第3回です。
ちなみに、Twitterへの異議申し立ては現在返事が返ってきていません。
Twitterが凍結されているとブログの告知もままならないので、ぜひ読者の皆さんお願いします。特にコメントつけずに、ツイートのボタンをぽちっとやるだけでいいですから。
『【Twitter凍結記#1】新橋九段凍結までの経緯』で簡単に触れたように、凍結の原因は「バカ」という罵倒です。まぁ、凍結に至ったツイートに限らず、私は日頃からこの手の罵倒語をネットではよく使います。ブログでも使ってると思います。
そういう話し方をすると、中には口が悪いとか感情的だとか言う人もありますが、罵倒語を私が使うのはちゃんとした理由あってのことです。今回はそういうお話です。
馬鹿には馬鹿と言おう
理由というのは実にシンプルで、「怒るべきときにちゃんと怒るべき」だからです。
例えばTwitterで私が罵倒語を使うのは大抵、間抜けで無礼な反応を投げつけられたときです。長々と懇切丁寧に自説を論じたにもかかわらず、1行たりとも読んでいないと推測するのが容易な反応をするような輩、つまり議論以前に対人関係上必要とされる類の誠実さも持ち合わせていないような馬鹿に対して、客観的な評価として馬鹿と言っています。
というか、多かれ少なかれ文章を書く人間なら、この手のアホが目の前に現れたとき、ぶん殴るのを我慢できるものではないでしょう。
念のために付言すれば、きちんと読んでもなお誤読があるとか、考え方が違うというような人にまで馬鹿とか間抜けとかいうことはありません。当然です。ただ、Twitterにはそれ以前の知的退廃層があまりに多いので、残念ながら「バカ」と返すほかないときもあります。
怒りの表明は当然の権利
さて、ではなぜ、怒るべきときに怒りを表明しておくべきなのでしょうか。
難しいことは抜きにして、それが人間の持つ権利だからです。ないがしろにされたときには怒る。無礼を働かれたり侮辱されたら怒る。当然です。むしろそれをしてはいけない理由ないし根拠があるでしょうか?
もう1つ副産物を挙げておけば、それは類似の状況下にある人へ、これは怒ってもいい場面なんだというメッセージになるということもあります。差別に怒りの声をあげる人を見て自分の置かれた状況が理不尽だと気づけたという話は、フェミニズム関連の議論でもよく聞く話です。
ネットの議論では、ああいう無礼な侮辱をすることが議論だと思っているあんぽんたんが掃いて捨てるほどいます。真面目な人は、そういうカエル未満の知能しかない人々にも誠実に対応して、疲弊します。そうしてフェードアウトしたところでカエルの楽園たちが勝利宣言、というシーンを幾度となく見てきました。
私がそういうカエルの肛門に爆竹を詰め込んで火をつけるのは、彼らと議論は成り立たないし、する必要もないということを知らしめるためでもあります。
Twitter社は「怒りの非対称性」をわかっていない
『Twitter社の非対称凍結がもたらすものは何か』でも少し書いたことを、改めて丁寧に論じておきましょう。
Twitter社は、バカといった表面的な言葉によってアカウントを凍結しました(もっとも、通報の結果を見るにその基準すら公平に運用されていないという懸念があるのですが)。しかしここまでで述べたように、罵倒は常に悪行であるというわけではなく、むしろ場面によっては当然の権利ですらあります。
むしろ、表面的な言葉の強さのみに注目して凍結を行うことは、無礼で侮辱的なアカウントの利益となり、その無礼への反対者の不利益になるという偏った結果を生み出します。
なぜなら、大抵の場合、ネット上の無礼な人間というのは「表面上の言葉遣いだけは」丁寧だったりするからです。もちろん、敬語を使っていたとしても上にあげたような態度は無礼極まりな侮辱であることに変わりはないわけですが、ぱっと見は丁寧で冷静であるかのように見えてしまいます。
一方、無礼を働かれたほうは当然の結果として怒り、言葉は荒くなります。当たり前です。それはぱっと見、乱暴に見えるでしょう。しかしそもそもの原因は無礼な態度を投げつけた側にあるのであって、怒った側の態度の乱れの責任は一義的には彼らのほうにこそあります。
このような状況において、会話の流れを一切顧みず、表面上の言葉遣いだけでアカウントを凍結すると、当然「表面上丁寧な」侮辱者は見落とされ、これに怒りの声をあげる良識ある人々ばかりが凍結されるという結果になります。これこそまさに、非対称性というべきでしょう。
表現を変えれば、Twitter社は凍結基準において、怒りを表明するということを徹底的に禁じる「トーンポリッシング」を行っているというわけです。その一方で差別者は放置なので、悪質もいいところでしょう。
侮辱へ反発する怒りは確かに荒く攻撃的なものになりがちです。しかし、「特定個人への攻撃だ!」などと勝手に盛り上がってアカウントを凍結する必要はありません。どちらかがブロックすれば終わる話だからです。
Twitter社はそれよりも、ブロックでは済まない行為をしているアカウントを凍結するほうがいいでしょう。百田とか。
ちなみに、Twitterへの異議申し立ては現在返事が返ってきていません。
Twitterが凍結されているとブログの告知もままならないので、ぜひ読者の皆さんお願いします。特にコメントつけずに、ツイートのボタンをぽちっとやるだけでいいですから。
『【Twitter凍結記#1】新橋九段凍結までの経緯』で簡単に触れたように、凍結の原因は「バカ」という罵倒です。まぁ、凍結に至ったツイートに限らず、私は日頃からこの手の罵倒語をネットではよく使います。ブログでも使ってると思います。
そういう話し方をすると、中には口が悪いとか感情的だとか言う人もありますが、罵倒語を私が使うのはちゃんとした理由あってのことです。今回はそういうお話です。
馬鹿には馬鹿と言おう
理由というのは実にシンプルで、「怒るべきときにちゃんと怒るべき」だからです。
例えばTwitterで私が罵倒語を使うのは大抵、間抜けで無礼な反応を投げつけられたときです。長々と懇切丁寧に自説を論じたにもかかわらず、1行たりとも読んでいないと推測するのが容易な反応をするような輩、つまり議論以前に対人関係上必要とされる類の誠実さも持ち合わせていないような馬鹿に対して、客観的な評価として馬鹿と言っています。
というか、多かれ少なかれ文章を書く人間なら、この手のアホが目の前に現れたとき、ぶん殴るのを我慢できるものではないでしょう。
念のために付言すれば、きちんと読んでもなお誤読があるとか、考え方が違うというような人にまで馬鹿とか間抜けとかいうことはありません。当然です。ただ、Twitterにはそれ以前の知的退廃層があまりに多いので、残念ながら「バカ」と返すほかないときもあります。
怒りの表明は当然の権利
さて、ではなぜ、怒るべきときに怒りを表明しておくべきなのでしょうか。
難しいことは抜きにして、それが人間の持つ権利だからです。ないがしろにされたときには怒る。無礼を働かれたり侮辱されたら怒る。当然です。むしろそれをしてはいけない理由ないし根拠があるでしょうか?
もう1つ副産物を挙げておけば、それは類似の状況下にある人へ、これは怒ってもいい場面なんだというメッセージになるということもあります。差別に怒りの声をあげる人を見て自分の置かれた状況が理不尽だと気づけたという話は、フェミニズム関連の議論でもよく聞く話です。
ネットの議論では、ああいう無礼な侮辱をすることが議論だと思っているあんぽんたんが掃いて捨てるほどいます。真面目な人は、そういうカエル未満の知能しかない人々にも誠実に対応して、疲弊します。そうしてフェードアウトしたところでカエルの楽園たちが勝利宣言、というシーンを幾度となく見てきました。
私がそういうカエルの肛門に爆竹を詰め込んで火をつけるのは、彼らと議論は成り立たないし、する必要もないということを知らしめるためでもあります。
Twitter社は「怒りの非対称性」をわかっていない
『Twitter社の非対称凍結がもたらすものは何か』でも少し書いたことを、改めて丁寧に論じておきましょう。
Twitter社は、バカといった表面的な言葉によってアカウントを凍結しました(もっとも、通報の結果を見るにその基準すら公平に運用されていないという懸念があるのですが)。しかしここまでで述べたように、罵倒は常に悪行であるというわけではなく、むしろ場面によっては当然の権利ですらあります。
むしろ、表面的な言葉の強さのみに注目して凍結を行うことは、無礼で侮辱的なアカウントの利益となり、その無礼への反対者の不利益になるという偏った結果を生み出します。
なぜなら、大抵の場合、ネット上の無礼な人間というのは「表面上の言葉遣いだけは」丁寧だったりするからです。もちろん、敬語を使っていたとしても上にあげたような態度は無礼極まりな侮辱であることに変わりはないわけですが、ぱっと見は丁寧で冷静であるかのように見えてしまいます。
一方、無礼を働かれたほうは当然の結果として怒り、言葉は荒くなります。当たり前です。それはぱっと見、乱暴に見えるでしょう。しかしそもそもの原因は無礼な態度を投げつけた側にあるのであって、怒った側の態度の乱れの責任は一義的には彼らのほうにこそあります。
このような状況において、会話の流れを一切顧みず、表面上の言葉遣いだけでアカウントを凍結すると、当然「表面上丁寧な」侮辱者は見落とされ、これに怒りの声をあげる良識ある人々ばかりが凍結されるという結果になります。これこそまさに、非対称性というべきでしょう。
表現を変えれば、Twitter社は凍結基準において、怒りを表明するということを徹底的に禁じる「トーンポリッシング」を行っているというわけです。その一方で差別者は放置なので、悪質もいいところでしょう。
侮辱へ反発する怒りは確かに荒く攻撃的なものになりがちです。しかし、「特定個人への攻撃だ!」などと勝手に盛り上がってアカウントを凍結する必要はありません。どちらかがブロックすれば終わる話だからです。
Twitter社はそれよりも、ブロックでは済まない行為をしているアカウントを凍結するほうがいいでしょう。百田とか。
差別反対を標榜するあなたが、カエルを人間よりも下の存在と差別してもいいのですか?
そういう行為は種差別、海外ではスピーシズムとと言われています。