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DESIGN HUB

巨大なスケールで扱える変数を。大きな環境にヒューマンな尺度を。建築設計者のライフログ。since 2004

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9 Jan

けいおん!の聖地 旧豊郷小学校 ストーリーを紡げる建築へ



2010年、数多あるアニメーション作品の中でも格別の存在感を放った「けいおん!!」。OPやEDなどがオリコンで何度もランクインしたり、ローソンで関連フェアがあったりしたので知っている人も多いでしょう。京都から帰る時に、京津線で大津まで行ったので、勢いに乗って近江に行き、けいおんの舞台である高校のモデルとなった旧豊郷小学校に行ってきました。



「けいおん!」は女子高に通う5人の女子が3年間の高校生活(一期と二期)において、軽音楽部を結成して成長していく物語。原作はかきふらい、制作は京都アニメーション、監督は山田尚子。京都アニメーションならではの緻密な書き込みと、空気感を持った画作り、空間を強く意識した構図などを土台とし、主人公達のほんの些細な心の動きや変化、所作を山田監督ならではの細やかな着眼点で見事に映像化している、素晴らしい青春群像劇です。



その舞台、豊郷小学校はこの近江八幡に多くの邸宅を残したヴォーリズの設計によるもの。びっくりするほどの名作でもないし、ヴォーリズにしては装飾が控えめだったりしますが、質が高い建築です。常々思いますが、近代建築やモダニズム建築など、彫りの深い建物は真夏の強い日差しか、夕焼けの鋭くもやさしい陽光の下で見るのが一番美しいというか、見るのにふさわしいと思います。反対に、現代建築は冬や曇りの鈍い光で輪郭が定かでなくなる瞬間に真価を発揮するように思います。




図書館。



左側が軽音部の部室入り口で、右側がジャズ研の入り口。ここは建物正面にある三階部分です。


軽音部の部室。けいおん!では、物語の多くがこの部屋の中で進行します。


今では見られない、小さいガラスを集めた格子窓。丁度光に向かって撮っているのでハレーションを起こしています。劇中でも、ほとんどのシーンで内側から見る窓はハレーション気味に描かれており、外界から切り取られた主人公達のみの世界を演出しています。


部室に続く階段。腰壁に丸く空いた飾り窓が特徴的。













こういう影とか、すきまから差し込む光、切り取られた風景というのは、今のあっけらかんとした、明るくて軽い、フェティッシュの塊みたいな建築には完全に失われてしまった、遺産のようなものだと思います。でもこういう風景、空間が、ピクチャレスクなイメージや記憶を呼び覚まし、建築にストーリーを与えるのだと思います。







続く空間。




講堂。




学校や省庁の建築物は、そこで多くの時間が過ごされ、それに様々なレベルで参加する人々の意識が投影されます。その受け皿としての建築は、人々の体験や記憶、意識、まなざしといったものを受け止めるだけの力があるべきだと思います。完全に時代遅れの考え方ですけど、これからのストック化されるべき建築は、そういった象徴性、物語性に立脚して建設されるべきだと、僕はそう思います。物語といってもいろいろあってね、という難しい話や、演出的建築の可能性に関しては最近いろいろ考えているので、また今度。



けいおん!はただボーッと見ていると、なんの内容もないほんわか日常アニメに見えますが、細かいところにこだわって観察すると、劇中での様々な関係性や個人の性格、考えていることなどがよくわかって感情移入が出来ます。このEDでも、冒頭の歩き方一つとっても5人全員が違います。画面に散らばった意味を拾い上げることが楽しくなる、見れば見るほど発見がある、そんな作品です。見たことのない人は、ぜひ見てみてください。けいおん!!16話と番外編25話がおすすめです。



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13 Nov

天皇陛下即位20周年記念国民祭典に思う中心性と祝祭のありかた




五十嵐太郎の「皇居前広場は忘却されている」という言説を高専時代に読んだときから、僕の中では東京という都市と皇居の存在は不可分なものとして捉えられています。ロランバルトも「東京という都市の特徴は中心が空であることだ」と言っていますが、戦後史的にも都内に住んでいる実感としても、都市に横たわる「零度の中心」の存在、天皇の存在は僕にとって常に興味ある対象です。だからこそ卒制の時もはじめに選んだ敷地は皇居だったし、それに絡んでこんなエントリも書きました。そして空虚の中心・零度の象徴としての天皇制、象徴浮揚行為としての祝祭とそのための空間である皇居前広場、そしてその忘却も興味深い現象でした。

皇居前広場に関しては空間政治学を標榜する原武史氏の言説に詳しいですが、実際に皇居前広場を訪れるとその異質性にびっくりします。この広場の歴史は日本が日露戦争に勝ってから始まりますが、それ以降戦時中の諸行事や敗戦時の総土下座、その後のメーデー事件など歴史的・政治的な重みがあったにもかかわらず、それらが全くなかったかのような謐然とした地面が広がり、人もまばらで、国体を象徴する記号もなにもありません。自分が戦前を知らないからかもしれませんが、ともかくなんらかの感慨がわき起こるとっかかりががない。にもかかわらず広大な空間が茫漠と存在している事実。

その皇居前広場が国家の名の下に「祝祭」の場として使われたのは戦後数回しかありません。そして昨日の12日が天皇陛下(やはり陛下っていうのは抵抗がありますね)即位20周年記念で国民「祭典」が行われるということで、これは行くしかないと思い立ったわです。(このことはつい二週間ほど前「思想地図」のアーキテクチャ特集での原さんと東さんと北田さんの鼎談を読んでて知りました。あれを読んでなかったらこんな祭典があるなんて知らなかったでしょう)


戦時中のパレードなども歪んでいたにせよそこに「祝祭性」が必要とされていたことは重要です。今日の日本で都市における祝祭可能性は死んだも同然で、おそらく今後もよほどのことがない限り復活しないでしょうが、もしかしたら今回の祭典で皇居前広場に人が数万人ほど集まり、本当の祝祭が、それも国体のもとに発現されるのではないかという希望がありました。

















チケットは手に入れれなかったので式典には参加せず記帳だけしてきたのですが、やはりそこにあったのは空虚な祝祭だったように思います。あってもらっても困りますが日の丸がそこここに掲揚されている訳でもないし、盛り上がってるわけでもない。人もそこまで多くないし、街宣車もいないし、厳重な警備がある訳でもないし、報道陣がわんさか詰めかけている訳でも、ヘリが何機も飛んでいる訳でもない。

リオのカーニバルやアメリカの大統領選挙、中国の軍事パレードなどが本当の祝祭かどうかは難しい問題ですが、なにより衝撃的だったのは祝祭性の演出意図が全くなかったことです。一応式典参加者には日の丸が配られてましたが、入り口が「Aゲート」「Cゲート」といった味気ない(しかも英語!!)もので、カラーリングもどこかの博覧会場のようでしたし、BGMが流れている訳でもなく、各県の踊りパレードとそれに隣接する各県のブースは規模が大きいだけの「街の物産展」のよう。東京マラソンのように何ヶ月も前から街のあちこちで広告が出ていた訳でもない。宮内庁が企画運営しているのでしょうが、よほど予算がないのか、「祭典」をする気がないか、もしくはきわめて高度な計算によって「国威」や「禁忌」や「歴史」を宙づりにして存在感を消した「なんでもない祝祭」を演出したかのどれかでしょう。


夏目漱石の「こころ」では先生の死に明治天皇の死が深く関連していましたが、そういった個人が依拠する基盤としての中心がありえた時代ではない今日、一介の学生が自国の象徴の呼び方に困る今日に、国家が執り行う祝祭、中心性のあり方はやはりこれが正解なんだろうなあ、と複雑な感慨とともに思いました。



思ったんですが日本の祭りってどれだけ人が集まろうが基本的に静かですよね。祭囃子はありますが、人間が発する声が主役になる祭りってないように思います。そういった「無言の祝祭」というのはおもしろいかもしれません。たとえば皇居前広場が人で埋まってるんだけど、彼らは微動だにせず、言葉も発さない。そして壇上に天皇皇后両陛下が現れておもむろに手を振ると、全員が礼、それをもって祭典終了ーーとかだったら意外と日本的な「いい」祝祭だと思うかもしれません。


<追記>
内容を読み返して、読み方によっては「筆者は戦前、戦時中の保守的な祝祭作法が復活するのが望ましいと考えている」と誤解されるかもしれないな、と思ったので一応否定しておきますね。ただ今回の祭典のあり方がいいとは思えないということです。
9 Sep

ArchiTV 説明会

さる8日、10月の4、5日に行われるArchiTVの説明会に参加してきました。8月にあった顔合わせ&各団体プレゼンは院試があったのでARCHILIVE!!のコアメンバーである浜田君に行ってもらっていましたが、今回は彼がコンペなどで忙しいのでボクのみの参加。

ArchiTVのコアメンバーとお会いしたのは初めてで、また初見の参加団体とも初顔合わせ。理科大や明治、東工大のAirやDeSC、5er、g86らとはイベント的には久しぶりの対面。アーキサミットを思い出しますね。


8日は前回プレゼンしなかった(できなかった?)横国の「Y-PAC」、理科大・日大他の「tef-tef」などの団体がプレゼン。


送信者 ARC 一時保管


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各団体とも独自のフィロソフィーを掲げて活動を行っており、かつ実体を伴ったアウトプットをしているのが印象的でした。ARCHILIVE!!は「本」という静的な一次情報を、議論することによって現代の建築の状況に翻訳するという動的な活動に繋げれることが面白いのですが、やはりアウトプットが脆弱だと再認識させられました。 モノではなくテキストベースの活動ですが、「各自のブログにログをアップ」以外にも再生産的かつ有効な方法があるはず。



その後はArchiTVコアメンバーから当日のタイムスケジュール、イベント内容の説明。開催日まで一ヶ月を切っている割には不確定な部分が多く、また代表が当日海外にいるというなんとも不安な状態ですが・・・大丈夫でしょうか。特に新世代のイベントなど、早々にアナウンスしないといけないと思うんですが・・・

段取り・事務連絡等に不安が感じられる進行でしたが、ともかく当日を楽しみにしていたいと思います。



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あと、ArchiTV 2008のフリーペーパーにARCHILIVE!!の紹介文を載せていただきました。 当活動を第三者に紹介してもらうのは初めての経験で、うれしいやら、面白いやら。 アウトプットの部分についてはまさにご指摘の通りで耳が痛いです(^^)
18 Feb

ARCHILIVE!!開始

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突然なんだ!と思うかもしれませんが、実際になにかを作ったりインスタをしたり、インタビューしたりといったプロジェクトグループを立ち上げました、という話ではありません。

首都大の友人と始めた、「建築の歴史を知ろう」というごく基本的な活動です。しかし、個人的には結構いろんなやりたいことを詰め込んでいて、具体的なやり方は結構面白いと思っています。


具体的には、建築学における「必読書」を各自が購入し、集合してぶっつけ本番で読む。そこで一冊を全部読むのではなく、その本でキーとなるであろう章を何個か選択し、各パラグラフを読み終わったところで30分程度のブレストを行い、それを1ターンとして何回か繰り返す。そして家に帰ってから、議論で浮かび上がってきたキーワード・自分の所感などを各自が自分なりのやり方でブログに書きだして、お互いに見合う。原則として一冊の本は一回の集合に対応づける、ブレストはICレコーダーで録音・共有するーーーというものです。


この一連のフローには結構多くの実利的意味があって、
1、各自が購入するのは「必読書」なので出費をしてもムダにならない。また集合する各自の趣味指向を考慮する必要がないので、無理なく毎回の参加人数を最大化できる
2、ぶっつけ本番で読むので、予め時間を割いて読んでおく必要がない
3、多人数で時間を区切って読むので、一人で読むより短時間かつ集中して高効率に読むことが出来る
4、初見で読み終わったその場で内容について議論するので、その本の本質を一気に読み取る力をつけることが出来る
5、共通のソースについて議論するので、効率よく「議論力」をつけることができ、その一部始終を録音して後で聞くことで自分の喋り方・議論のクセ・問題点を反芻できる
6、時間を区切って録音しているという緊張感から、ムダなだべりが生まれない
7、最終的に文章でアウトプットすることにより自身の思考を深めることができる
8、各自がお互いのブログに飛んで文章を見合うことでクリティークが生まれ、文章力を養うことが出来る
9、ひとつのアカウントを持ったHPでだれかが記事を管理するのではなく、各自が自身のブログ内で記事を書くことが出来るので、ムダな作業のボトルネックが生まれない。また、完全に自分のテイストで文章を展開でき、事後の管理も容易
10、継続して見合うことで、人的繋がりが維持される


この前第一回をやりまして、上手く回る手応えを感じました。相手にするのは「本」という枯れたメディアですが、このフローはまさに「LIVE!!」なものでした。もうちょっと回数を重ねたら友人のブログにリンクを張ろうと思います。


この会(というよりソリューション)ーーARCHILIVE!!をやろうと思ったのは、とりもなおさず自分の基本的知識、そして議論力の欠如に危機感を覚え、一方それを克服する時間も環境も盤石ではなかったからです。建築を学び始めて大分経ち、自分の興味の対象も絞り込めてきましたが、このあたりで逆に「必読書」、すなわち「思考の定点」の脆弱さを実感するようになりました。所謂必読書をどれだけ読んでなかったのか。「必読書を一回につき一冊」というのも、ともかくこの会を高頻度で催してコミットする本の数を増やす(読み終わらなかった章、また自分が関心ある本は各自で読めばいい)ことを目的とした縛りです。

ARCHILIVE!!用にHPを開設するのではなく、各自が自分のブログに書くというのも面白いと思います。STAND ALONE COMPLEXではないですが、各自のコミッションもより自分本位になるでしょうし、各自のブログの中でもいろんな変化が生まれそうで現代的なアプローチだと思います。建築に限らず、ある程度やる気のある学生が集まっていればこの「LIVE!!」は試せると思います。予想外に面白いですよ。


名前をARCHIREAD!!ではなくARCHILIVE!!にしたのも、今後のことを考えてある程度の冗長性を持たせたかったから。「全ては建築である」と仮定するなら、建築以外の「必読書」を読んだり見たりすることも可能でしょう。

いろんな展開が出来ると思っています。参同者募集!!(^_^)
17 Feb

D-tusの閉鎖に思うこと

当DESIGN HUBも記事提供させてもらっていたデザインブログポータルの「D-tus」が閉鎖されました。

D-tusはデザイナーのナガオカケンメイさんが主催しているD&DEPERTMENTが行った実験的「プロジェクト」で、デザイナーやデザイン系のブログ記事の最新記事をカテゴライズして表示するポータルサイト。これをきっかけに知ったデザイナーさんや考え方もあり、非常に有用に活用させてもらっていただけに、非常に残念です。

ナガオカケンメイさんも嘆かれていますが、確かにD-tusの運営は端から見ていてもうまくいっているようには思えませんでした。単に各ブログから記事をRSSで拾うだけではなくて、例えばリアルで業職の垣根を越えたディスカッションの場を設けてテキストに起こすとか、いろいろ展開の仕方がある、ポテンシャルがある「場」だと思っていたのですが・・・。



ボクもとある非営利団体の運営に関わっていますが、やはりどんなことをやろうとしても人的、金銭的、時間的リソースは限られていますし、その中で成果を最大化させるのは難しいと思います。また、アウトプットの方法にもよりますが、その組織が持つうるユニークビジターの絶対数によっても出来ることが変わってくるでしょう。50人しか集まらない講演会に招かれた多忙な人間が、当人の時間を割いてまでコミットするメリットを感じるかどうか。

「言葉を発するとき、群衆の数を意識することほど愚かなことはない」という言葉もありますが、行動を起こすなら出来るだけ多くの人を相手にしたい、多くの人々に問いかけられるほどのリーチを持った発言をしたいものです。
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主催執筆 中島弘陽

1985年
富山県生まれ
2000年
石川高専 建築学科 入学
2006年
東京理科大学
工学部第二部 建築学科 編入学
2009年
東京大学 大学院
工学系研究科 建築学専攻 入学
2011年〜
日建設計
設計部 東京本店 勤務予定

建築計画学 西出研究室 所属

koyonet.dh.2199@gmail.com
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