少し話しは戻って昭和58年、会計部の顧客拡大に伴い、就業規則の案件もぼちぼち出てきた。当時、「ワープロ」はないので世にある就業規則のほとんどは手書き青焼きである。生来の悪筆ゆえ、なんとか手書きは避けたいと思っていたところ、本館2階の電算室の隅に埃をかぶっていた大きな和文タイプ機があった。誰も使わないと云う。早速これを弄繰り回してマスターし、いろいろな文書を作った。便利なので所長はじめいろいろな人から文書作成の依頼が来る。
 また、当時マニアの間で流行っていた「マイコン(シャープ製
MZ)」を弟から譲り受け、ベーシックで簡単なゲームプログラムを組んで趣味に興じていた。この流れで、数件ではあったが、年末調整を手計算でやる苦痛から逃れたいため、マイコンでしこしこと自作の年末調整ソフトを作成。これが大活躍した。お各様が来て利用したり、検算で使ったりもした。
 さらに昭和60年頃には電算室でお払い箱になっていた「オフコン」で所長セミナーの文書やDMを作ったりして、このハイテク?分野ではかなり活躍した。セミナー事務局や情報管理室のような仕事も自然と回ってきた。小山は器用だということで便利屋になった時期である。(おかげで随分、本来の仕事の時間を取られた。)数年後、待ち望んでいたキャノンの「ワープロ(専用機)」の初期型機1台が
事務所にやって来た。当時、こういう類のモノは誰も触らないので私が黙って独占させていただいた。これもたまたま電算室にあったパソコンNEC9800(なんと表計算ソフトLotus1-2-3R1.0入り!)や、後に登場する最初の東芝ダイナブックもしばらくは同様の運命を辿る。電算室は私にとって宝の山であった。
 因みに、昭和時代の会計担当者は半数近くが算盤の達人、残りが電卓ぽちぽち組。タバコの煙で向こうが霞んでいる本館3階で算盤を弾く音が響いていた。キーボードなるものは本館
2階電算室でTKC伝票入力をするベテランパンチャーさんしか扱えなかった。しかし、平成になってワープロが大量導入され、続いてワープロソフト「一太郎」とLotus1-2-3」がバンドルされている東芝ダイナブックが普及し始めると、会計部の事務作業は劇的に変わっていった。この取り組みは業界では全国的に相当早かったと思う。こうして名南のIT化は着々と進み始める。