November 23, 2009
里見英樹のデザイン

世の中には物事のあり方を抜本的に変える作品が時たま現れますが、あずまきよひこの「あずまんが大王」もそのひとつです。この漫画以降、4コマ漫画を含めた漫画の作られ方は劇的に変わり、「なんでもない人々」の「なんでもない日常」を舞台とした「なんでもない物語」が漫画として成立して普及する契機になりました。その装丁デザインをやっているのが、あずまきよひこと一緒にデザイン会社「よつばスタジオ」を立ち上げた里見英樹氏。
里見さんはシンプルでインパクトのあるレイアウトと文字のオブジェクト化、キャラクターへのストーリー性の付加、一目で記憶に残るキャッチコピーなどを特徴とする装丁デザイナーで、「アイデア」でも特集されています。たとえば以下のあずまさんが現在連載中の「よつばと!」の単行本デザイン。

レイアウトとか各巻の微妙なバリエーションもさることながら、キャッチコピーが秀逸です。「どこかで見た、どこにもない場所へ」とか、ちょっと目頭が熱くなりますよね。
その里見さんとあずまさんのエポックとなるあずまんが大王の連載開始10周年を記念して「新装版」3冊とムック「大阪万博」が発売されていますが、この中身が面白い。

イラストや設定資料、当時の記録などを収録しつつ、そこに里見さんが注釈をいれていきます。小気味いい文章なんですがその時々にどのような判断があってデザインが行われているかがわかって興味深いです。要素のレイアウトといい単純化といい、もはやピクトグラムの域というか、groovisionsやディック・ブルーナを彷彿とさせますね。


他にも独特な世界観をもった作品の装丁デザインも多く手がけていて、店頭(ビレバンなど)で「一風変わっているな」とおもったらだいたい里見デザインだったりします。目次や裏表紙なども面白いので一度読んでみては。




![idea (アイデア) 2009年 05月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41A4NCgzP5L._SL160_.jpg)
November 15, 2009
またまた展覧会など
最近の講演会、展覧会のログ。
杉本博司氏 講演会「アートの起源」
第21回高松宮殿下記念世界文化賞 絵画部門を受賞した杉本さんの講演会が立教大学であったので行ってきました。杉本さんは直島美術館・護王神社などで知ってから、ギャラリー小柳の個展などに行ったりと詳しくはないですがなにかと接してきました。
実際に喋ってるのを見るのは初めてでしたが、こんなにユーモアにあふれた人だとは思ってませんでした。冒頭からいきなり会場を真っ暗にして高松宮殿下の短歌を引用して自ら朗読したり、ところどころyoutubeから無断でとってきたという動画や笑いを交えてとてもわかりやすい講演を組み立てていて、舌を巻きました。こんなにウィットに富んでいて退屈させない講演会ははじめてかもしれません。
氏のフットワークの軽さや多岐にわたる興味とそれらの収集と統合には刺激をもらいましたし、自身の作品を指して「象徴性を扱いたい」「モダニズムからポストモダンになって、また揺り返してモダニズム的なことをする時期ではないか」などと言われていたのは僕自身の興味の方向ともリンクして興味深く聞かせていただきました。
アイ・ウェイウェイ展 何に因って?
名前は知ってましたが実際に作品を見るのは初めて。予想以上に抽象的な表現で、すんなりとみることができました。ただ抽象度が高かったり伝統に対する切り込み方が過激だったり質量が巨大だったりというある種の過激性があるから現代美術足り得ていますが、手法そのものは単なる引用とコラージュ(中国の古材や家具、茶葉、家型、組み木、中国の地図、龍など)でしかなく、目新しくは感じられませんでした。








建築学会の光環境シンポジウム 西沢大良×菊池宏
とても面白かったです。特に菊池さんの光の捉え方は独特で、「窓から光が入って、天井面でワンクッションさせてから、ぐわっと室内に広がっていくように」「明るさを知覚するためには照射面が必要で、空間の中心に光源ではなくモノがある方が逆に空間の明るさ、質を対象化して認識できる」「開口部から入ってくる風や光、熱などを個別に扱いたい」など、光を質量を持った流体のように捉えていたのが印象的でした。
あと西沢さんが「今の照明は、点灯の仕方が野蛮」と言っていたのもとても共感できました。パッとついたり消えたり、明るさの変化が急峻で、たしかに不快な瞬間は多いです。信号機や車のテールライト、ビルボードの装飾が最近LEDになってきて、ハロゲン灯のようなついたり消えたりする瞬間の「フワッ」という一瞬の輝度のグラデーションが街中になくなってきたように思います。前を走っている車がブレーキを踏んだときに、何の前触れもなくテールライトの輝度が最大になってヒヤッとするというのは決して僕だけじゃないはず。小気味はいいんですが、情緒がないというか。
最近LED照明が徐々に多くなっていますが、本来LEDはここら辺の操作が容易で、西沢さんが言うような「ゆるやかな点き方」が広く実現できるのではないか。タレルのアートとかMacのスリープランプの明滅なんて、色っぽいじゃないですか。
そこらへんの人口照明に対する両氏の考えがもっと聞きたかったですが、今後に期待ですね。僕も建築や場所をみるときに明るさに気をつけてみたいと思います。
ちょっと話は変わりますが、つい昨日知りましたが糸魚川の谷村美術館が閉館してますね。今すぐ取り壊しにはならなそうですが、僕の個人的好きな建築ベスト5に入るものなのでショック大でした。
DESIGN HUB:谷村美術館 ー視線のコントロールー
建築浴のおすすめ 村野藤吾の「谷村美術館」が閉館に
杉本博司氏 講演会「アートの起源」
第21回高松宮殿下記念世界文化賞 絵画部門を受賞した杉本さんの講演会が立教大学であったので行ってきました。杉本さんは直島美術館・護王神社などで知ってから、ギャラリー小柳の個展などに行ったりと詳しくはないですがなにかと接してきました。
実際に喋ってるのを見るのは初めてでしたが、こんなにユーモアにあふれた人だとは思ってませんでした。冒頭からいきなり会場を真っ暗にして高松宮殿下の短歌を引用して自ら朗読したり、ところどころyoutubeから無断でとってきたという動画や笑いを交えてとてもわかりやすい講演を組み立てていて、舌を巻きました。こんなにウィットに富んでいて退屈させない講演会ははじめてかもしれません。
氏のフットワークの軽さや多岐にわたる興味とそれらの収集と統合には刺激をもらいましたし、自身の作品を指して「象徴性を扱いたい」「モダニズムからポストモダンになって、また揺り返してモダニズム的なことをする時期ではないか」などと言われていたのは僕自身の興味の方向ともリンクして興味深く聞かせていただきました。
アイ・ウェイウェイ展 何に因って?
名前は知ってましたが実際に作品を見るのは初めて。予想以上に抽象的な表現で、すんなりとみることができました。ただ抽象度が高かったり伝統に対する切り込み方が過激だったり質量が巨大だったりというある種の過激性があるから現代美術足り得ていますが、手法そのものは単なる引用とコラージュ(中国の古材や家具、茶葉、家型、組み木、中国の地図、龍など)でしかなく、目新しくは感じられませんでした。
建築学会の光環境シンポジウム 西沢大良×菊池宏
とても面白かったです。特に菊池さんの光の捉え方は独特で、「窓から光が入って、天井面でワンクッションさせてから、ぐわっと室内に広がっていくように」「明るさを知覚するためには照射面が必要で、空間の中心に光源ではなくモノがある方が逆に空間の明るさ、質を対象化して認識できる」「開口部から入ってくる風や光、熱などを個別に扱いたい」など、光を質量を持った流体のように捉えていたのが印象的でした。
あと西沢さんが「今の照明は、点灯の仕方が野蛮」と言っていたのもとても共感できました。パッとついたり消えたり、明るさの変化が急峻で、たしかに不快な瞬間は多いです。信号機や車のテールライト、ビルボードの装飾が最近LEDになってきて、ハロゲン灯のようなついたり消えたりする瞬間の「フワッ」という一瞬の輝度のグラデーションが街中になくなってきたように思います。前を走っている車がブレーキを踏んだときに、何の前触れもなくテールライトの輝度が最大になってヒヤッとするというのは決して僕だけじゃないはず。小気味はいいんですが、情緒がないというか。
最近LED照明が徐々に多くなっていますが、本来LEDはここら辺の操作が容易で、西沢さんが言うような「ゆるやかな点き方」が広く実現できるのではないか。タレルのアートとかMacのスリープランプの明滅なんて、色っぽいじゃないですか。
そこらへんの人口照明に対する両氏の考えがもっと聞きたかったですが、今後に期待ですね。僕も建築や場所をみるときに明るさに気をつけてみたいと思います。
ちょっと話は変わりますが、つい昨日知りましたが糸魚川の谷村美術館が閉館してますね。今すぐ取り壊しにはならなそうですが、僕の個人的好きな建築ベスト5に入るものなのでショック大でした。
DESIGN HUB:谷村美術館 ー視線のコントロールー
建築浴のおすすめ 村野藤吾の「谷村美術館」が閉館に
November 13, 2009
天皇陛下即位20周年記念国民祭典に思う中心性と祝祭のありかた
五十嵐太郎の「皇居前広場は忘却されている」という言説を高専時代に読んだときから、僕の中では東京という都市と皇居の存在は不可分なものとして捉えられています。ロランバルトも「東京という都市の特徴は中心が空であることだ」と言っていますが、戦後史的にも都内に住んでいる実感としても、都市に横たわる「零度の中心」の存在、天皇の存在は僕にとって常に興味ある対象です。だからこそ卒制の時もはじめに選んだ敷地は皇居だったし、それに絡んでこんなエントリも書きました。そして空虚の中心・零度の象徴としての天皇制、象徴浮揚行為としての祝祭とそのための空間である皇居前広場、そしてその忘却も興味深い現象でした。
皇居前広場に関しては空間政治学を標榜する原武史氏の言説に詳しいですが、実際に皇居前広場を訪れるとその異質性にびっくりします。この広場の歴史は日本が日露戦争に勝ってから始まりますが、それ以降戦時中の諸行事や敗戦時の総土下座、その後のメーデー事件など歴史的・政治的な重みがあったにもかかわらず、それらが全くなかったかのような謐然とした地面が広がり、人もまばらで、国体を象徴する記号もなにもありません。自分が戦前を知らないからかもしれませんが、ともかくなんらかの感慨がわき起こるとっかかりががない。にもかかわらず広大な空間が茫漠と存在している事実。
その皇居前広場が国家の名の下に「祝祭」の場として使われたのは戦後数回しかありません。そして昨日の12日が天皇陛下(やはり陛下っていうのは抵抗がありますね)即位20周年記念で国民「祭典」が行われるということで、これは行くしかないと思い立ったわです。(このことはつい二週間ほど前「思想地図」のアーキテクチャ特集での原さんと東さんと北田さんの鼎談を読んでて知りました。あれを読んでなかったらこんな祭典があるなんて知らなかったでしょう)
戦時中のパレードなども歪んでいたにせよそこに「祝祭性」が必要とされていたことは重要です。今日の日本で都市における祝祭可能性は死んだも同然で、おそらく今後もよほどのことがない限り復活しないでしょうが、もしかしたら今回の祭典で皇居前広場に人が数万人ほど集まり、本当の祝祭が、それも国体のもとに発現されるのではないかという希望がありました。
チケットは手に入れれなかったので式典には参加せず記帳だけしてきたのですが、やはりそこにあったのは空虚な祝祭だったように思います。あってもらっても困りますが日の丸がそこここに掲揚されている訳でもないし、盛り上がってるわけでもない。人もそこまで多くないし、街宣車もいないし、厳重な警備がある訳でもないし、報道陣がわんさか詰めかけている訳でも、ヘリが何機も飛んでいる訳でもない。
リオのカーニバルやアメリカの大統領選挙、中国の軍事パレードなどが本当の祝祭かどうかは難しい問題ですが、なにより衝撃的だったのは祝祭性の演出意図が全くなかったことです。一応式典参加者には日の丸が配られてましたが、入り口が「Aゲート」「Cゲート」といった味気ない(しかも英語!!)もので、カラーリングもどこかの博覧会場のようでしたし、BGMが流れている訳でもなく、各県の踊りパレードとそれに隣接する各県のブースは規模が大きいだけの「街の物産展」のよう。東京マラソンのように何ヶ月も前から街のあちこちで広告が出ていた訳でもない。宮内庁が企画運営しているのでしょうが、よほど予算がないのか、「祭典」をする気がないか、もしくはきわめて高度な計算によって「国威」や「禁忌」や「歴史」を宙づりにして存在感を消した「なんでもない祝祭」を演出したかのどれかでしょう。
夏目漱石の「こころ」では先生の死に明治天皇の死が深く関連していましたが、そういった個人が依拠する基盤としての中心がありえた時代ではない今日、一介の学生が自国の象徴の呼び方に困る今日に、国家が執り行う祝祭、中心性のあり方はやはりこれが正解なんだろうなあ、と複雑な感慨とともに思いました。
思ったんですが日本の祭りってどれだけ人が集まろうが基本的に静かですよね。祭囃子はありますが、人間が発する声が主役になる祭りってないように思います。そういった「無言の祝祭」というのはおもしろいかもしれません。たとえば皇居前広場が人で埋まってるんだけど、彼らは微動だにせず、言葉も発さない。そして壇上に天皇皇后両陛下が現れておもむろに手を振ると、全員が礼、それをもって祭典終了ーーとかだったら意外と日本的な「いい」祝祭だと思うかもしれません。
<追記>
内容を読み返して、読み方によっては「筆者は戦前、戦時中の保守的な祝祭作法が復活するのが望ましいと考えている」と誤解されるかもしれないな、と思ったので一応否定しておきますね。ただ今回の祭典のあり方がいいとは思えないということです。



