2020年01月18日

高木守道氏が死去

 プロ野球・中日で活躍して「ミスター・ドラゴンズ」と称され、監督も務めた高木守道(たかぎ・もりみち)さんが17日、死去した。78歳だった。(朝日新聞)

12日に板東英二のラジオ番組に出演していたというから、まったく突然のことだったようだ。持病もなかったという。

名古屋生まれの岐阜育ち。名門・県岐阜商で選抜大会準優勝。1960年に地元・中日に入団。プロ初打席で本塁打を放った。その後徐々に出場機会を増やしていき、4年目の63年、133試合に出場して50盗塁で盗塁王となり、セカンドのレギュラーを確保する。65年には初の3割と2度目の盗塁王をマークして、球界を代表する選手へと成長を遂げた。しかし68年には顔面に死球を受けて長期の欠場。その影響から打撃不振が続くことになったという。とはいえ69年には24本塁打を放つなど、長打力も十分にあった。
しかし守備は一級品。バックトスを代名詞とし、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞の常連となった。現在に至るまで、史上最高のセカンド、という声が上がるほどである。守備に関する数値データでは二塁手としてはプロ野球史上最高を記録している。
74年には読売のV10を阻止することに貢献。その優勝パレードと長嶋茂雄の引退試合が重なり、中日球団はパレードを優先して引退試合に控えメンバーを出した。これに不満をあらわにしたという。高校時代に長嶋に目をかけられ感激した過去があり、どうしても試合に出たかったのである。
その後は打撃も復調し、38歳に至って再び打率3割を記録するほどだったが、翌80年限りで引退。通算成績は2282試合、2274安打、236本塁打、813打点、369盗塁、.272。

引退翌年からコーチに就任。二軍監督をへて86年途中からは代理監督を務めた。一時現場を離れたあと、92年から監督に就任。経歴からすると監督候補生として予定されていたが、初年度は最下位に終わって期待外れ。翌年からは連続2位。とくに94年は最終戦で優勝が決まる、という10.8決戦に臨んだが読売の前に屈した。95年には低迷に陥ってシーズン途中で解任。不運な終わり方となってしまった。
2012年、17年ぶりに監督に復帰。この人事は世間を驚かせたが、顕著な成績を残した落合監督の後任になり手がいなかった、というのが実態だっただろう。12年は2位となるが13年限りで退任。以後は解説者としても一線を退く形となった。

現役時代は口数が少なく、いなくなったことに気づかれないほどだったが、怒ったときは目上相手でも反抗することがたびたびだったという。監督としても激高することがあり、コーチと喧嘩する場面が映像で抜かれた場面もあった。指揮官としては、自制が効かない行動をすることがあって、成績が決して悪くないながらも批判が多かった。星野・落合といったカリスマ的な監督の後任となったことも、本人にとってはしんどかったかもしれない。

板東英二とは公私ともに親交が深く、結婚の仲人をしてもらったほどだったし、最後の番組も事実上レギュラーとして出演していた。

現役時代を知らず、またプレーVTRをみる機会もあまりない人で、監督など指導者としての印象が強い。評価は高くないが、人柄の評判は非常に良かったという印象もある。選手としては間違いなく、ミスター・ドラゴンズの名にふさわしい実績を残している。彼を中日球団はうまく生かしきれなかったのではないか、と思うのである。

ktu2003 at 07:28コメント(0)プロ野球  

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