昭和57年3月、7年在籍した広島大学生とミュージシャン生活にピリオドを打ち、故郷の東三河に戻らず、Jターンの形で名古屋へ来た。当時、比較的合格率が高かった行政書士の資格(愛知県認定)は持っていたので、関係する就職先を探したが見つからない。そんな中、学生就職センターで求人票を見ていると社会保険労務士事務所での募集があった。初めて聞く資格名であったが、一応、ミュージシャンとして生計を立てていた経歴もあったため、何でもいいから個人の力量が活かせる資格業に就きたい、という漠然とした思いはあった。そして就職したのは社労士先生と奥さん、パート事務員2人の小規模な事務所だった。怪しいキャリアながらも大卒者が来た、ということでかなり期待された。翌日から労働保険事務組合の飛び込み営業の日々が始まった。先生は意図があったのか何も教えてくれず、「経営者も労災保険に入れますよ」というトーク一本槍の営業をした。しかしなかなか話は聞いてくれない。何度か心が折れてよく営業活動もさぼった。その営業活動の中で頻繁に「名南」という名前を聞いた。半年ほど過ぎたある日、名古屋南職安に届出で寄ったときに何とはなしに見た求人票に「名南経営センター 税理士補助募集」とある。「何度も聞いた名南かあ。今の仕事は面白くないので税理士にでもなるか。」と早速、電話して翌日面接に。茶色い半5階建てのビル(往時の本館)の所長室でいきなり恰幅の良いトップの佐藤澄男(当時50歳)に会い、15分後には番頭の強面でやけに色が黒いK部長と面接。なぜか即採用が決まったが、配属先は税理士部門ではなく社労士部門。「人が辞めて足らなくなるから労務配属ね。」ということで私の本格的な社労士人生がスタートした。後になって佐藤に採用の理由を聞いたところ、「目(つき)がよかったからな」ということ。今でいえば、目ヂカラがあったということか。ただし、やはり経歴が怪しいので、「保護観察1カ月」と宣告された。当時、労務(社労士)部門は正職員5名とパート2名であった。そのうち正職員1名は行政書士と損保担当。名南には税理士部門と労務行政損保の2部門しかなかった。