「人」を活かす経営の着眼点

社会保険労務士法人名南経営 代表社員 小山邦彦公式ブログ

 インターネットという言葉が人口に膾炙し始めた平成7年頃、私も含めて名南の新しモノ好きメンバー数名がこれに飛びついた。プロバイダーはBekkoameに「モザイク」というブラウザを使ってネットの海に漕ぎ出ると、目に入るのはほとんどが世界中のカオス。日本のサイトもあるにはあったが、HTMLが普及していない時代のホームページはテキストベースで読みづらい。通信もピーヒョロヒョロの電話回線128bpsモデムなので結構な時間がかかる。画像は重くて止まる。PCもやたらとフリーズする。でも「これは面白いぞ!」ということで、当時若手であったO君(現在、社労士法人の代表社員)も巻き込んでPCや通信環境を自腹で揃えさせた。相当、散財させたと思う。夜な夜なチャットや映像付PC電話、ネットミーティングでどこの誰だか分からない外国人とチャットなどをして楽しんだ。こんな遊びのような世界であったが、次の世の中に吹く風は十分に感じ取れた。革新的なネットスケープのブラウザ、ADSL通信、ペンティアムPROCPU・・・と、ネットとPC環境は日を追う毎に向上。
 こんな中、「労務に関する無償情報提供サイトを作りたい」と
O君が申し出。サイトを維持する時間も費用も全て自腹であったが、「やってみたら」ということで始まったのが、今や20年近く業界サイトトップの座に君臨し続ける「労務ドットコム」だ。このサイトは、役所に冊子で置いてある就業規則のモデルや書式などは社会的資源なので、デジタル化して誰でもどこでもダウンロードできるものにしたら便利だよなあ、という単純な発想から始まった。当然ここには法改正などの情報提供も載せることになる。セミナーの案内も楽々だ。このサイトは、私共も知らぬ間に全国の社労士に口コミで拡がっていった。社労士であれば知らない人はいないという噂も聞いた。オリジナルの簡易就業規則が全国の中小企業でダウンロードを重ねた。しかし当時、名南のほとんどのメンバーは理解不能ゆえに、「お前ら何を遊んでるんだ?趣味でやるのもいい加減にしとけ。」と幹部連中に何度も揶揄された。ゆえにかなり長い間、「労務ドットコム」はO君の趣味、という位置づけであったが、毎夜、隠れて成長を続けた。しかし、将来これが毎年数億円の売上をたたき出すサービスの原動力になるとは、私もO君も含め、誰も思いもしなかった。

 「社員の給料を正しく決める本」は平成5年の改訂新版を含めて5万5千部の発行となった。出版社にとって人事労務関連の書籍では金字塔らしい。特に改訂新版は前版とは内容を変え、中小企業での導入を意識した名南オリジナルの内容にした。今も私の賃金コンサルのベースとしている「資格給体系」はこのときに記されている。なぜかこの本は社労士ではなく税理士業界で評判になり、問い合わせが相次いだ。当時、税理士業界は経営コンサルティングに活路を見出しており、その一環に人事コンサルが位置していたのである。平成6年、早速、業界に対して影響力が大きい名南経営のネームバリューを利用し、全国の税理士事務所へ「人事コンサルタント養成講座」を案内したところ、続々と全国の事務所から参加があった。それも大手税理士事務所の労務サービス担当者がほとんど。月1回の名古屋詣でをしていただき、2年間の講座とした。参加者の方々はご苦労であったと思う。2クールほど実施した後、社労士に対してもこの講座を開催できないか、という打診があった。平成10年からある団体の中で講座を受け持つ形で始まったのだが、これが今も伝説となっている「人事あすなろ塾」だ。12回コースで東京を中心に、大阪や岡山でも開催。中小企業の人事制度構築の「今」を徹底して提供した。10年以上かけて16期続けたこの講座には新進気鋭の若手社労士のべ200名以上が参加された。当時の写真を見ると、今や皆さん業界でも有名な事務所の所長さんの面々である。懐かしい日々。「労務ドットコム」とこの「人事あすなろ塾」のおかげで、私とO君と名南経営は社労士業界でも名が知られるようになった。

 また平成6年には、大手企業の人事部の企画で、全国拠点都市にある15の関係販社の人事制度を共通化する、という大プロジェクトも始まった。販社の人事制度は全て異なっていたため、その人事制度を共通化するというとんでもないプランを現実するためには何をすべきか、相当考えた。何度も大阪本社に足を運び、打ち合わせを重ね、集合研修+個別指導という形式で実施することになった。各社にPCを揃えてもらい、人事制度講座から給与制度改定の実務までを教える。Lotus1-2-3の操作指導会になったこともあった。そして全国の販社へ飛んで個別指導。2年がかりの大仕事であった。前述の税理士事務所向けの養成講座と個別指導も重なり、膨大な仕事量になった。しかし一方で、社労士部門の経営は完全にお留守になってしまっていた・・・

 


 平成元年、ある経営誌の出版会社から賃金制度に関する特集記事執筆の依頼が佐藤所長に入った。
当然、所長は私にこの話を振り、「任せた」と一言。よくある話である。私にとっては初めての執筆であり、相当な時間を掛けて10ページ程度の記事を丁寧に書き上げた。そしてこれが名南の人事コンサルティングが世に出る処女作となった。世の中、見ている人はいるもので、ある日、東京のT出版社から突然一本の電話が入った。「先生が書かれた(経営誌の)賃金の記事は中小企業向けでとてもわかりやすい。賃金の本は大企業向けのものばかりであったので新鮮でした。ついては是非、本にしたいのですが、執筆をお願いできませんか?」という内容。これは嬉しかった。自分が書いた10ページ程度の記事が認められ、世にあまり出ていない本の執筆が舞い込んだのだ!ボリュームは250P程度。原稿締切りは2ヵ月後。書籍書き下ろし執筆の大変さなど全く分かっていなかったので二つ返事で請けた。
しかし・・・地獄を見た。社会保険算定基礎届を数十件こなしながら手書きで原稿を書く。終わりが見えない膨大で難儀な作業であった。夜と休日は返上の毎日。やっと書き上げた初稿は編集者から散々ダメ出しを食らった。実はこの電話の編集者、名うての厳しい人であったらしく、相当、鍛えられた。私が部下が書いた原稿を何度も赤を入れて突っ返す癖はこのときのトラウマである。やっと脱稿し、編集者の提案で付けたタイトルが「社員の給料を正しく決める本」。当時としては「・・・・の本」という書籍名はとても違和感があったが、初版1万部!と今としては超強気の部数で全国一斉に発売された。日経新聞にも載った。それが1ヶ月も経たないうちに重版出来。さらに版を重ねて15刷4万部に達した。言いなりで取り決めた印税もたくさん(事務所に)入った。編集者の読みのとおり、当時は中小企業向けの人事本はほとんど世になかったため、ビジネス書としてはベストセラーになった。そして裏表紙に書いた電話番号に全国から続々と問い合わせが入ってきた。私の全国区が始まった。愛知県はもとより、岐阜、熊本、徳島、大阪、広島、静岡、東京、神奈川、三重、香川、長野、茨城・・・と全国に飛んだ。熊本と徳島は飛行機を使ったが、名南で飛行機移動でビジネスをしたのは私が最初であったと思う。すさまじいながらも実に楽しい日々が始まった。そして毎日が午前様・・・


このページのトップヘ