2008年03月

2008年03月26日 10:58

《ほんとにお粗末な教科書検定》


今朝たまたま見かけた新聞記事で、教科書の審査に関するトピックが目に付いた。

その内容は、国語の教科書で梶井基次郎の事を取り上げた際に、梶井が仲間達と一緒に写っている写真の背景に、
書店の丸善京都支店の看板が大きく写っている事が、特定の企業の宣伝につながると言う理由から、
その看板の部分を写真から削除する事になった。と言うのである。


私はこれを見て驚いた。

何故かと言うと、この写真の重要性は丸善の京都支店の前で撮っている事が重要なのだからである。

それほど丸善と言う本屋は多くの文学者達に大切にされ、また多くの作家を育てる事に役割を担ってきた。

そう言う意味では日本の近代文学史上貴重な写真と言えるのである。


これが現在のツタヤの前ならそれも判るけれど、明治末期の丸善京都支店が駄目と言うのはあまりにも杓子定規と言う前に、
検定意見をつけた担当者の愚かさと無知をさらけ出しているだけでしかない。

新聞も報道するなら、こう言う検定意見をつけた馬鹿な担当者の名前も一緒に公表するべきだろう。


《死に体の日本の常識》


まあ所詮文科省のお役所仕事と言えばそれまでだが、これに文句をつけるのがもし常識的だとするならば、
例えば選挙の際にタレントやタレントもどきの立候補を認める事について批判が出ないのは何故だろうか?


今回大阪府知事になったタレント弁護士や、マンマなどはその最たる例で、あるところで小学生に「おっちゃん、
テレビに出てたから知事になれたんやで」と言われて苦笑したとか。

こんな事が不公平だと言うのは、小学生でも判るのである。

判らないのは馬鹿な大人だけ。


簡単な話で、過去何年間かのテレビの露出度に応じて選挙に立候補できる時期に制限を与えれば良いのである。

例えば過去1年以内にレギュラーで出演していた番組があれば3年間は立候補できないようにするとか。


教科書と選挙を同列に並べる事がおかしいと思う人もいるかも知れないが、要するに常識の問題なのである。


歴史的な意義を持つ写真を、単に広告つながる言う理由でカットするのも、
完全にタレントと言う立場を選挙のために利用させると言う不公平さを容認するのも、私から見れば社会通念の歪みとしか見えないのである。


こんな事例を取り上げたら実にキリが無い。例えば20年前には道徳的な常識で誰もが納得できたものや或いは納得できなかったものが、
逆転して来ているのである。


以前は日本は恥の文化だと言われたが、最近は恥知らずの文化になってきたようで、
社会の中心を占める層が若年化するに連れてそう言う傾向が顕著になってくるようである。


こんな事を言うと「ふるいやつ」だと思われるかも知れないが、
いくら時代が変わってもやはり是は是であり非は非でなければならないと思う。


財政を再建する事も大切ではあるが、崩れた文化や常識を再構築する事の方が本当は大切だと思うのだが、どうなんだろうか?




 


 


 


 


 


 


 


 


 



2008年03月24日 11:12

《卒業してから何十年》


先日中学校の同窓会があった。

と言ってもクラス会なのだが、前回の開催から10年?近くが経っていて、また今回は案内の発送が幹事の都合で遅くなり、
参加したくても出来ない者も多くいたようだった。


私達の世代は団塊の世代ほどではないが、子供の数も多く、私の出た中学校でも当時16クラスあたりまであったように記憶している。


さすがに前回参加した人は顔を見れば誰か判るのだが、中学卒業以来会っていないと言う人の中には、誰だか判らない人がいたり、
或いは名前を間違えたり、前回来ていた人に卒業以来始めてだと言ったり。シッチャカメッチャカである。


最初に10年?ぶりと書いたが、何人かに「前の同窓会から何年になるかな?」と問いかけるとなんと「10年ぶり」「9年ぶり」
「7年ぶり」「6年ぶり」と実にまちまちな答えで、実際のところは7年あたりが正解だと思うのだが、実は私自身もあいまいなのである。


私の中学校のクラスは、実は3年間クラス替え無しで、担任もずっと持ち上がりだった。

この事は小学校や高校や大学とはまた違う連帯感を築いているようで、
中学当時特に親しくなかった人でもクラス会をきっかけに今新たに親しくなる事になんの抵抗も無いようである。


ただ悪い事に、担任が現在言われる悪い教師の見本のようなやつで、クラス全体から嫌われているからクラス会には誰も呼びもしない。


普通は恩師を囲んでと言うのが典型なのに、そうはならないから面白い。


またこの当時の教師達は今から思っても質が悪かった。同級生で現役の高校教師が大きな声でそう言っていた。

特定の生徒をいびって、そのいびりが原因で転校した女子がいたり、
技術の教師で体罰として正座させて金床を太ももの上から乗せたりするヤツもいた。

私も担任に何かにつけて殴られた記憶がある。今ならまるで私立の出来の悪い高校野球部見たいなものである。

今なら恐らく再教育かクビなのだろうが、それがまかり通った時代だった。


一旦お開きにしてから、2次会、3次会とだんだん残る人数も少なくなってくると、話題もディープな内容になる。


要するに裏話が出てくるのである。

その中で出てきたのが、みんなが覚えていて私だけが覚えていないと言う事件があった。

それはある傷害事件で、前回のクラス会でも、弁護士になった級友が、少年事件を扱うたびに思い出すと言うのである。

前回のクラス会での私の理解では、その内容は私が喧嘩をして相手のクラスメートを金属の塵取りで殴って怪我をさせたと言うのであった。




ところが私は全くその事件を覚えていなかった。

なんで覚えていないのだろうと思ったが、とにかく記憶に無い。

今回も2次会でその話題が出た時、この前まで警察官だったヤツが私に「お前の方が頭を殴られたんだぞ」と言い出した。さらに「考えてみな、
お前が物を持って人を殴ったりすると思うか」とも言われた。確かにそのとおりである。

今まで私が加害者だった思っていた事が実は被害者だった事が判明したのである。


しかしそう言われてもその出来事自体の記憶が無い。
そして当の喧嘩相手と目されるヤツは国立の大学を出て国家公務員になったと言われているが、
連絡がつかなくてもちろん今回も出席はしていない。

今となっては被害者であろうが、加害者であろうが別にどうでも良い事なのだが、ただ記憶に無いと言うのが気持ちが悪いものである。


もう一つ面白い事に、3次会まで残ったメンバーの中に産婦人科医が2名もいたと言う事で、これもびっくりだった。
今の産婦人科医不足のご時勢にと言う事もありながら、また妊娠や出産に伴う患者側のモラルの低下の事についても医師の立場からの話も聞けた。
なんでもその二人は同じ市内で開業していて、何かにつけて協力しあっているとの事、
そう言う話を聞くと自分には関係なくてもなんだか嬉しくなる。


そして私と同じく東洋医学的な治療に関わる資格を持ち、職についている者がこのクラスには3名も居るのである。


3次会が終わったら11時30分頃だった。私は大阪市内の近くにある事務所に泊まるつもりでタクシーに乗ったが、
まだ帰りたくなさそうにしているヤツも何人かいたようだ。


もちろん翌朝は久しぶりの二日酔いの朝帰りだった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



2008年03月13日 11:22

《裁判員制度とNLPについて》


いよいよ来年から日本でも裁判員制度がスタートする。



これはもちろんアメリカなどで知られている陪審員制度がモデルとなっての事なのだろうが、要するに民間人の中から選ばれた人間が、
刑事事件に限って裁判官と一緒に公判に立会い、判決にまで関与すると言う事である。


先日もこの裁判員制度をにらんで、どこかの弁護士会がアメリカから弁護士を呼んでトレーニングを受けていたとの報道があった。




これを見ていて私は10年ほど前にアメリカでNLP(神経言語プログラミング)の講習を受けた事を思い出した。

知ってる人は知ってるが、アメリカではNLPは実に広い範囲に浸透していて、元大統領のクイントン氏(ヒラリーさんの旦那)
やビルゲイツ氏などが専属のNLPトレーナーをつけて、パブリック・
スピーキングやプレゼンテーションについてのトレーニングを受けていた事は有名である。

また今回ヒラリーさんのライバルであるオバマ(小浜?)氏が選挙トレーナーをつけている事は既に知られている。

要するにNLPのテクニックを使って聴衆をリーディング(誘導)したり、アンカリング(強く印象付ける)
したりする為の仕組みをプレゼンの中に仕掛けると言う操作をしている訳なのである。


ところがこのテクニックは、陪審員制度の進んだアメリカでは法廷技術として非常に強力なテクニックとなり、
弁護士がこのテクニックを使えるか使えないかは、まさに裁判の結果その物を左右すると言っても過言ではない。


その証拠に、私がロスでNLPの創始者の一人である、リチャード・バンドラーから直接受けた2週間ほどのNLPの講習では、
受講者の中に弁護士と裁判官の両方がいた事が印象的である。


このNLPを学ぶかなり以前、私は法律事務所の職員を対象にしたカウンセリング技法のセミナーを開催していた経緯があるが、
いよいよ日本でも弁護士自身がNLPの技法を身に付けなければならない時期が来たと言う印象を持っている。


その理由は、法律のプロではない民間人の裁判員が、自分と利害関係のない刑事事件の被告人に対して、
その目の前にいる被告人をギリギリのところで有罪か無罪か、或いは有罪ならその量刑を決定しなければならない時、
直感的に判断しなければならない要素がかなり大きいと考えられるからである。


裁判官だけを相手にする場合は、刑事事件なら証拠の信憑性や被告の証言や、
証人の証言内容などと法の許容性などを主軸にしてプロがプロを相手にするから、
後は担当する裁判官の傾向などの過去のデータを集めて戦術を立てる事が出来て、ある程度の結果を予測する事が出来た。



しかし一般人である裁判員を相手にする場合は全く別のテクニックが必要になってくる。



それがまさにNLPだと言える訳である。

ただ私は日本の法曹界にアメリカほど簡単にNLPが浸透するとは思っていない。

それは日本の法曹界がアメリカほど進歩的で柔軟だとは思えないからである。


日本でもタレント弁護士と呼ばれる一見やわらかそうな人たちがかなり増えてきてはいるが、
現実にああ言う人達は弁護士の中の一部であり、まだまだコミュニケーターとしてよりは、法律の専門家を自負する人達が多い業界だからである。


いずれにせよ私たちは、本当の真実と法や裁判上の真実が往々にして異なる事がある、と言う事を知っておかなければならない。


ところでロス疑惑の今後はどうなるのだろうか?


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



2008年03月05日 09:32

《自転車3人乗り容認検討》


また馬鹿げた警察庁の行為が社会問題となっている。


要するに昨年末警察庁は新たな資金源を求めて、今度はママチャリの3人乗りに目をつけたのである。

確かに危険である事は間違いないが、それならば違反事項として注意をすればよいはずなのに、
資金源にしたいがために科料の対象としたのである。


ところが飲酒運転や駐車違反などと違って、対象が主婦だったために思惑が外れてしまった。

「女性の社会進出を無視する政策」として、要するに思いがけない反発を食らってしまったのである。

そこでやむを得ず、「一人乗りの時に比べて著しく不安定にならない構造」の自転車なら例外的に三人乗りを認めると言う、
アホな苦肉の策を講じなければならなくなった訳である。


この警察庁の対応策の矛盾を考えて見よう。

結論から言うと、先ず言えるのは、いくら自転車の構造をいじっても自転車を3人乗りにする事の危険性は変わらないと言う事である。
構造を変えることでどれだけ事故のママチャリ三人乗りの事故発生率が下がるというのだろうか?
また下がらなかった時は誰が責任を取るのだろうか?



仮に構造をいじった自転車を作ったとしても、自転車を運転する側のマナーや技術が変わらなければ全く何の効果も無い。
高い自転車を買わされる側の経済的負担が大きくなるだけである。


いっそそれなら三人乗りをする人に限って免許を出した方がよほど安全性が向上するのではないか?

そして新たな免許制度から上がる収入が警察庁の新たな資金源にもなる。



そしてついでと言うか、この際自転車に乗る子供から大人まで全てに講習を義務付け、講習修了者には受講済み証を発行し、
自転車に乗る際はこの証を携帯する事を義務付ける事にすればよい。

当然受講料は常識的な範囲で有料にすればよい。


自転車業界からは文句が出るだろうが、増加する自転車事故を防ぐにはこれぐらいの本腰を入れないと抜本的な対策にはならないだろう。


駐車違反対策などは露骨な資金稼ぎだが、それなりの社会的なメリットはあるようだし、
今度は自転車対策に本腰を入れて見たらどうだろうか。

目先の増収ばかり考えないでもう少し先の事も考えて、子供にも交通ルールを守ると言う早期教育を行う機会が必要だろう。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



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