2023年09月28日

「君の声はねぇ、何と言うかな」先生は天井を見上げて葉巻の煙の行方を追った。「女を惑わすようなセクシーな響きがあってね。まあ、うちのスタッフの子たちもメロメロなわけだぁ」
 はいと言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。
「売れると思ったよ。あちこちレコード会社に声をかけた。案の定、飛びついてきた」
「はい」
「君は年明け早々にデビューする」と先生は断言した。「おめでとう」
「はい。ありがとうございます」
「君のデビュー曲には僕が最高の曲を提供するからな」
 先生は煙にむせるほど高笑いをした。

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2023年09月27日

 レコード会社に行く前に、ボーカルスクールの「先生」と呼ばれる大御所に呼び出された。
 先生は有名な作曲家で、過去には数々のヒット曲を残していた。自ら歌った曲もカラオケの定番になるほど売れた。いわばこの世界の大御所だった。
 スクールの応接室のソファで先生は葉巻に火を点け、ご満悦そうな顔で僕を見据えた。
「今、君を売り込もうとしてるところなんだよ」と先生は言った。「レコード会社のオーディションはただのセレモニーにすぎない。君のデビューはもう決まってる」
「はい」と僕は言った。

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2023年09月26日

 デモテープに収録したのは3曲のオリジナル作品だった。それがその当時の僕のすべてでもあった。ボーカルスクールのスタジオを借りて、ギター一本ですべてワンテイク、30分もかけずに録音した。リバーブもエコーもかかっていない、まったく素のままの音だった。
「いいね、いいね」とプレイバックを聴きながら、立ち会った講師の一人が言った。「いけるよ、これ。3社ぐらい当たっておくから」
 それから2ヶ月ぐらい何の音沙汰もなかったので、やっぱりこの世界は厳しいんだと諦めかけていた矢先の電話だった。

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2023年09月25日

 その電話が鳴ったとき、僕はアパートの部屋でうたた寝していた。夢の中で受話器を取った。けれど相手は何も言わないし、ベルは鳴り止まない。
 ようやく目が覚めて電話に出ると、どこかで聞いたような会社の名を名乗った。まだはっきりしない意識の中で、それが新進のレコード会社だと気づくと、頭の中にぱっと明かりが灯った。
「はい、僕です」
 その人物はディレクターで、僕がボーカルスクールに預けたデモテープを聴いて、いちどスタジオで歌を聴きたいという話だった。
「明日、来られます?」
「行きます」と僕は言った。

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2023年09月24日

 秋になった。その年はいつもより季節の移ろいに敏感になっていた。9月になってまだ暑い日が続いても、見上げた空をゆく雲や、時おり吹く風に夏がじわじわと溶けていくのがわかった。
 僕は大いに詩を書いた。曲の歌詞とはほど遠い散文詩で1冊のノートをほぼ埋めた。2冊目に入るとまったく言葉が浮かばなくなった。時おり浮かぶ陳腐な言葉を何度も頭の中でかき消して、白紙のノートの罫線を眺めた。
 たぶん僕は創作には向かないのだろう。そんな気がしていた。僕はきっと何ものにもなれないのだろうと。

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2023年09月23日

 僕はすぐに返信を書いた。一度はとても長いものを書いたけれど、読み直してからまるめて捨てた。それから改めて、短い手紙を書いた。お便りありがとうございます、僕も頑張ります、と。何を頑張るのかわからないけれど、それしか書けなかった。
 その手紙が、何日かして郵便受けに戻ってきた。宛先人不明とある。もうあの家にミチコさんもあの子もいないということだ。僕はミチコさんの決意の深さを知って寒気すらおぼえた。
 お母さんのこともあるからおそらく遠くへは行っていないだろう。けれど僕は探そうとは思わなかった。

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2023年09月22日

 手紙には赤ちゃんの写真が添えられていた。どことなく僕が生まれた頃の顔に似ている気もしたけれど、生まれたての赤ちゃんなんてみんな同じような顔をしているものだ。

 裏には「真実」と書いてある。「まなみ」とかなが振ってあった。どんな子に育つのだろう。

 すぐにでもあの片田舎へ会いに行きたかった。けれど来るなと書いてある。行ったらかえってミチコさんを傷つけてしまうのかもしれない。遺伝的には僕の子だろうけど、ミチコさんが言ったように、この子は彼女の子であって、僕の子ではないのかもしれない。



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2023年09月21日

 ミチコさんからの残暑見舞いが届いたのは盆の帰省から戻った頃だった。それははがきではなく、無愛想な白い封書だった。

 ミチコさんは8月の始めに元気な女の子を出産していた。お父さんに似て聡明そうな顔をしています、と書いていた。でも会いに来ないでください。私たちは母娘で静かに暮らしていきます、ご迷惑はおかけしません、と結んでいた。

 僕は東京でミチコさんと過ごした日々のことや、長野の片田舎まで追いかけたことを思い出したけれど、それはまるでずっと前に観た映画のような記憶だった。



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2023年09月20日

 長野から帰ったあと、僕はひたすら作曲に勤しみ、歌のレッスンにも励んだ。おかげで大学は留年すれすれだったけれど、なんとか3年次に進んだ。

 ハルは出す曲がすべてヒットチャートの上位にランクインして、テレビの画面に登場しない日はなかった。好事魔多しで、若い男性アイドル歌手と食事をしているところを写真誌にスクープされるこおもあった。それまでの清純派のイメージにヒビが入って、件の男性アイドルのファンからは総スカンを食らっていた。

 それでもハルはどこ吹く風で次々とヒット曲を飛ばしていった。



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2023年09月19日

 お母さんが倒れて入院したのと時を同じくして、ミチコさんの妊娠が判明した。ミチコさんは会社を古株の従業員に託すと、逃げ出すように東京をあとにした。お母さんの介護をするという名目だったけれど、本当はひとりで子供を産んで育てるつもりで長野の家に帰った。

「結婚はしなくていいからね」とミチコさんは念を押すように言った。「そもそも、この子が生まれてくる保証もないんだから」

 僕とミチコさんは駅で電車を待っていた。朝から風も凪いで、高原特有の強い日差しが降り注ぐ、春のように暖かい日だった。



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2023年09月18日

 まだ3ヶ月ほどの子に僕の声が聞こえるはずもないとは思いながら、僕は何度もミチコさんのお腹の子に呼びかけた。

 ふと、こめかみに冷たいものを感じた。ミチコさんの涙が滴り落ちていた。嗚咽の震えが伝わってきた。そのうちに、ミチコさんは声をあげて泣いていた。

「馬鹿ねぇ、ほんとに」とミチコさんは涙声で言った。「でも嬉しいわ。こんなおばさんに優しくしてくれて」

「ミチコさんのこと、好きですよ」

「ありがとう」

 僕は起き上がると、ミチコさんと真正面に向き合って正座した。

「結婚してください」



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2023年09月17日

「おかしなこと言うわね」なおも笑いながらミチコさんは言った。「私、あなたの倍以上の歳なのよ?」

「でも、お腹の赤ちゃんは僕の子なんですよね?」

「そんなこと一言も言ってないわ。この子は私の子。それだけよ」

 ミチコさんの顔が俄かに曇った。

「生まれてくるかどうかも知らないけどね。前の子も流れちゃったし。だいいち高齢出産だし」

 ミチコさんはそう言って自分のお腹を撫でた。

 僕はおもむろにミチコさんににじり寄ると、彼女のお腹に顔を埋めた。

「パパですよ」と僕はお腹の中に向かって言った。



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