2009年05月

2009年05月29日 09:51


《中央省庁再編は何だったのか?》



少し前だが中央省庁再編により、いくつかの省庁が統合された。



文部省が文部科学省になって、科学技術庁が消えたり、建設省と国土庁が統合されて国土交通省になったり、厚生省と労働省が厚生労働省になった。



それがまたここに来て、省庁の分割が言われるようになった。



厚生労働省なんか3つに割ってもよいとか、少子化省を作れとか言う輩がいる。



国民が中心にいて、国民の為のサービス向上なら省庁の名前や枠など関係なく、中で役割の分担と連携を考えれば良いのである。



何故こんな事が言われるようになったのか?



やはり官僚主導の施策に政治家が乗せられているかと言う事だろう。



いかに多くの肩書きを作り、役職手当を分捕るか、恐らく彼らの頭の中の大半は、どうやって自分の地位を上げ、収入を上げるかと言う事でいっぱいなのだろう。



何故国民は黙っているのだろうか?



2001年の中央省庁再編前にあった1府22省庁は再編後には1府12省庁となり、2007年に防衛庁が防衛省と改称されて1府11省1庁となり、現在に至っている。



 



実にたった8年で再び中央省庁再編論が出てきて、再び省庁を増やそうと言うのである。



 



いくら省庁が増えても国民のサービス向上には殆どつながらない。これは今から断言できる。



うまく官僚に乗せられた政治家たちが、自分のポストを求めて右往左往するだけである。



やはり日本でもアメリカのように直接選挙によって首長を選ぶ時期が来ているのかも知れない。



また官僚の持つ様々な利権をどこでコントロールするのか、或いはまともに仕事をしない官僚や役人をどうして排除するのかをよく検討する事こそ急務で、中央省庁の再編まで官僚のおもちゃにされてしまうのは、まともな国民としてたまったものではない。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



2009年05月27日 10:29


《北の脅威と核のこと》



海の向こうの隣の国でミサイル乱射と核実験が行われた。



予想どおりと言うか、やっぱりと言うか、要するに強引に核保有国になりたいのだろう。



こう言う隣国の行為に対して、核を保有しないわが国や韓国が何を言ったところで負け犬のなんとかにしか聞こえない。



アメリカはもとより、中国だってロシアだって、大きな事が言えるのは核保有国だからである。



日本は唯一被爆国だから核保有に反対し、核廃絶を訴えると言う人たちもいるが、これこそ負け犬の遠吠えでしかない。



いくら世界の平和を望んでも、真の平和は武力的均衡の中にしか見出せない。



これは世界の歴史が証明している。



非武装、非暴力による平和は理想ではあるが、所詮絵に描いた餅でしかない。



ガンジーが導いたインドでさえ、今はパキスタンとの均衡から核を保有しているのである。



 



《平和と独立の為に》



今わが国は大東亜戦争の後、アメリカの属国に成り下がった。



大東亜戦争の真の目的である、欧米列強からアジアの同胞を独立させると言う大儀を果たし、自らを犠牲にした結果今日に至った。



本来日本はこの戦争の結果に誇りを持たなければならない。



しかしアメリカは元々侵略者の国であり、自国の利益のみを求めて国力を強化し、石油利権を奪い国の繁栄を築いた。



従って自国の利益に反してまで日本を守るはずは無いのである。



本当にわが国が平和と独立を求めるのであれば、武力を強化し、徴兵制度を敷き、そして核を保有しなければならない。



そして国民全体が真剣に国の安全と平和を考えられるようにならなければ、将来に渡る平和と独立は得られない。



少し前だとこういう事を言い出すと、やれ右翼だの軍国主義だのとレッテルを貼られたのだが、今この時期にもし私の考えが偏っているだの、おかしいだのと言う人間がいたら、そう言う人こそ平和ボケの似非平和主義者だと断言できる。



自分の国の安全を、いつ裏切るか判らない用心棒に、多大な犠牲を払い続けて頼っている愚かな国家は一体日本以外のどこにあるのだろうか?



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



2009年05月23日 13:13


《豚インフルエンザのこと》



ここ2~3週間のめまぐるしさはどうだろうか。



メキシコで豚インフルエンザがはやりだしたと言うニュースが流れたときは、対岸の火事どころか、本当に他人事だった。



しかし寝屋川の高校生が感染していたと言うニュースが流れてから、瞬く間に大阪、神戸、京都と、まるで三都物語ではないけれど関西に感染者が出てきだした。



私は仕事の都合で毎週月、水、金曜日にに自宅のある大阪郊外から都心に電車通勤している。



先週は電車の中でマスクをしている人はまばらだったが、今週の月曜日にはかなりの人がマスクをしていた。



仕事を終えて行きつけの居酒屋で一杯飲んでの帰り、地下鉄では赤い顔をしてマスクをしている人が沢山いた。



これは決して発熱した人が沢山いるという訳ではなく、単に酔っ払いがマスクをしているだけの話である。



 



《マスクが消えた》



私が大阪市内に出勤するのは、大体午後2時前後なのだが、今週水曜日に中央区内を歩いていると、薬局の前に行列が出来ているのが眼に留まった。



「えっ!何で?」と一瞬思ったのだが、すぐにマスクだと気づいた。



一応自分は通勤時にマスクをしてはいるのだが、マスクに備蓄があるかどうかなど考えた事もなかった。



要するに頭の中では「マスクなどいつでも買える」と思っていたからである。



そこで自宅に電話して聞くと、ほとんど無いという話だった。



そこで鍼灸師や柔道整復師の組合に業務用のマスクの注文を頼むと、在庫無し、入荷未定と言う回答である。



私は思わず大学生の頃に体験した、オイルショックの頃を思い出した。



あの時は事務機や砂糖の卸問屋でアルバイトしていたので、トラックに砂糖を満載で走っていると、襲われそうな雰囲気があった。



砂糖はなくなるし、またトイレットペーパーなども不足がちだった。



あれから25年、まさかマスクが店頭から消える事態になろうとは夢にも思っても見なかった。



そこで私は仙台の友人に電話して、マスクの手配を頼んだ。



さすがに大阪ほどではないので、当分は大丈夫な量を確保して貰えたのである。



持つべきものは友達である。



 



《マスクでインフルエンザが防げるか?》



先日海外から帰ってきた女子高校生の中で、厳重にうがいと手洗いを実行していた子が感染した。と言う話をニュースで聞いた。



テレビでは専門家が出てきて、正しいうがいの仕方、正しい手洗いの仕方、正しいマスクの仕方と取り扱いの方法を教えてくれる。



しかし本当にあのとおり出来るのだろうか、また仮に出来たとして本当にそれで感染が防げるのだろうか?



完全に感染を阻止しようとするのなら、やはりサリン事件の時のように、防護服とマスクで外気を完全に遮断するしかないのだろう。



マスクはともかくとして、こまめにうがいと手洗いを実行し、後は運を天に任せるしかないだろう。



 



 



 



 



2009年05月16日 11:45


《入れ墨ブームか?》



最近、街角でも腕や手首などに入れ墨をした若者を見かけることがある。



昨日の夕刊の写真に、バスケットボールの選手の写真が出ていたが、彼も腕や手首付近に入れ墨をしていた。



最近は入れ墨と言わないでTATTOOと言うらしいが、何れにせよ入れ墨は入れ墨である。



このような現象はここ10年ほど前から急激に増えだしたようで、やはり欧米のアーティストやアスリートの影響なのだろうか?



《入れ墨と日本の文化》



日本は昔から道徳面で儒教の影響を強く受けていたから、儒教の説く『身体髪膚これを父母に帰す、あえて毀傷せざるは孝の始めなり』と言う言葉が長年国民に影響を与えていた。



要するに『体は両親からいただいた物だから、あえて傷つけないのは親孝行の始めである』と言う意味である。



こう言う視点で考えると、入れ墨はもちろんピアスなども親不孝だと言う事になる。



昔知人で全身に入れ墨を入れていた人がいて、「これは日本の伝統的な芸術です」と説明してくれたのだが、その人の両手の小指は第2関節から無かったので、思わず「これは日本の特殊な伝統的風習ですね」と言った事があった。



要するにあえて体を傷つけたり汚したりするのは、親不孝であると言う事を承知の上で昔は入れ墨を入れたのであり、入れ墨を入れると言う行為には、元のまともな社会には戻らないと言う一種の覚悟のようなものが含まれていたのである。



原則的にはまともな一般人は入れ墨を入れないと言う道徳的、文化的な不文律があったのである。



しかし欧米にはそう言う文化が無いし、またアフリカなどでは入れ墨はもとより体に傷をつける事が装飾とされる風習や文化が古くからあるので、どちらかと言えば欧米の入れ墨はそちらの影響なのかも知れない。



要するに日本には、一般人が入れ墨をすると言う風習や文化は従来無かったのである。



それが今のように、簡単に何の覚悟も無く入れ墨をする若者が増えてきていると言うのは、ちょうど外来種のブラックバスが日本の在来種の貴重な魚類を食い荒らすかの様な現象にも見て取れる。



《廃れる道徳教育》



いずれにせよ日本で入れ墨がブームになっているとすれば、これは日本の道徳教育が変わってきている、或いは廃れてきている事を示す一つの兆候ではないかと考えるのである。



一つの兆候だと考えれば、同じような事を示す兆候が他にも伺えるはずである。



例えば小、中、高などの学校を始め、大学から各種職場で起こっているイジメや各種ハラスメントなどもそうである。



また政治家や役人が平気で国民を食い物にする現象なども、まさにそうである。



要するに戦後アメリカが取った占領政策の骨子であった、『日本人を骨抜きにする』戦略の効果が戦後60年を過ぎた現在、ジワジワと効果を表しているのであろう。



本当にこのままで日本は良いのだろうか・・・?



 



 


 



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