「pardon me」
すれ違いざま白衣姿の男たちのひとりと、かすかに肩が擦れたようで、咄嗟に彼も片手を上げ、紳士的に半歩身を引いた。その拍子に出入口の観葉植物にぶつかりそうになる。彼らの後にもまた、作業服の男たち、OLたちが談笑しながら続いてくる。そこで通り過ぎるのを待っていてくれているとは気がつかぬようだ。
(ちっ)
心の中で舌打ちをした彼、ジョーは、一団が通り過ぎるまで、手持ちぶさげに傍らのグリーンに目をやった。青い実がところどころに揺れている。彼が生まれ育った土地では非常にポピュラーな木であり、枝に実が実っている姿を目にするのは十何年ぶりかのことだった。きつい眼差しの中に一瞬翳りの色が浮かんだ。
「ちょっとちょっと!これ忘れてるよ!」
よく通る声が一団を追う。白い調理服に白い三角巾、おそらく厨房のおばちゃんであろう、ふくよかで人が良さそうな女性が、IDカードケースを高く掲げて振っていた。
その声に足を止め、振り返る一団。
「やべえ、俺ンだ」
そばかすに黒縁メガネの白衣の男が走ってくる。
「なんだよ、こんなモン忘れっちゃあ自分の研究棟にも戻れないよ」
ケラケラ笑いながら白衣の男に手渡す。
「だってさあ、おはなさんの味噌汁絶品だからさあ、つい汚さないようにってはずして大事に脇に置いといたもんで...」
「かわいいこと言ってくれるじゃないかね。じゃあ、この次には小鉢を一品サービスしてやるよ」
「えっ!やったあ!」
「なんだよぉ、じゃあ俺もIDカード外して拝んで食おうかな!」
「おはなさん、あたしも!」
「参ったね、あんたたち何のために仕事に来てるんだい」
一同を軽く睨みつける仕草に、皆大爆笑する。
館内にチャイムが鳴り響いた。フレックス制の部署も多いが、交代制で勤務に当たる部署のための予鈴チャイムだった。
「ほら、あんたたち、さっさとおいき。いい仕事してくるんだよ」
おはなさんと呼ばれるその女性は、朗らかに手を降って彼らを見送った。
「さて、ようやくこっちもお昼だ」
どっこいしょと戻ろうとするおはなさんは、グリーンの脇に立っているジョーに目をとめた。
「おや、見かけない顔だね。食事かい?」
「いや、別に...コーヒー程度でも構わないんだが...」
「そんないい体格なのにコーヒーだけだって?まだ昼は食べてないって顔に書いてあるよ」
一瞬彼はその言葉に反応できず、固まった。
(なんだって、顔?まさか)
「そのまさかだよ、冗談に決まってるだろ」
おはなさんは豪快に笑った。
「お入りよ、好きなとこに座んなさい」
そして、入口のグリーンの鉢を抱え、食堂の日向に移動させた。
南部と護衛の打ち合わせのためにISOを訪れたジョーは、博士と昼食をとりつつ話を進める予定だったが、博士の急な会議出席のため、夕方まで時間を潰すことになってしまった。
「すまん、うまいものでもご馳走しようと思ったんだがな。残念だが、昼はキャンセルだ。ジュンのところでも戻って何か食べて」
ジョーの奇妙な表情に、南部は口をつぐんだ。
「そうだったな、今日は甚平が竜と用事で留守...」
「そういうことです」
二人の視線は彼方を泳ぐ。
「そうだ、せっかくISOに来たのだから、職員用の食堂でも行ったらどうかね」
「職員専用だと、IDカードが必要なはずでは」
「わたしの来客用証明カードがある。これで利用できると思う。わたしの名前を出しなさい。家庭料理のようなメニューばかりだが、味は保証できるぞ。なかなかいない凄腕のシェフだ。その時の自分に必要なもの、足りないものを一瞬で見抜く。よかったら寄ってみたまえ」
博士はカードを手渡し、慌ただしく会議室へ姿を消した。
ジョーは手渡されたカードに目をやった。
(これが来客証明...?)
手渡されたのはロト6だった。
「あの南部ちゃんにもそんなヌケたところがあるんだねえ」
IDカードがないことを説明しようとしたジョーは、おはなさんの巧みなツッコミでへんな話まで白状させられる羽目になっていた。おばちゃんパワーおそるべしだ。ある意味ギャラクターより厄介な代物かもしれない。
本来ならこの時間は厨房の休憩時間なのだろう。ほかの調理師たちも、おはなさんの「休憩入っといで!」のひとことで各自どこかに出かけていった。この広い厨房はおはなさんひとり、そしてテーブルにはジョー一人だ。
おばちゃんに免疫のない彼は、厨房から少し距離を置いて、さきほどのグリーンが置かれた日向の席に座ったのだが、この食堂のどこに座ろうとも、おはなさんはでっかい声で話しかけてくる。一度ここに入ったが最後、会話もせずに脱出するのはおそらく不可能だ。半ばあきらめ状態で、彼は適当に会話を続けていた。
「カードなんかなくったって大丈夫さ。おなかのすいた子供たちにごはんを食べさせる。それがあたしの仕事なんだから。誰がこようがみんな子供は子供だよ」
そう言いながらも手はてきぱきと動かしているようだ。
「お、おばさん?」
「おばさんはないだろう、せめておはなさん、っていっとくれよ」
「おはな、さん...俺はコーヒーでいいといったはずなんだ...なんですが...この香りは」
「そうだねえ、コーヒーじゃあないねえ」
「いや、俺はウェイトコントロールで食事はちょっと」
正直和食はあまり得意なほうではない。先程の職員との会話ではここのメニュー、ばりばり和食定食オンリーなのではないか。
「あんたの手はそういうのが必要な手じゃないだろ。パイロットの手じゃない」
「......!?」
「その手のタコからすると運転関係、それに少々飛び道具が必要な仕事もあるんだろ。だったら尚更体力第一健康基本。それにコントロールはちゃんとできる顔つきだ」
厨房のタイマーが鳴った。
「あたしも昼はこれからなんだよ、一緒につきあいな」
右手には海の幸のペペロンチーノに子牛のボルドー煮、ポルチーニ茸のチーズクリームニョッキにトマトのサラダのワンプレート、ミネストローネのトレイ。左手にはばりばり和風の焼魚定食。大きなお尻でカウンターの扉をよいしょと押し、おはなさんはジョーの前にパスタのトレイを置いた。
(俺の仕事を見抜くなんてな...さすがISO勤務。しかもその腕力。おばちゃんまで対したモンだISO)
ジョーは舌を巻いた。思わず笑いがこみ上げた。なるほど、南部が薦めるはずだ。
「ところであんた、こういうのは食べられるかい」
おはなさんはジョーの前に、小皿を置いた。
塩漬けのオリーブ。
「どうして...」
彼の胸に去来するもの。おはなさんが知っているはずはない。なのに。
「その木の横にいたからさ、ただそれだけだよ」
「この木はねえ、うちのおとうちゃんとの新婚旅行で地中海のほうに行ってね、その時に記念に買ったんだ。すんごく大きくなったんだけどね、ISOに住み込みになるとき家を手放さなきゃなんなくてね、枝分けしてこの子だけが手元に残ったんだよ。実をつけるったってこんなちっちゃいもんだからね、それだけしかないけど、良かったら食べな」
「...そんな大事な木なら、ご主人にみててもらったら良かったんじゃ」
言いかけて、ジョーははっとした。もしや。まさか。
おはなさんは微笑んだ。
「そうなんだ。おとうちゃんも息子もね、ISOで働いてた。でも、もういないのさ」
「さっき、なんであんた、手でわかるのかって思っただろ?とうちゃんはね、ここの運転手兼SPだった。息子はパイロットだった。まあ、ここには大きな声でいえねえような勤務の人間は多いんだよ。あんたの手を見たときにね、思い出したんだ。他に誰もいなかったからさ、ついね。ごめんね」
生きていたら自分の母親もおはなさんと同じくらいの年頃なのだろうか。
彼女は夫と息子を、自分は両親を。
めぐり合わせにジョーは不思議なものを感じた。
午後の柔らかな日差しは部屋いっぱいに溢れ、すべてを暖かく包んでいた。
「だからちゃんとごはんは食べな。息子は食べるのが大好きだったけど、パイロットになってからはコントロールしすぎて食事も偏っちまって、結局身体を壊したまま任務について亡くなった。大変な仕事なら尚更体は資本なんだよ。食べるってことは、生きることなんだよ」
「わかりました、いただきます」
ジョーは素直にフォークを口に運んだ。
うまい。
自分の体に最近足りていなかったもの、それがちゃんと吸収されていく。
「あとね、その腕!」
おはなさんは今度は、厳しい表情で顎をしゃくった。
「その傷、なんでほったらかしなんだい」
「いや、別にこれは日常茶飯事だから、どうってことないんで」
「駄目だよ!」
ぴしゃり、激が飛ぶ。
「どんなに小さな傷でもおろそかにしちゃいけない。その時手当できなくとも、状況が変わったらちゃんとするんだよ。小さな、どうってことない怪我でも命に関わることもある。病気もそう。風邪だって、過信しちゃいけない。おかしいなと思ったら、ちゃんと早めに医者に見てもらうことも立派な任務遂行なんだよ」
おはなさんは、ジョーから目をそらさずにハッキリ言った。
女性からこんなに正面からしっかり言われたのは何年ぶりだったか。
「…ISOのおふくろさんですね、おはなさんは」
「返事は!」
「はい」
「ちゃんと治療するんだよ」
「はい」
「医者にもかかるんだよ」
「うちのとうちゃんみたいなことしないでおくれよ」
「はい」
「食事もちゃんととりな」
「はい」
「そして、また元気な顔を見せにおいで」
「はい」
午後の光の中で、ジョーはくしゃっと微笑んだ。
おはなさんのIDカードが光った。
「MASAKI...HANA...おはなさん、フルネームは」
「いいよ、あたしゃただの、食堂のおはなさんさ」
塩漬けオリーブをふくむと、ふたつの光景が蘇る。
故郷の丘。
そしてあのときの、おはなさん。
医者になんか、本当はかかりたくねえ。
けど、この俺の絶対やんなきゃなんねえこと、こいつを成し遂げるにはなんとかしなきゃなんねえんだ。そうだろう、おはなさん。
ジョーはトレーラーハウスを後にした。
テーブルの上に、齧りかけのオリーブがひとつ、残っていた。