鉄平日記

企画制作会社ランズの社長日記

11月の読書

11月の読書

●インドネシア山旅の記 重田哲夫
●ウズベキスタン日記 高山なおみ
●古代出雲を歩く 平野芳英
●ぶらり昼酒・散歩酒 大竹聡
●司馬遷の旅―『史記』の古跡をたどる (中公新書) 藤田勝久
●闘神―伊達順之助伝 (文春文庫) 胡桃沢耕史
●決戦!三国志 田中芳樹ほか
●君たちが知っておくべきこと: 未来のエリートとの対話 佐藤優
●乱交の文化史 パーゴ・パートリッジ
●河原ノ者・非人・秀吉 服部英雄
●カウントダウン・メルトダウン上・下 船橋洋一
●パックス・ブリタニカ上・下 J・モリス

10月の読書

先週、寝床の中に久々殊能将之の『読書日記2000−2009』を引っ張り出して読んだ。残念ながら亡くなってしまったが、その読書の凄まじさ(何しろたぶんほとんど習っていないフランス語で書かれた原書を辞書引きながら読み切ってしまい書評を書いてしまう)とその博覧強記ぶりにある意味敬服していたので、なぜか読み返したくなったのだ。で、ページの最後の方にあった法月倫太郎などの後書きというか寄せ書を初めて読んでいるうちに妙に気になってネットで殊能将之を調べてびっくりしてしまった。当時おもちゃ箱カンパニー、後のオブスキュアインクという編集制作会社にいた田波さんだったのだ。おもちゃ箱時代にワープロのムックを弊社からお願いして何冊も制作を助けてもらったのである。社長の志賀さんとは今なお様々お付き合いがあって、10数年前に田波さんが作家としてデビューしたのは彼から聞いて知っていた。しかし、それがまさか殊能氏だったとは思いもしなかった。ただ当時20代だった田波さんも、ものすごい集中力のある仕事ぶりと、いつでも会社に泊まっているので実に印象的だったので、思い返せばその当時からのちの殊能氏のただものではない片鱗は感じられた。
という訳で今回、彼の書籍を何冊か買い込んで読んでいる。ああ、生きていてほしかったなぁ。
さて、佐藤愛子は私のおやじのいとこが元夫、ということで非常に親近感がある。しかしまだあったことはない。チャンスもないしね。ただ、出版される度に読んでいるが、今回のはなんとベストセラーになっている。楽しみ。

●佐藤愛子 90歳。何がめでたい  
●IOTの衝撃―――競合が変わる、ビジネスモデルが変わる
●はじめてのIOTプロジェクトの教科書 武下真典
●墨田区・江東区今昔散歩 生田誠
●どんがらがん 殊能将之
●ハサミ男 殊能将之
●殊能将之未発表短編集 殊能将之
●ミャンマーの柳生一族 高野秀行
●マーケティングのすゝめ 高岡浩三 フィリップ・コトラー
●敗北の古代史 森浩一
●神話で読み解く古代日本 松本直樹
●周―理想化された古代王朝 佐藤信弥
●カラー版 古代飛鳥を歩く 千田稔
●神部天皇は確かに存在した―神話と伝承を訪ねて 産経新聞取材班
●職業としての小説家 村上春樹

9月の読書その2

橘玲の作品は、それなりに刺激的だ。
・知能が格差(経済格差)を生んでいる。
・人種間には知能格差がある。
・女性の美醜は格差を生んでいる。
・親の思うようには子供は育たない。
などなど、上げていけばキリがないが、どれも改めて見てみればあるところ納得のいくことも多い。しかし人間は何でも先天的に、ある意味基本遺伝子によっって、そしてちょっとの環境によってだけしか決定づけられない者なのだろうか?それでも私は個々の人間の可能性を信じたい。って言うか人間は劇的にも変わることのできる生き物なのだが。

●風のゆくえ 北の動物たちを描く 増田寿志
●言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)   橘 玲
●対象商品:旅の報酬 旅が人生の質を高める33の確かな理由  成瀬勇輝

9月の読書

2016年9月の読書

日本旅行作家協会の主催する斎藤茂太賞の第2回選考もいよいよ本格的になってきた。
その関係もあって、新刊の旅行関係の書籍にも目を通すことが多くなってきた。今年はなぜか地図をモチーフにした旅関係の書籍が目に留まる。
中でも、『地図マニア 空想の旅』は今年の傑作のひとつになりそうだが、さて最終選考にまで残るかどうか。
『烏に単は似合わない』は20歳の女子大生の処女作ということで読んでみた。

●烏に単は似合わない(文春文庫) 阿部 智里
●脳にきく色 身体にきく色 (日経プレミアシリーズ) 入倉 隆
●平家かくれ里写真紀行 清永安雄
●地図マニア 空想の旅 (知のトレッキング叢書) 今尾 恵介
●大淀三千風研究 (1971年) 岡本 勝
●サピエンス全史(上・下)文明の構造と人類の幸福 ユヴァル・ノア・ハラリ
●日本人はどこから来たのか? 海部陽介
●鉄道唱歌と地図でたどる あの駅この街 今尾恵介
●地図趣味。 杉浦 貴美子
●ホンのお楽しみ (講談社文庫) 藤田 香織
●砂文 日和聡子

『葉っぱのフレディ』と絵本論試案

『葉っぱのフレディ』の帯には「この絵本を、自分の力で「考える」事をはじめた子どもたちと、子どもの心を持った大人たちに贈ります」と書かれている。これは著者の哲学者レオ・バスカーリア博士が「いのちの哲学」ともいうべきテーマを「葉っぱのフレディ」と名づけられた一枚の葉っぱの一生に仮託して優しく語る絵本である。
 この『葉っぱのフレディ』、絵本といいながら本を開いてみると、文章と絵と写真とが組み合わされたものであることにすぐに気がつく。つまり写真も象徴的なビジュアル=絵であるというスタンスにたっているのだ。
 さてこの「絵本の最初の見開きページを開くと白い空白がどーんと取られていて右ページ下に「春が過ぎて 夏が来ました。」という簡潔な文章と一枚の青々した葉っぱの絵が予感的に描かれている。次のページをめくるとこの葉っぱは左ページの中央に大きく描かれていて、この葉っぱが春に生まれ夏にはすっかり成長した「厚みのある りっぱな体」のフレディであることがわかる。右ページには春にフレディが生まれた頃の梢の写真が印象的にレイアウトされていて、この2見開きの構成だけでもテーマを予感させる「時間の流れ」と「誕生」と「成長」が象徴的に見事に描き出されていて、思わずこの物語に引きずり込まれていくのである。ここに、この絵本は幼児期の母が子どもに読み聞かせる絵本ではなく、自らがこれを本として自覚しながら絵と写真の象徴性・具象性の力を借りながらそのテーマを読み解いていく、そんなレベルの絵本であることに気がつくのである。


  10歳になって、はじめて時間の観念ができる。同時に、未来観、死生観、世界観がつくられる。これらの観念の前提には、時の流れがあり、未来の観念こそ人類に特有のもの…。(野村順一著『増補 色の秘密 最新色彩学入門』)

 難しい観念をテーマとしながら、自然にこの絵本に引きずり込まれていくその秘密はこのデザイン性、つまり絵と写真と文章の織り成すコラボレーションの力にあるといえそうだ。ところでもっと幼児期には、絵やことばは、あるいは絵本はどのように意識化されているのだろうか。幼児が色彩と形を意識し空間の概念を作るのは4歳ぐらいといわれているが、例えばその時期の幼児はどのように絵画的世界を楽しむのだろうか。

  四角形をなぞり、じゅうたんの色を比較しながら、ぼくは何日も、充ち足りてすごした。床の木の節を調べたり、興奮のあまりうっとりして溜息を交えながら、向かいの家の煉瓦を数えたものだ。(アラン・ド・ボトン著、安引宏訳『旅する哲学』)

 これは、優れた芸術とは何かを問い続けた美術史家ジョン・ラスキンが3〜4歳のときの記憶を回想したものである。すでに幼児が丸ごと色彩や形やそのコンビネーションをそのまま丸ごと受け入れていく様子が伺えるのである。

旅行に出たらスケッチを描くことを勧めるだけでなく、文章を書くべきだと、彼の用語に従うなら、「言葉で描く」べきとも感じていた。(アラン・ド・ボトン著、安引宏訳『旅する哲学』)

 そのラスキンは後年、美の印象を定着するために必要なこととして「言葉で描く絵」を提唱しているが、幼児期の体験のなかから、美をテーマに絵と言葉が相互に観照しあっていくという関係性を知り、この方法論を提示したのではないだろうか。

  俵さんは二歳から三歳のころ、『三びきのやぎのがらがらどん』(福音館書店刊)という絵本をそれこそ一日に幾度もお母さんに読んでもらっていました。幼児は好きな物語や絵本を繰り返し繰り返し読ませます。それは一か月、半年とつづくこともあります。俵さんはおそらく二歳ごろから一年以上にわたって、この絵本を読んでもらっていたに違いありません。(松居直著『絵本・ことばのよろこび』)

  幼い俵さんはお母さんが読んでくれる絵本を通して、物語を通して、ことばが楽しみと喜びを与えてくれるものであることを体験しました。ことばを聞く喜びをしったのです。ことばには見えないものを見るようにし、生き生きとした喜びをもたらしてくれる力があることを、本能的に感じとりました。その楽しいことばの世界=物語を何百遍と耳で聞くことにより、その喜びを身体で感じとり、すっかり血肉にしてしまったのです。(松居直著『絵本・ことばのよろこび』)

 松居直氏は『絵本・ことばのよろこび』のなかで歌人の俵万智がことばを感得していく過程を俵さんエッセイ「『がらがらどんどん』にはじまって」を読み解きながらこんな風に語っている。絵と母親の声とことばの総合的な作用が俵万智の語感をとぎすましていったことを、これは見事に活写している。
このラスキンと俵万智の二人のエピソードは人間の幼児期にあっては視覚経験とことば経験は相互に補完しあって、あるいはその相互作用の中でそのすべてを丸ごと認識していくことを意味している。
とするなら、もっと年齢対象をあげた児童や学生、さらには大人ではどうだろうか。「いのち」のようなテーマからも、「美と芸術」や「宗教」などの哲学的・思想的命題、さらには「教育的・啓蒙的」命題、あるいは「日常的・百科全書的」情報やノウハウまで、この絵とことばの織り成す絵本はもっと広く、そして根源的に働きかけることもできる、そんな風にも考えられるのではないだろうか。実は『葉っぱのフレディ』はこの象徴的な一冊と思えるのだ。読者はフレディを通して季節を知り、生きる喜びを知り、別れの悲しみを知り、生きるという意味を考えるのである。
 
  絵や歌や物語から受ける最初の印象は、永続的なものであると同時に、きわめて微妙なものである……私の意見をいうなら、芸術にたいする真の共感、また、あの想像力をかきたてる、他国にたいする人間的共感の正常は芽ばえは、ここからはじまる。(リリアン・H・スミス著、石井桃子、瀬田貞二、渡辺茂男訳『児童文学論』)

  立派な絵本は、読者の趣味や習慣を形づくる上に、非常にふかく、微妙な影響をあたえるもので、その大きさは、はかり知れない。なぜなら、そのもののもつ真実は、ゆらぐことがないからである。(リリアン・H・スミス著、石井桃子、瀬田貞二、渡辺茂男訳『児童文学論』)

 リリアン・H・スミスは『児童文学論』の中でアン・カロル・ムアの『三羽のフクロ』を引用して「絵本」の章をこんな風に始め、その本質に迫り、絵本論としてのひとつの到達点を示すのである。そして絵本の歴史については「絵本の伝統は、比較的短い。私たちが考える意味での近代的な絵本は、前世紀の最後の二十五年間にはじまった」と述べ、この近代的な絵本のクリエーターが「ウォルター・クレーン、ケート・グリーナウェー、ランドルフ・コールデコット」であり、彼らをもって近代絵本の嚆矢とするのである。西洋的な、児童文学的に見る、近代的な絵本の歴史はここに基本的な姿を明らかにする。しかし、私はここにもう少し幅広く絵本を考えうる視点を提起してみたいのだ。
 たとえば源氏物語にはいくつもの物語絵のあるシーンが登場する。「蓬生」の巻に末摘花が古い御厨子をあけてかぐや姫の物語絵をながめる場面があり、「蛍」の巻には玉鬘が『住吉物語』の絵に描かれた姫君に、自分の身の上のことを重ね合わせて絵を眺めるシーンがある。物語絵とは絵画の視覚効果によって物語の内容をよりいきいきと伝え、読者を物語に引き込む力があるものとして登場し、当時の貴族の姫君の情操教育のためのものとしてもこの物語絵は存在していたと考えられている。平安時代は絵を描くことは男女を問わず教養のひとつであり、贈答歌に絵を描いて贈るなど日常茶飯的なことでもあったのである。また「絵合」の巻には光源氏の「須磨」での絵日記が登場する。これは光源氏が須磨に流謫した折のつれづれを絵に思う事どもを書きつけ、さらに贈答された和歌を記した創作された絵日記だが、これらは、まさに「日本的な絵本」と呼びたくなるものである。
 時代は下って江戸時代、日本では中国の影響を受けた池大雅や与謝蕪村らの南画あるいは文人画といわれる一大画派のジャンルが台頭する。文人画の理想とするところは、画と文学を深く関係のあるものとして捉え、「詩画一致」「詩書画三絶」とよび、画のことを「無声詩」、詩のことを「有声画」と称したという。また「画中ニ詩有リ、詩中ニ画有リ」とも語り、画と詩が一体となった構成が特徴である。これもまた「絵本のデザイン」そのものではなかろうか。このように日本には、そして中国には古くから「絵本的なるもの」をかなり幅広く自らのものとしてきた歴史があるように感じるのである。
 では、西欧ではどうか。実は西欧でも、絵本という世界にとどまらずに、絵画と文章(詩)には密接な関係性があることが意識されてきている。マリオ・プラーツは『ムネモシュネ』のなかでこの絵画と詩を「姉妹芸術」としてこんな風に記述し紹介する。

  われわれが誇りに思っていた文明のその初期の開花期からと言えばまちがいなかろうが、そうした古い時代から昨日までずっと、絵と詩の間には双方向的な理解と照応関係があった。観念が絵によって表現されたのはエジプトの聖刻文字ばかりではなく、非常に豊かな象徴表現の長い伝統があったのであって、その一斑はエドガー・ウィントが『ルネサンスの異教秘儀』で見事に解き明かした。(マリオ・プラーツ著、高山宏訳『ムネモシュネ』)

  幾星霜、画家も詩人もこうした定式に基づいて仕事をした。画家たちは文学の主題に構想の霊感を得たし、詩人たちはどうやら十分には視覚芸術にしか表現できそうにない映像を文字読む人の瞼に喚起すべく努めたのである。アキレウス(アキレス)の盾をホメロスが細密描写したところにまで遡る古い伝統を一瞥するだけでもすぐ、詩と絵が互いに姉妹さながら形の目的と表現手段を模倣しあいながら、ずっと手を携え来たったことがわかるだろう。(マリオ・プラーツ著、高山宏訳『ムネモシュネ』)

 こうした視点から見てみると、はたして絵画(ビジュアル)、文章(ことば、詩)からなるそのコラボレーションの本質的な世界は、ことのほか古く、深い広がりを見せるのである。例えば教会の壁面やステンドグラスに描かれた聖書を題材にした絵は賛美歌や神父さんの語る聖書と一体となって、深く心にその精神が刻み付けられていくように創られてもいる。これも絵本のない時代の絵本、といえるのではなかろうか。
 今、絵本を語るとは、子どものための絵本を語るにとどまらず、ひとつにはこうした深い精神性をも包括しうるひとつの総合的な表現=アートであるものとして再認識しなければならないのである。
さらに、現代では、児童向けの絵本ばかりでなく、大人向けにグラフ誌、ムック、生活情報誌、旅行誌などビジュアルな雑誌を筆頭にカタログ、パンフレットなどが目白押しである。これもまた、印刷技術が進んだ現代での広義な意味での絵本ではなかろうか。いはば、現代の文化そのものが絵本という形で表現される時代なのである。今、絵本を語るとは、こうしてまさに時代の文化そのものを語ることをも視点に入れなければならないのである。

映像の文化的役割と本質について

港千尋の『第三の目』にこんな刺激的なエピソードが紹介されていた。

――しばらく前、ある本の冒頭で、とても印象深い「学び」の風景に出会ったことがあ る。『世界の再魔術化』で知られる著者モリス・バーマンが書きとめているエピソードによればヘブライ語のアルファベットを習う最初の日、教師は子どもたちにそれぞれの石版に最初の文字を蜜で書かせ、それを舐めさせたという。子どもたちは、文字を学ぶ最初の瞬間に、知識は甘美なるものであることを感得する。(港千尋『第三の眼』)

 この文章には、二つのポイントがある。ひとつ目のポイントは文字を学習すること、つまり書き文字を学ぶということは、世界を認識するいわば甘美な方法を学ぶことに他ならない。そしてもうひとつは、もしかしたら文字は視覚以外の感覚を巻き込む可能性もあるということである。

――いったい今の世界で、誰が「文字」に味があることを教えられるだろうか。文字が視覚以外の感覚を刺激するということは、無論、活字では不可能だし、まして電子テキストではありえない。「文字」を単なる伝達媒体とする考えからは、絶対に出てこないような「教育」が、かつて存在していたということである。 (港千尋『第三の眼』)

 この二つ目の点に関しては、とりあえず判断を保留して、まず、第一のポイントから考えてみよう。
 話し言葉から書き言葉へのメディア的転換は実は想像以上に深く、根源的なテーマである。この論点を、考証し深化させたのはオングである。

――彼はメディアの発展史を、口承的(oral)、書記的(chirographic)、活字的(typographic)、電子的(electronic)という4つのモードが積み重なってきた過程として把握する。オングの議論の要点は、メディアの変容を表現手段の変化に止まらず、思考や記憶の様式、世界観を根底から変えてしまう構造的な契機として捉えた点です。(吉見俊哉『メディア文化論』)

 つまり、話し言葉という口承的なメディアから書き言葉という書記的なメディアへの移行は、人々の意識を変え、思考を変え、社会認識を変えていくのである。

――口承の文化にはいくつかの常套句があり、人々の思考は、それらの常套句を組み立てることによって成り立っていました。ところが書記の文化は、こうした野性の思考が内包する力動的な構造を解体し、言葉を視覚的な記号として空間化したのです。( 吉見俊哉『メディア文化論』)

 つまり、書記的な文化によって言葉は分析的な思考の道具となる。「書く」という技術によって人間は初めて、幾何学的なものの理解と認識、分類と体系化、事象の定義、論理的推論、自己分析などを獲得するのである。このように考えてみると、メディアとは「伝達の手段というよりも、身体が世界に関わる仕方を構造化する制度」 であり、「メディアの変容は、世界を思考する技術の変容」 といえるのである。
 このようにして、書くことを自らのものにし内在化した人間は、書くときだけでなく、頭の中で考えるときも書くように考え、話すときも文字を書くように話す。つまり、書くことによって身につけた思考と新しい言葉の概念と文の構造を持って、口頭の表現まで再構成していくのである。
こうして獲得した新しい認識と思考の地平は、活字化されることによってさらに強化・再生産されるのみならず、電子メディアへの展開によってさらなる変容が促進されていくのである。

――オングによれば、書き言葉から電子の言葉への移行において、人々は再び聴覚的な仕方で出会うようになります。しかしこれは、単純に口承的な文化の復活を意味しているわけではありません。口頭から文字へ、そして電子へという発展は、ループを描いて回帰するような過程ではなく、螺旋的に位相をずらしていく積層的なプロセスなのです。電子の言葉の聴覚性は、話し言葉の聴覚性とは異なります。実際、電子メディアは、われわれを「二次的な声の文化」に導きつつも、文字文化のなかで拡大されてきた言語の逐次処理と空間化を加速度的に強化するのです。(吉見俊哉『メディア文化論』)

 このオングの電子的(electronic)という概念には、映画やテレビのみならずインターネットまでがその領域に入ると思われるが、こうした議論を深めていくのに、マクルーハンの論点からこれを検証してみたい。マクルーハンの主張は、「電子メディアの浸透が人々のコミュニケーションを線形的で視覚的な形態から包括的で触覚的な形態に移行させる」 という。

――マクルーハンによれば、活版印刷の普及により「経験を連続体として線形に把握してゆく習慣」の常習化が進み、視覚による経験の均質化が、五感が織り成す感覚複合を背後へ押しやってしまいます。近代の視覚を特権化した世界は、「話しことばがもつ複数の要素が共鳴しあう世界とは無縁」です。ところが現代になると、映像と電子の新しいメディアがこうした知覚の線形性と視覚優位を再び逆転させます。( 吉見俊哉『メディア文化論』}

 つまり、マクルーハンによれば、電気が視覚的に見えたり、聴覚的に見えるのは属性的なものに過ぎないのであって、むしろ電気は頭脳と同じように対象のあらゆる側面に、あらゆる方向から接触する手段を様々提供するものである。その意味において、実に触覚的なメディアである、というのである。こうして、映像と電子のメディアが活字時代に獲得された固定的な視点を解体させていく。つまり、知覚の線形性と視覚優位を再び逆転させ、包括的で触覚的な形態に移行させていくと主張する。これが、映画を含める電子メディアの獲得するあたらしい地平である。
 実はこの論理を、映画論としてマクルーハンの登場以前に先見的に語り、映像の文化に対する新しい関わりを告げた者にバラージュがいる。彼は1924年、『視覚的人間』で、映画が文化の一ジャンルというレベルにとどまるのではなく、大衆の精神そのものが映画を通して醸成されていく時代が到来したことを宣言している。つまり、映画は文化そのもののあり方まで、その根底から変容させうるものであることが予見的に認識されているのだ。この変化は、むしろ変革と呼ぶにふさわしく、かつて印刷術によってもたらされた変化、つまり書記的、活字的なメディア変革に匹敵する本質的なものであることも読み込まれている。

――バラージュによれば、印刷術は、数々の教会建築に示されたような「見える精神」を無数の書物によって「読まれる精神」に変え、人間の相貌を見えにくいものにしました。ところが、いまや映画(無声映画)の発達により、何百万もの人々が毎日、人間のあらゆる種類の運命、性格、感情、情緒を視覚的に経験しているのです。こうした状況は、今日の世界が「忘れ去られた表情や身振りによる言語を再び習得しようとしている」ことを示しています。すなわち、「見える精神」の復活です。バラージュはこうして、クローズ・アップやモンタージュに例示される映像表現の手法のなかに、それまでの文学や演劇の表現とは根本的に異なる表象世界の可能性を透視し、現代が経験しつつある文化変容の地平を特徴づけています。 (吉見俊哉『メディア文化論』)

 ここで少し視点を変えてみよう。メディアの変容は世界を思考する技術の変容であり、世界に関わる仕方を変革していくと語ったが、それではそもそも人間はどのように世界を認識していこうとするのだろうか。
 ギリシャの哲学者であるアリストテレスの『形而上学』という本の第一行目に「人間は生まれながらにして知ることを欲している」 とある。人間は、最も基本的な欲求として、知りたいという欲求を持っているのである。それは人間ばかりでない。生物というのは、周囲の環境と、さまざまな物質や情報を交換することによってはじめて生き続けることができる。したがって生きるために自分を取り巻く世界、環境を知るというのは、存在根拠を持った根源的な欲求なのである。自己を知り他者を認識する、ここにすでに「知」の本質が隠されている。そこに、まず分類操作というものがはじまっている。

――われわれが何かの思考をする、あるいは学問、科学をするとき、あるいはさらに実生活の上でも、いつも何らかの分類操作というものが伴っている。分類ということは高次の頭脳作用だけでなされるものではない。赤ちゃんは人見知りして、他人を分類識別し、母親と知らぬ他人とに異なった態度をとる。ライオンは自己の属する家族の群れのライオンと、他所から近づいてきた余所者のライオンとを分類識別し、雄ライオンはそれを排除するために闘ったりする。人間だけでなく、動物の中にも何らかの分類能力がある。分類するということは、すべての生物に固有に備わった能力である。 (中尾佐助『分類の発想』)

 人類は高度に発達した大脳の働きによって、対象や事象、あるいは観念までを含めてものごとを対象化するために様々に複雑な分類を駆使する。学問や種々の概念など、論理的な世界観を構築するために高次の分類はなくてはならない。しかし人間は、感性や感情だけに頼る発想、思考も自在にできる。むしろ、日常生活ではこうした論理的な分類と関係にとらわれずに自由に思考しているといえるだろう。
 そう、こうして初めて対象を、分類し、観念的に感覚的に、認識していく。そしてそれが、書き文字化され、本格的に思考の地平を獲得するのである。こうして、分類は、秩序化し、科学としての体系を構築し、体系は「記号」を作り上げていくのである。そして、映像とは、実はまた一つの記号にほかならない。

――映像と言語は、さまざまな対立的要素をもつとはいえ、世界と私たちとの間に在って、この世界を一定の人間的秩序に対象化する点では変わりがない。秩序化された世界とは、すなわち“文化”であり、私たちは世界を人間にあわせて秩序化する手段として、もろもろの記号(言語、画像、映像…)をもつのである。私たちは記号の特質、その特質を形成するコードから文化の体系を理解することができるだろうし、また文化の体系から記号の働き(伝達と意味作用)をよりよく把握し得るだろう。映像も言語も、文化とは切り離し得ぬ媒体、いや文化の体系そのものとして、私たちの社会に機能する。 ( 岡田晋『映像学・序説』)

 かくして、映像が、そして映画が文化そのものであることを我々は知るのだが、では実際、映像は何を伝える記号なのだろうか。

――まず映像として提示される多くの現実的な事物は、映像以前から、すでに何ものかを意味する記号として、現代の文化状況に確乎とした位置を占めている。すなわち文化という秩序(体系)に組み込まれ、分類され、他の事物と関係しつつ、「あらゆる対象がなんらかの形で記号となりうる潜在性」(エコー)をもつのである。バルトが機能-記号と呼ぶ自動車、衣服、料理など、人工的生産物はいうに及ばず、人間の顔、肌の色、身振り、一見自然そのもののように見える風景、季節、植物、動物に至るまで、生物・無生物を問わず、およそたいていの事物は記号の体系として把握される。そして、これら事物を記号として体系化するのは「文化の文脈」(デュフレンヌ)である。 (岡田晋『映像学・序説』)

 映像はこのようにしてみてみると、一般の表示的記号を単に再提示するものとして考えられそうである。しかし事はそれほど簡単なことではない。むしろ、体系化された「文化の文脈」の中から切り取り再提示すること自体が、記号の再編を促すのである。いい方を変えよう。

――映像は物に近い存在である(準知覚性)、と同時に心的経験の対象である(準想像性)。さらに両者は運動において結びつき、運動を通して、物は観念に、観念は物に変換する。すなわち映像は、私たちのまなざしの中で、常に生成を繰り返す記号なのだ。 ( 岡田晋『映像学・序説』)

 というのが映像の本質そのものなのである。したがって映像を見るということは、物の記号化の生成過程、つまり出来事を構造化し統合する、記号の生成そのものといい換えることもできる。そしてそれはメッセージそのものともいえるものだ。

――かくて語られた映像(ディスクールとしての映像)には、生々しい物から、もはや物が入り込む隙もないほど符号化された象徴に至るまで、多様なレベルの記号が多様な意味作用(表示、伴示、隠喩、換喩……)をともなって登場する。ワン・ショットの中で、物はみるみるうちに象徴となり、表示は伴示に変わる。カメラ角度の変化、カメラ位置の移動は、出来事を構造化し、構造を出来事に還す。レンズがとらえた混沌は、カメラの見る、私たちのまなざしがつくり出す諸関係において、記号となり意味となりメッセージとなる。すなわち、うつす―うつされる―うつると、見る―見える―見られる関係が、スクリーン上の事物、形態、光と影と色彩に、記号としての特殊な働きを与え、意味の充実を与えるのだ。それは構造的観点とは別の立場で、文化の現象学的本質をあらわしていよう。 ( 岡田晋『映像学・序説』)

 ここに面白いエピソードがある。

――非番の警察官はよく人にぶつかるという。というのも制服を着用している勤務中では、通行人が警察官に対して距離を取るために彼は行く手を遮られることなく往来を闊歩できるのに対し、非番で制服を着用していない時では、通行人は彼が警察官であることを認識できないため勤務時と同じように歩く非番の警察官はぶつかってしまうのである。 (平田周『インパクション148』)

 実は、問題は通行人あるわけではない。警察官の状況認識のあり方にある。これはヴィジュアルなイメージとか、そこにおける人間の身体性とかは、現実を写す眼のなかに存在するのではなく、あるいは眼によってのみ作られるものではなく、幾度となく刷り込まれた脳の働きによることが逆説的に見えてくるといえそうなエピソードだ。実はここで大切なのは、イメージは脳によって作られるということだが、このイメージは視覚だけ形成されるのではなく、他の感覚と共同でこのイメージ作りを成立させている、という視点ではなかろうか。この場合制服の警官は「いつも」世間の人がぶつかってこない、という触覚的感覚が、ぶつかるという身体的感覚を、そして視覚を育ませなかったのである。
 話を戻そう。映画とは、きわめて「触覚的」なメディアであるという。

――文化の外縁にあって常に新しい出来事と身体的に遭遇し、感覚レベルでそれを文化の構造に送り込みながら、物を記号に、出来事を意味に変えていく。この生成の過程に、自らもまた生成するものとして、映像は私たちの見る―見られるに機能する。(岡田晋『映像学・序説』)

 しかも、それは、

――映像は文化にあって、観念より感覚の側に、精神より身体の側に位置し、感覚から観念を、身体から精神を、からだからこころを狙う。〈略〉映像の感覚的、身体的特質は、観念あるいは精神に対して、想像的な意識の側から刺激を与え、潜在的な無意識を喚起しつつ、その意味するもの―意味されたものの関係に多様な文脈を与える。 (岡田晋『映像学・序説』)

 ものであり、その意味においてきわめて革命的なメッセージなのである。とするなら映画の役割とは、常に我々の感覚と想像力をバイブレーションするメディアであることそのものにある。マクルーハンが「メディアはマッサージする」とも語るが、これこそ映画の本質をいい表しているに違いない。

 ところで文字を学ぶということに関しては、ヘブライ語ばかりでなく、東洋でも墨をすり、精神を研ぎ澄まし、五感を大切にしながら文字を学習するという、身体的かつ精神的なアプローチを伝統的に行っている。そこには言葉をロゴス的、あるいは記号論的な世界でのみ解釈しない深遠な世界があるように思える。
 とするなら、映画を記号論的な視点以外から語る世界を獲得しなければならない。その意味においても「メディアはマッサージする」というマクルーハンの言葉は実に予言的であるのだ。

5年前のデジタルメディア論 なぜランズがiPadアプリを作るのか

5年前に私は次のような小論文を書いた。
全文引用する。


『デジタルメディアによる文化形成』
――例えばGPSが広げる新しい情報コミュニティ――

 現在のコンピュータ化社会では「アメリカ標準がグローバル・スタンダードとなっている」(顱砲箸いα按鵑ある。さらにネット社会においても、アメリカ標準がグローバル・スタンダードであるという、指摘がなされてきた。従って、ネット社会は弱小の社会やシステムに最後の鉄槌となってしまうのではないか、と言う危惧も盛んに言われてきた。しかし、その神話は今崩れつつある。あのアルカイダが、世界にイスラム過激派のネットを基盤にした悲管理志向のネットワークを構築してしまったことから、ネット社会は貧者のための強力なインフラにもなりえることを逆説的に証明したのである。
 また、一方で、「社会で流通する情報量が増大しても知識格差は解消せず、高学歴者が低学歴者に比べて情報をより良く吸収するできるため、知識格差はむしろ拡大する。」(髻 というリテラシーの問題が、今なおそこにあることも忘れてはならない。だがこの問題についても思想的ネオ・コンはこのように言う。

 知識ギャップの仮説を引くまでもなく、その時代ごとの「ニューメディア」を知的に使いこなせたのは、特権的な少数者にすぎなかった。それでもパソコン操作をメディア・リテラシーとして早期教育すべきだと主張するものは「読み書き能力の効用」が、階級格差を解消しなかったという冷厳な事実を忘れているのである。(鵝

 忘れてしまったのは、君の方じゃないの、とちゃちゃを入れたくなるようなお粗末な論理である。もしそうであるなら、我々はいまだ古墳時代にとどまっているのではないか。多くの人間はあるいは封建社会の中で、いまなお奴隷的生活に甘んじているに違いない。もちろん参政権など持ちようもないのだろう。
 「読み書き」の能力を手にすることは、世界を認識する手段を手に入れることにある。したがって、その延長線上にあるデジタルメディアの能力を手にすることができることは、より社会と深くコミットする手段を手にすることと同義であろう。したがって、デジタルメディアは貧者のインフラとしても強力に機能するのだ。それは経済的貧者ばかりではない。文化的弱者をもバックアップしていく。さて下の文字、何字読めるだろうか。  
moji


上から、「しん」、「えん」、「りょう」、「りょう」、「ろ」と読む。
実はこれ『今昔文字鏡』 から見つけた文字である。この『今昔文字鏡』には漢字・梵字・西夏文字・甲骨文字・水族文字などがなんと10万字も収録されている。この『今昔文字鏡』の意味するところは、かつては一部の知識人しか使いこなすことのできなかった、文字を多くの人が使えるようになったことばかりでなく、何より重要なことは死滅しつつあった文字や言語がデジタル的に復活する可能性を秘めている、ことである。ヒエログリフもトンパ文字も、あらゆる世界のマイノリティーな文化がデジタル化、ネット化によって息を吹き返すのである。そして、さらに新しい文化形成の地平を拓くのである。
では、デジタルメディアによる新しい文化形成をどのように成し遂げていくのだろうか? 答えを急ぐ前に、今までのメディアの基盤を人間の五感と言う視点からみてみよう。
人間は五感で得た体験や情報を、どのように表現しようかということに苦心惨憺してきた生き物である。人間がそれをフィードバックし伝達する媒体がまず音声であり、言語であり、そしてメディアであった。
 まず五感とは、情報の入力装置である。そして、この五感とは「視覚」「聴覚」「臭覚」「味覚」「触覚」のことである。では、この五感それぞれの人間の処理能力を比較してみる。

〇覲弌ー容細胞数10の8乗、処理速度3×10の6乗(bps以下同)
聴覚 受容細胞数3×10の4乗、処理速度2〜5×10の4乗
臭覚 受容細胞数10の7乗、処理速度10〜100
ぬ3弌ー容細胞数10の7乗、処理速度10
タ┳弌ー容細胞数5×10の5乗、処理速度2×10の5乗 ()

 この人間の五感で得た情報を表現するために、幼少のころから頭の中の情報をどのように表現するか、絶え間ない訓練をしなくてはならないのである。そしてまた、それぞれの感覚の特性には、驚くほどの差があることにも気づく。そしていわゆる情報のアウトプットはメディアと言う形になるが、味覚・臭覚・触覚さらには視覚までをも動員する表現は料理ということなる。
 五感を五角形の結び、頂を視覚、左上を触覚、右上を味覚、底辺の左に聴覚、右に嗅覚を配置すると、あらゆる基本的メディアは視覚・触覚・聴覚を結ぶ三角形の中に入るのである。視覚と触覚を結ぶ線上には新聞、雑誌、書籍の順に触覚に近づき最後に点字本が触覚そのもの上に配置されよう。視覚から聴覚のラインには視覚よりから順にブログ、インターネット、テレビ、映画と並ぶ。さらに紙芝居、iPod、デジタルラジオ、固定電話、音楽CDなどが並ぶ。特殊なのは携帯でこの三角形の内側にあるのである。
 つまり、視覚・触覚・聴覚で結ばれた『メディアの黄金の三角地帯』は感覚を機械に置き換えることができる空間である。従って、デジタルメディアも五感と言う空間ではこの黄金の三角地帯に位置するはずである。
しかしながら、この五感を支える構造に今までの概念ではとらえられない地殻変動が起きている。すなわち、デジタル化によって立ち上がってくるのは、時間軸と空間軸という平面から立体への構造的進化である。
では、それはたとえばどのような世界なのだろうか。GPSの新しい携帯情報システムという現在推進中のサービスを紹介しつつその可能性を論じてみたい。
 まず、この基本サービスは、大手携帯会社がわが社とその協力会社が提供するデジタルマップを搭載して展開する新しい情報サービスシステムである。その内容は、

リアルタイムGPSと連動する電子地図情報(GIS)サービスであり、地点情報連動の情報サービスが受けられるものである。しかもバリアフリーな地空間情報ポータルを形成するものである。()

 もう少し具体的に基本コンセプトを紹介しよう。
.螢▲襯織ぅGPS 
 全ての情報に緯度・経度を付与し、GPSと連動させる。いつでも自由に登録もできる。
⊂霾鵑離泪奪弉
 従って、あらゆる情報をリアルタイムにマップ化することができる。
情報はレイヤー管理
 マップ情報は、テーマとカテゴリーごとにレイヤーに分けられる。
 すなわち、レイヤーごと販売できる。
 基本情報としてパッケージ化できる。
 レイヤーごと広告メディア化できる。
ぞ霾鵑離スタマイズ化
 自分の好きな情報はカスタマイズすることができる。
 例えば、いくつかの基本情報と組み合わせて、自分好みのグルメマップなどを作る ことができる。さらにそのカスタマイズしたレイヤーに自分の情報を登録できる。
ゴ靄楙霾鵑鮃柔する各テーマカテゴリーにはオピニオンリーダーの情報管理人がいる。この情報管理人はコミュニティの主催者でもある。
α瓦討GPS情報へのアクセス自体がモニタリング行為となる、モニタリングした情 報・評価はリアルタイムに情報としても反映される。従って人気度などもチェック できる。
GPSコミュニティ
 自らがマップ情報をキーとしたコミュニティの主催者にもなれる。
地点情報
 自分の立つ地点からさまざまな地点情報を入手できる。例えば、デパートの前に立つとそのデパートのバーゲン情報が入手できるなど。
 さて、このようにして実現する情報サービスは、サービスの範囲を超えてどのような新しい文化現象を切り開くのであろうか。
 このサービスが、システムが、成功するかどうかは別として、現在あらゆるデジタルメディアの現場で、新しいプロジェクトが広く深く、虎視眈々と世界の新しい夜明けを仕掛けつつある。ハリー・ポッターに登場した動画の貼り付けられた新聞やポスターの登場も、ほんのあと2、3年という時代なのである。情報そのものが環境になる、そんな時代が生れようとしているのである。

餾監B邯福惴渋絅瓮妊ア史』岩波書店、1998年9月28日、225p
鯑云紂22p
麁云紂232p
東北大学教授内田龍男『電子ペーパー懇親会』2005年11月22日(配布資料、2005 FPD International)より抜粋
株式ランズ『リアルタイムGPSと連動する地点連動情報サービス』2005年12月


 この小論を書いたのは、2005年12月25日のことである。
 結局この携帯電話サービスは、グーグルマップを驚異的な普及に目も前にして、見直しを余儀なくされた。しかしその志向するところは現在のiPhone、iPadおよびそのアプリが実現しようとする世界そのものである。
 iPhoneの登場は、この小論の1年半後、2007年6月のことであり、iPadの日本発売は先月である。

 ランズがなぜiPhone・iPadアプリに取り組んでいるのかもこれで理解していただけルカも知れない。
 そもそもランズとは、コンピュータベーシック用語でのプログラム起動のワード[run]に由来する。複数の[s]をあえて付けることで、多重多層のプログラムを同時に起動し、さまざまなことを実行させることで新しい情報コミュニケーションを実現しようとする目的で創設した制作会社である。すなわち、すべての情報コンテンツをコンピュータを通して創造し、発信し、共有することを目指してきたのである。
30年前、その話を語っても誰もその意味を理解していただけなかった。5年前、今日のあるべき世界を提示しても、これまたほとんどの人が、興味を示さなかった。
 しかし、やっと時代が、追いついてきた。
 やっとランズの出番が来たのである。

人間の眼のRGB対応化について

もうだいぶ前のこと(4年前)になるが、藤原信也の「人間の目がデジタル化してきている」とした彼のエッセーに対して、私はこんなこんな反論をした。



『デジタル化する人間の眼』という藤原新也のエッセイ風の論文が朝日新聞に掲載されたのは先週の月曜日(※2006年4月3日)だった。ともかく彼の論点を引用整理して紹介しよう。

「ただ私個人としてはここ数年プロ仕様のデジタルカメラはプリンターからパソコンなど周辺機器をふくめてフィルムカメラのクオリティーに比べ遜色のないまでに成熟してきており、新聞、雑誌などの紙媒体での使用には問題ないと考えている」

とここまでは誰もが語ることである。ポイントは次にある。

「誤解を恐れずに言えば"人間の眼"そのものもここ30年の間に徐々にデジタル化してきていると考えており、むしろハードの方が後追いで人間の感覚に追いついてきたと言えないこともない」

つまりアナログカメラの変容以前に人間の目がデジタル化してきていた、と言うのである。
それを証明するために彼はこんなエピソードを紹介する。

「たとえばデジタルの欠陥として言われてきたダイナミックレンジ(白から黒に至るまでの階調表現)の不足という点に関して言えば、30年のスパンでフィルムを使ってきた私の目からすると、そのフィルム自体もこの間に階調の再現が広くなるのではなく、逆に明らかに狭くなっている。つまり、基本性能が低下しているということだ。わかりやすく言うなら白から黒に至る階調表現が豊富であるということは、見た目に地味に見え、階調表現の幅が狭いということはコントラストが高くなり、見た目に派手になるということだ。フィルムは"見た目"重視に向かったということである。それはユーザーの眼自体がこの30年のうちにデジタル化し(見た目に派手な映像を求め始めたということと無関係ではない」

実はこれ非常に問題のある発言である。白黒のフィルムではたして基本性能が低下しているのだろうか。カラーのポジフィルムでの変容がその本質がすりかえられて語られているのではないかと思うのだが、とりあえずここでは、彼の指摘の次を見てみよう。

「そのことは階調の表現にとどまらずフィルムの彩度においても同様のことが言える。彩度とはやさしく言えば"色の派手さ加減"のことだが、かつてのフィルムの彩度が仮に自然に近い地味な色であるとするなら、いま主流となっているフィルムの彩度はすでに飽和点に達しつつあるほど高く、人工的なものになっている」

これはその通りであって、そうした人工的な彩度の再現を特徴とするフィルムが人気である。しかもこれは彩度にとどまらず色相までを変えてきていた。これについて彼はこんな風に語る。

「たとえば木の葉ひとつ撮っても、その緑の色は実際の色とは似ても似つかない、あたかも造花の葉のように派手な色としてフィルムに定着される」

そしてそれが、「自然ではない派手な色を記憶色として脳内に定着」させていくと主張するのである。つまりそれは、写真を見るものがそれを撮影したカメラマンを含めて「きれい」と感じる「デジタル的感性」となってきたことを逆説的に証明するものであると。そしてこの、現代人の「視覚が階調の間引き」と「彩度の飽和点を求める」ようになったのは、環境の変化に負うところが大きいのではないかと、彼、藤原新也は考えるのである。そのポイントを彼は次の3点に集約する。

1、まず日本列島の総都市化によって自然の地味な色から人工物の派手な色へと環境が激変した。
2、また第二の視覚環境とも言えるテレビモニターの色は人工化した第一環境の彩度や階調にくらべ、さらに派手だ。
3、また第三の視覚環境となりつつあるテレビゲームやパソコンのモニターはさらにこの傾向が顕著である。パソコンモニターは互いの競争原理から近年ますます彩度とコントラスト比を高める傾向にある。

この感性の変化は、また瞬時に起き、かつ生物学的な脳気質の変化を生んでしまうと彼は危惧するのである。

「この彩度やコントラストの刺激による人間の眼の感性の変化は10年の歳月を必要としない。おそるべきことに、わずか10秒間で人間の眼の感性は瞬間的に変化するのだ。たとえば彩度の異なる2点の風景写真を用意し、はじめに自然の彩度に則した地味な写真を見せる。次に彩度を高めた写真を10秒間見せ、その後にはじめに見せた写真に戻ると、派手な彩度に刺激を受けた脳はそれを精彩を欠いた物足りないものと錯覚してしまうのである。仮にそのような色価の刺激が10年続いたとするなら、その錯覚が生物学的な脳気質の変化をも生んでしまうであろうことは容易に想像がつく」

したがって、「アナログからデジタルへの移行は、そういった現代人の感性のデジタル化と同時進行の出来事である」と、結論する。
この論は、非常に鋭くデジタル時代の色彩問題のありかをついているが、いくつかの不用意な認識のもとに論が組み立てられている。

では、その問題点とはなんのだろうか?

藤原新也が語る論点の最大の問題は、人間の眼が『デジタル化』している、ということである。この本質的問題を検証する前にまずフィルムの問題を整理したい。彼は「フィルム自体もこの間に階調の再現が広くなるのではなく、逆に明らかに狭くなっている」という。白から黒にいたる諧調の表現は昔は豊富で、それゆえ地味に見え、現在は狭くなり見た目に派手になったというのが、その心である。しかし、これは真実だろうか。グラフィックデザインの立場から言わせていただくと、白黒の諧調の表現はこの30年ではるかに豊かな世界を再現するようになっている。モノクロの雑誌やカタログなど、昔の印刷物と比較すればはるかに現代の印刷物ほうが諧調表現が深くひろいのだ。オフセット印刷などは数十倍に拡大してみると、すべての諧調がドットで表現されているのが見えてくるが、その肌理の細かさは現代のほうがはるかにシャープになっている。つまり写真などの再現性は高くなっているのである。したがってモノクロの印刷はシャープに諧調表現が豊かになっており、藤原新也のいう言葉はそのはじめから矛盾をはらむことになる。
彼の言わんとすることが、カラー写真の再現、ということならわからなくもない。現代の印刷は自然の実物より彩度は高く派手になってきている。特に料理写真などは肉の赤身など実物よりかなり暖色に転んでいる。しかもこれは印刷の再現性だけの問題だけでなくポジフィルムの特性に明確にあらわれきている。人気のベルビアでとった自然の木々など藤原新也の言うとおり実に人工的な?色となる。しかしこれをもってデジタル化というのであろうか。藤原新也は明らかにその本質を取り違えている。彼の論点は次の三つであった。
1、まず日本列島の総都市化によって自然の地味な色から人工物の派手な色へと環境が激変した。
2、また第二の視覚環境とも言えるテレビモニターの色は人工化した第一環境の彩度や階調にくらべ、さらに派手だ。
3、また第三の視覚環境となりつつあるテレビゲームやパソコンのモニターはさらにこの傾向が顕著である。パソコンモニターは互いの競争原理から近年ますます彩度とコントラスト比を高める傾向にある。
実はここに、ヒントがある。彼は現在の問題のありかを環境の変化によるもの本質的にとらえている。これは正しい。間違いはこれをデジタル化ととらえたことにある。印刷物はドットで再現されるから、その意味からいえば本質はデジタルである。したがって、デジタル化が進んだことによって彩度が高くなったのではない。しかも人間の眼はこれに光をあててみるその反射光にその色を見るという仕組みとなっている。この反射光によって視認される世界を構成する色彩はマゼンタ、イエロー、シアンの三原色で再現されこの三色を混ぜ合わせると黒に限りなく近くなる、という性質を持つ。木の葉の色も、花の色もこうした反射光の色であり、本質的に目に優しい。
では何が原因なのだろうか。それは、氾濫する色彩がストレートなRGBで再現されてきたからである。RGBとはレッド、グリーン、ブルーの頭文字である。つまり印刷物とは究極の反対の世界にある光の色彩そのもので再現される色彩世界の三原色のことで、これは混ぜると白色化する。つまり、ネオンも電灯もテレビもディスプレーもRGBで再現されその原色のダイレクトな光線が直接網膜を刺激して色彩を作り出す、その急激な環境変化が人間の色彩感覚を動かしつつあるのである。
先端的に機械化すること、PC化することをデジタル化するというから、藤原新也の言うことがまったく誤り、というのではない。ある意味、そのような言い方もできよう。しかし、こと色彩感覚の変化の原因という論を立てるのであればここは色彩のRGB対応化がその本質なのである。
色彩感覚とは後天的に形成される感覚である。したがって、RGB環境の中で人間が育つということは、その感覚があきらかにMYCからRGBに変化する。その変化が、今始まったところなのであり、感のいいデザイナーはその本質をもうとらえ始めている。


この2010年になり、大型テレビが一気に普及し3D映像も本格化してきた。さらにiPadなどの登場でますます時代がRGB化してきている。もう私たちの視覚はさらに変化してきている。
そういえばもうフィルムカメラもほとんど姿を見せなくなってきた今日この頃だ。たった4年のこの変化も激しい。
現在iPhoneアプリ、iPadアプリを開発しながら、ふと、4年前の日記を思い出したので採録してみた。

視覚のRGB対応化によって、「感性の変化は、瞬時に、かつ生物学的な脳気質の変化を生みはじめている」のである。

ついでにもう一言、iPadの登場が、あと3年で出版と広告と新聞と印刷のすべてを変えてしまうだろう。

5月の読書

●『遠い太鼓』村上春樹、講談社文庫
●『婆のいざない―地域学へ』赤坂憲雄、柏書房
●『オーデンの鴉』福田和代、朝日新聞出版
●『蕎麦処山下庵』山下洋輔、
●『デジタル類語辞典』Jungle
●『星兎』寮美千子、パロル舎
●『日本の色・世界の色』永田泰弘、ナツメ社
●『最速の企画書テンプレート』富田眞司、宝島社
●『美味しい神楽坂』枻出版
●『江戸時代年鑑』遠藤元男、雄山閣
●『地図と写真で歩く旅 東海道』永田一八、マイコミ
●『東京ディープ散歩』町田忍、アスペクト
●『江戸東京を歩く』塩見鮮一郎、三一書房
●『江戸10万日全記録』明田鉄男編著、雄山閣
●『村上ラヂヲ』村上春樹、新潮文庫

4月の読書

●『ごはんの友 (Gourmand note) 』乙津はじめ
● 『PEPER MUSEUM太田隆司作品集』、太田隆司、二玄社
●『ヘミングウェー短編集』 ヘミングウェー、西崎憲訳、筑摩書房
●『短編小説講義』、筒井康隆、岩波新書
●『火の贈物―ヒトは料理で進化した』 リチャード・ランガム、依田卓巳
●『使いみちのない風景』村上春樹、中公文庫
●『夜のくもざる』村上春樹、新潮文庫
●『大島渚と日本』四方田犬彦、筑摩書房
●『夢で会いましょう』村上春樹、糸井重里、講談社文庫
●『逸話で綴る三国志』坂口和澄、徳間文庫
●『中国怪奇物語(妖怪編)、駒田信二、講談社文庫

3月の読書

●『iPOd VS.キンドル 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』 西田宗千佳
●『FREEフリー〈無料〉からお金を生み出す新戦略』 クリス・アンダーソン
●『時代小説を書く』 若桜木虔
●『文士料理入門』 狩野俊、狩野かおり
●『遠くまで行くんだ…全6号1968~1974完全復刻』 小野田譲二
●『大型ディスプレー安堵デジタルサイネージ総覧2010』
●『孟嘗君と戦国時代』宮城谷昌光、中公新書
●『水滸伝に学ぶリーダーシップ』趙玉平、日本能率協会マネジメントセンター
●『漢詩の人間学』守屋洋、日経BP

2月の読書

●『デジタルサイネージ革命』
●『図解 安岡正篤の行動学 』
●『儲けを生み出す!魔法の映像看板』
●『知的生産力が劇的に高まる最強のフレームワーク100 』
●『10万年の世界経済史 上』
●『「超」情報検索・整理術』
●『できるポケット+Evernote』
●『東京骨灰紀行』
●『人間としての生き方』安岡正篤、PHP
●『論語に学ぶ』安岡正篤、PHP
●『これは「効く」Web文章作成&編集術』
●『ザビエルを連れてきた男』梅北道夫、新潮社

2010年1月の読書

●『グランズウェル ソーシャルテクノロジーによる企業戦略』 ジュシュ・バーノフ
●『視覚マーケティング実践講座 部六デザインで自分ブランドを魅せる』 ウジトモコ
●『マーケティングとPRと実践ネット戦略』デビット・マーマン・スコット
●『和歌の風景ー古今・新古今と京都』 産経新聞京都総局
●『万葉集―全訳注原文つき(1)』中西進、講談社文庫
●『万葉集―全訳注原文つき(2)』中西進、講談社文庫
●『万葉集―全訳注原文つき(3)』中西進、講談社文庫
●『万葉集―全訳注原文つき(4)』中西進、講談社文庫
●『万葉集―全訳注原文つき(別巻)』中西進、講談社文庫
●『図説 地図とあらすじで読む万葉集』坂本勝、青春出版社
●『GIMPですぐデキる!フォトレタッチスーパーテクニック2009』
●『社長は「人」に頼るな「仕組み」をつくれ!』山田博史

12月の読書

●『クラウド グーグルの次世代戦略で読み解く2015年のIT産業地図』
●『「クラウド・ビジネス」入門 -世界を変える情報革命』
●『クラウド・コンピューティング ウェブ2.0の先にくるもの』 朝日新書
●『クラウドコンピューティング―技術動向と企業戦略』
●『クラウドの衝撃――IT史上最大の創造的破壊が始まった』
●『IPhoneアプリで週末起業 』
●『はじめてのiPhoneプログラミング 』
デイヴ・マーク (著), Dave Mark (著), ジェフ・ラマーチ (著), Jeff LaMarche (著), マーク・ダルリンプル (監修), 鮎川 不二雄 (翻訳)
●『中国遊侠史』汪涌豪 (著), 鈴木 博 (翻訳)
●『中国通史―問題史としてみる 』堀 敏一、講談社学術文庫
●『四季の鉄道風景 撮影ガイド―見るだけで行きたくなる全国の名撮地200選 』真島満秀写真事務所
●『お立ち台通信 vol.1―鉄道写真撮影地ガイド 』(NEKO MOOK 1086)

11月の読書

●『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光、中公文庫
●『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光、中公文庫
●『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光、中公文庫
●『奇貨居くべし 飛翔篇』宮城谷昌光、中公文庫
●『奇貨居くべし 天命篇』宮城谷昌光、中公文庫
●『歴史のしずく』宮城谷昌光、中公文庫
●『漢文基本語辞典』天野成之、大修館書店
●『泣き虫弱虫諸葛孔明』酒見賢一、文春文庫
●『十八史略 上 新釈漢文大系20』明治書院
●『十八史略 下 新釈漢文大系21』明治書院
●『中国英傑伝(上)』海音寺潮五郎、文春文庫
●『中国英傑伝(下)』海音寺潮五郎、文春文庫
●『武霊王』桐山正
●『甲骨文・金文(中国法書選)』
●『木簡・竹簡・帛書 (中国法書選)』
●『中国五千年の物語第一巻』
●『中国五千年の物語第二巻』
●『洛陽の姉妹』安西篤子、講談社
●『十八史略(下)』安岡正篤、PHP
●『孟子』安岡正篤、PHP
●『人生の五計』安岡正篤、PHP
●『士は己を知るもののために死す』伴野朗、集英社文庫
●『なんぞそれ神速なる』伴野朗、徳間文庫
●『沈黙の王』宮城谷昌光、文春文庫

10月の読書

●『孟夏の太陽』宮城谷昌光、文春文庫
●『陳舜臣中国歴史短編集1』陳舜臣、中央公論新社
●『中国奇譚』話梅子、アルファポリス文庫
●『戦国策』近藤光男、講談社学術文庫
●『東京下町おもかげ散歩』坂崎重盛、グラフ社
●『戦国「闇」歴史』川口素生、宝島社
●『図説中国文明史3春秋戦国』創元社
●『水野流京都撮影の手引き』水野克比古、アスキー

9月の読書

●『宮城谷昌光 三国志第一巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『宮城谷昌光 三国志第二巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『宮城谷昌光 三国志第三巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『宮城谷昌光 三国志第四巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『宮城谷昌光 三国志第五巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『宮城谷昌光 三国志第六巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『宮城谷昌光 三国志第七巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『宮城谷昌光 三国志第八巻』宮城谷昌光、文芸春秋
●『春秋の名君』宮城谷昌光、講談社文庫
●『戦国秦漢時代の都市と国家』江村治樹、白帝社
●『合戦地図で見る三国志の全貌』坂口和澄、青春出版社
●『戦後合気道群雄伝』加来耕三、出版芸術社

8月の読書

●『鉄道旅行の歴史』ヴォルフガング・シュベルブシュ、法政大学出版
●『パサージュ論』ヴォルター・ベンジャミン、岩波書店
●『趙雲』PHP研究所
●『世界は分けてもわからない』福岡伸一、講談社新書
●『群雄創世記 信玄・氏綱・元就・家康』山室恭子、朝日新聞社

7月の読書

●『歴史の風、書物の帆』鹿島茂、小学館文庫
●『家庭料理のすすめ』辰巳芳子、文春文庫
●『食の世界地図』21世紀研究会、文春文庫
●『歴史のかげにグルメあり』黒岩比沙子、文春文庫
●『AUDEMARS PIGUET』角川書店
●『大作栄公式ガイド』
●『未来の読み方』日下公人、PHP
●『野菜の便利帳』高橋書店
●『知られざる真実』植草一秀、明月堂書店
●『ひとり連句春秋 脳力アップのための言葉遊び』野坂昭如、ランダムハウス講談社
●『日本の素材力』泉谷渉、東洋経済
●『撮る自由』丹野章、本の泉者』
●『ヨーロッパレンタカー旅行完全ガイド』荒俣宏・泰子、角川書店

6月の読書

●『三国史記上』三一書房
●『三国史記中』三一書房
●『三国史記下』三一書房
●『日本史の誕生』岡田英弘、ちくま文庫
●『帰化人』関晃、講談社学術文庫
●『デジタル一眼レフで撮る四季のネイチャーフォト』海野和男、サイエンス・アイ文庫
●『米国発ブログ革命』池尾伸一、集英社新書
●『「戦略PR」の仕掛け方』玉木剛、PHPビジネス新書

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