2024年06月12日

落語家の桂ざこば(かつら・ざこば、本名関口弘〈せきぐち・ひろむ〉)さんが12日、ぜんそくのため自宅で死去した。76歳だった。(朝日新聞)

またひとり関西の大御所が去った。

中学を卒業して落語界入りした、叩き上げである。しかしタレントとして、全国区の人気を得た。「ウイークエンダー」である。タレント活動を大きく展開する一方で、本業もしっかり磨いた。1988年にざこばを襲名。拠点はあくまで関西。タレントとしては感情丸出しで、素直な気持ちを口にするタイプ。複雑な議論には向かないが、共感を呼びやすいキャラクターだった。ということで情報番組のコメンテーターとして長く活躍した。落語では古典芸能を得意とする本格派でもあった。
近年は病気がちとなり、落語以外の仕事はかなり減っていたところだったが、つい最近も弟子の襲名発表に同席していた。

いわゆる「昔気質」の落語家だった。喜怒哀楽が表に出て、本音がすごくわかりやすいタレントだった。トラブルもけっこうあったには違いないが、親しまれたのは間違いない。タレントとしても売れたが、そっちが主になった鶴瓶らとは違って、落語にも力を入れ、自ら寄席も作った。米朝一門を引っ張るという意識が強かった。

昨年来、関西のタレントが次々と世を去っている。時間は残酷に過ぎ去っていくのである。

ktu2003 at 23:01コメント(0)訃報 

2024年06月07日

現役時代に中日でプレーした辻哲也さんが今月5日に豊中市内の病院で死去した。75歳だった。死因は非公表。(デイリースポーツ)

このところ元プロ野球選手の訃報が目立つ。
浪商から明大。明大時代は日本代表に選ばれた。社会人の日本楽器時代には1972年に都市対抗で優勝。華やかな球歴で、期待されたが出場は4試合で1安打に終わった。
息子はオリックス・楽天・BCリーグ信濃でプレーした現オリックスコーチの竜太郎。

ktu2003 at 22:59コメント(0)プロ野球 

2024年06月04日

元大洋投手で、引退後はコーチも務めた鈴木隆(すずき・たかし)さんが5月31日、老衰のため死去した。90歳。(日刊スポーツ)

福島県出身。中央大を経て社会人野球でも活躍し、アマ日本代表にも選ばれた。1958年に入団し、1年目から15勝。強気な投球が持ち味だった。2年目も12勝。3年目の60年、三原監督の意向でリリーフに転向し、左キラーとしての役割を果たし、5勝11敗の成績だったがチームの優勝に貢献した。日本シリーズでは第1戦に先発したが打者2人で交代。しかし第3戦では4回まで無失点に抑えて試合をつくり、日本一に貢献した。
その後も先発・リリーフとフル回転して、64年には70試合に登板。66年には東京(現・ロッテ)に移籍、68年に大洋に復帰して引退した。通算成績は519試合、81勝102敗、防御率は3.21。

引退後は大洋でコーチを長くつとめ、辛口の解説者としてもおなじみであった。
王貞治に強い投手として知られ、一本足打法を導入する直接のきっかけになったともいう。

ktu2003 at 19:35コメント(0)プロ野球 

2024年06月03日

阪神などで通算121勝を挙げた若生智男(わこう・ともお)さんが3日、肝臓がんのため千葉県船橋市の病院で死去した。87歳だった。(スポーツ報知)

長くいろんな球団でコーチをしていたイメージである。

兄・久仁雄は宮城県野球連盟会長、弟・正広は東北・九州国際大付で監督を務めた野球一家である。1956年毎日(現・ロッテ)に入団。当初は中継ぎ中心の起用だったが、60年に13勝して優勝に貢献。その後は主力として定着し、62年にはキャリアハイの15勝をあげたが、翌年故障で低迷。64年阪神に移籍すると復活し、先発・リリーフと活躍して4度の2ケタ勝利を記録。投手王国だった阪神で、村山・江夏に次ぐ地位を確立した。70年からはコーチを兼任。コーチ兼任しながら2ケタ勝利を2度記録している。

75年には広島に移籍し、若手の多いチームで大ベテランとして優勝に貢献した。76年限りで引退。通算成績は628試合、121勝120敗2S、防御率は2.71。所属した3球団すべてで優勝を経験した。引退後は投手コーチやフロントとして広島・ロッテ・阪神・ダイエー・横浜でほぼ途切れることなく勤め続けた。指導者としての生活も20年に及んだ。その後地元に戻り、アマ球界の指導者や評論家として活動を続けた。

監督になってしまうと余程名監督でない限り矢面にたってずたぼろになる。こうやっていろんな球団で指導者を続けられるのが、セカンドキャリアとしてはもっとも成功といえるかもしれないし、それだけ指導力もあったということであろう。

ktu2003 at 20:45コメント(0)プロ野球 

2024年06月02日

出沢 政雄さん(いでさわ・まさお=元プロ野球選手、元磐城高野球部監督)5月24日午前9時、心不全のため福島県いわき市の病院で死去、97歳。(福島民友新聞)

長野県出身。1947年東急(現・日本ハム)に入団するが2試合に登板したのみで去り、その後社会人の常磐炭鉱でプレーし、60年に引退。その後磐城高野球部監督となり、63年夏に甲子園初出場。64年からは常磐炭鉱野球部を再編したオール常磐を率いた。

71年に甲子園で準優勝を果たす磐城高校だが、その基盤はここにあった。元プロ野球選手と社会人チームの存在。Wikipediaでは「没年不詳」とあったが、せめて生死の確認はきちんとしてほしかった。

ktu2003 at 09:42コメント(0)プロ野球 

2024年05月27日

大相撲夏場所は26日、東京・国技館で千秋楽があり、小結大の里(23)=本名・中村泰輝、石川県津幡町出身、二所ノ関部屋=が12勝3敗で初優勝を果たした。初土俵から所要7場所での幕内優勝は優勝制度ができた1909年以降で最速。(朝日新聞)

先場所は新入幕107年ぶりに尊富士が優勝したと思ったら、次は入門1年の新小結が優勝である。「番付崩壊」などという話になってもう長いが、それも極まった感がある。

大学1年で学生横綱、さらに2年連続アマ横綱と、まさに鳴り物入りで入門。幕下10枚目格付け出しでデビューし、幕下を2場所、十両も2場所で通過。そして新入幕の場所では優勝争いをして11勝4敗、先場所も優勝争いをして惜しくも逃した。新入幕の時点ですでに幕内上位の力はあると言われた。親方によるとまだ立ち会いしか教えていないという。これから相撲をもっと覚えればどうなるのか。

体格は照ノ富士をも上回る。腰の高さが指摘されるが今のところ、突き押しであれ四つであれ一気に持っていく馬力が持ち味である。場所前には部屋での飲酒問題が発覚して厳重注意を受けた。出世が早いだけに人格面が心配なところだが、そこは親方の育成手腕が問われるだろう。

このところは体の大きい未経験者をじっくり育てるよりも、経験者が一気に駆け上がるケースが目立つ。プロの育成力が弱くなっているのか、プロの側のレベルが落ちているというのもあるのだろう。上位陣はけがばかりだ。今や覇者が求められている。果たして大の里がなれるだろうか。


ktu2003 at 10:27コメント(0)スポーツ全般 

2024年05月18日

嵐の松本潤が16日、公式サイトで5月30日をもって「STARTO ENTERTAINMENT」を退所することを発表した。今後は、演出家やプロデュース業により注力していく。(スポーツ報知)

ということで、また一人旧ジャニーズのタレントが独立していくことになる。

ともあれ、STARTO社が発足して1ヵ月がたった。旧ジャニーズ勢をめぐる状況は一体どう変わったのだろうか。
予想されたよりは、今のところタレントの仕事は減っていないようにも見える。相変わらずテレビドラマや映画への露出は多い。ごちゃごちゃになってくるのは、すでにSTARTOと違った道を歩んでいるタレントと、STARTOとの契約を続けるタレントとの区別がつかないことだ。

今のところ傾向としてみえてきているのは、個人での活動を主体とするタレントは独立し、グループやアイドル活動を主体とするタレントは契約を続けるという傾向だ。典型的なのは、もともと個人で俳優活動を展開していた風間俊介や生田斗真らである。またグループが解散したか、活動休止中の岡田准一や二宮和也、今回の松本潤も、個人としての俳優活動を展開している。一方で嵐に関しては、嵐としての活動についてはSTARTO社との関係は継続するという。おそらく楽曲の権利関係や、コンサートの手配などを考えてのことだろうし、会社としても楽曲の権利まで独立する側に手渡すことは許容できないとみる。

この点で少し難しい点を模索しているのがKinki Kidsだ。堂本剛は既に独立。しかしKinki Kidsをどうするかという問題があって、この点で堂本光一は、Kinki Kidsとしては剛とともに活動し、舞台についてはSTARTO社と関係を続けるという方向を考えているようだ。嵐の逆パターンになる。ただこの場合は楽曲の権利が移動することになるので、その点が難しいのだろう。あるいはTOKIOのように、グループで会社を作ったうえでSTARTOとは提携関係を維持するという枠組みもある。

テレビ局の対応は、STARTO所属者は完全に起用を止めたNHK、番組を多数終わらせたフジ、関係維持・強化をはかるテレビ朝日、日本テレビ、と対応が分かれた。そのうえで、従来は何があってもジャニーズ、という枠があったようだが、今後はその点ではシビアに判断していくことになるのではないか。

STARTOの社長はタレントとの個人的な関係は薄い。よくも悪くも、従来のファミリー的な雰囲気は薄れていき、他の大手事務所と変わらないようになっていくのではないか。その上で、若い人気グループを新たに育成できるのか。この点は今までのビジネスモデルが崩れただけに、難しい面がありそうだ。

ktu2003 at 10:32コメント(0)芸能 

2024年05月16日

テレビ番組のテーマ音楽やCMソングを多数手がけ、「浪花のモーツァルト」と呼ばれた作曲家のキダ・タロー(本名木田太良〈きだ・たろう〉)さんが14日、死去した。93歳だった。(朝日新聞)

ここのところ、関西ゆかりの芸能人の訃報が相次いでいる。

兵庫県出身。学生時代に音楽をはじめ、当初はピアニストとして活動。のち作曲家に転身。当初は歌謡曲を書いたが、のちテレビ・ラジオ番組やCMソングを大量に作った。あの曲もこの曲も、ということで、とくに関西では曲を聴いたことがない人はいないのではないか。

そしてタレントとしても関西で多くの番組に出演。歯に衣着せぬ毒舌で人気だった。それがもっとも生かされたのは「探偵!ナイトスクープ」である。3月まで収録していたというから、体調に大きな問題もなかったのであろう。

驚いているのは思ったよりマスメディアの扱いが大きかったことである。関西では言うまでもないが、全国ニュースでも大きかった。人々になじみのメロディーを数多く作ったことが、業績としてしっかり評価されてのことだとしたら、少しは世の中も進歩しているのだろうか。

昨年そういえばゆかりのあった上岡龍太郎、坂田利夫が相次いで亡くなった。世代は少し彼等と差があったのだが、そういうめぐりあわせがあるのだろうか。

ktu2003 at 21:07コメント(0)訃報 

2024年05月13日

西武は13日、清川栄治投手育成アドバイザーが悪性腫瘍のため5日に都内の病院で死去したと発表した。62歳だった。(スポーツニッポン)

現役で球団に携わっている元選手の訃報を聞くのはつらい。

京都出身。名前は沢村栄治からとられたという。その先輩と同じ京都商に入り、1978年夏の甲子園に出場した。大学では関西六大学のリーグ新・24勝を記録。しかし同期の川原が最終学年でよく、ドラフトにかからなかった。そのためドラフト外で広島に入団。3年目の86年50試合に登板し、中継ぎ投手として1軍に定着した。当時の広島は投手王国のため、生き残るためにサイドスロー、かつワンポイントに活路を見出した。

87年にはプロ初勝利の権利を得たがリリーフの津田恒実が打たれたため権利が消えた試合があった。その夜津田が何度も部屋に来て謝り続け、ついにはともに夜空の星を眺めて過ごしたという。津田とは親友だった。その後もリリーフ一筋。90年成績が落ちたため近鉄にトレードされたが、そこでも同じくワンポイントとして登板を重ねた。そして98年古巣広島に戻って引退。通算成績は438試合、13勝10敗12S、防御率は2.94。438試合すべてリリーフというのは当時の日本記録だった。

近鉄時代には年俸査定に当時のメジャーで導入されていた中継ぎの評価法・インヘリテッド法を球団に示し、年俸アップを勝ち取った。中継ぎ投手の地位向上に役割を果たしたのである。引退後はコーチに就任し、途中社会人コーチとブランクが1年だけで、あとはずっと指導者であり続けた。2014年からは西武のコーチを務め、昨年から闘病していたことで現場を離れていたということだ。

元西武の永射とともに、ワンポイント投手として知られた存在だった。引退後ほぼ指導者として生活を続けたのも稀有なことで、西武のコーチとして現在の投手王国を築き上げているように、手腕は確かであった。62歳は若い。

ktu2003 at 19:43コメント(0)プロ野球 

2024年05月11日

テレビドラマ「3年B組金八先生」で、教育現場を描いた脚本家の小山内美江子(おさない・みえこ、本名・笹平美江子=ささひら・みえこ)さんが2日、老衰のため死去した。94歳だった。(朝日新聞)

テレビ黄金時代をいろどった大物脚本家も、残り少なくなってきた。

もともとは映画監督を志望していて、そのスクリプターから出発した。結婚・出産後に脚本家に転じ、当初は特撮やアクションものも手掛けていた。1979年に連続テレビ小説「マー姉ちゃん」を担当、続いて手がけたのが「3年B組金八先生」である。

子育てを通じて教育問題への関心が高く、その経験と取材をもとに、当時の教育問題を盛り込んだ学園ドラマを作った。作品は中学生の妊娠や受験戦争、貧困家庭や校内暴力などを取り扱い、大きな反響を呼んで、教育界や理想の教師像にも大きな影響を与えた。

「徳川家康」「翔ぶが如く」と大河ドラマも2本、連続テレビ小説は「本日も晴天なり」があってこれも2本。こうした大作を手がける一方で教育への関心から海外での学校建設に関わるなど、社会的活動に力を入れるようになり、2000年代半ばで脚本家としては引退状態になった。やはりこのあたりがテレビ業界の分岐点だったのだろう、と今にして思う。「金八先生」もプロデューサーとの衝突によって降板したという話がある。

ktu2003 at 10:49コメント(0)訃報 
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