2008年01月27日

生き方を軌道修正したわたくし1

釈尊の最初の説法と言われる『四諦』からブレル事は私の心には無い。遠い距離と長い時間をかけわが国に伝わった異国の教えがわたくしたちの前にあると思っていた。だがそれはあまりにも簡略化され、あまりにも部分的な伝え方をされてしまっている事をご存知だろうか。わたくしにはそう思える。佛教という名の日本教に近いものに一部宗派は変節してしまっているように思えてならない。(お寺に縁遠くなったわたくしの勝手な解釈かもしれない)

くどいようだが『四諦』に言う。人生は苦である。苦は無知よりくる。苦は瞑想で和らぐ。苦から逃れるには聖者の道に習え。この佛教の基本からブレずにいたいとわたくしは常々願っている。

したがってわたくしは、人生は苦であることを認識している。目の前にあるものは全て(見えるもの見えないもの)も全て永遠には存在しないことを認識している。座禅瞑想して精神を集中する。すぐれた聖人の生き方に学ぶ。そうすると『四諦』の教えをそぎ落とした人々の教えはあまりに釈尊の教えからは異なってしまっている。

『四諦』の教えを教えない。人として努力することを教えない。布教し易い話ばかりする。現世利益を説く。教えを強制する。自給自足から遠ざかる。徒党を組む。金品を要求する。要するに修行(神佛が望む生き方)をしないのだ。そんなやからが横行する。

自分の人生、好きなように生きればいい。だが目の前の金品・地位・名誉・色を漁って生きてはいけない。神佛は黙って見ておられるだけ。魂の行く次なる世界で待っているものは何か、行けばいやでも判る。故人のほとんどは悔やんでいる。その姿は哀れとしか言えない。健やかな時に人を助けることだ。苦しむ故人、一部はわたくしも見た。人としてあるべき行き方をするのかどうか考えておくべきと人には教えているのだが。行いと結果は必然的に寸分の狂いも無くリンクする。現世でのわたくしの苦しみの全てははわたくしの行動の結果だ。だからこそ今生き方の軌道修正をしている。人生は修行の場、そこで欲や色におぼれてなんとする。人を押しのけて欲や色を求めて結果を恐れない哀れな人々のなんと多いことか。努力なしに神佛に利益を求める愚かさをしてはならない。神佛に愛される人になることが先だと思うのです。だから全てに感謝し、懺悔し、先祖の供養をする。


kubo7878 at 11:25│Comments(0)TrackBack(0)わたくしの考え/修行 

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