余白の記

人生80年時代といわれておりますが、両親より長く生きる時を迎えました正に余白の時間をすごしております。日頃身の回りに起こったこと、感じたことを日記ふうに記載しております。旅行記、菜園日誌、我家の出来事、時の流れに感じること等を記載しております。平成21年8月以前は家庭菜園日誌として投降して降りましたが新規にタイトルを変更しました。

2008年02月

エジプト旅行 古代と現代 その44

エジプトとカイロの町とのお別れ

考古博物館とモスクを見学し、カイロの町をバスにて遊覧し帰国のために空港に向かう。

カイロの町2カイロの町1カイロの町3

 

 

 


聞きしに勝るカイロの渋滞に巻き込まれる。

 

カイロの町5カイロの町4左の写真は水道橋のようだ。ローマ時代の名残か。

 


さて、カイロの町はいかにして出来たのであろうか。

カイロは7世紀にアラブ民族が侵攻した際の拠点として築かれて以来、イスラムの中心都市として栄えた街である。これ以前はBC332年アレキサンダー大王がアレキサンドリアを首都として定めプトレマイオス朝からローマ時代まで栄えたことがある。AD.969年勝利を意味するカーヘラが軍事要塞都市として建設された。これが現在のカイロの始まりである。1952年の革命後カイロは発展し1200万人を数える人口を持ちアフリカ最大の都市と成る。政治、文化経済の面でも中東を代表する中心都市として栄えている。

そのせいであろう。道路は大渋滞カイロ空港に向かったがバスはのろのろ飛行機に間に合うか心配事となる。

カイロの町6カイロの町7ナイル川との別れ、二度と見ることは無いであろう。河岸は日本と変わらない。しかし、道路は日本以上。バスの運転手(チラッと写真で見られます)もいらいらするであろう。当然添乗員(右の写真にちらりと見えます。当然エジプトの人)はこれを見越して空港に向かったのであろう。出発の2時間前くらいには空港に到着。しかし、飛行機が飛び立つゲートが途中で変更され、ゲートを確認するのに一苦労。日本の添乗員1人のみ何処に行ったかわからない、ゲート前は大混雑、頼る人がいないツアーの人同士で情報交換、やっとのことで変更場所を探し出す。やれやれ。

飛行機は16:00飛び立つ日本へは約11時間の旅となる。それでも帰りの時間は来る時より約1時間短い。

地図1地図2左の写真は飛行空路。機内のディスプレイより。

 


さて、関西空港に翌日午後1時頃到着。バスで名古屋に向かう予定だが、バスが来ない添乗員は心配顔。このときとばかりトイレに向かう人が急増。関空に到着し荷物を待っている時にトイレに用を済ましてきたはずだが?推測、皆さんお腹をやられているようだ、少なくとも三分の一の人は調子は悪そうだ。これからバスで約4時間、休憩があるものの心配が先立つ。

これにてエジプト旅行記は終わります。ファラオの宮殿、庶民の生活等まだまだ知りたいことが多々ありますが、見学できませんでした。このあたりで筆をおきます。

長々のご購読感謝します。かくれ読者のかたがたにも御礼申し上げます。記載した事項がどこまで信用できるか心配なことがありますが御容赦を(添乗員の説明と本から知りえたことと多々違っている。どうもエジプトの添乗員は口からでまかせが多い気がするが年代の説明は信用できない)。

畑が待っていますので忙しくなります。

これにてバイバイ。  See you again!

エジプト旅行 古代と現代 その43

カイロのモスクとカイロの町

イスラム地区

7世紀以来、エジプトにおけるイスラムの中心地として栄えたのがイスラム地区と呼ばれエリア。モスクを中心としたイスラム建築群が立並ぶ地域だ。

シタデル カイロを見下ろす堅固な城砦。イスラム地区の南東のはずれ、モカッタムの岡に築かれた城塞都市。1176年にアイユーブ朝を興したサラーフ・アッディーンがキリスト教徒の十字軍を阻止するために建設。19世紀ムハンマドアリの時代まで城砦として使われていた。この城砦内部にムハンマドアリモスクがある。1824年建設が始まった。1830年完成。カイロのシンボルとなった。

モハメッドアリモスク2モハメッドアリモスク1このモスクはイスタンブールの聖ソヒィア寺院を参考にギリシャ人建築家が建てた物。4本の角柱でさせられた高さ52m、直径21mのキュウポラを中心におく四角い建造物で、アラバスターをふんだんに使っている。

モハメッドアリモスク3モハメッドアリモスク4仲庭にはみそぎの噴水がある。モスクに入る前にみそぎをするためだ。噴水の向こうに時計がある。オベリスクと交換した時計だ。

モハメッドアリモスク5モハメッドアリモスク6モハメッドアリモスク7

 

 

 


モスクの内部。右の写真は見学に来ていた小学生。彼らから英語で話しかけてきた。やはり国際語を習っている。しかし、ガイドはこのことに乗ってこない。推測するに上流家庭の子供らしい。この年齢で英語が話すことはまれの様らしい。だからか?でも子供たちの英語や流暢だ。

モハメッドアリモスク8モハメッドアリモスク9この写真は裏から撮影したものだ。ミナレットが良く見える。

 

 

 


スルタンハッサンモスク1スルタンハッサンモスク2一番左の写真はムハンマドアリモスクの裏にあるスルタン・ハッサンモスク(左)とリファーイモスク(右)のミナレット。この地区には多くのモスクが存在する。

 

モスクこれもミナレット。エズハルモスクだ。信者は1日5回メッカに向かって礼拝する。礼拝時にはミナレットからお経が流れる。異教徒にとっては、さぞやかましいことであろう。確か朝は4時でしたね。

次回はカイロの町を紹介し最終回とする。

エジプト旅行 古代と現代 その42

エジプト考古博物館 その4

この博物館にはミイラが24体安置されている。名前のわかっている人もあればわかっていない人もある。ミイラ室は二部屋に別れている。このミイラ室に入るには別料金がいる。部屋は暗く温湿度の管理もしっかりしているのだろう。

ラムセス2世これはラムセス2世のミイラ。建築王の異名をとるほど、国内各地に自らの彫像や神殿を残したファラオ。かなり長生きしたらしい。ミイラの身長は173.3cm、頭髪の一部が今も残されている。

ハトシェプトハトセプト女王のミイラ。
1903年にハワード・カーターが王家の谷で発見した女性のミイラ。2007年6月、CTスキャンやDNA鑑定が行われ、ハトシェプト女王だと特定された。新聞報道等で御存知の人も多いでしょう。この写真は2006年6月発見時のもの。

このようなミイラが24体並べられていた。主な新王国時代のミイラが展示されていた。3千数百年前のファラオに対面したのである。雰囲気としてはあまり気持ちのいいものではない。

館内を約2時間見学し。外に出る。

博物館2博物館3博物館4

 

 

 

 

 


館の外にも石像が飾ってあった。説明が無いため紹介できないが、多分左はラムセス2世のスフィンクス。中はオベリスクに頭部である。左の写真は誰なのか不明。

これにて古代エジプトの旅は終わるが現代のカイロの町の中をバスで移動する。

次回はカイロのモスクとカイロの町。

 

 

 

エジプト旅行 古代と現代 その41

エジプト考古博物館 その3

新王国時代(紀元前1570年頃ー紀元前1070年頃)
エジプト第18王朝の王イアフメス1世が第15王朝(異民族ヒクソス人)をデルタ地方から追い出し、エジプトを再統一してからの時代が新王国に分類されている。古代エジプト文明が最も栄えた時代であり、この時代に建てられた無数の記念建造物、文化遺産は今日でもエジプトに数多く残されている。

アメンホテプ2世供物台をささげるアメンホテプ2世
新王国 第18王朝 黒色花崗岩
トトメス3世の後継者。玉座に就いたとたん近東で反乱があり、鎮圧に乗り出す。軍隊をパレシスチナ、シリアに派遣。自ら指揮をとる。捕虜を7人連れ帰り処刑したことが神殿に記載されている。


ハトセプト女王ハトシェプト女王(頭部)。新王国 第18王朝1498-1484BC。彩色石灰岩。高さ61cm。

トトメス1世の娘。常にファラオとして男装をし。決して女王と呼ばせなかった。これは以前紹介した、ハトセプト葬祭殿に飾られていたもの。彼女は数々の建築事業を行っていた。

ハトセプトのスフィンクスハトシェプト女王のスフィンクス。赤色花崗岩。高さ2.6m。
彼女の死後トトメス3世は彼女の名前を抹殺。彼女の彫像は破壊されたが、考古学者の努力で彼女が甦った。このスフィンクスの両前足の間に彼女の名前が刻まれている。

アケナテン2アケナテン1アケナテン3

 

 

 

 

 

アケナテンの像 新王国 第18王朝1350-1334BC。アメンホテプ4世が改名しアケナテンと称した。高さ1.85m。砂岩。
世界で始めて一信教を信仰し、早く生まれすぎた天才とも狂信的な人物とも言われている。お尻が大きく腹も出た独特の体型で表現されている。実際の体型か美術的表現化不明。
左の写真は供え物を捧げ持つアケナテン。彩色石灰岩。高さ35cm。捧げ持つ板の上には色色な食物、すいれんの花などの目録が記載されている。

ネフェルティティネフェルティチィの頭部。アケナテンの第一王妃。高さ35.5cm。
芸術家の技量の後がうかがえる。
アマルナ美術。
アクアテン王の時代それまでの形式にとらわれない自由な作風の芸術が花開いていた。

アテン賛歌アテン賛歌のパネル。アクアテンの墓から発見されたパネル。高さ53cm。
アケナテンと王妃、2人の娘がアテン神を崇拝しているシーン。

 

 

メラリー夫妻同時代のメリラー夫妻の像。
高さ85cm。彼はアテン神殿の書記。彼の妻は王妃のお気に入り。ファラオからのネックレスをつけ、中央のプリーツの入ったスカートには、生前の役職、肩書きがヒエログリフで記載されている。

 

ラムセス2世とホルス ホルスに守護される幼きラムセス2世。
新王国第19王朝。1279-1212BC。灰色花崗岩。高さ2.31m。

風刺第19王朝の政治風刺画。鳥を番する猫。

天敵に命を預けている。今の政治がそうだといわんばかりである。


オシリスタウレト女神第29王朝500BC。
左はオシリス神。エジプトでは重要な神。冥界の復活再生の神。
高さ89cm。

右タウレト女神。高さ96cm。豊穣と出産の神。タウレトとは偉大なる者と言う意。

この新王国は第19王朝においても新王国の繁栄は受け継がれ、セティ1世、そしてラムセス2世はその威信を示す巨大建造物を多数残している。 ... その後興った第20王朝の王ラムセス3世の治世を最後に、新王国の王権は急速に衰退し始た。

古王国、中王国そして新王国とエジプトの芸術はすばらしいものへと発展してきた。しかし、紀元前1000年期のエジプトは周辺国家の勢力下に入っていた。その中で第29王朝では動物信仰が盛んになりアヌビス神、タウレト神(上に記載)、トト神等が祭られる。

次回はミイラについて。

エジプト旅行 古代と現代 その40

エジプト考古学博物館 その3

中王国時代  古王国第6王朝末期の混乱でメンフィスを拠点とした古王国が崩壊した後、第1中間期と呼ばれる長い混乱を経てテーベ(現在のルクソール)に成立した第11王朝の王メンチュヘテプ2世が、第10王朝を倒し、紀元前2040年頃にエジプトを再統一した。これ以後を中王国と呼ぶ。

メンチェホテップ2世メンチェホテプ2世 中王国第11王朝2061−2010BC
この王は中王国時代の創始者といわれ、50年以上も統治者であった。彼が王座についたとき、エジプトは混乱期で無政府状態、はじめは地方豪族の有力者たちと共同統治であったが、徐々に権力を確立する。
彩色砂岩 高さ1.38m。下エジプトの赤冠で白い死衣をまとっている。体は黒色で、あごひげを付け両腕を胸で交差している。典型的なオシリス(冥界の王)ポーズをとっている。ファラオはオシリスになると考えられていた。

アメンエムハト3世アメンエムハト3世 第12王朝1842−1797BC 石灰花崗岩。高さ1.6m

魚を置いた供え物台。側面は吊り下げた魚。ロータスの花と鳥が飾られている。ファラオの立像としては珍しい。ナイルの神のクスチュームをまとい上エジプトと下エジプト両国を象徴して2体像となっている。45年間エジプト全土を統治し、経済は発展し芸術、建築にも完成のいきに達していた。シナイ半島においては鉱山の開発にも携わっていたとか。

アメンエムハトのスフィンクス彼のスフィンクス。灰色石灰岩。高さ1.5m。
エジプト君主の威厳を遺憾なく発揮している。豊かな頬はアメンエムハト3世の特徴である。

 


エジプト人騎兵隊ヌビア人弓兵隊中王国第11王朝メセフティ候の墓の副葬品。

左。エジプト人槍兵隊高さ60cm。彩色木彫り。

40人の武装槍兵が整然と行進している。実践用の槍は約2mの木製の柄の木の葉型の金属刃が取り付けられていた。又盾は1mから1.5mで重かったであろう。兵士の身の丈も不ぞろいで、盾の模様もバラエティに富む。

右はヌビア人の弓兵隊
顔面・身体黒色で腰布のスタイルからヌビア人であることがわかる。彼らは黒い縮れ毛に白い鉢巻を巻いた鬘をかぶっている。先の槍兵隊と共に不思議な現実感を覚える。

家畜の頭数検査家畜の頭数検査。同時代の貴族メケトラーの墓の副葬品。彩色木製。高さ50cm

中央に腰掛けているのが長官。そばに息子と書記官達。検閲官が小屋の前に立って17人の労働者たちに引いてこられた家畜の数を数えている。

供え物を担ぐ婦人供え物を担ぐ婦人。同上の墓の副葬品。彩色木製。高さ1,5m。

女性像として秀作の1品。4つのワインの壷。両手首にはブレスレット。右手には生きた鵞鳥の翼を掴んでいる。

快速船メケトラーの漁船。同上と同じ副葬品。彩色木製。長さ約1m。古王国時代の墓室の日常シーンは壁画に描かれていたが。中王国時代には、家畜・家畜小屋・工房・釣り船・交易船等は木製の模型として表されるようになった。


漁船帆を掲げた船。同上と同じ副葬品。長さ1.25m。古王国時代以前は船の舵は未知のものであった。したがって航行には長いオールが必要であった。革張りの木枠と雄牛の皮で覆われている船室は襲撃に対する備えである。

やっと、当時の庶民の生活が垣間見えてきた。貴族の遺物からであるが、貴族に仕えていた召使たちの姿が庶民の生活の一部であろう。ファラオの力を見せ付けられたエジプトだが、ピラミッドは公共事業ではないかと新説が出された。この目で庶民をみると虐げられた生活ではなかったのかも知れない。

次回は新王国時代を見てみよう。

 

 

エジプト旅行 古代と現代 その39

エジプト考古学博物館 その2

今回は初期王国と古王国の展示品について紹介しよう。

初期王国はエジプトの第1王朝から第2王朝の期間を指し、BC3100年ころからBC2700年ころと考えられている、又古王国はBC2700年から2100年といわれ、通常エジプト第3王朝から第6王朝までの時代を古王国と呼ぶ。

パレット1

パレット2

ナルメル王のパレット

ナルメル王は、ヒエラコンポリスに石製の奉納用化粧版(パレット)を残しており、その表面には下エジプト王の赤冠をかぶったナルメル王が敵の死体検分に出かける場面が描かれており、裏面(左の写真)には上エジプト王の白冠をかぶったナルメル王が敵の首長を打ちすえる場面が描かれている。

伝説によれば、エジプトの最初のファラオメネスといい、半神半人の支配者のあとをついだかれは、62年間おさめたあと、カバに連れ去られて殺されたとある。

 メネス王は、エジプト語ではメニ、ヘロドトスの著した「歴史」ではミンとなっている。どの王がメネス王なのか、はっきりしていない。有力な候補としては、ナルメル王とホル・アハ王の2人があげられている。

ジョセル王第3王朝ジョセル王(2668−2649)の石像。階段ピラミッドの隣接セルタブにあったもの。目はクリスタルの象嵌であったが盗まれていた。台座には彼の名前が刻まれている。

カクセヘン王カクセンヘン王

第三王朝。ファラオの像としては史上最初のものの一つ。ファラオは47209人を捕虜にしたとの碑文が読み取れる。

鳥の石版鳥の石版 第5王朝ウケルカフ王の葬祭殿(サッカラ)より出土。ナイル川の水鳥達がうかがえる。青サギ、蝶、パピルスが見られる。

フィフィの家族フィフィの家族
第5王朝、サッカラのフィフィの墓から出土。石灰岩で作られている。この時代、男性(夫)の体は濃い色で、女(妻)は皆淡い色で表されていた。

婦人像と召使小人の召使左の上の写真はとうもろこしをひく婦人像。 石灰岩。第5王朝。この時代は自由に表現できた時代だ。

右の写真は小人の召使。第5王朝。ギザより。石灰岩。

左下。ペピ(ペピ二世)の召使。第6王朝。木製。ヌビア人の召使が片手にかごをさげ、もう一方の手で背中の荷物を支えている。木彫師の技術と芸術性が高い水準であることがうかがわれる。

クフ王カフラー王メンカウラーの3柱神

 

 

 

 

 

 


左からクフ王(第1ピラミッド)・7.5cmの象牙の像。現存する唯一の像。第4王朝以下3体も同じ。
中の像はカフラー王(第2ピラミッド)1.68mの閃緑岩製。スフィンクスの神殿に飾られていた内の1体らしい。
右はメンカウラーのトリアード(3柱神)0.9mの片岩製。上エジプトの白冠をかぶっている。王の左右は女神。

ウセルカフ王ウセルカフ王・第5王朝(メンカウラーの孫)0.45m片岩。この像は下エジプトの赤冠をかぶっている珍しい像。

書記坐像書記坐像。第5王朝。
彩色石灰岩。50cmひざにパピルスを広げている。目は水晶の象嵌作り。サッカラ出土。

 

 

女性と書記男性胸像左は女性の等身大の胸像(木製)。第5王朝以下同じ。
左下は書記坐像(彩色石灰岩)60cm。前出の書記坐像の近くで発見された。少々頭部が大きい。

上は男性の胸像(木製)69cm。生き生きとした若者の像だ。目は貴石の象嵌が施されている。下半身は破壊されていた。

神官と妻ラーホテプトとネフェルト夫妻像。第3王朝。高さ1.2m。彩色石灰岩。彼は高位の神官で軍の司令官であった。古王国時代を代表する像の傑作の一つ。

 

それぞれ、今から4000年から5000年前の像だが、すばらしいものばかりだ。今でも通用するものもあり見ていて飽きない。でも時間の関係でちらちら見るだけで素通りしたものがほとんどだ。

次回は中王国のコレクション。

エジプト旅行 古代と現代 その38

エジプト考古博物館

この博物館は、エジプトの3000年の古代王国、エジプトが再統一された中王国、ツタンカーメン、ラムセス2世の時代の新王国、そして末期王国からグレコ・ローマン時代に及ぶ古代史が詰まっている博物館。12万点を超える古代美術が収蔵されている。カイロの中心部タハリール広場の一角にある。

朝9時前までに博物館に到着。すでに多くの見学者が待機している。ジャスト9時開館する。ここでもそうだが入場者のチェックがある。多くの人が金属探知機(2台)の機械を通過する。これだけでも時間がかかる。ここを過ぎてわき目も振らず一直線に二階のツタンカーメンの特別室へ向かってくださいと添乗員。長年培ってきた経験であろう現地添乗員の知恵であろう。それはまだ誰も訪れていないツタンカーメンの展示室。通常見学者は入口から順に見学するものだ。現に見学者はそのように誘導されている、これが盲点だ。お勧め見学コースは最後がツタンカーメンの秘宝の部屋になっている。我々はツタンカーメンの特別室を貸切見学となった。ゆっくり見学することが出来た。

ただ、写真撮影は禁止。故にパンフレットからごらんあれ。色は良くない。我慢してくだされ。

博物館1博物館入口。人気のほどが感じられるでしょう。入口は狭いが中は広い。カメラは取り上げられ、金属探知機を一人一人通過。ツアーの全員が通過し終わるまでどのくらいかかったのであろう。

まず、ツタンカーメン(すでに紹介済み)の副葬品を紹介しよう。彼の副葬品はほとんどここに展示されている、(ミイラは王家の谷の自分の墓に戻っている)がこの価値はアメリカの国家予算の1年分といわれている。いかに当時のファラオの力が大きかったのかがお解かりであろう。それでもツタンカーメンは他のファラオから比べると力は劣っていたといわれている。現に彼の名前は古代エジプトの歴代王の名前から抹殺されていた。まず、目に付くのは黄金マスク。

黄金マスク黄金マスク横顔黄金マスク。日本で展示されたことがあり、ご覧になった人もいるであろう。やはり前回も良かったと感じたが今でも光輝いていた。マスクに使われた金の純度は当時の精錬技術の限界22k。頭部のコンドルと、コブラは上下エジプトの統一を意味している。眉はラピスラズリ、目には黒曜石と水晶を使用。重量は11キロ。

玉座玉座背もたれ玉座 若きファラオに妻のアンケセナーメンが香油を塗る姿が描かれたもの。2人の頭上には太陽神アテンが輝いている。金箔を貼った上から銀やラビスラズリ、着色ガラスなどで装飾されている。

 

首飾り胸飾り スカラベ(糞ころがし)の胸飾り。下の部分は上エジプトの象徴の水練の花と下エジプトの象徴パピルスを図案化した装飾。中央は太陽を象徴するシリカガラス製のスカラベを胴体に配したハヤブサ神。スカラベの前足とハヤブサの両の翼は頭上に月を現す銀製の円盤を掲げた”ホルスの左の目”を載せた太陽の船を掲げている。


胸飾りハゲワシ姿の天空の女神ヌノを表した胸飾り。純金、銀、シリカカズラ等で製作されている。


棺内臓を収めた棺

等身大の棺を模したもの。内臓は4つのこの棺に納められていた。純金、宝石で作られている。

 

 

人型棺

黄金の人型棺 この人型棺は多重構造になっている。人型棺は3つあり、一番内側のものはマスクと同じく純金製で、重さは110キロ。後の2つは金箔を施した木管。写真は第3の棺。

カノプスの厨子

左はカノブスの厨子。4人の女神が守っている厨子は死者の内臓を保存するための壷、カノブス容器を納めるためのもの。王の内臓は黄金の小さな人型棺(前述)に納め、又カノズス容器に入れられこの厨子に納められていた。

 

 

木彫りの手箱。 「狩」の名で呼ばれている。

 

つづら手箱の両脇には敵を撃退するツタンカーメンが描かれている。ラムセス2世のガディシュの戦いを模しているといわれている。


その他ツタンカーメンのカーの像(右下)
ツタンカーメンの等身大の立像。高さ1、73m、ファラオが息を引き取った瞬間にカー(魂)が肉体を離れ不死の世界へ赴くところを表している。金は太陽、黒はナイルの岸の黒い大地を表す。ファラオが神の肉体をもって甦ることを示しているとか。

アヌビス神(中下) ミイラを造る神官や死者のたちの守り神。アヌビス神はいつでも敵に飛びかかれる態勢をとっている。

葬送用寝台(左下)

杖
ファラオの勿 両手に持って交差させている、ファラオの象徴。

 

ミイラを納めていた棺は大きなものでこれも3重構造であったが、どうやって組み立てたのか考える興味は尽きなかった。

次回は興味を持ったものを紹介する。

 

エジプト旅行 古代と現代 その37

エジプトの首都カイロ

ナイル川ナイトディナークルーズを終わり、ホテルに帰る。翌朝ホテルの周りのカイロを見渡す。

ラムセスヒルトンホテル宿泊は、ラムセス・ヒルトンホテル。ヒルトンホテルのチェーンであろう。設備は日本のホテルと変わらない。

朝食ホテル内

 

 

 


ラムセス・ヒルトンホテルはナイルの中州のゲジーラ島の近くにありカイロの中心に立っている。どこに行くのも便利なところらしい。このホテルは三角柱の目を引く建物でナイル川も良く見える部屋も多いとか。右の写真は朝食会場。当然バイキングだが品物は豊富。でも生ものは口に出来ない。又油ものは胃の調子を悪くする。食べるものは限定される。ここまで来ると口にしていなかったジュースに手を出す様に成り少し警戒心が解けてきていた。日本まで調子を保つことが出来るか疑問だが。ここ3、4日軟便が続く。怪しいけれどだましだましのような気がする。

ホテルから1ホテルから2ホテルから3

 

 

 


ホテルの部屋から見たカイロの町並。ここがエジプトとは感じない。完全に近代化された町だ。田舎の町とは比較にならないほどビルが多い。

ホテルの周り1ホテルの周り2ホテルの周り3

 

 

 


朝食を済まして、ホテルを出て街中をみる。ちょうど通勤時間帯だ。バス停も見られる。タクシーは黒と白のツートンカラー。年季の入った車体でエアコンはほとんどついていないらしい。今日はエジプト考古博物館見学だ。バスの中からカイロの町が見られるがホテルから博物館までの距離は短い。

ホテルの周り4

カイロ・タワー。ゲジーラ島(ゲジーラとはアラビア語で島のことを指すが、カイロではナイロに浮かぶ島のこと。)に立つ高さ187mの塔。カイロのシンボルだ。それはエジプトのシンボル、ハスを形どった独特のデザイン。上部の展望台は360度の大パノラマ。人気のスポットだとか。ピラミッドも遠くに見えるとか。ホテルの周りの店はカイロ市内見学後散策することが出来たので後日紹介する。

カイロは人口1500万以上を抱えるアフリカ最大の都市。エジプト全体の4分の1以上が生活する人口過密の町。中心部には古い建物がひしめき合い朝夕の交通渋滞も凄まじいとか。町全体がスモッグでどんよりと濁り、快適さを求める人にとっては居心地が悪そうだ。


次回はカイロ考古博物館。

 

エジプト旅行 古代と現代 その36

古代エジプトの首都メンフィス

古代エジプトの象徴ピラミッド、誕生から終わりまで

メンフィスを訪れる前にピラミッドについて整理してみよう。

古代エジプトでは、竪穴を掘って王や高官を地下の玄室に埋葬し、地上には日干し煉瓦を積み上げたマスタバ(長方形のベンチ)墳が作られていた。しかしジェセル王(古代王国第3王朝)の時代にマスタバ墳を積み上げた階段ピラミッドが考案された。この後真正ピラミッドに改装したものや屈折ピラミッド、傾斜のゆるい赤のピラミッドが完成する。社会が安定していたクフ王の時代には史上最大のピラミッドが建てられた。しかし、第5王朝以降ピラミッドは小型化され500年間でピラミッド時代は終わった。簡単に整理するとこのようだ。

さて、ピラミッドは本当に王の墓なのだろうか。いまだに論争に決着がついていないらしい。確かにマスタバ墳から発展したのだが、ピラミッドから一部の例外を除いてミイラが発見されていないとのこと。さていかがかな。

メンフィス

初代ファラオ・ナルメル(BC.3030頃、エジプト全土を統一した王。かってエジプトは南部(上エジプト)と北部(下エジプト)に国が分かれていた)が築いた、古代エジプトの最初の首都。「森の都」とも「白壁の都」とも呼ばれ美しい町として繁栄した。ギザとサッカラの間15キロにわたって広がっていた。しかし、アレキサンドリアが新都となったのがきっかけに衰退する。そしてほとんどの石材は持ち去られ古代建造物はすっかり無くなった。

現在は野外博物として、遺跡が主で観光客が訪れる。

ヤシ2ヤシ1メンフィス

 

 

 


メンフィスへの道すがら、やしの林に出会う。右の写真はメンフィスの町並み。やはり田舎なのであろう。

野外博物館

名のとおり、公園の中に石像等が配置されている。

ラムセス1ラムセス2ラムセス3

 

 

 


アラバスター(大理石一種)製のスフィンクス。ギザのスフィンクスについでエジプト2番目の大きさ。全長6m、高さ4.25m。新王国時代第18王朝のアメンホテプ2世が作った。ブタハ神殿に飾られていた。この像は一枚の岩で造られている。

 

ラムセス4ラムセス2世の立像。ラムセス2世の名が書かれているが、実は別のファラオの像の名前だけを書き換えたらしい。通常ファラオの像は上下エジプトを表す二重冠を頂くが、この像は上エジプトの象徴の白冠をかぶっている。又手にはハンカチを握っている。通常は印鑑を握っている。高さ7m。ラムセス2世が神殿に捧げたとか。

石棺1石棺だ。

 

 


ラムセス涅槃1ラムセス涅槃2ラムセス顔1

 

 

 

ラムセス顔2

 

 

 

ラムセス2世の巨像

ブタハ神殿(メンフィスに今でも残っている神殿)の入口に立っていた高さ13m、重さ82tの像。地震により足首から下の部分が破損したため、ここに横たわって保存されている。もう一体はカイロ駅前に安置されているらしい。筋肉隆々としてたくましい像だ。かってファラオは一度戦場に立つと先陣をきって戦うことを求められていた。

ラムセス2世の像はいたるところに存在している。やはり偉大な権力を握っていたのであろう。また長生きしたファラオであったからかもしれない。

この日の夕食は船上ディナークルーズ。ベリーダンスが華やかだった。ナイル川がどうなっているのか眼中に無かった。

ダンス1ダンス2ダンス3

 

 

 


食事はバイキングだが、乗船客をもてなすための催しがなされた。左はベリーダンス(ベリーとは腹部のこと)、中の写真はひたすら回転するというイスラムの修業の一種をステージ化したもので、色鮮やかなスカートが自由自在に操られるのはまさに職人技だ。かんぐれば、夜の景色に見るべきものが無かったので,客の目を外に向けさせなかった。それでも面白かった。ここではやっと酒も飲むことが出来た。満足。

次回はカイロの街中と博物館見学だ。

 

 

 

 

エジプト旅行 古代と現代 その35

ピラミッドの歴史 その2

サッカラの階段ピラミッド

ダハシュールで色色なピラミッドを見たが、世界最初の階段状のピラミッドを見るためサッカラへと向かう。(実際には先にメンフィスの屋外博物館を見学したが、サッカラの階段ピラミッドを先に紹介する)

サッカラはダハシュール(前回紹介)と同じく古代エジプト最初の首都メンフィスのネクロポリス(共同墓地)である。すなわち死者を葬るための「死者の町」なのだ。ここには数多くのマスタバ墳(長方形の形をした墳墓)があるが、世界最古のピラミッド、ジェセル王の階段ピラミッドがある。その他のピラミッドや貴族のマスタバ墳が多数見られる。

サッカラサッカラのピラミッド群とマスタバ墳の当時の想像図。

少女階段ピラミッドの入口で少女が談笑。楽しそうにしゃべっていた。

 

入口通路左の写真は当時の王宮を模した階段ミラミッドへ通じる入口だ。右の写真は入口を入ると初期のパピルス柱が並んでいる。

階段ピラミッド1階段ピラミッド2

古代エジプト、第三王朝のジェセル王によって建設された。史上初のピラミッドとも言われ、その建設方式や宗教的理念は後代のエジプト社会に大きな影響を与えた。この階段ピラミッドは高さ62mあり、東西125m、南北109mという長方形の底面を持っている。後代に建設されたピラミッドは通常正方形の底面を持っているが、階段ピラミッドの場合は五次に渡る設計変更の結果長方形の底面を持つことになった。階段ピラミッドは元来、初期王朝時代から見られる正方形のマスタバとして高さ10メートル、一辺63メートルの規模を持って建設される予定であった。しかし、建設を担当したジェセル王の重臣イムホテプらによって東側に向けて何度も拡張が繰り返され、最終的には階段上の概観を持つピラミッドとして完成したのだ。ピラミッドの地下には深さ28mの地下室が設けられており、王の遺体を納める玄室や、玄室を取り巻く多数の部屋、回廊が張り巡らされた。

階段ピラミッドは単体ではなく、周辺の付属建造物とあわせてピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)を形成していた。北側に葬祭殿、東側に王宮、及び祭りの神殿、南側に「南墓」、西側に巨大な倉庫があり、この複合体全体を高さ10.4メートル、東西277メートル、南北545メートルの外壁が取り囲んでいた。全体を石造で建設する建造物としてはエジプト史上初ともいえるものであり、このピラミッドの建造によってイムホテプは建築家としても名声を博した。

ピラミッド複合体の構成要素は後代のものとは異なっている。階段ピラミッドは神的性格を持った王の墓として、臣下の墓とは一線を画す墓形式として新たに設計されたものであった。その形状は後世に書かれた碑文から、王が天に昇るための階段を意味するといわれている。

ピラミッド外マスタバ墳1マスタバ墳2

 

 

 


ピラミッドの周辺。マスタバ墳が多数見られる。

穴説明この穴はピラミッドの地下に通じている。この穴は砂が一杯詰まっていたが、この砂を取り除いてピラミッドの地下に重いものを沈めたという。図面をごらんあれ。

他のピラピラの斜面第5王朝のウナス王のピラミッド。それほど大きくないがBC2000年にはすでに荒れていたという。ラムセス2世が修復したと言われている。

発掘1発掘2階段ピラミッドのはるか北にかの有名な吉村先生の発掘現場が見られた。木立が見える辺りらしい。確認は出来なかったが、ありえるだろう。その向こうには又、ピラミッドが見える。

さて、前回と今回でピラミッドがどんな歴史をおってギザのクフ王の大ピラミッドに至ったかお解かりだろうか。次回整理してみる。我々が良く見るギザのピラミッドがピラミッドと思っていたがエジプトでその歴史を知ることが出来た。ローマは1日にしてならず。ピラミッドも1日にしてならずだ。

次回はメンフィスの野外博物館見学だ。

エジプト旅行 古代と現代 その34

ピラミッドの歴史 その1

エジプトにミラミッドは今80(エジプトの添乗員の話)とも100(在る日本の雑誌)とも存在するといわれている。クフ王の大ピラミッドが出来るまでには色色な変遷をへて来たらしい。ピラミッドはクフ王の大ピラミッドの形がピラミッドと思っていたが、この形に至るまで変遷があったようだ。それではクフ王より古い過去の違ったピラミッドを見てみよう。

その前にスフィンクスを見てから、カイロの街中を通ってダハシュール(古王国時代の首都メンフィスのネクロポリス・墓場)へ行く。多くのミラミッドに出会う。

カイロ1カイロ2カイロ3

 

 

 


さすがエジプトの首都カイロ、近代化はかなり進んでいるようだ。田舎の家とは比べ物にならないくらいマンションが建っている。

カイロ4さて、左の車はタクシーだが、乗合バスでもある。手を上げればどこにでも止まってくれる。やはり右側通行。しかし列車は左側通行。

 

カイロ5カイロ6さて、右の写真はヤシの葉を運ぶらくだだ。この景色が面白い。まだまだ、新旧が混在している。


 赤ピラミッドを見学するためギザから南へ古王国時代の最初の首都メンフィスの南にあるダハシュールへ移動だ。ダハシュールは砂漠地帯、個性的なピラミッド群がある。途中から傾斜角度が変わる屈折ピラミッドや、やや赤みを帯びた傾斜角度がゆったりした赤のピラミッド、黒みがかった黒のピラミッドなどがある。訪れる観光客は少ないく、静かなところだ。

屈折ピラバスから見た屈折ピラミッド。一説では、当初急斜面は54°で設計されたが、建設途中でひび割れが出来たため、下部を補強し、上部の角度(43°)を緩めた。設計上の高さは128mだったが、実際は

105mになった。底辺は188m。古王国時代第4王朝スネフェル王(大ピラミッドを建設したクフ王の父)のピラミッドだ。今から訪れる赤のピラミッドも同王が建設した。

崩れたピラ1崩れたピラ2左は崩れかけたピラミッド。右は黒のピラミッド。日干し煉瓦と玄武岩で作られたため、黒く見える。中王国時代第12王朝アメンエムハト3世のもの。後に化粧石がはがされ風化した。

赤ピラ1赤のピラミッド高さ105m。クフ王の父が建設。赤っぽい石が張ってあった、旅行者が赤く見えたと記載したので、その名が付いたとか。このピラミッドの内部を見学。ピラミッドの内部への入口はピラミッドの高い所にあった(写真参照)。腰をかがめて進む、中は暗く先が見えない、不気味な通路だ。王の間は3室あった、がなぜ3室か?不明のようだ。ツアーの人でも見学したのは少人数、クフ王の内部見学で懲りたのか。あくる日から筋肉痛となる。日本に帰国するまで痛みは続いた。

赤ピラ2ここで、記念写真。警察官が写真を取ってあげるといったので安心して撮ってもらった。一般人なら当然拒否(金を要求されると聞いている)なのだが、これが大変なことになった。写真撮影後1ドル要求された。まさか、警察官は要求しないであろうと当初思ったのがいけなかった。撮影者とらくだの警官(写真の警官だ!)と合計2ドル取られた。もっと悪いことに何もしていない警官も手を出していた。さすがこれにはあきれた。働かざるもの食うべからず。彼にはごまかしてNO、NOで逃げきった。これ以上金の要求は無かった。が、ここはエジプト、日本ではないのだ。改めて認識した。面白いことを経験した。

黒ピラ黒ピラ2遠方ピラ

 

 

 


この辺りには見えるだけで6個のピラミッドがある。詳しいことはわからない。

次回は階段ピラミッド


 

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