのである。肥後の里山ギャラリーとは、熊本県にゆかりのある遺産や文化財を展示するギャラリーで、熊本市内中央区の肥後銀行本店にあり、様々な展示物か入館料無料で見ることができる。交通センターバス停から、歩いて5分。9:30から開館で、私は9:35に到着した。
 「今日、一番のお客様です。」
と案内され私は入った。『阿蘇神社展-刀剣の美-』ということで、阿蘇周辺古墳からの出土品、阿蘇神社に奉納された数々の名刀たちが並び、その奥に、昭和50年に再現された蛍丸の写しと、そして今回再現された蛍丸が堂々と並んでいたのだ。

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 その美しさに私は圧倒された、文献やテレビでみるのとはまた違う感動が沸き起こってきた。戦後GHQにより行方不明になった蛍丸が今ここに復元され、涙が溢れそうになった。ギャラリーの方のご厚意により、写真撮影可になっており、私はiPhoneのシャッターを押した。そして、その写真を迷わず壁紙に設定したのだ。私は10分程度、そこから離れることができず、食い入るように見続けた。
 蛍丸を再現した若き2人の刀匠は言う。
「この再現プロジェクトをきっかけに、全国で注目され、本物の蛍丸が見つかってほしい。」
と。
 私はその言葉にハッとさせられた。蛍丸は、焼失したり、壊されたりしたわけではない。もしかしたら、日本いや世界のどこかで発見されるのを今か今かと待っているのかもしれないのだ。今度は本物の蛍丸の発見のニュースを待つという楽しみができたのだ。
 私は、そんなことを考えながらギャラリーをでた。出入口に阿蘇神社復興のための募金箱が設置されており、私は迷わず1000円札を入れた。決して大きな額でないかもしれないけど、ほんの少しでも、阿蘇神社の助けになればと思ったからだ。そして、その募金のお礼にと、国宝蛍丸の写真と、今回復元された蛍丸の写真を頂いたのだ。
 家に帰り、私はその写真を見ながら、蛍丸復元関連の動画を改めて見た。熊本のローカル番組『テレビタミン』が制作したもので、蛍丸復元までの一連の流れが見ることができるようになってる。もし、熊本に夏休み旅行のついでに見ようと考えている方は、その動画とサイトで予習していくと、さらに蛍丸の真髄が分かると思うのだ。熊本の方は散歩がてらでもいいので、ぜひ見に行ってほしい。名刀を無料で見れることはなかなかない機会なのだ。ギャラリーなので、美術館のように広くない。そのため、気軽に立ち寄ることができる。熊本に旅行中の方は、10分でもいいので少し時間を割いて行ってほしい。たった10分でも、十分楽しむことができるのだ。そして、ぜひ名刀のもつ魅力に憑りつかれてほしいものだ。


大太刀の奉納の日や初蛍 前田茉莉子



【熊本便り、前田茉莉子さんより】

ラムネ玉記憶の底に響きけり イーブン美奈子

 今年の入安居(いりあんご)は、7月9日。タイでは、この日から本格的な雨季に入った。ところが、どうも物足りない気がする。雨はしっかり降るのだが、ウンアーンが鳴かないのだ。
 ウンアーンとは、牛蛙に似たカエルで、和名をアジアジムグリガエルという。体長5.5〜7.5センチメートルもあり、コンクリートとよく似た色をしている。ごつごつとした疣があり、石くれかと思っていると目の前でぶよりと動くので、びっくりする。夕暮に、ウンアーン、ウンアーンと四方八方から響いてくる大きな声は、雨季の風物詩である。名前は、この鳴き声から。2、3年は生きるらしく、普段は地中に潜って暮らし、雨の始まる5月から7月だけ外に出てくるそうだ。

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 バンコク在住の他の人に訊いてみたら、やはり今年は鳴かないと言う。数年前まで、いつもうるさいくらいだったのに、と。その人も私もコンドミニアム(分譲マンション)暮らしなので、たぶん、駆除剤散布のせいだ、と分析し合った。南国は害虫も多く、ビルの管理事務所は、月に一度ほど派手に薬を撒く。また、ウンアーンが潜っているはずの土はどんどん舗装されてしまい、棲む場所も減っているのだろう。

 同じように、今年見ないものにカタツムリもいる。以前、雨の後に必ず発生していたのは、アフリカマイマイと思われるグロテスクなカタツムリ。角出せ槍出せなんて可愛らしいものではない。大小の集団で地面を這い回られるのは不気味だったが、さっぱり消えてしまうと、やはり妙な気分がする。

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 私の住んでいる場所は都心ではない。コンドミニアムが建つ前、航空写真を見せられて「森しか写ってないですね」と笑ったのを覚えている。わずか10年ほど前だ。今は、Google Mapで眺めると、緑が剥げかけているのがはっきり分かる。バンコクの中心から、灰色が同心円状に広がり、我が家も浸食されかけているのだ。



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【タイ便り、イーブン美奈子さんより】

「漱石の一句」(五) 関根千方

漱石は手紙魔としてもよく知られています。『行人』や『こころ』のように手紙形式の小説もあるくらいです。漱石の俳句集をみると、手紙に書き添えた俳句が多いことに気づきます。様々な人に書き贈った俳句が収録されているのです。

そもそも漱石の最初の俳句は、明治22年、喀血した子規に書いた手紙に添えられたものでした。



帰ろふと泣かずに笑へ時鳥 (明治22年)
聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (同)



その手紙に《小にしては御母堂の為大にしては国家の為自愛せられん事こそ望ましく存候》とあるように、漱石は子規を俳句でいたわったのです。

子規が東京帝国大学を退学する時もそうです。漱石は《小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候。願くば今一思案あらまほしう》と手紙に書き、子規の退学を引きとめます。



鳴くならば満月に鳴けほとゝぎす (明治25年)



しかし、子規は退学し、俳句革新の道を志しました。漱石が子規に句稿を書き送りはじめたのはそのあとです。そう考えると、子規に書き送った句稿そのものが、子規への励ましのメッセージだったのではないかとも思えてきます。

つまり、漱石の俳句は初めから、自己完結した「表現」ではなかったと思います。それは最後の最後まで、他者に向けて投げかけられたものでした。「木瓜咲くや漱石を守るべく」のような句ですら、自己という他者に向かって投げかけられているように読めます。

日本の詩歌の起源には「問答」があると言われます。それは古事記にも見られます。万葉集には贈答歌が多く収録されています。男女の恋に関わる「相聞歌」や人の死に関わる「挽歌」がそうです。

そういう意味で、漱石の俳句は「伝統的」といってもいいでしょう。むしろ、漱石の俳句が異端に見えてしまうことが、近代文学の特徴と言ってもいいかもしれません。

漱石には、相聞歌にも挽歌にも該当する有名な俳句があります。



今日よりは誰に見立ん秋の月 (明治24年)



この句は明治24年、漱石が密かに心を寄せていたとさせる兄嫁・登世が25歳の若さで亡くなったときに詠まれた句の一つです。江藤淳が『漱石とその時代』で、漱石の兄嫁への恋心を論証する際にも引き合いに出されています。


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有る程の菊投げ入れよ棺の中 (明治43年)



この句は「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」と前書きがあります。大塚楠緒子は東京控訴院長・大塚正男の長女で、漱石は学生時代、大塚家の婿養子になる可能性もあったその相手です。漱石は「それから」の代助のように、若き日の義侠心から好きな人を友人に譲り、あとも恋心を抱き続けていたという噂話も有名です。この句にあるような「勢い」は、漱石の句に時折あらわれる特徴ですが、勢いをつけないと詠めないような心があることは、明確です。しかし、漱石の恋心が果たしてどこまでのものであったか。それは、この句を投げかけられた方が想像するほかありません。


*ここで「昔し美しい女を知つて居た」と書かれる女性が、大塚楠緒子のことではないかという節もあります。

*「二十五」に大塚楠緒子について回想が書かれています。


【漱石の一句、関根千方さんより】
 

「子規の一句」(五) 岡崎陽市

正岡子規の一句鑑賞。その5回目。
 
明治28年8月。日清戦争の従軍記者として出征し大喀血した子規は、神戸での療養後、松山に帰省した。
 
英語教師として松山中学校に赴任中だった盟友、夏目漱石と再会している。この年子規・漱石ともに満28歳。
 
二人は、漱石の下宿先で52日間をともに過ごした。
 
下宿先は愚陀佛庵。上野家の屋敷の離れで、「愚陀佛」は漱石の俳号からとったようだ。
 
子規はここで度々句会をひらくとともに、著書「俳諧大要」をまとめたという。
 
漱石も少なからず影響をうけたであろう52日間。
若い俳人たちの熱い日々といったところだろうか。

 
 
行く我にとどまる汝に秋二つ 子規


 
明治28年の作。
漱石に別ると前書きがある。
10月。子規は、漱石とすごした愚陀佛庵を去って東京へ帰る。
 
その折の句。
 
漱石の「御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花」にこたえて詠んだ句。漱石のしっとりとした情緒の句と、子規のきっぱりとした断定の句。二人の違いが見てとれておもしろい。
 
行く我は子規。とどまる汝は漱石。
ふたりにはこれから別々の秋が待っている。
 
それまでの日々が、充実したものだったとすれば、なおさらに秋の別れのさびしさがつのる。
 
「秋」には「飽き」がふくまれているという話を耳にしたことがあるが、この句の場合はどうだろうか。
 
歴史上の出来事を美化しすぎる必要はないが、この句は素直に、ふたりの惜別の句としてとらえたほうが味わいは深い。
 
 
松山市一番町に復元されていた愚陀佛庵だが、2010年7月、豪雨による土砂崩れで全壊した。
 
もう7年も前になる。
 
筆者も以前何度か訪れたことがあるが、句会なども多く開かれ、観光客の姿も見られた。
 
松山の俳人で、その存在を知らない者はなかっただろう。
 
2017年現在、再建はされていない。
 
 
明治28年の句②。以下にも惹かれました。
 
 
日本のぽつちり見ゆる霞哉
涅槃像仏一人は笑ひけり
吸物にいささか匂ふ花柚哉
送られて一人行くなり秋の風
道ばたや魂消たやうに曼珠沙華


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参照①  愚陀佛庵 
 

【子規の一句、岡崎陽市さんより】 

 

第十回古志青年部ネット句会(2017年夏)報告

第十回古志青年部ネット句会(2017年夏)を行いました。 

 三句出句三句選、席題(早乙女・鯰・どくだみ)。
 古志青年部員15名が参加。 

 以下、主宰の入選句(一部お直しあり)。

特選句
大いなるなまづになれと逃しけり 岡崎陽市
大河ごと釣り上げられし鯰かな 三玉一郎
早乙女の去りて大きな月出づる 高角みつこ
早乙女は祈るがごとく腰曲げて 石塚直子
田の雨にあかるくけぶる早乙女よ 岡崎陽市

入選句
十薬の匂ふボールを投げ返す 吉冨緑
十薬や友達と暇もて余し 藤原智子
呑み込みし悪夢重たき鯰かな イーブン美奈子
水底で星と話してゐる鯰 伊藤空
泥の世を生き抜く吾ら大鯰 高角みつこ
薔薇は褪せいま十薬の花ざかり 高角みつこ



 主宰のご講評には「血の通っていない俳句が多いように感じます。」というお言葉があった。以下、一部抜粋する。

俳句づくりのための俳句、頭だけで作った俳句など、全般的に物足りない。これは私自身の反省から申し上げることです。
作品に血を通わせるには、自分の血を作品に注ぎ込むしかありません。そのために、ふだんから豊かな血を養っていく必要があります。
血の通った俳句からは、おのずから作者の声や体温が感じられるはずです。


「血の通った俳句」とは、どういうものか。
どうしたら「豊かな血」を養えるか。

今夏の課題は大きくも険しい。
 
石塚直子

※次回のネット句会は、2017年9月に行います。

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