2008年06月
2008年06月16日 12:43
《使い捨てられる人間》
たまたま秋葉原の事件から、少し派遣で仕事をしている人々の事がクローズアップされた。
派遣社員と言う言葉は一昔前には無かった言葉である。
また最近は正規の雇用社員であっても、以前よりは遥かに簡単に首を切られるようになってきた様に思える。
確かに多くの分野でコンピューター化が進み、また生産現場ではロボット化が進み、どんどん人手が要らなくなっているのも判る。
それが本当に実感できるのは鉄道かも知れない。
何故ならば切符の購入も改札も全て機械が行うし、極端なのは電車の操縦も、ドアの開閉まで全て機会がやっているケースもあるくらいである。
確かに日本の人件費は高いし、また物価も高すぎる。
かと言って会社の建て直しが先ず人員削減からと言うのも困ったもので、
クビを切られた多くの人達は一体どこへ行けばよいと言うのだろうか。
先日もキャノンの研究所に勤務する所員がオーバーワークから自殺に追い込まれた件で、これが労災認定されたと言う記事が出ていたが、
キャノンと言えば「
size="4">偽装請負」の事でも問題になっていたが、恐らく会社の体質と言うか、
経営者の体質と言ったものがこう言う事象となって随所に現れてくるのだろう。
そう言う会社のトップが経団連の会長で居続けると言うのはいかがなものかとも思う。
当然こう言う事はキャノンに限らずどこの企業でもあるのだろうが、人減らしの結果は一人の社員の負担が多くなり、
その結果はオーバーワークにつながる。
例の秋葉原事件の犯人も書いていたらしいが、人間が人間である事を認められず、
機会の部品のようにいとも簡単に使い捨てられると言う現実は、一体日本の将来に何をもたらすのだろうか。
そういえば後期高齢者の問題にしてもしかりである。
一時期は老人医療は全て無料であった時期もあった。
あの時もっと先を見越して、医療費の垂れ流しをつつしみ、来るべき高齢者増加時代に備えると言う事は考えられなかったのだろうか。
『国家100年の計』と言う言葉があるが、国を動かす立場にいる人間は、
常に国家の100年先を見据えて今を考えなければならないと言う事なのだろうが、今の政治家や官僚達にそれを期待するのは無理な事だろう。
しかし100年とは言わないまでも、
人間が人間を人間扱いしないで機械の部品と同じ感覚で扱うと言う今の状態がさらに酷くなってくると、そう言う風に扱われている人間が、
自分が人間である事を忘れて、まさに秋葉原事件のような事件が今後ますます増えてくる可能性もあるだろうし、
もっと恐ろしい事件も増えてくるだろう。
つまり強い者(企業)が弱い者を虐げる(派遣社員の使い捨て)と言う構図が、虐げられた者(秋葉原事件の犯人)
がさらに弱い無防備な人間(今回の被害者)を意味も無く襲うと言う結果を生んだとも言えるのでは無いか。
人間が人間を人間扱いしないで使い捨てると言う、この馬鹿げた風潮はなんとか是正しなければならないだろう。
国が自国民に尊厳を持てない状態を強いると言う、こんな馬鹿げた事は断じて許されるべきではない。
2008年06月09日 11:27
《よその子の成長は早い》
この前車を運転している時、子供を連れた知人を見かけた。
恐らく幼稚園の年長さんか、小学校の低学年くらいなのだろう。
確かその前見かけた時その子は赤ん坊だったし、さらにその前はまだお母さんのおなかの中にいた。
よその子は大きくなるのが早いと言うが、確かにたまにしか見かけないよその子供は見るたびに大きくなっている。
ひょっとしたら今度見かけた時は中学生になっているかも知れない。
《本当は子供の成長は早い》
考えて見ると自分の子は毎日見ているから、なかなか成長していると言う実感が持てない事が多い。
しかし時折聞く言葉の端々や、さりげない振る舞いから子供の成長を感じる事がある。
それはあくまでも何かのきっかけで判る事で、普段の『朝起きて、顔を洗って飯食って、かばんを提げて学校へ行く』
と言う日常的なパターンだけを見ていると、なかなか子供の成長と言うものが見えてこない。
ただ、時折感じる子供の成長の度合と言うものから考えると、
子供の成長と言うものはちょうど発芽する種子のようなものだと思う事がある。
或いはいきなり卵を割って出てくるひな鳥のような感じかもしれない。
とにかく目には見えない僅かな精神的、肉体的な成長が積み重なって、突然種子の様に芽を出したり、或いは卵を割って出てくるのである。
親としてはそう言う子供の成長、特に精神的な成長と比較して自分の成長が、果たしてついて行っているのだろうかと思う。
この辺は少し説明しにくいが、例えばAと言う子供とBと言う子供がいる場合、
親として成長する部分はAに対しての成長とBに対しての成長とはまた別であり、いずれにせよ子供と共に成長していないと、
個々の子供に対して成長できない部分があるように思うのである。
発達心理学などでは、精神的、心理的な性別かつ年齢相応の発達を扱うが、親子と言う視点で見ると、例えば私と言う親と子供A、
または子供Bと言う二者の関係から成り立つ相互の成長、発達する部分があると考えられるのである。
それが何だと言われると困るのだが、普段そこそこ子供とコミニュケーションが取れていると思っていても、突然芽が出てきたり、
卵を割られたりすると、ちょっと驚く事がある。
最初に、他人の子供の成長は早いと書いたが、しかし実際は自分の子供の成長も同じ様に早いのである。
服が着れなくなったとか、靴が履けなくなったと言うのでは無く、中身の成長は決して目に見えるものではない。
しかし確実に子供Aも子供Bも成長しているし、私と言う親の中にも、
それに対応して成長している部分と子供の成長について行けていない部分がある。
私はそう言う子供の成長に伴い、やはり自分も成長したいと思う。
ただその為にはそれなりの努力が必要だとも思う。
子供を教育する事は親として当然なのだが、それ以上に子供の成長に負けないように自分が成長すると言う事は大切なのだが、
もっと大変な事かも知れない。
ただこう言う機会は一生に何度もある訳ではないし、逃したらもったいないと思う。