九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。 (筆者は素人なのであまり内容は信用しないでください) 皆さんに少しでも話題を提供できたら幸い。

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杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる その他と新潮社のクズさについて編

 さて、前々回『杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 前提確認&月刊Hanada編』と前回『』の続きにして完結編です。今回取り上げるのは前回とりあげなかった4人です。

 結局生産性の話
 この特集の中で唯一読解に耐えうる水準の記事を書いているのが元参議院議員でセクシャルマイノリティの当事者である松浦大悟氏です。氏は7人の中で唯一杉田記事に批判的ですが、まぁ新潮45に執筆依頼が来るくらいですから、結局のところ重要な論点を批判しきれず巻き取られてしまっています。

 というのも、記事後半部で氏は、アメリカで軍隊がセクシャルマイノリティの軍人を募集し、当事者たちが「国のために!」と盛り上がった云々などという話を記述し生産性があるという論調にもっていっているのです。いうまでもなく、繰り返しですが杉田記事が批判されたのはそもそも人を生産性で測ろうとする姿勢からです。それへの批判として生産性があるという話を持っていくのは、かえって杉田記事の土俵に乗る行為で思惑通りとなってしまっているでしょう。
 また選んできた事例が軍隊だというのも気にかかります。人権というのは保障されて当然のものであり、保障されたことに関してとりわけ感謝などというものを必要とする類のものではなく、ましてやそのために義務を果たす必要があるものではありません。故に、マイノリティの権利を認めたことと引き換えに「今度は自分たちが国のために」などと盛り上がった事例をもって生産性を強調するのは政治家のすることではありません。

 尾辻かな子は恥さらし
 次いでかずとという、これも当事者です。氏は立憲民主党の尾辻かな子議員に、当初は支持を寄せていたようですが記事中に至ると結語で「恥さらし」などというまでになっています。
 その理由は、尾辻議員が「金儲け」目的のために、本来国会議員同士なのだから直にやり取りすればいいところ、杉田記事にネットで火をつけ騒動を引き起こしたからだというものです。氏によれば尾辻議員はセクシャルマイノリティに関する講演を引き受けており、LGBT問題が大きくなって情報の需要が増せば金が儲かるだろうと推測しており、その推測は極めて下卑たもので確率も低いながら状況証拠ゆえ誤りだと断定しにくい面もあります。

 しかし氏の批判は重大なところで過ちを犯しています。それは、そもそも杉田記事は新潮45という「商業雑誌」で発表されたものであるということを見落としたことです。そう、商業雑誌で発表されたものであり、その後新潮45が同様の特集を組んだことからも明らかなように杉田議員は売らんかなで記事を書いていることは明白です。尾辻議員の行動に対し低い確率に着目して金儲けであると批判するのであれば、杉田記事にも同様の批判を寄せないのはおかしいでしょう。
 なにより、金儲けで当事者の恥さらしだという批判は、そのまま筆者に跳ね返っています。杉田記事のおかげで(?)話題が盛り上がり、新潮45が特集を組んだおかげで自身も記事を依頼され、それにより原稿料を受け取ると同時に自分のブログも売名できたのですから。尾辻議員が恥さらしなら自分もそうであると言わねばならないはずです。

 出たよ、「不寛容を認めないのは不寛容」というあれ
 最近BAN祭りのせいで食い詰めているネトウヨYouTuberのKAZUYAは、見開き1ページという最短記事での参戦となりました。が、ほかの記事と比べて特徴もなく、見るべきところは一番ありません。しいて言うなら「杉田議員を認めないあいつらこそ不寛容だぞ!」という話ですが、どこかで見たことある手垢のついた主張でしかありません。
 寛容/不寛容などという言い方をするから、こういう屁理屈が紛れ込む余地になるのでしょうか。単に人権を尊重する社会では、他者の人権をないがしろにしたり、人権という枠組み自体を破壊しようとする人間は受け入れられないというだけの話です。
 なお本ブログでは、かつて「公安がマークしてるから共産党は危険!」とふかしていた彼を批判していました(警察によれば共産党は危険()団体らしいぞ!)。懐かしい。

 公平、その大いなる勘違い
 最後は潮匡人氏。池田信夫が設立したアゴラ研究所のフェローという肩書だけで眉に唾を付けるに値する人物です。
 氏の主張は、NHKが杉田議員を批判したことに文句をつけるというものです。曰く、杉田議員をまるで大量殺人犯かのように扱う報道は不適切だし不公平だというものです。ここでいう大量殺人犯は相模原の事件の人物のことを言います。

 しかし人を生産性で測るという点に共通点を見出し、杉田記事と相模原事件の犯人とを関連させる主張は、少々ショッキングに聞こえたとしても誤りだとは言えません。生産性を軸に人権保護の是非を決めようとする思想は、そのまま生き死にを決めようとする傲慢さに直結します。

 公平性云々に関する議論については、単に氏が放送法やNHKの放送規定における公平性の意味を取り違えているにすぎません。そこで言われている公平性というのは、単に賛否が分かれる議論に関して双方の主張をバランスよく取り上げるべきという話であり、一方が人権侵害でもう一方が人権擁護だったときにも間に立って両論併記せよということではありません。むしろそのような姿勢でもって、人権侵害を訴える主張を電波に乗せることは放送倫理上許されないでしょう。

 新潮社は最初からクズですよ?
 ちなみに、本件の騒動に関して新潮社の文芸部が批判的なツイートをRTしたことに称賛が集まっています。また新潮45の特集を並べて最近のある時期からおかしくなったと主張するものも見られます。しかし私は、一部に良心ある社員がいることは否定しないまでも、新潮社という会社が最近ではなく随分前から、会社全体として人権の軽視と差別を飯の種にする組織であったことを指摘します。

 直近の例では、週刊新潮は『【綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人】間違いだらけの「元少年」の再犯議論』や『「綾瀬コンクリート詰め殺人」報道はなぜ「共産党員家族」にこだわるのか』で取り上げたように、「綾瀬コンクリート詰め殺人」のかつての少年事件の犯人の再犯を取り上げつつ、当時の少年法を無視した実名報道を正当化し、また事件と直接関係しない家族の政治信条を掘り下げた報道をしています。コンクリート事件は30年以上前のことであり、つまり新潮社は少なくともその時期からこうした問題ある報道を行ってきたということです。
 また海外における買春を正当化しつつ朝日新聞をバッシングする記事も書いています(海外における買春がなぜ批判されるべきなのか参照)。

 少し前の事例では、川崎で発生した少年による殺人事件においても、実名を公表し問題となっていました。この経緯は『川崎事件における週刊新潮の実名報道に大義はない』『川崎事件における週刊新潮の実名報道には正当性もない その1』『その2』でまとめています。ここでも部数だけを目当てにした問題ある報道です。ちなみに、任地でテロの被害にあった自衛隊員の女性を軟弱などとバッシングし続けるだけの記事を書いたこともあります(戦闘による心的ダメージにすら理解がない国防はかなりまずいのではないか)。

 また新書に関してもその信頼性は怪しく内容に乏しいものであったり(『言ってはいけない 残酷すぎる真実』や『死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張』後者は『加害者が本を書くということ』を参照)、内容に見るものがあっても編集の安易な判断なのか信憑性を減じるようなタイトルを付けられる事例(『いい子に育てると犯罪者になります』や『凶悪犯罪者こそ更生します』)が散見されます。

 良心のように考えられている文芸部にしても、『カエルの王国』などヘイトスピーチ最大手の百田尚樹の著作を数多く出版し、氏に文化人としての肩書を与えてしまっているという側面があります。

 つまり新潮社というのは、社全体がヘイトを容認する下地を作り、それが放置された結果が今回であるということです。今回のような事例を根絶するには、そもそも新潮社が社としてヘイトに親和的な方針を取っていることを認識し、それを改めさせなければいけません。

杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 藤岡&小川の双頭編

 前回、『杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 前提確認&月刊Hanada編』で宣言したように、新潮45の10月号を読んできました。立ち読みで(ここ重要)。
【特別企画】そんなにおかしいか「杉田水脈」論文
◆LGBTと「生産性」の意味/藤岡信勝
◆政治は「生きづらさ」という主観を救えない/小川榮太郎
◆特権ではなく「フェアな社会」を求む/松浦大悟
◆騒動の火付け役「尾辻かな子」の欺瞞/かずと
◆杉田議員を脅威とする「偽リベラル」の反発/八幡和郎
◆寛容さを求める不寛容な人々/KAZUYA
◆「凶悪殺人犯」扱いしたNHKの「人格攻撃」/潮匡人
 新潮45 2018年10月号
 ラインナップは以上の通り、全部いろいろ酷いのですが、とりわけ最初の二人がやばいので今回はその2つの批判に注力することにします。あと諸事情あって、順序を前後し八幡記事も今回訴状に上げますが、その理由はそのときわかります。

 ちょっと何言ってるかわからないですね
 藤岡信勝は新しい歴史教科書をつくる会の理事を務める経歴の持ち主。氏はご丁寧に杉田記事の要点をまとめ(案外正確に)てくれます。その中で「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです」という記述を紹介しつつ、以下のように述べます。
 曰く、杉田水脈はLGBTに生産性がないとは言っていない、と。

 うん、ちょっと何言ってるかよくわからないですね。「○○という意味で生産性がないとは言っていない」とか、そういう但し書きつきの話かと思ったのですが、何度読んでもそういう意味ではなくマジで「杉田水脈はLGBTに生産性がないとは言っていない」ということしか書いていませんでした。記事中の記述を読み落としたうえでこう書くならまだ理屈はわかるのですが、この記事では筆者は杉田記事の内容を手ずからまとめたうえで断言しています。何を読んでいたんだ。

 生産性という言葉の要点
 それをさておくと、藤岡記事の要点は以下のようにまとめられるでしょう。つまり、杉田水脈は生産性という言葉を確かに使ったが、マルクス主義や上野千鶴子だって生産という言葉を使っているのだから杉田だけを叩くのはおかしい。単なる言葉狩りだ。
 なるほど、確かに藤岡のあげた事例では双方とも生産という言葉を使用しています。しかし自身であげた例で自明となってしまっているのですが、マルクス主義や上野は単に出産という言葉を生産に言い換えているにすぎず、杉田のように生産性でもって政策の優先度、ひいては人間の存在意義を測ろうとはしていません。故にこの批判は的外れなものになっています。
 まぁ、よしんばこの批判が全くもって正しいものだったとしても、それは杉田記事を擁護する理由にならないのは明白ですが。

 性的「嗜好」と生きづらさの矮小化
 小川記事の批判に入る前に、特集全体に見られた傾向についても触れておきましょう。これが小川記事を理解するうえで重要になってきます。
 前回の記事で、杉田記事が性的指向や志向とすべきところを、性的嗜好と趣味であるかのように記述している点を指摘しました。これは異性を愛するか同性を愛するかあるいはその両方かという、自分の意志ではある種どうしようもない、生き方の1つの大枠を決定づけるといっても過言ではない性的指向を、好きな顔のタイプであるとかのような単なる好みや趣味の問題と同列であると矮小化する議論です。このような矮小化をすることで、セクシャルマイノリティの訴えが馬鹿らしく取るに足らないものであるかのように印象づけるのが極右論壇に共通する戦略となっています。

 このような矮小化の技術は、小川記事が見出しにするような「生きづらさ」というキーワードにも関係します。通常、セクシャルマイノリティが生きづらさというときには、もちろん主観的かつ個人的な要素も十分含みつつ、社会制度による不利益も包括する概念として使用されます。というか、主観的かつ個人的な要素による生きづらさも社会制度から不可分ではないので否応なく含みます。しかし政治の局面で生きづらさが語られるとき、それは主に社会制度の側面に言及していると解するのが妥当な読解でしょう。政治で個人的な話だけを語ってもどうしようもありませんから。
 しかし杉田記事は、この生きづらさを「親との関係」という酷く限定的な側面にのみ押し込め、それをもって政治で生きづらさは解決しないと論じています。そもそも生きづらさが個人的な側面以外を幅広く含む以上この議論は誤りなのですが、杉田記事を擁護する勢力もおおむねこの枠組みに乗っかっています。

 結婚は神聖らしいよ
 さて本丸の小川記事、当人曰く論文ですが正直記事というレベルにすら達していない代物です。大学生でももっと上手な文を書くでしょう。
 氏の記事にはツッコミどころが多すぎるのですが、とりわけ酷いのは「人間ならパンツを穿いておけよ」のくだりと自身の造語によるSMAGを使用した議論です。
 前者に関しては、まさに前述の「矮小化」を発揮していると言えるでしょう。異性愛がそうであるように、同性愛もまた単にセックスの様態の話だけではなく、誰に恋し誰とともに人生を歩むかといった生き方の大枠そのものの話です。それを単にセックスだけの話であるかのように矮小化し論じる姿勢は誤りです。

 よしんば氏の言う通り、同性愛があくまで個人の趣味の範疇であったとしても、やはり氏の批判は失当というほかありません。というのも、仮に同性愛が趣味であるなら異性愛もまた趣味でしかありえず、同性愛者に「人間ならパンツを穿いておけよ」と言うのであれば異性愛者にも同じことを言わなければ筋が通らないところを、氏は全くそんなことを言っていないからです。
「そもそも私が言う結婚には、近代的な権利よりも遥かに古い、宗教的な淵源があるもの。親族共同体、民族共同体のなかで男女を言祝ぎ、その永続を祈っていく、それが本来のあり方。それが近代になって法律を作り、家族制度を整えた。そのことについて否定はしないが、同性愛に何万年もの歴史があるのに対し、同性婚ができたのはこの10年、20年。つまり、人類は数万年にわたって色々な形で同性愛と共存したけれども、婚姻とは結び付けなかった。このことに対する慮りがない傲慢さは信じられない。この長さこそ決定的だということが私のような保守的な人間の基本だ。近代に生まれたイデオロギーというのは50年後、100年後に変わる可能性がある。
 「じっくり文章を読んでくれれば対話点は見つかる」杉田水脈議員″擁護″を「新潮45」に寄稿した小川榮太郎氏が生出演で語ったこと-ライブドアニュース
 上記は新潮45発売後にネットの番組に出演した氏の発言ですが、記事中でも同様の、結婚に関する論旨不明かつ真偽不明な主張を繰り返しています。少なくともこの言及からわかるのは、氏が異性間の結婚に宗教上の理由で特に重きを置いているということだけで、同性婚に反対する理由には一切なっていません。

 痴漢に触る権利を!
 後者については、もやは本人は真面目に書いたのかいとまずそこを確認したくなる仕上がりです。だいたい、一読しただけで理解できた読者がどのくらいいるのでしょうか。
 SMAGはサドとマゾ、お尻フェチと痴漢を指す氏の造語です。なんでこんなものが出てくるのかというと、あくまでLGBTは趣味に過ぎないので彼らの権利を認めるのであれば同様にSMAGの権利も認めるのが筋だろう主張しているからです。これも前述の矮小化が効いているところです。
 なおこの部分に関して、小川が痴漢の権利を要求していると解釈する向きがありますが、厳密にいうとそれは正確な読解ではありません。あくまで反語的な意味として、こんなとんでもないこと認められないでしょう?という話で出てきています。まぁそこは大した問題じゃないんですけど。

 そもそもLGBTを趣味として解釈している時点でこの議論には意味がないのですが、それに加えて、他者の人権を侵さない限り特段差別されているとはいいがたいSMAを引き合いに出すところ、またその3つとは明らかに異質な痴漢を並べてしまうところに議論の意味不明さをブーストさせる力があります。
 痴漢は言うまでもなく犯罪であり、小川が引き合いに出した3つの趣味とは違いその成立に必ず他者の人権侵害を伴うものです。これを並べ、さらに被害女性の苦悩を自身のLGBTを見ると苦痛なのだというただのわがままと並列する愚を犯しています。要するに身体上の侵害と快不快の問題の区別すらついていないというわけです。奇しくも表現の自由戦士がどうあがいても問題を快不快でしか捉えられないのと同じように、氏もこの問題を自身の快不快という側面からしか捉えられず、故に人権侵害であるというレベルの議論に参画できないのです。自分の持つ側面でしか物事を捉えられないという、人間の想像力の限界でしょう。

 単なる事実誤認のオンパレード
 ちなみに指摘しておけば、小川氏の言うような「女性の匂いを嗅いだら自動的に手が動いてしまう」ような痴漢の存在はまれでしょうし、痴漢が「制御不能な脳由来の症状」という証拠も特にありません。『男が痴漢になる理由』が指摘するように、痴漢は多かれ少なかれざっくばらんにでも計画を立てるものですし、その動機は女性に対する認知の歪みです。氏は痴漢に関する見識も時代遅れであることがわかります。
 著者のインタビューを掲載した以下の記事も参照してください。
 また、小川氏は寄稿文の中で、痴漢を繰り返す行為は「脳由来の症状」である、と綴っている。
 しかし、「痴漢行為は『脳由来の症状』ではありません」と斉藤氏は指摘する。
「痴漢などの性暴力は、加害者が社会の中で学習して引き起こされる行動で、脳の病気ではありません。痴漢加害者は、時と場所や相手、方法を緻密に選んで痴漢行為を行います。泣き寝入りしそうな相手を選んで行動化しているんです」
(中略)
 「痴漢は『選択された行動』にもかかわらず、それを『脳由来の症状』と過剰に病理化してしまうと、加害者の行為責任を隠蔽することになりかねません」
 小川氏は、痴漢行為について「制御不可能」と表現している。
 斉藤氏によると、痴漢を「脳由来の病気」による行動と決め付けたり、「男性の性欲はコントロールできないものだから仕方がない」と性欲説で曖昧にする論説はこれまでにもあったという。
 しかし、痴漢行為は決して「やめられない」わけではない。
「こうした表現は、性暴力の問題をうやむやにするための巧妙な論法として今まで社会の中で前提の価値観として共有されてきました。しかし、脳由来の問題とすることで、痴漢や性暴力の問題を矮小化することに繋がり、結果的に加害者を助けてしまうことにも繋がります」
「脳由来の病気とすると、性犯罪者は手のつけられない『モンスター』のような存在ということになります。そして、その人は『痴漢をやめられない』ことになる。しかし、性暴力とは、学習された行動であるからこそ、学習し直すことで必ず止めることができます」
「時間をかけて正しい治療教育を受けることで、痴漢を繰り返してしまう人から、痴漢をやめ続けることができる人になっていきます。しかし、それが小川氏の主張によって、性暴力の再犯防止に関する誤解が広がってしまう恐れもあります」
 痴漢とLGBTの権利をなぜ比べるのか。「新潮45」小川榮太郎氏の主張の危険性、専門家が指摘-ハフィントンポスト
 このように犯罪をセクシャルマイノリティと並べ同列であるかのように論じるのは、氏の論述能力から言って意図的であるとは思えませんが(十中八九偏見が並んだというだけでしょう)、犯罪をスティグマとして利用しセクシャルマイノリティを貶める効果を持つ恐れがあります。氏の文章は痴漢を趣味の範囲であるかのように矮小化すると同時に、それに対する一定妥当な印象をマイノリティに擦りつけようとするものであり、犯罪学ブログとしては看過できません(それが、8月時点では杉田記事に言及しなかった本ブログがこの時点で批判に乗り出した大きな理由です)。

 従来、マイノリティは犯罪性を有するものとして解され、それを理由に差別が正当化されていきた歴史があります。セクシャルマイノリティに関しても例外ではなく、事実とは乖離して性犯罪と親和性があるように語られてきました。しかし言うまでもなくセクシャルマイノリティと性犯罪は本来別物であり、偏見でマイノリティを論ずることはあってはなりません。

 また、氏の記事には染色体に関する事実誤認もありました。氏曰く染色体にはXXかXYしかないそうですが、犯罪学者的にはXXYの存在を忘れるわけにはいかないでしょう。ロンブローゾ曰くの生来的犯罪者とされた染色体異常です。
 もっとも、仮に染色体に関する記述が正しかったとしても、遺伝医学と優生学の結びつきを考えれば遺伝によって政策を云々する言及が許されないことは言うまでもありません。

 ヘイト雑誌の恐るべきコスパ
 さて、最後に八幡記事ですが、この記事に見るべきところはありません。というのも、これは前回触れた月刊Hanada10月号の記事とほとんど内容が同じだからです。驚くべきことに、科研費を出汁に某学者を叩くところまで一緒という凝りよう、もといコピペようです。

 ヘイト雑誌の中身が塑造乱造であることは話に聞いていましたが、我が身で思い知ったのは初めてのことだったので驚いてしまいました。もっとも、小川記事における事実誤認や「調べる気もない」という記述からしていい加減なものであることは明確でしたが。
 ヘイト雑誌は他の雑誌記事に比べてコスパがいいと言われます。それはまず、まともな校閲を飛ばすことで人件費を抑えることができるからでしょう。校閲が入ればこのようなシンプルな事実誤認を放置するわけがありません。また八幡記事でも明らかなように、明確なコピペ記事であっても読者から文句が出ないので、大量の記事を安く早く上げることができるというメリットがあります。

 一方、このブログ記事のようなものは、正確性を重視する必要があるため、書くのに時間がかかります。ここまでで都合1時間半くらいはかかってます。書くべきことを正確に書き、論旨を明確に整えるためには、内容が簡単でありきたりなことでも時間がある程度かかるのです。これはヘイト雑誌とそのカウンターにおける非対称性です。
 そのため、ヘイト雑誌は単に論壇上で反論し叩き潰すだけでは不十分、というかそれは困難でしょう。重要なのはそもそも出てこないようにすることですが、現在の日本社会でそれが可能かどうかは微妙なところです。

杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 前提確認&月刊Hanada編

 杉田水脈が「LGBTに生産性がない」などというどストレート発言し物議をかもしたのがだいたい2か月前。そんな彼女が(ってわけではないけど)早々たる面々を引き連れて、新潮45が再び特集を組みました。
 が、私が内容を確認しようとしたところ、まだ本屋に来てませんでした……。

 なので今回は、そもそも杉田記事の何が問題だったのかを再確認しつつ、たまたま見つけた月刊Hanada10月号の擁護記事の問題を指摘する前哨戦とします。

 なお杉田水脈に関しては「なんか高額な気がする」以上に根拠のない科研費への攻撃(「科研費で政治活動」という批判の無意味さ)と典型的なセカンドレイプについて(世界に出荷される保守政治家の無知と無恥)すでに取り上げています。

 そもそもの問題点
 もう2か月も前になる記事の内容を確認するのは容易ではありませんが、しかしこれだけ問題となる記事だと、全文を引用しているサイトがありました。ちょっと多めになりますが、関係する箇所だけ引用しておきましょう。
 この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるではないでしょうか。
(中略)
 しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
 どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
(中略)
 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
(中略)
 一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
(中略)
 多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。 「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
 「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。
 杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす(転載歓迎)-Skeltia_vergber on the Web
 ここでポイントは主に2つ。1つは氏のセクシャルマイノリティに関する無理解、もう1つは生産性という言葉の使い方及び政策の優先順位のつけ方です。

 前者について、氏は日本にセクシャルマイノリティに対する差別がないと断じますが、それがそもそも前提として間違っています。例えば一橋大学では同性愛者としてアウティングされた学生が自殺するという事件が発生していますし、そもそも同性婚が認められないという事実をもってして日本ではセクシャルマイノリティが差別されていると判断することも不足ではないでしょう。少なくとも日本でセクシャルマイノリティが差別されていないと断ずる根拠は特にありません。
 またゲイやレズビアンを「性的嗜好」を表現しているのも誤りです。普通は性的指向だとか志向というように表現し、単なる趣味以上のものであることを示します。我々異性愛者が気分次第で異性を愛するか同性を愛するかをころころ変えることができないのと同じくらい、同性愛者もそうであろうという予想は容易につきます。
 もっとも、両性愛者の存在からもわかるように、そこまで異性愛と同性愛が区別できるとは限らないとも言えます。氏は男子校や女子高の事例でこの不安定さを指摘しますが、不安定だから人権の保障に値しないという理由にもならないでしょう。そして、「普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません」と書いているように、氏は異性との結婚を幸福と規定していますが、それは性的指向のいかんに関わらずその人次第です。

 後者について、氏は子供を作るかどうかという点を「生産性」という言葉で論じています。しかしここには2つの問題が含まれています。
 1つは、そもそも子供を作ることだけが生産ではないということです。子供を作る以外にも社会に貢献する手段はあるでしょう。ゆえにセクシャルマイノリティだからといって生産性がないというのは早計です。しかしこの議論はあまり本質的でもないので割愛します。
 2つ目は、そもそも人をどのような側面であっても「生産性」という尺度で測ることが間違っているという点です。人は生産をするために生まれたわけではありません。生産するために結婚するわけでもありません。国家としては生産を基準に考えるのが都合がいいのでしょうが、しかし市民がそれに従う理由も義理もないのです。ゆえに、生産性がなくても生きていていいし、生産性がなくても異性愛者と同じ結婚する権利を求めてもやはりいいのです。

 月刊Hanada記事の批判
 さて、本当はもっと大事な批判点があるのですが、話を分かりやすくするために先にこちらに言及しましょう。それは月刊Hanada10月号に掲載された『杉田水脈議員へのメディアリンチ』という、八幡和郎氏による記事です。法学部出身なのに歴史の本を書いている時点で察してください。

 氏の記事の要点も2つ。まず馬鹿馬鹿しいほうから片付けると、これは杉田水脈はLGBTを差別していないという用語です。しかしその根拠が「本人が偏見がないと言っている」という程度のものであり、これなら世の中に差別主義者は誰もいないということになります。
 ちなみに氏の擁護にはもっと酷いものがあって、特にTwitterで記事を論難していたある学者について「科研費の疑惑を追及されたから焦っているのでは」などと書いていますが、これでは「ズボシ!顔真っ赤!」などと言い出すネットの議論と大差ないでしょう。こんなことなら初めから記事を書かないほうが擁護になったのでは。

 もう1つのほうが重要で、あえて残していた杉田記事の批判点とも重なるのですが、これは記事がLGBTへの差別や偏見ではなく、単に政策上の優先順位の話に過ぎないというものです。
 なるほど、確かにリソースが有限である以上どうあっても政策には優先順位がつかざるを得ません。また杉田記事は「そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と書いているように、政策の優先順位の話とも解釈できるような書き方になっているので(まぁ字面通りに解釈したらやはり「税金を投入するな」と書いてある用紙にか読めませんが)、そこで擁護の余地が生まれるというわけです。

 しかしそもそも、子供を産むかどうかという「生産性」で政策に優先順位をつけるのがおかしいという話をしなければなりません。政策の内容にもよるので一概には言えませんが、セクシャルマイノリティへの政策で論じられているのは結婚する権利であるとか、学校職場その他で性的指向を理由に差別されたり悩まないで済むような対策といったものであり(それがざっくばらんに「生きづらさ」と表現されているわけです)、それは人権上の要請と考えるべきものです。そして人権上の要請は最優先で対処されなければならないはずです。それに優先順位があるとすれば、範囲や規模の大きさとか緊急性とかの話になるはずであり、少なくとも生産性の話にはならないはずです。

 生産性というタームにより優先順位を設定することは、例えば病床人や高齢者は生産性がないので困窮しようが放置しようという話に繋がります。そして何をもって生産性があるとするのか、何をもって優先とするのかを決めるのは大抵の場合社会のマジョリティであり、生産性が低いとされがちなマイノリティの苦悩を直感的には理解できず、また理解しなくても生きていける層であることは認識しなければいけません。

 要するに、杉田記事や擁護者の問題は、人間を生産性でもって判断しようというところにあります。しかし人間は生産のために生まれたわけではないので、生産性が低くてもなんら問題はないのです。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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