T214 仙巌園で正月気分(写真)

12日の午後、仙巌園の近所に住むN子さんに誘われて妻と一緒に獅子舞などの見学をしました。鹿児島市内は快晴で良い気晴らしになりました。

 

1 園内で桜島を背景に。

2 ボタンの展示中。

3 野田郷(出水市)の島津太鼓

4 獅子舞。噛んでもらうと福が来ると。

5 示現流の太刀を振る

6 つきたての餅を頬張る。ぜんざいも食べた(無料)。

 

私は、年間パスを持っているので今日は無料。妻は、1000円でした。

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T213 2017年の回顧

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年末にあたり、2017年を回顧しておきます。

 

8月、妻75歳が2週間入院した。鹿児島市立病院は、マンションのとなりなので、毎食事見舞いに行った。鹿児島大学病院での検査で膠原病類縁疾患と判明。結婚生活51年ですが妻の入院は初めてでした。

 

1216日、義母が996カ月で亡くなった。肝付町にある星乃家(ほのか)という有料老人ホームでの最期でしたが、この施設は新設ですがよくケアしてくれた。約8か月。その前には、鹿児島市内の成人病院に2年いたが、ここでのケアも素晴らしかった。

義母が認知症というので12年前に鹿児島に越してきたのですが、最後の2か所3年間のケアが充実していた。主介護者であった妻の苦労も大変でしたが悔いはないと言い切っています。

 

写真は、1218日、葬儀の後、肝付町内の墓地での納骨の儀式(神式)。

 

20155月、千葉県に一人暮らしだった母が入院して2カ月で亡くなったが、これで妻と私の2人とも両親を失った。

 

肝付町の妻の実家の武家門修復を契機に4年前に始めた歴史研究会の事務局の仕事を地元の若い世代に譲った。(9月から新体制)

鹿児島大学の留学生相手に私が主宰していた「日本語中級クラス」を6月で閉じた。

 

1118日、鹿児島県歯科医師会のシニアの勉強会で「薩摩藩幕末財政」に関するプレゼンをした。鹿児島の歴史への関心が深まった年でした。

T212 外国人労働者(文献案内)

【日本を取り戻せ】

 

ニューズウイーク日本語版(週刊)で河東哲夫さんの日本政治を国際社会の中で位置づけたエッセイ(p44-45の見開き。12日&9日合併号。税込460円)を読む。

 

【難民認定制度の厳格化案】

 

今朝1228日付の地元紙南日本新聞2面では、法務省が就労目的の難民申請が急増していることを受けて、2018年から厳格化した難民認定制度を運用する方針を固めたと報じています。

2010年に制度の改正があって、2016年には10901人が申請したが、難民認定は28人にとどまった。認定の審査は、申請から平均10か月かかり、結論が出るまで数年かかることもあるという。結論が出るまでの期間の就労を最初から目的にした申請が多いと報じている。

 

【農業現場は外国人実習生頼み】

 

鹿児島の地元紙南日本新聞の昨日1227日付1面では、県内の農業現場の人手不足が深刻となっており、外国人技能実習生に頼る場面が増えている。

その外国人技能実習生の行方不明が2016年で70人にも上っている。2017年は10月末現在で65人に達している。

 

【鹿児島における在留外国人の現状】

 

鹿児島県内における在留外国人は、2015年に7222人に達している。

出身国別では、

中国    2608人 フィリピン 1602人 ベトナム  1017

が多い。

 

外国人を雇用している事業者数は、201610月末で1039事業所となっている。

外国人労働者総数は、201610月末で4386

在留資格別にみると、「技能実習」が2444人である。(永住者692人)

 

鹿児島県内における外国人の教育の現状と外国人技能実習生の現状については、鹿児島大学講師の酒井祐輔先生の論文に詳しい。

*鹿児島大学かごしまCOCセンター

かごしま生涯学習研究―大学と地域

12号 20173月発行p26-p39

 

【堀口健治編「日本の労働市場開放の現況と課題」】

 

人口減少の底流の中で、労働市場を開放する場合の課題を研究した本は多いようですが、

文科省の研究費を得て早稲田大学が中心になってすすめている成果が1冊の本になっています。201711月刊というのでまだ新しい。

 

【外国人労働者受け入れと日本語教育】

 

外国人を順次日本の労働市場に受け入れていくとして重要な課題は、その目的に沿った日本語教育の充実です。本書は、20178月に刊行されたもので、日本語教育の現場からの問題提起となっています。

 

・インドネシア人技能実習生の受け入れと日本語教育 助川泰彦(首都大学)ら。

・外国人看護・介護人材の日本語教育 布尾勝一郎(佐賀大学)

 

3度目の開国】

 

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直訳すると「日本は3度開く」で、本書は1992年ニューヨークのプレーガ―社から刊行された。約300ページ。原書は、ミネルバ書房「開国」1988年です。

 

幕末にペリーによって開国した日本。

1945年の敗戦に再び国際社会に登場しなおした。

筆者の故伊部英男は、もと厚生省の社会局長などを勤め、イギリス救貧法の研究で慶応大学から経済学博士号を得た。

 

ニューズウイーク河東哲夫氏の「国際社会で日本はどうする?」の問い受けて、社会政策の視点から日本という国を問い続けた伊部先生のこの本のことを思いだした。

 

原書がでてから30年経って、2018年こそ、1853年・1945年に続くエポックが本格的に到来していると実感しています。

 

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T211 公害問題との関り

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石牟礼道子「苦海浄土」を読んだ。

この本は、1969年に刊行されているから48年前です。

1972年に文庫版となり、私が読んだのは2004年新装版の第22刷(2016年)です。

多くの人に読み継がれてきた。

 

水俣病のことを現地での取材を基盤に書いています。

 

この有名な本を読もうと思ったのは、

最近刊行された田中優子と松岡正剛の対談「日本問答」(岩波新書、1684)の最終章で、

田中(法政大学総長)が、法政大学1年の時に講義で紹介されたという。1970年、古代文学の益田勝美先生の講義だった。p312

この対談は、日本という国を芸能や文学の事例をもとに「問答」していて現在の日本の思想的な閉塞感を理解するのに貴重な本です。

 

「苦海浄土」は、多くの人に紹介され、評論されてきた本でこれを簡単にまとめることは今の私には無理です。

印象の残った文章を3か所引用します。

 

「代表ばだせ、やい、いちばんえらか奴ば出せ」p125(昭和34年)

「うちは自分でできることは何もなか。うちは自分の体がほしゅうてたまらん。今は人の体のごたる」p159(坂上ゆき。大正3年生まれ)

「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう・・・」p356(昭和43年)

 

私は、昭和40年当時の厚生省に入った。入省の際の面接で「何をしたいのか?」と聞かれて公害問題を挙げた記憶がある。

昭和45年の公害国会では、厚生省から6本の公害立法を国会に提出したが、このときは大臣官房総務課審査係長というポストにあって、厚生省原案を内閣法制局に送付するための作業の責任者でした。役所に泊まる日々が続きました。

厚生省から環境庁(現環境省)が分離する法案を厚生省として意見提出した。

 

30歳の頃、石川県庁に出向。最初のポストは、「環境保全課長」というので、廃棄物の処理や自然保護の仕事でした。県内のゴミ処理場などへ出かけることも多かった。

 

この間「苦海浄土」の本の表紙は何度か見たが中を読んだことは無かった。

 

1990年、私が(厚生省を辞めて)福祉関係の大学に勤務したころ、水俣病の補償問題を担当していた環境庁の局長が自宅で首吊り自殺したというニュースを聞いた。患者側の心情と役所の論理との板挟みにあったと報ぜられた。

「苦海浄土」の新装版には原田正純先生の解説も収載されていますが、この担当局長の自殺問題には触れていません。

T210 夏休みの読書  

鹿児島市内も本格的な夏の天候になりました。

外出は必要最低限度になりますね。

 

76歳の今は、「毎日が日曜日」状態ですが、散漫な時間の使い方はできません。

 

このところ、

2年間続けて来た日本語中級クラスをやめ、

4年間担当してきた高山歴史研究会の幹事を降りました。

夜間の会合への参加も控えています。

 

この数年参加しているSNSFacebook)を読んだり投稿したりする機会を抑制します。

Facebookへの参加方針は、「上荒田自由教室」というタイトルのFBページを作り、月に1回ほどのペースで整理していますのでご覧ください。

 

他方では、意義ある少人数の学びの機会への参加も始めています。

・社会保障に関する輪読会(月例会)

・カナダ人による英語教室(週1回)

です。

 

残りの時間は、「主夫」としての時間に充てますが、

・英書を読むこと

・地方史研究

を継続します。

 

これは、私1人の世界なので、自由な時間に自由にやればいい。

しがらみのなくなった76歳だから許される時間の使い方です。

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T209 元禄5年高野山の僧侶150人が佐多辺塚へ

今日6月19日、伊敷歴史研究会の6月例会が下伊敷の鹿児島県青年会館で行われた。
今日のテーマは、 元禄5年(1692年)、高野山の僧侶が佐多の辺塚へ流されたという話題でした。
発表は、会長の池田純氏です。
このテーマは、池田さんが南九州石塔研究会に発表されたのが初めてだという。
これを聞いた故神田三男氏の資料の他、「佐多町誌」(1973)、「佐多岬」(野田千尋、1966)の関係部分の紹介が口火です。

文献資料として、
「鹿児島市史」Ⅲ「古記」中に記述がある。
「鹿児島県史料集」25 三州御治世要覧 「年代記」に、 元禄7年5月、高野山の僧侶150人ほどが、鹿児島市内の中村へ置かれ、のちに佐多辺塚へ移された。8年後の元禄13年に許されて帰った。・・・とあります。

文献的にわかるのはこれだけですが、和歌山県側の資料や高野山の関係資料から、島津藩の関り、僧の階層、高野山の歴史などに及んだ。

写真1 休憩時間中の会場。出席は40名という。
写真2 レジュメ 4ページに及ぶ。
写真3 宮本常一の「大隅半島民俗採訪録」(未来社、1995)に、宮本が、昭和37年(1962)に辺塚を訪問し、この話題に言及していることを思い出した。(p157-8)

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T208 「花神」を読む

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司馬遼太郎「花神」(1972年)全4巻を読んだ。長州の大村益次郎の伝記です。

 

司馬の歴史小説はだいぶ読みましたが、この人の西郷隆盛像には明治以降の西郷を十分評価していないように感じてあまり好きな作家とは言えなかった。西郷の晩年については、江藤淳「完本・南洲残影」(2016年)の方がピタリときます。

 

鹿児島に越して12年目、幕末の歴史は薩摩藩からの視点で読んできました。

本書は、長州から見たみた明治維新であり、そのなかでも政治史で評価されている木戸孝允ではなく軍部担当の大村益次郎を主人公としています。

 

本書を手にしたのは、

歴史家の磯田道史による「司馬遼太郎で学び日本史」(NHK出版新書、2017)を読んでいて、「・・司馬遼太郎全作品のなかでこの作品こそが最高傑作である、と思っている」p64とあったからです。

幸い、いきつけの古書店「あづさ書房」に各巻280円で4巻揃っていた。古書店の主人も「これは読み始めたらやめられませんよ」といわれた。

 

小説を読むのにインデックスを貼りながら読んだ。

読了後、それらの中から幾つかを選んで紹介しつつ感想とします。

数字は、巻数及びページ数です。

 

2-257 大村(旧姓では、村田蔵六)は、桂小五郎(のちの木戸孝允)

に高く評価された。

 

4-236 維新後の石高を並べてみると、

西郷2000

木戸孝允・大久保利通1800

に次いで、大村1500石だった。

小松帯刀・後藤象二郎1000

板垣 800

山県 600

と続く。いかに大村が評価されたかがわかる。

 

3-180 大村は自らを「翻訳者」と規定していた。

4-228 直観力に優れていた。

 

3-138 随所に豆腐をサカナに酒2合を晩酌したことがでてくる。

3-184 この世にいるのは、「一時の方便」(仮の姿)だとしていた。

 

2-328 シーボルトの娘イネだけが彼を理解した。よく話し合い手だった。

他方で、妻のお琴との関係は寂しいものがあった。ほとんど一緒に住む期間は無かった。

 

維新史を飾る人々の司馬遼太郎的な評価が面白い。

4-13 西郷の気配り。

2-174 三条実美は、区役所の係長レベルの人物

2-25 福沢諭吉との対比

 

4-50 明治初年の段階でのちの西南戦争を予言し、対応策を講じていた。

4-70 幕末と応仁の乱との相似。

(「応仁の乱」をテーマとする本がベストセラーとなる現代と重なります)

 

大村のことをもっと知りたくて本屋で探したが木村紀八郎による伝記(2010)しかなかった。作者は、防衛大学卒業の軍人です。

 

タイトルの「花神」は、中国語で、日本で言う「花咲爺」だという。

 

薩摩藩と西郷隆盛を軸に幕末を読んできたこの10年余ですが、本書によってより立体的な理解ができたと思います。先に、河井継之助をテーマとした司馬の「峠」を読みましたが、河井と共に大村は維新史の隠れたる礎石だと思った。

 

以下、

大村の肖像画と靖国神社境内にある大村の銅像を画像検索から。

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T207 どげんかせんといかん!

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昨日530日、1730-1900まで、鹿児島市内中郡のディサービス・おた福にて、小齊平智久医師の講演会が開かれた。

 

小齊平さんは、3月まで義母(来月99歳。認知症)の主治医だった。「鹿児島医療介護塾」のメンバーとしても何度かお話を聞いています。

 

昨夜は、

この4月からオープンした「かごしま地域見守りネットワーク/みま~も・かごしま」の活動の一環として行われた。中郡地域の皆さんをはじめ、ディサービス・おた福の利用者を中心に鹿児島医療介護塾メンバーを含め50人以上が参加しました。

 

主催者側や小齊平先生のFBページやタイムラインにもアップされるでしょうが、私が受けとめた内容を記録します。

講演会終了後、20時ごろから22時過ぎまでの懇親会には20名以上が参加して医療・介護をめぐって情報や意見の交換が行われた。

 

小齊平先生の講演は、4つの段階に分けられる。

 

【1】  患者は幸せか?

との問いを受けて、Aさんの胃ろうを抜いたドキュメント。NHKで放映された番組のエッセンスが動画でアップされた。

 

【2】「上から目線」からの転換

東京で講演をした経験から、全国には医師以外でも様々な志の高い人がいることを実感。それまでは医師という「白衣」の権威に甘えていたと反省。

 

【3】患者や家族に正解を押し付けて来た

Bさんの事例。認知症で胃ろうを付けていた。家族からの要請で胃ろうをはずすプロセスがNHKで全国放映された。スタッフ全員と家族との話し合いを介して胃ろうは抜かれ、半年後に95歳で亡くなった。

 

【4】森田医師の登場

北海道の夕張で在宅医療を行ってきた森田洋之医師が非常勤で小齊平先生の勤務する病院に来た。森田先生の示唆・助言を得て、患者や家族の状況・意見を徹底的に聞くようになった。

ここでは、最近の6つの事例に即して、胃ろうを抜き、退院に至った経過を説明された。

 

以上の4つの段階で価値観の展開を経てきた結論として、

最後まで自分らしく生きるために、次の3点を訴えて講演を終えた。

 

1 医師にすべてをお任せすることはやめる

2 状態が悪化したら、自分の時間をどこで・どのように使いたいか?

自分が決断できなくなったとき代わりに誰に決断してもらいたいか?

3 話を聴き・悩んでくれる医師を探しておこう。

 

終了後に、フロアーから感想や質問が寄せられた。ディサービスのメンバーも熱心に聴き入っていました。やはり事例による紹介が平易で身につまされたようです。このような医師が身近に居ることへの驚き・安心・希望が会場に沸いていました。

以下4点の写真は、事務局からお借りしました。

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T206 大隅半島・肝付巡り(旧高山町)の骨格案  

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528日日曜日、鹿児島市内から車で日帰り旅行をしました。(T204参照ください)

そのテーマは、「大隅の古墳群」でした。

せっかくの機会だからと幾つかのプランを立てて臨みましたが、「塚崎・唐仁・横瀬」の3つの古墳を廻るだけで終わりました。

 

旧高山町にある妻の実家で武家門の修復状況を見てもらい小休止してもらっただけでした。

 

「古墳を見たい」というご希望にそったのですが、「初めての肝付町(旧高山地域)」を鹿児島市内から自家用車で日帰りするときの「古墳抜き」プランではどうなるのか?

 

・四十九所神社(宮馬場)

・盛光寺跡(肝付家累代の墓)

・道隆寺跡

・肝付町歴史民俗資料館

 

は欠かせない。

 

以下、

・高山城址(中に入り、本丸跡までは無理。入口だけ見る)

・やぶさめ館の展望台

・昌林寺跡 調所家(次男家)墓地など

・平田靭負墓(丸岡墓地)

 

内之浦地区や鹿屋地区に寄るのは日帰りでは無理です。

このほか、肝付町観光協会のサイトなどでは滝や山など幾つか上がってあげられていますが、1日では無理ですね。

 

帰りは、フェリーではなく高速道路で帰るとすれば、クニの松原(写真)に寄るのも検討の価値があります。

 

鹿児島市内に11年住み、何度も肝付町へ往復しましたが、私自身の案内でお客様をご案内したことはないのです・・・

T205 日向史への想い

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宮崎県の南部地域は、昔から「日向」(ひゅうが)と呼ばれてきた。

最近、この地域の歴史を巡る本を読んでいます。

 

写真1(冒頭)は、一昨日買った3冊。

写真2(下)は、手元の6冊。

写真3(末尾)は、このテーマを考えるためにかねて読んできた4冊。

 

以下、それぞれを詳しく紹介するのではなく、「何故、いま、(私が)日向史か?」

という観点から主なものをお話しします。

 

【新しく読み始めたもの:写真1

山川出版社「宮崎県の歴史」(1999年)は、各県シリーズで、改定されたものです。

専門家5人による分担執筆です。

・古代の古墳 宮崎の西都原古墳を知らないと、大隅の古墳群を理解できない。

・島津荘 「島津」氏の名称発祥の元となった地域が都城にある。

・南北朝時代 肝付氏8代の兼重の高城での奮闘。大隅高山(現在は肝付町)へ戻った。

・庄内の乱 大隅を治めていた伊集院忠棟の死と息子の忠真による反乱。1599年。

 

「元禄期の日向飫肥藩」 南浦文之を生んだ飫肥へは短時間ですがバス旅行で寄りそのたたずまいに圧倒された。私の主治医(鹿児島市小川町)の出身地でもある。本書は、ここに江戸時代初期住んだ「日高浅右エ衛門」の日誌から当時の社会を描いています。私の妻の旧姓は「日高」といい、宮崎経由で鹿児島に来ている。(読んでみて朝右エ門と妻の実家の祖先とに直接のつながりはなかったが・・)

 

北郷泰道「古代日向・神話と歴史」(みやざき文庫502007)では、昨日友人と訪ねた大隅半島の古墳について日向の古墳群との関連で触れています。P36。北郷は、宮崎を代表する考古学者です。

 

【手元の6点から:写真2

 

左端の「高城町史」1989年については、前に触れました(本ブログT201)。520日に仲間とバスで高城(都城市)へ日帰りした。

次の「南九州の地域形成と境界性」(雄山閣、2010)は、都城市で2009年に開催された地方史研究協議会での講演を論文としてまとめています。専門的なものが多いですが、原口泉(当時鹿児島大学教授)論文p87-95は、短いものですが都城の歴史的な特性をまとめています。

 

【徳永和喜先生:写真3

「海洋国家薩摩」2011については前に触れました。(本ブログT137

左端の厚い本は、徳永先生の博士論文(九州大学)で、「海洋国家薩摩」(左から3冊目)の理論的な基盤が書かれています。九州大学出版会2005年。


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