2017年04月04日

どうしても教育勅語を使いたい。

松野博一文部科学相は4日、戦前・戦中の教育勅語を教材で使うことを政府答弁書で認めたことに関し、「この教材はだめなどと発言するのは、教員の教材や教え方をつぶすことになる」との認識を示した。そのうえで「道徳を教えるために教育勅語を使ってはいけないと私が申し上げるべきではない」と述べた(朝日新聞)。

教育勅語の「活用」ということだが、争点になっているのは文科相が言っているような話ではないはずだ。道徳教材として教育勅語が「活用」されるとしたら、それはどういうことになるだろう。

教育勅語の内容は一般論としては、個人が守るべき道徳を示している。それは正しいが、ではなぜそのような勅語を天皇の名で示したかという、文脈が問題なのである。すなわち国家の一員としての個人であり、国家=天皇への忠誠のために、道徳を教え込む必要があった。それが時代の要請だった。そういう文脈をすっ飛ばして、「教育勅語にはいいことが書いてある」と言い続けるのはなぜか。

少しずつ、少しずつではあるが、戦前の価値観や制度に対する、批判的な態度・議論を弱めていこう、という潮流がある。まったく同じ形ではないが、現代社会に復活させたい。そういう目論見なのである。そして日本会議などのような団体や思想を持つ人々が、今の自民党政権の重要な支持層であり、政治家の供給源になっている。教育勅語を明確に否定できないのは、支持層への配慮ということができる。もし自民党が右翼・保守層を切り捨てることを選ぶと、維新の会やこころのようなウルトラ右派政党に票を奪われてしまう。あるいは不満を持つ政治家たちも離れてしまう。そういう風に整理できるだろう。

塚本幼稚園のグロテスクな光景が示したように、「暗記」であったり、拝礼であったりというような、形式的なことにこだわる方向性を、かつての教育勅語体制は持ったし、これからそのように機能する可能性もあるだろう。たとえば国旗・国歌にしても、「職務命令」として従わない教員を弾圧しているが、これらを儀礼的に肯定している教員が、逆に社会に害を及ぼすことも大いにある。内面を明らかにしている教員がとがめられ、面従腹背している教員は弾圧されない。

130年前に出された天皇の勅語に、日本の道徳教育は依存するしかないのか?21世紀を10年以上も過ぎた現代に則した教育はできないのだろうか。たとえば民主主義や人権というような近代的普遍性をまったく勅語は獲得していない。そこにある道徳は、2000年以上前の中国で生まれた儒教の教えである。そういう普遍性ではあるが、日本固有のものではないし、天皇にも帰属しない。

この勅語を根本にした教育を日本はやった。そして破滅した。それが歴史的事実である。改めて引っ張りだす価値があるものとは、私にはどうしても思えない。

ktu2003 at 18:49コメント(0)トラックバック(2)国内ニュース  

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1. 教育勅語の勉強不足  [ 反戦塾 ]   2017年04月04日 19:52
森友学園問題で「教育勅語」が今なおマスコミで取り上げられている。「いいことがたくさん書いてある」という議論は、安倍自民党を中心とする賛成派だけに限らず、反対派の
2. 憲法改正と教育勅語の台頭は、安倍政権の戦前回帰方向が?  [ やぶにらみトーク ]   2017年04月13日 12:22
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