新建築 2008年 01月号 [雑誌]


LIVE ROUND ABOUT JOURNALのエントリは当ブログではかつて無い反響だったのですが、それはやはり昨今メディアに蔓延している建築における「言葉と建築」の問題・・・建築手法の主体化・即物化・非言語化について、同時代の建築人がある程度以上にセンシティブになっているからだと思います。


奇しくも、今月号の新建築で、原さんが月評で正にその問題を取り上げていました。


その中で原さんは、自身が30年ほど前に「あらゆる評価は主観的である」と書いたこと、また「イデオロギーの崩壊、哲学の消失に合わせて、言語の変革が起こった。それが建築にも波及し、言語の無媒介性があらわになった」ことを反芻し、そしてメルロ・ポンティの言やハイデッガーを引用したところまでで、非言語的な建築のつくりかたが敷衍された背景を描き出しています。(おぉ、原さんの中でもやはりイデオロギーの崩壊が問題の根幹を形成している)

しかし、そういった流れの果てに現れた、主観が前景した「カワイイ」建築における「テクネー」の喪失を嘆かれています。この場合のテクネーとは技術というより技法のことで、「言葉と建築のそれぞれにある技術を指し示す態度」を指し、それが「欠落している」とまさに長谷川さんが会場で指摘したことを構造化して論じています。

そして「ほんの10年間ほどで、建築が一気に軽くなったように、言葉も軽くなるのが望ましいだろう。技術(=テクネーのことと思われる)は時代と共に展開するのだから」と、アイロニカルに現状を肯定してみせていますが、しかし最後に、1922年に「すでにカワイイ話を書いていた」ジョイスのリミックス的文体(スタイル)のコラージュが50年後のポストモダンで引用されたことを例に出して、おそらくは同時代的に進行する建築の「主体化・即物化・非言語化」が単なる時代性の現れではない、つまり現代において「カワイイ」的建築構成手法を採るという選択に必然性はないはずである、と声高に現状に対する問題提起をされているように思われました。



ちょっと悲しかったのが、文章の節々で丁寧すぎるほど括弧付きで注釈をつけておられることに、原さんが本論で対象としているはずの、「カワイイ的風潮」の中にいる読者の建築言語リテラシーに対する失望を感じたことです。

この原さんの強烈なクリティシズムをリアリティを持って受け止められるだけのメンタリティ、思考の土壌が僕も含めて今の世代の学生にあるのか。「カワイイ化した(ボクの言葉で言えば、即物化した)建築言語」に侵された私たちに対する、これは原さんの叱責だと思います。



Web2.0で、学生でも建築誌等に寄稿しなくても広く発言する事ができるようになりましたが、そこで紡がれるエクリチュールにどの程度の深さが、客観的裏付けがあるのか。憂鬱になりつつも、原さんという大御所からの問題提起を契機とした、揺り戻しとしての「言語の復活」に期待を感じた月評でした。