2012年のノーベル医学・生理学賞に、京都大学教授の山中伸弥さんが選ばれた。
日本人がノーベル賞を受賞するのは19人目で、医学・生理学賞は昭和62年以来2人目。受賞理由はいわゆる「iPS細胞」を作り出すことに世界で初めて成功した功績。
「iPS細胞」とは、Induced Pluripotent Stem Cell(人為的に多能性を持たせた幹細胞)の頭文字で、山中教授本人が命名した。「i」だけが小文字なのは、アップルの「iPod」にあやかって、広く普及して欲しいとの遊び心でそうしたらしい。
「iPS細胞」はその名の如く、様々な細胞や組織に分化する能力を持つ多能性幹細胞のことで、体細胞に3~4個の遺伝子を導入して作りかえる。山中教授らは、皮膚細胞に4種類の遺伝子を入れることでこれを作り出すことに世界で初めて成功した。
ES細胞のように、人の受精卵(胚)からつくる胚性幹細胞ではないため、倫理面での問題もなく、、傷ついたり病気になったりした細胞を作り直す再生医療の実現に近づくと期待されている。
だけど、山中氏のノーベル賞受賞までの道のりは決して平坦ではなかった。
山中氏はスポーツマンで、若いころ柔道やラグビーをやっていただけれど、自身怪我が絶えなかった経験から、大学3、4年の頃には、スポーツで怪我や障害を負った患者さんを治療する専門の医者になると決心したのだという。
大学卒業後、国立大阪病院で研修医となったのだけれど、治らない怪我や病気を目の当たりにして、無力感に囚われ、スポーツ外傷を治療するという夢を捨て、治らない病気を治せるのは基礎研究ではないかと、大阪市立大学で大学院に入り、薬理学を学ぶことになる。
そこで山中氏は基礎医学なら、研究すれば治せるかもしれない、基礎研究で頑張ろうと決意し、アメリカに渡り、iPS細胞の研究を始めた。アメリカの大学は環境も整っていて、充実した研究を送っていたのだけれど、意気揚々と帰国すると、状況は一変、本人がPAD(ポスト・アメリカ・ディプレッション)と呼ぶ半分鬱の状態となった。
それは日本の研究体制が不十分で、研究分野について、十分に議論できる研究者も少ない上に研究費もなく、このまま研究者としてやっていく自信がなくなった為だと山中氏は述懐している。
この時、山中氏は基礎医学の道を半ば諦めかけていた。この頃、山中氏は、家を建てようと思っていた。何でも、家を建てるとお金が掛かるから、否応なしに病院勤めをしなければならず、それを切っ掛けに研究をやめてしまおうと考えていたのだという。
そして、土地を探し、明日本契約するという前日の朝、何故か離れて暮らしていた山中氏の母親から電話があり、「お父さんが夢枕に立った。家を建てるのは慎重にと告げられた」と伝えられる。
勿論、山中氏は、そんな話を信じはしなかったのだけど、それでも、一応、母親の顔を立てて、不動産屋に1日だけ待って欲しいと伝えた。ところが、なんとその日のうちに、その土地は他人の手に渡ってしまったのだという。
これで踏ん切りがつかなくなって、どうしようと思っていた山中氏は、奈良先端科学技術大学院大学が助教授を募集している広告を雑誌で見ることになる。山中氏は、「これが次のあきらめる方法だ」と考え、コネのない自分が公募で採用されるわけがないから、今度こそ基礎医学を諦めようと駄目モトで応募する。
ところが、これが採用となり、基礎研究を続けることになったのだそうだ。山中氏は「あの時父親が母親の夢枕に立たなければ、間違いなく研究はやめていた」と述べているから、あの時もしも、土地が売れていなかったら、もしも公募で採用されなかったら、「iPS細胞」は今も生まれていなかったかもしれない。
筆者は、このエピソードに、「iPS細胞」は山中教授に生み出させたい、という天の導きを感じずにはいられない。
何故、天は山中教授を選んだのか。
それは、山中教授の「高邁な精神」にあったのではないかと思う。
通常、こうした画期的発明は、企業がいち早く特許を取得して、自社の「経済的権利」を確保するのが普通。だけど、「iPS細胞」の特許を企業が取得したら、この技術を利用した医療技術に多額の特許使用料が発生し、医療費の高騰を招く懸念があった。
山中教授は、多くの難病患者を救いたいと願い、「iPS細胞」を金儲けに転用されることは、絶対に防がなくてはならないと考えていた。
「iPS細胞」に関する特許は、企業ではなく、公的機関である京都大学が取得しているけれど、これも、「公的機関である京都大学が特許申請が通すことで、『iPS細胞研究』の特許を独占させないため。」と山中教授は語る。
山中教授は「iPS細胞」の国際特許の確立の為、奔走した。
山中教授が所長を務める京大iPS細胞研究所(サイラ)には、特許出願や管理を担う「知財契約管理室」があるのだけれど、山中教授は、4年前に製薬会社の知財部門に在籍していた高須直子氏に頭を下げ、知財契約管理室室長に迎え入れた。
サイラでは高須室長ら、知財のプロの4人が週に1回、研究者たちが開く進行状況報告会に参加し、必要と判断すればすぐに特許申請を行う体制を取っているという。
サイラは学術研究には無償で使用を許諾し、商業目的の研究開発にも安い特許料で使用を認めている。山中教授の「難病患者を救いたい」という願いは、ここに込められている。
香川大学では、腎臓病や高血圧の新しい治療法を開発するため、「iPS細胞」から腎臓を作るプロジェクトを進めていて、香川大学から助教を京大iPS細胞研究所に派遣したことがある。
山中教授は、半年の派遣期間後、香川大でも引き続いて研究を進められるように、それまでの成果を持ち帰ることを認めている。
山中教授は、記者会見でも「iPS細胞は新しい技術。仕事は終わっておらず、医学への本当の貢献をこれから実現させなければいけない。…大きな可能性はあるが、役立つところまで来ていない。まだ受賞はないと思っていた。…これからの発展への期待の意味が大きいと信じている。速やかに現場に戻り、研究に取り組みたい。沢山の人が一生懸命研究している。苦しいと思うが、希望を捨てずにいてほしい」と今後の意気込みを語っている。
山中教授の願いはあくまでも「難病患者を救う」ということであって、ノーベル賞はその途上でついてきたものなのだろう。そして、その精神こそが、天をして山中教授にノーベル賞を与えたのではないかと思えてならない。
一刻も早い「iPS細胞」の実用化に期待したい。
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