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「天平文化のおおらかな雰囲気が感じられる。後世に発見されることを期待して遊び心で描いたのでは」
葛城市歴史博物館

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奈良県葛城市の当麻寺が所蔵する国宝・当麻曼荼羅厨子の板に描かれた落書きが13~16日、同市忍海の市歴史博物館で初めて一般公開されることになった。

当麻寺は、奈良県葛城市にある飛鳥時代創建の寺院で、開基は、伝・推古天皇20年(612年)、聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされている。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立の古寺。

この当麻寺には、国宝である「当麻曼荼羅図」と「曼荼羅厨子」が納められている。

曼荼羅とは正式には阿弥陀浄土変相図と言って、中国の浄土教の大成者善導大師の『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』に基づいて描かれたものとされている。この図の原本は、大きさ3.95メートル角という大画幅で、その後3回に渡って、転写本が作られている。

また、曼荼羅を掛けるための厨子は、奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられている。

厨子は高さ約5メートル、最大幅約6.9メートルで国内最大級かつ最古のもの。格狭間を飾った細長い二重の六角壇の上に安置されていて、昭和三十二年の解体修理の際、6本ある柱の下に厨子を安定させる6枚の敷板があてられていて、そのうち1枚の板に墨で、男性2人の横顔が上下に落書きされているのが見つかった。

その敷板は特に、取り外された跡がないことなどから、厨子の制作者が落書きした可能性が高いと見られている。そうだとすれば、この落書きは実に、1400年も昔に描かれたものということになる。

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この落書きは長らく、寺の収蔵庫に保管されていたのだけれど、平城遷都1300年関連事業に合わせて、今回公開されることになった。

この落書きに描かれている人物は、烏帽子姿で、1人はひげをたくわえて左目をつむり、もう1人は大きな鼻と厚い唇が特徴的な顔をしている。

特に、太い眉に厚い唇という所謂「濃い顔」は、南方アジア系の「縄文顔」の特徴でもあり、非常に興味深い。葛城市歴史博物館は「仕事仲間を描き封印したのでは」とコメントしているけれど、であれば、当時の日本に、南方アジア系の特徴を色濃く持った人が確実にいたということになる。

件の落書きは、実にマンガチックなタッチで生き生きと描かれており、とても1400年も昔のものとは思えない。

ツイッターなんかでも、可愛いとか、微笑ましいとか、若干しりあがり寿テイストかも、なんて書きこみもあるようだ。

確かに、今のマンガのキャラとして出てきても、さほど違和感は感じないだろう。それくらい現代でも通用する絵。ちょっと驚きではある。



昨年亡くなった、アニメの魔術師と称されたアニメーターで金田伊功(かなだ よしのり)という人がいたのだけれど、この人の作画は、緩急をつけながら舞うように動いたり、大胆に誇張された遠近感とポージングを加えた独特のスタイルを持っていて、日本のアニメーションにひとつの変革を起こしたとまで言われている。

だけど、こうした一種の型破りのスタイルは、昔の文化が興隆した時代にも見られるのだという。

現代美術家の村上隆氏は、金田氏の舞うような動きで躍動感を出す手法は、17世紀の京都で活躍した狩野派の絵師、狩野山雪が描いた『梅に山鳥図襖』にも見られると指摘している。金田伊功が江戸時代に生きていたとしたら、きっと狩野山雪的な絵を描いていたに違いない、と。

こと表現に関する限り、その表現媒体こそ、時代と共に変わっていくとしても、表現そのものは、時代が変わっても左程変わらないものなのかもしれない。

科学技術だと、昔より今の方が進んでいるに決まってる、と思うのが普通だけれど、こと文化に至っては、その限りではないのだ、と思えてならない。

この落書きを書いた職人が今に生まれたら、一体何の仕事をするのだろうか。



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画像遊び心おおらか 平安の落書き初公開へ 奈良・当麻寺 2010.8.12 22:05

男性2人の顔が落書きされた平安時代初期の板(葛城市歴史博物館提供) 当麻(たいま)寺(奈良県葛城市)の綴織(つづれおり)当麻曼荼羅(まんだら)(国宝)を納めた当麻曼荼羅厨子(同)から昭和33年に見つかりながら、寺内に収蔵されたままだった、男性の横顔が墨で落書きされた敷板が同市歴史博物館で初公開されることになり、12日、報道陣に公開された。

 厨子が制作された平安時代初期のものとみられ、同館は「仕事仲間を描き封印したのでは」と推測。13~16日に公開される。

 厨子は高さ約5メートル、最大幅約6.9メートルで国内最大級。解体修理中、本体下の柱の敷板(長さ約40センチ、幅約10センチ)に男性2人の横顔が上下に落書きされているのが見つかった。今回、同館の担当者が展示資料を借りるため寺の収蔵庫を調べた際に確認し、公開することにした。

 落書きの男性は帽子をかぶり、唇が厚いのが特徴で、生き生きとした表情。板が取り外された跡がないことなどから、厨子の制作者が落書きした可能性が高いという。

 同館は「天平文化のおおらかな雰囲気が感じられる。後世に発見されることを期待して遊び心で描いたのでは」としている。

URL:http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100812/acd1008122206008-n1.htm



画像国宝:当麻曼荼羅厨子の落書き、初の公開へ 奈良

 奈良県葛城市の当麻寺が所蔵する国宝・当麻曼荼羅厨子(まんだらずし)(8世紀末~9世紀初め)の板に描かれた落書きが13~16日、同市忍海の市歴史博物館で初めて一般公開される。落書きは男性2人の横顔で、製作時(平安初期)に職人が描いたとみられる。1958年に見つかったが、寺の収蔵庫に保管されており、平城遷都1300年関連事業に合わせて公開することにした。

 厨子(高さ・幅約5メートル、奥行き約1.3メートル)は本尊・当麻曼荼羅を納め、曼荼羅の厨子では国内最大で最古。

 県教委が57~60年に厨子の解体修理をした際、6本ある柱の下に厨子を安定させる6枚の板があてられ、そのうち1枚の板(縦約40.9センチ、横10.6センチ、厚さ1.8センチ)に墨の落書きを確認した。

 描かれた男性は烏帽子(えぼし)姿で、1人はひげをたくわえて左目をつむり、もう1人は大きな鼻と厚い唇が特徴的な顔をしている。問い合わせは同館(0745・64・1414)。【高島博之】

URL:http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100813k0000m040027000c.html



画像縄文顔と弥生顔

 昨今、お互いの顔を評して縄文顔とか弥生顔とかいうことがある。それは、縄文人の顔と弥生人の顔が、いまでも私たち日本人の中に生き続けているということにほかならない。
 私たち日本人になじみのある細眉/一重瞼/薄唇の平坦な顔は、モンゴルの人々に典型的に見られ、北方アジア系の顔と呼ばれている。一方、エキゾチックな太眉/二重瞼/厚唇の立体的な顔はインドネシアやフィリピンの人々によく見られ、南方アジア系の顔といわれている。しかし、このいわゆる南方系の顔はアイヌの人々の顔とも似ており、必ずしも南方アジアという地域に限局するわけではない。むしろ、広義の東アジアというべきだろう。
 日本人の中で、この北方系といわゆる南方系の顔がいりまじっている原因は、縄文時代以来の日本人形成の過程に由来している。まず、更新世末期ないし縄文時代には、日本列島を含む東アジア一帯に、いわゆる南方系の立体的で太眉/二重瞼/厚唇の人々が住んでいた。
 一方、約3万年前にシベリアに住み着いた人々は、2万年ほど前の氷期に厳寒の気候(零下50度)に適応して、平坦で皮下脂肪が厚く一重瞼で唇が薄く毛の少ない特徴を身につけた(そのような個体が生き残った)。逆に、皮下脂肪が薄く目が大きくあちこちが出っぱっている顔は、寒さに弱く凍傷になりやすいからである。また、眉や髭が多いと息が氷柱になって困るし、唇は口腔粘膜の反転露出部分なので凍傷になりやすいからである。
 およそ5,000年前、シベリアの北方系の人々が東アジアに拡大をはじめた。やがて、彼らは、2,300年前には九州北部付近から日本列島に侵入してきて、弥生時代の幕を開けることになる。つまり、彼らが(渡来系)弥生人であり、彼らの弥生顔が北方系である所以がここにある。
 その時、日本列島にはいわゆる南方系の顔をした縄文人たちが住んでいたが、侵入してきた北方系の弥生人によって本土の大部分は占められ、わずかに北海道に残った縄文人がアイヌの人々になるのである。周知のように、アイヌの人々の顔は立体的であるだけでなく太眉/二重瞼/厚唇でもある。だから、縄文人も同じような表面の造作をしていただろう。そこで、縄文顔は現代アジア人の基準でもいわゆる南方系だったといえる。
 最終的に、現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7~8割、南方縄文系2~3割の比率で混血しているというのが、最近の人類学の結論である。だから、日本人(和人)は北方系のイメージが強いのである。

URL:http://www.kahaku.go.jp/special/past/kao-ten/kao/jomon/jomon-f.html


画像日本人はいつ何処からやってきたのか?(09/12/06)

最近の日本は、美人が多くなったなと思います。
化粧が上手いのか、素材が良くなったのか判らないが、ほんとに綺麗。
日本人の顔は多種多様。
アジア中のいろんな民族、種族の顔の見本がみんなそろっているとのこと。
きっといろいろな民族、種別が混ざり合い、現在のような美人を多く生み出したのだろうと推測します。
日本の昼間は、まるで天国。夜寝るころはきっと地獄絵図?かどうかは判らないが。
まあ、そんなことで、これらの美人はいったいどこから来たのか。
そんなところに興味を持ち、調べ始めました。
その中の一部を載せてみました。
日本へは、南方アジア人と北方アジア人が訪れていますが いつごろ、どの方向から来たのか以下の図1、表1、2にまとめましたのでご覧ください。

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以下略

URL:http://eenv1.web.fc2.com/eenv1/04/006.html



画像■OPを担当したゲームが連続リリース!  金田伊功ミニ・インタビュー!!

《前略》

2005年4月25日 取材場所/東京 スクウェア・エニックス 取材・構成/小黒祐一郎

PROFILE 金田伊功(KANADA YOSHINORI)

1952年2月5日生まれ。奈良県出身。日本を代表するアクションアニメーター。代表作はTV『大空魔竜ガイキング』『無敵超人ザンボット3』、劇場『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『銀河鉄道999』『幻魔大戦』『バース』等。また『銀河旋風ブライガー』等、オープニングアニメーションの傑作も数多く残している。1998年3月に3DCG劇場作品『FINAL FANTASY』に参加するためにハワイに渡り、後に帰国。現在もスクウェア・エニックスの社員としてゲームの制作に関わっている。


── 金田さんがオープニングを手がけたゲームが、ほぼ同時にふたつリリースされるというので、ちょっと驚きました。これは同時に動いていたプロジェクトなんですか。

金田 ほぼ同時になっちゃったんですよ。新しい「半熟英雄」をやっている時に、吉本さん(吉本よういち。「武蔵伝II ブレイドマスター」のディレクター)から「『武蔵伝』でも、2Dのオープニングを作るんですけど」と言われて。「武蔵伝」では絵コンテを切って、作画は今石君にお願いしたんですよ。「ハデなアニメートがイイ」と思っていたので、今一番元気がある、今石君にお願いした感じです。


── 今石さんの仕事は、御覧になった事はあるんですか。

金田 友達からビデオを借りて、何本か観ましたよ。TVのやつとか、映画のやつ(『DEAD LEAVES』)とか。『(Re:)キューティーハニー』も、ちょっと観ています。


── 「武蔵伝」は絵コンテだけで、後の作業はやっていないんですか。

金田 作画や、コンテ以降の演出に関しては、今石君にお任せしました。


── コンテのコンセプトはどんな感じだったのでしょうか。

金田 最初にアメリカで販売するチャンバラものなんで、チャンバラをいくつか見せていく。それと、昔のアニメみたいに、画が崩れるくらいアクションに勢いがあるものになったらいいし、うれしい。キャラクターデザインは意外とカチッとした感じで、俺の描いた絵コンテはキャラが歪んでいるから、多分、今石君はその両方をミックスして描くのが大変だったと思うんですけど。できたOPは、1回観るぐらいでは分からないぐらい勢いあるアニメになりました。ただ、コンテに対して(今石君は)「俺だったらもっとこう描くよ」みたいに思ったかも……。


── ゲームスタッフから、オープニングに関して具体的なオーダーはあったんですか。

金田 「武蔵伝」に関しては、吉本さんの方から曲をもらってやったんですよ。最初に曲を聴いた時に、ちょっと懐かしのベンチャーズっぽい感じだと思って。最初は口上みたいなのはなかったんです。その頃に、実写の「CASSHERN」の予告編を見たら、口上が入っていて「やっぱり口上はかっこいいなあ」と思って、吉本さんに追加してもらったんです。
 「半熟(英雄4 7人の半熟英雄たち)」の方はパロディなんですよ。時田さん(時田貴司。「半熟英雄」シリーズ・「武蔵伝II」のプロデューサー)から、字コンテで「こんな感じの」というのをもらって。その中には「傷だらけの天使」とか、懐かしいやつが並んでいて。


── (笑)。

金田 僕らは分かるけど、若い人にはほとんど分からない(笑)。でも、(若い人が)分かるものを選んでやっていくと、今度は僕らが分からない。だから、分からなければ分からなくてもいいじゃん! って事で、時田さんの年代のもの、俺なんかの年代のものでやっています。


── パロディのアイデアは、時田さんから出てきてるものが多いんですか。

金田 そうですね。時田さんの方から出てきたものに、若干追加したみたいな。


── 某美少女戦士のパロディとかも、時田さんの方から?

金田 確か「セーラー・魔女っ子もの」と書かれていたと思う。


── 「セーラー・魔女っ子もの」ですか(笑)。

金田 今の人にも分かるのは「ロード・オブ・ザ・リング」かな。部分的にパロディにしたのもあるんですよ。白黒時代の最初の『ゲゲゲの鬼太郎』の、オープニング冒頭の部分とか。あれは、分かんないんじゃないかなあ。


── いや、気がつきませんでした。

金田 『巨人の星』風のところも、『巨人の星』プラス『侍 ジャイアンツ』風にしたり。


── あ、やっぱり!(笑)投球が番場蛮風なのは、わざとだったんですね。「半熟4」では、「OP・EDアニメーション」という肩書きになっていますが、どこまでおやりになったんですか。

金田 絵コンテを描いて、原画を描いて。BGもほとんど描いています。エンディングは、止め画が中心なんですけども。コンテと作画を。


── という事は、OP・EDの原画は全部お描きになったんですね。

金田 そうですね。OP・EDの演出は、タツノコプロの中村(健治)さんがしっかりまとめてくれてます。


── 「半熟4」のオープニングは、実際の製作期間はどのくらいかかってるんですか。

金田 長いですよ。コンテと作画と、彩色、撮影、音入れの完成まで、8ヶ月ぐらいかかってます。その途中で「武蔵伝」が入ったりしてますけど。作画に関しては2ヶ月半かかってますかね。エンディングはほとんど止め画だったんで。原画は1週間くらい。


── 全部を作画されたのは、久し振りなんじゃないですか。

金田 そうですね。前の「半熟3D」の時は、3D部分を3Dのスタッフに作ってもらいましたしね。オープニングを全部描くというのは、今も昔もTVの短いスケジュールでは、きついですネ。『(とっても!)ラッキーマン』の頃も、結局は間に合わなくて、2カットぐらいは他の人に出している。


── あ、そうなんですか?

金田 1カットかな? 鍋島(修)君に出してます。


── ムービーを拝見して、動きが『ラッキーマン』のシャープな感じに近いと思いました。御自身の意識としてはどうなんでしょうか。

金田 『ラッキーマン』の頃の感じで描いたつもりと言えば、そうですけどね。ただ、「キカイダー」風のところで爆発があるんだけど。昔の「シュルシュルッ」と描いてた、勢いのある感じじゃなくて、「あれっ?」って感じ……(苦笑)。


── 爆発はディテールが細かくなってますよね。

金田 そうですかね。多分、『ラッキーマン』の頃と同じぐらいで、相変わらず描き込んでない爆発ですよ。エフェクトと言えば、大友(克洋)さんの映画(『STEAMBOY』)の爆発とか、いいですよね。


── 『STEAMBOY』は、本格エフェクトアニメでしたからね。

金田 「エフェクト、かっこいいなあ」と思って観ましたけどね。あれは、多分、凄く時間のかかる原画ですよね。


── かなりかかっていると思います。金田さんは、「半熟4」のゲーム自体には関わってないんですか?

金田 ゲームの中でも、エッグモンスターとか、新しいエッグマンたちの動きを、いくつか描いてます。


── 変な事を聞きますけど、それは、僕らが見ても「金田さんの動きだ」と分かるものなんですか。それとも普通のタイミングなんですか。自分が描いている、と分からせようと思って描いてるわけではないと思いますが(笑)。

金田 それはないけど(笑)。「もしかしたら」というのは、多分……分かるかも……。


── オープニングが完成して、手応えはいかがですか。

金田 いや、うまくいったところもあれば、「ん?」と思ったところもあるし。それと、いつもの事なんですけど、「らしさ」が出せればいいかな。それは「俺らしさ」というか。


── なるほど。

金田 「爆発はこうしてくれ」とか「キャラはこれじゃダメだ」とか指定される事はほとんどありせんでした。そういう意味では、好きに描かせてもらってます。


── 「半熟」以外の話も聞かせてください。映画の『FF』を終えて帰国なさってから、今までどんなお仕事をなさってたんですか。

金田 帰国してからは、最初は(スクウェア・エニックスの)カイスイ(開発推進部)という部署で、ぼーっとしてたよ(笑)。そしたら突然、「FF」の「XI」(イレブン)っていう、オンラインゲームが入って。各登場人物の紹介部分の3Dモーションの仕事を、ハワイ帰国組のメンバーでやってました。


── ああ、確か山下(将仁)さんもやられたんですよね。

金田 そうですね。モーキャプを使っていたんだけど、みんな、四苦八苦してやってましたね。俺も……(苦笑)。


── モーションキャプチャーで作った動きを、金田さん達がいじるんですか。

金田 それ(モーションキャプチャーの動作データ)をキャラクターに取り込むと、リアルに動く。でも、そのデータが荒れてたりして、なめらかに動いてない部分があるので、あーでもないこーでもないとデータをいじるんだけど……3Dマシンに慣れてないんで、疲れました。まだハワイの仕事の時のファントムみたいなキャラの方が、動かして楽しかったよね。


── 「FFXI」の後の仕事が「半熟3D」になるんですね。あの時は3Dのキャラクターは他の方がやっていたんですよね。3Dの動きのチェックもしたんですか?

金田 ある程度……です。「半熟」的な作品ですから、「細かい事は気にしないで、勢いで!」と3Dスタッフにお願いしました。


── 「半熟3D」の次のお仕事が「半熟4」ですか。間断なく作品に関わられているんですね。

金田 ええ。「半熟3D」の時は「設定が面白いな」と思ったんだよね。敵が3Dで、こっちは2Dで、「2Dが意地を見せるか、3Dの技術の方が凄いか」というコンセプトだったから。


── 今後の抱負とか、ご予定とか、差し支えない程度に教えていただけますか。

金田 抱負ですか? なんですかね。一生、「一(いち)アニメーター」で行ければいいかな、と思ってますけど。昔は「タップだけなのも、嫌だな」と思ってたんだけど。結局、タップしかないのかな、と(苦笑)。


── なるほど。

金田 ええ。3Dもちょっと勉強させてもらったけど、本格的にできるようになっていない、というよりは向いてないかも……。やっぱり、タップですかね。


── この後のお仕事は、決まってるんですか?

金田 次のゲームの企画に参加しています。


── 最後に、ファンの方に何かメッセージを。

金田 いやいや(苦笑)。


── 「ゲームを買ってください」みたいな感じでも(笑)。

金田 それじゃ、ゲームを買って、エンディングまで観てください。


── あ、そうか。ゲームを最後までやらないと、金田さんが描いたエンディングは観れないんですね。

金田 個人的にはオープニングよりも、エンディングの方が気に入ってるんですよ。どこが気に入ってるのか言ったら、「ああ、それかあ!」と言われて終わっちゃうんだけど(笑)。


── ああっ、そうなんですか(笑)。気に入っている理由は、見れば分かるんですね?

金田 (笑)分かりますよ、それは。


── 分かりました。頑張ってエンディングに行くまで、プレイしますよ!



 


URL:http://www.style.fm/log/02_topics/top050520a.html



画像追悼 アニメーター・金田伊功さん 宮崎監督が「頭(かしら)」と呼んだ男 2009.8.14 08:13

■シャープな原画、人をひき付ける魅力…「伝説の人でした」

 「頭(かしら)」。アニメーション作家の宮崎駿監督(68)は、その人をいつもこう呼んでいた。アニメ史に残る数多くの作品に参加し、先月21日に心筋梗塞(こうそく)のため57歳で亡くなったアニメーターの金田伊功さん。「風の谷のナウシカ」(昭和59年)から「もののけ姫」(平成9年)まで6つの作品で仕事をともにし、アニメブームのシンボルだった伝説の人を、宮崎監督が振り返る。(堀晃和)

                   ◇

 「原画をいくつかのグループに分けてシーンごとに担当し、責任を持つというシステムを作ろうと思ったときがあるんです。その一つのグループの原画頭(がしら)に金田さんになってもらったんですが、そのシステムは実現しないで原画頭の頭(かしら)という言葉だけが残った。結局、ぼくが頭と呼んだのは彼だけでした」

 「天空の城ラピュタ」(昭和61年)のときだった。以来、宮崎監督の中で「頭」という呼び方が定着した。

 宮崎監督が金田さんの名前を知ったのは、初監督作品「ルパン三世 カリオストロの城」(昭和54年)が終わったころ。うまいと思っていたアニメーターたちが、「カナダ・イコウ」がすごいと話していた。少しあとに、ある会合で本人の姿を見る機会に恵まれた。「お尻を振りながら踊っていて、あ、これは本物だと(笑)。そういう官能性を持っている人で、底抜けの楽天性みたいなものが絵にもよく出ていました」

 アニメでは、動画のもとになる原画を複数のアニメーターが担当する。「今までにないシャープなキレのいい動きやポーズ、それと1枚の絵に何コマを割り振るのかというタイミング感覚が優れていた」と宮崎監督は言う。

 金田さんの原画は、多くの若いアニメーターたちや、アニメーターを志す若者たちを引きつけた。特に独創的な光の描写は、尊敬の念を込めて「金田光り」とも呼ばれた。時は昭和50年代、アニメブームのまっただ中。「『宇宙戦艦ヤマト』とか、『銀河鉄道999』とか、劇場長編が商売で成り立つんじゃないか、アニメーションで何か新しい地平が開けるんじゃないかという時期で、アニメーターになりたい人間たちがわあっと出てきた。彼は、そのアニメブームのシンボルでした」

 一方、演出の側からすれば、扱いやすい絵ではなかったという。「作品に合わせて自分のスタイルを変えようとかはできない人でした。頭の絵だけが浮いても仕方がないから、何とか良さを殺さずにと悩みました。いつも格闘でした」

 しかし、苦労の分だけ、「演出的には非常に大きなインパクトがあった」。宮崎監督が最も印象に残っている例は、「となりのトトロ」(昭和63年)でお父さんと娘たちがお釜の風呂の中に一緒に入る場面だ。

 「うぇー、ばっしゃーんって大騒ぎする原画が上がってきて、そこまでやるかって。あふれた水の処理でひどい目に遭いました(笑)。でも、こっちが考えた以上に愉快なシーンになっていますよね」。その個性の引き受け方が分かったため、金田さんの描くものとは違う傾向の作品でも起用した。

 自作に参加してもらいたかった理由はほかにもある。「職場が明るくなるんです。夜遅くまで仕事してると、いつのまにか女の子たちが頭を囲んで、ぎゃははと笑いあっている。みんなから愛されていました」

 私生活にまで立ち入るようなことはなかったが、宮崎監督の言葉の端々からは、金田さんへの強い思いが痛切に伝わってくる。訃報(ふほう)を聞いたときは、さすがに半日動転していた。「愉快なアニメーターたちが集まってやってたアニメブームはとうの昔に終わってるんですが、頭が逝って本当にそれが終わったなって…。伝説の人なんです。僕はとても好きな人でした」

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 宮崎監督ら日本を代表するアニメ関係者らが発起人になった「金田伊功を送る会」は今月30日夜、東京・杉並公会堂で開催される。

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【プロフィル】金田伊功

 かなだ・よしのり 昭和27年、奈良県生まれ。高校生のときにアニメーションの世界を志す。東映動画を皮切りに複数の制作会社を経てフリーに。原画などで携わった作品は、映画が宮崎監督作品のほかに「さらば宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」「幻魔大戦」など、テレビも「ど根性ガエル」「キューティーハニー」「キャンディ・キャンディ」「無敵鋼人ダイターン3」など多数。後にゲーム会社に所属し、ゲーム制作にもかかわった。

URL:http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090814/tnr0908140816005-n1.htm