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スタジオジブリ最新作『風立ちぬ』、初日に劇場で観ました。
いわゆる泣ける感動作の類ではなくて、観ている最中も観終えた後も、行き場のない思いや感情に囚われて悶々としてしまう系の作品でした。必見の傑作です。
今夜は興奮して眠れそうにないので感想書きます。(ネタバレあり)

まず先取りして大まかに書いておくと、この映画の主題は要するに、ある矛盾を目の前にして決して見て見ぬふりが出来ない魂の持ち主は、果たしてこの世界(社会)で生きていけるのかという問い。
そうした魂の持ち主に対して、「生きねば。」というメッセージを送るこの作品とは一体何なのだろうか。

生きていく以上、欺瞞(=目の前の矛盾を見て見ぬふりをすること)や、自己欺瞞(=自分が抱える矛盾を見て見ぬふりすること)に陥ることは避けられないのが、悲しい哉、社会を生きる人間の宿命だけど、そこから脱却する道が果たしてあるのかというと、それは結局、自殺か夭逝、要するに生きるのを断念する道しかない。
詞のモチーフが自殺と夭逝である荒井由美『ひこうき雲』が本作の主題歌であること自体がすでに意味深なことなのだけど、映画のラストでヒロインの口から「生きて」というメッセージが発せられたその直後にエンドロールで『ひこうき雲』が流れた時に受けた衝撃は忘れられない。普段ならこの曲を聴くだけで自然と涙が出てしまう僕だけど、エンドロールでこの曲が流れた時には複雑な思いに囚われて泣くに泣けなかった。

自殺できるほどの勇気もなく、夭逝できるほどに恩寵にも恵まれてもおらず、自己欺瞞を抱えてのうのうと生き延びる他ない僕たち大多数の人間にとって、この映画の主題は本当に切実。

「生きろ」ではなく、「生きねば」という、まるで自分自身に言い聞かせるようなメッセージは、「いざ、生きめやも」(生きよう、いややっぱり生きるのは無理だ・・・)という堀辰雄の反語よろしく、監督自身の揺れ続ける思いの表現でもあるのかなと思った。



映画の冒頭近くの印象的な場面。
藤岡中学校時代の堀越二郎が帰宅途中、か弱い下級生が極悪上級生3人からいじめに遭っている現場をたまたま目撃するが、彼は迷うことなく「やめたまえ!」と制止に入る。
目の前で公然と行われている不正や矛盾(ここでは、弱い立場の者が不条理に虐げられていること)を決して見て見ぬふりができない彼の性格が描かれていた。

こういう魂の持ち主が、やがては、美しいものを作りたいという自身の夢を追求することがそのまま軍事兵器の開発・製造に直接携わることになってしまうという自己欺瞞を抱え込まざるを得なくなる。
あるいはまた、妻・菜穂子との関係においても、彼女のことを心から愛していると言いつつも(実際に心から愛しているのだが)、常に自身の仕事を優先するあまり、重度の結核に冒された彼女の傍にろくに居てあげることすらできない。
自分が言っていることとやっていることとの間の矛盾。そうした自己欺瞞のすべてに対し、彼が見て見ぬふりを決め込んだり、「生きていくためには仕方ない」と開き直ることができる人物ではないことを、僕たち観客はよく知っている。

ちなみに、今回の映画製作に際して、反戦の立場にありながら重度の軍事オタであるという宮崎監督自身の抱える自己欺瞞・矛盾に対して「そろそろ答えを出すべきだ」と鈴木敏夫プロデューサーが迫ったという有名なエピソードがあるけど、これはとても重要なことで、この映画の動機に関わることだと思う。


堀越二郎の同期のエンジニア・本庄(声:西島秀俊)もまた、自らの境遇の矛盾と自己欺瞞を自覚しつつも、シニカルな開き直りでもって二郎よりもやや逞しく生きている人物の一人。
以下で引用するのは二郎と本庄がシベリア(洋菓子)を食べながら自己欺瞞について問答する場面のセリフ。(注・セリフの引用は僕の我流速記メモによるものなので語尾とか細部は微妙に間違ってるかも)
ちなみにこの場面の直前には、会社から帰宅途中の二郎が夜更けの街頭でひもじそうに親の帰りを待つ姉弟達に今しがた買ったばかりのシベリアを与えようとすると、年長の女の子は受け取ろうとせず二郎を鋭く睨みつけて走り去ってしまうというシーンがある。
満足に食べることもできない多くの子供達を抱える貧困な国家が、軍事産業に多額の国家予算を費やすおかげで自分達エンジニアが夢を追うことが可能となり、日々メシを食っていけるのだという根本的な自己欺瞞的状況を本庄はしっかりと直視している。社会的矛盾に寄生して生きている自分たちの存在について、二人が議論し合う場面。

本庄:「それは偽善だ。お前、その娘がにっこりして礼でも言ってくれると思ったのか。」
二郎:「違う!・・・いやそうかも知れない。」 
本庄:「腹を減らしてる子供ならこの横丁だけでも何十人もいる。隼の取り付け金具1個の金で、その娘の家ならひと月は暮らせるよ。」
二郎:「この国はどうしてこう貧乏なんだろう。」

本庄:「二郎、今回の技術導入でユンカース社にどれほどの金を払うか知ってるか。日本中の子供達に天丼とシベリアを毎日食わせても お釣りがくる金額だ。それでも俺は与えられたチャンスを無駄にしないつもりだ。・・・(中略)・・・貧乏な国が飛行機を持ちだがる。それで俺たちは飛行機を作れる。矛盾だ。明日、東京へ行ってくる。嫁をもらうんだ。本腰を据えて仕事をするために所帯を持つ、これも矛盾だ。」
 

「貧乏な国が飛行機を持ちだがる。それで俺たちは飛行機を作れる。矛盾だ。」(本庄)
この本庄の言葉はとにかく重い。何かしらの矛盾の上に寄生して自分は生きているという認識は、本庄たちの置かれた特殊な状況を超えて、僕達今日生きる多くの人々に対しても容赦なく突き刺さるものだと思う。

さらに言えば、自分達の夢を追うことは、根本的に自己欺瞞的状況に依拠してこそ可能となるというこのテーマは、のちに「ピラミッドのある世界を私は選びたい」というカプローニの言葉を解釈する上での鍵となる。

物語中盤、夢世界でのカプローニの引退飛行に招待された二郎とカプローニ(声:野村萬斎)の間で交わされた問答における「ピラミッドのある世界/ピラミッドのない世界」という一見謎めいた言葉は、おそらくこの映画の中で最も有名なシーンになると僕は思うけど、まず先に当該セリフを引用しておくと、

カプローニ:「君は、ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界のどちらが好きかね?」
二郎:「ピラミッドですか? 」
カプローニ:「空を飛びたいという人類の夢は、呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具となる宿命を背負っているのだ。それでも、私はピラミッドのある世界を選んだ。君はどちらを選ぶ。」
二郎:「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています。」 

 ピラミッドとは、ここでの文脈によれば要するに、人類が誇るべき美しい文化遺産である一方で、その建造は大いなる矛盾(王制下の収奪)に依拠してこそ初めて可能になったもの。
文化というものは基本的に寄生者(歴史的には、王や貴族や天才エリートたち)によって発展させられて来たものであり、むしろ寄生によらなければここまでの文化は発展しえなかったという文化のエリート主義的な理解を前提として、人類の美しい文化・技術の発展のためにはこの矛盾に対して積極的に見て見ぬふりを「すべきだ」という一種の諦めに似た態度がカプローニのものである(と僕は解釈しました)。

カプローニの質問に対する二郎の回答は、「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています」というものだけど、このセリフの微妙なニュアンスは、特に解釈が難解で、この映画の中で最も議論を呼ぶ箇所だと思います。
この二郎の回答「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています」を、カプローニの立場と比較したときにどのように位置づけたらいいのか、現時点では僕もまだよく分かりません。

二郎はカプローニの立場に同意したかのようにも見えるけど、どうやらそうとは言い切れない微妙なニュアンスが残る。この映画が豊かなのはまさにこういう細部にこそ言えることで、観る人や立場によって様々な解釈ができると思います。

(追記:
一晩明けたら少し見方が変わりました。「ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界、君はどちらを選ぶ?」と問われたにも関わらず、二郎はその質問に答えていないように見えることが重要なのかなと思えてきた。
あえて「私はこちらを選ぶ」という形式で答えないということはすなわち、どちらかを選ばなければならないというカプローニの問いの前提に乗ることを二郎が拒絶することを意味するのであって、ここにはナウシカの頃から一貫した宮崎監督の姿を見出すことが出来るかもしれない。

でもその一方で、この二郎のセリフは文字通り素直に受け取るならやはり、カプローニ氏のエリート主義(美しいピラミッドを造るためには社会的矛盾を抱えた王制すら支持するし、やむをえない)に完全同意しているようにも見える。要するに、美しい飛行機を作るためには、矛盾を抱えた貧しい軍事国家を支持するし、美しさのためには、腹を空かせた子供達を見て見ぬふりするのもやむをえないし、自身の作った飛行機が「殺戮と破壊の道具」として利用されても仕方ない。これは本庄のシニカルな開き直りの態度とまったく同じ。でもこの解釈は一応可能とはいえ、これがこの作品のメッセージであるとは到底僕には思えません。これだと、主人公・堀越二郎には矛盾との葛藤が不在だと言われても仕方が無い。宮崎監督自身、こうしたシニカルな開き直りに安住できるような魂の持ち主ではないと僕は思います。

とにかくこの場面に関しては様々な解釈が可能だと思います。)



あと、この作品はトーマス・マン『魔の山』への明示的な参照がところどころでなされていて、関東大震災の後、初めて二郎と菜穂子が再会することになる軽井沢の高原ホテルで、同じ客として滞在していた、クレソンを山盛り食い、口癖のように「破裂」という言葉を好んで使う怪しげなドイツ人がいるのだけどその彼の名前がなんとカストルプ(声:スティーブン・アルパート)。

カストルプ:「いい夜です。ここは、Der Zauberberg.。」
二郎:「『魔の山』。トーマス・マン。 」
カストルプ:「忘れるにいい所です。チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本、破裂する。ドイツも破裂する。」
二郎:「ドイツはまた戦争しますか。」
カストルプ:「そう。とめなければ。 」
 
『魔の山』の主人公ハンスと同姓のこの怪しくも魅力的なドイツ人をあえて登場人物の一人として配置した監督の意図を考えずにはいられない。

ハンス・カストルプが出会った、極端にタイプの異なる二つの魂。

一方の極にいるのが、人間の理性及び科学技術(テクノロジ)の発展に全幅の信頼を寄せ、文明が進歩・成長することで、人間社会が抱えるあらゆる矛盾はやがて当然に解決されるだろうという楽観的な確信を抱いた軽薄でモダンな啓蒙主義者・セテムブリーニ。輝かしい人間の生を全肯定するタイプの立場。「人生って素晴らしい!」と何の臆面もなく無自覚に言えてしまう人。自己欺瞞に悩まされることなく生きていける、ある意味、幸福な人間。「ピラミッドのある世界」が抱える矛盾に対してまったく無自覚(たとえ自覚していたとしても極めて楽観的)なタイプ。

これに対して他方の極にいるのが、深い業を負った罪深き利己的な俗物たちが群がる、この反吐を催すような欺瞞的な文明社会を徹底的に呪詛し、矛盾と自己欺瞞にまみれた腐れ俗物どもの現世的な生の営みを全否定してやまない悪魔的なイエズス会士のナフタ。この忌まわしい俗世から逃れるためには喜んで生きるのを諦めるタイプの立場。『ひこうき雲』的な自殺・夭逝への憧れ。人間社会に対して罰としての無差別テロリズムさえ辞さない過激派。「ピラミッドのある世界」を全否定して、ひたすら「ピラミッドのない世界」を志向するタイプ(ただしそれはもはや地上には存在しえない彼岸的な楽園)。

ハンス・カストルプはこの光と闇のどちらに対しても惹かれつつも、結局どちらの道も選ぶことはなかった。
光と闇の両方に憧れつつも、どちらか一方にコミットすることなく引き裂かれて生きるというのは、「いのちは、闇の中にまたたく光だ」(ナウシカ)と言い放った宮崎監督自身ずっとおっしゃってるテーマのひとつなので、今回トーマス・マンが参照されたというのはとても自然なことだった。(ナウシカの文脈でいえば、「いのちは光だ」と言うのがセテムブリーニだとすれば、「いのちは闇だ」と言うのがナフタ。)

堀越二郎という人物には葛藤がないと言われがちだけど、本当に葛藤のない人間というのはセテムブリーニあるいはナフタのような一方に極端なタイプの人間のことを言うのであって、二郎の葛藤を浮かび上がらせるためにこそ、トーマス・マン『魔の山』が参照されたんだと思います。



この映画で泣いてしまったのはやはり、映画終盤、病状の末期を向かえた菜穂子が二郎にすら告げずにひっそりと黒川邸を去り、死ぬために山の病院へ帰ってゆく一連の場面。 
加代:「おねえさま、手紙が・・・。私に宛てたものもあります。・・・おねえさま、菜穂子さん山へ帰るって!私、呼び戻して来ます!」
黒川夫人:「だめよ!追ってはいけません。菜穂子さんが汽車に乗るまでそっとしてあげましょう。美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね。」

菜穂子に対しても、飛行機と同様の「美しい」という形容が使われているのが気になるのだけど、二郎が菜穂子に求める美しさと飛行機に求める美しさが同等のものだとすれば、菜穂子の美しさは菜穂子自身の大いなる犠牲の上に成立していたという、この黒川夫人の言葉(「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね。」)も納得できる。飛行機の美しさもまた大いなる代償を必要とするのだから。
二郎が享受した菜穂子の美しさというのは、究極的には菜穂子による献身的な犠牲という、二郎にとってみれば極めて自己欺瞞的な状況があって初めて可能となったわけで、ピラミッドのある世界と構造は同じ。



最後に感想をまとめると、「ピラミッドのある世界」に生きて夢を追いかけようとすると必然的に招かざるを得ない自己欺瞞的な状況(他者の犠牲に対する寄生状態)のさなか、結局、一体どうすれば矛盾に対して目をつぶり耳を塞ぐことなく生きられるのかという問いに対して、明白な答えは見出せそうにない、というのが僕なりにこの映画から受け取ったメッセージです。やや悲観的な捉え方であるのは自覚しているけど、これが僕の知る現実です。

自己欺瞞に対して見て見ぬふりを決め込むことが許せない結果、どうしても自殺や夭逝(『ひこうき雲』)に憧れてしまう自分に対して「生きねば。」と説得するだけの根拠は探してもどこにも見当たらないし、たぶんこの先も見つからないだろうという予感とともに、諦観が残った。

でも、少なくともこの映画はこの悶々とした気持ちを言いあらわして形にしてくれたのはたしかだし、この映画を観た自分以外の多くの人々とこの気持ちを共有することが可能になったという点が唯一の救いかなという気がします。
この映画観て良かったです。もう一度、一人でゆっくり観たい。


追記2:
カプローニの問いかけに対する二郎の回答(「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています。」)の件に関して上でぐだぐだと書いてましたが、宮崎駿監督自身の発言を読んだら、すでに監督がこの件に関して明確に語っておられるのに気付きました。この文章(下に引用)を読めば、二郎の台詞に込められた監督の意図は明らかですね。
 私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。

 自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。 
・・・(「企画書」より一部抜粋)
ここで大事なのが、この上の文章からは誤解してしまうけど、自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ結果、ズタズタに引き裂かれるのは本人ではなくあくまで他人だ、ということ。自分の夢の代償を負うのは常に他人である。他人を犠牲にしてこそ自分は夢を追うことが可能になる。他人をズタズタに引き裂いてもなお、自分自身の夢を追うことは可能か?その現実を直視できるのか?と問いかけるのがこの映画であったはず。
それでもなお、自分の夢を諦めきれないというのが二郎が出した結論であり、ズタズタに引き裂かれた菜穂子に「あなた、生きて。」とまで言わせた。


美しいものに憧れ夢を追う者が非政治的人間と称して現実に背を向ける態度そのものに潜むいかがわしい政治性を、ナチスドイツに責任を負うべきドイツ知識人の一人としての自分を省みる形で批判したのはトーマス・マンその人ですが、これとほぼ同型の、美に憧れるロマンチストの自己批判・自己嫌悪というような問題意識は宮崎監督の一貫したテーマだと思いますが、結局、自己嫌悪しつつもロマンチストであることをやめられないというのが宮崎駿が負う深い業(ごう)。


ゆえに、「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています。」というこの二郎の台詞は、現実との葛藤がまったく不在であると観客に誤解されやすいのも仕方ないのだと思う。この台詞は、美に憧れ夢を追う自分を嫌悪しつつも結局夢を諦めきれない監督自身の葛藤が投影された産物だということで僕なりに決着がつきました。


ところで、少し言い方を変えると、二郎には葛藤がない(ように見える)という意見はそれはそれで正しいわけです。なぜなら、二郎は結局、夢を追い生きるために葛藤を捨てざるを得なかったとも言えるのだから。葛藤を突き詰めて、自己欺瞞的状況を清算しようとするならば、何度も言うように、生きるのを諦めるしか道はない(あるいは発狂するのもひとつの道。こんな欺瞞的な世界に生きていて、到底正気ではいられない。)。二郎は生きる道を選んだ。生きる道を選ぶということはこの葛藤と妥協すること。

内心で葛藤さえ抱えていれば自分は潔白でいられると信じる心情倫理家こそ最大の偽善者であり自己欺瞞のかたまりであって、二郎は少なくともそれに陥ることはなかった。
映画を観終えて、やり場のない虚しい気持ちになるのは仕方ないことかなと思います。 誰でも思い当たるのではないでしょうか。「生きねば。」っていうコピーは、この映画に本当にふさわしいと思います。

あと最後に、庵野秀明監督の声も素晴らしかったです。庵野監督自身、たえず自己欺瞞と戦っておられる厳格な魂の持ち主だと常々思っていたので(肉食との葛藤)、彼のような人物が、本作の主人公・堀越二郎を演じたことはとても説得力があった。 


最後の最後に、かなり大げさだけど、庵野監督の肉食問題に触れたついでに書いておくと、人間が生きていく以上直面せざるをえない矛盾というものがもっとも鮮明にあらわれるのが、生きるために「食べる」という行為。
この作品で描かれた”自分が夢を追い生きていくためには必ず他人の犠牲を必要とする”という「ピラミッドのある世界」の本質をさらに限りなく抽象化するならば、それは要するに、自分は他人を喰らって生きているということ(これは文字通りの意味なのであって、人間は生きていくために他の生き物を殺してその肉を喰らって生きている)。この現実を直視できるかどうか。もし耐えられないのなら自分が死ぬしかない。

生きていくためには見て見ぬふりをせざるを得ないこの現実に耐えられず苦悩する魂の持ち主が庵野監督その人であって、それはエヴァンゲリオンという作品における狂気すれすれの表現を見ればおのずと分かるはず。
宮崎監督が庵野監督を評して、「現代で、一番傷つきながら生きている」「正直に生きている」人であるとインタビューで語ったのは、以上のような意味合いにおいてなのであって、庵野監督という人はほんとうにしんどい生き方を選んでいる人。

こうした庵野監督の葛藤に対して、それは感傷的すぎると冷笑してみたり、「中二」というレッテルを貼ってやりすごす人々もまた大勢いるのは事実。でも彼ら大勢の反応も、それはそれで、人間が生きていくためにはまっとうな道なので仕方ないこと。生きるために食うことは当たり前のことなのだし、食物連鎖という観点から見るならば共存していくためにはむしろ他の者を食うことは必要なことなのだし。食うことを拒絶する優しい人間は野垂れ死ぬしかないのだから。「自分が生きてゆくためには仕方ない」という正当化を受け入れるのがこの世界の標準。


でもその一方で、「自分が生きることは他人を犠牲にすること」という、この当たり前の現実が当たり前だとは思えず、文字通りに「生きるか死ぬか、それが問題だ 」という次元で苦悩している人がいるのも事実で、そうした人は、この『風立ちぬ』で描かれた、出口なしのどん詰まりの矛盾と葛藤に共感を寄せるのだろう。 

「生きねば。」という言葉は、生きる(葛藤との妥協)か死ぬ(解決のための自殺)かの狭間で立ち往生している人間の自問の言葉なのであって、堀越二郎をそういう人間として描きたかったというのが宮崎監督の本心なんだと思う。


ところで、この『風立ちぬ』の主題とまったく同じ状況を歌った天才がいた(ちょうど30年前の歌らしい)。その人は夭逝したようだけど。自分が生きようとすれば、どうしようもなく他人を傷つけてしまうという現実を目の前にして、それでも「生きねば。」と歌ったこの人。ピラミッドのある世界で生きる覚悟。自分が勝つということは、誰かが負けるということ。生きていくにはあまりにも優しすぎる魂。

心すれちがう悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

「僕が僕であるために」 尾崎豊 



こうした生き辛さを抱える人間の葛藤を中二 と呼んで済ませることのできる人はそもそも文学など必要としなくても生きていける強い人間なのであって、そういう人は本作品『風立ちぬ』をわざわざ見る必要もないと思う。作者が己の実存をかけて真摯に作った作品に対しては、受け手も真摯に受け止めるのが礼儀だと思います。
上がりを決め込んだおっさん/おばさん(by神山健治)たちにこれら作品の揚げ足を取る資格など無い。

僕にとっては、この『風立ちぬ』という作品は、人が生きる上で直面せざるをえない、解決不能の普遍的な主題が表現されていたと思うし、それが普遍的だからこそ、こうして天才同士(宮崎駿と尾崎豊)の作品が共鳴し合ったりもする。堀越二郎の飛行機もしかり。彼ら天才の存在こそが、僕(凡人)にとっては生きていくための唯一の慰めであり救いです。