というわけで読みました。本書はColaboの代表である仁藤夢乃氏が、Colaboの活動について実際にシェアハウスで暮らした少女や関係者などとのインタビューを盛り込みつつ多面的にまとめたものとなっています。活動の内容だけではなく、どういった意図や狙いがあって活動をしているのかも語られているので、実は現在Colaboに殺到しているデマや誹謗中傷の多くが的外れであることは本書を読むだけでわかったりします。
それ以外にも、当事者や現場に近い視点から語られる問題は私のような部外者には思い至らないことも多く、定期的にこうした視点を頭に入れておくことは重要だなと思う次第です。
そのような状態になっているのにはいくつもの理由があります。児相の職員の水準が低いように思われる事例も稀ではないようで、行政のリソース不足がはっきりと伺えます。とはいえ、じゃあリソースを単に増すだけで問題が解決するかといえば、そうでもなさそうです。
例えば、行政の施設は規則が厳しく、子供がスマホを使えないようになっているような状態があります。一時保護されているときに学校に通うことが想定されていなかったり、婦人保護施設がDVシェルターを兼ねるようになって防衛のために規則がさらに厳しくなったりと、とにかく小回りが利かない印象です。
そうした硬直的な支援のリソースが仮に増えたとしても、そこに馴染めない人々の受け皿にはなり得ないでしょう。困難には幅がありますから、支援する側もその幅に合わせて様々な対応ができるように多様な手段を用意しておくのが本来です。
そこで、少し飛躍ですが思い出すのが、山田太郎の配信での種々の発言です。彼は自分が子ども政策に熱心だと思っており(まぁ自民党議員の時点でねぇ?)、この度国会で成立した統一教会被害者の救済法についても、「俺が俺が」で宗教二世の子供の救済のためにシェルターなどが活用できるようになるべきだと言っていました。言ってるだけですが。
山田太郎はともあれ、既存の支援が十全に使えるように整えるのも重要ですし結構なことです。ですが、その語り口を見るに、リソースさえ増やせば解決すると安直に考えてやしないかと、これは自戒も込めて思えてしまいます。
いくらリソースが潤沢でも、その背景にある思想が根腐れを起こしていては結局、市民から頼られ選ばれる制度にはなりません。戦後間もなくの「婦人保護」のようにセックスワーカーを矯正すべき非行者のように考えたり、あるいは子供福祉のようにとにかく家に帰せば解決なのだという姿勢では、到底使える福祉にはならないでしょう。
逆に言えば、Colaboはある意味では、少女たちに選ばれる魅力を持とうと努力してきたとも言えます。以前、Colaboがブランド物の石鹸などの寄付を募っていることが非難されていましたが、こうした「部外者の浅慮」からは不可解に思える振る舞いも意味があってのことなのです。仁藤氏が前著『女子高生の裏社会』で指摘していたように、路上には少女をあの手この手で引っ掛けよう、買おうとする人々があふれています。そうした「魅力」に対抗して対象にリーチする必要性があるのです。
政治活動も、Colaboに対する非難で主要な要素でした。私が暇空のデマを否定したとき、「批判の本丸は政治活動だ」と、いまから見ればてんで的外れな反論を寄せた人は1人2人ではありませんでした。もっとも、Colaboは政治活動を「主たる目的とする」団体ではないというだけで話は終わりですが。維新の音喜多のツイートを読む限り、こうした活動がColaboを煙たがる人々にとって気に入らない、都合の悪いものであることは間違いありません。
ですが、本書を読むと、こうした「政治活動」も支援の文脈でむしろ必要なことだったのではないか、とも思えてきます。
女性差別問題にせよ、それ以外の政治的な問題にせよ、少女たちが実際に問題にかかわること、ほかの活動と交流すること、抗議活動を実際に経験することを通じて、彼女たちは抵抗するための言葉や方法を学んでいるのではないかと思えます。本書のサブタイトルにある通り、現在の日本は性搾取が常態化しており、女性、とりわけ孤立した若い女性はそうした搾取に日々晒されることとなります。そうした社会で彼女たちが生きていくためには、搾取を否定して跳ねのけるための言葉がどうしても必要になってきます。差別や搾取は社会構造に巧妙に組み込まれるものなので、それらの問題を言葉によって可視化する手段がないと対抗するのも難しく、なんだかよくわからないままに搾取されるということになってしまいます。
そして、こうした側面を考えると、Colaboを毛嫌いする男たちが特に政治活動にいきり立って非難を行う理由もわかります。要するに、彼らは少女たちが抵抗力を身に着けるのを恐れているのです。そりゃそうでしょう。無知に付け込んで搾取したいのに、その相手が無知ではなくなったらこれほど不都合なことはありません。しかも、人権や平等に目覚めて"サヨクに動員"されれば、極右ミソジニストからすれば二重三重にマイナスです。ここで必死になるのも当然ではあります。
そのような必死の反応こそが、少女たちの抵抗力に効果があることの証左でもありますが。
特に後半では、自民党議員がバスカフェを視察した際のセクハラであるとか、男性支援者による不適切な発言への対応など、少女たち自身の抵抗力も発揮された事例が説明されていますが、2つの事例とも男の側がまともに問題を認めていない様子です。これは、「女ごとき」に自身の問題を指摘されて受け入れられない男の驕りであると同時に、そもそも自身の問題を認められない弱さでもあると言えましょう。
Colaboの関係者の発言で特に印象的なのは、活動の場でうまくいかなかったこと、とりわけ少女たちとのやり取りで齟齬が生じ失敗したことをしっかりと直視し、自身の失敗として認めているところです。大人対子供という関係性だと、どうしても大人側は自分の間違いを認められないことが多いというのは、自分たちが児童や生徒だったころの教師の振る舞いを思い返せば1つくらいは思い出せるものでしょう。特に、Colaboの活動の場では答えや前例もなかなかない事態に行き当たることも多いだろう中で、失敗も少なくないと予想されますが、そうした至らなさを直視する強さが1つ重要な要素になっていると感じられます。
そして、こうした強さは、パターナリズムに陥る男の弱さと対になっている要素でもあるように思えます。男は自分の至らなさを認められないがゆえに、黙って言うことを聞けばいいんだという態度をとることになり、それがパターナリズムに繋がるのでしょうか。これも自戒を込めて頭に刻んでおきたいことです。特に、私のような「学者」「専門家」「教員」は、油断すると社会のすべてを知った気になってしまうので。
ちなみに、2つ上の段落で割と意識的に「直視」という言葉を使いましたが、この辺はColaboへのデマにいそしむ人々との対比にもなっているかなと感じるところです。デマというのは基本的に、現実と事実から目を逸らす現実逃避ですから。この辺はもう少し考えられそうです。
本書が述べていることの多くは、支援というミクロな文脈においても、差別の構造というマクロな面においても様々な示唆を与えてくれるものです。必読の1冊となるでしょう。
仁藤夢乃 (2022). 当たり前の日常を手に入れるために 性搾取社会を生きる私たちの闘い 影書房
それ以外にも、当事者や現場に近い視点から語られる問題は私のような部外者には思い至らないことも多く、定期的にこうした視点を頭に入れておくことは重要だなと思う次第です。
選ばれない支援
本書の内容で印象的な内容の1つは、児童相談所のような公的な支援が当事者である少女から頼りにされていない、当てにされていない、ありていに言えば選ばれていないという現状です。そのような状態になっているのにはいくつもの理由があります。児相の職員の水準が低いように思われる事例も稀ではないようで、行政のリソース不足がはっきりと伺えます。とはいえ、じゃあリソースを単に増すだけで問題が解決するかといえば、そうでもなさそうです。
例えば、行政の施設は規則が厳しく、子供がスマホを使えないようになっているような状態があります。一時保護されているときに学校に通うことが想定されていなかったり、婦人保護施設がDVシェルターを兼ねるようになって防衛のために規則がさらに厳しくなったりと、とにかく小回りが利かない印象です。
そうした硬直的な支援のリソースが仮に増えたとしても、そこに馴染めない人々の受け皿にはなり得ないでしょう。困難には幅がありますから、支援する側もその幅に合わせて様々な対応ができるように多様な手段を用意しておくのが本来です。
そこで、少し飛躍ですが思い出すのが、山田太郎の配信での種々の発言です。彼は自分が子ども政策に熱心だと思っており(まぁ自民党議員の時点でねぇ?)、この度国会で成立した統一教会被害者の救済法についても、「俺が俺が」で宗教二世の子供の救済のためにシェルターなどが活用できるようになるべきだと言っていました。言ってるだけですが。
山田太郎はともあれ、既存の支援が十全に使えるように整えるのも重要ですし結構なことです。ですが、その語り口を見るに、リソースさえ増やせば解決すると安直に考えてやしないかと、これは自戒も込めて思えてしまいます。
いくらリソースが潤沢でも、その背景にある思想が根腐れを起こしていては結局、市民から頼られ選ばれる制度にはなりません。戦後間もなくの「婦人保護」のようにセックスワーカーを矯正すべき非行者のように考えたり、あるいは子供福祉のようにとにかく家に帰せば解決なのだという姿勢では、到底使える福祉にはならないでしょう。
逆に言えば、Colaboはある意味では、少女たちに選ばれる魅力を持とうと努力してきたとも言えます。以前、Colaboがブランド物の石鹸などの寄付を募っていることが非難されていましたが、こうした「部外者の浅慮」からは不可解に思える振る舞いも意味があってのことなのです。仁藤氏が前著『女子高生の裏社会』で指摘していたように、路上には少女をあの手この手で引っ掛けよう、買おうとする人々があふれています。そうした「魅力」に対抗して対象にリーチする必要性があるのです。
抵抗のための言葉
本書には、メインを占めるわけではないかもしれませんが、少女たちが参加した「政治活動」についての言及もありました。辺野古での座り込みに参加したり、韓国でのいわゆる従軍慰安婦の問題で活動している団体とかかわったり、「私たちは『買われた』展」を開催したりと、その活動は多岐に渡ります。政治活動も、Colaboに対する非難で主要な要素でした。私が暇空のデマを否定したとき、「批判の本丸は政治活動だ」と、いまから見ればてんで的外れな反論を寄せた人は1人2人ではありませんでした。もっとも、Colaboは政治活動を「主たる目的とする」団体ではないというだけで話は終わりですが。維新の音喜多のツイートを読む限り、こうした活動がColaboを煙たがる人々にとって気に入らない、都合の悪いものであることは間違いありません。
ですが、本書を読むと、こうした「政治活動」も支援の文脈でむしろ必要なことだったのではないか、とも思えてきます。
女性差別問題にせよ、それ以外の政治的な問題にせよ、少女たちが実際に問題にかかわること、ほかの活動と交流すること、抗議活動を実際に経験することを通じて、彼女たちは抵抗するための言葉や方法を学んでいるのではないかと思えます。本書のサブタイトルにある通り、現在の日本は性搾取が常態化しており、女性、とりわけ孤立した若い女性はそうした搾取に日々晒されることとなります。そうした社会で彼女たちが生きていくためには、搾取を否定して跳ねのけるための言葉がどうしても必要になってきます。差別や搾取は社会構造に巧妙に組み込まれるものなので、それらの問題を言葉によって可視化する手段がないと対抗するのも難しく、なんだかよくわからないままに搾取されるということになってしまいます。
そして、こうした側面を考えると、Colaboを毛嫌いする男たちが特に政治活動にいきり立って非難を行う理由もわかります。要するに、彼らは少女たちが抵抗力を身に着けるのを恐れているのです。そりゃそうでしょう。無知に付け込んで搾取したいのに、その相手が無知ではなくなったらこれほど不都合なことはありません。しかも、人権や平等に目覚めて"サヨクに動員"されれば、極右ミソジニストからすれば二重三重にマイナスです。ここで必死になるのも当然ではあります。
そのような必死の反応こそが、少女たちの抵抗力に効果があることの証左でもありますが。
男のパターナリズム
最後に、支援者、特に男が陥りやすいパターナリズムの議論にも触れておきましょう。本書ではパターナリズムというキーワードで語られることこそ少ないものの、本書を通じて1つの一貫した論点になっている印象でした。特に後半では、自民党議員がバスカフェを視察した際のセクハラであるとか、男性支援者による不適切な発言への対応など、少女たち自身の抵抗力も発揮された事例が説明されていますが、2つの事例とも男の側がまともに問題を認めていない様子です。これは、「女ごとき」に自身の問題を指摘されて受け入れられない男の驕りであると同時に、そもそも自身の問題を認められない弱さでもあると言えましょう。
Colaboの関係者の発言で特に印象的なのは、活動の場でうまくいかなかったこと、とりわけ少女たちとのやり取りで齟齬が生じ失敗したことをしっかりと直視し、自身の失敗として認めているところです。大人対子供という関係性だと、どうしても大人側は自分の間違いを認められないことが多いというのは、自分たちが児童や生徒だったころの教師の振る舞いを思い返せば1つくらいは思い出せるものでしょう。特に、Colaboの活動の場では答えや前例もなかなかない事態に行き当たることも多いだろう中で、失敗も少なくないと予想されますが、そうした至らなさを直視する強さが1つ重要な要素になっていると感じられます。
そして、こうした強さは、パターナリズムに陥る男の弱さと対になっている要素でもあるように思えます。男は自分の至らなさを認められないがゆえに、黙って言うことを聞けばいいんだという態度をとることになり、それがパターナリズムに繋がるのでしょうか。これも自戒を込めて頭に刻んでおきたいことです。特に、私のような「学者」「専門家」「教員」は、油断すると社会のすべてを知った気になってしまうので。
ちなみに、2つ上の段落で割と意識的に「直視」という言葉を使いましたが、この辺はColaboへのデマにいそしむ人々との対比にもなっているかなと感じるところです。デマというのは基本的に、現実と事実から目を逸らす現実逃避ですから。この辺はもう少し考えられそうです。
本書が述べていることの多くは、支援というミクロな文脈においても、差別の構造というマクロな面においても様々な示唆を与えてくれるものです。必読の1冊となるでしょう。
仁藤夢乃 (2022). 当たり前の日常を手に入れるために 性搾取社会を生きる私たちの闘い 影書房
部外者で男の視点だと見えてこない事が多いんだなぁと改めて強く認識しました…