日本を代表するアニメ監督・演出家、富野由悠季(78)。大ヒット作『機動戦士ガンダム』は、放送開始から40年が経った。ガンダムは、アニメ、プラモデル、ゲームとさまざまに展開し続けている。「鬱屈への共感を生んで、視線を自分の内側にだけ向けてしまう作品は危険だと思う」。日本のアニメを黎明期から支えてきた富野監督が、アニメ、エンターテインメント、そして社会へ問題提起する。(取材・文:藤津亮太/撮影:太田好治/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(中略)
 ――富野監督はアニメにできることがまだあると信じているんですね。
「そうですね。信じていますね。……少し前に読売新聞で浅田次郎さんが『流人(るにん)道中記』という小説を連載していたんです。書きぶりが見事だなとずっと思っていたんですが、連載を終えた後の寄稿に見事なフレーズがありました。そこには、歴史を変える動力となるのは、賢者の懐疑の総和ではないか、って書かれていたんです。一人のヒーローが世の中を改革するんじゃなくて、『これはおかしくないか』と世間に疑問を持てる人たちの総和が改革を生み出すのだと。『G-レコ』が子どものためというのも、つまりそういう『疑問を持てる子を増やしたい』ということなんです」
 「若い世代に“扇動工作”をしなければ、未来はつくれない」――富野由悠季監督が信じる「アニメの機能」-ヤフーニュース
 偶然、富野監督のインタビュー記事を読む機会を得ました。注目したのは引用部終盤にある「賢者の懐疑」という言葉です。

 賢者の懐疑の総和
 私が発起人を務める「広く表現の自由を守るオタク連合」は、山田太郎の当選をきっかけに立ち上げました(『表現の自由を守るために、なぜ山田太郎を批判しなければならないのか』参照)。その中で私は、わかりやすい英雄を求める心性がゆえに、人々は山田太郎のような明らかな矛盾を抱えた存在でも支持せざるを得ないのだと指摘してきました。自分がどうにかするのではなく、誰かにやってもらうというスタンスだからこそ、矛盾を飲み込んででも「わかりやすい英雄」にすがるしかないのです。

 広オ連は、そうした立場と決別し、少しでも微力でも自らの力で現状を変えていくことを志向する連帯です。
 そういう立場を、「賢者の懐疑」という言葉は見事に言語化しているといえましょう。その言葉自体は浅田次郎氏のものですが、新聞の連載小説、さらには関連する寄稿記事にまで目を通している富野監督の視野の広さにも驚かされます。さすがは、長年にわたり第一線で活躍するクリエイターです。

 重要なのは、懐疑が「賢者の懐疑」であること、そして歴史を変えるのはその「総和」であるという点です。
 総和であるというのは言うまでもなく、さっきから書いているように、一人のわかりやすい英雄を求めることではないということです。あくまで個々人が「総和」のうちの1つとなれるように、賢者の懐疑を発動していくことで、歴史を動かすべきだということでしょう。

 愚者の懐疑
 懐疑が「賢者の」懐疑であることが重要だと書きました。「賢者の懐疑」という語彙を得て初めて綺麗に言語化できるのですが、私は前々から「懐疑主義は馬鹿には荷が重い」と思っていました。
 というのも、懐疑主義というのは一般に「漠然と信じられているが、実は根拠がなかったり合理的じゃなかったりするものを排する」手段として「懐疑」という手段を用いるのですが、馬鹿だとこのことが理解できずに「あれはどうなんだ?これはどうなんだ?」と全方位射撃を繰り返した挙句なにも生み出さないという結末に至るからです。

 なにも生み出さないならまだいいほうで、最悪の場合、排除してはいけないものにまで懐疑を投げつけて排除しようとすることになります。

 これは東大の特定短時間勤務有期雇用教職員(長い)である大澤昇平氏が以下のように発言したことが好例でしょう。

 差別がいけないというのは、近代社会が前提とする人権主義から導かれるものです。これが崩されると、人々の暮らしは成り立ちません。しかし大澤氏はそのことを全然理解せず、懐疑を人権へ向けるという愚行を犯しているのです。

 「賢者の懐疑」なるものがあるとすれば、その反対には「愚者の懐疑」が想定されてしかるべきでしょう。それは、上にあげたような、意味もなく有害で愚かな懐疑にほかなりません。

 しかし残念ながら、社会には「賢者の懐疑」は少ない一方、「愚者の懐疑」は掃いて捨てるほどあります。ネット詭弁家がこのような言葉を弄するのは、愚者の懐疑のほうが人気があるからです。
 我々はあくまで、歴史を動かすために賢者の懐疑を集めなければいけません。じゃあどうすればいいかって言われると困るんですけどね。