九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

カテゴリ: 心理学


 これの件ですね。

査読が出鱈目かは全く分からない

 前提として、この論文著者の主張の要点であるところの「査読の水準が低かった」と「その査読がジェンダー論研究者によるものだ」はいずれも、話半分に理解すべきことだと思います。

 まず前者について、本当に査読の内容が低質であったかどうかは、論文本体がなければ判断しようがありません。ですが、著者は論文どころかアブストラクトすら公開していません。著者は、例えば『本論文は、そもそも普遍妥当的に「現実の人々がもつ性自認」を検討している、と一切主張していません』などと主張しますが、その真偽は不明です。現状、著者自身はそのつもりでも、原稿を読む限りそうとしか解釈しようがなかったという可能性も十分あり得ます。

 後者については、もはや著者による一方的な憶測の域を出ません。『本論文の中心主題である哲学的議論については一切触れられて』ないからと言って、専門分野が哲学ではないとか、ジェンダー論であるという証拠にはならないでしょう。もちろん、『哲学部分へのほんのちょっとしたコメントでさえ誤りだらけ』という評価についても、論文本体が明らかでない以上、鵜呑みにするわけにはいきません。

 なお、雑誌が紀要であるとはいえ、査読の体をとっている以上、その査読は匿名で行われていると考えてまず間違いないでしょう。つまり、著者は査読者の名前を知る由もありません。

 加えて、査読において、その論文の分野にかかわりがあるがピンポイントに専門分野ではない研究者が査読を担当することはよくあること、というかほぼ常にそうです。分野がニッチになればなるほどその傾向は強くなるでしょうし、大学紀要のように査読の任を負う人員に極めて限りがある場合はなおさらです。ですから、性自認に関する論文が、哲学ではないジェンダー論を専門とする査読者の手に渡ることは特に不自然ではない印象です。

 ですから、著者は『畑違いの「ジェンダー論」の専門家なんて、オマケで一人ぐらいなら許せもしますが、そこら辺の通行人に査読を依頼しているのと何ら変わりません。ふざけるな!』などと書いていますが、これはお門違いのいちゃもんにすぎないといえます。

SNSで叫んでも意味はない

 今回の行為の問題点は、こうした振る舞いが一般的な査読プロセスにおける異議申し立てから逸脱しており、かつさほど意味もなさないと思われる点にもあります。

 確かに査読者はピンキリであり、中には不当としか思われない内容の査読も存在します。ですが、そうした事態に備え、大抵の雑誌は編集者に異議申し立てができるようになっていますし、そうすることで査読をやり直してもらうこともできます。この辺はSNSですでに指摘されているので屋上屋ですが。

 加えて、今回のケースでは、そもそもSNSで公開することに意味があったのかも疑問です。今回の件は明らかに個別的な事例であり、社会全体にかかわることではないため、まずは雑誌の内部でやりあって解決すべきものでしょう。それがうまくいかなかった、あるいはうまくいきそうにない場合は手段の1つとしてあり得ますが、雑誌内部のプロセスが機能しているかも不明な状況でSNSにぶち上げても、ただ騒ぎになるだけでしょう。

 特に、この論文にかかわった査読者や編集者が、SNSにアカウントを持っているかも不明です。もし持っていないなら、一応バズったといえるツイートではありますが、肝心の当人がSNSでの騒ぎを一切知らずという滑稽な事態にもなり得ます。

 著者の研究者としてのイメージからすれば、紀要雑誌に論文がリジェクトされたことよりもむしろ、標準的な手続きを全うしたとは思われないかたちで本来公開されることが前提となっていない査読コメントを(しかも自分の原稿は秘しておくというアンフェアなかたちで)公開したり、査読者がジェンダー論研究者であるという真偽不明の情報を「犬笛」的に使うことでアンチフェミニズム的な側面からの用語を期待するような振る舞いをする方がよほど悪いでしょう。研究者コミュニティは間違いや失敗を許容するように動機づけられていますが、無神経さや粗雑さはそうではないからです。

査読者に正しく読まれないなら、だいたい著者の責任

 ここからは査読論文一般に関する持論で、かつ心理学に関するものですが、私は、論文が査読者に正しい真意で読まれないなら、それはおおむね著者側に問題があると考えています。

 大前提として、その論文を最も熱心に読むのは査読者です。残念ながら、大半の読者はほとんどの論文をあっさり読むのであって、一言一句正確に拾おうとはしません。そうするにはあまりにも論文が多いからです。

 もちろん、そのような読み方で誤読するなら、その責は読者にあるでしょう。しかしながら、「ここに書いてあるのに誤読しやがって」と文句を言うためには、少なくとも、最も熱心な読者である査読者が正しく読める程度には正確で分かりやすい記述を心がける必要があります。文章は基本的に、典型的な読者を想定して書かれるべきであり、その中で特に熱心な読者ですら著者の真意を読み違えるなら、より簡単にしか読まない読者には到底真意が伝わりません。そのような文章をよい論文とは言わないでしょう。

 確かに、査読の中には「ここに書いてあるじゃん!」というコメントがあります。というより、そういうコメントが大半かもしれません。ですが、書いてあるのに査読でコメントされるということは、既に書いているはずの内容が正しく伝わっていないという意味なのであり、そこが論文を改善する好機であるともいえるのです。

査読は敬意をもって

 もう1つ、一般的な原則として、査読はする側もされる側も敬意をもって行うべきであり、例えば一方的に非公開が前提であるコメントをSNS上に流布するとか、そのSNSで望む視点からの査読が行われなかっただけで『ふざけるな!』などと書くといった行為は避けるべきです。

 また、査読をされる側は、する側がボランティアでありなんら自身の業績にもならないところを時間を割いて査読していることも念頭に置かなければなりません。もちろん、査読コメントが詳しいほうがありがたいのですが、そうではなかったとしても、査読者を一方的に誹謗していい理由にはなりません。

 もちろん、査読者に敬意を払うべきというのは、査読者に服従すべきという意味ではありません。納得のいかないコメントがあれば、丁寧にその旨を記して反論することもできますし、まっとうな査読者なら反論したこと自体をあげつらったりはしません。『「~という理解が一般的だと考えられます」とか、無根拠な個人の感想』だと思うなら、一般的な理解ではないことを自ら示せばよいのだし、そうする必要があります。

 今回の騒動で懸念しているのは、すでに私に絡んできたアカウントもありましたが、著者が明らかに、「ジェンダー論的なポリコレによって学問的営みが抑圧されている」というアンチフェミニズム的妄想を煽るような振る舞いをしており(著者自身にそういう思想があるとまでは言わないでおきます)、それをSNS上で盛んに活動するミソジニストが利用するかたちで人文学や社会科学への攻撃を強めることです。著者は哲学界隈の現状を嘆くようなことを書いていますが、客観的にはむしろ、著者の振る舞いが、哲学分野にSNS上のアンチフェミニズムやミソジニーという外患を招き入れる機能を有してしまっています。
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 今回書評するのは、反レイシズムのために遺伝学者が執筆した1冊です。著者はイギリス人ですがインドにもルーツがあるようで、そうした背景から差別を経験したこともあり、そのことが本書を書く動機ともなっています。

人種とはそもそも何か

 本書は結構気合の入った書きぶりで、のほほんとしていると理解が難しいところもあります。私は生物学や遺伝学、地理の知識が欠けているのでなおさらでした。

 そんななかで本書の内容を理解し、そもそも人種とは何なのかを整理してみましょう。

 まず前提として、集団間の差異というのは確かに存在します。人種は社会的に作られたものであるという指摘も多いですが、だからといって集団間の差異が完全にフィクショナルなものであるわけではありません。

 生物学的な差異で言えば、その多くが局所的な適応を原因としています。日差しの強い地域に住む者は肌の色が濃く、日差しが弱い地域に住む者は薄くなるといったようなことです。もっとも、すべての差異が局所適応を原因としているわけではありません。

 人種という概念の問題は、その成立が歴史的な疑似科学に基づくことと、身体的特徴が人種を区別する決定的な手掛かりではないということです。例えば、「チェダーマン」という1万年前の人骨から得られた手掛かりから、彼は茶色から黒っぽい色の肌を持っていたと考えられています。

 ただし、彼が見つかったのはアフリカではありません。イングランドです。このことは、イギリスには昔から白人しかいなかったと考えている白人至上主義者にとっては殊更ショックだったようです。

 そもそも肌の色(に限らず人間の体の特徴)を決める遺伝子の仕組みはかなり複雑で、古代の人骨から特徴を再現することに否定的な学者もいます。

同一祖先ポイント

 レイシストは人種という概念を極めて強固なものだと考えている節があります。純粋な白人とか日本人とかがいて、そのような人は先祖を辿っても白人や日本人しかない、というイメージです。

 しかし実際には、我々の遺伝子というのはかなり交雑が進んでいるようです。昔の人々は様々な地域を行き来しながら交わり、これを繰り返して最終的にはいまの「人種」に分かれているようです。

 特に興味深い概念に「同一祖先ポイント」というものがあります。これは、ある地域に住む人々の祖先を辿っていくと、全員に共通する1人の祖先を通過するポイントです。

 直感的にわかりにくいのですが、何とか説明を試みましょう。我々は世代を1つ戻るごとに、祖先の数が倍になります。父母は2人、祖父母は4人、その上の世代は8人……というようにです。遺伝学では一般に30年程度を1世代と見なすので、例えば300年で我々の祖先の数は2の10乗、1024人になります。600年だと2の20乗で104万8576人です。

 こうして遡ると、自分の祖先である100万人余りが、他人の祖先である100万人余りと全く被っていない可能性は著しく低くなります。そして、ある時点で「長らくその土地に住んでいるなら、ほぼ絶対に共通の祖先をもつ時点」が現れます。これが同一祖先ポイントです。

 イギリスの場合、同一祖先ポイントは我々が思うよりはるかに最近で、600年前になります。つまり、たった600年遡れば、イギリス人全員の祖先である1人の人物が見つかるのです。

 著者は、人々が祖先に拘る例として、あるイギリス人俳優の祖先が14世紀の国王であると突き止めたテレビ番組を挙げています。しかし、同一祖先ポイントの考え方に基づけば、最近イギリスにやってきた移民でない限り、イギリス人のほぼ全員がその国王の子孫であると推測できるのです。祖先を云々することの無意味さがよくわかります。

 恐らく日本人の同一祖先ポイントも、イギリスと大差ないでしょう。仮に600年前がそのときだとすれば、室町幕府の三代将軍足利義満の時代には、我々全員の共通の先祖がいた可能性があるわけです(金閣寺の創建が1397年)。

 そして、当然ですが、全人類の同一祖先ポイントも存在します。推測によれば、それは紀元前14世紀ごろです。だいたいツタンカーメンの時代です。チェダーマンが1万年前の人類であることを考えると相当最近だと言えるでしょう。我々は実のところ、かなり近いところで血縁だったのです。

黒人は遺伝的に足が速いのか

 最後に本書が扱うのは、黒人が人種的に足が速いので陸上で活躍するのだといった、身体能力と人種を関連させる言説です。実のところ、この通俗的な言説にはいくつかの方法で反論することが可能です。

 まず、実は必ずしも黒人がスポーツのあらゆる分野で活躍しているわけではないことが指摘できます。仮に黒人という人種が宿命的に足が速いなら、なぜすべての競技で表彰台を独占しないのでしょうか。足の速さが重要なスポーツは無数にありますから、アメリカのサッカーチームが黒人だけになったり、メジャーリーガーが黒人ばかりになってもおかしくないはずです。

 次に、「足が速い」というのは一見単純ながら、実は複雑な要素で成り立っていることが指摘できます。足の速さに影響するのは足の筋肉だけではなく、乳酸を効率的に処理できるかどうか、心臓が大きく酸素を取り込みやすいか、体の動きをうまく調整できるかどうか、大舞台で臆することなくパフォーマンスを発揮できるかどうか……とにかく無数にあります。このすべてで黒人が遺伝的に優れていると考えるのは無理があり、また事実ではありません。足の速さに影響すると考えられる遺伝子の中には、黒人とそれ以外の人種であまり差がないものも相応にあります。

 通俗的な説明の中にも多くの欠陥があります。例えば、黒人の身体能力が高い理由を、奴隷制の歴史から説明するものがあります。奴隷となった黒人は身体が頑強なものが生き残りやすかった、そのため黒人は体が丈夫な者が残り遺伝的に適応したのだというものです。しかし、この説明は一口に奴隷と言っても様々な業種があったことを見落としています。奴隷の中には家事労働を任される者もあり、こうした者は殊更身体能力が高くある必要がありませんでした。

 これらの説明は全て、人種のおかれた歴史や走るという行為そのものの特徴をあまりにも単純化していると言えます。

 では実際にはどのような要因が考えられるでしょう。著者が指摘する大きな要因の1つは文化です。「陸上で活躍する黒人」の出身地域は実のところ結構局所的で、短距離走では西アフリカ、長距離走では東アフリカに集中しているのですが、これはそれぞれの地域で「その競技で活躍して一山あげよう」という機運が高いためではないかと考えられます。実際、エチオピアの人口2万にも満たない街には高度なトレーニングセンターがあり、世界中から有能なランナーを求めてスカウトが集まるまでになっているようです。地元の選手の活躍を見た子供たちは選手に憧れ、自分も活躍しようと練習に励むという循環が生まれます。

 もちろん、遺伝的要因や環境的要因は無関係ではありません。エチオピアの高地での生活やそれに適応した身体は陸上競技に有利となるでしょう。しかし、それだけが活躍の要因なら、同じ高地であるチベットからも優秀なランナーが生まれるはずですが、実際にはそうなっていません。それは、チベットには走る文化がないからです。

 そして、このことは知能の問題にも適用できます。ユダヤ人が賢いと言われるのは遺伝的な要因というより、勉学を重んじる文化があるためでしょう。これはフィクションですが、フェイ・ケラーマンの小説シリーズにはユダヤ人(にルーツがあることに気付いた)の刑事が登場し、ユダヤ教徒として勉学に励む姿が描かれています。

 本書の内容は少し骨太ながら、それゆえにレイシストのでまかせに負けない柱となってくれるでしょう。人種とはどのようにして生まれどのように使われているのかを念頭に置きながら、レイシズムの波に抗っていきたいものです。

 アダム・ラザフォード (2022). 遺伝学者、レイシストに反論する 差別と偏見を止めるために知っておきたい人種のこと フィルムアート社
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 今回は社会学に関する新書ですね。不倫について日本でここまで丁寧に調査した研究は少ないのではないでしょうか。

 なお、本筋からは外れますが、様々な調査方法について分かりやすく解説するパートがところどころ挟まれているのも好印象です。リスト実験は『陰謀論 民主主義を揺るがすメカニズム』でも出てきたのですが、そのときはあまりピンと来なかったので。

不倫大好き?

 本書では不倫について、誰がしているのか、どのくらいしているのか、性別ではどのような差があるのかなどを明らかにしています。ここでその結果を列挙するのは避けますが、面白い結果をいくつか挙げましょう。

 1つは、国際的に見た日本の反不倫規範についてです。これは不倫を間違っていると思うかどうかの尺度で、4点満点で点が高いほうが不倫を間違いだと思う方向です。2018年に行われた国際調査では、日本はこの点が3.2くらいであり、数字だけ見ると高いように感じます。しかし、この得点は国債平均よりも低く、日本の得点は参加国では下から数えた方が早い順位でした。

 芸能人の不倫が叩かれまくっているのを見ると意外な気もします。もっとも、点に差があるとはいえその差は小さく、どの国も反不倫規範は極めて高いという点には留意する必要がありますが。

 不倫の経験率については著者が調査していますが、男性では5割近く、女性では2割程度となっています。ここでの不倫の定義は「結婚後に配偶者以外とセックスすること」であり、このうち風俗店での行為を除いているので、調査対象だった既婚者の男性の経験率は相当高いといえましょう。

 ただし、不倫経験率は国際的に大差ない水準なようで、反不倫規範が低いから不倫率が高いとかではないようです。ともあれ、既婚者の男性が広末涼子を叩いているとき、その半数は自分も不倫をしているかもしれないわけでなんとも言えない気分になります。

誰が、誰としている?

 不倫に関係する変数を検討していくと、結構がっつりジェンダーステレオタイプに沿った結果が出来るのも興味深いところです。

 本書の調査では、男性において不倫は職場の女性が多いときに経験しやすいことが指摘されています。これは男性が職場の女性と不倫関係になりやすいためでしょう。男性にとって配偶者の目がなく人間関係を築ける数少ない環境が職場なのかもしれません。

 また、男性は配偶者(つまり女性)の方が収入が高いときにも不倫しやすいことが分かっています。アイデンティティからは、男性が女性を養うというモデルが崩れるときに男らしさを挽回するために不倫に走るのだと説明されているようで、だとすれば「ザ・有害な男らしさ」とでも言うべきでしょうか。

 ちなみに、収入といえばお金持ちの方が不倫するイメージがありますが、これは職業威信度、つまり職業の貴賤のようなものが高い場合にはこの限りではないことが分かっています。身もふたもないことを言えば、金持ちで下賤な職業の人が不倫しやすいということです。やくざとか迷惑系YouTuberとか維新の議員とかですかね。イシンだけに。上等な職業の人は不倫すると評判が下がることの天秤で打ち消されるようです。

 一方、女性では協調性が高い人が不倫しやすいこともわかっています。これは不倫を誘われたものの断り切れなかった人が一定数いるためだろうと思われ、こんなところにもジェンダーバイアス的なものが見られます。言い換えれば、不倫しているからといって必ずしも望んだ関係とも限らないわけですね。

 本書は単に調査をしているだけのように見えますが、不倫という答えにくいものを扱うために様々な努力を行っており、それがよく見える内容となっています。不倫研究としてだけではなく、質の高い調査研究としてみるべきところは多いでしょう。特に昨今、ネットで適当にアンケートを取って「エビデンス」といい出す輩も後を絶ちませんが、調査ごっこと本物の調査の間には埋められない差があることを本書で感じ取ってもらえればとも思います。

 五十嵐彰・追田さやか (2023). 不倫―実証分析が示す全貌 中央公論新社
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 今回はアメリカにおける反マスクや反ワクチン、果てはQアノンまでをも内包する「非科学主義信仰」について論じた一冊です。かなり時節柄にあった書籍と言えるでしょう。

閉じたコミュニティ

 本書において「非科学主義信仰」はおおむね、科学に(極端に)反する主義主張を訴え、信じ込むことを指しています。その言動は、例えば「原発の再稼働は是が非か」という、何を優先するかの主義主張のレベルを超えており、「信仰」という表現は一見強く聞こえるものの妥当であると言わざるを得ません。

 「非科学主義信仰」の最たる例は、コロナ禍にも猛威を振るった反ワクチン運動です。彼らはワクチンの広まりを何らかの陰謀論的集団、例えばディープステートによる策略だと信じ込んでおり、この点が特に単なる主義主張とは異なる要素です。原発問題であれば論敵は原発推進派の政府や行政だったり、逆に反原発の市民団体や運動家だったりするわけですが、これらは実態が伴っている集団です。しかし、ディープステートにはそのような実態がありません。(正確に言えば、バイデンやビル・ゲイツなど具体名は指し示されるのですが、そこに張り付くラベルが極めて不確かなものになっています)

 こうした非合理的な陰謀論の広まりとして、近年ではSNSの発展が原因とされますが、本書が特徴的なのは、アメリカ特有で伝統的な歴史的背景として、ホーム・スクーリングとトークラジオが挙げられている点です。

 ホーム・スクーリングは、学校教育を家で行うことが出来るアメリカの制度です。日本のように保護者には学校に通わせる義務があるわけではなく、家で保護者が自由に教育を行うことが出来るようになっています。元々は広いアメリカにおいて遠方の学校に通ったり、移住の繰り返しで1か所の学校に通うことが困難な子供を想定した制度ですが、これが陰謀論の強化再生産の場となってしまっています。そりゃ、親が陰謀論者ならそうなるでしょう。

 もう1つのトークラジオは、ラジオ文化が盛んなアメリカにおける小さな放送局による番組です。イメージとしては、現在のYouTubeライブやポッドキャストの元ネタというか、あれをもう少しかっちりさせたものでしょうか。特に長距離移動の多いドライバーなどに聞かれていることが多いようですが、放送内容がかなり自由であるようで、陰謀論もデマもジャンジャン流れるという有様です。

 この2つの要素に共通するのは、広い国土における閉じたコミュニティを形作るものであるという点だと思います。ホーム・スクーリングは家庭で、トークラジオは運転席で閉じた社会を形成してしまい、その内容を外部と比較する機会が少なくなってしまいます。そこにSNSが加われば、歪んだ比較によって陰謀論がさらに強化されることは間違いなく、現在のアメリカの困難は科学的事実よりも自由を優先したためになるべくしてなったのではないかと思わずにもいられません。

幽霊銃

 「非科学主義信仰」とは少し違う文脈で印象的だったのは、幽霊銃と呼ばれる武器の存在でした。一般的に、アメリカでは合法的な銃はシリアルナンバーによって管理されていますが、この管理から外れる、シリアルナンバーを持たない銃のことを幽霊銃と呼びます。

 幽霊銃が蔓延する原因の1つは、パーツ単位での銃器の販売です。シリアルナンバーはあくまで完成品の銃に付与されるものなので、完成していないパーツにはつける必要がありません。このため、未完成の銃を買って客が完成させるというかたちで、シリアルナンバーのない銃が蔓延してしまうのです。

 著者はこのような幽霊銃を販売するショップにも取材を試みていますが、その際の店主の受け答えが極めて示唆的です。店主は著者に幽霊銃の問題を聞かれると、店主は銃が事件に使われることは肯定せず、そのような事態を防ぐため対面で販売し、自分が危険だと思った人間には売っていないと答えています。

 お前の感想だろとしか言えないのですが。

 なお、著者のこの取材の後、小学校での銃乱射事件が起きます。当然、銃規制への声が高まるのですが、テキサス州のアボット知事はこの問題を銃規制ではなく加害者のメンタルヘルスの問題に矮小化しました。対面すれば加害者を見抜けるという傲慢さと、社会構造の問題を個人の問題に押し込めてしまう態度には通底するものもあるでしょう。

 なお、幽霊銃のショップは店先にトランプ支持、不正選挙陰謀論支持のグッツを並べたり、聖書を学ぶ会合を開いたりということもしているようです。こうしたショップもまた、閉じたコミュニティの中心となっている側面がありそうです。

教育で解決できるか

 先ほど、ホーム・スクーリングのネガティブな面を挙げましたが、ポジティブな側面もあります。保守的な州では黒人などのマイノリティが、子供を学校に通わせるのではなくホーム・スクーリングさせる例が広まっているようです。

 これは、保守的な州が学校で人種差別を教えることを禁止する法律を、近年相次いで制定していることと関係しています。保守派は学校が人種差別を教えることで、白人の子供が加害者であると追い詰めているといちゃもんをつけており、これを防ぐためにそのような教育を止めさせるべきだと主張しています。

 この構造は、マジョリティに配慮せよと条文に書き込まれた日本のLGBT理解増進法と共通するものでしょう。

 このような教育現場の現状から、黒人は自らの民族の歴史が学校で扱われなくなることを危惧し、それなら自分で教えようという方針が広がっているようです。おりしもコロナ禍でホーム・スクーリングを強いられた時期があり、それがかえって保護者達に自分で勉強を教えられるという自身をつけたようです。

 著者はこうした教育の実情を概観し、メディア・リテラシー教育が問題改善の鍵になることを期待しています。しかし、私はこの点に関しては悲観的です。というのも、差別やデマというのは人間の古くからの思考形態にフィットするものであり、またそうであるがゆえに広まったものであるため、教育を受けてもなお信じ込むときは信じ込んでしまうものだからです。

 むしろ、ホーム・スクーリングのような閉じたコミュニティは、自身と異なる集団との接触機会を減らし、他の集団を観察し交流するという集団間のステレオタイプを打破する重要なチャンスを失わせる恐れもあります。

 ではどうすればいいのかと言われれば答えは見つかりませんが、時にはアメリカのような自由至上主義的な発想を少し緩め、科学を優先する社会的・政治的方針を広める必要もあるのかもしれません。

 及川順 (2022). 非科学主義信仰 揺れるアメリカ社会の現場から 集英社
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 今回は話題の1冊。ちゃんと買いました。ネットで断片的に語られがちだったあれこれが1冊にまとまって整理されているだけでも様々な論点が浮き彫りになっていいですね。

パブコメの怪

 香川県のゲーム規制条例でやはり注目すべきは、パブリックコメントの不可解な点です。これは賛成と称するパブコメの中にほとんどコピペ状態のものが大量にあり、かつ多数決のように扱う性質ではないはずものが賛否の件数でまとめられていたというものでした。

 結局、この不可解な点について、当時議長だった大山一郎議員は沈黙を守ったまま、まともに回答していません。本書の出版時になおそうだったのですから、今後説明責任を果たすことはないと考えていいでしょう。非常に無責任な、ある意味では実に自民党らしい振る舞いであると言えます。

 そんな中でも、本書はパブコメに知人から頼まれて賛成のコメントを送信した人物に取材をしています。本書では誰に頼まれたのか、どの議員が関与していたのかまでは明かされませんでしたが、頼まれたからには反対はできないと思って送信したそうです。

 議員がパブコメの送信を周知して依頼することは問題ではありませんし、その際に賛否の態度の一方に偏ることもあるでしょう。問題は、そうした依頼に対し「頼まれたから」となし崩し的に自らの本心をあまり顧みずコメントを送ってしまう有権者の脆弱性と、パブコメを件数でしか見ようとしなかった条例推進者にあります。そもそも、パブリックコメントは民主主義を広く機能させるために、様々な立場の人から意見を募るものであり、件数の多寡を競うようなものではありません。

 これでは、パブコメを条例成立に利用した側は、自分の都合のいいようにコメントの数さえそろっていればよく、人の話を聞く気など最初からなかったと思われても仕方ありません。

当事者の視点

 本書が優れているのは、香川県で実際に暮らしたり治療を行う、あるいは受けている当事者たちについても十分に取材をしている点です。例えば本書では、ゲームやネットを断ってキャンプに参加するイベントについて取材がされていますが、そこには当事者たちの切実な声が現れています。

 特に印象的なのは、ゲーム以外の時間の潰し方や楽しみ方が分からなかったという声でしょう。最近ではコロナの影響もあり、外に出て遊ぶことが困難です。子供は習い事などで忙しく、公共の遊び場は減り、夏は暑く冬は寒いという有様ですから、家で細かい時間でも手軽にできるゲームやネットサーフィンに熱中してしまうのもよくわかります。

 また、親の立場として、条例で時間が決まっていると楽だという意見が散見されるのも興味深い結果です。確かに、指導する側としてはルールだからで押し通せれば楽でしょう。しかし、自由に生活する権利を持つはずの市民として、本当にそれでいいのかという視点が欠けているのではないかという気もします。権利の擁護というのは時に面倒な作業を伴いますが、それを避け続ければゲーム規制条例のように不可解なプロセスのまま規制が進んでしまうのも事実です。

 一方で、条例が親に努力義務を課すような内容であったため、そのことが負担に感じるという声も見られました。これは条例の本質を考えるうえで重要です。私がみるに、条例の本質は実のところ、ゲームの規制ではなく家庭への介入です。自分の考える不道徳を否定するためなら家庭へ介入しても構わないという傲慢さこそ自民党的家父長制の本質であり、同性婚や選択的夫婦別姓、その他さまざまなマイノリティの権利を擁護する政策への否定を導いている思想の根幹であると言えます。

 そう考えると、ルポという形態上やむを得ない側面はありますが、条例の背景にあるものにたいする考察が本書には不足しており、精々「ゲームを悪者にしている」程度にとどまっているのが残念なところではあります。

山田太郎はいただけない

 本書でもう1つ重大な問題点を挙げるとすれば、山田太郎をゲーム規制条例の反対者として無批判に描き出している点です。

 このブログでも散々指摘してきましたが、山田太郎は実のところ、ゲーム規制条例にはまともに反対できておらず、文科省と久里浜医療センターを些末な揚げ足取りで攻撃するばかりです。どころか、参院選時にはゲーム規制を推進してきた四国新聞のオーナー一族の出身である平井卓也に応援メッセージを寄せるような有様です。まぁ、ゲーム規制条例が自民党の議長に主導されたことを考えれば、これに表立って反対はできないのも無理からぬことですが、そんな山田太郎をあたかもゲーム規制条例に反対しているかのように記述するのは、彼の小手先の誤魔化しに加担するようなものです。

 さらに問題なのは、山田太郎が久里浜医療センターとその院長である樋口進に対し、陰謀論めいた攻撃を繰り返し行っている点です。山田太郎はその著書『「表現の自由」の闘い方』において、あたかも久里浜医療センターが自身の利益のためにゲーム依存症の治療を推し進め、規制を推進しているかのように書いてすらいます。もちろん根拠はありません。

 このような陰謀論的な人物を、全く無批判に取り上げることは報道のありかたとして適切だとは到底思えません。仮に、樋口氏の立場に異を唱えるとしてもです。

 本書が懸念するように、ゲーム規制条例は全国に飛び火する恐れがあります。しかし、山田太郎のように、規制の本質から目を逸らし、小手先の言い訳を繰り返していてはこの戦いには勝てないでしょう。山田太郎のような立場は、パブコメの本質を捻じ曲げ自身に都合のいいように使った大山一郎議員のような立場と大差ないのですから。

 山下洋平 (2023). ルポ ゲーム規制条例 なぜゲームが狙われるのか 河出書房新社
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 今回は前々から気になっていた中公新書の1冊です。人がなぜ陰謀論を信じるのかについて研究を続けている政治学者の著者による新書ですが、わりあい研究手法についても踏み込んで書かれており、卒業研究のテーマを探している大学生にもうってつけの1冊かもしれません。(ただ、新書向けに研究手法を説明しようとしてかえってわかりにくくなっている気もしないではない)

測定の難しさ

 本書を一読してまず思ったのは、陰謀論を信じているかを測定することの困難さです。本書では様々な手法で陰謀論への信念を測定していますが、いずれも苦労があったことが窺える内容です。

 例えば、もっともベーシックな手法として、具体的な陰謀論を挙げ、それを信じているか直に聞いてしまうものがあります。「異星人からの接触の証拠は、一般人には伏せられている」などという陰謀論について、「そう思う」とか「あまりそう思わない」といった選択肢を選ばせるということです。

 ただ、この聞き方には色々な問題もあります。この世のあらゆる陰謀論について尋ねることはできないのでどこかで恣意的に項目を決めなければいけないとか、測定した時期によって回答結果が大きく変わりそうだというのもありますが、特に大きな問題だと思われるのが、項目の中に「それもしかしたら陰謀論じゃなくて事実では?」と思えるものも含まれていることです。

 特に象徴的なのは「多くの重要な情報は、私利私欲のために市民から慎重に隠蔽されている」という項目です。恐らく項目としては、政府のような権力者が情報を握りつぶしているというような陰謀論を想定しているのでしょうが、解釈によっては、例えばモリカケ問題における公文書の破棄だとか、直近であればマイナンバーカードの問題を知っていて今日まで明らかにしなかったという問題もこの項目が言うところの「隠蔽」に該当し得ます。

 この辺は、項目のうち「多く」とか「私利私欲のため」とか「慎重に」と言った言葉の解釈にもよるところでしょうが、陰謀論を測る尺度の中に事実を認識していても「そう思う」と回答できる項目があるのはいただけない気がします。

 また、流石に日本では陰謀論でしょうが、「政府は、罪もない市民やよく知られた有名人の殺害に関与し、そのことを秘密にしている」も、著名なジャーナリストを殺害した国もあるわけですから、国によっては陰謀論ではなく事実だと解釈される可能性があります。面白く難しいところでしょう。

 ちなみに、先ほどの異星人云々の陰謀論を信じている人は25%ほどいるようです。どの陰謀論もおおむね20%くらい信じられていることが多く、この結果だけを見ると人類の知性に絶望したくなる気持ちもわいてきますが、それも早計でしょう。この中にはトランプ支持のデモ行進をしちゃうような人と「宇宙人とかいるんじゃない?知らんけど」レベルの人が混在していると考えられ、後者を陰謀論者と呼んでいいかは疑問が残ります。こういう問題も難しいところです。

 なお、先ほどの隠蔽に関する陰謀論を信じている人は40%を超えており、やはり単なる事実として理解されているのではという気がします。

Twitterと陰謀論、意外な結果

 本書ではSNS利用と陰謀論の関係も検討されています。特にTwitterと言えば、暇アノンの大暴れもあって陰謀論の元凶であるかのような気もしてきます。ですが、本書の研究では、Twitterの利用と陰謀論には関係がなく、それどころかTwitter利用は陰謀論を信じる可能性を減らすかもしれないようです。

 どうしてそのような結果になるのか、著者は更なる研究を進め、Twitter利用が「他人は陰謀論を信じやすい」という信念、いわば第三者効果を強くすることを示しています。つまり、Twitter利用は陰謀論を信じやすくしないが、他人が陰謀論を信じるものだという信念は強くするという関係にあるようです。まぁ、暇空のような極端にバカみたいな陰謀論者のアカウントが、イーロン・マスクの改悪によって四六時中TLに出現するようになれば、そういう信念を抱くようになるもの当然だとは思います。実際、目の前に陰謀論者がいるわけですから。

 また、個人的には、一口にSNS利用と言ってもその形態に多様性があることも要因である気がします。確かに、暇アノンや一時のQアノン、反ワクチン、レイシストのように陰謀論を内輪で強化し続ける不健全な利用もありますが、実際には多くのアカウントが「ノンポリ」な利用法、しかも個人的な知り合いをフォローしあうFacebookの延長のような使い方をしているのではないかと思います。そう考えると、我々が抱くSNS利用のイメージと実際との間に乖離が生じていても不思議ではありません。

世界の解釈としての陰謀論

 本書の知見としてもう一つ興味深いのは、人々の興味関心のうち、政治的な関心は陰謀論の受容に結びついてしまう一方、日常への関心はその逆であるということです。これは恐らく、陰謀論が世界の様々な物事を解釈する機能を有することと関係するのでしょう。

 実際、陰謀論というのはたいていの場合、大仰です。ナニカグループが暗躍しているという陰謀論はありますが、自分の周囲で誰それが悪さをしているんだというようなスケールのものは、あったとしても陰謀論とは呼ばれないでしょう。

 関連して、特に左派では、選挙での敗北を解釈するために不正選挙の陰謀論が信じられがちであることも指摘されています。日本では左派が弱いためこの陰謀論はおおむね左派で信じられているものですが、アメリカではトランプが敗れた際に同様の陰謀論があったことは未だに印象的です。

 裏を返せば、日常を過ごすだけであれば人は陰謀論を必要としないのでしょう。コロナ禍はそうした日常が否応なく「世界的」「政治的」な潮流に巻き込まれる事態であり、そのことが人々を陰謀論への惹きつけてしまったのかもしれません。

 秦正樹 (2022). 陰謀論 民主主義を揺るがすメカニズム 中央公論新社

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 今回はブログらしく雑多な事柄から思いついたことを書いてみようかと。ここ数日、「妙な数字の使われ方」と表現するほかないツイートをいくつか目にしました。

 最初はこれです。何がおかしいのかは後述するとして、この程度の出鱈目はTwitterの平常運転というべきでしょう。

 その次はこれです。これは私に絡んできた暇アノン兼蝶ネクタイのいちゃもんを打ち返しているなかで出てきたものですが、注目すべきは彼がリンクしているnoteに登場する『フォロワー数と被り数の乖離』というなんだかよくわからない数字でしょう。

 noteの記述が粗雑なので判然としないところもありますが、これは彼がフォローしている人間と私をフォローしている人間に被りがないことを示しており、それがどうも彼にとっては問題らしいのです。こちらからすれば、そんな数字は彼のフォローの匙加減以上のものではないのでどうでもいいのですが、重要なのは彼自身がこれを大切で何かを証明する数字だと考えていることでしょう。

 こうしたやり取りを経て、彼らのこのような態度を「数字版カーゴカルト」と表現するのが分かりやすく妥当なのではないかというアイデアが生まれたのでメモしておこうと思いました。

カーゴカルトとは?

 カーゴカルトというのは、世の中にある非合理的な思考形態の1つです。宗教の形態をとっているためにカルトと呼ばれますが、統一教会などの破壊的カルトとは少々様相を異にします。

 カーゴカルトは主にメラネシアなどでみられる現象で、神や先祖が飛行機に積み荷を載せて自分たちのもとへやってくることを信じる信仰です。早い話が、墜落した飛行機や漂着物から得られる利益を、飛行機を知らない人々が自分なりに理屈をつけて考えた結果生じた発想ということでしょう。

 統計を弄ぶ人々の振る舞いがカーゴカルトに似ていると思えたのは、「理屈を知らないところから自分なりに考えて」の部分よりも、むしろ「なんだかよくわからないすごいものが自分に利益をもたらす」という発想の部分からです。

 カーゴカルトは、飛行機などという自分の世界からは理解できない何者かが、自分たちに利益をもたらしてくれることを信じています。そのために、滑走路らしきものや貯蔵庫の建設といった、見よう見まねで文明の模倣を行います。

 数字版カーゴカルトの振る舞いも同様に考えることができます。彼らは統計の読み方を知らず、数字の扱い方を知りません。そのため、それらを知っている人々の行為を見よう見まねで模倣し、結果として的外れなことをしているのです。

 そうした見よう見まねは、飛行機や数字が自分に都合のいいものをもたらすことを信じてのことです。カーゴカルトの信奉者が、西洋人の真似をして利益を得ようとするように、数字版カーゴカルトの信奉者もまた、いわゆる専門家が自分の知らない手法でもって数字から利益を得ていると確信し、そのまねをすることで専門家と同様の利益を得ようと試みるのです。

 もっとも、本当のカーゴカルトと数字版カーゴカルトには大きな違いもあります。それは、前者は限られた情報から彼らなりに最大限合理性を働かせた結果生じるものである一方、後者は自分たちで得られる情報を放棄したただの見よう見まねにすぎないという点です。

 本物のカーゴカルトは、植民地住民の非合理性を強調することで植民地支配の正当化を試みることにも使われたようです。ですから、カーゴカルトの思想をそのまま非合理性の発露とみることは慎重であるべきでしょう。むしろ、限られた情報からでもできる範囲で合理的な推論が行われる証拠でもあります。

 反面、数字版カーゴカルトはそうではありません。メラネシアの人々は飛行機が何たるかを知るすべはなかったのですが、現代の日本に住む人々はそうではありません。単なる知的怠惰と象徴として理解するほかない現象です。

数字版カーゴカルトの手法


 では、ここからは実際に数字版カーゴカルトの手法を見てみましょう。先に挙げたツイートでは、彼は「男女の賃金格差は労働時間の差によって生じる」と主張しており、後続の主張とあわせて「賃金格差は女性側の態度の問題」≒「賃金格差に性差別は関係ない」と主張していることは自明でしょう。

 しかしながら、彼の示している統計だけではそのことは主張できません。なぜなら、女性が長時間労働をできない原因にこそ性差別が関連している可能性を見落としているからです。

 男女の家事負担のデータを探せば自明ですが、女性の方が家事を負担する割合が大きくなりがちです。これは「家事は女の仕事」「育児は女の仕事」というステレオタイプによるところが大きいと考えられます。家事負担が大きければ、仕事に割けるリソースが減少するのは自明です。

 また、2つ目のツイートで、女性が自宅からの近さや安全性を重視していることに触れていますが、これらの要素を重視せざるを得ない社会的背景も無視されています。Twitterでの性犯罪被害者への振る舞い、特に最近のColabo攻撃への態度からも明らかなように、女性の犯罪被害者とりわけ性犯罪被害者は苛烈な攻撃にさらされます。時には犯罪を取り締まるべき警察からも心無いことを言われる場合もあり、ひとたび犯罪被害者になるとまともな救済を期待できないのが現状です。こうした社会において、女性が身の安全を重視するのは当然ですが、このようなコストは性差別がなければ必要ないか、少なくともより軽い負担となったはずのものです。

 女性が長時間労働を望まないとして、その理由は様々であり、一因として上に挙げた社会のステレオタイプや性差別が存在しています。統計によって自説を根拠づける際には、こうした無数の可能性のうち、少なくとも代表的なものくらいは否定しておかなければなりません。

 こうした作法は専門教育を受けた者であれば自明ですが、そうでない人にとってはややこしく困難に写るかもしれません。と書こうとしましたが、冷静に考えればこの程度の思考は素人でもできてしかるべきでしょう。やはり知的怠惰のなせる業としか言いようがありません。

自分で数字を生み出してしまう

 数字版カーゴカルトが極まると、ついに自分で謎の数字を生み出してしまいます。自分で生み出した数字に価値があるかのように振る舞う様には滑稽味もありますが、同時にカルト的な薄気味悪さがあるのも事実です。

 先に例に挙げたツイートをもう一度引用しました。ここでリンクされているnote記事では、筆者のフォローしているアカウントが私のアカウントをどのくらいフォローしているかの「被り」が取り上げられており、それが少ないことが問題であるかのように論じられています。

 ここまで極端だと流石に馬鹿馬鹿しくなりますが、この議論には立証されていない無数の前提が自明視されているという問題があります。ぱっと思いつくだけでも、この議論では「筆者のフォローが過不足なく行われており」「フォロワーが少ないことが問題である」が前提となっていますが、もちろんそれが正しいことは示されていません。彼のフォローが妥当な程度に幅広いかどうかなどそもそも証明のしようがありませんし、フォロワー数が少ないことを問題視するに至っては意味不明です。世界がTwitterだけでできている人の発想としか。

 もっと言えば、この被り数とやらは、筆者が私のフォロワーをフォローしたりフォロー解除したりするだけで簡単に変化する程度の数字でしかありません。増やすも減らすも自由自在な数字に何の意味があるのでしょうか。

 しかし不気味なのが、彼がなぜか、私がこの月1000円もするカスみたいな記事を購入して論じることも自明視していることです。

 この自信を説明しようとすると、やはり数字版カーゴカルトにたどり着かざるを得ません。カーゴカルトが飛行機を神聖視するように、彼らは数字を神聖視しているので、カーゴカルトが藁で作った飛行機を崇めるように、自分たちも自分で作った数字を崇めてしまうのでしょう。

 このような数字への信仰は彼に始まったことではありません。同じnoteではフェミニストのアカウントの「共感指数」的なものを勝手に計算してはしゃいでいるアカウントもありました。いわゆる専門家が、(少なくとも彼らにとっては)難解な計算の末に算出した数字を用いるのを見て、そうすれば自分も自説を補強できると考えたのでしょう。

 そこまでは、ある意味健全な推論です。問題は、妥当な論理的推論と客観視の能力を欠くというところでしょうか。このために、彼らは自分で計算した意味不明な数字と、重宝されている統計指標の区別がつかなくなっているのです。

 いうまでもないことですが、数字がありがたがられるのはその数字が問題なく現実の一側面を反映していると信頼されているからです。新聞の世論調査が世間に受け入れられているのは、数字を出すうえで、ある程度のバイアスなどは避けがたくとも、少なくとも妙なごまかしや意味不明な質問方法をしていないと信頼されているからにほかなりません。

 そこが分からない限り、彼らは永遠にカーゴカルトから抜け出すことはできないでしょう。

論文版もあるぞ

 ところで、このブログを頻繁に読んでいただいている方にはよくわかることだと思いますが、このカーゴカルトには論文版もあります。論文を引用するが実際にはアブストラクトすら読んでいない人々のことです。

 この引用元もそんなカルティストの1人です。あれ、こいつ数字版カーゴカルトでも見たな。まぁ同じカーゴカルトだしね。こうした振る舞いは、論文がその中身にかかわらず論文という形式だけで、何か自分に都合のいい結論をもたらしてくれると信じ込んでいるために起こります。実際はそんな都合のいい論文なんてありません。あったら俺も論文書くのに苦労しねぇ。

 このブログではたびたび、「ゲームに悪影響はなかったんや!」という自由戦士の願いを破壊すべく論文の解説を行っています。彼らの振る舞いもまた、論文版カーゴカルトの一種と考えられるかもしれません。
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 こういうツイートがありまして(削除されちゃったけど)、調べたら図書館にあったので借りてきました。最初見たときの私の期待は低かったのですが、実際に読んでみると、この手の本の中でもかなり丁寧かつ慎重に書かれた書籍であるという評価に変わりました。 

「刷り込み」の正体

 削除されてしまったツイートの要旨は、男性は青年期に「刷り込み」が行われ、いわゆる「フェチ」のようなものが決まる、故に表現規制には意味がないというものでした。そもそも主張の前段と後段が全く繋がらない主張であり、仮に刷り込み云々が事実だったとしても、であればむしろ規制を行い青年期の男性に妙な性暴力表現が行き渡らないようにすべきであるという結論になるものでしょう。

 しかし、本書を読むと、そもそも当該ツイートを行った人の読解が怪しいことが分かりました。

 というのも、著者はこの「刷り込み」を、男がなぜ女性の体の特定の部位に注目してしまうのか、という疑問を解く手がかりとして提示しているからです。ここに1つ目の誤読があります。当該ツイートは性暴力表現、例えば痴漢ものとかレイプ表現のように、実行されれ他者の権利を侵害するだろう行為を想定していました。しかし、ここで想定されているのは体の部位であり、それをどう扱うかではありません。

 そして、もう1つの誤読は、著者はあくまで仮説レベルの説明として刷り込みを持ち出しているに過ぎないという点です。これを、あたかも明確な研究で確かめられたかのように述べるのは誤りです。

 著者は刷り込みを説明する際に、鳥のような動物でみられる刷り込みを例に出します。こうした動物は母親を一目見て反応しますが、誤って刷り込みを行ってしまい、母親ではないものを母親と勘違いすることがあるのは有名な話です。どうして誤るかというと、元々雛が持っている「母親とはこういうもの」というイメージはぼんやりとしたものであり、それに合致すれば実際には違うものを母親だと理解してしまうのです。

 このような曖昧なシグナルは、自然では有用です。一口に母親と言ってもその外観にはばらつきがあり、大きい鳥や小さい鳥、ケガをしていて外観が異なる鳥も多いでしょう。明確すぎる母親像は、そうした特徴を持つ真の母親を認識するのを妨げる可能性があります。イメージが抽象的であれば、大体当てはまるだけで母親を認識できます。

 こうした刷り込みには臨界期があり、男性が性的なシグナルに刷り込みを行われるのは青年期ではないか、というのが著者の考えです。これらは多くの研究から推測される仮説として一定の説得力を持つのは事実です。しかし、確かめられたわけではありません。というか、確かめようはないでしょう。

社会的影響は無視できない

 私が本書を比較的高く評価した理由の1つは、著者が社会的影響を無視していないことが文章から伝わったためでした。この手の話題の本を書く著者は、自身の研究分野が重大であることをアピールしたいがために、あるいは自身の知性が世間一般より優れていることを誇示するために、社会的影響を無視したり、あたかも存在しないかのように書きがちです。少なくとも、著者はそこまで短絡的ではなかったようです。

 人間の行動や選好に生物学的要因がかかわっていることは疑いようもありません。しかし、それは社会的影響が存在しないことを意味していません。

 例えば、先ほど例に挙げた刷り込みでは、女性の体のパーツ、例えば胸だとか尻だとかに注目することが刷り込まれるとされていますが、「どんな胸」や「どんな尻」に注目するかは文化的影響があることが示唆されています。つまり、大きな胸を好むか小さな胸を好むかは文化によって変わるかもしれないが、胸を好むこと自体は共通するというわけです。これは性淘汰の面からも合理的に見えますし、文化的なばらつきをうまく説明する仮説でもあるでしょう。

男はなぜNTRで抜くのか

 ところで、本書の内容で私が特に印象的だったのは、NTRに関する部分です。いや、NTRという言葉は登場しませんが、妻や恋人がほかの男と性行為をするのを見て興奮するのはアメリカ人も同じようです。

 著者の考えでは、これは「ライバルとなる男」が性的なシグナルとなって興奮を導くためではないか、とのことです。理屈は単純で、ほかの男がいるとパートナーを取られるかもしれないので、自分も頑張るというだけです。それ自体は合理的な反応でしょう。

 面白いのは、本来合理的なはずの反応が、帰属を誤ってただの興奮材料にしかなっていないところです。パートナーにさらなる精子を提供するために興奮しているはずが、肝心の男が自慰行為に走っているわけですから。人間は身体的反応を正しく帰属できない生き物ですが、ここでも同じことをやっているわけですね。

 ちなみに、こういうツイートもありましたが、


 これは、女性の性的なシグナルが男性の体のパーツの他、社会性にも存在するためです。女性にとって、男性は長期にわたって支援を受けるリソースです。その男性が信用できるかどうかは重要ですが、過去に女性と付き合ったことがあるというのは、少なくとも1度は女性に選ばれる程度には信用できることの証左ですから。

 余談ですが、女性は男性の地位や社会性に惹かれる(特に年長の金持ち)という説を聞くたびに、私は年老いた男のしみったれた希望を感じずにはいられませんでした。そうした俗説を唱える人間はたいてい年長の金持ちなので、彼らの願望ががっつり影響しているだろうなと思うわけです。本書は従来通りの地位や社会性の影響に触れつつ、しっかり男性の身体的特徴が女性を惹きつけることも触れているので、その辺もフェアな本じゃないかと思います。

 オギ・オーガス他 (2012). 性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか 阪急コミュニケーションズ
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 今回はゲーム依存やネット依存に関する書籍です。
 オタクの間ではすっかり存在しないことになりつつあるゲーム依存症ですが、もちろんそんなわけはありません。実際にはそれで苦しんでいる子供もいれば、そういった子供に対応する実務家もいます。

 本書はそうした実務家の観点から、まだまだ発展途上の分野において、どのように対応するのが妥当なのか、現時点での分かりやすい指針を示してくれるものです。

実は知らないICT

 本書は一貫して、まず大人がネットやゲームに関して知るべきだという態度をとっています。そのため、ゲームの種類やSNSの仕組みなど、いわゆる「オタク」からすれば今更なところから丁寧に解説を始めています。

 とはいえ、このような問題はとうの「オタク」にとっても、決して対岸の火事ではありません。例えばSNSをとっても、Twitter以外のSNSに明るくないオタクは決して珍しくないでしょう。TikTokやインスタグラムに触れたこともないオタクは大勢いるでしょうが、昨今の若者が主に使うSNSはむしろこちらだったりします。

 また、ゲームそのものを知っていても、子供が子供同士の関係性においてゲームをどのように用いているか、そもそも子供がゲームとどのように付き合っているかわかっていない大人は大勢います。直に会ってモンハンをやっていたような我々の時代とは違い、いまは子供でもオンラインでパーティを組む時代です。そのとき、どのようなことが問題になるかを適切に把握するのは重要なことです。

 大人の子供のゲームに対する立ち位置は根本から異なります。全くゲームを知らない人が勉強する必要があることはもちろんのこと、知っていると思っている人間も、安易に知っていると決めこまず、虚心坦懐に学ぶ必要があるでしょう。

「依存症」の現在地

 本書では、DSM-5およびICD-11におけるゲーム依存症の扱いも解説しています。もちろん、こうした診断基準はまだまだ研究段階のものであり、今後更新される可能性は大いにあります。そもそも、研究者の中には、病として扱うことの悪影響を懸念し、ゲーム依存症を病気として扱うことに慎重な立場もあります。

 とはいえ、私の考えでは、少なくとも日本の現状を踏まえれば、ゲーム依存症を依存症として扱うことを恐れるべきではないでしょう。

 ゲーム依存症を依存症として扱うことを批判する主張の1つは、有病率の低さです。有病率に関する信頼できる研究はまだありませんが、本書ではドイツの研究が紹介され、嗜癖障害と言える使用は調査対象の1%にしか見られないことが指摘されています。

 しかし、有病率の低さは、それを病として扱うことを必ずしも否定するものではないでしょう。稀な病気というのはあり得るものですし、数が少なくとも、その病気で困っている人がいるなら治療法の確立は必要です。

 何より、昨今の「ゲーム無罪」的な論調を見るに、むしろゲームの長時間利用を懸念する態度はあってしかるべきではないかとも思います。ゲームがもてはやされるのは結構ですが、それによって日常生活や対人関係に支障が出るほどになるのはやはり問題があります。しかし、社会の風潮が「ゲームの問題はあくまで家庭の問題である」とか、「ゲームへの固執は病気ではなく、ゆえに支援は必要ない」ということになれば、実際にゲームで困っている家庭への支援が妨げられます。

 現に、山田太郎や赤松健といったオタク親和的な議員は、叩きやすくオタクからの歓心を買いやすいターゲットとして、ゲームの問題を標的としています。ときには文科省の調査にケチをつけ(『文科省はゲームを悪者にしたのか あるいは、文科省がゲームに注目する真意』参照)、ときに医療機関が病気を作り出しているかのような陰謀論を流布するなど(『山田太郎の『表現の自由の闘い方』を読む:第1章から第3章編』参照)、やりたい放題です。

 こうした態度に対抗するためにも、研究を発展させ、ゲーム依存症の診断や治療を確立すべきでしょう。

 もちろん、依存症の確立は、世間一般の依存症イメージの改善とセットで行われるべきです。依存症であることが安直にスティグマとして扱われないようにするための広報活動は必須です。

 依存症が個人や家庭だけの問題ではなく、社会も関係する問題であると正しく理解されれば、依存症に逃げ込まなくてもよくなる社会も作りやすくなるでしょう。実際に、ゲーム依存症は学校や家庭での人間関係の困難からゲームに逃げ込む、ある種の「困難の症状」としての側面も指摘されています。私はそうした症状がさらに関係性を悪化させ、困難を強めるためにさらに逃げ込むという相互作用があると思いますが、そのような相互作用を断ち切るには、社会の側の理解が不可欠です。

 ゲーム依存を家庭の問題に押し付けたり、オタクの権力闘争の道具にしないためにも、いまいちど臨床の場面に立ち返った理解が求められるといえましょう。

 吉川 徹 (2021). ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち 子どもが社会から孤立しないために 合同出版
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 この件です。
 赤松の物言いは何重にも呆れるものですが、重要なのは、行政が行った調査について、与党議員が全く根拠のないいちゃもんをつけ、あまつさえ「もっと科学的に」などと言ってしまう傲慢さです。今回はゲームについてだったので呆れるくらいで済んでいますが、例えばこれが戦時性暴力に関する歴史学的な調査だったとすれば、その危険性の一端が分かろうというものでしょう。

文科省はゲームを悪者にしたのか?

 文科省がゲームを標的にしている、という神話は赤松のオリジナルではありません。これは山田太郎がかねてより流布している風説であり、赤松はそれをコピペしているだけにすぎません。まぁ、支持者向けのアピールとして盛りすぎたようですが。

 しかし、少なくとも『令和4年度 全国学力・学習状況調査』(資料は電脳藻屑さんに教えてもらいました)において、文科省および国立教育政策研究所がゲームを悪者にしたといえるような根拠は特にありません。

 近年、ゲームやスマホ、SNSへの依存が懸念され、また問題視されています。これまで子供たちが従事してきた余暇活動とゲームが決定的に異なるのは、依存しうるという点です。漫画依存症や外遊び依存症など存在しませんでしたが、ゲームには存在します。このような背景から、文科省などがゲームと成績の関連を調査しようと考えることは不自然ではありません。

 もちろん、調査結果から因果関係を推定することは誤りです。しかし、リンク先の資料『令和4年度 全国学力・学習状況調査の結果(概要)』を読めばわかるように、ここでは傾向があることの指摘に留まっており、因果関係を推定してはいません。常識的かつ抑制的な記述と言えるでしょう。

 それでもなお、ゲームと成績の関連について調査すること自体が、ゲームを悪者にすることだという主張は不可能ではありません。しかしそれは、もはやゲームについて少しでも否定的な言及はまかりならないという、独裁的な身勝手にすぎず、まともに取り合うべき考えではありません。

「調査」すら拒絶する恐るべき弾圧者

 ここで思い出したのですが、山田太郎は自身の著書で、表現の影響を調査すること自体を否定していたのでした(『山田太郎の『表現の自由の闘い方』を読む:第4章から第6章編』参照)。具体的には、子ども・若手育成支援推進法にあった『社会環境が青少年に及ぼす影響に関する調査研究を推進するように努める』という条文を削除させています。同時に、立憲民主党がかつての公約で、女性差別と表現の関係を調査すると言及したことにもケチをつけています。

 この態度が恐ろしいのは、赤松が『科学的に分析した方が良い』と述べたように、自身は「科学的根拠」という盾を用いながら、批判者がその武器を用意することは全力で妨害するという振る舞いになっているからです。要するに、根拠を用意することを妨害しつつ、相手の主張には根拠がないと言い続けるという詭弁、無敵論法です。

 このような態度は、まず、問題の早期発見という観点から重大な懸念があります。例えば、ゲーム依存症について、このように調査や研究が妨害され続ければ、問題が深刻になる前に対処することが困難になります。行政が根拠に基づいて行われるべきであるは事実です。ですが、このように根拠の収集が妨害されてしまえば、ゲーム依存症は行政から見えない問題となってしまいます。ゲーム依存症に苦しむ子供もいるというのに、とんだチルドレン・ファーストです。

 同時に、学問の自由の点からも重大な問題があります。(行政に民間と同様の自由があるか、という論点には必ずしも賛同はしません。しかし、山田や赤松は、行政が周知している表現のガイドラインなどを、規制であると攻撃しています。つまり彼らの発想では、行政は民間と同程度の自由を持つ存在だと想定されていますから、ここでもその想定にのっとります。もしこの想定に異論があるなら、それは彼らの言行不一致です)

 ゲームと成績の関連の調査を正当な理由なく与党議員が妨害することは、(行政に学問の自由があると仮定すれば)重大な自由の侵害です。なにせ、ゲームの悪影響を研究するということが、与党議員の意向でできなくなってしまうわけですから。問題の大小に差はありますが、これは杉田水脈がフェミニズム研究を捏造と公言したり、歴史修正主義議員が歴史研究を攻撃するのと同じ意味合いを持ちます。いわば「ゲーム史上主義」による弾圧なわけです。

 表現の自由を守ると嘯く議員が、自身に都合の悪い言動を弾圧するというのは何とも皮肉なことです。

なぜゲームのみが尋ねられ、自己報告なのか

 心理学者という、ある意味では調査設計の専門家としての立場からも赤松のいちゃもんに応じておきましょう。

 まず、赤松がケチをつけた『小中学生が30%もいるのは多すぎる』です。これは『親に聞くか「みまもりswitch」アプリなどを見て』と続くことから、自己報告式の回答の信頼性が低いという文句だと思われます。確かに、自己報告は客観的事実と乖離する恐れがある回答形式です。しかし、調査規模と形式、質問の内容から考えれば、ここでは自己報告が最も適切な形式であると考えられます。

 赤松が提案()しているアプリ等による記録ですが、後述する人権上の問題を抜きにしても、全国200万の児童生徒に行うのは予算と手間からどう考えても不可能です。また、アプリ等で記録できるゲームハードのプレイ時間しか記録できない、同じハードを複数人が使用している場合データの扱いが困難であるといった問題も生じます。あまりにも非現実的で、赤松の提案()が思い付きレベルでしかないことが分かります。

 親に尋ねるというのはわりあいポピュラーな方法です。しかし、ここでも200万という対象者の数がネックになります。一斉に教室で行うならまだしも、200万近い調査票を保護者に配布して回収するのは困難です。また、保護者が常に子供のゲーム時間を正確に把握しているわけではありません。

 自己報告の質問は、向社会的な回答を導くという懸念が常にあります。つまり、匿名のアンケートであってもいい人間に見られたいという思いで回答してしまう可能性があります。これがゲーム時間において発動するならば、おそらく時間を過小評価することに繋がるでしょう。少なくとも、ゲーム時間が長いことがいいことだというコンセンサスはありませんから。ですから、『小中学生が30%もいるのは多すぎる』という赤松のケチとは裏腹に、子供は実際にはもっと長時間プレイしている可能性があります。

 実のところ、自己報告における過小評価は、山田赤松の立場にとってむしろ都合のいいものです。なぜなら、少なくとも過大評価されることはありえなさそうなので、ゲームの悪影響も過小評価されるためです。言い換えれば、過小評価の恐れがある尋ね方でもなお、ゲームのプレイ時間と成績には関連があるのですが。

 加えて、文科省がゲームを悪者にしているという妄想の原因の1つは、調査がゲームとスマホについてのみ尋ねていることだと思われます(自由戦士が資料をちゃんと読んでいるとは思いませんが)。そもそもゲームについてしか聞かないのは、ゲームが悪いに決まっていると思っていたからだろ!というわけです。前述のように、文科省がゲームに特に関心を払っていたのは事実でしょう。しかし、これには調査的な事情も絡んでいると思われます。

 というのも、オタクがケチをつけるとき必ず出てくるだろう部活動の時間や外遊びの時間は、子供ごとのばらつきが少なく、調査してもあまり面白みのある結果にならないと予想されるからです。部活も外遊びも、せいぜい日が昇っている時間だけのものです。元気な子供でも、何時間も走り回れるわけでもありません。このため、子供がこれらに従事する時間は比較的短い範囲に固まってしまいます。そうなれば、成績との関連も見えにくいでしょう。

 調査の質問項目は、子供を対象とするものにしては多めです。そのため、質問項目はできる限り絞らなければなりません。であれば、有益で面白みのある結果が出るだろう質問項目に限って尋ねるのは当然のことです。

懸念すべきは家庭への責任転嫁と介入

 とまぁ、ここまで文科省を擁護してきましたが、彼らが成績との関連においてゲームに関心を払うことに懸念がないわけではありません。もちろん、それは山田赤松の言うようにゲームが悪者にされているという薄っぺらいものではなく、もっと根の深いものです。

 その懸念は、家庭への介入です。ゲームは当然、家庭で主にプレイされるものです。もし成績低下がゲームのせいだということになれば、自然な流れとして、その家庭を何とかしなければならないということになります。

 この最たる例が、香川県のゲーム規制条例です。この条例は第18条で『コンピューターゲームの利用に当たっては、1日当たりの利用時間が60分まで』としたことが有名ですが、これは県という権力が家庭に介入しているものです。同様に、第6条においては『保護者は、子どもをネット・ゲーム依存症から守る第一義的責任を有する』とまで書いています。

 統一教会と自民党の癒着が取りざたされていますが、彼らの結節点の1つが家庭への介入でした。なぜ介入したいのかという動機はここではさておきますが、男女の夫婦しか認めない、夫婦別姓すら認めない、父親が外で働き母親が家を守るのが理想、離婚もしないのが理想という狭量な家族間の押しつけは明らかな人権侵害であり、自由の侵害です。子供の権利よりも「自分の好きな家族観」を優先する押し付けでもあります。このような態度と同一直線上に、成績低下の原因をゲームに転嫁する態度があります。

 そして、意外に思われるかもしれませんが、山田赤松のような自由戦士的態度は、実はこのような家庭への介入、家族観の押しつけと相性のいいものです。それは、ゲームの悪影響が問題視されるとき決まって繰り返される、以下のようなフレーズに現れています。

 彼らはゲームを守っているつもりでしょうが、その実、家庭への介入に手を貸しているのです。極右はゲームがどうなろうがどうでもいいので、ゲームを突いてオタクが結果的に味方になるならこれほどコスパのいいことはないでしょう。

 そして、赤松も、冒頭に引用したツイートで『「みまもりswitch」アプリなどを見て』と書いているように、ナチュラルに家庭介入への欲望を隠しません。調査目的とはいえ、行政が機械を用いて、人々がどのような活動にどれだけ時間を費やしたか把握するのは、明らかに行き過ぎであり、倫理的に問題があります(言い換えれば、自己報告はこうした倫理的問題を回避する手段でもありました。嫌なら回答を拒否したり、嘘を書くこともできるわけです)。

結局はただの目くらまし

 とまぁ、いろいろ書きましたが、山田赤松が私の書いたことのかけらでも考えているとは到底思っていません。それでも彼らには、一応は国会議員として、意図的か非意図的かにかかわらずその言動に責任が伴うわけですが。彼らが大好きな表現の自由の責任ってやつです。

 ではなぜ彼らが文科省を叩くのかと言えば、仕事しているアピールと目くらましです。現在、自民党は統一教会との癒着問題に揺れています。統一教会は自身に批判的なマスコミに嫌がらせを仕掛けたり、場合によってはさらに悪質な攻撃を行った過去がありますから、明らかに表現の自由に反する側です。表現の自由を重視する議員であれば、このような破壊的カルトと手を切るべきだと訴えるべきでしょう。(そもそも安倍晋三と統一教会の癒着は公然の事実であり、最初からそんなところから出馬するなという話ですが)

 しかし、山田太郎も赤松健も、統一教会には触れません。なんと情けない、弱腰でしょうか。山田太郎に至っては、自身のかかわりを誤魔化すのに精いっぱいという始末です。

 同時に、新内閣の法務大臣に葉梨康弘が決定しましたが、彼は明確な表現規制派です。しかし、山田赤松は何も言いません。下っ端では大臣に物申すなんて、怖くてできないのでしょう。

 そうした弱腰で仕事のできない現実を隠すために、彼らは叩きやすい官僚を叩いているにすぎません。官僚は与党議員に逆らいませんし、どれだけ理不尽な風説を広められても公に反論する機会を持ちません。弱いものを即座に見つけて叩きに行く技能だけは優れていて、まさに自民党議員というべきでしょう。

 こいつらをさっさと辞めさせないと、どんどん自由がなくなりますよ。
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