相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園(Tsukui Yamayuri-en)」で入所者19人が殺害された事件で、横浜地方裁判所は16日、植松聖(Satoshi Uematsu)被告(30)に死刑を言い渡した。
 日本史上最悪の大量殺人の一つとされる2016年のこの事件の裁判で、植松被告は起訴内容を認めていたが、弁護団は被告には薬物使用に関連した「精神障害」があったとして「無罪」を主張していた。
 しかし、青沼潔(Kiyoshi Aonuma)裁判長は「19人もの人命が奪われたという結果が、他の事例と比較できないほどはなはだしく重大である」と述べ、「計画的かつ強烈な殺意」があったと指摘。「酌量の余地はまったくな」いとして、被告側の無罪主張を退けた。
 青沼裁判長はまた、遺族から処罰を強く求める声があることに触れ、被告に前科がないことなどを「できるだけ考慮し、量刑の均衡、公平性の観点から慎重に検討しても、死刑をもって臨むほかないと判断した」と述べた。
 植松被告は以前、判決が何であれ控訴しない意向を示す一方、自分は死刑に値しないとも主張していた。死刑判決言い渡しには特に反応を示さなかった。
 相模原障害者19人殺害事件、被告に死刑判決-AFP
 昨日、相模原大量殺人事件の加害者に死刑判決が言い渡されました。これで事件はひとつの区切りを迎えたと言っていいでしょう。

 九段新報が見た相模原事件
 振り返ると、九段新報でもこの事件を何度も取り上げてきました。
 事件発生当初は、『相模原の大量殺人について』や『「措置入院でなぜ防げなかったのか」が無意味なわけ』で取り上げたように事件を防げなかったのかという論調が目立った印象です。そのときは措置入院が取り沙汰され、それには意味がない旨を記事に書きましたが、その後警察が危険を把握しつつ何もしなかったことが明らかとなり、別角度から「防げたかもしれない事件」だったことがわかりました。

 この事件は障碍者差別に強く裏付けられているのですが、加害者だけではなく日本社会全体に差別が根付いていることも改めて表面化しました。真っ先に措置入院の話題が出たのも、ある種このような事件を起こした責任を「精神障害」に押し付けんとする試みだったのでしょう。『長谷川豊なんかの発言をまともに聞いちゃだめだよ? 後編(相模原のやつ)』からもわかります。それが困難だと悟ると、いつものごとく在日コリアンへ責任を転嫁し始めました(『相模原の犯人が○○であることは事件と関係ないよ?』参照)。

 そのような差別性がまず表出したのは、報道でした。『なぜ障害者の被害者は実名報道されないのか』で扱ったように、普段は意地でも被害者のプライバシーを暴く報道が、この件では従順に被害者の匿名報道を貫きました。もちろん、報道に被害者の名前が必要だとは思えませんが、健常者は名前を出すのに障碍者は出さないという区別にはどのような意味があるか、一度考えるべきです。

 一方では、加害者を非難するという申し訳程度のエクスキューズを伴いながら、加害者の思想に共感する動きも多く出ています。つまり、命の選別を是とする風潮が、これまでは曲がりなりにも隠されていたのに、これをひとつの契機として表立って出てきたということです。

 顕著だったのは、やはり同様の医療現場でした。『大口病院事件 「延命されている人に楽しいことなんてない」は相模原事件の犯人と何が違う』で取り上げた事件や、『医師が「医療費が」などと出しゃばり患者を殺す不気味さ』の福生病院の事件がこれに当たります。「延命されているのは不幸だ」などと他者の感情を勝手に決めつけ、また延命治療が無益であるなどと救命を第一に考えるべきはずの医師が利益ベースで物事を考えるなど、気味が悪いとしか言いようのない振る舞いがまかり通っています。

 むろん、このような動きは突如現れたものではありません。ベースには犯罪者の意見をさも重要なものであるかのように扱う風潮があり(『「殺人犯の名前を呼ばない」NZ首相と、殺人鬼に深遠な何かを見出そうとする風潮』参照)、また透析を自業自得だと言ってはばからないような自己責任至上主義の風潮があります(『長谷川豊が千葉一区&比例代表で出馬するようなので過去の暴言を蒸し返しておく』参照)。

 なにより、このような「命の選別」を、ほかならぬ政府が主導していることは決して忘れてはならないでしょう。『こんな時だからこそ「誰が」「誰を」殺してもいけないことを確認しなければならない』で触れたように、安倍首相の反応は極めて鈍いものでした。犯人が首相に手紙を送っているという背景があるにもかかわらずです。京アニ放火事件のときの反応とは対照的です。

 もっとも、この事件に際して平等と生命尊重の立場から多くの言説が登場したのも事実です。古いものになりますが、青い芝の会の神奈川県連代表が記した書籍も注目を浴びました(『【書評】障害者殺しの思想』参照)。言い換えれば、昔から進歩がないということにもなりますが。

 死刑制度は同じ穴の狢
 すでに同様の批判はされているでしょうが、ここでも繰り返しておきましょう。
 今回の事件の加害者を死刑にするというのは、結局のところ、加害者の主張を裏書きしているにすぎません。なぜなら、死刑制度もまた「殺していい命を決めて処理する」という、加害者の振る舞いと同じものでしかないからです。

 そもそも、相模原事件の発端は障碍者を無価値な人間と定め、生きる意味がない、生きているのは無駄だと決めつける思考形態でした。死刑制度もまた、重罪を犯した(とされる)人間を無価値と定め、生かすのは税金の無駄とばかりに殺してしまう制度です。違うのは、裁判を経るため死刑制度のほうが「まともっぽく見える」というところだけですが、冤罪の事例を見ればさほどまともではないことはよくわかると思います。

 相模原事件の加害者の振る舞いを批判しながら、彼の死刑を望むことは、端的に表現すれば「命を大切にしない奴は嫌いだ!死ね!」と言っているようなものでしょう。