占い師シンの希望への道標

はじめまして。 占い師のシンと言います。 ご相談者の方に希望の光が少しでも射し込む様に、 ほんの少し背中を押したり、 悲しみや辛さを癒して頂ける様な鑑定を心掛けています。 このブログでは私の占い鑑定のご案内や、 幸せになる為のヒント、日々の出来事を、マッタリ綴って行きたいと思います。 どうぞ肩の力を抜いて。 ゆっくり、焦らずに。 幸せへの道を歩いて行きましょうね。

前回は本当の悪についてお話ししました。


今回は少し、スピリチュアルな話です。

スピリチュアルの事をきちんと勉強された方ならば、次の事は納得もしくは理解されていると思います。


それは、『魂の永続性』。


もう少し別の表現をすると、『死後も魂は存続する』。


これは読んで字の如くで、『人は死んだ後でも、その魂は永遠に存在する』と言う事です。


これはスピリチュアルを名乗る方や、スピリチュアリストの方なら当然持っているはずの信念・信条(または知識)ですね。


また、地上界で今を生きている皆さんはそれぞれ、性格や気質といった『個性』を持っていますよね?


「いんや、オラの個性は無だゾ」なんて言う人はほぼ居ないと思います。


一人一人、人間として持っている気質や性格、傾向は、肉体の心だけでなく、魂も持っています。

そしてそれは死後(肉体を失って)も、魂の存在と共に、その性質を持ち続けるという事になります。

つまり、魂にも各々のパーソナリティ(個性・特徴)があるんです。

亡くなっても、生前の人格をそのまま待ち合わせるという事なんです。


霊魂になっても、善人は善の心をそのまま持ち、

『悪人は悪の心をそのまま持つ』ことになります。


私達はこの世での地上生活においては、悪いことをすると捕まったり、法で裁かれます。

それがあるから、悪いことをしません。
または、理性や善性がストップをかけます。

これが「普通の人」なんです。

でも悪人は、地上生活においてもお構いなしです。

捕まっても、法で裁かれても、平気です。
見つからなかったら、なお良しです。

理性や善性よりも、『おのれの欲や本能、感情』が何よりも最優先です。 

被害者が泣き叫ぼうが、苦しもうが、命の灯火が消えてしまおうが、関係ありません。

そこにあるのは常に、おのれのこと、おのれの欲や本能、感情を満たす事だけなのです。


死後、我欲や悪感情の強いそういった霊魂は、幽界の低い層に行きます。

そこでその我欲や悪感情を満たしきれない者達は、その状況にどっぷり浸かります。

だけど、そこは想念の世界でもあるので、実感に乏しいわけです。

その為、そこからずっと、地上の世界(現世)に意識を向け執着します。


また死後に、我欲や悪感情、地上界への執着や未練が強い、『死』を受け入れないものは、幽界に行けずに幽現界(この世とあの世の境目)を彷徨ったり、留まったりします。

所謂、未成仏霊です。


ここで、生前に悪邪霊などに引き込まれた者や我欲・悪感情が強い者は、幽現界のすぐ近くにある、

『闇の世界』

に行く場合があります。 


そして更に、波長の合う闇の住人達と交わり、悪霊の集合体に溶け込み、やがて霊魂の個性は消失していくことになります。

こうなるとその霊魂を助ける事は、非常に困難になります。

この悪霊の集合体は、自らの我欲や悪感情をより強く募らせ、地上の人間に意識を向ける事になります。

また、我欲や悪感情が強い、地上に執着がある未成仏霊は、地上に重なる世界にいる為に、憑依をする事があります。


いずれにしても、未成仏霊の憑依や闇の世界・幽界の低い層の悪邪霊や低級霊に意識が合うのは、地上の人間がそこに引き合う意識を持っているからです。

そこに感応したり、呼応したり、悪邪霊や未成仏霊に憑依された者は、感情を煽られたり、意識や身体を乗っ取られたりして、地上生活において大きな問題を起こしてしまうのです。

己だけの病気や人生の破滅ならまだしも、

他人の人生を破壊したり、時には命を奪ってしまう事になります。


人は亡くなっても生前の人格・我欲は、魂の浄化が進んで霊界に行くまでは、待ち合わせます。

幽界の中間層に進むまでは、変わらないのです。


悪霊はいませんという、


『スピリチュアルビジネス』


の霊的能力者の方がたまにいます。


でもそれは、どこまでいっても客観性の無い、その方の主観でしかなく、一言で言うと、

『ただの感想』です。

悪霊とその世界の存在は既に、『霊訓』に記されています。

また、数多くの霊能者が過去から現在にかけて長い間、その事に言及してきました。

死後の魂は生前の人格を待ち合わせ(魂の永続性)、霊は波長の合う世界に行き、同じ波長の者同士で集ったり、合体する(波長の法則)。

それこそ闇の意識体であり、悪霊であり、悪魔と言われるものの正体です。

スピリチュアリズムの法則で言えば、存在すると考えるのが合理的でもあります。


以上の事を踏まえれば、どっちが正しいかは、一目瞭然でしょう。


とはいえ、『悪霊』の存在で恐怖感や不安感を煽る霊能者が居るのも事実です。

スピリチュアルを学ぶ人達は、その辺りもしっかりと知っておく事はとても大切な事です。


次回はいよいよ本題である、

『悪霊たちに騙されるスピリチュアルの人たち』

について語りたいと思います。












新年のご挨拶をと思っていたが、ワシのブログでは無い故、自粛させて頂こうと思う。


以前に比べると訪問者数は減っているが、時折見に来てくれている方々がいるようだ。


本当にありがたい事だ。


のんびりとした記事の出稿になると思うが、どうか今年も宜しくお願い申し上げたい。


また、私事で色々あった故に、記事の原文の修正が進まないまま本日に至っている。


早めに出稿出来るように努めたい。


それにしても今年で元号が変わる。


それまでにワシが生きておれば、昭和・平成・新元号と渡って生きていく事になる。


感慨深いものである。


平成は色々とあったが、戦後すぐの昭和から今まで生きてきて思う事がある。


明らかに人々の意識が変わったと思う。


そして日本人からは、太古より脈絡と続いてきたものが明らかに失われてきている。


それは、本当の祈りである。


祈りの本質が明らかに失われてきており、代わりに別の性質のものに変わりつつある。


その性質とは、欲を求める心である。


祈りが、欲を求める願いになっているのだ。


寺社は本来、願い事を叶える所でも、開運を求める所ではない。


祈りの本質とは、人の為に祈るものである。


家庭内の神棚や地域の祠・地蔵や道祖神・寺社からは本来の祈りをする者が、ひと昔に比べて減ってきている。


また、信仰を集めていた寺社からは人が減っていき、ご都合主義なパワースポットと言われる所には、欲を叶えようと人が集まっているという。


元神職のワシからすると、嘆かわしい事ではある。


このブログを読んでくれている読者諸氏には、伝えたい事がある。


自らの欲に忠実な願い事を、祈りとしないで頂きたい。


家族や身内、友人や知人、恩師、見知らぬ人。


誰でもいい。


是非、人の為に祈って頂きたい。


人の為に祈るのであるから、神社での開運やパワースポット、何とか流の参拝法などは関係無いのである。


人の為に祈る事こそが本質であり、それが結果的に日本を良くしていく事に繋がるのである。

いつかまた、日本人の心が豊かになる時が来る事を信じていきたいものである。(和風翁)


















さて、前回。

心霊の世界、スピリチュアルに於いて私はある事を伝えたいと思い、ブログの主旨を変えたと、お話しました。

その本題に入る前に、少し知っておいて貰いたい事があります。

またかよ!?いつになったら本題に入るんだよ!

何て突っ込みが入ってきそうですが、もう暫くお付き合いを願えたらと思います。



私達は人生を生きていると、様々な事に遭遇します。

良い経験も、悪い経験も、嬉しい事も、楽しい事も、悲しい事も、腹が立つ事も、沢山ありますよね。

今まで生きてきて、なーーーーーんにも無かったわ、何て事はありません。

その中でも良い事については、スピリチュアルビジネスや、なんちゃってスピリチュアルの方々が語り尽くしていますので、悪い事についての話をしたいと思います。



世の中には昔から、悪があります。

それは変わらずに確実に、連綿と存在しています。

善悪の定義は時代や国の法律・文化・風習慣習・思想によって微妙に異なります。

単純に、ここまでが悪だ、というのを断定するのは難しい問題です。

だけどそんな事を言っても話が進みませんので、秩序、道徳、倫理、に反することを悪として進めていきたいと思います。

単純に、人の道に反すること、と思われても構いません。



さて、人の道というものは、神への道でもあります。

そこから外れるというのは、神への道を外れるという事になります。

神への道を外れるというのは、対極の方向に向かう事でもあります。

神への道には、その先にいるのは神ですよね。

では、神への道に外れるという事は、神と正反対の者への道になるという事です。

そしてその先にいるのは…

という事になりますね。

人の道を外れる事を外道とはよく言ったものです。



ところで、悪の本質を突き詰めていくと、欲になります。

自らの欲に忠実になる。

そういう者たちは、その欲を満たす為にはあらゆる手段を使いますし、自分以外の者は欲を満たす手段であり、慈愛の欠片もありません。

それで自分以外の人がどうなろうと、一切関心はありません。

自分の欲が満たされるか満たされないか、それだけが関心なんです。

スピリチュアルで説く愛とは全く正反対ですよね。



さて、現実の悪について少し語らせて頂きたいと思います。


本当の悪は、表に出てきません。
それは巧妙に隠れているのです。

善に紛れ込み、善のふりをする。
ほとんどの人が、その悪に気付きません。

稀にそれに気付いても、それを語りません。
語れば自分がどうなるかを知っているからです。

自らの命を顧みず真実を表に出しても。
本当の悪によって、あらゆる手でそれは潰されていくのです。

本当の悪というのは単独ではありません。
複数です。複数をなしているのです。

それに対して、真実を知るものは単独か、数人。
集団の前に、個人の力など、像に踏み潰される小動物のようなものです。

集団の前では、個人の力など、無力に等しいのです。

だからいくら真実を知っていても、知らないフリをして日常の平和を選択するのです。


善人や味方の中に紛れ込む悪。
対立している様に見せかけて騙す悪。

そこには、単純明解な悪というものがありません。
わかりやすい悪というのは、信念や思想信条の違いともとれます。

だけど本当の悪というのは、そんなものではありません。
単純明解な悪でさえ、本当の悪に転がされてしまうのです。

善であれ、悪であれ、そこには信念があります。
本当の悪は、その信念でさえ利用するのです。

いつの時代も、人々はそれに踊らされ、騙され、搾取されてきました。

それが、この世の真実の一つです。

目に見える悪だけが、悪だ。
表に出ない悪など、無い。
そう思っている内は、幸せなんです。

そして同時に、何も真実を知らないとも言えます。

本当の悪は表に決して出てこない。
これがこの世の真実であり、現実なのです。




……いくつか削除した箇所がある。都合により、としか言いようが無い。それにしても確かに、現実に本当の悪の黒幕は中々尻尾を出さないね。悪人が善人のふりをして、表の面しか知らない者は簡単に騙される。悪人の様に批判非難されている人が、実はそう言われる程の悪人ではなく、むしろ善人であった。これも良くある話。まるで狐と狸の化かし合いだな。(和風翁)






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