九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。 (筆者は素人なのであまり内容は信用しないでください) 皆さんに少しでも話題を提供できたら幸い。

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干上がっているブロガーに昼飯を奢る感覚で、あるいは犯罪に関する気になっている本をレビューしてほしいという場合に是非どうぞ。

ICAN事務局長が「我々が歴史の正しい側にいることを忘れてはならない」と言ったというのはおそらくデマだろう


 これの件ですね。
 
 on the right side of history
 動画中で「我々が歴史の正しい側にいることを忘れてはならない」と訳された部分が反発を呼んでますが、おそらく誤訳だろうと思います。
 この部分をよく聞いてみると、ここはon the right side of historyと言っているように聞こえます。これはリンク先の辞書のページを参照してもらえばわかるように、「歴史の流れに乗っている」くらいの意味で「我こそ絶対正義なり!」ほど強烈な意味ではなさそうです。
 多分、というのは私のリスニング能力が微妙なので本当にそう言っているかは保証しかねるからです。あくまで私にはそう聞こえるという話ですし、この文なら誤訳とも整合性が取れると思います。

 ついでにICANがらみのあれこれを
・安部首相にわざと断られる日程で面会を打診したんだ!
→これは当初事務局長の来日日程が16日までと誤って発表されていたことと、首相の欧州歴訪が18日までと予定されていたことから生じているのでしょう。実際には事務局長は18日まで滞在し首相は17日に帰ってきているので日程上は会うことは不可能ではなかった。
 断られたことをアピール材料にしようとしているという憶測もあるが、誰にでも起こるであろう面会拒否が組織のアピールになるとは到底思えず(会えるほうが活動実績になる)、また日本の核廃絶への非協力的な態度は知れ渡っているのでこんな細かいことでアピールする必要があるとは思えない。まぁあくまで事務局長の来日日程で会えたらいいなくらいであまり期待はしていなかった可能性はあるだろうけど。
・事務局長の出身国が条約に参加してない!
 ある目標に向かって活動している組織のトップの出身国がその目標と反していることは特に問題にはならない。逆に何が問題になると思ったのかは不明。
・こんな語訳もあったらしく
 昨年のノーベル平和賞を受賞した非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長(35)は15日、広島市で開かれた若者との対話集会で講演し、核兵器禁止条約に参加しない日本政府を「(核廃絶を求める)合理的な国際社会から足を踏み外した」と批判した。
 集会には学生や被爆者ら約340人が参加した。フィン氏は、被爆国の日本が条約に反対していることに「広島、長崎以外で同じ過ちが繰り返されていいと思っているのではないか」と指摘。「被爆地と日本政府の隔たりは大きく、埋める必要がある」と訴えた。
 ICAN事務局長が広島で講演-共同通信

 核兵器に対する考え方はいろいろあるでしょうが、ほとんど集団パニックの様相を呈しており論理的な反論が皆目見当たらないのは実に興味深い現象でしょう。

プリキュア最新作のモチーフが「子育て」なのはさすがにやばくないか


 この件です。 
 プリキュアは見ていないのでつまびらかには知らないのですが、どうなるのでしょうか。

 児童労働礼賛?
 まずこの問題を考える背景として、女児の児童労働としてベビーシッターがかなり典型的にみられるという話をおさえておきましょう。もっともこの場合、児童労働の一般的なイメージであるところの「炭鉱で石を掘っている」とか「工場で服を作っている」みたいな賃労働というよりも、家で小さな兄弟姉妹の面倒を見ているといったように家事労働を担う無償の労働力として利用されている場合が多いのですが。途上国で女児が学校へ通う割合が少ないのはこのような背景があったりするからです。
 これも見ていないのではっきりしたことは言えないのですが、昨年の(今もやってるのかな?)プリキュアもパティシエで働いている描写がありました。確か中学生の勤労なのでこれも児童労働に該当するっちゃぁするのですが、パティシエという職業は児童労働のイメージがほとんどないので非現実性のほうが強くさほど問題にならないでしょう。
 しかし子育てというと話が違ってきます。前述のように子育ては女児の児童労働としてかなりポピュラーであり、どうしてもその色が出てしまいます。また家事や育児を子供が担わされるというシチュエーション自体はパティシエで働くということよりは現代日本でもあり得るものであり、視聴者である女児にダイレクトな影響を与えかねません。

 女の子なら子育てをしないといけないのか

 このような反応も見かけましたが、その通りであろうと思います。
 仮面ライダーでは主人公の職業は警官や医師、科学者から寺の住職まで多種多様でした。一方のプリキュアのモチーフといえば近年はずっと「お菓子!お歌!かわいい!」くらいの範囲で収まっている印象です。まぁ仮面ライダーと違って年齢が低いのでどうしても職業的なモチーフは薄くなりがちですが。
 元来、プリキュアシリーズの初めは「女の子だって暴れたい」というコンセプトがあったはずで、アクションシーンにかなり力が入っていたというのが未視聴者の私にも知られるくらいには有名でした。しかし今やその傾向はなりを納めすっかりかわいい路線に集約されてしまったというのはなかなか興味深い現象に思えます。
 それはさておくにせよ、女児の大半が見るといっても過言ではないアニメで描かれる価値観というのは、それ自体が視聴者にとって大きな意味を持ちます。あえて単純化すればテレビでプリキュアが肯定する価値はいいもので、否定するものは悪いものという図式が成り立つでしょう。視聴者はその全てを受け入れるわけではありませんが、子供の身でテレビの誘導する価値観に抗うのは困難を極めます。
 そのような背景がある中で、子供に「女性(女児)の子育て」を礼賛するようなストーリーを映し出すことにどのような意味があるでしょうか。日本は現状、子育てをしにくい国としてはトップランカーです。犯罪の分野に限ってみても、乳児を遺棄した事件でその責任を問われるのは母親であり、彼女と同程度には責任を負っているはずの父親の責任は意識的にも非意識的にも免責されているのが現状です。また過去の記事『埼玉ベビーシッター事件に思う』『産経は「新聞」の看板を降ろすべき』で書いたように、ベビーシッターが子供を虐待したらその責任を母親へ求める人間が国会議員にもわらわら出てくる国なのです、ここは。そのような背景のある中で女性の子育てを礼賛するアニメを流すことにどのような意味があるのでしょうか。


 公平な視点を持つならば、上掲のように世間一般の常識を打ち破る視点をプリキュアが提供する可能性はあるのでしょう。しかし現状、私はそれを期待できるほど楽観的にはなれません。

体罰肯定派はなぜこんなにも子供を殴りたくてたまらないのか

 最近、たまたまコンビニで女性セブンを手に取りました。表紙に書いてあったサイコパスが云々という見出しに惹かれたからです。しかしその記事自体はまぁさほど言うほどのものではなく大して面白くなかったので記事を書くのは気が向いたときにして、問題は別の記事、『もうこの国では”愛の鉄拳”は許されないのか』と題された記事です。

 どうしても子供を殴りたい人たち
 記事の構成はおおむね、体罰をなんとか肯定しようと躍起になるというものです。体罰を肯定する学習塾の事例や、梅沢冨美男武田鉄矢両氏という日本が誇る老害タレントのコメントを引き合いに出し「昔の芸能界では体罰が当たり前で~」という一般化可能性に乏しい話を垂れ流す資源の無駄遣いっぷりを見せてくれます。
 しかしこの記事、週刊誌には比較的珍しく5ページ前後も紙幅を費やす力の入れようです。これだけページ数を割くということは、少なくとも女性セブンの編集はこれが読者に受けると判断しているということでしょう。このように体罰肯定に躍起になる世論を見ると、少し前まで指導を受けることの多い子供の立場だった私としては恐ろしいものを感じます。
 体罰に効果がないことはすでに『心理学デマ2題 体罰ヨットスクールと内海聡の無意識感』や『体罰に効果がない心理学的理由』で説明しているので、ここでは彼らがなぜ、こうも無理筋な理屈を用いてまで体罰を肯定したがるのかという点を考察していこうと思います。

 体罰を受けた人は体罰を肯定するようになる?
 女性セブンの記事には興味深いアンケートが載っていました。それは体罰を受けたことがある人に体罰をどう思うか尋ねたものです。結果としては体罰を否定する態度と必要だと思う態度が拮抗するというものになっていました。
 体罰経験者の多くが体罰を肯定するようになるというのは興味深い結果です。これにはどのような心理的プロセスがあるのでしょうか。
 1つの予想としては、認知的不協和理論の現象が発生しているというものです。認知的不協和というのは、人が矛盾する認知を抱えた状態のことで、このようなとき人はその矛盾を解消するように認知を歪めるといわれています。例えばつまらないことを長時間苦労してやったとき、そのコストに「つまらないこと」という評価は見合わないので、その作業が面白かったと解釈しなおして矛盾を解消するというようなことが起きます。
 体罰に置き換えて考えてみると、体罰を受けるという理不尽な経験は重大なコストであると認識することができます。そのようなコストを経験する一方で体罰の効果を否定することは、自分が受けたあの経験は何だったのかという矛盾を抱える結果となります。
 そこで体罰の被害者は体罰の効果性を過大評価することで、この矛盾を解消するのでしょう。そしてその結果として、自身が指導者になったときに肯定していた体罰を使用することになるのではないでしょうか。

 暴行者は学習する
 もう1つの理由は、体罰を使うものが体罰と子供に言うことを聞かせたという経験との連合を学習している点です。
 体罰を使えば、少なくともその場においては子供は委縮し指導者の言うことを聞くでしょう。その場合、指導者は「体罰をすると子供が言うことを聞く」という繋がりを学んでしまいます。その学習は指導者にさらに体罰を使わせ、それがまた学習を強くするという負の連鎖を生み出してしまうのでしょう。

 体罰は理屈抜きにダメ
 このような状態になった指導者は、理で体罰の無意味さを説いても聞き入れません。21世紀にもなって体罰肯定論が幅を利かせているのがその証拠でしょう。
 そのために、体罰を根絶するにはどのような理由があっても人を殴ってはいけないという普遍的な論理をもってしてことに当たるしかありません。体罰をした指導者は指導の場から排除し、一部の隙もなく体罰を肯定する人間が指導をしないようにしなければいけません。
「え―き様の3分犯罪解説」「えーき様と罪人どものCoC」シリーズ投稿中です。http://t.co/5M9KbypdQP 自称アマチュア犯罪学者。ブログで犯罪学についてあれこれ書いております。TRPGだけやってる垢だと思ってると痛い目にあう。
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