弘憲寺 心の講話

香川県高松市の、高野山真言宗のお寺・弘憲寺のブログです。

こころのはなし(第300回)

密教の座禅を()()観法(かんぽう)といいます。座禅というと禅宗の座禅を思い浮かべる方が多いと思います。

 坐禅の始まりはお釈迦さまが、苦行によっては覚りを得られず、()(れん)(ぜん)()沐浴(もくよく)をしたのち、菩提樹の下で静かに瞑想にはいられました。その時のお姿が、坐禅の基本になりました。足を組んで結跏趺(けっかふ)()して下腹(かふく)のところに両手を組んで、法界(ほうかい)定印(じょういん)という印を組みます。この印は何を表しているかというと、宇宙の形を表しています。

 仏像彫刻家であった故西村公朝仏師は次のように説明をされています。仏像の声(形・心と教え 佼成出版)

 「ここで問題になるのは、宇宙の形というのは我々には見えないのに、どうして形に表せるのかということです。そもそも宇宙の形は宇宙から飛び出し、外から眺めて初めて全体の形が見えるのであって、宇宙の中に包まれているわれわれには見えるはずがないのです。(中略)

 たとえば、お母さんの胎内にいる赤ちゃんと母胎との関係で説明できます。胎児にはお母さんの姿は見えません。それはお母さんのお腹の中にいるからです。ところが、その胎児にとっては、見えるか見えないかという問題以前に、自らのいのちは、お母さんの生命力に任せねばならない。だから見えないが、お母さんの力に任せ、生命力に任せるしかない・・・こう考えていきますと、私たちは自然の姿全体は見えないが、その中に包まれているという現実からすると。自然の生命力に任せて生きなければならないのです。さらに自分も母親も、それらを包む自然も、大きな宇宙という大きな母胎に包まれているんだということになります。このように、宇宙も仏も、見えるか見えないかという問題以前に、実感せざるを得ないということになる。というのです。

たとえば、ヒマラヤのような、世界最高峰の山に登り、頂上に坐って空を見上げたとすると、自分の周囲は全部空になります。その空の中から外に飛び出して、この宇宙の全景を想像してみたときの形が、この法界定印の形になっているという考え方です」。

 また、山の頂上で満天の星空を見たときいかにも宇宙の中心に自分がいるように感じます。これが法界定印を結ぶ理由です。真言宗の座禅阿字観法は、宇宙と自らが融合し、一体になった時に宇宙に包まれ、宇宙に生かされている自分を認識する座禅なのです。

 

さて、この心の話のシリーズは、915日で300回になりました。 記憶をたどりましと、平成2年からホームページを立ち上げ、心の講話を始めました。毎月1日と15日の2回の出筆です。時にはうっかり忘れ、2,3日遅れることもありました。物事は何でも継続するということは大変です。途中で何回も止めようとしたことがございます。何時辞めようか、何時辞めようかと挫折しそうになりました。丁度今回で300回という区切りですので、

一度この辺でお休みして、また英気を養い出直そうと思います。

今まで熱心にご愛読いただいた皆様に厚く御礼を申し上げます。

有難うございました。

こころのはなし(第299回)

 

私の手元に一冊の詩集があります。著者は岡部 (あけ)()さん詩集のタイトルは気づきのノート・戻っておいで私の元気!です。36歳の時、脳腫瘍を発病し死に直面しました。一命をとりとめたあと、再発防止と後遺症の右手の麻痺を治すために東洋医学、心身医学、食事療法、芸術療法・心理療法、運動療法などを体験する中で生き方を見直すきっかけをつかむ。健康を取り戻した後、現在は、癒しときずきのワークショップ「リトリート」を主宰し、半断食の合宿、がん患者さんをはじめとする慢性病の方々を対象とした自然治癒力を高めるワークショプなどを開催しています。

そのお岡部さんの詩集に「気」があります。紹介してみましょう。

 

「気」

「気」は生命のエネルギー。このエネルギーは心のありようと深くかかわっている。 

気に病むこと、気が滅入ること、気が重くなること、気がかりになることが多いと、気という生命エネルギーの力が弱まり、病気にかかりやすくなる。

 でも、人は誰でも「自然治癒力(ちゆりょく)」という、自分で自分の病気を治す力、癒す力を持っているので、心のありようを変えることで、からだに起きている異常事態を回復させることだってできる。

 たとえば、気分がさわやかになるところに行ってみたり、気持ちのいい時間を過ごしたり、気が楽になる人と話したり、気が晴れることをしてみたり。

 自分が心地いいと思うこと、たのしいこと、すきなことをしていると自分の内側から元気が湧いてきて、生命エネルギーがたかまってくる。

 でも、一番元気になるのは、愛のエネルギー。愛する人の存在。

自分を愛してくれる人の存在。愛はすべてを癒し、奇跡を起こすいのちの根源的なエネルギー。

 

岡部 (あけ)()さんは脳腫瘍を発病し死に直面して、今までの自分の生き方を見つめ、病気による悩み苦しみを経験して、その病気によって導かれ、この詩にあるように、心のありようを変えることで、体に起きている異常事態を回復させたのです

 

心のありようとはこころの在り方です。心の働きはその場その場でころころと変わりますから、しっかりと心を定めて自身の生き方を定めることが大切です。では何を基準として心を定めるのか、それは智慧(心理)によって心を定めるのです。智慧とは「教え」ということです。その教えは遠くにあるのではなく、それは心の中にあってごく近いものです。要するに幸せは遠くにあるのではなくあなたの心の中にあるのです。

 

あるお寺の電話が鳴りました。住職は急ぎ受話器を手にしたご住職の耳に、穏やかな男性の声が聞こえてきました。

「ご住職ですか。こんな夜遅く電話して申し訳ございません。どうしても今日中にお礼を言っておきたかたのです。お許しください」

 思わず住職が問いかけました。

「どなたさまですか?お檀家の方ですか?私、何かお礼を言われるようなことをしましたか?」

男性がことえました。

「私は檀家でもありませんし、ご住職にお会いしたこともありません。ただ、お寺の前を通り過ぎようとした男です」

「ええっ、そんな方がなぜわたしにお礼を?」

男性が話し始めました。

「私は・・・私は今朝、刑務所を出所した人間です。詳しくは言えませんが、罪を犯して二年間刑務所に服役していました。

その間妻から離婚を追られ判を押しました。二人の子供の親権も妻に渡り、私の家族は居なくなったのです。

 でも私は、ほんの少しの希望をもっていました。出所して真人間になり、一心に働く姿を子供たちに見せることが出来れば、家族は帰ってきてくれると・・・。妻に今日出所することと、一度きりになってもいいから子供の姿を見せてほしいと手紙を書いて頼みました。返事は来ませんでした。返事が来なかっただけで、ひょっとしたら会いに来てくれるのではないかと祈るような思いで、夕暮れまで刑務所の前で待ちましたが、やはり来てくれませんでした。

 日暮れとともに、私の心の中にあった希望は消えてしまったのです。そしてもう死ぬしかないと思い、当てもなく歩いていたら、このお寺の前に立っていた掲示板が目に留まりました。」

この掲示板にはこう書いてあります。「教えははるか遠くにあるわけではない。それは心の中にあって、ごく近いものだ。教えは外にあるのではない。自分の身以外のどこに求めようというのか」

「この言葉を読んでハッとしました。人生の主人公は自分です。どんなことがあっても、私の人生は私のもの、他人に代わってもらえない。幸福だろうが不幸だろうが私の人生・・・よし頑張って真実更正しよう。これから道をたがわず生きていこうと思います。有難うございます。」電話の声は消えました。

 おしっこをしたくなった。でもあなたが代わりに行ってきてといってもそれはできない。人生も同じです。自分の人生は誰にも変わってもらうことが出来ません。幸せの種子はあなたの心にあるのです。

 

こころのはなし(第298回)

 8月9日・10日は町内にある日和山神社の夏祭りでした。祭り前に神社の役員の方が、子供のいる家庭に金魚すくいの券を事前配布してくださいました。わが家では孫が5人いますので一人3枚ずつ、15枚の金魚すくいの券を頂きました。孫たちは夕方になると母親に連れられて神社に参拝に行きます。

 私は孫たちに「金魚を持ち帰ってもすぐ死ぬので掬うだけにして金魚を持ち帰らないように」と声を掛けましたが、帰ってくるとみな小さなナイロンの袋に金魚を入れて持ち帰ってきました。


 「おじいちゃん、早く水槽を出して」と口々に言いますが、金魚の水槽などは持ち合わせていません。急遽ポリエステルの箱を出して水を張り、金魚を放してあげました。毎度のことですが孫は金魚を持ち帰るだけで、金魚の世話を一切しません。いつもお爺さんの役目です。金魚飼育用の酸素を送るポンプもありませんから一匹、一匹と死んでいきます。そのことが嫌で私は金魚を持ち帰るなというのですが、家内は「孫たちが折角楽しみにしているのに」と言って孫たちの味方に付きます。


 生き物を飼うとはいつかは別れなければならない時が来ます。そのことがあるからお寺では猫や犬も飼っていません。金魚も同じことです。

 お釈迦さまが持戒といってしてはならないとお決めになった五戒があります。五戒とは五つの戒(いましめ)です。この戒めを守り身を慎んでいきなさいよ、ということです。五戒とは1、生き物を殺さない2、盗むなかれ3、みだらな性交渉をしない4、うそをついてはいけない5、お酒を飲んではいけない。

どの戒を見ても守れそうもない戒です。たとえば酒を飲むなといっても守ることはできそうにもありません。殺すなといってもハエや蚊やゴキブリは殺しているし、肉や魚も食べています。ある意味では人間は戒を破らなくては生きていけない弱い存在だといえます。自分が弱いということは他人も同じように弱さを持った存在だともいえます。私たちは、このことを自覚して他人の罪を許せるようになりたいものです。


 仏教の行事に旧暦の8月15日に捕らえた魚介・鳥・動物を殺さないで、池・河・山林に放つ法事がありました。これを放生会(ほうしょうえ)といい、インドでは釈尊在世の時から行われていたと伝えられています。日本では飛鳥時代ごろから始められ、神仏混淆の時代では神事でありました。この放生会の行事は仏教の慈悲行の一つとして行っていました。現在この放生会を行っている寺院はごくわずかだと思いますが、生きものを池や川に、また山林に放つことによって生きものに対しての(いつく)しみのこころを育てたいと思います。


 

 

 

 

 

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