2009年07月

2009年07月25日 09:47


≪もうボケは始まっているのか?≫



よく40代でもボケは始まるとか、若年性の痴呆の話を聞く事がある。

わたしなど50代の半ばであるが、人の名前を思い出せないとか、今しようと思った事を忘れてしまうとか言う事が再々起こる。



これなどもボケの一種なのだろうけれど、実は最近自分の周りに良く見かける50代以降の変化に気がついた。

年齢層はやはり50代半ばが中心で、職業はまちまちである。



あまり具体的な事は支障があるので書けないが、昔から付き合いのある人だと、さらにその変化が良く判る。



そこでその変化の様子を箇条書きにまとめて見た。



?欲が深くなる。或いは金銭に対して露骨になる。

 今までなら知人のよしみとか、或いは良心的とかという範疇で比較的安くしてくれたり、サービスしてくれていた金銭に対する部分が、徐々に世間一般でも通用しないよ  

 うなバカ高い金額を平気で請求したり、或いは平気で人の足元を見る様になったりする。



?仕事が横着になる。

 例えば職人的な部分を見ると、今までなら丁寧にしていた仕事が雑になったり、見落としが多くなったりする。

 ひどい場合は判っていても見ないふりをして済ましてしまうなど。或いは人には判らないと思うのか露骨な手抜きをするようになって来る。



?口先ばかりになる

 「やる、やる」とか「やろうと思っている」とか口では言うが一向に行動が伴わなくなる。

 またもともとそう言う傾向の強かった人は、それがさらにひどくなる。



?ピントがずれる

 若いうちは自分の興味のままに色々な部分に目を向けて、色々な知識を吸収しようとする人も多いが、ある程度の年齢になると、自分の本来やるべきことに焦点が絞ら 

 れて来て、あまり自分の方向性と乖離した部分にはとらわれなくなるものなのだが、いつまでたっても食用ガエルの様に、目に付いた興味を引くごく一部の物や情報に

 反応して振り回される。かと言ってそれを専門的に基礎から学ぶと言う訳でもない。



 



≪何が足らないのか≫



今私が感じている大きな兆候は上の4つぐらいなのだが、一人の人間が複数の兆候を示す場合もあれば、ひとつの兆候を示す場合もある。



そしてこれらの兆候と直接結び付くかどうかは判らないが、これらの兆候を示す人たちの共通性を探すと次の様になる。



?積極的に体を鍛えていない。



?積極的に脳に刺激を与えるようなトレーニングをしない、または経営や研究等で脳を駆使し、新たな刺激を受けるような環境に無い。



?エネルギー的な低下を補充するようなスキルが無い。



反対に60歳や70歳になっても先述の兆候を殆ど示さない人もいるのだが、そう言う人を観察すると、上の3つのうち最低一つに当てはまるものがある。

またまれだが3つともに当てはまる人、つまり積極的に体を鍛え、常に経営や研究で脳に刺激を受け、低下したエネルギーを補う術を知っていてこれを実践している人もいる。



こういう人は何十年付き合っていても進化しているし、「彼も歳をとったな」などと他人に思わせないのである。



 



≪老化って何?≫



こうして見ると老化と言うのは年齢的なものだけでは無く、意識するしないに関わらず、精神面、肉体面、エネルギー面の3つの要素において鍛錬していない者に特に顕著に表れる特徴であると言えるようである。



こういう話を人にすると決まって返って来る言葉が、「鍛えないといけないのは判るが、時間が無いので・・・」である。

私はそれ以上反対はしないが、本当は「時間がない・・・」のでは無くて「自覚がない・・・」のである。



そう言えば私の良く知る40代の知人に体の鍛え方、エネルギーの補い方を知っていながらそういう努力は殆どせず、日々不節制を積み重ねていた人がいたが、彼など見るたびに「歳をとったな」と思ってしまう。外見的にはすでに私を追い抜いて見える。



老化とは単に年齢的な問題では無く、どうやら生き方の結果の様である。



 



 



 



2009年07月21日 11:53


≪大雪山の遭難から学んだ事≫



北海道の大雪山に上った中高年の男女が遭難し、多数の人命が失われた。

これらの原因についてはこれから捜査が進むにつれてハッキリしてくるのだろうが、やはりガイドの責任に負うところが大きいだろう。



私などは始めから遭難の恐れのあるような高い山に登ろうとは思わないのだが、そういう山が好きな人はリスクを承知で登っているのだろうか、それともベテランのガイドを信頼して命を預けたのだろうか、それとも深くは考えていなかったのだろうか。



中3の子供が、「ガイドの言う事なんか信じるからこんな事になるんや」と言った。

まさにごもっともな意見である。



しかし中3の子供がいとも簡単にこういう事を言うと言う、世相が問題なのだろう。





そう言えば私が以前トレーナーをしていた某私立高校野球部で、卒業を間近に控えた3年生にふと「君は3年間この学校にいて何を学んだと思うか?」と聞いた事がある。

その子は即座に「大人は信用できないと言う事です」と答えた。

私はその時、その大人と言うのはその野球部の指導者を指すのだと感じたが、しかしその子の言葉では大人は・・・という風に一般化されている。



本題に戻るが、ガイドを信じて山に登ると言う行為は、果たして無謀な行為なのだろうか、それとも当たり前の行為なのだろうか?



生き残った人たちとガイドとの遭難をめぐるやり取りは新聞などに詳しく出ているが、遭難したと言う現実に即した対応が取れなかったガイドの資質に問題があるのか、それとも、根本的にガイドに命を預けた人に落ち度があるのだろうかと言う葛藤が私の中に起こった。



見知らぬ土地に来て、人に道を聞き嘘を教えられると言う事がある。

「あっ、あいつ嘘を教えたな、知らんかったら知らんと言えよ」と愚痴をこぼしてまた親切そうな人を探して、道を聞く。



この程度の事なら大した問題では無い。



しかし事自分の命に関わるような大切な事を人任せにすると言うのは、その行為自体があまりにも無謀な気がしてならない。

私は山や自然が大好きではあるけれど、遭難の危険があるような山には登った事がない。

「お前が臆病やからや」と言われるかも知れないが、私は決して否定はしない。



 



≪他人をどこまで信頼できるのか?≫



今回の事件で助かった人は単に運が良かった人だけでは無いだろう。



先ずガイドの無能さに気付き、なんとか自分で自分を守らなければならないと早く気付いた人が助かったのだと思う。



この辺が飛行機事故などとの違いである。



例は少ないが、先の中学生と高校生の現代の大人に対する見方は、ある面で正しい。



現代は他人を信頼できない時代なのかも知れない。



役人や政治家は平気で嘘をつき、自分たちの利益を優先し国民を食い物にしようとする。



一部の教師は生徒に平気で嘘をつき、生徒の期待を裏切る。



企業は品質よりも売り方の研究に力点を置く。



 



今回の登山ガイドと言うのはあくまでも肩書だけであって、遭難している事すら分からずに、結局客の命を守れない。



中には信頼できる人もいるのだろうが、どこにいるのかは判らない。



 



こうなると必然的に信頼できるに足る自分が必要になって来る。



しかし信頼に足る自分を作るのは一朝一夕では出来ない相談であり、そう言う信念、価値観を育てるところから始めなければならないだろう。



確固たる心構えと、正しい知識と、積み重ねられた経験に裏付けられてこそ信頼出来るに足る自分が築き上げられる。



経営者であろうが、研究者であろうが、サラリーマンであろうが、結局一人の人間である以上、信ずるに足る自分を築けなければ生き残れない。



まさに今回の大雪山の事件はそれを物語っている様に思えた。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



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