名南に入って半月ほど経ったころ、例年行事である全体合宿に参加した。当時、名南は正職員数40名程度(といっても既に業界では大手と言われていた)であり、その全員で2泊3日の合宿を行う。名古屋熱田の事務所から豊川(私の故郷)の山奥にある研修所まで事務所車に分乗して向かうのだが、途中で売店(当時コンビニはない)に寄ったりして大幅に遅刻。連座でいきなり廊下に立たされた。合宿は、昼は全体での所長や番頭の講和と部署毎の分科会、夜は異様な盛り上がりを見せるどんちゃん騒ぎである。至るところで夜を徹して大声で議論が行われていた。ライバルの「○○事務所、倒せーよ!!」と円陣を組んでのシュプレヒコールも終わりがなかった。夜中に合宿所を抜け出し、朝の点呼に居ない猛者もいた。その合宿中、労務の部長が急な腹痛。かなりの痛みらしく、うめきのたうち回っている。これはまずい、ということで急遽、地元に明るい私が勝手知りたる病院へ車で搬送。胆石だった。殊勲である。しかし、名南はこんな体育会系で熱い事務所とは思わなかった。今思えばすさまじいエネルギーである。当時、名南が通った後はペンペン草も生えない、と言われるほどの営業をしていた。特に税理士部門の営業は他の事務所の追随を許さなかったという。
 しかし、方や労務部門はのんびりしており、税理士部門の金魚のフンそのものであった。たまにある紹介先の手続きを承る程度で、給与計算も、就業規則も、労務指導も、ほとんど行っていなかった。明らかに社労士は税理士より格下であり、それを承知していた当時の労務の部長も限界を感じていたのか、あと1年で退職し、独立することが既に決まっていた。そして翌年、部長が去り、相次いで先輩3人が退職。労務部門は壊滅状態となった。残ったのは私と入ったばかりの中途採用男子2人、パート2人。ピンチであった。でも、こうなっては逃げられない。なぜかそう思った。昭和60年、こうして30年に亘る労務部門のリーダーの役が始まった。