2010年12月25日

戦争は終わっていない


『沖縄の事』



先日から管総理大臣(以下管さん)が沖縄県知事と、米軍基地移転の件で会話する情景や、基地の県内移設に反対する談話がよく報道されている。

北朝鮮が韓国の領土である大延坪島(テヨンピョンド)にいきなり砲撃をしかけた事件で、朝鮮戦争は終わっていなかった言う報道を耳にしたが、よく考えて見ると大東亜戦争もまだ完全終結していないのだと思われる。

沖縄が日本に返還されて40年近くになるが、本当に沖縄の人たちは沖縄が本土に復帰したと思っているのだろうか?



私は今まで沖縄に一度も行く機会が無かったのだが、確かに車の右側通行が左側通行になったり、ビザやパスポートが無くても沖縄に行ける様にはなったけれど、実際問題米軍基地が沖縄にあり、沖縄県民のみならず、多くの日本人が日本に米軍基地はいらないと思っている限り、実際は米軍の進駐が終わったと思うのはあまりにもおめでたい話だと思う。



従って沖縄の人々もその事を考えて見て欲しいと思う。

例えば日米地位協定などは最も判りやすい事例だと言えるだろう。

少なくとも独立した国家なら、こんな不公平な取り決めを受け入れられるはずが無い。



 



『日本のは真の独立国家か』



翻って考えると、沖縄のみならず日本全体が米国の大きな影響下にある限り、実質的な終戦では無く、いまでも部分的な統治が続いていると考えるべきだろう。



もし「それは違う」と言う意見があれば、それは本当におめでたい考えだと思う。



政党によっては米軍基地不要論を言うところもあるが、しかし軍備の拡充には反対している。

これも大いなる矛盾であろう。



与党にも元々一部には中国やソ連を祖国と崇めていた人たちもいるのだから仕方が無いが、売国奴どもが政権を握るとはいやはや何とも情けない話である。



今は米国の国力が落ちてきている。

だから輩の隣国は尖閣諸島周辺をうろつき、哨戒艇に体当たりする。

日本だけでなく、韓国もやられてしまったし、また韓国も弱腰な対応しかできなかった。



また輩の配下のチンピラ国は、隣国にいきなり砲弾をぶち込み、核の力をひけらかす。

まさにヤクザの世界で言う跳ね返りの鉄砲玉である。



韓国も日本も核を持っていない、従って米の核の傘の下にいる訳だが、この傘がだんだんとすぼんで来ているから、狙われるのである。



果たしてこんな状態で日本が真の独立国家と言えるのであろうか。

そう思っている人がいるとすれば余程おめでたいとしか言いようがない。



『日本の独立を目指して』



それでは日本が真の独立を得るにはどうすれば良いのだろうか。

物理的には軍備の拡充であり、核の保有である。

この核の保有と言うのは一見時代の流れに逆行するようではある。

米と露は新戦略兵器削減条約を批准しようとしているが、これはすでに核を保有している国だからそうするのであって、近隣に輩どもが強力な武器を持って狙っているのに、丸腰に近い状態で能天気に平和ボケしている国はもっと強くなる事を考えるべきだろう。



この時期に自衛隊員の人員を削減するような話が出ているが、これもとんでもない話であって、無駄な国会議員や地方議員に役人達の首を切ってでも国を守れる人間を増やすべきだろう。



仕事が無くて困っている人々の中から国を憂える志ある人が生活できてなおかつ国防の為に働けるように、もっと自衛隊の間口を広げる必要があろう。

最近は少し大人しくなったようだが、肝心な時に右翼を名乗る人たちがお国の為に働けるようにも自衛隊の間口を広げ、いざ戦争となった時には真っ先に戦地に行って活躍できるように計らうべきではないか。



いずれは自衛隊から国軍として格上げされるように徴兵制度の準備も急務であるし、多くの若者が兵役に耐えられるような体力づくりや国防教育は早期から始める必要もあるだろうし、国を守るのは自国民でしかないと言う自覚を持たせる教育も始めなければならない。

勿論、核を持つ事が平和につながると言う非常にシンプルな理屈も理解する必要があるだろう。



これを軍国主義と批判する人たちもいるだろうが、その人たちでも自分自身や、自分の身内が攻め込んできた隣国の輩達に殺されたり凌辱されたり、奴隷にされる事は多分望んでいないだろう。



真の独立や平和と言うものは、指を咥えて待っていてもやって来るものではない。

日本自身が大東亜戦争を完全に終結させ、自主独立を得る為には、自分たちが充分に努力をする以外には無いのである。



 



 



 



 



2010年02月17日

すっきりしない事ばかり


≪すっきりしない事ばかり≫



気がつけばもう2月も半ばを過ぎてしまった。

このブログも年末から止まったままだし、他のブログも同様である。



正確に言うと、書きかけては辞めていたと言うのが正しいかも知れない。



何故かと言うと、世の中すっきりしない事が多すぎるからだと思う。



出来れば不愉快な事や腹立たしい事は書きたくない。



しかし今世の中で起こっている事に少しでも触れようとしたら、そう言う事に触れない訳にはいかないのである。



ちょっと考えて見ると、民主党の小沢氏や鳩山氏の金の問題だってすっきりしない、なんだか国民を舐めているようだし、我々には直接関係ないが、朝青竜の引退問題だって本当にすっきりしない。

どうやら殴った相手がかなりややこしい人種だったそうで、事実と報道されている事にはかなりのギャップがあるらしい。



考え方によると、朝青竜がハワイにいるのも第三者による事態収拾期間中の一時退避なのかも知れない。



今回の冬季五輪だって、スノボの生意気な坊主が日本の恥を世界にさらしたと言うのに、何となくうやむやで終わりそうである。



本来なら出場を辞めさせてきついお灸をすえるのには絶好の機会だったのに、何故だか文科大臣まであやふやな態度と発言ですっきりしないのである。

まさに国の威厳を示す良い機会だと思ったのだが、でも考えて見ると服装はきっちりしていても中身の伴わない政治家が意見をしても説得力もないだろうから、それに気がついて大臣は態度を変えたのかも知れない。

テレビで服装は好みの問題だと言ったアホな自民党の代議士もいたが、ええ年した爺さんが坊主に媚びてどうするんだと思う。

だらしない物はだらしない、まして国を代表するのだから、本人の意向に関わらず問答無用で出場停止にして、坊主本人にだらしない標本のレッテルを貼ってやる事こそ真の教育だろう。

同世代のいかれた坊主どもへの機会教育の機会を逃したのである。

だらしない坊主の事より大人の態度がすっきりしないのである。



この際だからもっと国際的な話題に触れると、いつの間にか世界一の自動車メーカーになったトヨタが世界中に恥をさらした問題が挙げられる。



あれは米国の普天間の復讐の為の見せしめだと言う説もあるようだが、やはり根本はトヨタの金儲け第一主義から来た安易な車づくりの結果だと言えるだろう。

考えて見ればトヨタの車には個性がないと言われるが、とりあえず外見が違うだけで、中身は殆ど同じ車を名前を変えて売っているのだから、車づくりの姿勢がどうなのかは言わずもがなである。



品質や安全性は二の次で、先ず売る事を優先するとああ言った不良品が量産されてくると言う良い事例であろう。

特にプリウスなどはハイブリッドを良い事に車両価格が異常に高い。

あれだけ量産されているのだからもっと下がって当たり前だと思うのだが、やはり販売価格で標的購買層に訴えると言う姑息なマーケティングとやらの手口なのだろう。

このトヨタの問題は初期の対応から現在に至るまで全てがすっきりしない事だらけである。



昭和45年に「何から何までこの世は闇よ、筋の通らぬ事ばかり右を向いても左を見ても莫迦と阿呆のからみあい・・・」と言う歌がはやったが、この世は闇とまでは言わないけれど、まさに「すっきりしない事ばかり・・・以下同文」と言った感じがする今日この頃である。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



また事件発覚後の対応がこれまたすっきりしない。



 



 





 



2009年12月03日

50を過ぎると:パート?


≪医療人のボケ≫



少し前のブログにボケに関する私論を書いたが、またまたこれを強く感じる事があったのでまた触れて見る事にした。



今度の対象は医療関係者の知人の事である。

一口に医療と言っても範囲は広いが、内科などと違って技術的な要素が強い分野の医療人の事である。



医療技術と言うのは実に日進月歩で、少し勉強を怠ると時代遅れになる事がある。

その点私の専門とする東洋医学の世界、特に鍼や灸などでは、何千年などと言われるくらい古い歴史があるから、10年や20年たっても一旦身に付けた技術が陳腐化すると言う事は先ずあり得ない。

かと言って自分の技術の低下は自分で防ぐしかないのであるが・・・。



しかしさらにもう一つの専門である加圧トレーニングなどは、公開されてから新しいだけに、どんどんと今まで判らなかった事が判って来るので、ちょっとサボっていると技術が陳腐化する可能性がある。



いずれにしても陳腐化した情報や技術にすがって金を稼ぐ医療人と言うのは、見ていて見苦しいものがある。

何でも最先端が良いとは言わないが、患者に最良の医療を提供しようと思えばやはり自分が常に新しい情報を吸収し、変わりゆく価値観や求められるニーズを把握する事が大切である。



若いころはそれなりに向学心や探究心があり、古い同業者の技術を批判していたような先生が、これも50半ばを過ぎるといつの間にか自分がかつて批判していた様な存在になっている。



特に開業して何十年かたち、それなりに固定した患者さんがついていると、収入もあり安定もしているので慢心する先生や、あるいはまるで守銭奴になったかの様に金に執着する先生もいる。



技術は古いは、頭は硬くて人の話は聞けないは、自分の持っている情報と技術と価値観に固執してそれを押し通そうとするはでは話にならない。



距離を置いて見ると、何故だか哀れに見えてくる。



たまたま50代と言ったが、こう言う現象が出て来るとそれは40代でも30代でも私はこれを『医療人のボケ』だと定義する事にした。



 



≪ボケた医者にはかかるな≫



そこで一つの結論なのだが、内科だって歯科だって鍼灸だって、とにかく体に関するケアやキュアを受けるならボケた人の世話になるのは辞めた方が良い。

最近病院の勤務医と開業医の収入の格差が言われるようになったが、とにかく金儲けが大前提で医者になった人や、親の後を継がされて信念も無くそうなった先生にはできるだけお世話にならない方が良い。



こう言う人はどうも一定の年齢を超えると遺伝子に埋め込まれたDNA内の時限プログラムが起動して、無理やり植え付けた思い込みが消滅し、化けの皮が剥がれて患者を金の成る木にしか見なくなる様である。



同じ金儲けをしても、結果として儲けている先生と、それを目的として儲けている先生とでは質が全く違うのである。



それともう一つ注意しなければならないのは、惰性で医療を続けている先生である。

惰性とは医療に関する情熱を失ってしまったと言う事である。



こう言う私も今から数年前に一時医療に関する情熱を失いかけて、医療人としての立場を捨ててしまおうと考えた時期があった。

しかし色々な状況の変化でまた医療に関わる世界に引き戻されて来た。



『ボケた医者にはかかるな』と言ったが、ここで言う医者とは医療人全体を指し、ボケとは本来のボケでは無く医療人特有の職業的ボケを言う。



私の言う『医療人のボケ』の定義からすると、私の身近な人にもぴったり当てはまる人が何人かいる。



50代の人にも40代の人にも。



私は少なくとも日々関わる患者さんの多少にかかわらず、治療を業としている限りはこのボケた医療人の仲間入りだけは避けたい思っている。



 



 



 



 



 



2009年11月15日

事業仕分けと民営化された企業


≪事業仕分けの必要なものはまだまだある≫



今、事業仕分けが面白い。



民主党の仕分けが公平公正かという点には様々な立場の人がいるから、これがベストだとは言い難い。

しかし今までまともに公開の場でこう言う作業がなされなかった事については、前政権を担当していた人たちの怠慢以外の何物でもない。



ところで今回仕分けの対象となっているのは、あくまで直接税金が使われている事業が対象だと思うのだが、果たして仕分けをしなければならないのはそれだけなのだろうか?



忘れてならないのは先ず某国営放送だろう。



たまたま今日その某国営放送は解体すべきだと言うデモ行進と遭遇したが、税金のように多様な分野に利用される内容ではなく、放送局の運営に絞って国民から金銭を徴収し、おまけに未払いのものには権力をバックに取り立てるような権力をかさに着た企業は、まさに事業仕分けの対象として徹底的にその金銭の使われ方を追求し、無駄なコストと人員を削減し、放送料金の値下げをさせる必要があるだろう。



またその結果無駄な金銭の使い道が発覚すれば、当然関係者に払い戻しをさせる事も必要な事である。



さらに本当に民営化しなければならないのはこの某国営放送だろう。



民営化して視聴したい人だけが料金を払う。

もしそれで経営が成り立たなくなれば、その企業は必要ないと言う事になるのである。



その上でどうしても国営放送が必要ならば、全て税金でまかなえば良いのである。



民主党には聖域なき仕分けをお願いしたい。



 



≪民営化とは名ばかりの企業≫



またかつて国営であって民営化された企業の中にも公平で無いものがたくさんある。



代表的な企業としては、旧電電公社がある。

かつては高額な電話債を購入させていたのに、いつのまにか債権が無効になってしまった。

これなどは利益の中から債権を購入した人に対して、当時の契約どおりの代金をお返しするのが当たり前なのに、いつの間にか踏み倒して知らん顔である。

旧電電公社は詐欺企業なのである。



さらには旧国鉄などもその部類であろう。

高速道路の料金が無料になったら大幅な減収になるから、これを国に補填しろと言っているらしいが、これだけで旧国鉄の体質そのままと言うのが判ると言うものである。



ほんまにアホと違うかと言いたい。



世界でも指折りの高額な料金を取っておき、必要のないリニアの開発に血道を挙げ、挙句の果てに南アルプスルートなどは、大切な山並みをぶち抜いてトンネルを通すなど、貴重な国土の破壊行為以外のなにものでもない。

まさに国賊である。



大阪東京間を1時間で走ると言うが、『せまい日本、そんなに急いでどこへ行く?』である。



このおバカな旧国鉄も詳細な仕分けによって無駄な事業は廃止し、料金値下げと言う形で国民に還元するのが当然だろうと考える。



そこまでスピードアップしたいのなら、いっそテレポーテーションでも出来るように、ドラえもんさんに頼んでどこでもドアの開発に取り組めばよいのである。



こういう風に周りを見回してみると、どうも電力会社やガス会社などのような公共的な立場でありながら、競争相手の無い企業にもそういう風潮がある様で、大阪のガス会社なども勝手に縄張り(エリア)を決めて、しっかりと代理店制度をしいて競争が起こらない様にしている。

そしてガス器具の取り付けから修繕まで、全ての料金が他の同様な作業と比べてバカ高いのである。



こう言う企業の独占かつ独善的行為を辞めさせる為には、我々国民がもっと公な企業に対して厳しい目を向ける必要があるだろう。



 





 



 



2009年10月04日

政治とピグマリオン効果


≪政権交代とマスコミ≫



政権が代わって少しの時間が流れた。

今までの自民党のスピードとは違ってかなり早いスピードで政治が動いている。



ダム工事の中止から、天下りの廃止、補正予算の見直しと今までの自民党政権の時から比べると格段の早さで政治が動いている様に見える。



どちらかと言えばマスコミも民主党政権の活動には好意的に反応している様に見える。



鳩山さんや小沢さんの抱えている政治資金規正法がらみの問題も、気のせいか扱いがソフトな様にすら思える。



これは今までの自民党政権ではあまり見られなかった傾向だと思われる。



やはりマスコミも非難するだけでなく、今は新しい政権の推移を見守る事が必要だと考えているのだろうか?



 



≪国民の反応は?≫



政権交代についての国民の反応はと言うと、メディアを通して見る限りは概ね好意的に見ている様に思える。

これも当然と言えば当然で、自分たちが選んだ政権なのだからとりあえずは期待して好意的に見ていこうと言う事なのだろう。



例えば八ッ場や川辺川のダム工事廃止に絡んでは、賛成派の当事者と国側の関係者を除いては国民の大半が廃止に賛成の立場だと思う。



八ッ場ダムの計画は1952年に、川辺川ダムの計画は1966年に事業が開始されているにも関わらず、現時点で工事が途中であったり着手されていなかったりと言うありさまである。



そもそも工事計画の遅れに期限が無い事自体が問題で、いまどきダム一つ作るのに40年も50年も係る事を許している事自体が問題であって、計画から現時点までに無駄な税金が湯水のように使われて来た事が許されている事が理解できない。



この辺は中国の長江三峡ダムをみならって欲しいところである。(見習うと言って完成までのスピードだけですよ)

計画そのものは1919年に孫文が言いだしたらしいが、着工から完成まで僅か16年と言うのはダムの規模からして驚異的である。



こう言うものはできるだけ長期化させずに、途中にチェック期限を設けて、その期限内に予定した進行状況が得られなかったら、そこで中止を決定するか大幅な変更を検討するべきであり、今日までズルズルと長期化させてしまった事の責任をとるものがいない事にも大きな問題が残る。

やはりお役所仕事の典型例と言えるだろう。



ダム工事以外にも続々と時間と金の無駄遣いが表面化してくるから、やはり国民は民主党政権に期待し、応援したくなるのである。



 



≪政治とピグマリオン効果≫



教育心理学にピグマリオン効果(ローゼンタール効果、教師期待効果)と言うのがあるが、私は政治に対する国民の期待効果が、担当政権の働きを助長するのではないかと考えている。



例えば先日のオリンピック招致の件にしても、盛り上がっていたのは一部だけで、国民の多くは蚊帳の外にいたと思う。



だからブラジルやスペインに負けたのである。要は全体的な盛り上がりに欠けている点をIOCに見透かされていたのだろう。



わたしなどは、「なんでまた日本でオリンピックを開催せないかんの?」と、この件に関しては???????である。



何故なら国民には殆どメリットが無く、殆どデメリットが返ってくる事が予測されるからで、石原さんは自分の業績として自分が都知事の間にやりたかったのだろうが、そうは問屋が卸さないのである。



やるのなら東京では無くて何と言っても沖縄だろう。

嘉手納や普天間の基地を潰して、基地の跡地に関連施設を作ると言うのなら国民全体が盛り上がるだろう。

何と言っても同盟国なのだからアメリカと共同開催なんて言うのも良いかも知れない。



話は戻るが、やはり政治がうまくいく条件としては、国民の多くが政権に対して期待してくれる事が必須だと思う。

多くの国民の期待と協力があってこそ、多くの国民にとって住みやすい国家が作れる。

長い間能力のない政党に政治を任せ、官僚に好き勝手させてきた事は我々国民の責任でもあるが、今後は政権を担った人たちが国民の為に良い政治を行う事を期待しつつ、また暴走する事のないように、我々国民が監視すると言う姿勢が大切になる。



なんと言っても問題は国民の政治に対する無関心さであろう。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



2009年09月11日

政権交代に思う


≪間もなく政権が代わる≫



毎日のニュースは政権交代に関する内容でにぎわっている。



ノリピーの事件もようやく決着がつくようで、やはり今の国民の関心は政権交代に関わる事柄に集中している様である。



考えて見たら自民党も随分でたらめな政治をやってきたようで、いたちの最後っ屁のように各所でバラマキをやったものだから、民主党も後始末が大変なようである。



また官僚についてもこの期に及んで平気で駆け込みの天下りが大量発生との事である。



こいつらにかける殺虫剤は無いのだろうか?



政権が代わる事で恐らくあちこちから、今までの自民党政権のボロが大量に出てくるのだろう。



もちろん官僚に好き放題させていた事も含めてである。



八ッ場ダムの件にしてもそうだ、とりあえず公約どおりにダム工事を中止させるとしても、ここまでに破壊されてきた自然は元に戻すと言う事も出来ないだろう。



今朝のニュース番組で、このダムの為に今まで住んでいた家を追われた人たちはどうなるのか、などと言っていたが、それを言い出したら結局何も前に進まなくなってしまう。



私はダムや治水に関しては殆ど知識が無いので、ダム建設の是非についてはよくは判らないが、ダム建設と言う膨大な自然破壊を伴う方法以外に、水源の確保や治水に関する方法があるのなら、やはり別の方法を検討するべきだと思うし、また出来る限り自然を破壊しない方法に移行していくべきだとも思う。



どの政党も国民の利益と言う事を公約やマニフェストに掲げるが、国民の利益と言うものも立場が変わったり、見方が変わるとすっかり変るものなのである。



小泉さんの郵政民営化だってそうである。



私個人としては民営化によって何ら恩恵も受けていないし、また殆ど損もしていない。



しいて言えば移行に伴って多少面倒な手続きが必要だったり、郵便局員の愛想が少し良くなったくらいだろうか。



しかし地方では、特に僻地の高齢者には随分不便が生じていると聞く。



民営化されると利益が上がらないものは切り捨てざるをえなくなるからである。



そういう意味でこの政権交代に期待できるものがあるとすれば、それは新しい議員の大半が素人で庶民上がりだと言う点である。



≪庶民感覚と言うけれど≫





民主党の鳩山さんは決して庶民の出身ではない、しかし民主党に比べれば世襲議員の比率は自民党の方が圧倒的に多いだろう。



ニュース番組のインタビューに答えたある老人が、民主が政権をとると素人の集まりだから不安だと言っていたが、もし自民党が本当に政治のプロの集まりだったとしたら、プロが日本を滅茶苦茶にした事になるのは誰だって判るだろう。



裁判員だって素人じゃないか。 素人に無理やり勉強させて裁判員に仕立上げている。



それなら少なくとも自分で政治に関わろうと言う志を持った素人に、政治を任せて見るのも悪くはないと思う。



きっと彼らは必死になって必要な事を勉強するだろう。 



今まで政治のプロの常識では出来なかった事を、多くの素人を抱える政党に委ねてみたらひょっとしたら、多くの硬くて古い腐った頭では考え付かなかった事が出来るかも知れない。



いちいち庶民云々と言わなくても国民の大半は庶民なんだから、庶民が普通に働いて普通の収入を得て普通に安心して生活がしたい、老後を迎えたいと言う、当たり前の思いが満たされる。



さらに国としては他国に主権を侵される事無く、理不尽な要求にはどうどうと「ノー」と言える自立した国家であって欲しい。



そんな多くの良識ある国民の願いを少しでもかなえてくれるよう、私は今民主党に期待している。



 



 



2009年08月29日

人生のリセットは可能か?


≪人生のリセットって?≫



私の周りに人生のリセットを試みた人が何人かいる。

この人たちに共通する出来事はと言えば、不祥事で一時的にでも立場を追われたり、他人を信じた為に事業でつまづき多額の借金を抱える憂き目にあったり、或いは離婚したり(離婚は最近では人生の大問題では無くなる傾向がある)或いはかつての朝の連ドラ見たいに、ええ年したおっさんが家族を捨てて駆け落ちしたけど結局は破局を迎えてまい戻ったり、実に様々である。



そしてそう言う体験をした人の多くは、過去を悔んでなんとかその過去を断ち切る為に色々と思い悩んで一つの結論に達するのである。



つまり人生をリセットしようと試みるのである。



具体的な行動としては、自分がかつてしていた行為を否定したり(例えばかつて昼間から酒を飲んで車を運転していたようなやつが、自分は一滴も酒は飲めないと言い切る)、或いはつまづいた時の人間関係を断ち切りその当時良い関係で関わった人(例えば助けてくれた人でも)でさえその関係を断ち切ろうとするのである。



また自分と駆け落ち相手の蜜月を知っている人間とは、例え目と鼻の先にいる人でも、駆け落ち相手を見捨てて一人で逃げ帰ってからは連絡を絶ってしまう。



要するに苦々しい過去や、恥ずかしい過去から逃れる為に自分の人生にリセットをかけようとするのである。



≪人生のリセットは可能か?≫



それでは人生のリセットが可能かどうか考えてみよう。



知っている人は知っているが、人間の意識は大まかに見ると2層構造になっている。

つまり建材(違った!)顕在意識と潜在意識である。



このリセットと言う行為は、顕在意識レベルつまり表面の意識で行われる行為で、自分の思いで行われる行為である。



ところが肝心の潜在意識にはその時期の嫌な体験や感情がハッキリとインプットされたままであり、時間の流れに乗って顕在意識では忘れた様に思えても、ふとしたきっかけでその時の感情がフラッシュバックされてくるのである。



要するにごまかしでは感情は癒されないと言う事である。



 



≪ではどうすれば良いのか?≫



これは実は簡単な事なのである。

つまりその出来事を受け入れれば良いのである。



おそらくこう言うと「それができれば苦労は無い」とか「どうすれば良いか判らない」とか「絵に描いた餅の様な事を言うな」とか言われそうなのであるが、実は過去の全てを受け入れる以外に救われる方法は無いのである。



例え人生をリセットしようと、自らの肉体を滅したとしても、もし転生があるとしたらやはり次の肉体でもこれを引きずって行かなければならない可能性も残る。



従って自分のした事や、或いは人にされた事や、例え人生から消し去りたい出来事であったとしても、それを受け入れない限りは死ぬまで、いや死んでもついてくると考えるべきだろう。



それも自分の都合よく受け入れたのではうまくいかない事が多い、もちろんその出来事から学ぶ事はとても重要なのだが、受け入れる事と学ぶことは少し違っている。



受け入れるとは、自分の血肉とすると言えば良いだろうか?



飛躍した言い方をすれば、自分自身の全て(精神も肉体も含めて)が今ここに存在することに感謝出来るようになる、と言う事だろうか?



過去の出来事、ひいては生い立ちや貧乏、金持ちなど何の関係も無い。



先の事はこれから考えれば良い、要するに自分がどうなりたいのか、それに尽きる。



過去があって今がある、今があるから未来がある。



これは紛れもない事実である。



最近人に勧められて読んだ願望実現のノウハウ本にはこの考え方に否定的な意見が述べられていた。

著者の意図は判らないが、過去の積み重なりが現在の自分を築き、そして現在の自分が未来に向かうと言うのは法則であり、否定し得ない事実である。

浅はかな私見を公の本にすると、同じく浅はかな思慮の人々の共感を呼ぶ。なまじ知名度がある人間が言うと、判断する力の無い人はそれを信じる。罪な事である。



そんなことはともかく、顕在意識で否定的に思える過去であっても、潜在意識では歴然たる事実としてインプットされている。



それをどうとらえるかは今の自分の心の持ち方一つである。



例えどんな嫌な体験があっても、リセットすると言うような逃避行動だけはやめた方が良いと思う。



逃げたら絶対追いかけて来る、そして一時的に忘れていると思っていても、あらゆる場面で、あらゆる機会にその事はフラッシュバックしさらに強まって行くだろうし、もっと新たな強敵を呼び寄せる事になるかも知れない。



もし救いを求めるとしても、それは決して怪しげな宗教では無い。



自分のまいた種は自分で刈るしか無い。これが因果応報である。



従って心地良い人生を得るにはごまかしのない良い種をまくしかないのである。



 



 



 



 



 



 



 



 



2009年08月05日

一事が万事


≪やっぱり官僚主導は駄目ですね≫



今日は久しぶりに、やっぱり官僚が牛耳る国はなんとかしなければという気になった。



きっかけは他愛もない事なのだが、私の車が検査に入ったのである。

5年目ともなると、色々と交換部品も出て来て、特にディーラーで頼むと必要以上に高い気がするのだが、その分安心感にお金を払っている様なところもある。



問題はそこでは無く、ディーラーのフロントから電話で、前輪タイヤがタイヤハウスから出ているかギリギリなのでこのままでは検査に通らないかも知れないと言うのである。

タイヤとホイールは納車当時のままでは無く、途中で交換しているのではあるが、一応交換前にタイヤハウスからはみ出ない様にと確認はしている。



しかし驚いたのは、タイヤハウスから1ミリでも出ると検査に通らないと言うのである。



一体こんなアホな事を誰が決めたと言うのだろうか?



もちろん国交省の役人に違いない。



ディーラーの説明によると、少し前まではプラスマイナス1ミリまでの誤差ならオーケーだったのに・・・、と言う。



これでも私から言わせると馬鹿げているとしか言いようがない。



もちろん基準は必要だし、基準から逸脱したものは不可とする事も必要だろう。





しかしこれが1ミリや2ミリと言う話ではないと思う。



しかも私の場合前輪タイヤの片方はオーケーなのである。



1ミリ、2ミリのはみ出しでお客さんに説明しなければならないディーラーの担当者も可哀想なもんだが、こういうアホな基準を作る役人の感覚は国民の利益にはならない。



 



≪一事が万事≫



 



選挙を目前にして、果たして民主党が言うように、高速道路を無料化にしたりその他バラマキとも言うべきマニフェストの中身を信じるかどうかは別にして、官僚主導の国家運営だけはなんとかしなければならないだろう。



この馬鹿げた基準は車検だけではなく、多くのところで存分に生かされている。



社保庁の一件にしても、やはり役人は国民の事を全く考えていないと言う事が露呈したし、数え上げればきりがないほど、役人達は国民を愚弄し続けてきた。



この辺でこの国の永年の課題であった官僚主導の国家運営を、本当に国民の意思を反映した運営に修整していかなければ、日本は駄目になってしまうだろう。



手遅れ感がないではないが、選挙を目前にしてつくづくそう思うし、それを許してきた自民党ももはや限界である事は違いない。



かと言って・・・。



 



 



2009年07月25日

50を過ぎると


≪もうボケは始まっているのか?≫



よく40代でもボケは始まるとか、若年性の痴呆の話を聞く事がある。

わたしなど50代の半ばであるが、人の名前を思い出せないとか、今しようと思った事を忘れてしまうとか言う事が再々起こる。



これなどもボケの一種なのだろうけれど、実は最近自分の周りに良く見かける50代以降の変化に気がついた。

年齢層はやはり50代半ばが中心で、職業はまちまちである。



あまり具体的な事は支障があるので書けないが、昔から付き合いのある人だと、さらにその変化が良く判る。



そこでその変化の様子を箇条書きにまとめて見た。



?欲が深くなる。或いは金銭に対して露骨になる。

 今までなら知人のよしみとか、或いは良心的とかという範疇で比較的安くしてくれたり、サービスしてくれていた金銭に対する部分が、徐々に世間一般でも通用しないよ  

 うなバカ高い金額を平気で請求したり、或いは平気で人の足元を見る様になったりする。



?仕事が横着になる。

 例えば職人的な部分を見ると、今までなら丁寧にしていた仕事が雑になったり、見落としが多くなったりする。

 ひどい場合は判っていても見ないふりをして済ましてしまうなど。或いは人には判らないと思うのか露骨な手抜きをするようになって来る。



?口先ばかりになる

 「やる、やる」とか「やろうと思っている」とか口では言うが一向に行動が伴わなくなる。

 またもともとそう言う傾向の強かった人は、それがさらにひどくなる。



?ピントがずれる

 若いうちは自分の興味のままに色々な部分に目を向けて、色々な知識を吸収しようとする人も多いが、ある程度の年齢になると、自分の本来やるべきことに焦点が絞ら 

 れて来て、あまり自分の方向性と乖離した部分にはとらわれなくなるものなのだが、いつまでたっても食用ガエルの様に、目に付いた興味を引くごく一部の物や情報に

 反応して振り回される。かと言ってそれを専門的に基礎から学ぶと言う訳でもない。



 



≪何が足らないのか≫



今私が感じている大きな兆候は上の4つぐらいなのだが、一人の人間が複数の兆候を示す場合もあれば、ひとつの兆候を示す場合もある。



そしてこれらの兆候と直接結び付くかどうかは判らないが、これらの兆候を示す人たちの共通性を探すと次の様になる。



?積極的に体を鍛えていない。



?積極的に脳に刺激を与えるようなトレーニングをしない、または経営や研究等で脳を駆使し、新たな刺激を受けるような環境に無い。



?エネルギー的な低下を補充するようなスキルが無い。



反対に60歳や70歳になっても先述の兆候を殆ど示さない人もいるのだが、そう言う人を観察すると、上の3つのうち最低一つに当てはまるものがある。

またまれだが3つともに当てはまる人、つまり積極的に体を鍛え、常に経営や研究で脳に刺激を受け、低下したエネルギーを補う術を知っていてこれを実践している人もいる。



こういう人は何十年付き合っていても進化しているし、「彼も歳をとったな」などと他人に思わせないのである。



 



≪老化って何?≫



こうして見ると老化と言うのは年齢的なものだけでは無く、意識するしないに関わらず、精神面、肉体面、エネルギー面の3つの要素において鍛錬していない者に特に顕著に表れる特徴であると言えるようである。



こういう話を人にすると決まって返って来る言葉が、「鍛えないといけないのは判るが、時間が無いので・・・」である。

私はそれ以上反対はしないが、本当は「時間がない・・・」のでは無くて「自覚がない・・・」のである。



そう言えば私の良く知る40代の知人に体の鍛え方、エネルギーの補い方を知っていながらそういう努力は殆どせず、日々不節制を積み重ねていた人がいたが、彼など見るたびに「歳をとったな」と思ってしまう。外見的にはすでに私を追い抜いて見える。



老化とは単に年齢的な問題では無く、どうやら生き方の結果の様である。



 



 



 



2009年07月21日

他人はどこまで信頼できるのか


≪大雪山の遭難から学んだ事≫



北海道の大雪山に上った中高年の男女が遭難し、多数の人命が失われた。

これらの原因についてはこれから捜査が進むにつれてハッキリしてくるのだろうが、やはりガイドの責任に負うところが大きいだろう。



私などは始めから遭難の恐れのあるような高い山に登ろうとは思わないのだが、そういう山が好きな人はリスクを承知で登っているのだろうか、それともベテランのガイドを信頼して命を預けたのだろうか、それとも深くは考えていなかったのだろうか。



中3の子供が、「ガイドの言う事なんか信じるからこんな事になるんや」と言った。

まさにごもっともな意見である。



しかし中3の子供がいとも簡単にこういう事を言うと言う、世相が問題なのだろう。





そう言えば私が以前トレーナーをしていた某私立高校野球部で、卒業を間近に控えた3年生にふと「君は3年間この学校にいて何を学んだと思うか?」と聞いた事がある。

その子は即座に「大人は信用できないと言う事です」と答えた。

私はその時、その大人と言うのはその野球部の指導者を指すのだと感じたが、しかしその子の言葉では大人は・・・という風に一般化されている。



本題に戻るが、ガイドを信じて山に登ると言う行為は、果たして無謀な行為なのだろうか、それとも当たり前の行為なのだろうか?



生き残った人たちとガイドとの遭難をめぐるやり取りは新聞などに詳しく出ているが、遭難したと言う現実に即した対応が取れなかったガイドの資質に問題があるのか、それとも、根本的にガイドに命を預けた人に落ち度があるのだろうかと言う葛藤が私の中に起こった。



見知らぬ土地に来て、人に道を聞き嘘を教えられると言う事がある。

「あっ、あいつ嘘を教えたな、知らんかったら知らんと言えよ」と愚痴をこぼしてまた親切そうな人を探して、道を聞く。



この程度の事なら大した問題では無い。



しかし事自分の命に関わるような大切な事を人任せにすると言うのは、その行為自体があまりにも無謀な気がしてならない。

私は山や自然が大好きではあるけれど、遭難の危険があるような山には登った事がない。

「お前が臆病やからや」と言われるかも知れないが、私は決して否定はしない。



 



≪他人をどこまで信頼できるのか?≫



今回の事件で助かった人は単に運が良かった人だけでは無いだろう。



先ずガイドの無能さに気付き、なんとか自分で自分を守らなければならないと早く気付いた人が助かったのだと思う。



この辺が飛行機事故などとの違いである。



例は少ないが、先の中学生と高校生の現代の大人に対する見方は、ある面で正しい。



現代は他人を信頼できない時代なのかも知れない。



役人や政治家は平気で嘘をつき、自分たちの利益を優先し国民を食い物にしようとする。



一部の教師は生徒に平気で嘘をつき、生徒の期待を裏切る。



企業は品質よりも売り方の研究に力点を置く。



 



今回の登山ガイドと言うのはあくまでも肩書だけであって、遭難している事すら分からずに、結局客の命を守れない。



中には信頼できる人もいるのだろうが、どこにいるのかは判らない。



 



こうなると必然的に信頼できるに足る自分が必要になって来る。



しかし信頼に足る自分を作るのは一朝一夕では出来ない相談であり、そう言う信念、価値観を育てるところから始めなければならないだろう。



確固たる心構えと、正しい知識と、積み重ねられた経験に裏付けられてこそ信頼出来るに足る自分が築き上げられる。



経営者であろうが、研究者であろうが、サラリーマンであろうが、結局一人の人間である以上、信ずるに足る自分を築けなければ生き残れない。



まさに今回の大雪山の事件はそれを物語っている様に思えた。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



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