編集後記++

れっつねがてぃぶしんきんぐ☆

哲なんとか

価値付けする哲学

「学としての哲学」とかいういかめしい文脈ではなく、
一般的に「俗世間」で哲学という言葉が使われるときのこと
(「経営哲学」だとかいう風に)を考えると、
それが具体的なものを評価するという文脈で使われることが多い事に気づく。
たとえば経営だったら、どのような具体策を優れているとみなして採用するか、
というのが「経営哲学」が発揮される場面だと思う。
そしてこれはもっと手広い「哲学」の場合でも、
一定の意味を保つ、というより重要な契機であり続けていると思う。

例えば「理学には価値がある」と言うとする。
このときその理由の1つとして、
「理学は経済の発展に結びつきやすい」
という点が挙げられると思う。
だとするとここでは(その真偽は措くとして)、
「経済発展に結びつきやすいものに価値がある」
という命題が真であることが前提されていることになる。
そしてここで出てきた「経済発展に結びつきやすいものに価値がある」
という命題、これは哲学の範疇にある命題である。

このように何かを評価しようとするとどうしても
哲学的な問題に訴えなければならなくなる。
逆に哲学的な考察抜きでなされる評価は
独断に陥りやすく危険だ、と言うことも出来ると思う。




まあこれで終わりなんですけど、
締まらないので時事ネタを入れておきましょう。
某とくそほーの話。(伏字は検索避けです。)

O沢さんは反対する理由として
「直接的な根拠となる国連安保理の議決がないこと」と
「アメリカへのなし崩し的な追随であること」
を挙げてるそうですが(今テレビで言ってただけなので細かくは違うかも)、
これは政策を評価する基準としてもうひとつ弱い。
もっと感覚的に言うと、「はぐらかされている」印象を受ける。
(K泉さん以来のJ民党はもっとそうなんだけど。)
なぜか。それは、「国益」とのつながりが見えてこないからではないか。
こういう政治、しかも外交に関わる問題の評価基準は、
究極的には「どの選択肢をとったときに最も日本の国益が大きくなるか」
という点に集約されるはず、なんだけど、
さっきの2つの理由を言われてもどうしてそれが国益に結びつくのか、
もっと言うとどの点でどの程度のメリットがあって、
一方どの点でどの程度のデメリットがあるのか、
という一番重要なところがよくわからない。
専門的な知識のない一介の国民としては、
「国連安保理の直接的な指示のない行動を続けることは
 ○○という点でこれくらい国益を損なう、
 それは延長したときに得られる△△という点での
 これくらいの国益より大きい、
 だから延長すべきでない」
ぐらい言ってくれないとわかんないよ。
(言ってるのかね。言ってるのだとしたら伝えないテレビが悪いが。)

そんなことしゃべっちゃったら外国に考えが筒抜けになって
身動き取れなくなるから言えない、
というのであれば、
そこが民主主義の大きな難点だということになるんだろうけど。




蛇足だけど、
こういうデリケートな問題にはあんまり触れたくないと思ってたんですが、
あと哲学についてとか大風呂敷広げるのも恥ずかしい部分もあるんですが、
考えがちゃんと固まって自信を持って言える日が来るかどうかわかんないし、
だとしたらある程度生のままの未熟な考えでも
出していった方がいいのではないかな、と考えるようになっております。
最近。

恥をさらすのを過度に恐れてても仕方ないかな、と。

「発達」というアプローチ

哲学はよく「原初の人間」とか、
「生まれたばかりの赤ん坊」とかを問題にします。
言い換えると、ある概念の歴史的(それは必ずしも哲学史ではなく)な由来とか、
あるいはその概念が発達のどの段階で獲得されるのか、とか。
昔からずっとこのアプローチが嫌いでした。
(いまもあまり好きではありません。)
読んでいて退屈におもえてしまいます。
それなのにどうしてこのようなアプローチがなされるのでしょうか。

いま「アプローチ」と書きましたが、
何に対するアプローチなのでしょうか。
つまり、どういう問いに答えるためにこの方法が有効なのでしょうか。

それはもっとも端的には、「思い込み」を排除するためだと思います。たぶん。
(この「思い込み」は「ドグマ」(「独断」)と書くべきところですが、
述語使っちゃうとブログなのに排他的になるので『思い込み』でいきます)

歴史の中で、あるいは生まれてから成長・発達する中で、
人間は様々な「思い込み」を「獲得」していく、
というのはまあわからなくない、というか、
確かにそういう一面もあるとは思います。
しかしこの方法はやはり大きな危険をはらんでいます。
その危険とは、問いがすり替わってしまう危険です。
つまり、そもそも「思い込み」を排するのは何のためだったか、
ということ。

「思い込み」の排除は、
レタスの葉をちぎっていく作業に2つの点で似ていると思います。
ひとつは、どこでやめるかがちぎる人にゆだねられているという点。
もうひとつは、ちぎった葉の方こそが必要なものだった、という点。

その理由を説明するためには、
結局ここでもう一度「哲学とは何か」という壮大な話に
帰ってこなければいけないのですが、
とりあえず前に書いたように今の僕の見解では哲学とは、
「『人生』というものに対する態度決定」です。
だとすれば、「思い込み」の排除は、
態度決定に役立てるために「人生」というものを分析する作業の
一環のはず。
私たちの考えのなかに普段渾然一体となって存在していて意識なれない、
そんな「思い込み」を一度引き剥がすことで、
「思い込み」をのものを思考の対象にできるようにすること、
それがこの「思い込みの排除」の本質ではないのでしょうか。

この意味で歴史や発達に目を向ける方法は、
確かにある程度の有効性を持つでしょう。
しかし初めにかいたように、やはりそこには危険があります。
つまり歴史や発達それ自体に問題の中心が移ったかのように
思われてしまう危険があるということ。

あまりにも抽象的だとやりづらいので、
例として「認識」の話をしてみます。
たとえば今目の前にリンゴがあるとします。
どうして私は今「そこにリンゴがある」と認識できるのでしょうか。
それはひとつには私が「リンゴ」というのがどんなものか知っているからです。
さらに言えばそもそも「リンゴ」という言葉を理解していなければ、
あるいは「リンゴ」という言葉がなくて、
世界から「リンゴ」というグループを切り離す作用が何もなかったとしたら、
私は「(対象としての)『リンゴ』を知る」こともできなかったはずです。・
…というようにさかのぼっていくことはできるのですが、
これを「私がリンゴを認識するにいたるまでの物語」として
(必然的に想定される)時系列順に並べて再構成してしまったら、
つまり、
初めに「リンゴ」という言葉がリンゴを世界の他の部分と区別することを可能にし、
次に私がその「リンゴ」という言葉を使いこなせるようになり、
そしてその「リンゴ」の概念に合致する光が私の網膜に入ってきたからだ、
というふうに書いてしまったら、
これは「私はどのようにしてリンゴを認識したか」という問いの答えであって、
初めにあった「なぜ私はリンゴを認識できるのか」
の答えではなくなってしまいます。
(ましてや「赤ん坊がリンゴを見たときにどう思うか」
という話はせいぜい答えの補足にしかならない、
(哲学にとっては)意味の小さい問いだと思います。)

なぜこのようなことが起こるか、というと、
それは「前に起こったことがあとから起こったことの原因になっている」
という因果に関する素朴な「思い込み」を前提にして
説明がなされてしまうから、ではないでしょうか。

(ちなみにレヴィ=ストロースとかラカンとかは一応は違う畑の人だし
「どのように」という問いが主眼だったとしても問題はないと思うのですが、
それがそのまま「哲学的言説」として紹介されるのには問題があると思います。)



というかあれですね、やっぱりたまには書くべきですね。
書くといかに自分が説明の材料となる知識を持っていないかが分かる。
(勉強の原動力は期待感よりも危機感だと思います。)

「意識それ自体」

たまにはてつがくてつがくしたてつがく。
学科(正しくは「専修過程」なんだけど分かりにくいからいいや)のお友達、
ぬのねこ氏のブログへのトラバであります。

「青い箱を思い浮かべてください。はい。思い浮かんだ?」
 頷く友人。
「えーと、この時点というかこのときを”時間A”とします。じゃあ次に、青い本を思い浮かべてください。はい。できた?」
 頷く友人。
「さて今、君の頭の中には箱と本がある。もしなくても、すぐに思い浮かべられる。ここまでOK?」
 頷く友人。
「でも・・・時間Aのときには本はなくて、箱はあった。これは明らかな違いだよねぇ。だとすると、この違いは何だろう、と考える」
 うーん、と唸る友人。
「ま、『それが意識だ』って言いたいんだけど」


「それ」が何を指しているか、
がこの会話を起こした文だと微妙に分かりにくいのですが、
多分この「それ」は「『違い』を生じさせたもの」の事で、
「時間Aでは箱の意識が存在したから箱は知覚できたけど、
 本の意識は存在しなかったから本は知覚できなかった」
ということを言っているのだと思います。
で、この部分に関して(対立はしないけど)思うところがあったので。

この「意識それ自体」の僕のイメージは、
xとyが必ず1対1に対応する関数、
なのです。
(数学的には「全単射の写像」が正しい、のかな?)
つまり、(a,A)、(b,B)を通り、xの変域がaを含むけどbを含まない、
という関数y=f(x)を考えて、
aを箱の意識、Aを箱、bを本の意識、Bを本、に対応させる、という。
まあ思考実験という趣旨からはずれるけど。

ただこのイメージには重大な欠陥があって。
つまり全単射な写像は逆写像を持ってしまうから、
(つまりx=g(y)となるようなg=f^-1が存在してしまうから)
意識とその対象との関係にある、
不可逆な因果っぽい感じを持たせることができない。
この注意書きがどうしても必要になってしまうのです。


ていうかレポートもそろそろ動かないとやばいわぁ…。
(当然のごとくまだ手付かずですよ、ええ。)
引越しで死んでいるばやいでわない。
まあ明日は昼から稼動して夜は学科飲みですが。
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