「人」を活かす経営の着眼点

社会保険労務士法人名南経営 代表社員 小山邦彦公式ブログ

さて、名南の会計部メンバーの働き方はすさまじく、大抵は翌日の朝まで誰かが居残っていた。早朝も深夜もいつも居るので、そこに住んでいるのかと思われる人も居た。ゆえに本館の灯りが終夜消えることがなく、消防署だったか警察署だったかから、「熱田の不夜城」という有り難くもない呼び名を頂戴していた。防犯灯としてのお役目ご苦労、という意味でもあろうか。
 これを助長するように「残業食」という制度もあり、午後8時30分を超えて
残業をする場合は、近所3件の店からてんやものを取ることが許可されていた。メニューは、中華料理、味噌煮込みうどん、喫茶店のサンドウィッチかスパゲティ。ほぼ毎日、8割以上の職員が取っていた。特に中華料理は人気であったが、連日超高カロリーの夕食を摂ればカラダはどうなるか想像に難くないと思う。多くの職員が今で云う生活習慣病に罹患した。

当時、労働基準法の労働時間は1日8時間(週48時間)、残業無制限。名南は土曜日は午後3時までとしていたが、ほとんどが3時には帰らない。大抵は5時から近所の居酒屋で宴会があった。
 平成元年。人員増で所長室を4階の倉庫にまで追いやった本館は相当手狭になっており、どこかに事務所を増設したいと検討していたとき、本館の通り向かいにあった美容院の土地が空いたためすぐさま購入がなされた。平成2年、白い壁に青い袖看板も鮮やかな新たな防犯灯が建った。鰻の寝床といわれた第3ビルである。(第二ビルはすでに本館の近所にあったが、関連の別会社が使用していた。)なお、平成28年4月現在、このビルは既になく、お隣の会社の敷地の一部になっている。

 社労士の仕事は「足」が勝負だった。クルマでお客様を一日に複数件訪問し、入社や退職にかかる社会保険と雇用保険の手続き、社会保険事務所や職業安定所への届出が主な仕事。たまに労働時間や年次有給休暇の相談がある程度で、多くのお客様から「保険屋さん」と呼ばれていた。
 巡回するのは、名南の名前のとおり名古屋南部と愛知県西部が主なエリアであ
ったため、クルマでないと回ることができない。例年4月の労働保険年度更新の巡回時は、弥富町(愛知県西部の田園地帯)の畑の脇にクルマを止め、のどかな雲雀の声を聞きながら昼食のパンをかじった。
 当時、クルマには当然の如くエアコンはなかったため、夏場の社会
保険算定基礎届のための数十件の巡回は過酷を極めた。提出期限の8月10日には顔の右側と右の腕が日焼けし、肌の色が左右ちぐはぐな姿が働いた勲章のようなものであった。行く先々で出していただくレイコー(アイスコーヒー)で胃も壊したこともある。しかし、今と違ってパソコンもケータイも、さらには昭和時代はポケベルもなく、繁忙な中にものんびりした感覚で仕事をしていたように思う。
 たまに地下鉄に乗って金山(名古屋南部のターミ
ル駅)のお客様へ行くとシティーボーイになった気分で嬉しかった。金山から北は憧れのエリアであり、いつかは栄のお客様に訪問することが夢であった。なお当時の名古屋駅周辺は場末であり、ガラの悪い地帯としての認識が強かった。名駅の笹島にある北職安(現在の中職安)の周辺には日雇いにあぶれたおっちゃんたちが大勢たむろしており、冬場は焚き火をして職安の壁を3階まで焦がしていた。そんなおっちゃんたちに混じってネクタイをした若造が日雇雇用保険印紙を購入するのは場違いな感じだった。

昭和60年、それまでに先輩たちが全員退職し、責任者(課長という肩書きだった。)の私を入れて正職員3名+アシスタント2名の労務部は売上も低く、鳴かず飛ばずでお荷物のような存在であった。元々が会計部の付属部門なので営業の機能や意識はなく、特段の商品開発力もない。そんな中、「会計部がやっている給与計算20数件を引き受けろ。」という指示が飛んで来た。当時、会計部では給与計算業務は時期が縛られるためできるだけ避けたい仕事であったし、一方、労務部では売上拡大の商品として期待された。これを機に労務部で給与計算という商品が販売開始となった。これが予想外に伸び、2年で30件程度が80件に拡大。ついでに手続き業務も増加。人員も補充し、行政書士業務と損保業務の女性1人を加えて7人の体制に。このおかげで労務部は何とか独り立ちできる部門として認識されるようにはなった。当時の売上は社労士だけで5千万円弱だったと思う。
 しかしここに一大事が持ち上がる。昭和62年、戦略的な拡大至上主義の号令の下、2年限定で完全な「成果主義」が導入された。簡単にいうと、各人の年間固定給の3倍を売上目標とし、グループ構成メンバーの目標の総和がグループ目標。新規拡大の売上は1年間3倍カウント、従来先の売上は60%見做し、スポット売上は実額、で数値をポイント化し、その目標達成度を8グループで競う。達成度は決算賞与にて自動計算で還元されるが、一定レベル以下の未達では決算賞与はなく、さらに下位2グループは解散してグループ再編、もしくはリーダーが交代する、というシビアな制度である。もともと一人あたりの売上が会計部の6割程度しかない労務部は最初から負けが決まっているような制度であった。
 いろいろやったものの、1年後、やはり最下位。私は労務部リーダーを更迭され、急ごしらえのコンサルティング部(4人)に配属された。(この初期コンサルティング部時代については次回以降に述べたい。)労務部リーダーには慣れないながらも会計部のS課長が就いた。さらに1年後、やはり労務部は最下位。こうなると労務部は解散して会計各グループに一人づつ付くか、事業自体を廃止するかの議論があったようだが、結果、成果主義の終了と共に小山がリーダーに復帰した。
 この2年、如何に労務部に稼ぐ力がないか、税理士より格下の社労士がどれだけ惨めな思いをするかを、身をもって経験した。しかし幸運にも、私には生来なかった筈の反骨精神がここで生まれた。これが将来、全国的に存在感を示す人事労務サービスの発端となる。
 なお、この成果主義は結果としては大成功で、名南の顧客数は急拡大(膨張と揶揄する人もいた。)した。この時期のこの成果主義がなかったら、今の名南はないかもしれない。

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