憲法とたたかいのブログトップ
【このページの目次】
◆山本宣治リンク集
◆山本宣治とは
◆杉山潔志=「山宣一人孤塁をまもる。だが私は淋しくない。背後に大衆がいるから」
◆本庄豊=山本宣治の葬儀(洛南の光芒)
◆本庄豊=山本宣治の墓碑(洛南の光芒)
◆河上肇=山本宣治を語る
◆山本宣治全国農民組合大会へ(西口克己「山宣」)
◆谷口善太郎=階級戦士としての同志山本宣治(労働者教育の活動など)
◆山本宣治、谷口善太郎たちが開いた京都労働学校で学んだ人たち
◆森まゆみ=暗い時代に生きた人びと-山本宣治

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◆◆山本宣治リンク集
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★「武器なきたたかい」冒頭のみ
http://m.youtube.com/watch?v=payuArVroA0
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★★映画=山本宣治
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=53553219
大東映画1960年作品。監督・山本薩夫。原作・西口克己

戦前の労農党代議士・山本宣治(通称・ヤマセン)を描いた映画。ヤマセンは学者として同志社大学で教鞭をとり、当時としては斬新な性教育もし、産児調節の考え方も説いていた。それは当時の「産めよふやせよ」という国策に反するとされ、自由主義を唱える学者などへの弾圧の中で、ヤマセンも大学を去る。労働運動や農民運動、社会主義思想にも接していたヤマセンは労農党の代議士になる。ヤマセンは帝国議会で、ただ一人治安維持法に反対した。1925年治安維持法改悪成立前日右翼の凶刃に倒れる。
日本が当時侵略戦争をすすめ、国内においては思想弾圧・言論弾圧をしていた状況、その中でのヤマセンのたたかいがいきいきと描かれた映画。

◆山宣ワールド
http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/

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◆◆本庄豊=南山城の光芒 -洛南タイムス連載シリーズ
=山本宣治など戦前の京都の社会運動
http://www.rakutai.co.jp/etc/yamashiro/index.html
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◆◆0904本庄=テロルの時代-山宣暗殺の黒幕.pdf


◆◆0305月刊学習・山口富男=山本宣治のこころざしと現代.pdf


◆◆歴史評論・佐々木=山本宣治の議会活動.pdf



◆プロキノ映画『山宣渡政労農葬』 フィルム の考察- 立命館大学・雨宮
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_22-3/RitsIILCS_22.3pp111-124Amemiya.pdf

◆木村 安明=山本宣治論序説PDF10p
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mammalianscience/10/2/10_2_2_11/_pdf

◆佐々木 敏二=山本宣治研究(1) : 青年時代の生活と思想形成過程PDF40p
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00009097&elmid=Body&lfname=002000140008.pdf&loginflg=on

◆大塚 浩一郎=山本宣治における生物学と社会思想(全25p)
(1) : 性教育論と性学研究
http://ci.nii.ac.jp/els/110001020577.pdf?id=ART0001188689&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1405743065&cp=
(2) : 進化論と社会主義思想
http://ci.nii.ac.jp/els/110000996583.pdf?id=ART0001175930&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1405743183&cp=
(3) : 性の解放から婦人の解放へ
http://ci.nii.ac.jp/els/110000996607.pdf?id=ART0001175969&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1405743565&cp=

◆柴本 枝美=山本宣治の性教育論における性生活調査の位置づけと役割PDF17p
http://ci.nii.ac.jp/els/110006966781.pdf?id=ART0008875510&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1405743343&cp=

◆村瀬 桃子=山本宣治宛の性や生殖に関する相談書簡についての一考察 : 男性からの相談を中心に(<特集><性>と教育)PDF10p
http://ci.nii.ac.jp/els/110001714725.pdf?id=ART0001839814&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1405743473&cp=
◆近代デジタル・ライブラリー=同志社倶楽部講演集. NO.2 図書 (同志社倶楽部, 1929)
目次:昭和四年二月例會講演 山本宣治=議會への進出と無産黨の立場
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1055199

◆近代デジタル・ライブラリー=日本における階級闘争 : 片山潜集
第三 山本宣治代議士の慘殺
(伊藤書店, 1948)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459854

◆近代デジタル・ライブラリー=法窓雑話
末弘厳太郎 著 (日本評論社, 1936) , 訂5版
五 山本宣治氏兇死事件に關聯して ​
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278616

◆近代デジタル・ライブラリー=労働者農民の代議士山宣は如何に議会で戦つたか 図書 (赤光社書店, 1932)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1099446

◆近代デジタル・ライブラリー=恋愛揚棄 山本宣治 著 (南宋書院, 1927)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280820

◆近代デジタル・ライブラリー=明治・大正・昭和歴史資料全集. 暗殺篇
有恒社 編 (有恒社, 1934) 山本宣治暗殺事件 ​
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920437

◆山本宣治と労働学校
【大阪労働学校で講義する山本宣治】
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▼当ブログ=資料=谷口善太郎が語る戦前の労働者教育(総同盟・評議会)
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3151573.html
▼当ブログ=資料・大阪労働学校の人びと(二村 一夫)
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3641597.html
▼下記掲載の「谷口善太郎=階級戦士としての同志山本宣治」「山本宣治、谷口善太郎たちが開いた京都労働学校で学んだ人たち」も労働者教育について詳しい
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◆◆山本宣治とは
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◆山本宣治略歴
(「山宣ワールド」から)

1889年(明治22)5月28日
京都市の繁華街、新京極でワン・プライス・ショップという名の今でいうアクセサリー店を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた。両親は熱心なクリスチャン。病弱のため神戸第一中学校を中退した山宣は、両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。神戸中学時代の先輩に竹久夢二がおり、後に妻千代の絵を描く。

1906年(明治39)
大隅重信邸へ園芸見習いのために住み込む。

1907年(明治40)
18歳、園芸研究のためカナダ・バンクーバーに渡り、5年間皿洗い、園芸、鮭捕漁夫などの仕事をしながら、苦学生の生活を送る。ダーウィンの「進化論」学ぶ。この時期、労働者としてのたくましさと科学的なものの見方を身につける。

1911年(明治44)
父の病気を理由に帰国。旧制第三高等学校を経て東京帝国大学へ進み、動物学を専攻。

1920年(大正9)
京都帝国大学大学院入学。また、同志社大学予科講師となり学生に「人生生物学」を講義。性教育啓発家としての活動を始める。

1922年(大正11)
アメリカの産児調節運動家サンガー女史の訪日をきっかけに、労働者農民の中で産児制限運動を始める。

1924年(大正13)
京都労働学校長となり、労働者教育に携わる。この頃、「産児調節評論」(後に「性と社会」と改題)を発行する。

1926年(大正15)
日本農民組合に入り、南山城地方の小作争議を指導。

1928年(昭和3)
38歳、第1回普通選挙に京都府第2区より立候補し当選。第56帝国議会で、3・15事件などでの官憲の拷問を取り上げて政府を追及。

1929年(昭和4)3月4日
大阪での全国農民組合大会で挨拶。「実に今や階級的立場を守るものは唯一人だ。だが僕は淋しくない。山宣一人孤壘を守る。しかし、背後には多数の同志が‥」ここで祝辞は中止させられた。この言葉は、墓碑銘として刻まれている。

同年3月5日
治安維持法改正緊急勅令の事後承諾案反対のため、発言原稿を準備して議会に臨んだが妨害にあって発言できず。その夜、東京・神田の宿舎において、右翼「七生義団」のテロリスト黒田保久二により暗殺される。享年39歳。山宣なきあと、日本は満州事変から上海事変へ、太平洋戦争へとつき進んでいった。

◆◆山本宣治墓前祭

赤旗17.07.31きょうの潮流

 戦前から守られてきた宝の碑は、今も輝きを増しています。長野県上田市の別所温泉にある安楽寺。山あいの参道沿いに山本宣治(せんじ)の記念碑が置かれています▼暗黒の時代に反戦平和を訴えた山宣。思想や言論の自由を徹底的に弾圧した治安維持法の改悪に帝国議会でただ一人反対を貫き、右翼の凶刃に倒れます。その死の4日前、上小農民組合連合会に招かれて上田で講演していました▼翌年の1930年、山宣の話に感銘した農民たちは抗議の思いを込めて碑を建立。その後、弾圧が激しくなって官憲から碑を壊すよう命じられます。しかし建てた土地の持ち主だった旅館の主人が庭石に見せかけて守り通しました▼「山宣に高まる関心」。今月、地元紙が記念碑に訪れる人が増加しているとの記事を載せました。秘密法が強行された頃から目立ちはじめ、共謀罪の論議が盛んになった今春からは一層増えたと▼碑に備えたノートには先人の遺志を今に重ね、共謀罪とたたかう決意をつづった書き込みも。長野山宣会の平林茂衛名誉会長は「治安維持法の現代版といわれる共謀罪をなんとしても撤廃に」と語気を強めます▼同じ傾向は山宣の墓がある京都・宇治でも。今年の墓前祭には全国から250人、生誕記念講演会には100人が集まり、宇治山宣会にはマスコミからの問い合わせも増えているといいます。今に生きる山宣の勇気と決意。東京山宣会の決議にあります。「市民と野党の共同の闘いに合流し、共謀罪の廃案をめざして奮闘する」

◆◆橋本進=山宣と多喜二の呼びかけにこたえて
(赤旗16.03.02)
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◆◆山宣が残した演説草稿=共謀罪に重なる告発
(赤旗17.07.07)
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◆◆山宣の最後の「演説草稿」を読み解く

2009年2月15日 不屈 №416

ことしは山本宣治没後80年・生誕120年。日本近現代史の上で重要な意味をもった年です。

山本宣治代議士(以下「山宣」と略す)は一九二九年三月五日、治安維持法のさらに最高死刑などの大改悪を、天皇の緊急勅令で強行した、その事後承諾を求める帝国議会(第56議会)本会議で、それに真向うから反対するために議場に臨みました。しかしそれは果たすことができずその晩、定宿の神田光栄館に侵入した右翼暴漢黒田保久二の凶刃に倒れました。

死後発見されたその演説草稿《治安維持法改悪反対=前衛虐殺法反対》は、戦前日本の大資本・大地主が労働者農民の膏血を搾り尽くし、その搾取の体制を、天皇絶対の「国体の擁護」の名で手厚く援助し、それへいささかでも楯突く者へは「乱臣賊士」の名で圧殺する、その支配の本質を歯に衣着せず暴露し糾弾する内容でした。

「草稿」はまず「治安維持法にたいする二つの態度」を析出し、第一の態度は、きわめて反動的なものから単に形式上のみの反対、「事実上には賛成を唱えるものに至るまでの一切を包含」するとし、第二の態度は治安維持法にあくま反対を唱えるところの戦闘的―革命的態度であり」「労働者農民の前衛を殺害しょうとする支配階級の反動的テロリズムにたいして……階級的立場から反対するのがこの第二の態度の本質的な方向」と明快に論じています。

「事実上には賛成を唱えるものに至るまでの一切を包含」するとし、第二の態度は治安維持法にあくまで反対を唱えるところの戦闘的―革命的態度であり」「労働者農民の前衛を殺害しょうとする支配階級の反動的テロリズムにたいして……階級的立場から反対するのがこの第二の態度の本質的な方向」と明快に論じています。

「一切のストライキをほふり、小作争議を蹴散らし、前衛を虐待する」支配階級は、国体の擁護という中心スローガンの中へ包含してその方便とする、と治安維持法の狙いを衝くとともに、この支配にたいして「日本共産党こそは、日本無産階級がもつ唯一の政党」とも明記しています。

この山宣の演説草稿には他の七人の無産議員は強硬に反対し、ついに彼の演説も発言も封じられてしまいました。すでに山宣とは袂を分かっていた水谷長三郎の、左翼運動を二種類に分けて共産党を軸とする左翼団体は治安維持法の対象となるのは当然だが、共産党と関係ないものは対象外という論理での〝反対演説〞で終わってしまったのです。

山宣の演説がもし実現していたら……彼自身が「咽喉を締められても」と予期していたような事態となったことは明らかでしょう。
四百六十六人の代議士中ただ一人彼の発言はもとよりその存在が「天皇の協賛」の帝国議会にとっては許せないものでした。

特に二月八日の《拷問・不法監禁に対する質問》は政府官憲をして顔色なからしめた、鋭く、綿密な調査の上での追及であり、また山東出兵から中国への本格的侵略戦争に対する糾弾も支配階級にとって容認できないものでした。
しかし背後の大衆を信じて単身帝国議会でたたかい倒れた山宣の正しさを、その後の歴史が証明しました。

花を愛した少年期、カナダでの労働と日本を客観視する力、キリスト教徒としての苦悩、科学者としての生活と父母の猛反対をおしての千代との結婚、産児制限運動を通じての労働者・農民との接触と彼らの運動への参加、そして労農党での活躍と代議士としてのたたかい―彼の四十年の生涯は、単に文献によるだけの進歩的活動への接近ではなく、自己の直接体験を通じ、それを自己の骨肉として民主主義思想を身につけ、最も戦闘的な民主主義者に成長して行った過程でした。まさに「民主主義と自由のために生涯を捧げた」一生でありました。

いま、山宣が自己の生命を賭けてたたかった目標が、日本国憲法に刻まれています。彼の崇高な意志をついでたたかうことを誓い合いたいと思います。

(同盟埼玉・小口巽。演説草稿は『治安維持法と現代』春季号に掲載予定。)

◆◆山本宣治の選挙ポスター発見、治安維持法に反対し暗殺

京都新聞2017年06月15日

見つかった山本宣治の選挙ポスターと薮田会長。黒地に赤い文字というインパクトのあるデザインが目を引く(宇治市大久保町)
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 治安維持法に反対して暗殺された政治家で、京都・宇治ゆかりの山本宣治が1928年の第1回普通選挙で用いたとみられる選挙ポスターが宇治市内で見つかった。現代版の治安維持法と懸念される「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案が成立した中、山本の足跡を伝える新たな資料として注目される。
 見つかったポスターは縦74センチ、横49センチ。黒を下地とし、上部には赤色で山本の氏名が大書され、中央にはめらめらと燃え上がる炎が描かれている。
 左右には「はたらく農民に土地を保証せよ」「税金は大地主と大資本家より徴収させろ」とのキャッチフレーズも記され、民衆の代表としての意気込みを示している。
 山本を顕彰している宇治山宣会の薮田秀雄会長(72)が4月下旬、山本が当主を務めた料理旅館の支配人だった山中平治の遺品約50点を同市大久保町の自宅で整理していたところ、折りたたまれた状態で発見した。
 山本は選挙権に制限のあった1927年5月の衆院選京都5区の補欠選挙に立候補したが落選。翌28年2月の普選では、京都2区で初当選を果たした。普選の時の選挙事務所内に今回見つかったデザインのポスターが張られている写真が残っており、普選の時に使ったことがうかがえる。
 帝国議会に議席を得た山本は、政府が治安維持法を用いて共産主義者を弾圧した三・一五事件を追及するなど政治的自由の重要性を訴えた。29年3月5日、同法に反対する演説を準備していたが妨害でかなわず、その夜に東京・神田で右翼の男に刺殺された。
 共謀罪の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案について、薮田会長は「犯罪でないものを犯罪にでっち上げる点で治安維持法と同じ」と危機感を強め、宇治山宣会としても反対を訴えている。ポスター発見を機に「どんな時もギブアップしなかった『山宣』の闘いから、あらためて学ばないとならない」との思いを新たにしている。
山本宣治(1889~1929年) 京都市生まれ。病気療養のため宇治の別荘で育ち、カナダ留学の後、東京帝国大、京都帝国大大学院などで学ぶ。京大講師時代に社会主義運動に関わりを深め、労働農民党の京滋支部に参加した。名前を略して「山宣(やません)」と呼ばれることが多い。


◆山本宣治とはどういう人
2004年3月3日(水)「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 あの戦前の状況下で「山本宣治」さんという方が国会議員に当選し、庶民の立場でたたかって暗殺されたという話を聞いて驚いています。どんな方だったのですか?(岡山・一読者)

 〈答え〉 山本宣治は一九二九年三月五日夜、暗殺されました。三十九歳の時でした。
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 天皇制政府は侵略戦争の「銃後」を固めるため、前年に緊急勅令で治安維持法改悪(最高刑を懲役十年から「死刑もしくは無期懲役」に)を強行。その日は、衆院で同法の事後承認案の審議があり、山本は発言原稿を準備して議会に臨みますが、妨害にあって発言できず、東京・神田の宿舎に戻ったところを右翼テロリストにより刺殺されたのです。

 日本共産党は、民主主義と自由のために生命をささげた彼をたたえ、死後、党員としての資格をもってとむらうことをきめ、前年死亡した渡辺政之輔とともに労農葬をおこないました。

 山本宣治は、京都大学や同志社大学で生物学を教えていた学者でしたが、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって産児制限運動など世の中をよくする運動に身を投じます。一九二八年労農党の代表として京都二区から衆議院議員に当選。戦争へと国民を引きずって行こうとしていた政府の政策に真っ向から反対しました。

 「山宣(やません)」と呼ばれ人々に親しまれた彼は、宇治川のほとりにある料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもありました。京都では毎年、命日である三月五日に、「山宣墓前祭」をひらいています。

 山宣なきあと、日本は満州事変から日中全面戦争へ、太平洋戦争へとつき進んでいきます。

 大山郁夫書の墓碑銘「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋(さび)しくない 背後には大衆が支持してゐるから」は、いまも多くの人の胸に刻まれ、たたかいを励まし続けています。(喜)

◆「武器なきたたかい」が意味するもの
(赤旗16.01.19)
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◆山本宣治のこと
赤旗「潮流」09.06.03

戦前の労農党の代議士だった山宣こと山本宣治の墓を訪れたのは、ずいぶん前の話です。秋だったでしょうか

▼京都の宇治市。宇治川のほとりから坂を登る。この目で確かめたかった、「山宣ひとり孤塁を守る…」の墓碑銘。戦後まで、ぬりつぶさないと建立を許されなかった墓の前に、しばし立ちつくしました
▼山宣の時代、「生きていく機会の平等」は、現実のものではありませんでした。国家は、思想の違いで人の生死を振り分けました。一九二八年、治安維持法を、「国体」を変革しようと結社をつくった者や指導者を死刑にできる法律に。山宣は、命をかけて治安維持法とたたかったのでした
▼二九年二月、衆院予算委員会。山宣は、共産党への弾圧で逮捕された人たちに対する権力の拷問を生々しく告発し、こうしめくくりました。無産階級は政治的自由を獲得するため、犠牲と血と涙と生命までをつくしているのだ──
▼彼自身、一ヵ月後に犠牲者になろうとは……国会で治安維持法の「改正」に反対しようとして阻まれ、暗殺者の手にかかったのは、八十年前の三月五日でした。墓碑銘は、セメントでぬりつぶされるたびに、遺志をうけつぐ誰かに彫り返されました。
(「赤旗」20090306)

◆◆山本宣治やまもとせんじ
(1889―1929)
小学館百科全書

大正・昭和時代の生物学者、政治家。明治22年5月28日京都市に生まれる。宇治の料理旅館「花やしき」は生家の別宅。カナダへ留学後、東京帝国大学を卒業し京都帝国大学、同志社大学の講師となる。1928年(昭和3)労働農民党から代議士となり、治安維持法改悪に反対するなど無産者のための政治家として活躍したが、翌1929年3月5日右翼により刺殺された。山本は「死物学」ならぬ「生物学」、すなわち「生命の科学」を追究、従来隠蔽(いんぺい)されていた性の領域を科学的に開拓した。それはアカデミーの枠内にとどまらず、人々の生活に直結するものであった。1922年(大正11)にはサンガー夫人来日を契機に産児調節運動に乗り出し、雑誌『産児調節評論』(のち『性と社会』と改題)を創刊。労働者や農民に親しく接して人気を博し、「山宣(やません)」の愛称でよばれていた。その死にあたっては各地で労農葬が営まれた。[成田龍一]
『佐々木敏二著『山本宣治』上下(1974、1976・汐文社/改訂版・1998・不二出版) ▽『山本宣治全集』全7巻(1979・汐文社) ▽西口克己著『山宣』(1959・中央公論社)』

◆◆杉山潔志=「山宣独り孤塁を守る!だが私は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」

◆山宣ひとり孤塁を守る
   
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▲山本宣治の墓碑
 今年(2009年)は、旧労働農民党(労農党)の衆議院議員山本宣治の生誕120年、暗殺80年の年にあたる。宣治は、1889年、クリスチャンで洋物雑貨店を営む亀松・多年(タネ)夫婦の長男として京都市内で生まれた。神戸中学校に進学したが、虚弱体質のため退学し、宇治市内の別荘(後の料理旅館「花やしき」)で花を栽培し、園芸家を志した。1906年、大隈重信邸に住み込み、園芸見習いとして働きながら、夜学に通学した。翌年、カナダのバンクーバーに渡り、5年間、園芸、皿洗い、漁夫などをして働きながら、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流し、社会科学や進化論を学んだ。
   
 1911年に帰国した宣治は、24歳で同志社普通学校に編入学し、26歳のとき、「花やしき」の仕事を手伝っていた丸上千代と結婚。できちゃった婚のようである。その後、第三高等学校から東京帝国大学へと進学し、同志社大学予科講師に就職しながら、京都帝国大学大学院に進学し、同大学医学部・理学部の講師にも就き、動物学の研究、性教育や性科学の研究を行なった。1922年に来日したアメリカの産児調節運動家のマーガレット・サンガーに啓発され、サンガーの著書を翻訳、発行し、日本初の性科学者として、労働者・農民の中で産児制限運動に携わるようになり、全国各地で講演活動を行った。また、長野県上田地方で始まった自由大学の講師を引き受け、労働者・農民に生物学、性教育、産児制限論を講義したが、産児制限運動は、「産めよ、増やせよ」という政府の兵力増強政策に対立するものであった。宣治は、大阪労働学校の講師、京都労働学校の校長に就任して労働者教育活動にも携わり、京大や東大、早大などの社研での講師活動や活動費支援活動を行なうようになり、京都帝国大学を退職した。産児制限だけでは労働者や農民の生活を改善できないと感じるようになった宣治は、労働運動・農民運動との関係を深め、山宣と愛称されるようになった。1926年には、京都学連事件に関連して家宅捜索を受け、同志社大学の講師を辞めされられた。
 共産党が非合法化された中で、無産階級の統一政党の結成が模索され、山宣は、1926年に結成された労農党京滋支部教育部長に、翌1927年には労農党京都府連合会の委員長に選任された。山宣は、1928年に初の普通選挙で行なわれた衆議院選挙に京都府2区(京都市域以外の京都府が選挙区)から立候補し、予想を覆して京都府1区(京都市域が選挙区)から立候補した弁護士の水谷長三郎とともに当選し、労農党が2議席を確保した。無産政党の進出に衝撃を受けた政府は、同年3月15日に共産党に対する大弾圧(3.15事件)や労農党の解散を行い、第55回帝国議会に治安維持法の「改正」案を上程した。「改正」案は、第55回帝国議会では成立せず、天皇の緊急勅令で公布され、特高警察、思想検事が設けられた。このような、弾圧体制と治安警察の猛威の前に、水谷長三郎は、治安維持法反対を貫けなくなった。
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 1929年2月から始まった第56回帝国議会で、山宣は、3.15事件の弾圧と被疑者への拷問を鋭く追及した。同年3月4日には、大阪の天王寺公会堂で開催された第2回全国農民組合の大会での治安維持法改悪反対の演説草稿に「今や階級的立場を守る者はただ一人だ。山宣独り孤塁を守る!だが私は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」という墓碑の背面に記された有名な文章を残した(実際の演説では「実に今や階級的立場を守るものは唯一人だ。だが僕は淋しくない。山宣一人赤旗守る。併し、背後には多数の同志が・・・(弁士中止)(佐々木敏二著「山本宣治・下」(不二出版))。
 3月5日、第56回帝国議会で「改正」治安維持法の承認審議が行われたが、山宣の反対演説は、討論打切り動議に封じられた。その夜、東京市会議員選挙の立候補者(借家人同盟の中村高一)の応援演説を終えて東京・神田の旅館「光栄館」に戻って入浴後、面会を求めてきた七生義団の黒田保久二(くろだほくじ)に頸動脈等を切られて死亡した。この後、浜口首相襲撃事件、血盟団事件、5.15事件など首相や蔵相、財界人が襲撃されるテロルの嵐が吹き荒れた。治安維持法を用いた国民弾圧が徹底され、日本は戦争への道を突き進み、アジアの人々や日本国民に大きな犠牲を強いた。敗戦という形で崩壊した帝国主義日本は、日本国憲法のもとで、平和と民主主義の道を進むこととなった。
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▲山本宣治墓前祭
 敗戦後、3月5日の山宣の命日には、毎年、墓標の前で山宣墓前祭が行われ、平和や民主主義、人権を守る決意が固められてきた。これに加えて、生誕120年、暗殺80年の本年は、記念講演や出版など多彩な取り組みが行われている。その中でも、テロリストの黒田保久二に焦点を当てて、テロリストやそれを操った人物を生み出した時代背景と生き様と描いた「テロルの時代」(本庄豊著・かもがわ出版)は興味深い。
 テロといえば、2001年9月11日に発生したアメリカ・ニューヨーク市の貿易センタービルへの航空機突入事件が有名であるが、最近の日本でも、1987年5月3日に発生した赤報隊を名乗る男による朝日新聞阪神支局襲撃事件や2006年8月15日に発生した元自民党幹事長加藤紘一衆議院議員宅放火事件などが起こっている。2009年2月にはNHK福岡放送センタービル玄関での爆発、札幌、長野、福岡の各放送局、東京・渋谷放送センターへの赤報隊と書かれた紙片と銃弾様金属が送られた事件があった。そのうち、渋谷放送センターに送られたものは日本陸軍が使用していた38式歩兵銃の弾であった。
 テロは、人に対する殺傷や施設に対する損壊行為として現れるが、社会不安の拡散や言論活動の萎縮などの心理的効果を目的としており、平和や人権、民主主義に立脚する現代社会において到底許されるものではない。しかし、自己責任の名のもとに社会矛盾が隠蔽され、格差社会が進行し、人間が人間として扱われない状況が続くと、新たなテロリスト、第2、第3の黒田保久二が生まれる土壌が形成されかねない。貧困のため大学進学を断念させられた少年による新幹線岡山駅ホームでの突き落とし殺人事件(2008年3月25日)や東京・秋葉原で遂行された若い派遣労働者の無差別殺人事件(2008年6月8日)、「仕事も金もなく人生に嫌気がさした。」として41歳の男が大阪市此花区のパチンコ店で起こした放火・殺人事件(2009年7月5日)などは、その予兆のように思われてならない。
 日本国憲法は「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と宣言している(前文)。恐怖と欠乏から免かれることは、平和や人権、民主主義と表裏の関係にある。軍国主義が台頭する中で、反戦と民主主義、人権の旗を掲げ続けた山宣の人生は、日本国憲法の輝きを再認識させる力を持っている。(2009年7月更新)

◆◆命を守り、貧困と戦った医学者政治家 ~ 今日は山宣の没後84年の日

以下のブログより引用
http://ameblo.jp/oasisboy/entry-11483978485.html

◆子供たちの生命を蝕む飢餓と貧困=山宣を駆り立てた怒りの源泉

戦前の日本に、山本宣治という政治家がいました。本来は医学者で、それも専門分野は性科学。
京都・宇治の旅館兼料亭の一人息子として育ち、1907年カナダ留学、11年に帰国し、三高・東大を経て、京大・同志社大の講師になる。彼を知る人々は、今も敬愛と畏敬の念をこめて山宣と呼びます。
山宣は性科学を専攻し、アメリカ産児制限会長サンガー女史の来日を期に、農村での産児制限運動に乗りだしました。彼を運動に駆り立てたのは、『間引き』と呼ばれる行為によって、誕生したばかりの生命が無残に奪われる日本の農村の貧しく悲惨な実態でした。貧乏人の子沢山といわれるように、科学的な避妊法が普及していないための悲劇。彼はそう考えたのです。

◆やません山本宣治

武器なき戦いの果てに 右翼の凶刃に斃れる
彼の運動は、当時の軍国日本が兵士増産のために『産めよ増やせよ』と進めていた多子化政策とは真っ向から対立するものでした。意図せざる結果として、山宣は政府とは反対の道を歩くことになりました。それどころか、彼は予想もしない方向にどんどん歩いていくことになります。悲劇の原因は、農民や労働者の【無知】にあるのではなく、【貧困】にある。そう気づかざるをえなくなったのです。貧困問題を解決することなしにこの悲劇の根本的解決はない。そう確信した山宣は、しだいに労働運動や農民運動とむすびついていき、ついには1927年、日本で最初に実施された普通選挙で当選し、労農党を代表する国会議員となります。そして、その2年後、1929年3月5日、国会で治安維持法に反対した山宣は、その夜、東京の宿で右翼に襲われ、暗殺されてしまいます。享年40歳。

◆山宣ひとり孤塁を守るimage

山宣は暗殺される直前の演説で、今も語り継がれる言葉をのこしました。山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない、背後には大衆が支持しているから 。この言葉の意味は、当時労働者農民の代表として国会議員になった7人のうち、山宣をのぞく他の議員は次々と変節して態度を変え、最後まで治安維持法に反対し続けたのが彼だけになっていたからです。
山宣は彼と考えの違う右翼カルトに殺されたのでしょうか。大阪府警福島署の警官だった暗殺者の黒田保久二は、獄中で同房の囚人仲間に常にぼやいていたそうです。話がちがう。山本は国賊だから、退治すれば国からいい暮らしが保証されると聞かされていたんだ。なんのことはない。暗殺者の動機は物欲。つまりは利害。うす汚い利害。この男を見ると、どんなに詭弁をろうしていても実は利害で結びついて動いているだけの、皆さんよくご存知のような人々のことを連想してしまいます。
黒田は判決の刑期と関係なく、すぐに釈放されたようです。ただし、彼がその後、お国から約束されたような良い暮らしをできたかどうかは不明です。

◆もう一つの愛称=すけべえの先生
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私が山宣のことを知ったのは、高校時代に見た独立プロ作品の『武器なき戦い』という映画でした。山宣役は下元勉、他に宇野重吉、東野英治郎(黄門)、中谷一郎(弥七)、渡辺美佐子など凄い俳優がずらりですが、中でもきわだった貧乏農民役の小沢昭一が山宣を『すけべえの先生』と呼んで彼の運動に献身的に協力する姿が印象的でした。性的なこと=すけべえ、という意味で、山宣のもう一つの愛称だったようです。ちなみに、それまで道徳的な蔑視をこめて手淫と呼ばれていた行為を、なんら卑しむべき行為ではないとして自慰と改めさせたのも、性教育啓発者としての山宣です。
彼がどれほど人に愛されたかを語るエピソードがもう二つ。
一つは彼の墓。軍国政府は彼の墓碑銘をセメントでなんども塗りつぶしました。けれども、そのセメントは何者かによって、いつのまにかきれいに削りとられる。こんなことが戦争が終わるまで延々と続けられたそうです。もう一つは、長野県別所温泉にある山本宣治記念碑です。彼を勉強会の講師として招いた農民組織がその死を悼んでつくったものですが、最初は今ものこる人気旅館『柏屋別荘』に建てられたものです。政府はこれを粉砕せよ命じました。命じられた旅館主の斎藤房雄さんが、警察には粉砕したと報告しながら、旅館の池に沈めて隠しぬいたもので、戦後になって復活させたという石碑です。これらのエピソードは、彼がどれだけ多くの人に愛されていたかを物語ってくれます。

◆映画 武器なき戦い 下元勉

私はリベラリストを自認する男で、山宣はいわゆる左翼の政治家です。でも、翼なんかはどっちでもいい。いいものはいい。出水の雑談すれで『アカ』と呼ばれたこともありますが、そういうレッテルでしか他人を攻撃できないような【知性】などに左右されません。同じように、立場の違いや考えの違いはあっても、いじめや体罰問題について、子供たちの命をまもる、人間の尊厳をおかす者は許さない、この点で立場を共にできる人なら右も左も関係ない。私はそういう考えの人間です。
調べれば調べるほど、人として尊敬に値する素晴らしい人物。それが山宣。
【山宣ひとり孤塁を守る】 常にそういう心がけでいたいものです。

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◆◆本庄豊=山本宣治の葬儀(新聞報道から)
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◆山本宣治の暗殺(略)
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暗殺者=黒田
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◆東大仏教会館告別式

 解剖された山宣の遺骸を入れた棺は旧労農党旗に包まれ、三月七日午後二時、旧労農党代議士水谷長三郎ら六人に担がれ、本郷追分キリスト教青年会館三階講堂に運び込まれた。七日夜は、キリスト教青年会館で通夜がいとなまれた。
 告別式は八日午後一時から三時まで、本郷三丁目東大仏教会館で催された。この時の様子を新聞はこう伝えている。

昭和四年三月九日付『大阪毎日新聞』

◇故山本代議士の悲壮なる告別式。大山(郁夫)氏や尾崎(行雄)氏、元田議長の弔辞 東大仏教会館で挙行
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 刺客の刃にたおれた無産党代議士山本宣治の遺骸は、本郷追分町帝大基督教青年会館三階の一室に安置されて七日夜を同志細迫兼光、上村進君ら五十余名の人々によって通夜されたが、八日朝まだほの暗いころから、組合旗を持った女車掌を交えた市電自治会を始め、無産の同志は続々と來り、黒布でおおわれた棺の前に最後の訣別をした。棺の両側は二輪の白百合と無産議員団から贈られた血のようなカーネーションが香っていた。
 午後九時から京都から上京した河上肇博士が沈痛な顔を見せ、無言のまゝ棺の前に進んで蓋をとり、今はなき教え子の変わりはてた面影に思わず眼を閉じて静かに黙礼した(河上肇は『自叙伝』のなかで、山宣は自分の教え子ではないと書いている・筆者)。午前十一時十分、京都府議奥村甚之助氏の取扱いで來合せた先輩同志の最後の別れをした。
 赤旗に包まれて静かに永遠の眠りをつづける故人の端正な面ざしに、人々はただ声を呑んで感慨にみちていた。
 同十一時四十分仏教青年会館に棺を移すため、奥村、細迫、山中諸氏を始め同志十二人によって棺はかつがれて街道に出ると、そこには若くして逝ける薄幸な同志を見送らんとする人々が両側の鋪道を埋めていた。五旒の組合旗を先に棺は本郷通りを進むや、道行く学生連はいっせいに帽子をとって無言の弔意を表していた。かくて正午棺は本郷三丁目仏教青年会館の壇上に安置された。
 壇上の棺の前には、故人の写真が飾られ、その両側には衆議院第一控室から贈られたお菓子が盛られ、その周囲は解放運動犠牲者団、同志社倶楽部、日本大衆党、民政党幹事長から贈られた花輪に埋められている。壇の両側には関東自由労働組合の赤い組合旗が三旒づつ悵悵然とたれていた。向かって右側の親族席には、山本氏の義弟山中平治氏や故人の伯父伯母にあたる注連ノ内堅石、同栄子の両氏が頭を深くたれて控えている。集まる一般の人々は午後一時に場内を埋めた。それらのなかには尾崎行雄氏や清瀬副議長、その他の代議士の顔が可なり見受けられた。
 午後一時十五分破れるような拍手を受けて、大山郁夫氏が壇上に起ち開会の挨拶を述べた。ついで親族総代山中平治氏が挨拶のめた壇上に起って「山本宣治君は………」とまでいったが、あとは迫り來る悲しみのため声が出ず、そのまま降壇した。大山郁夫氏は労農同盟代表として棺の前に二歩ばかり進んで、力強い沈痛の声をしぼって弔辞を述べた。その一語一語に場内は深い哀愁に水の如く静まる。ついで元田衆議院議長が低い声で衆議院を代表して弔辞を述べ、更に第一控室を代表して尾崎行雄氏が弔辞を述べ、河上肇博士も起って弔辞を贈った。満場の同志は破れるような拍手を送り、非常に生き生きした告別式であった。遺骸は八日午後五時三河島火葬場に送り、荼毘に附した上、八日午後十一時同志に護られて京都に帰るはずである。

 新聞は告別式が粛々ととりおこなわれたかのように書いているが、実際は警察の干渉によりしばしば中断を余儀なくされたのである。

◆河上肇の告別の辞

 東京市本郷三丁目東大仏教青年会館での山宣告別式は、衆議院議長や「憲政の神様」と言われた尾崎行雄らが参列するなかで行われたにもかかわらず、官憲から「弁士中止」が命じられるなど、騒然とした雰囲気であった。
 告別式で弔辞を述べた河上肇は、のちにこう書いている。

 三月八日、東京で催された告別式の当日、せめて君の遺骸がまだ灰にならないうちに、その前に立って、わずかに数行を述べんと欲したが、私は口を開いて、告別の辞の最初の行の「断乎たる闘争」という言葉を発音した刹那に、臨検の警官によって中止を命じられた。かくて私は、君の遺骸に向かってすら、思うことの万分の一を述べる機会を、永久に失ってしまった。かくまで我々は発言の自由を有しないのだ。だからこそ、議会内で議員の発言の自由を被抑圧民衆のために極力利用しようとした君は、かかる努力の現われとともに殺されたのだ。(河上肇『自叙伝Ⅰ』)

 河上肇は山宣の告別に際して、次のような原稿を用意していたが、「断乎たる闘争」以下は壇上では読まれなかったのである。

 ◇告別の辞 河上肇

河上 肇(大正12年)=河上肇『自叙伝Ⅰ』より=
 同志山本宣治のなきがらの前に立って、私は謹んで告別の辞を述べる。
 君の流された貴き血しおは、全国の同志の向かって更に深刻なる覚悟を促し、断乎たる闘争の決意を百倍にし千倍にした。君は何がゆえに、如何なる階級のために、如何にして殺されたかを、残された同志は、はっきりと意識しているからだ。吾々は君と別れることを深く惜しむが、しかし君の死は決して無益ではなく、また君の後に続く無数の同志が決してこれを無益にしない筈だ。私は同志の一人として、君が全運動のために献げられた貴き犠牲に対し、ここに満腔の敬意と限りなき感謝の意を表せんとするものである。(河上肇『自叙伝Ⅰ』)

◆大月源二「告別」

 宇治花やしき内にある山宣資料館(非公開)に、山宣の葬列を描いた「告別」という油絵が収蔵されている。描いたのは大月源二。大月はこの絵により、プロレタリア画家としての地位を確立したといわれている。大月は山宣のデススケッチものこしている。これも山宣資料館に収蔵されている。
 大月源二(一八九四~一九七一年)は函館に生まれ、幼少の頃小樽に転居し、同学年の小林多喜二と知り合った。のちにプロレタリア作家多喜二の思想的影響を受け、「プロレタリア美術運動」に参加し、山宣の東京での告別式(一九二九年三月九日)の葬列を描きとめることになった。また、多喜二の小説『一九二八年三月一五日』や『蟹工船』のカットやさし絵を描いている。
 大月源二はナップ(全日本無産者芸術連盟)に所属していた。「告別」はナップからの指示で描かれたと思われる。絵の中に奥村甚之助と山中平治らしき姿があるが、構図からみて大月は人物も含めて詳細にスケッチしていたと思われる。棺を先頭で担いだ水谷長三郎代議士の姿がないのは、旧労農党でありながら山宣と一線を画すことになった水谷を、意図的に画面から排除したのではないかと筆者は考えている。

◆京都駅についた遺骨

 東大仏教青年会館での葬儀の後、山宣の遺骸は午後五時三河島火葬場で荼毘に附され、山中平治と奥村甚之助に護られながら東京駅から夜行列車に乗って京都に向かった。

山宣葬儀で柩を担ぐ同志たち(大月源二作『告別』)=山本宣治写真集より=
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 米原まで二人の同志が迎えにやってきた。大津では山宣の生物学の恩師川村多実二夫妻が出迎え礼拝した。
 組合旗、弔旗が林立する京都駅プラットホームに、山宣の遺骨を乗せた列車が到着したのは、三月九日午前十時二十七分であった。京都駅前はすでに千五百人の労働者農民で埋めつくされていた。遺骨は駅長室に安置され、釜内京都駅長が礼拝した。遺族代表として遺骨を出迎えたのは、山宣の長男英治と従弟安田徳太郎だった。奥村甚之助より東京での告別式の様子が報告された。英治は奥村の手を握ったまま泣き崩れた。
 山宣の遺骨は、その後駅長室から京都駅前広場東南に設けられた仮祭壇に移され、森英吉の司会で式が行われた。小岩井浄葬儀委員長が弔辞を述べ、奥村甚之助が虐殺の状況や告別式の様子を報告した。式終了後、遺骨は午前十一時十二分の国鉄奈良線の列車で宇治に向かった。

昭和四年三月十日付『大阪毎日新聞』
◇『山本君の死を無意味にせぬ』京都驛前の出迎式で、小岩井、奥村両氏 骨は全部壺に納め持ち帰った。奥村氏語る
(本文省略)

◆宇治駅から花やしきまで

 山宣の遺骨が国鉄宇治駅に到着したのは、三月九日午前十一時四十三分であった。

昭和四年三月十日付『大阪毎日新聞』
◇宇治驛に出迎へた涙にむせぶ大群衆 『残念だ偉くなって……』英治君の言葉も悲しく 山本氏の遺骨帰る
 いつも迎えの人もなく寂しく帰る代議士山本宣治氏が、今日ははじめて賑やかに迎えられて故郷宇治に帰った。冷たい骨となって――。
 宇治驛に到着する九日午前十一時四十三分駅頭には、故人の義妹せい女が遺児浩治君(十二)、美代子(七つ)の二人を連れて、花屋敷の女中達その他雇人十数人と一緒にプラットホームに、相楽の農民組合員の一団をはじめ、町民有志三百余人が出迎えた。やがて列車から山中氏が白布に包まれた遺骨を手にして下車すると、すくに浩治君と美代子さんが走り寄ってそれにおじきをした。可憐さに出迎えの人たちは顔を曇らせる。
 革命歌を歌う者の検挙がはじまる。どなる声が起こる。淋しい追悼歌も聞こえ。大衆のなかに数本の赤い団体旗がゆれる。如何にも闘士山本宣治氏の最後の帰郷らしい。
 山中氏が遺骨をさゝげた先頭にいそぐ、各府下無産団体代表者等百余人、弔旗団体旗を押立てて官私服百余の警官にまもられ、同町宇治橋通を北へ、宇治橋から同小学校(莵道小学校の誤り。当時は平等院南門前の通りに面して建っていた・筆者)を皆うなだれて静かな行列が続く。森英吉夫人が故人の生前好きだったネープルをさゝげもって進んだのも人目を引いた。
 宇治町の人々は驛前から花屋敷まできれめなく道の両側にならんで、日頃親しまなかった故人を今日は迎えて弔意を表した。たね子母堂は故人が斃れてから頬の肉さえ落ち、面やつれした千代子未亡人と喪服姿で小学校前に出迎え、今は亡き故人の遺骨の行進が近づけば千代子未亡人はさすがに目をうるませ母堂は白布の箱にぢっと見入った。午後一時過ぎ花屋敷前の広場に到着して、一同は遺族を中心に遺骨を囲んで出迎えの式を開き、小岩井浄弁護士以下各団体代表が一人一人悲しみの声をはりあげて弔辞をのべた。
 遺児英治君は「残念だ。僕は更に一層勉強して偉くなり、きっと父の……父の……」といって遂に泣き入り、傍らの千代子未亡人もどっと声をあげて引きさくように泣いた。居ならぶ大衆も、一度にぽろぽろ涙をおとし、声をのんで泣いた。(以下省略)

◆花やしきでの通夜

 山宣の生家での通夜は、三月九日夜八時から花やしきの大広間で行われた。

昭和四年三月十日付『大阪毎日新聞』
◇外にはしめやかな春雨 内には「東雲暗く」の合唱 一切の宗教儀式ぬきで 唯物論者山本氏のお通夜
 山本宣治代議士の遺骨は、九日午後一時宇治花屋敷の大広間に安置され、長男英治君、千代子未亡人、次男浩治君、長女春子(誤記。「治子」のこと・筆者)さん、次女美代子さんなど、百五十余名が焼香を行ったが、さらに同夜八時から花屋敷大広間でしめやかなお通夜が執り行われた。室内には遺族および同志二百余名がただうなだれて嗚咽の声のみ。外には春雨が降ってはやみ、やんでは降り、悲しみをともにしているようである。山本代議士は生前徹底した唯物論者であったため、氏の意思を尊重して一切の宗教家を呼ばず、会衆一同「東雲暗く反動の刃に同志は倒れ云々」の追悼歌を合唱し、奥村甚之助、小岩井浄両氏の追懐談が涙のうちに終り、山本氏愛誦の詩が力強く朗読されたが、夜の更くるにつれて寂しさはいやまさり、縷々と立ちのぼる香煙は並みいる人達の胸に氏の面影を新に偲ばせるのであった。

◆田村敬男の回想

 三月九日夜八時からの通夜に先だって、花やしき内に山宣葬儀対策本部が設けられていた。委員長に小岩井浄(大阪府議・弁護士)、副委員長に奥村甚之助(京都府議)、書記長に田村敬男という体制をとった。
 田村敬男によれば、山宣の葬儀は長く日本の歴史に残るものとなるので記録映画にしたいと申し出たところ、山宣の母多年はこころよく資金を出してくれたという。「嵐の日の記録」として今日に伝わる山宣葬儀の映画は、京都駅に遺骨が到着する三月九日から三月十五日の三条基督教青年会館での葬儀までが撮影されている。三台の隠しカメラで山宣葬儀を撮影したのは、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)のメンバーだった。私がこの記録映画中に、島崎藤村の姪、こま子を「発見」したことについては、別の機会に述べたいと思う。

◆山宣追悼歌

 山宣葬儀のため「追悼歌」が作詞され、一九二九年三月九日の花やしきでの通夜参列者によって、毎夜歌われた。作詞の労をとったのは、プロレタリア作家同盟京都支部の久坂栄二郎、笠松一夫、西村龍三らであった。こんにち、次のような歌詞が伝わっている。三月五日山宣祭において筆者は「山宣追悼歌」を聴くが、アコーディオン伴奏で歌われるこの歌は、哀愁を帯びた荘厳な響きをともない、胸にずしんとつきささる。

◇山宣追悼歌
   作詞・北川鉄夫
一、東雲(しののめ)くらく反動の刃(やいば)に同志は倒れ 悲しみのつきぬ間も 憎しみ胸にあふる 血にそみしなきがらに 今やいざ復讐の 今やいざ復讐の 誓いは鉄をもくだく
二、祭壇守るわが友の 怒りは炎ともえて 赤旗(せっき)をかゝげ三月の 嵐をつきてすゝむ 誓いてし屍(しかばね)こえ 今やいざ血にうえし 今やいざ血にうえし 奴等(きゃつら)倒さずはやまじ

 日本プロレタリア美術家同盟京都支部では、画家の奥村信吉が中心となり、彫刻家の吉田清吉も応援して、三月十五日に予定されていた京都基督教三条青年会館での葬儀場に飾る、洋画の作成を開始した。吉田はのちに山宣の胸像(山宣資料館蔵)も作成している。
 プロレタリア演劇同盟京都支部の人々は、花やしき大広間の山宣遺影の前で追悼演劇を上演した。日本プロレタリア映画同盟、プロレタリア作家同盟、日本プロレタリア美術家同盟、プロレタリア演劇同盟など全日本無産者芸術連盟(のちに全日本無産者芸術団体協議会、通称 ナップ)加盟団体が総力をあげ山宣葬儀を記録しようとしたことは特筆される出来事であった。

◆山宣・渡政労農葬

 全国的な規模での山宣の葬儀は、前年台湾キールン(基隆)で警察に追いつめられ二十九歳で自殺した渡辺政之輔(※注)の葬儀と併せて、渡政・山宣労農葬(京都では、山宣・渡政労農葬)として一九二九年三月十五日全国一斉に開かれることになった。東京は青山斎場、京都は三条基督教青年会館で開催されることが決められた。山宣の葬儀は無産団体の一大プロパガンダの場となったのである。三月十五日という日は治安維持法違反事件一周年にあたっていた。山宣が治安維持法に反対しただけではなく、治安維持法違反事件犠牲者救援のため帝国議会で当局を追及する質問を行ったことについては、本稿ですでに詳しく述べたとおりである。
 京都では山宣労農葬は認められたが、葬列は禁止された。『京都日出新聞』は、山宣労農葬の様子を次のように伝えている。紙数の関係で一部を抜粋して紹介しよう。
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山宣労農葬に参列する家族と花やしきの人々=丸刈りの少年は左から長男・英治、次男・浩治、甥・山中登(宇治市白川在住)=昭和四年三月十六日付『京都日出新聞』
昭和四年三月十六日付『京都日出新聞』
◇物々しい警戒ぶりで果然各所で検束騒ぎ 各方面各團体の會葬入洛も阻止 各警察署殆ど總動員で嚴重取締 故山本代議士の勞農葬
 こゝ数日前から葬列を「認めよ」「認めぬ」との問題で、警察部との間に容易に纏(まと)まりを見なかったが、結局自動車で遺骨を護送することゝなり、花屋敷の自宅から宇治駅まで護送、午前九時五十五分発の列車で式場に赴(おもむ)いた。
 この日はあたかも「三・一五記念日」でもあり、彼等の一味に不穏な行動に出づる者あるやも知れずと、萬一を慮(おもんばか)った京都府警察部では前日緊急署長会議を開いて、取締方針を打合せた結果に基き、田口警察部長総指揮の下に、宇治方面は府特高課及び所管宇治署員で固め、京都駅は七条署の広瀬署長が全署員を指揮し、之に堀川、西陣、川端の三署応援して厳重なる警戒に当たり、式場の三条青年会館内及び付近一帯は所轄五条署の山田署長が全署員を指揮し、之に中立売、松原、下鴨の三署が応援し、之に府よりは上田特高、坂警務両課長、伊室練習所長、藤住保安課、北浦警務課、平瀬、小林、西沢各特高警部等が出動し、そのうえ練習所よりは巡査をトラックで運び、警務課では騎馬巡査を特派するなど、取締総員約八百名に達する物々しい警戒ぶりである。
 一方又この葬儀を見んとして、宇治駅、京都駅、更に京都駅から式場へと進んで行ったが、途中宇治駅で十余名検束されたのを皮切りに、京都駅で三名、青年会館前で一名いずれも検束されるなど、早くも一紛争起こる形勢となり、当局の取締更に厳重となるころ、遺骨は無事に式場に着し、涙しめやかなるうちに、午後一時式ははじまった。

 葬列は禁止されていたので、京都駅についた遺骨は葬儀に参列する人々とともに、円タク(タクシー)十数台で三条青年会館に運ばれた。田村敬男はそのときの模様を、こう書き記している。
 京都駅に到着して、葬列を整え、駅長室の前まで来るや、特高はこの葬列にも襲いかかり、遂に久坂、赤松両君と共に私も七条署に検束されてしまった。警察の命令で市内での葬列はすでに禁止されており、遺骨と家族などは検束の嵐のふくなか自動車に乗って会場に向かって走った。片っぱしから検束される活動家分子を助けようと自動車の運転手諸君が無料で警官の鼻をあかすために運んでくれたらしい。誰も自動車代を払ったものはないとのことである。(『近代京都のあゆみ』)

 田村の回想では、山宣労農葬に共感した円タク労働者が無料で葬儀参列者を運んだとされているが、昭和四年三月十六日付『京都日出新聞』は「待てども自動車が来ないと云う騒ぎに、再び奥村(甚之助)氏が巡査付添で行き、やっと自動車を整え」と書いている。また、同新聞は、山宣労農葬参列者を運んだ円タクの後を京都府警察部自動車が十数台連なり、三条青年会館へと向かった、とも記しているが、山宣の従弟安田徳太郎医師は「私は山中(平治)君と共に遺骨を守って円タクにのったが、円タク内に三名制服警察官があごひもをかためて同乗した。そして私の自動車の左右には警察のサイドカーがついた」(佐々木敏二『山本宣治・下』)と述べている。私見では、葬列を禁止した警察がその代償として無料円タクを手配したのではないか。
 昭和四年三月十六日付『大阪毎日新聞』は「葬列の進行中に片っ端から検束 遺児たちさへも逃げ惑ふ 故山本氏の勞働者農民葬」と見出しで報道した。
 三月十五日午後一時から開始された山宣労農葬もまた、激烈な取り締まりにあった。弔辞(新聞では「弔詞」)は、ことごとく臨検警官の中止命令で阻止されたのである。昭和四年三月十六日付『京都日日新聞』の見出しは「悲痛な同志の弔詞を片端から中止さす/河上肇博士を最後に静かに終った/故山本氏勞農葬會場」となっている。

◆新井清太郎

昭和四年三月十五日付『山城』第二百九号
 吾人(新井清太郎のこと・筆者)は故山本氏とは所謂同志でなく、その社会人生観を同じくするものではなかったが、諸種の関係上数回会見して、氏の人物に敬愛すべきものがあるを知り、一種の親しみを感じ、今日までその思想と行動に對し注意を払って來たが、昨秋城南の某同志(村田佳久か杣田貞次郎・筆者)が氏を訪れたとき、半ば戯談のやうに『何時殺されるか分からぬから此頃は原稿など整理してゐます』と語られたと聞き、全くの戯談とは思へず深く考えされられたのであった。夫人も亦窃かに或る覚悟をして居られたと思われる節があり、斯く主義のために勇進した人生の強者を思わずには居られない。
 氏は横死しても遺族の人達の生活は十二分に保証されて居るから其の方面の心配はないが、氏の遺骨を京都駅に迎へ宇治駅まで同者し花屋敷に送った吾人は、この悲しき場面に直面して流石に涙なきを得なかった。
 城南の選挙民は共産党事件以来氏と遠ざかり、無産政党中最左翼に属し階級戦線最先端に決死的戦闘を続けて居た氏を支持するものは殆どない状態になって居たが、兎に角この選挙区民が氏を議会に送り、あの目覚ましい活躍をなすの機会を與へ、あゝした花々しい最期を遂げさせたことは、地方選挙民の現状から見て不似合いな役割を務めたものであるが、決して無意味な事ではなかったといえるだろう。

 昭和四年三月十九日付『山城』第二百十号には「宇治と山宣」という題で、「東洋のリープクネヒト(ドイツの革命家のこと・筆者)と謡はれた我が山本宣治氏が『城南宇治の住人』であったといふ事は私には不思議な事の一つである」と書かれていた。
 「東洋のリープクネヒト」という言葉は、三月十五日三条青年会館の山宣労農葬で葬儀委員長の小岩井浄が四百名の参列者を前にして述べた開会の辞「山本氏の死は決してドイツ革命のカール・リープクネヒトの死に劣るものではない」を新井清太郎が聞いて、『山城』に書いたものであることは、容易に推測できる。新井清太郎は山宣の葬儀にはすべて足を運んでいた。だがそのことを『山城』にはあまり書いていない。

◆渡辺政之輔 一八九九年千葉県市川町(原市川市)生まれの、労働者出身の社会運動家。一九二八年二月非合法機関誌『赤旗(せっき)』を創刊し、「創刊の辞」を執筆。同月に行われた第一回の普通選挙では、共産党員十一人を労農党から立候補させた。同年三月、日本共産党中央委員長となる。同年九月上海でコミンテルン(共産主義インターナショナル)代表と秘密会議を持った帰途、台湾キールンで警察に囲まれてピストル自殺を遂げた。
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◆◆本庄豊=山本宣治墓碑建立(洛南の光芒)

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 大正から昭和前期にかけて南山城地域で発行されていた、新聞『山城』全四八八号を紐解き、忘れられてしまった人々を掘り起こしていく作業を続けていくなかで、どのようにして人は「歴史に名を残す」のだろうかということを考えるようになった。「歴史に名を残す」とは、有名になることではなく、生きた証を歴史に刻むという意味である。『山城』を主宰した新井清太郎ですら歴史の彼方に消えようとしていたのだから、『山城』に登場する幾多の社会運動家が「忘れられた人々」になってしまうのは、ある意味ではやむを得ないことなのかもしれない。子孫の方々が細々と語り継いでも、時間の経過は残酷なまでに人々の記憶を奪っていく。
 生家が青谷地域にあり、そこに親族の方が住んでいた新井清太郎の場合、宇治市在住の長男清さん(故人)が『山城』全号を保存されていたことにより、「歴史に名を残す」こととなった。村田佳久の場合は、生家が多賀にそのままあったことで調査がすすんだ。杣田貞次郎の場合は、娘さんや孫娘さんが「南山城の光芒」連載の熱心な読者であり、筆者の聞き取りに応じてくれたことにより、人となりがよくわかるようになった。結婚せず直接の子孫がいない中筋丈夫は、「山宣暗殺スクラップ帳」を残すことによって、その名をかろうじて歴史にとどめた。
 筆者が研究対象としている一九二〇年代は、現在からみれば約八十年前である。この時代はのちに「大正デモクラシー」期と呼ばれるが、山本宣治(山宣)、河上肇、吉野作造、美濃部達吉、賀川豊彦などそうそうたる顔ぶれの論客がジャーナリズムを賑わしていた、いうならば「花のある時代」であった。彼らは「歴史に名を残す」人々であるが、その山宣ですら実像の全てが伝わっているとはいいがたい。山宣周辺の人々や山宣を支えた人々に光をあてるなかで、山宣像がより明瞭に見えてくるのではないかという動機で、現在「山宣暗殺スクラップ帳」を分析している。

山本宣治の墓(山本家の墓)

 後世の私たちが「忘れられた人々」を見つけ出していく手がかりとなるのは、経験的にいえば、(1)石碑(2)書籍(3)新聞・雑誌(4)手紙・証言(5)写真の順である。最近は(6)インターネットも有効な調査手段となる。このうち(1)石碑については、地域の人たちの目に触れるので、もっとも重要ではないかと考えている。「平等院の両翼のように、左右の大立者や」といわれた山宣と松阪廣政(終戦時の司法大臣)ではあったが、山宣が語り継がれ、松阪が忘れられた要因の一つに石碑(山宣墓碑)の存在の有無があるのではないか。もし山宣墓碑がなければ、山宣顕彰は今のように盛んにおこなわれていたかどうかはわからない。もちろん山宣の生家「花やしき」が現在宇治で営業しており、生家内に資料館があり、宇治山宣会が存在するということが、山宣顕彰を前進させてきたことはまちがいないことではあるが………。
 中筋丈夫は山宣暗殺一年後の新聞を切り抜き、「山宣暗殺報道スクラップ帳」に貼りつけていた。それを読むと、山宣墓碑建設のいきさつと、墓碑の存続をめぐって官憲と山宣を慕う民衆とがどのように対決したかを知ることができる。なお、今回スクラップ帳から山宣墓石が生駒山の産であること、墓石の文字を書いたのが皇族に書や和歌を教えていた阪正臣(ばんまさおみ)であることを発見できたことは、大きな成果であった。
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◆墓か記念碑か

 毎年三月五日正午、宇治平等院北側の小高い丘の上にある善法墓地の山宣碑の前で、山宣墓前祭が開催されている。一九二九(昭和四)年三月五日、宇治出身の代議士山本宣治(山宣)は東京神田の光栄館で右翼七生義団の黒田保久二により暗殺されたことについては、これまで詳細に述べてきた。
 山宣碑は花やしき二代目当主山宣の墓であるとともに、山本亀松をはじめとする山本家代々の墓でもある。山宣碑は山宣暗殺から百日後の一九二九年六月十五日に建てられた。当時の新聞には「故山本宣治代議士が兇刃に倒れてから百ヶ日の六月十五日、宣治代議士のお母さんたね子(多年のこと・筆者)が自宅なる宇治花屋敷の所有地裏山に花崗岩で高さ一間半幅四尺の山本家の墓を建立すべく、表面に昭和二年八月に死んだ宣治代議士のお父さんの亀松氏とたね子、および倅の宣治の三名の名を彫り込んだ。ところが裏面に大山郁夫氏が『山本宣治最後の演説から』と題し山本代議士が殺害される前日の三月四日大阪天王寺公会堂における農民大会で述べた最後の演説の一句を記したのが問題となり、所管宇治署がこの建設に反対し、墓でない記念碑だといいだしてその手続きをさせたが、なお詮議中だと許可しない」と書かれている。結局、大山郁夫の碑文をセメントで塗りつぶすことを条件に記念碑ではなく山本家の墓として建設が十月に許可されたが、それまで墓は横倒しにされたままだった。

昭和五年三月三日付『大阪毎日新聞』
◇受難の墓
 ………剥げおちたセメントの間から「同志」だとか「淋し」とかの片々隻句がのぞかれる。山本氏が刺された時は、多年子母堂は「樗牛さんの墓には樗牛さん(※注)の最も好んでいた一句を刻んであるが、宣治の墓にも何か一句刻んで彼の霊を慰めてやりたい」と一人息子に対する母親のもっともな提議がなされ、親族会議でもそれがよかろうということになって選ばれたのが、山宣最後の文句であった。そしてその文句入りの墓石は、宇治署とすったもんだの結果、結局セメントをつめて字を埋めたらというので手打ちとなって建てられたのは、漸く十月の末。問題はかくして一時解決した。だが宇治署にとって頭痛の種なのは、山宣を慕う墓参りの人である。
◇墓参りの
 人はなかなか絶えない。しかもその誰かがセメントを剥がしてしまうのだ。命日を前に、二日の日曜日午後、遺児の英治君(一七)、浩治君(一五)、治子さん(一〇)、美代子さん(九)、それに親戚の山中登君(十一)の五人、風邪気味で臥っている千代子未亡人に代わってお墓詣りに出かけたが、四日ごろから宇治署は警戒を厳重にするそうな。
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◆大山郁夫筆の墓碑銘

 山宣墓石に刻まれた墓碑銘は、以下のようなものである。西口克己の小説『山宣』の冒頭は、山宣墓碑銘を覆ったセメントが嵐の夜に削り取られるところからはじまる。

 同志山本宣治のimage
 
最後の演説から

山宣ひとり孤塁を守る
だが私は淋しくない
背後には大衆が
支持してゐるから


 旧労農党委員長、大山郁夫の筆になるこの墓碑銘は、大阪での全国農民組合大会での挨拶「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り赤旗を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」の部分である。ここで挨拶は中止させられた。
 大山郁夫は、次のように語っている。
 「山本君は我々の同志である。労働者農民の敬愛せる勇敢な階級闘士であった。外面温厚な山本君は我々の陣営がもっとも苦難の時にも無産階級解放の最後の勝利を確信して勇敢に踏み止まった人である。(中略)しかし、この白色テロの洗礼は、結局全国の労働者農民階級に憤激の血を湧かさしめ、弔い合戦の意気をもって治安維持法をはじめ一切の無産階級抑圧の悪法撤廃のために戦う政治的自由獲得の闘争に突進すべき一大くさびとなることは疑いない」

◆樗牛 image評論家、高山樗牛のこと。明治4(1871)年山形県生まれ。東京帝国大学哲学科在学中に「読売新聞」の懸賞小説に「瀧口入道」が入選し、その後雑誌『太陽』編集主筆となるなど、早くからその才能を発揮した。明治35(1902)年胸部疾患のため31歳の若さで死去。静岡県清水市・竜華寺にある墓は日本人にしては珍しい胸像墓である。ヨーロッパの文豪たちの墓を真似して建立されたといわれている。

◆大山郁夫の経歴

 山宣墓碑銘の筆をとった大山郁夫の経歴については、左の年表において確認していただきたい。

 余談ではあるが、山宣の本当の最後の演説は、大阪農民組合における演説ではなく、事件に遭遇する直前の一九二九年三月五日夜、西神田小学校において、神田区から東京市会議員選挙に立候補した中村高一(弁護士)への応援演説である。

昭和四年三月七日付『京都日日新聞』
◇山本宣治代議士 最後の演説 猿に喩えた労働運動
 諸君私は大阪の農民組合の大会から此演説会に駆付けたものでありますが、大阪の農民組合大会は大分荒れまして、同行した奥村(甚之助のこと・筆者)氏は検挙されました。私は之があったので大丈夫でした(と洋服の襟の議員章を示し)、御話しすることは、一疋猿が鎖につながれて丸太の上に乗っている。其鎖は三尺の長さで猿が余り歩けない。飼主が不憫に思って其鎖を六尺に延ばしてやったが、猿は依然として三尺しか歩けない。吾々の運動も …… と。

 このあと警察より弁士中止となり、宿舎に戻り、山宣は暗殺されたのである。

◆細迫兼光(ほそさこ・かねみつ)の経歴

昭和五年三月三日付『大阪毎日新聞』
◇山宣斃れて一年 この五日、宇治で墓前祭愛児を思ふ悲しき母心
 宇治の梅は今が盛りである。同町の共同墓地には春が訪れて、ふくいくたる香華を手向けている。高さ八尺余の山本宣治氏の墓は、この墓地に一頭地を抜いて建てられている。旧労農党代議士としての彼「山宣」は昭和四年三月、議会開催中東京神田の旅館で七生義団の一テロルの凶刃に斃れて一年、この五日はその命日である。東京、大阪、京都、その他全国各地で山宣追悼会、演説会が労働者、農民、無産市民の間ですでに計画されており、地元の宇治では労農党(新労農党のこと・筆者)書記長細迫兼光氏が来て、昼は墓前祭を営み、夜は同町公会堂で追悼演説会を開くことになっているそうだ。

 山宣追悼一周年の宇治の演説会で講演した細迫兼光は、一九二八年四月十日、禁止された労農党(労働農民党)の後継として、山宣暗殺から八ヶ月後の一九二九年十一月に結成された新労農党の書記長である。旧労農党時代も委員長大山郁夫、書記長細迫兼光という体制であったから、新労農党は事実上の労農党復活であった。
 一八九六年、細迫兼光は山口県厚狭郡厚西村(現赤磐市)の地主の次男として生まれた。山宣より七歳年下である。山口中学から第三高等学校(京都)を経て、東京帝国大学法学部に入学した。東大法科出身には宇治出身の検事松阪廣政がいたが、細迫は無産運動に身を投じるべく、東大新人会に入会、卒業後は弁護士として自由法曹団に所属、大阪の弁護士小岩井浄とともに治安維持法違反者救援に奔走した。
 一九二六年、労農党書記長となり、大山郁夫委員長を助けて「名書記長」といわれた。一九二八年二月の山宣の選挙を取り仕切り、山宣当選の土台を築いた。山宣当選後は代議士山宣とたびたび遊説をともにし、同年十二月二十五日には仙台で演説をおこなった(斎藤芳郎著『物語宮城県農民運動史(中)』一九八五年、ひかり書房)。
 近代文学研究者秦重雄氏によると、仙台に山宣と細迫を招いた多田基一は、のちに捕らわれた獄中で山宣追悼歌を書いている。

◆多田基一山宣追悼歌

 多田基一歌集『獄底ノ暗二歌フ』(一九三〇年)のなかの山宣追悼歌である。(引用は『日本プロレタリア文学集四〇,プロレタリア短歌・俳句・川柳集』)

◇山宣の殺(×)られた日に
血に狂う反動の魔手に斃されし同志の日なり妻と会いて語る

仙台署彼の一室で山宣と手を握りしが、最後となりぬ

山宣と手を握りたる警察の同じ留置場に彼の死を聞く

◇病気の春
万斛の恨みを呑みて殺されし山宣の児らのこころ想う日
 
◆墓石の筆は阪正臣筆

 山宣の墓石は生駒山から取り寄せた自然石であること、銘は阪正臣(ばんまさおみ)の筆だということなどは、中筋丈夫スクラップ帳から初めて明らかになった。

昭和五年三月三日付『大阪毎日新聞』

◇春を迎へた『受難の墓石』
 大隈候の玄関番を勤めたのを振出に、(カナダに渡り・筆者)皿洗い、スクール・ボーイ、新聞配達、鮭取り、鉄道工夫、(日本に戻り・筆者)大学講師、代議士と目まぐるしい生活転変のページを繰り展げた彼のことであるから、今地下三尺に安逸な永遠の眠りをむさぼろうなどとは、恐らく考えてはいまいけれども、彼の屍の上に建設された墓石には、一年後の今日も弾圧の手は絶えずのばされているという。「受難の墓石」。それは生駒山からとりよせたという自然石だ。その表面には「花屋敷山本家之墓」、裏には「昭和二年八月十日亀松六十九歳逝」。行をあけて「多年子」現花屋敷女将、宣治氏のお母さんの名である。その次の行には「昭和四年三月五日宣治四十一歳逝」と刻まれてある。以上は御歌書寄人阪正臣氏の筆。

 「花屋敷山本家之墓」の文字を書いた阪正臣は、宮廷歌人・書家で、皇族たちに和歌や書を教えた人物である。江戸時代に大衆化した和様書道を、明治大正期に様式として完成させた業績で知られている。安政二(一八五五)年に愛知県知多郡(現東海市)横須賀町愛宕神社の宮司の家に生まれた阪正臣は、和歌を富樫広厚に学び、御歌所寄人、同主事を歴任し、「敷島艦行進曲(敷島艦の歌)」「教育勅語」「国旗」などの歌(作詞)を遺した。これらの経歴からわかるように、阪正臣は山宣とはまったく別の世界にいた人物である。阪正臣が、どのようにして山宣の墓石に揮毫することになったかは不明だが、花やしきに宿泊した縁ではないかと、筆者は考えている。阪正臣は山宣暗殺から二年後の一九三一年に没しているので、この墓石の文字は正臣晩年の筆となった。

◆大山郁夫略年譜 image
1880 「兵庫県赤穂郡若狭野村に福本郁夫として生まれる
1897 神戸市の銀行員大山晨一郎の養子となる。
1905 早稲田大学政治経済学部を主席で卒業。
1910 シカゴ大学、ミュンヘン大学に留学(~1914)
1915 早稲田大学教授に就任、「早稲田騒動」で辞任(~1917)
1917 大阪朝日新聞社社会部論説班に入社、「白虹事件」で退社(1918)
1919 長谷川如是閑らと雑誌『我等』創刊
1921 早稲田大学教授に復帰(~1927)
1926 労働農民党中央執行委員長就任
1927 「大山事件」で早稲田大学を辞任
1929 新労農党を創立、委員長に就任
1930 普通第2回総選挙で東京第5区から当選
1932 妻とともにアメリカに発つ
1933 ノースウエスタン大学政治学部研究嘱託となる
1945 日本が第二次世界大戦で敗北
1947 帰国
1948 早稲田大学教授に復帰
1951 定年により退任
1950 京都より参議院議員に当選
1955 死去

◆山宣暗殺一周忌

 山宣暗殺一周年の一九三〇年三月五日午後六時より、労農党(再建)本部主催による追悼集会が東京本所公会堂(第一会場)、教育会館(第二会場)で開催され、委員長の大山郁夫や元京都帝国大学教授河上肇が弁士をつとめている。しかし、大山郁夫自身、一九三二年にアメリカへの亡命を余儀なくされたことにみられるように、言論の自由のない日本では山宣を追悼することが、すでにできなくなっていた。日本に残った河上肇は、一九三三年に治安維持法で検挙される。
 地元宇治でも一周年の追悼会が開かれた。

昭和五年三月六日付『大阪毎日新聞』
◇悲しみ新に黙祷を捧ぐる 涙の千代子未亡人 きのふ山宣の一周忌image
〈故山本宣治代議士が倒れて満一周年に当たる五日の宇治町――故人の生家花屋敷では、種々の都合で一周忌は営まないことにした。しかし、同町奥の山の山宣の墓には、朝から地方の労農党員の参拝者が終日引っ続いた。
 宇治署らの命令で大山氏の碑文の消し方が不完全だといって四日午後になって俄に碑文全面をコンクリートで塗りつぶされた受難の墓碑は、たちまち党員の手向ける花や供物で埋められた。花屋敷では、東京から細迫労農党書記長が来たので、同氏と共に千代子未亡人は墓前に故人の写真を、山中支配人は午後一時すぎ墓に詣った。去年から一年の間にしわがめっきりふえた千代子未亡人は、墓前に故人の写真をかざって、香をたき、しばらく顔を伏せて黙祷すると、折柄三、四十人が隊をなして参拝した大阪府下のある全農組合員の代表も墓前に進んで「なあに死力をつくしてわれわれはやがて、やがて………」と泣くように叫んで、長髪を打振るった。

山宣墓碑銘(筆者撮影)
 墓地登山口一帯には宇治署総動員で本部の応援も得て多数の私服を張らせて、参拝者を一々誰何した。四日正午から夕方まで宇治署の署長室に足どめを食らった故人母堂多年子さんは、「宣治の一周忌はぜひしようと思ったが、色々と差し障りがありますので、何にもやらないことにしました」と語り、表玄関で淋しそうにうろついている私服刑事をながめていた。なお同夜七時宇治町公会堂で演説会を開会、細迫書記長、奥村甚之助、その他熱弁をふるった。〉

昭和五年三月六日付『大阪毎日新聞』
◇大会終了後山宣の墓参り 全國農民組合京都支部
〈全国農民組合京都支部連合会では、同日(三月六日)午前十一時、三条青年会館で本年度総会を森英吉氏司会の下に開会、出席組合員約百五十名、木村忠一氏議長となり、書記長以下各役員を任命、友誼団体代表者の祝辞あり。
 小作法案・治安維持法反対の件、自転車・荷車税廃減要求の件、車轍改正反対の件、無産合同問題に関する件、南桑河原林村争議・武田村捺染工場争議応援の件。
 その他を議決して、午後三時閉会。出席者の大部分は、直に宇治町の故山本氏の墓参詣に向った。なお同日労農党府支部で計画していた示威運動、ビラ撒き等は警察の禁止するところとなり、何れも実行されなかった。〉

◆三年目の山宣忌

 山宣暗殺三周年を報じる新聞については、見出しのみを書き出してみよう。山宣の追悼は弾圧とのたたかいでもあったことがわかる。

昭和六年三月六日付『大阪毎日新聞』
◇山宣追悼で東京の騒ぎ 三会場の聴衆とデモ 警官隊と衝突し検束又検束
◇二十数名の弁士悉く検束 大阪の演説会
◇眞柄女史ら三名検束 『山宣』遭難三周年 昨夜の合同演説会
◇宇治の催し 弁士悉く中止
◇遭難旅館の前でデモ 東京の労農党員らが

 ここでいう労農党とは、禁止された旧労農党に代わって結成された新労農党のことである。新労農党に反対する人々(解消派)は、新労農党委員長大山郁夫の筆で墓碑銘が書かれていることに抗議し、墓碑銘を削り取れと花屋敷に要望したが、皮肉にも宇治署がこれを許可せず、今日に墓碑銘が伝わったのである。

昭和六年三月五日付『大阪毎日新聞』
◇『山宣』の墓石受難 大山氏の文字を削れ、削らぬ 五日は斃れて三周年
〈五日は旧労農党代議士山本宣治氏が凶刃にたおれて三周年に相当する、いわゆる「山宣デー」で、京都府下宇治町の墓地へは当局の眼の光る中を、各地の労働者、農民が訪れるだろう。ところがこの山宣の墓石裏面に刻み込まれてある大山郁夫氏筆の山宣最後の演説の一節は「山宣は一人でも寂しくない。背後には労働者農民の大衆がある……」(当時碑文はセメント(コンクリート)で塗られていたため、記者は正確な墓碑銘を記録できていない・筆者)の文字は、不穏とあって、かねて宇治署から山本氏の実家花屋敷に命じて、コンクリートで埋めさしたが、誰がとるのかそのコンクリートがいつの間にか削り取られてしまい、宇治署と花屋敷と無名の労働者農民と三つ巴になって争っていたが、労農党の内部に昨年秋生まれた解消派が党から解消し、党と反対の立場をとることになった。このごろでは「われ等の山宣の墓を大山郁夫氏の筆になる文句で汚したくない」との理由から、その文句を墓石から解消しようと、解消派、全協派、ナップ等からなる山宣遭難記念碑闘争委員会がその話を花屋敷に申し込んだ。この申し込みには花屋敷の方では別に反対の意向はないようだが、こんどは警察の方がどうもうまく行かない。わざわざ削りとってしまう必要は認めないと逆手にでて、五日の記念日にはその問題は未解決におかれているという。〉

 昭和五年二月一日付『山城』第二三三号には、「山宣の弔い合戦に細迫労農党候補が決死の戦い。城南での第一声を宇治町で」とある。だが、分裂した労農党の力は弱体化していた。細迫兼光は山宣の議席を奪還することはできなかった。
 山宣が反対した治安維持法は、山宣の予期したとおり社会運動に対して猛威をふるい、約千七百人の命が奪われた。

◆「山宣陣没七周年」

 一九三五(昭和十)年四月一日付『山城』第三五六号に掲載されている三山木之助(本名は村田佳久、多賀村出身の三山木の呉服商)の「山宣陣没七周年」は山宣追悼に関する希有の資料である。村田佳久について書いたときに引用したが、再度掲載しよう。

「山宣陣没七周年」
1、登り行く 夜の墓
  道の 暗きごと 
  世の行末も かく
  もやあらむ
2、かすかなる 明し
  にそびゆ 大石の
  もとにねむれる
  先駆者の霊
3、衛りなき 人をあ
  やめし 蛮人が 
  夢心地や如何に 
  茲にななとせ。

 このころになると、日中公然と山宣碑に参拝することはできなくなっていた。山宣を慕っていた地域の活動家数人は山宣の墓に行くため、夜道を密かに歩いた。セメントに塗りつぶされた大山郁夫の碑文はしばしば誰かの手によって彫り取られたといわれているが、山宣を南山城地域で支えていた村田佳久や草内村(現在の京田辺市)の杣田貞次郎、多賀村(現在の井手町)の八木利右衛門らによりなされたと思われる。このなかで一番可能性が高いのは、杣田貞次郎であろう。固められたセメントを剥がすのは、よほどの熟練がいるからである。杣田貞次郎は大工であった。
 一九四五年八月十五日、日本はアジア太平洋戦争に敗北したが、その年の十二月に戦後はじめての山宣追悼集会が開催された。一九四九年三月五日には「山本宣治二十年祭」が民主主義科学者協会京都支部と山宣会(責任者山中平治)共催により立命館大学広小路学舎で開かれている。また第三十八回山宣祭は一九六七年に開催され、墓前祭に続いて宇治中学校講堂において京都府知事蜷川虎三の講演「山宣を語る」と、映画「武器なき闘い」(山本薩夫監督)の上映がおこなわれている。山宣墓前祭はその後地域の人々の手によって続けられ、二〇〇六年三月五日には第七十七周年を迎えた。

◆治安維持法の犠牲者(1976年『文化評論』臨時増刊)
 明らかな虐殺―――――――――――――65人
 拷問・虐待が原因で獄死――――――― 114人
 病気、その他の理由による獄死――― 1,503人
 逮捕後の送検者数―――――――――75,681人
 未送検者を含む逮捕者―――――――数十万人
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◆◆河上肇=山本宣治を語る
(河上肇著「自叙伝 ①」岩波文庫 p305-318。京都学習情報から)
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 告別式に列席した私は、用意していた短い告別の辞を朗読するつもりだったが、それは最初の一行分を読んだだけで、臨監の警官から中止を命ぜられた。それについては、『社会問題研究』第九十冊に、私は次のような一文を載せている。

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 「山本君と最後に会ったのは、去る二月十五日、全国農民組合京都府連合会第一次大会の開催された日、五条署に検束されている私を、同君が貰い受けに来てくれた時である。私か釈放されて署を出ようとした時、私は出口につき立っている同君の笑顔にぶつかった。

 「ありがとう」と言ったきりで、その場は別れたが、それが、私にとっては、肉体的に生きている君と語りうる最後の機会であったのだ。(こうして思い出を書いていると、色々の人の姿が次ぎ次ぎに浮んでくるが、深い交際ではなかったけれども、何一つ悪い思い出の伴わない、山本君はなつかしい。昭和十八年九月二日追記。)三月八日、東京で催された告別式の当日、せめて君の遺影がまだ灰にならぬうちに、その前に立って、わずかに数言を述べんと欲したが、私は口を開いて、告別の辞の最初の行の「断乎たる闘争の」という言葉を発音した刹那に、臨監の警官によって中止を命ぜられた。

かくて私は、君の遺骸に向ってすら、思うことの万分の一を述べる機会を、永久に失ってしまった。かくまでに吾々は発言の自由を有しないのだ。だからこそ、議会内において議員の発言の自由を、被圧迫民衆のため極力利用せんと努力した君は、かかる努力の現われと共に殺されたのだ。私は今、墓前に剣を献じた古人に倣って、読みえなかった告別の辞を、ここに本誌に掲げる。

告別の辞

 同志山本宣治のなきがらの前に立って、私は謹んで告別の辞を述べる。
 君の流された貴き血しおは、全国の同志に向って更に深刻なる覚悟を促し、断乎たる闘争の決意を百倍にし千倍にした。君は何がゆえに、如何なる階級のために、如何にして殺されたかを、残された同志は、はっきりと意識しているからだ。吾々は君と別れることを深く惜むが、しかし君の死は決して無益でなく、また君の後に続く無数の同志が決してこれを無益にしない筈だ。私は同志の一人として、君が全運動のために献げられた責き犠牲に対し、ここに満腔(まんこう)の敬意と限りなき感謝の意を表せんとするものである。」

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 すべては一昔まえの夢となったが、こんな文章を新たに写し取ったりしていると、そぞろに当年のことが鮮かに眼に浮かんでくる。当時告別式のまだ始まらぬ前、私は暫く山本君の柩の置かれている室(それはどこであったか記憶しない、会場でなかったことだけが確かである。)で休息していたところ、その頃仲間から「書記長」「書記長」と呼ばれていた細迫君が、「先生は弔辞を読んで下さい」といって、硯箱と半紙を私の前に出してくれた。私はたった今、柩に横たわっている山本君を見たばかりである。心臓を突き刺されながら、兇漢(きょうかん)に組みつき、一緒になって階下玄関の漆喰(しっくい)のたたきへ倒(さか)さまに落ちた時の傷だというのが、前額部に新しい血の痕を見せているだけで、病むことなくして(た)れた同君の面貌は、殆ど平生の如くであった。

そうした君のなきがらに拝礼をささげてから、私はすぐにこの「告別の辞」を書いた。私がその中で、「君の流された貴き血しおは、全国の同志に向って更に深刻なる覚悟を促し、云々。」と言っているのは、実は、当時私自身の受けた刺戟の端的なる表現に外ならなかったであろう─。人はどんな立派なことをでも書きうる。ただ行動がそれに裏付けられていないかぎり、時を経てからは、床の間に掛けて眺むべき軸物とはなりえない。幸にして私は、こうして、以前に書いたものを、年数を経た後取り出して見ても、そう恥かしい気のするものは、先ずない。有りがたいことである。

 山本君もかつて京都帝大の講師をしていた関係から、世間の一部では、同君を私の教え子のように伝えているが、同君は私から直接に思想上の影響を受けた人ではない。柿本人麻呂がそのほとりに佇んで「もののふのやそうぢがはのあじろぎにいさよふなみのゆくへしらずも」と歌ったという宇治川、佐々木高綱、梶原景季(かげすえ)の先陣争いを思い起させる宇治橋、その橋を東から西へ渡り、左手に折れて堤防に沿うてゆくと、花やしきという大きな旗亭があって、どうかすると昼間でも弦歌(げんか)の声が聞こえる。川の水は清く、川を挟(はさ)める山もまた美しい。事情を知らぬ旅人ならば、この一劃を温泉でもある温柔郷(おんじゅうきょう)かと疑うであろうが、山本君はその花やしきを創めた父のもとで、幼時こうした雰囲気の裡に、山紫水明のほとりで育った、一個の生物学者だったのである。

境遇からいっても、専攻の学問からいっても、プロレタリヤの階級闘争の先端に立って兇刃(きょうじん)にたおれなければならないほどの、経歴上の行き掛かりがあるのでもなく、その義務があるのでもないのに、今こうした悲壮の死を遂げている。どうしたって私はそれを雲煙過眼(うんえんかがん)する訳に行かなかったのである。──それは恐らく、私を無産者運動の実践へと駆り立てた一つの有力な刺戟となったものであろう。

(ついでに書いておくが、これまで香川県下の選挙運動の時も一緒に落ち合い、本所公会堂の結党大会でも顔を見せた細川嘉六君は、今度は姿を見せなかった。山本君に対する個人的関係が、私とは違っていたからであろう。)

 さて話を元に戻すが、告別式が済んだ後、私は山本君の遣骸のあとについて火葬場まで見送り、焼香をすませて直ぐ帰途についた。細迫君に相談した結果、私はわざと、遺骨と同じ列車で京都に帰ることを避けたのである。これは後日になって聞いた話だが、京都帝大を出た某君は、告別式の当日、共産党の中央委員某君に頼まれ、寄付金を出させるために、一日中私の跡を追っかけていたが、遂にその機会を得なかったということだ。

 山本君の遺骨が京都に帰ってから間もなく、三月十五日(いわゆる三・一五事件の一周年記念日)には、「未曾有の厳戒裡に」──と当時のものに書いてある──京都三条の基督教青年会館で労農葬が行われた。なお同じ日に、東京では青山斎場で、大阪では天王寺公会堂で、その他全国各地で、一斉に労農葬が行われた。私はもちろん京都での葬儀に加わり、遺骨の前にささやかな一対の生花を捧げた。その日私は、自宅から五、六名の大学生に「護衛」され、一台の自動車に同乗して会場へ赴いたが、身辺にいた学生は、会場の入口で一人残らず検束された丁度その場へ駆け付けた大阪の労働者が私の顔を知っていたので、私はその人に抱かれるようにして、立ち並んでいる警官の間を潜り、やっと弁士控室へはいることが出来た。この日の私の弔辞もむろん中止された。

 四月に入ってからは、「無産団体協議会」主催のもとに、神戸、大阪、京都などで追悼演説会が催され、私はそれにもみな出席した。四月二十一日、京都市公会堂で聞かれた折の私の演説は、次の如きものであった。偶然にその草稿が残っているから、当時の気分を記念するために、そのままここに写し取っておく。(三月三十一日に大阪中ノ島中央公会堂で試みた演説、四月一日に神戸基督教青年会館で試みた演説、この二つは、『社会問題研究』第九十一冊に「同志山本宣治の死の階級的意義」と題して収録されている。この頃はまだ、どんな演説でも、予め鄭寧(ていねい)な草稿を作る習慣をやめていなかったのである。京都で朗読した草稿だけ残っているのは、前記の二つは、当時草稿のまま之を印刷所に廻したからであろう。)

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 「同志山宣の追悼のためには、彼の死の階級的意義を明かにせねばならぬ。私はこの趣意に基づいて、すでに大阪および神戸において、各々異なれる内容の演説を試みた。今夕もまた同じ趣旨のことを、更に別途の方面から述べるであろう。

 吾が山宣が兇刃にたおれてから、間もなく種々の方面より──例えば代議士河上丈太郎君の口からも、代議士浅原君の口からも、恐らくはまた代議士水谷君の口からも、──「同志山宣」と呼びかける声が聞こえた。だが、これらの人々は、果して吾が山宣を「同志」と呼びうる権利をもつか? 私は信じる、彼を同志と呼ぶことは、彼と同じ陣営に属し彼と生死を共にすることを誓った人々のみの、特権でなければならぬ。吾々にはかかる特権を独占する権利と義務とがある。私はここに同志なる言葉の階級的意義を明かにすることを以て、今夕の追悼(ついとう)に代えようと思う。

 吾が山宣の死後、新聞雑誌に現われた評論の中で、吾々が一読して嘔吐(おうと)を禁じ能(あた)わざりしものは、雑誌『中央公論』に現われた吉野作造君の論文である。それは徹頭徹尾、愚劣なる議論、反動的な意見に充ち満ちている。例えば氏は、吾々に向って次の如く勧告していられる。

 「後に残った同志の人々としては、どうしてもここで彼を徒死させざるための新たなる仕事を発見し、その遂行によって、傷める彼の霊を慰めるという義務が、感得せられなければならぬと思う。然らば、その新たなる仕事とは何か? 私の判断にして謬(あやま)らずんば、──(吉野氏は引続いてかくいう)──私の判断にして謬らずんば、第一は、これを好機として七生義団とやらに突撃することである。」

 氏はかく言いながら、自分自身にも滑稽に感じられたのであろう。急いでそれに註釈を加えていられる。

 「突撃という文字に拘泥(こうでい)して、兇器を提げ、大挙して、復讐戦を敢行することだなどと誤解してはいけない。」

 それなら、「突撃する」とは、どう突撃するのか? 氏は懇切に説明される。曰く、

 「それは思想的に正々堂々の論戦を開始すべきことをいうのである。」
 これはいよいよ出でていよいよ滑稽である。かくの如きが、吉野君の吾々に向って提案されているところの、新たなる仕事の第一である。すなわち氏は、吾々に向って、先ず七生義団を相手にして、「思想的に正々堂々の論戦を開始せよ」というのである。私が氏の論文を批評して、愚劣なる議論に充ち満ちていると言ったことの、単なる罵倒でないこと
は、ただこの一例を見ても明かであろう。

 吾々の敵は、決して、びょうたる七生義団なのではない。また今日の社会における敵対関係は、社会の経済的構造という物質的な土台の上に生(おい)い立っているので、この物質的な土台を掘り崩さぬ以上、それは決して、単なる論戦により解消され得るものではない。しかるにもかかわらず、氏が吾々に向ってかかる勧告をなしているところに、現代の社会情勢を曖昧ならしめんとするところの、反動的な意義が横たわっているのである。

 氏の論文を一読した東京の一同志は、私に向って次の如き手紙を寄せて来た。──「吉野作造氏の論文は、一言一句、嘔吐を催さしめる。彼の反動化は、今や驚くべきものがある。かつてレーニンが最大の憤怒をもって教授ゾムバルトを罵倒した言葉──すなわち、南京虫の大学教授、ドイッ警察的自由主義者といった言葉が、今正に吉野氏にふさわしきものとなっている。」

 私は往年の畏友を、今かくの如き姿において、敵の陣営のうちに見出すことにつき、多少の感慨なきを得ない。かかる吉野氏は、更に次の如く言っていられる。

 「一派の噪狂(そうきょう)者流は、今次の兇変をもって反動政治の計画的行動なりと烙印(らくいん)して、一般既成政党に呪詛(じゅそ)の叫びを差し向け、更にこれに安んぜずして、一般無産党の沈着なる措置をば、階級精神を裏切るものと罵倒し、以てここでも民主主義排撃の常套手段を忘れざらんとする。山本君の死は、こうした人たちにとって、なるほど宣伝に最も好都合な題目であろう。しかし、お前はあっちへ往っておれ、貴様のついて来る場所ではないと、甲を排し乙を斥(しりぞ)け、狭い高い山のてっぺんに山本君の亡き骸(がら)を祭り上げて、一体どうするつもりなのか? 生前の縁によって肉体は暫く彼らの弄(もてあそ)ぶに一任しよう。死んだ後の彼の魂は、今や彼と共に社会改革に志ある全民衆の裡に息んでいる。貴い彼の犠牲の意義を一部少数の噪狂声裡に没却して、暫時の間でも大衆の面前にその姿を隠さしめるのは惜しい。」

 氏は吾々を捉えて、噪狂者流──さわがしい気違いの仲間──だといい、吾々を指して、吾が山宣の肉体を弄ぶものだとしている。だが、吾が山宣の死後において彼を愚弄する者は、果して何人であるか? 私はそのことを明かにしよう。

 同志山宣は、彼の死の直前、大阪天王寺公会堂における全国農民大会の席上において、明白に次の意味のことを述べた。

 「帝国議会に送り出された議員のうち、無産党議員と称されるものは八人いるが、(註、総選挙当時、労働農民党からは二名の当選者を出したに過ぎないが、なおこの党の外に、無産党を標榜する社会民衆党と日本労農党とがあった。)自分以外の人々は尽(ことごと)く資本家地主階級の従僕となってしまった。労働者および農民の利害を代表する側に立つものとしては、今では自分一人となった。しかし自分は寂しくはない。自分の背後には、何万何十万という大衆がついている。卑怯者去らば去れ、われは赤旗を守る。」

 当時彼は、この大会から直ぐ議会に駆けつけ、そしてその晩に殺されてしまった。従って「卑怯者去らば去れ、われは赤旗を守る」という言葉は、──この言葉で彼の演説は臨監の警官から中止を命ぜられた、──この言葉は、彼が関西に残した最後の言葉となったのであるが、そしてまた、大衆の面前において、公然かかる宣言をなしうる程度にまで、彼が無産階級に対する忠誠の決意を固めていたということのうちに、彼の横死(おうし)の原因が横たわっていたのであるが、(註、考えて見ると、彼は、マルクス主義者として帝国議会に一個の議席を占めえた空前絶後の人であった。)今吾々が思い起さねばならぬことは、彼が生きていてかかる言葉を絶叫しつつあった際に、いわゆる無産党議員の他の何人が、彼に向って「同志山宣」と呼び掛けたか? 他の何人が、彼に温き手を差し伸べ、彼と腕を組んで進軍したか? という点である。

 言うまでもないことだが、もし他の議員たちが、当時彼に向って温き手を差し伸べ、彼と腕を組んで進んだならば、彼は決して「卑怯者去らば去れ」とは言わなかったであろうしかるに彼が一たび兇刃にたおれて、もはや再び口を開き得なくなるや否や、これらの人々の或るものは、あるいは彼の遺骸の前に跪(ひざまず)き、あるいは彼の遺骨の前に立って、頻(しき)りに「同志山宣」という言葉を繰り返している。私はこれらの言葉の前に、吾が山宣の遺骸が彼の遺骨が、憤怒のために動き出しはしないかと疑うばかりである。

 私は固く信じる、彼の遺骸を守り、彼の遺骨を葬り、彼を同志と呼び、彼に向って心からなる感謝を献げ、彼の忠誠を永遠に記念せんとすることは、彼の生前において彼とともに同じ陣営に属していた人々にのみ限られた特権であり義務であるということを。同志とは、階級戦において生死を共にすることを誓った仲間のことである。それが同志なる言葉の近代的意義であり、階級的意義である。

 吉野氏は吾々に向って、「お前は彼方に往っておれ、責様のついて来る場所ではないと、甲を排し乙を斥ける」と言って非難しているが、実際のところ吾々は、甲を排し乙を斥けざるを得ない。生前山宣を裏切った者の口から、同志山宣なる言葉の発せられることを、極力妨げざるを得ない。何故なれば、かくすることが、階級戦における陣営の境界を明かにするゆえんであり、労働者農民の真実の味方と、ただ口先だけで味方であるかの如く装っている社会民主主義者とを、大衆の前に明白に区別するゆえんだからである。……」

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善かれ悪かれ、当時の私は、こんな風の演説をしていたのである。
なお『山本宣治全集』の計画に対しては、私は五月一日づけを以て、次の如き一文を寄せた。

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「今日の社会には、一の偉大なる事業が課せられている。この事業の偉大さの前には、「政治、経済、科学、芸術の領域における人類一切の創造も、その影をひそめる。」プロレタリヤ階級がその歴史的任務として担当しているところの、一切の被圧迫民衆を決定的に窮極的に解放し遂げる事業が、即ちそれである。かかる任務、この限りなき偉大なる事業は、吾国の如く農民が人口の多数を占めている国柄では、プロレタリアートのヘゲモニーのもとにおける、労働者と農民との堅実なる同盟の力によってのみ、初めて成し遂げられる。そして、吾々の同志山宣は、かかる同盟の建設のために戦いっつ、計(はか)らずも敵の兇刃にたおれたものである。

 同志山宣はもと科学者であった。だが、真実の科学は、大衆の福利を増進することを窮極の目的とする。それゆえにまた真実の科学者は、何が最も大衆の福利を増進するゆえんの道であるかを、考えざるを得ない。同志山宣が、無産階級の解放運動に対して、次第次第に関心の度を高め、遂にその死の直前には、東奔西走、席の温まるに遑(いとま)なきまでの活動をなすに至ったのは、彼の科学的良心が人並勝れて鋭敏であったがために外ならない。吾々はこの事実の前に頭を下げる。

 今になって回想すると、彼の最後は、あたかも運動会における競走者が決勝点へ入る間際にヘビーをかけるのと、同じ勢のものであった。彼は実に死力をつくしてベビーをかけた。そして死の直前において、自らを完全に一個の戦闘的マルクス主義者に完成した。

私は先きに、政治、経済、科学、芸術の領域における人類一切の創造も、その前には影をひそめる偉大なる事業が、今吾々の前に横たわっているということを述べたが、同志山宣は、実に彼の一命を、この偉大なる事業のために献げたのである。彼の一生は、それゆえにこそ、彼が如何に偉大なる科学者となったよりも、更に遥に偉大なるものとなったのである。彼の著作集もまた、彼がその最後をかかる偉大なる事業への献身的参加によって完結したるがゆえに、一の尊敬すべき文集となった。

階級闘争がいまだ潜伏状態にありし時代に青年期を経過したるインテリゲンチャが、齢四十を越したる後、階級闘争の急速なる激化に順応して、プロレタリヤ階級の歴史的使命の遂行に殉死することは、極めて困難な仕事である。かかる困難なる仕事を成し遂げることにより、自分の肉体をもって「マルクス主義への道」を表示しえたる彼の文集こそは、日本の革命的インテリゲンチャのもつ一つの衿(ほこり)であらねばならぬ。一九二九年メイデイ。」

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 誰にとってもそうであるように、これらの文章には、期せずして当時における筆者自身の心境が漏らされている。──如何に偉大なる学者の業績よりも、プロレタリアートの歴史的使命の遂行への参加こそ、遥に偉大なる、人類への貢献でなければならぬ。私はこう考えて最早や疑わなくなって来ている。僅か一年前、大学をやめた当座には、これからは書斎に閉じ寵もり主力を『資本論』の翻訳に献げようと思っていた私であるのに、恐らく十年も経つたであろうかと思われるほどの心境の変化を、急速にもこの間に成し遂げているのである。かくて「革命の諸経験について書くよりも、これに参加する方が、より有益である。」というレーニンの言葉が、やっと完全に理解されうる段階にまで、私も進み出たというべきであろう。
(河上肇著「自叙伝 ①」岩波文庫 p305-318)

◆◆山本宣治=全国農民組合大会へ
(西口克己「山宣」大坂山宣会 p414-420。京都学習通信090212)

 三月三日──全国農民組合の大会へ、政獲労農同盟唯一人の代議士として挨拶するために、あわただしく下阪した宣治は、これが愛する家族との最後の団欒になるかもしれぬと心の底でひそかに感じつつも、宇治の自宅に立寄って二枚を過ごした。

 朝、彼よりも早く起きて身たしなみの薄化粧をほどこした妻の千代は、ひさしぶりに会ったせいが、やはり美しかった。ガラス戸ごしに柔らかな早春の日射しがあふれている食堂で、宣治は家族たちにかこまれて、紅茶にパン、それに林檎という軽い食事を共にした。千代が次々と焼いて差出すトーストを、男の子たちは、宣治の倍も食べた。
「ほう、大きくなったな英治──ちょっと来てごらん」
 彼は、これから中学へ登校するという長男と肩を並べて縁側に立って見ながら、ニコニコと妻を振返った。
「干代、こいつはもうすぐ俺よりもノッポになるぞ」
「まさか──まだパパの肩までしかありませんわ」
 千代も二人を見くらべながらニコニコと笑った。その長男や他の子供たちが立去り、?の不自由な治子たけが残ったとき、宣治は、ふと彼女の横顔を喰入るようにやさしい眼で見つめてから、かるく瞼をとじた。
「治子──パパは、お前だけが気がかりなんだ。でも、お前も大きくなったなあ……」

 まもなく、大阪へ行く宣治の身の廻りを整えるために、洋服箪笥から背広を取出した千代は、このとき偶然にそのポケットから畳の上に落ちた小さな手帳を拾い上げていた。手帳に挟んであった二、三枚の名刺を、もとのように挟みなおそうとしたとき、その頁に書込まれていたメモの字が、いきなり不吉な棘のように千代の瞳に突きささった。
 《道を歩くときは太いステッキを持って歩くこと》
 《狭い路地へ入るときは、なるべく真中を歩くこと》
 《亀井貫一郎、柔道三段──彼と歩けばまず大丈夫か》
 千代は、いまさらのように、最近の夫がどんな危険にさらされているかを悟って、青ざめた顔色で、その場に立ちすくんだのだった。むろん、それまでにもこの《花やしき》へ、右翼のゴロツキが肩肱を怒らせて押しかけてきたことは一再ならずあったし、千代もその程度の脅迫には馴れていた。たが、そんな場合、肩一つ動かさずに悠々としていた夫が、いつのまにか自分自身でこんなメモを書くようになったのには、何か深い理由があるはずたった。

 「千代、何を覗いているんた。はゝゝ、亭主の素行調べか」
 いつのまにか宣治が、ワイシャツの袖を通しながら、すぐ傍に立っていた。
 「あなた……」
 真剣な千代の瞳に気づいた宣治は、咄嵯にその意味をのみこんで、妻の肩をやさしく押えながら噺いた。
 「大丈夫だよ、千代──皆は俺に護衛をつけるといってきかないんた。たがこの忙しいときに、そんなことで同志の手を一人抜くのは贅沢たからね。なあに、俺は代議士になってから計算してみると、世界一周するほど日本中を駆けずり廻ったが、またこんなにピンピンしている。そう簡単にやられやしないさ」

 やがて身支度を整えた宣治は、《花やしき》の中庭伝いに、別棟の隠居所にいる母のタネを訪れた。むろん千代も一緒だった。
「お婆さん、では行ってきます。もうすぐ議会が終りますから、そのときにはゆっくり骨休めに帰りますが、留守中、千代や子供たちをよろしく頼みます」
「ああ、これから大阪どすか、ほんまに御苦労さんどすな。しっかり、やってきとくれやす」
 置炬燵にあたっていたタネは、わざわざ縁側まで出てくると、背の高い宣治の姿を見上げながら何度もうなずいてみせた。それは、生まれてから一度も息子を叱ったことのないこの老婆の、さりげない──だが亡き亀松のぶんをもこめた、激励の言葉たったのだ。

 玄関を出て、かなり歩いてから何気なく振返った宣治は、すでに見送人の引込んた《花やしき》の門前に、千代たけがポツンと一人佇んで、こちらを見つめているのに気づいた。
「千代、戦士を見送るときには、そんな寂しそうな恰好をするものではない!………」
 唇をグッと噛みしめた宣治は、そのまま後をも見ずに、駅に向う宇治橋の方へ突き進んで行ったのたった。

 京阪電車で約一時間──大阪についた宣治は、タクシーを拾って会場へ駈けつけた。

 全国農民組合の大会は、大阪の天王寺公会堂で、異様な殺気をはらんで開催されていた。立錐の余地もないほど農民たちで一杯に溢れた薄暗い会場の正面には、虐げられた貧農の要求を大書したスローガンが何本も吊下げられていた。その左右には炎のような赤旗が林立し、さらに農民組合独特の昔ながらの筵旗(むしろばた)が何本も押立てられていた。むろん両側の壁ぎわがら出入口にかけては何十人かの警官隊が、顎紐をがけてものものしい警戒陣を布いていた。

 ここ二、三年来の政治情勢の険悪化と田中内閣の弾圧とは、農民たちの上にも、暗雲のように重苦しく被いがぶさっていた。無産党の分裂は、そのまま農民祖合の分裂でもあった。二年前に日農から、社民系の《日本農民総同盟》と日労系の《全日本農民組合》とが分裂し、昨年、それでもまた輝かしい闘争の伝統と最大の組織をもっていた日展そのものが、あの三・一五の大弾圧で血みどろな打撃を受けねばならなかった。たが、農民たちは屈しなかった。大弾圧で根こそぎ活動家を投獄された直後、不死身のような姿で立上った日農は、逆に、一旦分裾した全日農との合同に成功し、十万人の組織をもつ《全国農民組合》として再出発した。人口の大半が農民であり、しかも貧農であった当時、反動政府にとって、この十万人の大組織は、まさに恐るべき存在であった。この過程で、宣治自身もまた、日農から全農へと加人していたのである。

 宣治が会場へ入って行くと、あちらからも、こちらからも割れるような拍手が起った。
「山宣!」
「頑張ってくれよ、山宣!」
 農民たちは、彼こそが、この苛烈な弾圧下で、自分たちの生活を真剣に護ってくれる唯一人の代議士だということを知っていたのである。

 まもなく宣治は、政獲労農同盟代表としてのメッセージをのべるために、演壇に立った。以前から彼は水谷のような、いわゆる大向うを唸らせる型の雄辨家ではなかった。彼の演説は、ときとしてユーモアをまじえた平易な講演ふうのものが多かった。だが──この日だけは、まるで別人の感があった。この日、宣治は、すばらしい演説とはどういうものであるかということを──それは一人の魂の叫びが、数百人の魂かいかに打つことたということを──脳中から奔る闘志とともに示したのである。

「諸君!──この大会を見るとき、諸君の階級的精神は、勇敢な議案に現われています。この無産階級運動への勇ましい門出を象徴する大会に、祝辞をのべることは私の光栄とするとこ ろであります。我々の戦闘は日に日に激しくなり、今まで我々の味方として左翼的言辞を弄していた人まで日に日に退去し、我々の頼みになると思っていた人まで我々の運動から没落して行きました。彼らは、合法主義たとか何たとかいって、去って行きます。しかも、これらの人人にたいして、支配階級は公認し、保護をあたえています。たが、こうした人々にたいして、我々のあたえる言葉はこうである──卑怯者、去らば去れ、われらは赤旗を守る!………」

 わあーっという喚声と、嵐のような拍手が鳴りやまず、宣治はしばらく唇をかんで立往生しなければならなかった。

 「諸君! ──無産階級の議員として出ている人々は、日々何をしているか。彼らは諸君をだましているのです。明日は議会に死刑法──治安維持法が上程されます。私は、その反対のために今夜東上します。反対演説もやるつもりたが、質間打切りのために、やれなくなるでしょう。じつに今や階級的立場を守る者は唯一人です。だが私は淋しくない。山宣ひとり孤塁を守る! しかし背後には多数の同志が──」

「中止! 中止ツー」
 臨監の警部が叫んた刹那、会場全体が巨大な憎しみの坩堝と化して燃えたぎった。
「警官横暴! 警官横暴!」
「やめるな、山宣!」
「政獲労農同盟ばんざ──いッ」

 無数の、半生を泥田の中で苦闘してきた皺の深い顔が、頑丈な肩が、日焼けした真黒が腕が、狂ったように揺れうごき、打振られ、怒号と拍手がいつ果てるともなく続いた。

 その凄じい拍手を浴びて壇上に立っているのは、もはや宣治であって寛治ではなかった。いわばそれは、《山宣》という名ふ借りた日本プロレタリアートの意志の権化たったのである。
(西口克己「山宣」大坂山宣会 p414-420)

◆◆谷口善太郎=階級戦士としての同志山本宣治

1929年6月執筆
(谷口善太郎「つりのできぬ釣り師」新日本出版社 p126-140京都学習通信)


 同志山宣が、その尊い生命をまで犠牲にするにいたった階級闘争のために、その全生活を捧げるようになったのは、けっして、ある突発的な、「ドラマティック」とでもいいうるような「動機」からではない。

 それは、あたかも、地におちた一粒の種子が雨にうるおい、光をあび、あるいは嵐におそわれつつもついには天を摩する大木にまで成長したと同様に、一歩一歩深くつよく発展したものである。わたしはいま、静かにかれの発展のあとを回顧してみようと思う。

 同志山宣が、現代社会の隅ずみにまで根を張るところの「虚偽」にたいする闘争を志したのは、遠く、アメリカ遊学中のことであって、かれはこれを生物学者として「顕微鏡の中より」果たさんとした。しかし、このとき、すでにおぼろげながら、社会主義的世界観を把握していて、それが如上(じょうじょう)の決意を基礎づけたことは、かれみずから近親者に語っていたところである。

 一人の生物学者として、性教育および産児制限運動をはじめるや、かれは現代社会にたいする批判的立場からこの問題を取りあつかい、あらゆる機会をとらえて旧道徳およびブルジョア的性教育にたいする闘争に利用した。

 学校の講壇、医師会、小学校教員会議、青年団ならびに公開講演会等々におけるかれの活動は実に真摯にして勇敢なものであった。

 かかる信念のもとに実践にはいったかれが、晩年において、現代社会の徹底的批判者である唯一の階級──労働大衆こそ事をともにすべき階級であると確信するにいたったということは、あまりにも当然のことである。

 かくして大正十二、三年頃より、性教育、産児制限運動を目的として、京都、大阪、神戸等の労働者団体との関係が始まったのである。当時設立された大阪労働学校に講師として参加したときが、かれが階級闘争の戦士としての第一歩をふみだしたものといい得るであろう。

 この第一歩は、かれの最初の意図よりもはるかに大なる意義をむすんだ。当時、わが国の無産階級は、政党結成を当面の問題として闘っており、そのために解放運動に理解と熱意を有するインテリゲンチャの利用と糾合を重要なる一つの手段としていたのである。その雰囲気にかれがはいりこんだとき、かれは必然的に、解放運動上におけるかれの役割を、より広範な戦線にまで拡大せざるを得なかった。政治研究会、フェビアン協会、労働農民営の設立等々におけるかれの活動はかくして招来せられたのである。

 かように、労働者団体と関係をむすび、したがってまたその闘争場面を拡張したということが、必然的にかれのいだく社会主義的世界観を、より深化、発展せしむるところの条件となった。ちょうどその頃より急速に加重してきたブルジョア学界のかれにたいする露骨なる迫害は、拍車となってかれを勇躍させた。かくして戦士としての同志山宣は質的転化──性教育を主眼とする労働者団体との関係から、全幅的解放戦の輝ける闘士への──を終えた。大正十五年の中頃が転化の時代で、これ以後のかれは、その全生活をあげて無産階級運動にささげていたのである。

 かれが解放運動のかがやける指導者にまで発展した経路において無産政党問題を中心としての労働者およびインテリゲンチャの働きかけを見おとすことは大なるあやまりであるが、それと同時に、かれ自身の思想的、理論的発展を理解せずして、かれの勇敢なりし晩年を物語ることはできない。かれは暗殺されるその最後の日まで、解放運動に深く関係すればするほど、その戦闘的唯物論、弁証法的世界観の徹底的把握に努力した人である。



 労働組合の先覚分子と関係をむすんだのは、たぶん大正十一年であったと記憶する。最初の関係は当時の日本労働総同盟の野田律太君、三田村四郎君等であった。

 大阪労働学校の開校は、大正十一年六月であるが、第一回(大正十一年六月)、第二回(大正十一年九月)、第三回(大正十二年一月)、ともにかれの講師たる名がのっていない。しかるに、大正十二年四月号の雑誌『解放』によせたかれの論文「卑屈なる自称知識階級」──ニコライの『戦争の生物学』の訳書序文をもらうためにアインシュタイン博士を訪問した記事──のなかに、知識階級は卑屈で駄目だが、労働階級のあいだにはすばらしい秀才がいるとて、野田、三田村、大矢の諸君と交遊のあることを記している。これらを総合して考うるに、当時すでに右の諸君と交遊はあったけれども、労働学校とはまだ結ばれていなかったようである。

 大正十二年にいたって、前述の諸君の紹介によって大阪労働学校の講師となり、日本労働総同盟に関係することとなったのである。

 次いで十三年度にはいり、京都、堺、神戸等の総同盟経営の労働学校の講師となるかたわら、信州文化青年同盟、日本農民組合、全国各大学の社会科学研究会等に関係し、各地を講演行脚した。

 労働者学校におけるかれの受持は生物学であった。その内容はかつて講師だった同志社大学におけるとほとんど同様であったが、そんなことは問題ではない。ただ、労働学校の講師として当時の戦闘的労働者──労働組合員に接触したかれが、そこに現代社会にたいする徹底的批判階級たる労働者大衆の生活を見るとともに、これらの生徒を通じて、闘争本拠たる労働組合の集会や闘争の実践に参加する機会を得たということが重大な意義を持つのである。これらの関係がもたらした生活視野の拡大は、労働者階級にたいするかれの従来からの期待と信頼とを、より高めたのである。以来、かれは労働者たちの各種の要求もつとめて快諾したようである。たとえば、大正十三年四月京都労働学校の校長に就任したことや、各地の労働団体主催の集合、講演会、演説会等に参加したり、メーデー、ストライキ等にも応援に出かけたごときである。

 前にもちょっとふれたように、かれのこのような一歩前進は、さらにより広範なる闘争への参加を要求される結果を生んだ。すなわち、大正十三年六月創立された政治研究会に勧誘されて会員となり、ついでフェビアン協会の設立に参加した。また、京都在住のインテリゲンチャの間に一つのサークルを設け、毎週一回会合して政党問題に関する座談会をひらいた等々、労働者団体、農民団体、研究会、フェビアン協会等の主催する集会に同志山宣の姿を見ないことはまれなくらいであった。

 この年の十月、オール関西の労働学校によって関西労働学校連盟が組織されたとき、かれはおされて執行委員長となり、その機関紙を主宰した。この頃よりかれは名実ともに関西における労働者農民教育運動の有力なる指導者となった。



 大正十四年の初め(一月七日)、日本フェビアン協会主催、京都労働学校後援の演説会が京都市岡崎公会堂に開催されたとき、かれも安部磯雄、秋田雨雀氏等とともに演説し、閉会後一同うちそろってかれの生家である宇治「花やしき」に遊んだことがある。秋田氏の記するところによると、この清遊は一行を結ぶ上にきわめて有意義なものであったようであるが、しかし、かれにとってはかならずしも、秋田氏と同様な気持を植えつけられなかったらしい。というわけは、かれが日本フェビアン協会の中に巣くう無政府主義的分子のダラシない様相を認識する最初の機会も、この時つくられたからである。──今のプティ・ブルジョア文士新居格君などもふくまれていたのだから、当然なことではあろうが。

 この年の三月から五月にかけて、かの総同盟の内紛、評議会の創立問題がおこった。この問題にたいしては、当時もっとも戦闘的なインテリゲンチャの団体であった東西大学の社会科学研究会においてすら、一時は若干の日和見的認識が行なわれたのであるが、同志山宣は、この時もなんの苦もなく問題の本質を理解し、即座に評議会系として活動することを宣言した。ここに一つのエピソードがある。

 評議会の創立に当面した京大社会科学研究会の若干のメンバーが、「この事件のいっさいの資料を蒐集し十分研究した上でなくては、総同盟に加担すべきか、また評議会に参加すべきかを決定することができない」と主張したのにたいして、かれは即座に次のごとく一喝した。

 「いまさら研究の必要はあるまい。評議会が正しいにきまっている。もしそうでないなら、総同盟内の階級分子のみがかくも団結しないだろうし、またかくも組合大衆の支持を得ることはできないであろう。一つの突発事件に直面して、あわてて資料をあつめ、十分な研究をしてでなければ、問題の本質を理解することもできず、また自分の態度も決定することができないというようなことでは、たえず内部的、外部的変化・発展・飛躍に富む解放運動に参加する資格はない。まして、その指導者となることは思いもよらぬことであろう。」

 このエピソードは、同志山宣の面目を躍如たらしめている。事物にたいして、いたずらに枝葉末節に拘泥することなく、その底を流れる事物の本質をまっ先にえぐりだして、それをすべての理解の基礎におく。これがかれの特徴だった。かれにとっては、飛躍に直面して、あわてて資料を集めるのではなく、問題の本質的傾向をつねに注意ふかく観察している──そして対処する、ということがなによりも肝要だったのである。

 左翼戦線の同志諸君と広くまじわることとなったのは、この事件以後のことである。『産児調節評論』を刊行し、野田、三田村、谷口、桂等の諸君との交渉頻繁になったのもこの年である。なお関西のインテリゲンチャによって、大阪に政治経済学会が創立されたのも、たぶんこの年であったと記憶するが、かれも熱心なメンバーの一人であった。

 京大社会科学研究会との関係はますます深く、同年十二月に突発したいわゆる学連事件にさいしては家宅捜索を受けた。こえて翌年四月公判の時には証人として喚問されたが、公判廷において当時の京都特高課長久保田某をかれ一流の快弁で痛快にやっつけたのは有名な話である。

 大正十五年春、労働農民党創立とともに参加し、京都府連合会の教育部長となった。この頃、前後して京大、同大の教職を追われたので、かれもいよいよ純然たる闘士として東奔西走することになった。同年九月には、議会解散請願運動が、日本農民組合京都府連合会の提唱、無産者新聞支持のもとに起こされるや、かれは意識的にかつがれて最初の執行委員長となった。ここで、わたしは、解放運動戦士としての、かれの当時の態度について一言したいと思う。

 元来、三・一五以前のかれは、左翼陣営内における有力なる一活動分子ではあったが、しかし、厳密なる意味での指導者ではなかった。もちろん、形式上は指導的地位──たとえば大正十四年に関西労働学校連盟の執行委員長、議会解散請願運動の執行委員長、さらに後に述べるが昭和二年末に就任した労働農民党京都府連合執行委員長等──に立ったことはたびたびあるけれども、しかし、それはけっして厳密な意味での指導者の立場ではなかった。それは、知名なる一インテリゲンチャとして意識的にかつがれることによって、左翼運動に貢献しようとする態度であった。かく理解することは、だんじて同志山宣を辱しめるものでなく、またかれの人格、識見をうたがうものではない。

いな、反対にかくのごとき態度こそ真実の指導部にたいする絶対的信頼を表明するものとして、たかく評価すべき態度であって、当時のかくのごとく、真実の指導部となんら組織上の関係を有しない一知名のィンテリゲンチャとしては、最高の階級的忠誠を示したものと断言してよい。かれは尊くも、自己を正当に評価しているのだ。──自分はまだ左翼組織の一員ではない。したがって自分は、まだ完全な左翼指導者としてふるまってはならない。が、しかし、自分はこの運動にかつがれることによって、いくぶんでも左翼に貢献できる立場にある、「左翼」はそれを要求している。自分は命じられた任務に全力をつくすことによって満足しよう──これが同志山宣が当時いだいていた真実の心持だったのである。

 この態度を、ナマジ五、六冊のマルクス主義文献を読んだということをもって、ただちにりっぱな指導者たり得たと心得ている水長輩の思いあがった態度と対比せよ! 階級道徳と階級規律の強き根の上に咲き出でた美しい花であったればこそ、かれは散るべきときには鮮かに散ることもできたのである。



 昭和二年春にいたり、真実の左翼陣営の拡大を、いわゆる第六感によって察知したかれは、これにたいする自分の態度をいかにすべきかに関して頭を悩ましたようである。当時、かれのもっとも親しい某君にたいして「左翼の人々は、一個の卑屈なるインテリゲンチャたる僕にたいして、適当な仕事をあたえてくれる必要がある。今ただちに真実の左翼戦線に投ぜよといわれてもちょっと困るが、厳重なる規律をもって仕事を与えてくれるなら、りっぱにやるつもりだ。僕はいま、一生の仕事と考えていた生物学をすてるにもしのびないし、それかといって左翼運動勃興の今日、それから逃避するということはなおさらやりたくない」ともらしていたということである。とにかく、この年の四月に、雑誌『インターナショナル』の編集人としてかれの名があらわれた。当時の雑誌『インターナショナル』が左翼運動といかなる関係にあったかは知らないけれども、かれの名が中央にあらわれたことは、当時の心境を知る一つの鍵となるかも知れない。

 この年の五月、労農党から京都府第五区衆議院補欠選挙に出馬して落選した。もちろんこの選挙戦は最初から落選は明らかだったのであるが、大衆の政治的教育のために、一身の事情を犠牲にして党議に服して出馬したのである。この選挙戦は労農党に貴重なる経験を残した。この経験にもとづくかれの自己批判は、パンフレット『労働農民党の初陣』の巻頭にかかげている。若い党員たちの観念的戦術にたいするかれ一流の批判は、今日においても十分の価値を残していると思う。

 対支非干渉同盟より渡支代表に選ばれ、そのために宇治署に数日間検束されたのは、この年の八月のことである。このさいに宇治警察署のとったあらゆる不法行為は、かれが議員になって後、第五十六議会において徹底的に暴露したところである。すなわち、「拷問不法監禁に対する質問」としてブルジョアジーの心胆を寒からしめたものである。

 十一月から十二月にかけて、労農党京都府連合会内に水谷長三郎排撃運動がおこり、左翼労働者が漸次台頭するようになってからも、かれはつねに左翼を支持していた。十二月の執行委員会の席上で彼は徹底的に水谷を批判したこともあった。ついで連合会大会で推されてその執行委員長に就任した。



 昭和三年二月、衆議院総選挙にさいし、労農党より推されて立候補し、見事当選した。前にもいったように、かれはいかなる場合においても、私生活を犠牲にして党議に服従する事を信条としていた。が、さすがのかれも、この選挙戦に立候補を命ぜられたときほど困却したことはなかったようである。当時かれは持病がこうじて喀血臥床中であった。主治医はかれにたいして絶対安静を命じ、あまり病を軽んずると生命の危険を導くであろうことを宣告した。と同時に、かれもまた、別な理由で立候補辞退の決意をしていた。というのは、かれは一個の生物学者であって政治の専門家ではない。何万の大衆の代表者として議会闘争を勇敢に遂行するための最適任者ではあり得ないという意見をいだいていたのであった。これら、二つの理由から候補辞退の決意をなし、それを労農党本部の細迫書記長にまで申し出た。

ところが細迫書記長から彼の立候補が絶対的必要である旨を訴え、私情においてしのびないが、党のためにまげて出馬してくれという意味の返信があった。書記長の返信を受けとってからの数日間はずいぶんかれを苦しめたらしい。しかしかれはついに医師の勧告を排して断固立候補を決意した。選挙戦後に病が悪化し、数カ月間静養しなければならなかったのも当然のことである。



 三・一五事件、労農党、評議会、青年同盟解散等々、左翼陣営に大暴風雨が襲った。精鋭分子の大衆的逮捕、左翼的組織の破壊等で左翼戦線は一時的危機にさえ陥った。このことは、同志山宣に最後の飛躍をうながさずにはおかなかった。逮捕された前衛の革命的精神の継承者として彼が奮起したときに、かれは名実ともに左翼陣営の指導者となったのである。

 ここでわたしは、ちょっとばかり読者の注意を喚起しておきたい。それは、かれがかかる飛躍的進出をとげた条件についてである。わたしはいま「左翼戦線が大打撃を受けたから同志山宣が奮起した」といった。だがたんなる客観的情勢の変化のみについて説明したので完全でない。なぜならば、たんなる客観情勢の変化によってのみ動いたのなら、かれがとくに真実の左翼指導者として逮捕された、前衛の革命意的精神の継承者として奮起した理由が十分説明され得ないからである。

ここでわれわれの注意すべきことは、彼はこの頃すでに前衛の組織と指導を直接知ることができるという立場にあったことである。いままでの活動においては、まだ解決されていなかったところの自身の立場上の問題がこれによってある程度にまで解決したればこそ、その時のかれは牢乎(ろうこ)として抜くことのできない左翼指導者としての自信をいだくようになったのである。かれは最後まで日本共産党の組織には加盟してはいなかったらしい。

しかし、かれの精神、かれの態度はすでにそれと同一のものであり得たのである。かれが晩年における涙ぐましきまでの活動は、断じて単なるお座なりや、事情やむを得ずかつがれたというがごとき態度からではなかった。

 かれの死力をつくした活動は、この時からはじまった。第五十五議会を終えると、余暇にはニコライの『戦争の生物学』の翻訳を続行しつつ、つねには文字どおり階級闘争の第一線に立って奮闘した。全国的遊説、新党組織準備、労農同盟の結成、香川奪還闘争、等々より、最後の第五十六議会における左翼唯一の代議士としての健闘、さては万国の無産大衆をして憤激せしめた昭和四年三月五日の遭難等々にいたるまでの事実は、生々しくわれわれの脳裡にきざみこまれているから、ここに綴る必要はあるまい。

 とまれ、同志山宣の最後は同志河上博士のいうごとく「あたかも、運動における競争者が決勝線に入るまぎわにヘビーをかけるとおなじ勢いのものであった。かれは実に死力をつくしてヘビーをかけた。そして死の直前において自らを完全に一個の戦闘的マルクス主義者に完成した」のである。かれの没後、日本共産党の中央委員会が、かれをその党員に列せしめる
ことを決議したのは、またゆえなしとしない。

(谷口善太郎「つりのできぬ釣り師」新日本出版社 p126-140)

◆◆山本宣治たちが開いた労働学校

(西口克己「山宣」大阪山宣会 p219-222京都学習通信061005)


 宣治の活勤は、こうして東奔西走の講演旅行ばがりではなかった。彼はまたこの間に──というよりは、すでに一、二年前から──いろいろな新聞や雑誌、さては当時ようやく普及しはじめたラジオ放送などにおいても、はなばなしい論陣を張り、あるいはユーモアたっぷりな評論を書きちらして、ジャーナリズムをさわがせた。何といっても彼がひっさげて立った《性》の問題は普遍的であり、いつの時代の人々にとっても興味のある問題だったのだ。

 この執筆活動の上での、彼の主要な敵は、いうまでもなく頑固な政府当局であり、その背後に控えている軍部であり、また貪慾な大資本家であった。だがむろん、これらの敵を向うに廻して一般雑誌の紙上で真向から取組むということは、その原稿が屑籠へ放り込まれるのは覚悟の上としても、無数の弾圧法の真只中へ裸でとびこむようなムダなことであった。

いきおい、彼の書いたものは、一部の書斎派マルキストから、よた記事だの雑文だのと軽蔑され、さてはよた記事と用足りぬとをもじって、ヨータリンだと罵られたこともあった。じっさいまた、この年に出版された《恋愛革命》という単行本などは、当時の彼の真剣な実際活動にくらべて、いちじるしく暢気な筆致で書かれた一、二年前の文章を寄集めて一冊にしたものだった。

だが彼には彼なりの考えがあったのだ。誰も彼もが、そう一直線に前進するものではない。《一般に生物の行動は、前進に対する抵抗最少なる線または最少と本能的に感じた線に沿うており、その跡をたどれば、たいてい釘の折の配列や、またはミミズののたうちまわった跡にも似た複雑な曲線になっている。このような見地からみれば、感激にみたされた文学青年どもの考えている芸術的受難や思想上の殉教は、ただ抽象的に考えた幾何学の直線のように、たぶん観念の境の中にのみ存するものであろう》──これが彼の実感だった。むずがしい論文を一人に読んでもらうよりも、彼の書く程度のものを千人が興味をもって読んでくれる方が、むしろ全体としての前進のために役に立つ。こんな立場から彼は、一流の皮肉な調子で次のような文章を書いたこともあった──

 《現在日本における多数の結婚生活は、私のみるところでは、私有財産制の一変形であり、夫という占有者が、妻と名づける家畜を養い、これを性的快感を得るための機械として用い、また同時に、これを屠らずに食物とする場所である(非科学的庖厨生活のうちに妻の血肉をそぐことは、とりもなおさず彼女を食うことになる)。

 妻を機械から昇格させて奴隷だとすれば、結婚生活は、夫と称する主人が、妻と称する奴隷を飼い、この奴隷をして昼は家事を処理せしめ、夜は寝室の世話をさせることであり、疑うべくもない一の奴隷制である。

 家畜ならば系統が判然して優れているほど買うとき高価だ。奴隷ならば柔順勤勉であるほど高価である。家畜にも奴隷にも人格はないから、ただ作業能率を高めるために調教を試みる。この調教訓練を称して良妻賢母教育という。ただしこの調教者があまり有能でないから、名前の看板とは正反対に、奴隷制からみても牧畜術がら考えても能率の低いものばかりが生産されて、じっさいは愚母悪妻教育になっている。

近頃、これではならぬと、さすが感じのにぶい牧畜家や奴隷養成者も頭を悩ましはじめたが、調教能率を高めるためには、まず第一に人格を認めなければならぬ。しがし飼主や主人と同等な人格を認めるとすれば、現在の私有財産制や奴隷制が根本から顛覆ずる。すなわち彼らの語を借りれば、祖先伝来の醇風美俗が破壊されるから、痛し痒しで大煩悶をしている。しかし下手の考え休むに似たり、煩悶しているうちに家畜も奴隷も自覚して差別待遇撤廃を要求するようになった。

 本来、この制度下にあっては分際という語がやかましくいわれて、女の分際で(すなわち家畜のくせに奴隷のくせに)、男子(すなわち飼主や主人)とおなじ物を食うのは生意気だとあって、特に家畜向、奴隷向の食物が準備してある。これが女学校教育と婦人雑誌と称するものであって、飼主と主人が御免をこむり、匙を投げ、辟易(へきえき)した低級下劣の材料ばかりが振向けられている。

しかし家畜扱いされ奴隷視されて差別待遇を受けても、結局女は人間であるがら、自分で自由に人間の要求するものを撰ぶ(えら)ぶに至ったことは、よろこばしいことである。ただし一部の女には家畜根性と奴隷気質の名残りがあって、特にいたわってもらわぬと虐待されたような僻み根性を起す者もあるが、全くの同格の者なら、ことさらに御婦人とか、女の人とが、お女中とか御機嫌をとる必要はあるまい。男が単に男なら、女は単に女と呼ばれて、別に侮辱を加えられたと思うにおよばぬ。……

 私は女性の自尊心を傷つけるような色々な比喩を用いたが、現代日本の虐げられた女性のためを思えばこそ、このような率直な現実曝露を試みた。呪うべき売笑制を痛撃し、これを支持する資本制度を憎んでも、この制度の犠牲となった哀れな我々の姉妹を決して責めることはできない。我々の眼前の性的奴隷制は、すなわち普遍的売笑制であり、これの撤廃をはかるためには、女性自身のパンを求める方法を根本からやり直さなければならぬ。そのための改造は、膏薬貼りや、その日逃れのごまがし細工ではないのである。……》

 このような多方面の活動をつづけながら、まもなく宣治は、総同盟から乞われるままに、関西労働学校連盟委員長となり、京都労働学校校長を引受けることになったのだった。

(西口克己「山宣」大阪山宣会 p219-222)

◆◆卜部秀子さんの歩み

(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p180-187京都学習通信)

◆生いたち、めざめ

 卜部秀子さんは、一九一〇年六月十九日、京都市左京区田中西河原町で、父田中政治郎、母スエさんの四女として生まれました。田中地域は、未解放部落でした。六人兄弟の末っ子でしたが、母が再婚のために他の五人とは父が違う兄弟でした。すぐ上の喜三次郎兄さんとは、とくに仲の良い兄妹として育ちました。父親は、砂利を採取する仕事をしていましたが、生活は苦しく、貧困のなかでの幼少期でした。

 田中西河原町というのは、一九二二年三月に、差別撤廃と差別のない社会を誓い、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と宣言して全国水平社が創立され、その一ヵ月後に地方水平社の口火をきって京都水平社創立大会が開かれたところです。田中部落は、水平運動の拠点のひとつでした。京都の労働運動との結びつきも深く、京都労働学校に積極的に参加し、水平夜学校を開いて社会科学の学習に熱心にとりくんだ地域といわれています。
 秀子さんは、こうした運動を身近にしながら成長していったのでしょう。

 一九二七年、日本資本主義がはげしい金融恐慌におそわれ、国民の生活は苦しく、一方日本帝国主義の中国への干渉と侵略が拡大されていきます。

 秀子さんはこのころ、京都の鐘ヶ淵紡績に十七歳で働きはじめました。そして兄や兄の友人に連れられて、労農党の演説会を聞きに行ったり、山本宣治(戦前の労農党代議士)の開いた労働学校に足を運びはじめます。京大の社会科学研究会や、婦人だけでこっそり集まっての国際婦人デー、婦人だけの学習会にも参加していきました。

 そうした学習会は、「天皇はなぜ最高にあがめられているのか」「農民や労働者は一生働いてもなぜ平等に扱われないのか」「部落民はなぜいわれなく差別されるのか」など、彼女に社会のしくみを解き明かすものでした。社会の矛盾と問題を知った秀子さんは、社会進歩の運動に参加する決意をかためます。それは、「国賊として異端視され、親からは勘当されることも覚悟し、留置場や刑務所につながれることも覚悟」のうえでした。

◆無産者診療所で

 一九三一年、二十一歳のとき、秀子さん自身が、「私には大それた行動でした」というほど、一大決意をして洛北診療所(無産者診療所)に事務員兼・看護婦見習いとして働きはじめます。彼女は全国水平社本部の常任で、京都地方無産者青年同盟結成の中心になって活動していた沖田留吉さんと結婚の約束をしていましたが、ちょうどこの年沖田さんが、療養先の堺市耳原部落で亡くなるという悲しい事態に遭遇します。秀子さんはその死をきっかけに、遺志をうけついで水平運動に身を投じたといわれています。

 秀子さんにとってこの診療所の仕事は、天皇制政府の残虐さを直接知り、社会的視野を広げさせるものとなります。なぜならこの洛北診療所は、三・一五事件の弾圧と山本宣治の暗殺に怒り、解放運動犠牲者救援会や医療関係者が「労働者農民の病院をつくれ」と犠牲者や家族の健康を守り、反撃を組織しようという運動のもとで、つくられていった診療所の一つでした。

 病気になっても医者にかかれないまずしい部落の人たちが大ぜいおしかけました。また特高警察の拷問で身体を悪くした人たちへの治療もおこなわれていました。患者のなかには、谷口善太郎さん(党中央委員・衆議院議員、故人)や黒木重徳さん(中央委員、故人)らもいました。当時のことを秀子さんは「むごい拷問によってあざだらけの病人や、身動きもできない重病人の治療にあたりながら、そのむごたらしさに私の若い血は怒りに心がにえたぎり、くやしさを押えきれませんでした」とのべています。このころの秀子さんは、「青年たちや左翼人のたまり場」のようで深夜まで議論がつづいたという診療所のなかで、あまり目だたない、どちらかといえばもの静かなタイプの人だったといいます。

 診療所へも刑事が毎日訪ねてきて、先生や診療所に出入りしている人を検束し、患者や働いている人たちにもおどしをかけ、診療活動が続けられないように弾圧してきました。診療所は、一年後に閉鎖されてしまいます。

 その後、全協(日本労働組合全国協議会)の紡績関係などの労働者に働きかける繊維オルグになります。かつて鐘紡の女工をしていたことや、三十年春の大争議の支援活動をした経験が買われたのです。

 京都旧友クラブ会員で戦前からの共産党員である西村清三さんは、そのオルグを依頼したときの想い出を──「左京区・高野にある鐘紡工場で働いている女工さんたちの組織づくりのオルグを頼みました。その時の彼女は、目立たない人柄には変りないが、態度がしっかりしており、澄んだ美しい眼が印象的だった。彼女だったら、やってくれると確信をもちました。その後の彼女の成長と活動をみると、その確信が間違いなかったと、今もうれしく思っています」と語っています。

 鐘紡の近くに井上信子さん(東京・渋谷区元鳩の森保育園園長)と二人で借家をみつけ、長田秀名義で借りて活動の拠点にします。十数人の女子労働者をクラブに組織し、このメンバーのなかからしっかりした女性をえらび「赤旗」を読ませていました。「あなたはつかまってもがんばれる?」こう念をおし、「この新聞は、あなたたちの真の味方なのよ」と手渡したのです。

 そんなある日のこと、借家を訪れた全協の幹部から「決意はできているか」と入党の話。決意どころか、この日の来るのを心待ちにしていただけに、感激が涙をさそいました。〝殺されてもやりぬく〟そう誓ったのは、一九三三年の夏、二十三歳のときでした。

拷問に耐えて

 入党後、党からあたえられた任務は、関西地方委員会のオルグでした。活動の地を大阪に移し、繊維オルグとして城北地区の各工場に組合結成や、ストライキのよびかけをしたり、堺市の日本セルロイドに入って労働者の組織化に力をつくします。また京都、東京方面との連絡など、非公然活動の緊張した日々でした。

 こうした活動のなかで一九三六年夏、大阪・阿倍野署に逮捕されました。特高による取り調べは、なぐる、ける、気を失うと水をかけて暴力をふるうという拷問の連続でしたが、秀子さんはひとことも話しませんでした。特高は、彼女の活動を証拠だてることができず、四ヵ月留置し、起訴留保で釈放せざるをえませんでした。

 その翌年、再び検挙された秀子さんは、さらに苛酷な拷問をうけたのでした。京都の下鴨署の七~八十人の警官が家をとりかこむなかで検挙され、一ヵ月ぐらいたって五条署に移されました。先に捕まった他の同志の自白から、彼女が共産党員であることがわかっていたため、きびしい追及がおこなわれました。羽賀という特高警部補、拷問係の田中ら三~四人によって、竹刀、木刀でなぐりつけられたり、持ち上げてコンクリートの床にたたきつけられ、失神すると水をかけてさらに責めつづけるのです。

 床にたたきつけられ腰を打って、一週間トイレにもはっていくほどでした。この時以来、秀子さんは亡くなるまで、腰痛に悩まされつづけたのです。しかし拷問にも屈せず、その拷問に抗議しぬいたために、「こいつは拷問ではだめだ」とついに拷問はなくなったそうです。

 彼女と関係していた党員や大衆団体組織は警察に知られず、検挙されませんでした。一緒に活動していた児島とみさんは、それは彼女が「断固として黙秘で通した証で、検挙後私に『児島さん、獄中では頑張りましたよ。おわかりでしょう』と言っていました。その通りで、私は秀さんが本当に婦人党員として立派だったこと今も思っています」と当時をふりかえって語っています。

 翌、三七年には、竹屋町にあった京都拘置所に移され、未決のまま一年六ヵ月たち、絶対主義的天皇制権力は判決三年六ヵ月をだします。彼女は控訴してたたかい、三九年、大阪の控訴院では、二年の判決がだされ、家庭婦人になることを誓って執行猶予五年をうけ出所したのでした。二十九歳の時でした。この時の思いがどんなだったか亡くなった今、聞くことができません。

 三年八ヵ月の獄中生活後、秀子さんはト部政司さんと結婚します。ト部さんは、松竹の下賀茂撮影所の仕事をしていた人で、繊維関係で活動していた時期もあり、秀子さんとの出会いが考えられます。

 ト部さんが侵略戦争にかりだされていったあと、東京に出てきた秀子さんは、東京高等技芸学校で洋裁を習ったりしますが、埼玉に疎開し生活するなかで終戦を迎えたのでした。

どんなときにも党の旗を

 四五年十二月、ただちに再入党した秀子さんは、埼玉県地方委員会の再建にとりくみました。埼玉の初代の婦人部長を務め、四七年には中央委員会の農民対策部で婦人係、部落同盟係として活動します。のち、再び埼玉にもどって与野市を中心にしながら、党組織建設と埼玉の婦人運動に大きくかかわって戦後の新しい発展に力をつくせることをよろこびにし、二度と戦争をくりかえしてはならないと党を何より大事にして活動していきます。

 このころの生活は決して楽ではありませんでした。戦地から帰ってきた夫のト部さんとはすでに気持ちが分かれ、ト部さんは京都に帰ってしまい、数年後離婚することになります。秀子さんは、東京・新小岩でゴム長を〝ヤミ〟で仕入れ、それを浦和で売ったり、パンやネクタイなどの行商をして生活していきます。

 四八年、婦人民主クラブの県本部長になり、民主婦人協議会の埼玉県協議会を結成し責任者に推されます。さらに埼玉婦人連絡会の理事、新婦人の与野支部長等々、埼玉の婦人運動の前進と婦人戦線の統一のために、責重な役割を果たしてきました。

 彼女は、どんなときにも党の旗を公然とかかげ、決して党をうしろにおくことをしませんでした。そして、大衆運動への任務など党の要請を拒否したことがなかったといいます。また、党が小さかった時代、常任活動家の生活を心配し、自分の生活をきりつめても常任活動家の世話をしていました。元埼玉県委員長の平田藤吉さんは、「党に力をふりしぼって来た人だった」とその姿を語っていました。

 また秀子さんは、ともに婦人運動をたたかった新婦人埼玉県本部の大塚アイさんに、病床で「わたしは若い時から、今に見ておれ、私たちの社会になるのだからと言いながら活動してきたのよ。わたしは原則的なことばかり言うからみんなに煙たがられてしまうんだネ。新婦人は幅広いのだから、あんたたちが頑張ってくれて大きくなってほんとうによかったねエ」と語ったといいます。

 時にはまわりの党員に素直に苦言を呈す厳しさと、しんらつな言葉に〝きつい〟といわれもしますが、党を心から愛し、党員であることを誇りに、貫き通してきた卜部秀子さん。その一生は、計り知れないその時代の困難を思ったとき、胸に迫るものがあります。

(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p180-187)



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◆◆暗い時代に生きた人びと=山本宣治
森まゆみ
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◆森まゆみ『暗い時代の人びと』発刊
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(日刊ゲンダイ17.06.01)

◆◆(書評)『暗い時代の人々』 森まゆみ〈著〉

2017年7月9日朝日新聞

『暗い時代の人々』精神の自由掲げた9人の輝き
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 直言居士がいない時代である。立場よりも、正道を貫く人間の姿がない。組織の空気を読むばかりを美徳とする風潮が、いかに世を息苦しくしているか。

 大正末期から昭和の戦争に至る頃は「暗い時代」と呼ばれる。だが当時は闇の中にも精神の自由を掲げ、きら星のように光る「いい男」と「いい女」がいた。

 そんな9人を選び、生涯の歩みと人脈をたどるのが本書である。節を曲げず、おのれに正直に生きた群像の評伝がすがすがしい。

 軍靴の音高まる折の国会で、万民の胸をうつ粛軍・反軍演説をぶったのは斎藤隆夫だ。国会を除名されても守り抜いたのは、「立憲主義」の信念だった。

 有権者の務めは選挙だけではない。一人ひとりが立憲意識に目覚め、政治家を適切に監視せねばならない――斎藤の提言は、現代への痛切な戒めに聞こえる。

 女性の自由を社会主義に見た運動家山川菊栄、治安維持法に抗した政治家山本宣治、権力を嫌う画家竹久夢二……。親族友人の助けあいや奔放な異性関係にも及ぶしなやかな筆が、ユーモアや辛口批評も交えつつ生身の人間像を伝える。

 当時にあって今はないものもかいま見える。ロシア革命を背景に、謙虚に諸外国に学ぼうとした探究心。苦境を生き抜く同志が織りなす人間模様の濃さ。

 特高警察も検閲もなく、ネットで誰とでもつながる今、言論が痩せて見えるのはなぜか。社会主義のユートピアも、高度成長の夢もなくした停滞社会とはいえ言い訳になるまい。

 テロの不安に乗じて市民の自由を削り、憲法解釈もきのうまでの黒を白と言いくるめる。そんな理の通らぬ政治の流れに棹(さお)さすのが「忖度(そんたく)」の文化だろう。

 憲政の神様とあおがれた尾崎行雄が、斎藤に贈った和歌が重く響く。「正しきを践(ふ)んで怖(おそ)れず、君独り 時に諛(おも)ねる人多き世に」

 自分の「正しき」を決めるのが権力や上司のご意向ならば、今の世こそ暗い。

 評・立野純二(本社論説主幹代理)

     *

 『暗い時代の人々』 森まゆみ〈著〉 亜紀書房 1836円
     
 もり・まゆみ 54年生まれ。作家。著書に『鴎外の坂』『昭和文芸史』『「青鞜」の冒険』『子規の音』など。

◆◆山本宣治「人生は短く、科学は長し」

学生の頃、西口克己の「山宣」という小説を読んだ。
「山宣、一人孤塁を守る。だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆がいる」そういって、一九三二年、治安維持法改正に反対したかどで右翼に殺された国会議員・山本宣治はなんだか社会党委員長・浅沼稲次郎のような、太った豪傑のような気がしていた。だから上記の伝記をもとにした映画「武器なき斗(たたか)い」を見たとき、山本宣治を演じた下元勉がなんだか細くて頼りないような気がしたのを覚えている。
 しかし実際の山本宣治の写真を見たら、丸眼鏡をかけた白皙(はくせき)の青年であった。殺されたのは四十に満たない。
【映画「武器なき斗い」の冒頭=総評などのカンパでつくられた】
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 山本薩夫監督の「武器なき斗い」からして、「仁義なき戦い」を想像するようなタイトルなのだけど、この映画は山宣の没後三十年を記念して総評など労働組合の醵金で作られ、浅沼稲次郎の右翼・山口二矢による刺殺事件の直後に封切られた。よく考えれば、まさにタイトル通り、山本は労働学校や小作争議の先頭に立ち、国会で無産大衆の立場を代弁し、武器ではなく弁論で戦った人である。
 山宣と私は不思議な縁がある。まずは物書きの伯母・近藤富枝が「いい男ってのは山宣だねえ」と何度もいっていたことである。当時の私には、髪を七三にわけたひよわそうな写真から「いい男」という表現は浮かばなかった。性科学者というのがどんな研究をするものかもよくわからなかった。いまとなると山宣はいい男だと思う。
 恵まれた家に育って、両親の支持もあったからではあろうが、右顧左眄せず、運動に突き進んでいった。このインテグリティ(首尾一貫性)ということは知識人にとって大切なことである。

Senji_Yamamoto山本宣治(やまもと・せんじ)image:1889年、京都生まれ。「山宣」の愛称で親しまれる。クリスチャンの両親のもと、幼少期を京都宇治の「花やしき」(現「花やしき浮船園」)で過ごす。造園家を志し、大隈重信邸で園丁として働いたのち、カナダのバンクーバーに留学。帰国後、生物学者を目指して東京大学に進学。京都大学の講師として生物学を研究する傍ら、女性の権利擁護としての「産児制限運動」に関わり、また、労働者への教育を行う「労働学校」などでも教鞭をとるなど、社会運動家としても活躍する。1927年、最初の普通選挙に労農党から立候補し、当選。国会議員として活動するが、1929年に治安維持法の改正に反対したことを理由に、右翼に刺殺され、短い生涯を閉じた。


 あるとき信州の別所温泉を歩いていて、山宣の碑というのに遭遇した。一九二九年(昭和4)三月一日に山本宣治は上小(じょうしょう)農民組合で記念講演を行い、その四日後に東京で右翼に暗殺されているのである。そこで上田の別所温泉近くに土地を借りて農業をしていた山宣の親戚に当たるタカクラ・テル(高倉輝)が翌年、庭先に山宣の石碑を建てた。しかしタカクラ本人が一九三二年に信州の教員赤化事件で検挙され、長野を追われる。警察はこの碑を破却するように命じたが、家主であった柏屋別荘の主人、斎藤房雄はこれを旅館の庭園に運び込み、庭石としてこれを守り通した。
 しかし碑を見た私は、そんな複雑な背景があるとは知らず、なぜ別所に山宣の碑があるのだろうと、首を傾げた(タカクラ・テルは京都大学卒業の劇作家。戦後、共産党の衆議院議員を務め、参院に鞍替えして当選したが、マッカーサー指令により追放となった)。
 そして昨二〇一四年、私は宇治市の主宰する「紫式部文学賞」を『青鞜の冒険』によって受け、授賞式に赴くことになった。そのときに「花やしき浮舟園」なる宇治川を望む宿に泊めていただいた。源氏物語「宇治十帖」にちなんだいかにも風雅な宿であったが、翌日、ロビーにパンフレットがあって驚いた。なんと、この宿は山宣の生家だというではないか。
 いま山宣といっても知る人は少ないだろう。フロントで聞いたところ、奥の土蔵が記念館になっております、とのこと。現在のご主人は山宣の子孫だそうである。しかし旅館はいま、左翼の社会運動家の先祖を看板にはしていない。さっそく私は土蔵に向かった。そこに殺された山宣のひつぎを担いで東京大学の赤門を出てくる油絵の本物がかかっていた。

 山本宣治は一八八九(明治22)年に生まれた。父山本亀松は京都麩屋町の金庫商の三男。三男ゆえに活躍の場が得られず、若い頃は次兄の経営する東京神田の出店の集金を紅灯の巷で使い果たしたりしたという。三十歳のとき、京都で安田多年と出会う。多年の方は三条大橋の足袋や河内屋の長女で、番頭と許嫁であったが、その人が詐欺師によって店の金を失い、琵琶湖に身を投げて死んだため、十七歳から自力で毛糸屋を経営していた。二十歳の彼女が教会でオルガンを弾いていたのを、三十歳の亀松が見初め、両親の反対を押し切って結婚、それから二人はクリスチャンの清潔で理想的な家庭を作ろうとした。
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(当時のワンプライスショップ。ハイカラな西洋小物を取り扱う商店だった。写真中央の少年が山本宣治。出典:『山本宣治写真集』汐文社より)

 明治二十一年、新京極で二人は「ワンプライスショップ」という現金掛け値なしの商売を始める。そのころは値を高く付けておいて、客との交渉で値を下げるのが通例であった。神戸の商社から仕入れたリボンやハンカチ、留め金、櫛、化粧品などを市価よりずっと安い「正価」で売り、「まけぬといったらほんまにまけぬ」のキャッチコピーでたいへんに繁盛した。開店の翌年、長男誕生、亀松は自分を堕落から更正させてくれた宣教師の宣と、明治の治をとって宣治と名付けたという。  ハイカラな家に生まれたこの少年は可愛がられて育った。両親は一粒種の息子を環境のいいところで育てようと、京都郊外の宇治に六百坪の土地を求め、別荘「花やしき」を建てた。町中の商家は忙しく、ここで庭師のじいやと身の回りの世話をする女中に守られて宣治は暮らした。両親は日曜ごとにやってきて宣治と遊び、西洋の珍しい花を植えるのだった。宣治は花々に囲まれて育った。やがて花やしきは宇治を訪れる人に茶菓を出す茶店となる。
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(その頃の花やしきの様子。立って花を追っているのが父亀松。その左が山本宣治『山本宣治写真集』汐文社より)


 この花やしきは、その後茶店から割烹旅館も営むようになり、現在の「花やしき浮舟園」へとつながっていく。割烹旅館となった花やしきは有島武郎や島村抱月、谷崎潤一郎や竹久夢二(夢二は山宣と同じ神戸中学で学んだ――夢二も山宣も一年で中退)なども訪れる宇治の名所で、谷崎の随筆集『青春物語』などにも取り上げられているのだから華々しい。
 宣治は神戸中学に上がり神童といわれたが、小児結核にかかり、一年で退学を余儀なくされた。そのうちに「花を植えて世の中を美しくしたい」という思いを強く持ち、造園家を志すようになる。それからは宇治で花作りや養鶏にいそしんだ。十五歳のとき、自らすすんで東京の興農園に見習い生として住み込み、本格的に園芸を学ぶ。しかし、そこの生活はひどかった。食事もひどく、休みは元旦のみ、家族の人品賎しく、奉公人を医者にも見せなかった。
 その非を指摘した激烈な手紙を両親に書き、宣治は今度は早稲田の大隈重信伯爵の温室で園芸見習いとして働いた。実は私の曾祖母きんは明治の一時期、大隈家の腰元をしていたというが、時期はたぶん曾祖母の方が早いだろう。ここの待遇には山宣は不満がなかったようだし、大隈や巌本善治など著名な人と出会い、大隈には目をかけられた。
 その後、親戚の眼科医を頼って本格的な造園術を学ぶためにカナダのバンクーバーに渡り、数年を過ごすこととなる。山宣が生物学者を志すようになったのはこのカナダ留学中である。カナダで出会った加藤秋真という進歩的な牧師との友情は、山宣の将来を大きく変えた。加藤の影響で社会主義や神学について学び、学者への道を歩むことを決意した。二十歳の頃、年齢を三歳偽って小学校の七年生に編入、その後、高等学校で学ぶ傍ら、富裕な家族のハウスワーク、日本語新聞の記者、鮭捕り漁師、などを転々とした。バンクーバーは海に面した美しい町である。山本はその頃、英語でマルクスの「共産党宣言」、ダーウィン「種の起原」などを通読した。そんなわけで、山宣が生物学者になるまでには、相当の遠回りをしたといえる。
 いまでこそ、カナダは世界一移民に寛容な国といわれるが、当時は移民排斥運動は強かった。山本宣治は日本人教会の青年会に属しながら、こうしたヘイトスピーチをつぶさに見た。両親と同様にクリスチャンであったが、白人の宣教師が人種差別に加担をしている現実も見た。さらに「領事館派」と呼ばれる日本のキリスト教グループが、これに対抗し、日露戦争後の風潮も手伝って、国家主義的傾向を強めていったことへも批判的であった。また、宣治は、滞在中に幸徳秋水らに対するでっち上げの大逆事件を知って憤慨している。このときの体験は、造園家を目指していた優しい青年だった山宣が、やがて社会運動へと乗り出していく大きなきっかけとなった。
 帰国して京都の同志社普通学校を経て、旧制三高に入る前、丸上千代と結婚し、東京大学に入ったのは二十八歳、すでに二人の子持ちだった。東京大学ではイモリの精子の発達をテーマにしながら、生命とは何かを考え続けた。同時に東大アカデミズムの旧態依然とした閉鎖性に疑問を抱き、「金曜会」という改革組織を立ち上げる活動にも身を乗り出している。こうしたことは実家花やしきが盛業だからこそできたことである。その頃の山本家は小石川林町六十二番地というから、いまの猫又坂の上、鈴木貫太郎邸などのあったあたりである。
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(東京大学在学時代。左より山本宣治。中央の3人の男の子たちがそれぞれ長男・次男・三男(三男は東大在学中に出産)。右端が妻・千代。『山本宣治写真集』汐文社より)

 しかし東京帝国大学動物学科を卒業してからの活躍は早かった。京都大学の大学院に籍を置く傍ら、さっそく同志社大学の講師に迎えられる。間もなく京都大学医学部の講師にもなった。ベルリン大学の生物学者ゲオルグ・F・ニコライの『戦争の生物学』の翻訳に着手したのもちょうどこの頃だった。ニコライは第一次世界大戦にドイツが参戦した際にアインシュタインと共にこれに反対し、戦争を人類の進化の要因と考える俗流生物学を批判して、人類の平和の可能性を模索する『戦争の生物学』を執筆した。山宣は東大在学中にこの著書に出会い感銘を受け、卒業後すぐに翻訳を開始したという。
 のちに一九二二年十二月になって、山宣は自ら訳した『戦争の生物学』の訳本に、おりから来日中の物理学者アインシュタインに推薦文を貰いに行った。
 自分の専門以外の本には序文や推薦は寄せないとのアインシュタインを説得して次のような推薦文を得た。
「戦争は無意味であり、而してその戦争を防止するための或る国際組織が必要であるという信念を普及することが、今日の政治的著述のもっとも重大なる任務であると私は考える(後略)」

 このように山宣は大学にとどまらず、様々な活動に身を乗り出した。性教育の啓蒙活動を開始したのも同じ時期である。
 その頃、性教育などという考えはなかった。男のほとんどは初体験が遊廓といったプロ女性相手。また結婚は恋愛どころか、見合いすらろくになく、親の決めたところに行かされるのが常であった。人口の多くを占めた農漁村では嫁にやるのが「口減らし」であり、「嫁を取る」のは労働力の確保に過ぎなかった。ほかに余暇を過ごす方法がないので、また避妊方法を知らないので、子供はたくさん生まれたがたくさん死ぬ多産多死の時代であった。
 当時の小説には、「御産で死ぬ妻」「産後の肥立ちが悪く死ぬ妻」「死産」などがよく描かれている。例えば生涯に五万首の歌を作った天才歌人・与謝野晶子は、十三人の子供を産み、そのうち双子が二組、一人が死産、一人は夭折し、とうてい自分では育てられないので下の方の女児四人は里子に出されている。
 山本宣治はやがて避妊方法を知らないための多産多死が大きな社会問題だと感じた。それで大正十(1921)年、産児制限運動で有名なアメリカのマーガレット・サンガー女史が来日する際、京都での講演会の通訳を務めている。そして『山峨(サンガー)女史家族制限法批判』なる本を翌年発行した。紹介するのに批判となづけなければならなかったのは、産児制限は当時の国策に逆行するものだったからである。
 日清日露の戦争を戦った日本は、富国強兵のためにたくさんの壮健な男子を産み育てることを国民に期待していた。「産めよ増やせよ」というスローガンが昭和一六(1941)年の閣議決定された人口政策だが、実際には明治政府の頃からこの政策である。例えば貧しくて育てられないものたちの間で、間引き(生まれた赤ちゃんを殺す)や堕胎(妊婦を冷たい池に漬けたり、ズイキで子宮の奥を突く)などのことは江戸時代には普通に行われていた。しかし近代に入るとすぐ堕胎禁止令(明治2)が出され、明治十三年には堕胎罪が制定される。マーガレット・サンガーが初来日したのは一九二二年であった。
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マーガレット・サンガー (1879-1966)

 マーガレット・サンガーは一八七九年にニューヨーク州のアイルランド系の家に生まれた。カトリックの敬虔な信者だった母親が十八回も妊娠し、子宮頸がんで死去したことに強い衝撃を受けた。自身も結核の恐怖を感じながら結婚し、子供も三人生んだが、一九一二年以降、マンハッタンの貧民街で看護師として活動するようになり、貧しい女性たちが望まぬ妊娠と出産で人生を失うのを見て、産児制限(受胎調節)と家族計画の啓蒙に乗り出した。来日の際は、彼女に共鳴した石本男爵夫人が受け入れに奔走し、改造社の山本実彦が招待の費用を持った。石本男爵夫人とは、のちの社会党代議士・加藤シズエである。サンガー女史はロンドンで開かれる「万国産児制限会議」に出席する途上、太平洋を経由し、一九二二年三月から四月、日本に立ち寄ることとなった。
 私は明治三十年生まれの加藤シズエにじかに話を聞いたことがある。
「キリスト教では避妊をしてはいけないことになっているのですが、貧民街の母親たちは、酒飲みで、失業中だったりで暴力を振るう亭主の要求を拒むことができず、これ以上生んだらもう体が傷んで命がつづかない、私が死んだらこの子たちはどうなるでしょうとサンガーさんに訴えていたのです。男の医者はそんな女たちの気持ちをちっともわからなかった。
 サンガーさんは避妊の知識を刷ったパンフレットを十万部も作ったのですが、セックスに関連した内容の印刷物を送ってはならないという法律コムストック法に引っかかって、何度も捕まり、牢屋に入れられた。講演すれば制服の警官がどっと入ってくる。その中で勇敢に戦っていらした。ですけれどお会いしてみたら、いわゆる女闘士ではなくて、声も鈴を振るような、美しい方でした」(森まゆみ『恋は決断力』講談社)
 加藤シズエは夫・石本恵吉が技師として赴任した三井三池の炭坑のおかみさんの姿をそれに重ねた。
「妻が夫の性的欲求を断るなんて怪しからぬ、という時代でした。だからしょっちゅう妊娠する。すると姑にまた孕んだのかといやな顔をされるので、妊娠を隠してぎりぎりまで炭坑や野良で働く。産婆を呼ぶとお金がかかるからって自分で産む。日本の女たちもそれで命を縮めていました」(同)
 これは山本宣治も同じ思いであったであろう。
 内務省はサンガー夫人にヴィザを発給しない方針だったが、彼女の乗った大洋丸が横浜埠頭入港後、産児制限宣伝のための公開講演をしないことを条件に入国を認めた。上陸後、さっそく持参の宣伝パンフ数万部を押収した。それでサンガー夫人は前約のあった京都市医師会などで医師や薬剤師など専門家の前でのみ講演をし、山本がこれを通訳した。山本はサンガー女史に「もとはクリスチャンで、いまは自由な思想家であり、マルキストです」と自己紹介したという。またサンガー女史については「陽気でよくしゃべる女性。アメリカ人にしては落ち着きのある、外交官夫人のようでもあり、低俗な女宣教師とは訳が違う」といった感想をつづっている。
 さて、サンガー夫人の来日を当時の婦人活動家が語っていないわけがないと思い、平塚らいてうの全集を見て見たが、まったく言及がない。この大正十一年のらいてうの文章は短いものが三つだけである。その前年、婦人参政権をめぐる新婦人協会での市川房枝や山内みなとの確執などらいてうは運動にくたびれ切っていた年でもあったのだろう。もともとらいてうは自由恋愛を主張するいっぽう子供を持つことを畏れており、子供を持ってからは変わったが、それでも「無意識に、無責任に劣等な子供を多産する代わりに、質の良い子供を少なく産むように自然なるはず」(「母性の主張について」)「無知、無教養な下層社会において生殖の事業がいかに無思慮と不用意の中に行われているかは想像することができます」(「産児制限の問題」)などと述べ、「人種改良学や優生学を学ぶべき」(「避妊の可否を論ず」)と考えていた。
 また花柳病(梅毒や淋病)を夫からうつされて苦しむ妻たちを多く見たらいてうらは、一九一九年、花柳病男子の結婚を制限する法案を提出した。それは「本人同士の自由意志による結婚」という個人の自由を標榜してきたらいてうが、結婚の国家管理を望むという矛盾であった。さらに「精神病、癩病(ハンセン病)、癲癇(てんかん)などの遺伝病患者の結婚も禁止する」ことを主張する。これらを遺伝病とするのは間違いであることは現在は明らかだ。「結核患者、花柳病患者、大酒家などの結婚を禁止する」ともいっている(「わが現行法上の婦人」)。
 らいてうは官僚の娘で山手の屋敷に何不自由なく育ち、御茶の水高女から日本女子大を出た当時のインテリ女性で、書くものはいつも上から目線である。「女工」にたいして「憐れむべき婦人」「無知なる彼女ら」といい、いっぽうで「女中」が払底して自分の知的生活が脅かされるといっている。つまりほかの女性のシャドウワークに頼って、自分は婦人解放運動をつづけたのである。とどのつまりナチスと同じく優生学に傾いて、「健全で優秀な兵隊」を作るための「産めよ、増やせよ」に加担することになった。
 これについては鈴木裕子氏らたくさんの批判があるが、らいてう研究家の米田佐代子氏はこれらを「告発型」だとして、らいてうを含む戦争経験者を「みせしめ」にするのではない「再生と共有型」の論議を望んでいる。しかし明治末期から婦人運動の指導者であった当の平塚らいてうがまったく戦前の発言に責任も感じず、それを不問にして戦後また婦人運動のリーダーになったことを考えるとき、これは日本の特殊ケースとしか思われない。やはりドイツのように、自らの誤りを自ら剔抉する努力の中で、らいてうもじゅうぶんに批判にさらされる必要があろう。それは戦後、清廉潔白な参議院議員として尊敬を集めた市川房枝にしても同じことである。
 山本宣治も花やしきという実家のすねをかじり、高校時代から家庭や子供を持つ、という恵まれた人であったが、カナダでの数年間は、「劣った人種」日本人として、差別され、排斥された経験を持っていた。女性解放家の被害者意識のみでなく、花柳病も貧乏人の子沢山も、男女ともが協力して解決せねばならない問題と考えていた。山宣を治安維持法に反対して殺された無産政党の議員というだけでなく、その背景となる「産児制限」に関する考えと活動においても見ておきたい。現在は少子化で、ぎゃくに「国力を上げるために子供を産む」ことが奨励されている。先日、福山雅治氏の結婚に際して、菅官房長官は「(子供を産んで)国家に貢献してくれることを望む」といい、雅子皇太子妃についてはいまなお「世継ぎの男子を産まない」ことで非難中傷がある。
 いっぽう収入の少ない、失業率も高い若い世代では、結婚したくてもできない人も多く、望まぬ妊娠に心と体を痛めるものも多い。
「性と出産の国家管理」について、山本宣治がどのように考えていたのか、次回もう少し踏み込んで述べていこう。

◆◆山宣、一人孤塁を守る

 山本宣治はもともと自分も体が弱く、宇治の花やしきの一人息子として育ち、花を育てるのが好きで、庭仕事のときはいつも朗らかに大きな声で賛美歌を歌っていたという。そんな心優しい青年がカナダで苦労して働き、日本に帰って人より十年くらい遅れて東京大学を出て生物学者になった。アカデミズムの中で純粋培養されたような研究者とちがい、人の涙も汗もよく知っていた。
 そんな山本がイモリの精子の研究から、「人生のための科学」に方向を変えたのは、彼自身が一九二〇年に腸チフスで死にかけたことと、翌年産まれた長女に先天的な四肢の欠損があったことが大きいだろう。プライバシーにはあまり触れたくはないのだが、山宣の思想を考える上で、これは避けて通れないことである。産婆はこの子を闇に葬ることを慫慂(しょうよう)したが、山本夫妻はこの子を慈しみ育てることを選んだ。

 宣治の従兄弟の安田徳太郎は「この事件を契機に山宣の前に新しい世界が展開されはじめた。悲しむことをやめよ、この世の中には自分よりもっと不幸な人間があるという認識が、山宣の不幸を転回せしめた。このとき以来山宣はすべての人に非常にやさしい人になった。極度に同情深い人になった」と語っている(佐々木敏二『山本宣治』)。
 宣治は男女の性のいとなみ、そこから子供が生まれるということ、先天的なものや後天的な気質についても人間として、生物学者として深く考えたのだろう。その中で性教育の必要を感じていた。性について何も知らないで結婚したり、夫が知識がないために遊廓や花柳界で性病に感染し、それをまた妻に移したりする悲劇はあとをたたなかった。また教育程度の低い貧しい家庭で、避妊の知識がなく、たくさん産んだが育てられないということも多かった。
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(『山峨女史家族制限法批判』表紙には「極秘」と書かれている。出典:『山本宣治写真集』汐文社)

 一九二二年のサンガー夫人の来日に合わせて頒布した『山峨(サンガー)女史家族制限法批判』の内容はサンガーの著作の完訳に山本が序文と批判・注をつけたものである。性交中絶(射精しない)、コンドームの利用、ペッサリーの利用、膣内挿入座薬などの具体的な避妊法の説明と、その効果について具体的に述べていた。最初、東京と京都の帝国大学の医学と経済学の教授に贈呈し、あとは印刷実費で医師や薬剤師に売った。労働組合運動の活動家であった三田村四郎と妻久津見房子が、労働者にこそこれを読ませたいと、山宣に乞うてその普及版を作り、数年のうちに五万部を普及した。
 その頃から宣治は一般雑誌にもたくさんの寄稿を始め、性教育の講演も行った。大学教授らの保身に失望し、もはや大学の中で研究をしている段階ではないと、無産大衆に望みを託した。
 宣治は大学の授業や講演会などで、当時の人々が悩んでいたさまざまな疑問に応えている。曰く、

処女性には価値があるのか? 「ない。男子の自分勝手な要求によるものである」

自涜(マスターベーション)は害悪か?
「或る期間これを行う事は害にならないのみならず、寧ろ必要な方法だ。自涜といわず、自慰と表現したい」

性交は繁殖のためだけのものであるべきか? 快楽としての性交を認めるべきか?
「結婚の唯一目的を産児と見るならば、如何にも種馬、種牛の掛け合わせ(になってしまう)」「人間である以上、恋愛の自由、結婚時の自由を主張し、性を楽しむのは当然である」

避妊、堕胎、間引き、子殺し、何が認められ、何が認められないのか? 「子殺し、間引きなどの悲劇を生まないためにも、堕胎で女性の体を傷つけないためにも、正しい避妊は必要である。精子と卵子の間に障壁を作れば良い」

 現在では常識となったこれらの性知識も、当時の時勢においてはたいへん進歩的なものだった。山本宣治は一九二三年、キンゼイ報告(アメリカの性科学者アルフレッド・キンゼイが行った人間の性行動に関する報告書)より二十四年も前に、男子学生を被験者に性行動の実態を把握しようとした。これによると早稲田、東大、同志社などの学生二十一歳の五百十七人のうち、性交体験者は約半数。その相手は年長者五十一%、既婚者四%、妻一・六%、娼婦三十二%である。相手の職業のうち女中十一・六%、女学生九・六%、看護婦四・一%。
 この数字を見る限り、当時の男性は結婚前に性病を持つ可能性は高かったといえるだろう。こうした中で山宣は「産児制限研究会」を組織する。
 京大の倫理学会、京都医師会などに続き、土田杏村の始めた信濃自由大学が飛び火した魚沼自由大学、賀川豊彦らが設立した大阪労働学校などを山宣は精力的に話して歩いた。見かけに寄らず雄弁で、京都の町っ子らしい諧謔に富み、ざっくばらんな話し方で聴衆に人気があった。残っている演説を見ると、比喩が上手であり、皮肉も利いている。
 一九二三年九月、関東大震災。東京周辺ではこの機に乗じたとしか思われない大杉栄や平澤計七ら、社会主義者、朝鮮人の虐殺が起こり、山宣も身の危険を感じ、しばらく「神妙に数学のおさらい」などをして過ごした。二十四年の一月からはまた大阪労働学校に出かけ、京都労働学校の校長にも就任した。宣治は自分が自営業者の息子で、プロレタリアートでないことを自覚していたが、階級的に転身しようとしてからは、決して後退しなかったし、泣き言もいわなかった。
「われわれの今日までの生い立ちは、今さら母の体内に逆戻りせぬ限り、根底より叩き直し難いのだから。むしろその弱点を素直に承認して、絶えずそれに陥らぬように努力する事を誓う方が我らとしてなすべき事であろう」(『性と社会』)。
 レーニンは、労働者それ自身ではなく、プチブルインテリゲンチアが練り上げた理論によって革命が起こる(外部注入論)としたが、山宣も知識人としての自分の役割に自覚的であった。
 四月、鳥取の水脈社主催の産児制限講習会で弁士中止をくらい、警官に壇上から引き摺り下ろされる。山宣はこれが原因で京大理学部講師を五月末にやめることになる。このことからも、当時の山宣の啓蒙活動が、いかに自分の研究者としての地位を危うくする先鋭的なものだったかがよく分かる。
 ちなみに鳥取では小作や日雇いの貧しい女性たちが堕胎手術を受けたかどで三ヶ月の求刑を請けていた。日本で堕胎(人工妊娠中絶)が公認されたのは戦後の優生保護法(1948)以来である。世界的にも、たとえば、カトリック教国フランスでは第二次世界大戦中、堕胎を手伝ったとしてノルマンディーの主婦マリーがギロチンで処刑されている(これは本にも書かれ、映画化もされた)。
 それからは建設者同盟、水平社、日農(日本農業組合)などの講演会に山宣、東奔西走の日々が続く。旅のさなかでも山宣は家族への手紙を欠かさなかった。「ハルコチャン、オテテワナオリマシタカ。おーい子どもたち、オルガンはちっとうまくなったかい、ABCDEF……英習字を勉強せよ」(九月十六日付)。
 宣治の子供は五人、上から三人は男の子、下二人は女の子である。先に述べたように長女治子が生まれつき、手や足に欠損という障害を持っていることに、山宣はたいへん心を痛めていた。宣治は千代が妊娠中に腸チフスにかかった自分を看病したことに原因があるのではないかと思い、苦しんだ。
 山宣が優生学の近傍にありながらも、平塚らいてうのように上から目線の「性と出産の国家管理」にもとらわれず、ナチスのような障害者排除へも向かわなかったのにはこうした背景がある。産児制限は彼にとってあくまで無産階級の生活防衛闘争であり、「産む、産まないは自分で決める」という市民的自由の獲得運動であり、労働運動を広げるのに役に立った。いっぽうで、「避妊は国力を弱める」という批判にさらされ続けた。
 一九二五年二月には雑誌『産児調節評論』を発行。これは九号から『性と社会』と改題したが一年とは続かなかった。
 一九二六年は大正の末年である。この年一月、京都学連事件のため、河上肇とともに警察の家宅捜索を受けた。これは軍事教練に反対し、無産者の教育活動の中心となっていた京大社会科学研究会などの学生たち三十七名を当局が出版法違反・不敬罪で一斉検挙した事件である。日本内地では最初の治安維持法適用事件であった。「国体を変革しおよび私有財産を否定せんとする結社や運動」を禁止する法律で、前年の三月に成立していた。学連事件の被告人に岩田義道、野呂栄太郎、鈴木安蔵、石田英一郎などがいる。
 このとき宣治の妻・千代が抱きかかえてわたさなかった小箱があるという。これは山宣が研究用に集めたコンドームが入っていた。この事件がきっかけで山宣は同志社大学の職も失うこととなる。共に家宅捜索された河上肇は京都大学教授で『貧乏物語』を書き、『資本論』の翻訳もしており、彼もやがて京大の職を辞すにいたる。宣治の運動は、産児制限から始まって、小作争議の指導、入会権の擁護、議会解散請願などに広がっていき、労農党の中心的理論家として、ついに一九二七年一月三十一日、山本宣治は衆議院京都一区予定候補となる。また共産党の合法機関誌『インタナショナル』の発行兼印刷人となった。この頃から山本宣治は親しみを込めて「山宣」と呼ばれるようになる。
 五月には衆院京都第五区の補欠選挙に立候補するが、489票で落選した。この選挙は投票が売買されるなどの不正があったとされる。もちろん女性は参政権を持っていないし、男子も納税額三円以上の資格制限選挙である。
 この年八月、宣治を支えた父亀松が老人性肝硬変で亡くなった。政治仲間が花やしきの芝生で労働歌などを歌うと、「商売に差し支える」とたしなめた。花やしきに金を落とすな、という会社や官庁の経済封鎖に耐え、息子を支持した父である。宣治は花やしきを継ぐことを述べ、「先代の偏屈にシンニュウをかけた変人」だが「なにとぞご了承とお許しを願う」、という挨拶状を出している。
 十二月には労農党の京都府執行委員長に選ばれた。しかしこの頃、左肺湿潤のために喀血している。もとより強健な体ではなかった。
 一九二八年一月、第一回普通選挙に京都第二区から立候補、14,411票で当選した。病躯をおしてのたいへんな選挙であったが、日本で初めての普通選挙で、労働者や農民、学生も投票権を持っていたからこその勝利であった。社会民主党の安部磯雄、革新党大竹貫一、京都では労農党の水谷長三郎と山本宣治、大阪で社会民主党の鈴木文治と西尾末広、兵庫で日本労農党の河上丈太郎、福岡で九州民権党の浅原健三、社会民主党の亀井貫一郎などが通った。
 しかし、民間団体建国会や国粋会は常に彼らに辞職を勧告し、官憲は山宣の選挙事務局長の半谷玉三を共産党との関係で検挙し、山宣をも演説会場から検束するなど、あらゆるいやがらせをやめなかった。
 このあと、いわゆる三・一五の弾圧事件(共産主義者の一斉検挙事件)が起こる。これは普通選挙によって山宣ら無産政党の議員が誕生したこと、共産党が『赤旗』を創刊し、徳田球一や山本懸蔵らを労農党から立候補させたことに、当局が不安と恐怖を感じたからであった。四月、労農党、評議会、無産青年同盟などに解散命令が出される。水谷長三郎らは合法無産政党「労農大衆党」を、山本宣治らは大山郁夫や細迫兼光らと「政治的自由獲得同盟」を作って戦った。
 七月、無理がたたって座骨神経痛になった山宣は病気治療のため信州の上林温泉に行き、ニコライの『戦争の生物学』下巻の翻訳を始めた。上林温泉はのちに林芙美子が疎開してくる温泉である。
 病が癒えた山宣は三・一五弾圧の救援活動に奔走、同時に官憲の弾圧を糾弾する。十一月から十二月には東北や北海道を遊説して歩いた。十一に、昭和天皇の即位式には燕尾服をきて参列。「無産党代議士こそは、毛嫌いせずに支配階級のやることは何でも見物しておかねばならぬ」と言い切った。

 山本宣治最後の年。昭和四年である。
 この年も初めから忙しかった。一月十四日、全国農民団体第八回会議に出席、その後、日農が強いため弾圧も厳しかった「香川奪還闘争」(香川の農民の救援運動)の代表として遊説して歩いた。
「第56議会に際して」という文章を「労働農民新聞」によせた。当時の田中義一内閣は、山東省での日本の権益確保を目的に中国に派兵していた(山東出兵)。第56議会では年度予算の大半を軍事費に充て、治安維持法をさらに強化する「改正」も審議されようとしていた。山宣は「帝国主義戦争反対」をスローガンにこれと闘う覚悟だった。その頃の山宣の気持ちをよく伝える文章が残されている。「帝大新聞」に掲載された「議会の一角より若き友へ」がそれである。
「試験管と顕微鏡を相手にしていた私が、どうした運命の戯れか、六法全書のお化けみたいな連中のただ中に、七・八年後、私自身を発見した。バイロンの言い草ではないが、一朝、私はめざめた。そして私は××(ママ)党正統系の唯一議員として反動の十字架の中心にいたのだ」
 生物学者がいつの間にか社会運動の先頭に立っている。「どうした運命の戯れか」という述懐は、山宣の正直な気持ちだと思う。売れない詩人バイロンが、『チャイルド・ハロルドの巡礼』によって突然売れっ子になったことを「ある朝めざめたら、有名になっていた」といったように、山宣も「ある朝めざめたら」いつの間にか政治のまっただ中にいる自分を発見したのだった。政治的には無欲であった山宣が議員になったのは、その人柄や学識への個人的人気と時代の要請であったといってよい。
 二月八日、衆議院予備委員会で、三・一五弾圧の「不法検束、不法拘留、拷問」について質問を行う。鋭い追求だった。「この社会の九十七%を占める無産階級の政治的自由を獲得するために、その裏にはこのような犠牲と血と生命までを尽くしている」といった山宣の最後の質問はあたかも彼自身を予言するようであった。
 それから運命の三月五日までの一ヶ月、山宣はたいへんな勢いで全国を駆け巡った。東京市議会議員選挙の応援、三月一日、長野県上小農民組合第二大会で講演、三月三日、京都福知山で講演、三月四日全国農民組合全国大会で挨拶したが、途中で弁士中止を命ぜられる。
「われわれの戦闘は日に日に激しくなり、今までわれわれの味方として左翼的言辞を弄していた人まで日に日に退却し、われわれの頼りになると思っていた人まで運動から没落して行った。(……)明日は死刑法治安維持法が上程される。私はその反対のために今夜東上する。反対演説をやるつもりだが質問打ち切りのためやれなくなるだろう。実に今や階級的立場を守るものは唯一人だ。だが僕は淋しくない。山宣一人孤塁を守る。しかし背後には多数の同士が……(ここで弁士中止)」。
 三月五日、山宣は衆議院で治安維持法に反対して演説する予定であった。これは予想通り討論打ち切りとなり、発言の機会を与えられず、最高刑を死刑とまでする改悪は論議もないままに承認されてしまった。
 山宣は夜東京市議会議員候補、中村高一の応援演説をすませ、神田錦町の光栄館につかれきってもどった。ここは無産政党に好意ある主人がいて定宿にしていた。午後九時半、風呂に入り、食事をとろうとしたところへ、黒田保久二なる男が面会を乞うた。労働者と名乗りむりやり二階の部屋にあがりこんだ右翼団体「七生義団」のこの男は、いきなり山宣の心臓に刃物を突き刺した。頸動脈を切った。二人は二階から組んずほぐれず階段を転げおち、階下に達したとき、山宣はすでに絶命していた。二日前、京都を出るときに「今度は殺されるかもしれない」と長男にいっている。なぜ仲間は山宣を一人帰したのか、山宣はなぜ黒田を部屋にあげたのか。誰も阻止できなかったのか? 悔やんであまりあることである。犯人は間もなく自首した。

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(プロレタリア芸術同盟の作家・鈴木賢二制作による山宣のデスマスク。『山本宣治写真集』汐文社)

 旅館の主人の通報を受け、労農党委員長・大山郁夫らが旅館に駆けつけた。母多年には夜二十二時頃、新聞社からの電話があった。多年は相談してデスマスクを取るように、遺骸は赤旗で包んでほしいと電話で連絡した。翌六日の新聞は警察の発表を鵜呑みにして、凶行時、山宣はビールを飲んでいたとか、二十分くらい黒田と口論したとか、山宣がつかみかかったので黒田は正当防衛から刺したとか、書いてあった。これはまったくのでっち上げである。しかし議会開会中に代議士が刺殺されるとは。無所属議員として山宣と同じ会派にいた尾崎行雄は宣治の死を「立憲制度ののどに白刃を擬するもの」と国会で弔辞を述べた。さすがに憲政の神様といわれた長老である。
 五日、六日と通夜が行われ、遺体は東京大学医学部に運ばれて、司法解剖をされた。山宣の脳は漱石の1600gを超え1750gもあって重かったという。重さと頭脳の優秀さの相関関係があるのかどうかは分からないが。
 解剖を終えた遺体は棺に納められ、本郷の赤門を出た。タカクラ・テルや水谷長三郎が担いだが、私が花やしきの蔵で見た大月源二の絵では水谷は描かれていない。彼は弁護士でもあるのに三・一五の弾圧の被害者たちを弁護せず、反共の立場から治安維持法についても山宣と袂を分かったから画家は描かなかったのである。
 三月七日夜、棺は母多年の希望通り赤旗に包まれ、帝大基督教青年会館講堂にて、通夜が行われた。基督教青年館は今もビルの中に存在する。ここで吉野作造が大正デモクラシーの記念碑的論文を書き、戦後は木下順二や森有正が住んだ場所である。河上肇の弔辞は二分で弁士中止と遮られた。

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(本郷通りをゆく棺の列。『山本宣治写真集』汐文社)

 三月八日、本郷通りをゆく棺の列を写した写真がある。本郷三丁目近くの本郷仏教青年開館で告別式が行われた。葬儀委員長には大山郁夫、河上肇などがいて、親族の男性たちも上京し、当日の警備は物々しかった。
 三月九日、荼毘(だび)に付された山宣の骨を宇治で迎えたとき、母多年と妻千代は涙を見せなかった。山宣の信念とやがて白色テロに倒れるかもしれないという覚悟を二人とも持っていたからである。宇治駅前には千五百人を超す人々が集まった。三月十五日には東京の青山斎場と京都の三条会館で、前年台湾の基隆(キールン)で殺された渡辺政之輔との合同労農葬が行われた。しかし葬列は許されず、挨拶も弔辞も弁士中止で阻まれ、参加者の検束も行われた。この葬式は多年の出費により、プロキノの技術者によって撮影され、今も残っているという。

山本宣治の墓の裏に刻まれた墓碑銘(出典:『山本宣治写真集』汐文社より)
墓裏に刻まれた碑文(出典:『山本宣治写真集』汐文社)
 その後も難は続いた。山宣の墓を建てようとして、背面に大山郁夫が山宣の最後の演説から取って書いた「山宣ひとり孤塁を守る、だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」という碑文が掘られていたために、これを塗りつぶせという再三の警察の申し入れがあった。結局、墓は「山本家の墓」と刻まれることになり、碑文はセメントで塗りつぶされた。そのセメントは人々によって何度もはぎとられ、また何度も塗りつぶされる、という繰り返しだったという。
 翌昭和五年には三・一五に続き、四・一六大弾圧(日本共産党とその周辺の人々が治安維持法違反で一斉に検挙された事件)が行われ、民衆の運動は息を止められていく。昭和七年、大山郁夫も亡命せざるを得なくなった。
 こんな中、母多年は息子の意志を受け継ぎ、谷口善太郎など同志の生活を援助し、花やしきは彼らの拠点となっていた。戦後、日本の政治は軍国主義から民主主義に何の反省もないまま、いともたやすく転換した。昭和二十一年九月、多年は七十八歳で共産党に入党、九十六歳までを山宣の母として生き抜いた。母はこのように詠んだ。

  かくあれば かくなることと知りながら   ついにゆきにし 君をしぞ思う

 山宣の子供たちもそれぞれに父を理解している。次男で医者となった浩治は「パパは音楽が実に好きだった」として、アメリカ製の蓄音機が家に来たとき「これはみんなのものだ。さあ集まって音を聞こう」と喜んだ姿を回想集に描いている。
 千代の兄浜田家の養子となった三男繁治は、中国電力の会社員となったが労働組合運動にも参加した。「山宣の子供であることは、常に心のベースであり、どんな場合にも社会正義と弱者への味方という立脚点は保持したつもりでおります」
 長女の治子は祖母多年が宣治について「あれだけの人」といったのを記憶している。「『宣治はまだまだしたいことがあったのに、あれだけになってしまった。されてしまった』という、自嘲、痛恨、母親らしい後悔の少し籠もった言葉だろうか」と書いている。次女の美代は三月三日の朝、家族で最後の朝ご飯のとき、父の膝に乗って議員章を「みいちゃんに頂戴」といったことを歌っている。

  議員章欲しとねだりて困らせし ことを最後に父と別れぬ。
  スナップ写真に 残るおもかげことごとく
  微笑せる父少し反っ歯にて

 美代は母千代のえくぼが魅力的で、お客にティポットに入れた紅茶を入れ「レモンにしまひょか、それともミルクどすか」というもてなし上手だったことも述べている。

  父の才も 母のえくぼもうけつがず ひとりの女五十をすぎぬ

 さて殺人犯の黒田は元巡査、自首して「殺す気はなかった」と正当防衛を主張し、裁判は異例の早さで十二年の懲役が確定した。しかし六年ほどで出所、満洲の特務機関で働き、戦後精神病院で生涯を終えた。彼は死を前に「えらい人から頼まれた。成功すれば報酬といい身分を約束されたのに、戦後は門前払いを食った」といい残している。「特攻上がりで戦後代議士になった」という彼の話から、山宣暗殺を使嗾(しそう)したえらい人とは大久保留次郎ではないかと推測されている(本庄豊『テロルの時代』)。

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(子供の髪を散発する山宣の様子。『山本宣治写真集』汐文社より)

 家族と写した写真はとても楽しそうに笑っている。子供と一緒にピクニックをしたり、子供の髪を割烹着を着て刈り上げたりしている山宣。そこには家父長的な夫の姿はなく、妻として対等に遇され、愛された千代もまた幸福な姿を残した。当時としては希有な家庭ではなかったろうか。短くとも幸福な家族生活。写真を見ると少し心が慰められる。
 彼の生涯をたどるとき、思想や運動の自由がどのように息の根を止められていくのか、その手口がよく分かる。憲法改正に先がけ緊急事態特別法が目論まれている現在の状況にも示唆に富む。そして山宣のような政治家は今いるか?
 政治的には無欲なのに、時代の中で政治家に押し出され、専門用語を声高にしゃべらずいつも大衆の分かる比喩を用い、反共ではないが共産党のいうがままに動かず、過激に跳ね上がらず、しかし原則的で妥協せず、常に弱いものの味方であった山本宣治。
 私が信州の別所温泉で遭遇した山宣の碑には次のように記されていた。

 VITA BREVIS, SCIENTIA LONGA(人生は短く、科学は長い)

 山宣の座右の銘だった。やっぱり伯母が惚れるような「いい男」である。

森まゆみ=暗い時代の人びと
http://www.akishobo.com/akichi/mori/v5

暗い時代の人々
07竹久夢二(上) 社会主義から出発した大正の歌麿
06山本宣治(下) 山宣、一人孤塁を守る。
05山本宣治(上) 人生は短く、科学は長い。
04山川菊栄(下) 戦時中、鶉の卵を売って節は売らず。
03山川菊栄(上) 超然とした眼鏡の理論家
02斎藤隆夫(下) 政治史上、不朽の反軍演説
01斎藤隆夫(上) リベラルな保守主義者
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森まゆみ(もり・まゆみ)
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1954年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学新聞研究所修了。作家・編集者。出版社勤務ののち、1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊。2009年の終刊まで編集人を務める。主な著書に『鴎外の坂』『昭和文芸史』(中公文庫)、『「青鞜」の冒険』(平凡社)、『千駄木の漱石』(筑摩書房)、『帝都の事件を歩く』(中島岳志との共著、亜紀書房)などがある。


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