編集後記++

れっつねがてぃぶしんきんぐ☆

2006年05月

夜景に見ているもの。

久しぶりにトラバ。

まあここに書くことはごく短いのですが、
僕は夜景をみるとき、そこに「構成要素としてのひとつひとつの光」
を見ているなぁ、と思って。

一つ一つの光が、
たくさんの人の幸せや苦しみ、そして「生」を背負っていて。
それが美しいなぁ、と思っていることが多いです。
(渋谷のスクランブルにしてもそう。
一つ一つの人が背負う時間や空間にアンテナを伸ばすときが幸せ。)

ぴくちゃあおぶざわあるど

目に見えぬもの築き上げたんだ
不確かだけどね全部あるから
いつの時代(とき)でも似たようなもんだ
自分の立った位置(ばしょ)で正当化してく

(GARNET CROW「picture of the world」)

げ ん か い

下の記事とは関係ないです。

現在の症状
■めまい
■はきけ
■目のかすみ
■手の震え
■眠気
■だるさ

とりあえず栄養ドリンクとガーネットと昼寝を餌に生きてます。
1時間寝ると2時間活動できるようです。


今更体力のなさを呪ってもも仕方ないので、
愚痴って軽くなったところでさっさと休もうかなぁ、、
(とりあえずPCやってるばやいでわないですね

報告。

ええと、内輪なんですが、
バクメ退会しました。

ごめんなさい。
無理でした。
無理なのは最初から分かってたんだけど。

敢えてわざわざ抜けるとまで思い立ったのには2つの相補的な理由があって。
想像以上に周りからその中にいるというふうに言われる(そしてそれが辛い)のと、
その事実をどうしても自分のアイデンティティの中に取り込めないのと。
互いが互いの理由。
もっと器用に生まれたかったのですが。

外、というか、
実質的には今までと変わらない位置から、
緩く見ているほうが好き。なのです。
許されるのかわからないけれども。



まあそういうことで。

かなりどうでもいいただの日記

髪切りに帰ったのに結局寝ちゃった。てへ☆(滅)5限行かなきゃ。
授業に間に合うっていうのは開始じゃなく終了に間に合うことを言う。

ていうか某自炊冊子締切り過ぎてるーこんやもねむれんーわがけんこうをぎせいにしてく○○い○んのみなさまのふくりこうせいにこうけんするのだー(棒読み)
そういえば今月はまだ活動を保証されてないわ。行かなきゃ。

とりあえずさっき馬鹿にした「売れ行き商品」でも飲んで頑張りますかね…。

ね む い 。

やっぱりるーてぃんに戻るにはちょっとリハビリいるわー。
充電する時間がどこにもないのですがですが。
でもこれからそういうことってもっともっと増えてくのかなぁ。

愚痴というよりは、
「疲れた顔してる」って言われたので、
それじゃ結局は「ルーティン」ではないなぁ、と思って。
まだまだですね。うん。

イチ押しとか

068e563c.JPGぜったいてきとう

いちげん?何それおいしいの?

「北森 レポ 物質・生命一般」で検索したらココがヒットした件について。
それから、下クラのサイトの第一パスワードを当ててしまった件について。

っていうかどうでもいいからレポの答えをおくれ。

ここからが勝負。

五月祭、なんとか無事おわりました。
よかった。
なんか昨日の記事(追記以外)が自分が意図したよりも明るく見える。
まあいいんだけど。

「幸せ」よりは「楽しい」に近いかなぁ。裏方。








そして、明日からこそが、勝負。

思い出はいつ「完成」するのか、というと。
(いや、「完成」なんてしないんだろうけど、
いつ「思い出」として成立するのか、というと。)
それがちゃんと「思い出」になったときだと思う。
連続な時間の流れの一部分の記憶、ではなくて、
完結したひとつの物語として思い起こされるようになったとき。
何日、(あるいは何ヶ月、何年)前のこと、ではなくて、
ただただ「昨日のことのような」思い出として思い出されるようになったとき。

そして、そうだとすると、
現在ある生の記憶が「思い出」としての形を与えられていくのは、
明日からのルーティンワークの中で起こる現象、なのだ。
だから。


明日からこそが勝負。
きっちりルーティンに戻ること。

specialをちゃんとspecialとして識別できるように。
「メリハリ」ってそういうこと、だよね。きっと。

ごがつさい(1日目)

おつかれさまでした。
とりあえず完売。採算達成。いやほんとよかつた。
まあそんなことよりも皆楽しそうだったからね、お兄さん満足だよ(誰)。
裏方は楽しいわぁ。
誰かのために生きてる、そんな気持ちになって。
あしたも気楽に頑張りませうぅぅ。







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ちょっとかっこいいと思った比喩

科学の基礎に哲学があるわけでも、
哲学の基礎に科学があるわけでもない。
例えば、
人間の思考様式を科学的に明らかにする脳科学が哲学の全てを予告できるわけでも、、
脳科学的のような科学的な思考様式を哲学だけによって語りつくせるわけでもない。

そう思えるとしたら、
それはエッシャーの滝の絵の一部を眺めているのと同じ。



まあツリー型ではなくてリゾーム型っていうやつっぽいけど(内輪・苦笑

駄目系

パソコンでもつけるか!
と思って立ち上がったら既にPCつけてた。

お疲れ様です。>ALL

明日が本番なのに「お疲れ様」って、
とは思いますけれども。
まあ五月祭頑張りませう。

とりあえず責任者の仕事は全ての情報をもっておくことですね。
もっと徹底するべきでした。ごめんなさい。


それから、
やっぱり自分には石橋を叩いても渡らない人生のほうが向いてるなぁ、とか。
マイラの村で鋼のよろいを買っちゃう人生。
まあ楽しめなかったわけではないけどね。
ありがとうございました。
キャパ越え感出しすぎでごめんなさい。
普通に体調もちょっと悪くてごめんなさい。



ネタがないのに更新してごめんなさい。
更新のための更新、とか意味がないと思ってたんだけど。
でもなぜか、更新したくて。続きを読む

fill away

理想的な状況は「凪」じゃなく「追い風」であるということ。
言い聞かせるほどではないけど見失っていたような。
凪も「良い状態」ではあるんだけどね。

一人の時間を充実させること。
それは、凪でも、風を読み違えても、
コンスタントに前進できるエンジン。

一人か他者と関わるかとかいう単純な軸ではない気がするけれど。



結局
「目には見えない強い絆なんて
 求めちゃうからきっと辛くなっていくんでしょう?」
と一刀両断されてしまうわけですが。

猫とベンチ

バンプの曲っぽいですね。何も関係ないけど。<タイトル



で、タイトルですが。
そうありたいもの×2。

猫のほうは、漱石の「吾輩」のようなやつ。
ひざの上でのどを鳴らしながら、
周囲に集まる人間たちの話を聞くのです。
憧れというよりは羨望。
そういられたらいいなぁ。そういられたらいいのに。

それから、ベンチ。
公園にあるやつですかね。
普段は自然にそこにあって、
特に存在感を感じさせることなく、
でも、疲れて必要としている人に安らぎを提供できたら。


必要とされたいのじゃなくて、大切にされたいのかもしれない。
否。
両方だ。きっと。
どちらにも「特別に」という修飾語はつかないけどね。




中で歯車が立てる音が、
微かに聞こえてもどうすることもできないけれど、
またうまく回りだすことを祈ることだけはしております。

というか、こう一斉にいろんな方角から聞こえてくるものかねぇ。
そして、そのどれにも手が届かない。
それは、自分で選びとったポジションなのだけれど。
とりあえず、ベンチでいられたら自分的には合格、かな。




とりあえず、目の前のことをきっちりこなしていこう。

←懲りてない。

まあ見てみるといいよ☆

っていうかコレ高校のときごくごく一部の人にしかわかってもらえなかったんですけれども。
絶対おもろいって、絶対。

ただの日記(ですらない)。

ちなみに、
昼食の時間がずれてたのでまだおなかいっぱいです。
夜食時に一人でお酒を飲むかどうかかなり迷ってます。


そういえば、
明日2限提出のレポートがある上に
1限は予習必須な上に
5・6限は試験だったような。

やばいですね。
甘えてないで
(っていうか具体的にはにうさんのところでふぇいさんが紹介されてた(ややこしいな)「どせいさんフォント」に刺激されてフリーフォント探したり、ハイリア文字フォントとかぜったいやまだ嬢興奮するやんーとか思ったり、自分のブログがどんな検索ワードで引っかかるか試したり、その途中で某chの大塚さん(叩き)スレに引っ掛かって意外と批判がまともだなぁとか思ったり(ファンであることとそれが客観的にもいいと思うことは違う(っていうか最近のあの人の記事は明らかにDPZ向きじゃないとし)と思うので)、そうこうしてるうちにmixiの誰かの日記が更新されてるーとか思ったり)してないで、
自分で自分の時間をハンドリングするのが大人ですよね。
ははは。

祝われるということ。

祝われたいと思ってしまうことと、
そう思いたくないと思ってしまうことは仕方ないとしても、
祝われたときぐらいは手放しで喜んでも許されるよね?きっと。
というわけで。


祝ってくださった皆さん、本当に感謝いたしております。
そしてそれ以前にというかそれ以上に、すごく嬉しかったです。

ありがとう。

通常更新。

昨日寝すぎて眠れないのでだらだらとネット。
もう寝ますが。

久しぶりに内田さんのブログに貼ってみます。
多分ネタバレしない方がおもしろいので以下追記。
続きを読む

「大人」になりました。

メール、コメント、その他それぞれの形で祝福してくれた皆さん、
ありがとうございました。
特に古い付き合いの皆が多かったりしてすごく嬉しかったです。
(該当者はあんまりココ見てないと思うケド。)
あ、「特に」とか書いたけど、
もちろんそれぞれは比較できるものではないですけどね。



「変化」はまず与えられて、
それから内化されるものなのだと思います。
だから、これからの日々こそが大人への日々なのかな、
とか思ったりもしつつ。

はっぴぃばあすでぃとぅみぃ。
(自分への気合として。)

ふりかえる。

「消えてゆく毎日の中 たまには立ち止まってみなきゃ
わからない事もある なんて思う」(A crown)
だから、区切りは大事にしたいのです。


たとえそれが進歩史観という独断だとしても、
自分が背負ってきた時間を「成長の歴史」と捉えられることは、
そして、それ以前に、
振り返りたくなる人生を歩めたことは。
既に幸せなのでしょうね。
(そしてそう思っとくほうが幸せ、
という二重構造。)
これまで皆さんありがとう。

名残惜しいのは「未成年」という肩書きではなく、
過去そのものなのでしょうけれども。
夢去りし、数え切れぬ、
幼い優しさに守られていた日々。

こんなところで言っても全然足りないのだけれど、
この20年間の間に出会うことができた皆さん、
ありがとう。本当に。

そこにいて、「成長」に立ち会ってくれたことに、
そして関わってくれた皆さんはさらにそのことにも、
感謝させてください。









追記は蛇足。続きを読む

青空

26f67a8c.JPG実は久しぶり。
もっと空を見よう、と思った。

そろそろ

一瞬一瞬が重く感じられます。
大事に過ごしたい。

実際は何も変わらない、ということには気づいているんだけどね。
それはむしろいつもだって同じように大切、ということだと思うけど。



まあそうも言ってられないくらい忙しいんですけどね。
少しは一人で感慨に浸る時間も欲しいのですが。
今日は寝るために使わないといろいろと無理だし。。

めもめも

機械論的身体→全体論的身体
というのと、
作品→テクスト
というのには同じような構造があることがわかった。
というメモ。

頭のいい人と話すのは楽しい。
(「頭がいい」という形容詞が適当かは別として。

昨日の続き的な

実際に解剖してみたわけですが。

ええと、一度記事消えたんでちょっと短めに、、(涙)

意外と抵抗はなかったです。
料理に近い感覚。

というか、もっと最初から物体として捉え続けるべきだ、
と思った。
「ゴメンね」って言うのといわないのとどっちが残酷かって言うと、
言う方だと思った。
他者だと捉えながら殺してしまうのだから。

料理に近い感覚、と書いたけど、
食べ物としての生物を考えると
一般的にはもっと分かりやすいと思う。

教育原理の授業で、
この話について少し触れられました。
(明日本格的に触れるんだったような。)
この取り組みは大人がやったとしても残酷だと思う。
つまり、もともと他者というか、
むしろペット=家族という特殊な他者としてみていた動物を、
裁いて食べられるか、という。

養豚場で育てられる豚とペットの豚とは全く違うもの。
それは、我々との関係において。
前者は徹頭徹尾モノであって、
後者は、常に「他者」として存在する。
そこには途中での転換はない。

さっきの例だと、
当初の約束どおり1年で食べることは可能だったのではないかと思う。
そうであれば子供たちも、あくまでも「家畜としての動物」
の命の重みに触れることができたのではないか。
それでもだいぶ厳しい気はするけれども。

(ここまで書いといて、
 家畜としての動物とペットとしての動物の命の重みに
 差があるのか、って言う問題があることにきづいたけど、
 まあそれは措くことにさせてください。
 ものすごく粗く言えば、
 違う重みのものとして認識しているといわざるを得ないと思いますが。
 それは人類の存続のために。
 むやみに殺さないというのは必要な視点ですけどね。)

翻って生物学の話。
昨日引用した、
「実験のために生まれてきたかのような生物」
という態度は正しいのではないかと思う。
つまり、生物学者は生物を徹頭徹尾「物体」として捉えるべきなのではないか。
そのほうが人間として健全な態度なのではないか。
むしろそこにいきものとして捉える視線を持ち込むことは、
とても残酷なこと。
「殺すことを楽しむ」というのも、
他者として捉えなかったらありえないことですし。
無限としての他者を自我が包摂するということ。
(発想は某K野氏のレヴィナス入門的ですが。)
(かといって、いきものとしての生物が好きじゃなかったら
生物学者なんて務まらないだろうとも思うけれど。)

まあこんなことろにしておきましょうかね。
眠いので。

生物学、それから、解剖、について。

あしたはカエルを切るそうです。ということで。


ひとつめは解剖とかとはあんまり関係ない話なんですが、
生態・進化学を受けていて感じたこと。

(マクロな)生物学は、
「生物は自己ないしその子孫の繁栄を目指す」
という仮定に基づいて展開されている、ということ。
直感的には認めたくなる仮説ですが、
そうであることは証明されていないのではないか、と。
(私の薄学のせいかもしれませんが。)

理系っぽく言うと、
宇宙全体のエントロピーは減っていくのに
生物はエントロピーを減らそうと必死になっている、
というのは十分不思議な事態だと思うのですが。



んで、次。解剖ならびに動物実験について。

といっても、「解剖ならびに生物実験」と書いたのは
これから話そうとすることの方向性を
直感的に理解して欲しかったからに過ぎませんが。
解剖や生物実験に伴う不快感や嫌悪感はどこから来るのだろう、という。
(そこには個人的じゃなく一般的なものだという仮定がすでにありますが。)

実際に「体を傷つける」とか「命を奪う」とか、
そういうことが問題になっているわけではないのではないか、
と思います。
そこで線を引くのは実証的で分かりやすくはあるけど、
それは安易なのではないかと。
(例えば自然死した死体なら解剖していい、というわけでもないでしょう?)

では、本当に問題になっていることは何か。
ここでヒントになるのは、生物学科のガイダンスで聞いた言葉。
「この世界には特定の実験のために存在するのではないかと思えるような生物が存在する」
これを聞いたとき、軽く戦慄が走りました。
もっと言えば、怖かった。

そしてこういう態度こそ、なじみにくい態度なのではないかと思うのです。


つまり、生物が実験台として、モノとして、
機械論的なボディとしてしか見られていないということ。
別の場所ではひとつの「いきもの」として、
もっと言えば自我と類比的なひとつの他者として、
いわばひとつの世界を背負ったものとして映っていた動物が、
(この辺の用語法はデリケートにならないようにどうかよろしくです。)
実験室に持ち込まれた途端に、
自己を維持し子孫を残す特殊な「生体機能」という機能
(さっき言ったエントロピーの話ですね。)を持った、
ひとつの機械のような物体として扱われること。
そのことに対する違和感と戸惑いがどうしても現れてしまうのではないか。と。

(さっきまで「いきもの=他者」だったものが
 突如「物体」に変化するというのは、
 「他者の死」と同じ構造ですらあるようにすら思えますね。)

(それからもちろんここでは「他者」と「物体」という
 二つのカテゴリに近いものの存在が仮定されてしまってはいるのですが。)

そうだとすると、
植物を切って観察することに「罪悪感」がわかないのも、
人間の遺体をさらに解剖することに「罪悪感」かつきまとうのも、
前者は初めから「物体」として見ていたから、
後者は「他者」であったことの痕跡が不断に知覚されるから、
と説明できるような気がするのですが。


生物を扱う実証的研究(実質的に自然科学といっていいでしょう。)、
具体的には生物学、薬学、医学といった分野は、
常にこの他者と物体の二重性という課題にさらされているようにも思えます。

医師が手術で生きている患者の体を切る場面では、
それはどのように知覚されるのでしょう?
「他者」としての患者と、それをいわば生かしている「物体」としての体は
切り離された形で知覚されるのでしょうか。
それとも、どちらかだけがメインに感じられるのでしょうか。
あるいは、両方が混ざりあった形で知覚されるのでしょうか。
どんな形であるとしても、
うまく処理できるような感じ方ができてくるんだとは思いますが。
順応しないわけにはいかないし。

また、生物学においては生物を生物のまま
(「他者性を持ったまま」であって「生きたまま」ではない)
扱う分野(生態学とかはこっちだと思います)と、
生物を物体として扱う分野
(分子生物学を基礎として個体内部までを扱う諸部門に代表される分野)
とか複雑に入り混じっているし。
分野できれいにわかれるわけでもなく、
実験や考察の手法によっても2つの視点を行ききるすることが必要になる。


あ、それでも生物学はおもしろいんですけどね。
ゾウリムシが急に生き物に見える、という逆向きの動きもあるし。

二食

dbf4f600.JPGこれはチキン南蛮じゃない。断じて。
おいしかったけど。

フィロ・フィロソフィ

というわけで哲学科(正確には思想文化学科哲学専修過程)
のガイダンスに行ってきたわけですが。


やっぱ哲学行きたいわー。
もうこれは直感でしかないけど。
科哲のときと、自律神経系の反応が違うのですよ。
それはもう疑いようもなく。

まだ決定はしませんが。
今どこにいきたいかで言ったら決まりだけど、
事後的に見てそれがやりたかったことになるかどうかは分からないので。







続きを読む

非生産的

なサイクルに入ってるようです。
サイクルのせいにするなってかんじですが。
集中力の著しい低下が見られます。
ああーすきくすやらねばーうううう。

ただ単に忙しいのかなぁ。忙しいのは確かにそうなんだけれど。

あと、クラスとCで負ってる責任を考えると
どうしてもウォーカーの優先順位が下がってしまう。
本当申し訳ないです。
でも鞭打っていく場所にはしたくないのです。TW。

羽田に行きました。
お散歩は無理そうでした。
第一ターミナルから第二ターミナルへ歩くだけならできたけど。


あ、コメレスたくさんつけときました。
こちらも遅くなってごめんなさい。
(つける責任があるとは思ってないけど、
どうせつけるなら早めのほうがいいと思うので)

ありがとう

Y安にーさんから「誕生日おめでとう」ってメールがありました。

「ありがとう、今日じゃないけど」
「知ってたけど」
「嘘はいいって」
「17日でしょ?」
「やっぱりてきとうかよ」
「ウソウソ、19」



…本当にありがとうございました。
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