前回の記事で述べた前提を念頭に置いたうえで読んでください。
 さて、先日というか、その時に限らずなんですが、PCに関するやり取りをTwitterとかで主にやる羽目になってきました。そこで思ったのは、そもそもPCって何だということがよく理解されていないんじゃないかということです。なのでこの記事では、自分がその概念を改めて整理して理解するのもかねて、PCについて説明しておこうと思います。
 とりあえず記事を2部構成にして、前半で「PCに違反しているかどうかってどうやって判断されるんだ」という話をし、後半で「PCとは何で、なんで守る必要があるんだ」という話をしようと思います。本来ならば構成は逆であるべきなんですが、ややこしい話を最初にして結局全部読まれないなんてことになると本末転倒なので、簡単な話から済ますことにします。

 場所×人×内容で判断
 その表現がPCからみて適切か否かは、状況によって少々複雑に変化します。同じ表現でも場所によってダメということはありますし、逆にあるところでダメと言われたものが別のところでは特にお咎めなしということもあり得ます。
 なぜそういうことが起こるかというと、その表現が適切か否かが主に3つの観点から判断されるからだと、私は解釈しています。その3つというのは、場所・人・内容です。それぞれ、表現がなされる場所(広告が張られる場所とか、雑誌の内外だとか)、表現をする、あるいは後援する人(そのポスターを作ったのが市役所なのかゲーム会社なのかとか)、内容はそのまま内容そのもののことを意味します。
 そして、この3つの要素の積が大きくなると、適切でないと判断されやすくなります。つまりより公共で、より影響力のある立場の者が、より問題のある内容を表現した時に適切でないと判断されやすくなるということです。
 例えば、この手の問題で必ずと言っていいほど話題に上がる碧志摩メグは、内容における問題点は極端に不適切な事例に比べれば比較的小さかったわけですが、広報という広い場で、観光協会という公的な立場にある者が公認したために問題であると判断されることになりました。逆に言えば、人や場所における問題が小さくなれば、その表現を問題だとみなす人も少なくなるわけで、事実公認を外されて以降は批判は鳴りを潜めましたし、一方で公認されていたときと大差ない扱いだったことがわかった時には再び強い反発を招くことにもなりました。
 この、内容が同じでも状況が違えば判断も変わるという、批判者から見ると首尾一貫していないとも感じられるかもしれない態度は、問題のある表現は減らしたい一方で表現の自由を最大限守りたいというせめぎあいの中で生まれたものです。状況を加味せずに内容だけで適不適を判断するとすれば、人々は常に「正しい」表現を強いられることとなり、それは無論表現の自由を抑圧する事態になります。時々この点を理解せずに「これがダメならあれもダメだろ(ドヤァ)」などと批判者に喧嘩を吹っ掛けている人がいますが、私からするとそんなに批判されたいの?としか思えません。

 PCは何のために
 さて後半、そもそもPCって何でしょうか。簡単に言えば「他人が不快になる表現をしない」ということなのですが、この説明はいささか不正確です。この言い方では他人への悪口もPC違反だ!みたいな人が湧いて出来ます。実際いますしね。
 「他人が不快に~」の「他人」を正確な表現にすると、「特定の属性を持つ人」ということになるでしょうか。そして「不快」をより正確な表現にすると、「偏見や差別を助長する」となります。「助長」などという表現を使うと、また「これが偏見を助長するという根拠を示せ!」な屁理屈を振りかざす人が出てくる(ていうか実際いた)ので、ここは「再生産・固定化・煽る」などとしてもいいかもしれません。どっちにせよイメージに違いはありません。
 まとめると、PCは「特定の属性を持つ人への偏見や差別を煽るような表現をしない」という立場を指すといえます。さらに付言すると、特に「特定の属性を持つ人への偏見や差別を煽るような表現」のうち、ヘイトスピーチなどと言われるほど悪質ではない、比較的「軽い」表現に対して使われるものです。
 PCに沿う表現の代表例が、保母を保育士と読み替えたり、看護婦を看護師と読み替えるものです。これは、特定の性別の人がなる職業であるという偏見を取り除き、他の性別へ門戸を開くために必要なものです。また最近では「PCのせいでアメリカではメリークリスマスも言えない」という話を聞きますが、これはクリスマスを祝うというキリスト教徒の間でのみの習慣を前提とした挨拶をキリスト教徒以外の人にするのはいいの?という話です。当人が気にしてないようなら腫れ物に触るように避けなくてもいいでしょうし、キリスト教徒の間なら別に問題ありません。ただ、アメリカ人がキリスト教徒ばかりだという前提で動くのはやめようという話でしょう。
 ちなみに、「ポリティカル・コレクトネス」で検索すると、結構上位に「アンパンマンも不適切!?」などという与太話が出てくるのですが、ありえません。職業における「マン」が不適切であるのは、それが女性もなりうるものだからであり、アンパンマンは特定の男性(だよね?)を指す固有名詞であるので、不適切にはなり得ません。女性(のはず)であるメロンパンナとかを「メロンパンマン」と表現していれば、ちょっとまてやとなるでしょうが(そう考えると、やなせたかしは慧眼だったのだろうか)。

 ここまで書けば、なぜPCに配慮して表現することが必要なのかもわかるでしょう。当然、何が適切で何が不適切かの判断は各々で違ってくるので、その食い違いは対話の中で折り合いをつける必要があるのですが……それをするためにPCとは何かを理解してもらう必要があるんですよね。
 昨今はトランプが大統領に当選したことで「ポリコレ疲れ」なるものがまことしやかにささやかれていますが、PCどころかそれよりも悪質なヘイトスピーチへの対策も遅れている日本ではまずありえないのでご安心(?)ください。アメリカですら「別につかれていねぇだろてめぇら」という反論はあるので。
 インコレクトな表現をしてきた側の人間からすれば、この表現はダメだと言われるのはともすれば「弾圧」のようにも映るのかもしれません。が、表現をされてきた側にとっては、そのインコレクトな表現が流布することがまさに「弾圧」のように機能していたわけで、表現をするときにはこれが誰かを踏みつぶしていないかくらいは気に掛ける必要があると言えるでしょう。