2018年01月06日

星野仙一氏が死去

星野仙一














プロ野球の中日、阪神、楽天の元監督で、楽天球団副会長の星野仙一(ほしの・せんいち)さんが4日、死去した。70歳だった。星野さんは昨年、野球殿堂入りを果たしていた。(朝日新聞)


体調に問題を抱えていたとはいえ、先月も公の場に姿を見せていたから、驚きだった。

岡山県の出身。出生時にはすでに父親が亡く、母子家庭で育った。小学校時代は障害のあった同級生を背負って通学していたというエピソードがある。高校時代はあと一歩で甲子園に出られず。明大時代には名将・島岡吉郎の薫陶を受ける。

1969年、中日に入団。本人は阪神ファンだったが、読売から外れ1位での指名の約束をもらっていた。しかしそれが反故にされたことから、読売への反発心をもったという。
1年目から主力投手として活躍し、先発でもリリーフでも活躍した。そして73年に16勝を挙げてリーグを代表する存在に成長、74年には15勝10Sで初代セーブ王に輝き、読売のV10を阻止するリーグ優勝に貢献した。77年にはキャリアハイの18勝を挙げている。このあたりまでが全盛期で、その後は酷使の影響もあったのか急激に衰え、82年限りで引退。通算成績は500試合、146勝121敗34S、防御率は3.60。

飛びぬけてすぐれたボールがあるわけでもなく、セーブ王が唯一のタイトルだが、闘志を前面に出すタイプで、ファンから愛された。優勝を決めたときのマウンドにもいたし、珍プレーの元祖となった宇野勝のプレーのときも投げていたり、名場面の場にいた。

引退後は解説者としてNHKのキャスターに起用されるなどしたが、87年に40歳にして中日の監督に就任すると、大胆な選手起用、鉄拳制裁も辞さず、たびたび乱闘も引き起こすなどインパクトのある指揮ぶりで、2年目にはリーグ優勝に導いている。一度監督を退いたあと、95年に復帰して99年に2度目のリーグ優勝を果たした。

02年、電撃的に阪神の監督に就任。ふたたび闘志あふれる指揮ぶりと、大胆な選手補強を断行して03年には独走優勝。長い低迷が続いていた阪神を、よみがえらせたのである。しかし体調不良によりその年限りで監督を退き、シニアディレクターとして阪神球団に属した。

07年には北京五輪代表監督に就任したが、選手起用に失敗してメダルを逃し、強い批判を浴びた。一敗地にまみれたが、11年から新興の楽天監督に就任。いきなり東日本大震災に遭うという苦難のスタートとなったが、13年には若手や大物メジャーリーガーの補強を断行し、田中の驚異的な活躍もあってリーグ優勝を果たし、楽天球団初の優勝を果たした。そして日本シリーズでは読売を破り、ついに悲願の日本一となったのである。

14年限りで監督を退いたあとは、楽天の球団運営にかかわり、昨年野球殿堂入り。

ともかく、あの阪神を再建して優勝に導いたことが印象深い。気の弱いチームカラーだった阪神に、闘う姿勢を持ち込んだ。そこから現在の、優勝はしないにしてもそこそこ強い阪神へとつながっている。采配の妙というよりも、まずは選手に闘う姿勢を植え付けた上で、大きな戦力補強もやるし、若手抜擢やコンバートも大胆にやる。マネージメント力の優れた監督だった。3球団を優勝に導いたのは三原脩・西本幸雄につづく3人目。しかも阪神・楽天は長く低迷していたチームを引き上げてのもので、価値は高い。その人脈は広く、野球界にとどまらず芸能界や経済界にも友人・知人が多かった。発信力があって、野球界を大いに盛り上げたのである。近年は人気の低下に危機感を表明することも多かった。

まだまだ野球界にとっては必要な人物だった。同世代は各界でまだまだバリバリ活躍中である。とにかく惜しい限りである。





ktu2003 at 07:47コメント(0)プロ野球  

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