九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

心理学

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『ゲーム内の性的に描かれた女性キャラが現実世界の女性の劣等感を引き起こすことはない』という研究の驚きの雑さに心理学者驚愕

 ゲームの中で登場する女性キャラクターはしばしばナイスバディに描かれがちであることから、「ゲームに登場する女性キャラクターはいかにして性の対象として描かれているか?」を主張する人もいます。こういった人々は「女性キャラクターを性的に描くことで、現実社会における女性に対する印象にも少なからず影響があるのではないか」と危惧しているわけですが、最新の研究結果は「ゲーム内の女性キャラクターを性的に描いても、現実世界の女性の身体的特徴に対する自己評価に影響を与えることはない」ことを示しています。

Examining the effects of exposure to a sexualized female video game protagonist on women’s body image. - PsycNET
https://psycnet.apa.org/doiLanding?doi=10.1037%2Fppm0000251

Study: Sexualization Of Women In Games Doesn't Impact Women's Body Image
https://kotaku.com/study-sexualization-of-women-in-games-doesnt-impact-wo-1836704647

 ステットソン大学とフェアリー・ディキンソン大学の研究者たちによる最新の研究によると、性的に描かれた女性キャラクターの登場するゲームをプレイしても、女性が自身の体に対して劣等感を抱くことはないことが明らかになっています。
 ゲーム内の性的に描かれた女性キャラが現実世界の女性の劣等感を引き起こすことはないという研究結果-GIGAZINE
 これの件です。
 そもそも、GIGAZINEの記事はたいていそうなのですが、心理学研究においてたった1つの研究結果から広範な結論を導こうとする態度は妥当ではありません。たいていの場合、緻密な研究計画は極めて限定的な部分での結果を提供するにすぎませんし、相反する結果を示す研究も多数ある場合が多いです。

 それをさておいても、この研究はあまりも雑すぎるというべきでしょう。あとで論文にもあたりますが、記事からわかるところだけでも突っ込みどころは無数にあります。
 以降、特に言及がない限り当該記事からの引用です。

 刺激の統制の不十分さ
 研究では約100人の女性に2つのトゥームレイダーシリーズのうち1つをプレイしてもらいました。プレイしてもらうゲームの1つは2008年にリリースされた「トゥームレイダー アンダーワールド」で、この作品の中で主人公のララ・クロフトはボディラインが強調されたウエットスーツや露出の多い衣装に身を包んでいます。研究では「性的に強調された女性キャラクターのデザイン」の指標として、「ゲーム内でキャラクターが課されるタスクをこなすのに適切ではない服装」を挙げており、激しいアクションを繰り広げるトゥームレイダーという作品においては、トゥームレイダー アンダーワールドのララ・クロフトのキャラクターデザインは過度な露出であり、意図的に性的に描かれたものであると判断されています。
 被験者にプレイしてもらったもう1つのゲームは、2013年にリリースされた「トゥームレイダー」です。本作ではララ・クロフトはカーゴパンツにタンクトップを着用しており、トゥームレイダー アンダーワールドと比べるとかなり露出は少なめ。そのため、研究チームは女性キャラクター(ララ・クロフト)が性的に描かれていないと判断しています。
 心理学研究では、影響を見たい要因以外のものを慎重に統制した刺激を使います。影響を見たい要因以外が心理面に作用すると研究が成立しないからです。

 今回、研究者が選んだゲームは両方とも『トゥーム・レイダー』であり、党勢をする意図があったのだと思いますが、まったく成功しているようには見えません。
 まず、記事中の動画を見てもらえばわかりますが、CGのクオリティに大きな開きがあります。2008年と2013年では5年しかあいていませんが、画像処理技術の進展は目覚ましいものがあります。

 また、ゲームの主人公は両方ともララ・クロフトですが、想定された年齢が大きく違います。2013年版では21歳であり、2008年版では少なくともそれより年上です。そのこともキャラクターの見た目に大きな違いを与えています。

 ゲームのキャラクターから受ける影響を検討するのであれば、その見た目は、操作したい要因以外は慎重に統制されるべきものです。しかしながら、今回の実験ではそれ以外の要素も大きく変わっています。

 批判を理解していないと思われる実験デザイン
 また、そもそも、この研究計画はもともとの批判を理解しているとは思えません。

 もともとの批判は、女性キャラクターが創作物の中で受動的な存在、あるいは一種のトロフィーガールとして描かれること、そしてそのような表現が「多く」存在していてステレオタイプ的であることに焦点が置かれています。

 そのような批判を考えると、まず、ララ・クロフトという主人公が能動的に活動するゲームを刺激に用いるのは不適切でしょう。どちらのゲームも女性が主体となって動くという要素に違いはなく、そのため参加者の態度に違いがなくとも当然です。

 また、女性の描き方がステレオタイプである、という点を考慮すれば、たった1つのゲームをプレイするという計画も妥当性に欠けるというべきでしょう。問題はこのような表現が「多く」存在し、そのような女性が普通であるかのように物語られることにあるはずです。

 問題は、このように明らかに問題のあるデザインの研究に基づき、しかもたったひとつの限られた結果しか得られていないにもかかわらず、すべての結論が出たかのような報じ方、論じ方をする人々のありようです。論文は研究のゴールですが、心理学研究全体から見ればあくまで途中経過に過ぎず、ゆえにその中身を本当に妥当なのか、とりわけ社会的に注目度の高いテーマであればこそ慎重に論じる必要があります。


それは本当に「詐欺」グラフなのか グラフを見るときに真に注意すべきポイント

 たまたま、Twitterでこういう記事が流れているのを目にしました。
 僕は #詐欺グラフ が何よりの大好物で、ネットやテレビで変なグラフを見かけるたびにニヤニヤしながらフォルダに保存しています。保存先のフォルダ名はズバリ「#詐欺グラフ」。
 そんな詐欺グラフの世界を皆さんに共有したいと思い、筆をとりました。(このnoteは随時更新予定です)
(中略)
詐欺グラフとは
 詐欺グラフとは、一般的なグラフの作り方とは異なる「演出」を加えることによって意図的に錯誤を狙うグラフのことを指しています。本来、単なる羅列では直感的に理解しづらい数値等を分かりやすく表現するものがグラフであるわけですから、自分の主張を誇大に伝えるために読み手を誤解させる詐欺グラフはとても悪質なものと言えるでしょう。
 面白がって色々と集めるうちに、いくつかのパタンが存在することに気づいたのでパタンごとに順番にご紹介します。
(中略)
0から開始しない棒グラフ
 よく分かっていない人も多いですが、棒グラフはその面積で強い印象を与えるため、縦軸の一番下はゼロ。絶対にゼロ起点にしないといけません。
 これは法律でそう決まっているくらいに思った方がいいです。
 (一定以上の知識がある人にゼロ起点になっていない棒グラフを見せたら、舐められるので気をつけましょう!)
 あなたの知らない「詐欺グラフ」の世界(随時更新中)-note
 なるほど。確かに、報道や広告の中にはグラフの作り方が明らかに不適正なものがあります。しかし、記事に挙げられているものすべてを「詐欺」という風に表現してしまうのは違和感があります。

 元来、グラフは「強調」表現である
 そのことを考えるうえで押さえておくべきなのは、そもそもグラフというのはすべからく、数字を強調するための表現であるということです。
 棒グラフであれば複数の群間の数字の際を、折れ線グラフであれば時系列変化を、円グラフや帯グラフであれば割合を、それぞれ強調して表現するための手法です。

 記事では、詐欺グラフを『一般的なグラフの作り方とは異なる「演出」を加えることによって意図的に錯誤を狙うグラフ』と定義していることからもわかるように、グラフには「一般的な」演出というものがあり、それによって作成者は多かれ少なかれ読者に狙い通りの印象を、言い換えれば錯誤を与えようとしています。

 そして注意すべきなのは、どこまでが一般的な演出であるかという境界は実にあいまいであるという点です。記事はかなりこの境界を厳しく見ていますが、私は後述する理由で甘く見てもいい、むしろ甘く見るべきであると考えています。

 「棒グラフは必ず0起点」なんてルールはない
 その境界の最たる例が、引用でも示した『絶対にゼロ起点にしないといけません』です。筆者はかなり強調して表現していますが、こんなルールは別にどこにもありません。グラフが0起点であるべきかどうかは、扱うデータの性質と差の重要性によって異なります。

 例えば、ある作業時間が100秒から98秒に減少したというデータがあるとしましょう。この2秒の減少時間が極めて得難く、重要な意味を持つ差異であるならば、グラフは0起点にせず90秒くらいから始めてそのことを強調するのは決して不適切なグラフの作り方ではありません。むしろ、馬鹿正直に0から始めて微々たる差異であるかのように表現するほうが不適切です。
 一方、せいぜい誤差ぐらいの差でしかないならば、そもそもグラフを作ってまで強調する意味はありません。このように、どのようにグラフを作るべきなのかは扱うデータと得られた違いの重要性などによって異なってきます。

 確実に不適切なグラフ
 まぁ、それでも明らかに不適切なグラフの作り方というものもあります。
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 この、縦軸や横軸、円周の間隔が歪んでしまったグラフはどうあがいても適切とは言えないでしょう。上のグラフであれば、せめて0起点をやめて差異を強調すべきですし、下の円グラフであれば円周の間隔は歪めずに文字を大きくしたり空間をより目立つ色に変えたりすることで強調すべきです。軸の間隔を歪めてしまうと、その点が指す数字がなんなのかわからなくなってしまいます。
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 また、中心をずらした円グラフもご法度でしょう。記事の筆者のように必ず帯グラフを使えとは思いませんが、中心までずらしてしまうと面積が指し示す内容が意味を持たなくなってしまいます。

 本当に気を付けるべきことは何か
 私が、このようなグラフの強調に関して、そこまで厳しい立場をとらないのは、グラフがそもそも強調する表現であることと同時に、グラフがどう表現されているかは実はさほど問題ではないと考えているからです。記事で挙げられている詐欺グラフの大半は、実のところきちんと数字が表記してあって、それを読むと正しい解釈がわかります。気を付けていれば詐欺グラフの表現はさほど問題ではないのです。

 より問題なのは、「正しい」グラフを表示しながら「間違った」解釈を開陳するという場合です。グラフの形式的な表現ばかりに気を取られていると、正しいグラフの頓珍漢な解釈を真に受けるという滑稽なミスをやらかします。
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 例えば、上に挙げたのは『池上彰「防犯カメラに犯罪抑止効果」のデタラメ』で扱ったグラフです。両側が違う数字を示す二軸のグラフですが、数字に恣意的なところはなく問題のないグラフです。というか、グラフ「は」問題がないというべきでしょう。池上彰はこのグラフをもとに「防犯カメラに犯罪抑止効果がある」と論じましたが、これは明らかな誤りです。

 詳しくは元の記事を参照してほしいのですが、防犯カメラの犯罪抑止効果が限定的であることはキャンベル共同計画のレビューですでに明らかになっていることです。
 また、それを抜きにしても、おおむね路上に設置される防犯カメラの犯罪抑止効果を、家庭内といったプライベートな空間での犯罪もカウントしているであろう認知件数で検討するのは誤りです。加えて、これはあくまで防犯カメラの設置台数と認知件数が連動している「っぽい」ことしかわからないので、せめて相関係数を出して2つの数字の関連の強さを検討する必要があります。
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 ついでにもう1つ。これは極右論壇で外国人犯罪を論じている坂東忠信が作成した円グラフで、このグラフも数字は正しく表現の問題もありません。
 では、彼がこのグラフを使って主張する「在日韓国・朝鮮人」の犯罪率が高くて危険というのは正しいでしょうか。もちろんそんなことはありません。

 このグラフはあくまで「外国人検挙件数・検挙者に占める国別の割合」であり、元々日本にいる人数によって補正がかけられていません。つまり、日本に大勢いる在日コリアンの検挙者数が多いのは当たり前なのです。犯罪率がどうあれ、人数が多ければ犯罪者の絶対数だって多くなるという道理です。
 また、このグラフはあくまで検挙という警察活動の記録であるため、これをそのまま市井の犯罪状況の反映とみることはできません。坂東のようなレイシストが活動できてしまうほど在日コリアンへの偏見にまみれた警察機構であれば、その分彼らへの視線が厳しくなり検挙率が上がるだろうと考えるのは妥当な解釈でしょう。アメリカで黒人の検挙人数が多いのと同じ理屈です。
 この辺の議論は『【書評】在日特権と犯罪』『坂東忠信がまたデマ本を出すようなので彼の過去のデマを蒸し返す』を参照してください。

 このように、いかに正しいグラフでもそれに伴う主張がでたらめであることは往々にしてあり、我々は詐欺グラフよりもむしろそちらを気を付けないといけないのです。

小学生YouTuberの背後に蠢く素人カウンセラー

 「俺が自由な世界をつくる」。自由を求めて学校に通わない選択をした中村逞珂(ゆたか)さん(10)=宜野湾市=が「少年革命家 ゆたぼん」と名乗り、ユーチューバーとして活動している。大阪生まれ、沖縄在住のゆたぼんは「ハイサイまいど!」で始まる楽しい動画を提供しつつ、いじめや不登校に悩む子や親に「不登校は不幸じゃない」と強いメッセージを発信している。
 ゆたぼんが学校に通わなくなったのは小学校3年生の時。宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた。担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え「俺までロボットになってしまう」と、学校に通わないことを決意した。現在も「学校は行きたい時に行く」というスタイルを貫いている。
 配信する動画は歌やお笑い系が多い。パワフルに熱唱する姿は、父親の幸也さん(39)の影響で好きになったブルーハーツをほうふつとさせる。
 人気作家や編集者、お笑い芸人などと共演を重ね「ノートに書くだけが勉強じゃない。いろんな人に会うことも勉強だ」と、学校ではできない学びに自信を深めている。
 「不登校は不幸じゃない」10歳のユーチューバー 沖縄から世界に発信「ハイサイまいど!」-琉球新報
 この件です。
 最初はこう言っていたんですけど、ちょっと調べてみるといろいろ危ういような気もしてきました。

 極端すぎじゃない?
 記事で取り上げられているゆたぽんのチャンネルを見る限り、この活動はそもそもこの1人だけで行っているわけではないようです。8歳のときから動画を投稿しているようですし。ただ、動画を見ても不登校になった原因は判然としませんでした。

 琉球新報の記事によれば、『宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた』ということだけが、これだけが主の理由であるとするならば、ここから不登校というのはいささか極端な対応じゃないかと懸念します。

 もちろん、学校へ無理をしていく必要はないでしょう。学校へ行きたくないという理由も人それぞれですし、一概にああしろこうしろとは言えるものでもありません。ただ一方で、集団と多少うまくいかなくても何とかうまく調整してやりくりしていく能力だって社会適応には必要であることも純然たる事実です。周りの大人は子供の負担になりすぎないようにしつつも、まったくのフリーハンドにもならないようにバランスを取りながら子供の学校生活を支えていくのがあるべき姿でしょう。

 しかし、少なくとも、この彼の保護者はそのようなバランスはとっていないように見えます。
 「絶対に学校へ行け」にせよ、逆に「じゃあ行かなくていいよ」にせよ、こういう極端な対応は、子供の選択肢を広げているようでいて実は狭める一方です。学校へ行かないというのは一見すると自由な選択をしているように見えますが、学校へ行き勉強することで得られるものを捨てることとも同義です。逆に、無理して学校に行って調子を崩してしまえば元も子もありませんから、逆もしかりといえましょう。どちらが子供にとって良いのかは慎重に決めるべきですが、そのような慎重さが彼の周りにあったのかという不安には駆られます。

 義務教育の「義務」は、親が子供に教育を受けさせる義務があるという意味です。学校に行かないのであれば、せめて最低限学校教育に代わる教育を与える義務がありますが、果たして。

 父親の怪しい肩書
 さて、こんなところでわざわざYouTuberなんて取り上げたのは、別に学校教育を云々したいからではありません。もちろん、勉強好きが高じて大学院まで行ってしまった身の上では学校教育に一家言ありますが、それはさておいて。
中村幸也@心理カウンセラー
 作家、心理カウンセラー。自由人。
 「あきらめる勇気」という本を出しています。
 2018年6月に妻と子ども4人を連れて大阪から沖縄に移住。

★著書「あきらめる勇気」
 人生はあきらめが9割 残りの1割で幸福になる方法
 (ハート出版)

 「必要な言葉は、必要な時に、必要な人へと届く」を信条に、八年以上、毎日欠かすことなくブログを書き続けている「言葉の伝道師」です。
 医者や弁護士になるのには資格が必要だけど、誰かにやさしい言葉を投げかけるのに資格なんかいらない。
 ただ、やさしい気持ちがあればいい。愛の心があればいい。
 そんな思いで毎日更新し続けています。
 中村幸也@心理カウンセラー
 このブログでこの話題を取り上げたのは、YouTuberの父親の肩書がかなり気になったからです。プロフにあるように、資格は持っていないにも関わらずカウンセラーを名乗っています。

 「医者や弁護士になるのには資格が必要だけど、誰かにやさしい言葉を投げかけるのに資格なんかいらない」などと書いていますが、大きな誤りです。誤解を恐れずに言えば、カウンセラーというのは「準精神科医」のようなものであって、確固たる知識と経験のもとにその手腕を振るうべき立場の人間です。「やさしい言葉」とやらを投げかけるのには、専門知識がいるのです。

  言葉はよくナイフに例えられます。使い方次第では人を傷つけることもあります。ましてや、相手がカウンセリングを求めるような弱っている人であればなおさらでしょう。
 しかし幸せになりたいと思うなら、
 必要以上に人と比べるのはやめたほうがいい。

 なぜなら、人と比べてばかりいると、
 自分自身を見失うからだ。

 だから自分の持っている幸せを感じよう。

 別に誰かと無理に比べなくても
 あなたにはあなただけの“幸せ”が
 あるはずだから。

 隣の芝生の色を気にするよりも、
 自分の持っているに感謝して、
 楽しみながら過ごそうぜ(^O^)
 隣人の幸せを見てウツになる人-もっと自由に生きたくないかい?
 そして案の定、氏のブログは偉人の名言とやらであふれています。そういうのはカウンセリングではなく、ただそれらしいことを羅列しているだけにすぎません。
 『隣の芝生の色を気にするよりも、自分の持っているに感謝して、楽しみながら過ごそうぜ(^O^)』じゃあないんだよ。それができない状態が「うつ病」はじめとする精神疾患であることが全く理解されていません。これでは治療に無益どころか悪影響すらあるかもしれません。

 ただ、父親が無資格カウンセラーだと聞いて、子供に対する極端な対応に合点がいったのも事実です。きちんと教育を受けたカウンセラーなら、子供のあの訴えを聞いて「じゃあ学校に行くのやめようか」とは絶対にならないでしょう。
 カウンセラー全体に「社会適応ばかりを重視しすぎじゃないか」という批判はあるのですが、ある程度は社会適応が必要なことは共通して理解されているでしょうし、本職のカウンセラーならその社会適応を真っ先に投げ捨てるようなことはしないはずです。

『フランケンシュタインの誘惑 脳を切る"悪魔の手術"ロボトミー』を観た

 この前録画していた番組をようやく観ました。NHKEテレの『フランケンシュタインの誘惑』というもので、録画したのは『脳を切る"悪魔の手術"ロボトミー』の回でした。

 ロボトミーとは、脳の前頭葉を摘出することで「激越性うつ病」、今でいうところの重度のうつ病患者の症状を緩和するというものです。
 前頭葉は人の感情などを多くの要素をつかさどり、当時はここから脳内物質が過剰に生産されることがうつ病の原因ではないかと考えられていました。その推測自体は中らずと雖も遠からずといった感じで、そうであれば前頭葉を切ってしまえばよかろうという発想になるのも当然かと思います。

 しかし感情をつかさどる部分を切除した結果、患者には自己コントロールの低下ややる気の欠如など重篤な副作用が生じることとなります。

 なぜ「暴走」したのか
 ロボトミーは、確かに不完全な治療法ではありましたが、しかし激越性うつ病の症状を考えれば、不完全ではあってもある程度効果のある治療法として後世評価されるという道もあったでしょう。
 ではなぜ、そういう道を辿らなかったといえば、番組でも紹介されたように、アメリカでロボトミーを普及した医師ウォルター・フリーマンがその過程で「暴走」し始めたのが最大の原因でした。

 フリーマンは当初、開頭手術によって脳を切除していました。しかし当時の精神科病棟には外科手術ようの設備も麻酔もなく、そのような手術を行うのは困難でした。そこで彼は、精神科病棟でも簡単に手術できるように、ロボトミーに「改良」を加えます。

 それが、麻酔ではなく高電圧の電気ショックでこん睡させ、メスではなくアイスピックを瞼の裏から差し込み脳を掻き切るというものでした。所要時間わずか10分、1日に25人もの手術を行ったという逸話も残る簡便な手術は全米で爆発的に広まりました。

 もう1つの「改良」は、ロボトミーの対象を激越性うつ病だけではなく、際限なく広げていった点です。番組では、軽度の知的障害が疑われていたというルーズベルト大統領の妹ローズマリーに対する手術例や、偏頭痛で悩んでいたという「だけ」の女性への例が紹介されていました。
 このような際限ない手術範囲の拡大で、フリーマンはケース数を大幅に増やしたのでしょう。

 精神病患者を人と思わない
 このような無謀な「改良」の背景には、精神病患者を人と扱わない当時の価値観があったことは言うまでもないでしょう。それは、表向きでは精神病の治療をうたっていたフリーマンですらです。

 もし仮に、精神病患者を人と扱っていれば、少なくとも脳を切除するという大掛かりな手術において、麻酔を使わないという発想には至らないでしょう。また、アイスピックによって脳を掻き切るという方法は、切除というよりは単なる破壊で、これも患者のことを考えれば到底取りうる手段ではありません。

 そのような患者の人権軽視が極まっていたのは、十代前半の子供にロボトミーを行ったケースでした。その少年は父の再婚相手の母と折り合いが悪く、暴力的な素行があったために精神病院へ連れてこられ、ロボトミーを受けさせられたのです。未成年者に対する重大な手術を気楽にやったフリーマンには当時も批判が殺到しましたが、フリーマンはこれを突っぱねたというエピソードが番組で紹介されています。

 患者の人権軽視は、先に紹介した軽度の知的障害や偏頭痛にもロボトミーを行ってしまうケースからも見て取れます。脳を切除するというのは不可逆的で、リスクも大きい手術であることは当時ですらすでに知れ渡っていたことでしょう(なにせ手術の失敗による死亡例も多くあったので)。にもかかわらず、激越性うつ病ではない些細な症状にもロボトミーは行われていました。

 本来、治療方針は症状と治療法の負担を勘案して決定されるべきです。そこには「その治療が患者のためになるか」という一本の筋があるはずです。患者の症状が偏頭痛や軽度の知的障害「程度」であり、それに対する治療法がロボトミーのようなリスクのあるものしかないのであれば、あえて治療しないというのも1つの選択肢です。しかし当時の医師たちはそう考えなかったようです。

 これは人間に「自然な・完全な状態」なるものがあると想定し、そこから外れるものを何が何でも治そうという姿勢です。本末転倒ともいいます。
 『八木秀次曰く、同性愛は「治せる」らしい そのエビデンスを探索する』で紹介したように、セクシャルマイノリティを嫌悪する人々は、「治せる」ことをもって「治すべき」であると主張します。実際には治せるという根拠も極めて怪しいのですが、仮に「治せる」としても、それは「治すべき」であることを全く意味しません。セクシャルマイノリティが苦悩するのは社会構造が故であって、その人たちの自認を「治し」て社会のほうへ適合させることが必ずしもいいことであるとは思えません。

 科学者が「伝道師」になるとき
 番組では、フリーマンがロボトミーに執着していく変節を指して「伝道師になった」と言う証言を紹介していました。これは現代でも重要な、重みのある指摘といえましょう。

 医師に限らず、ある手法、ある主張にしがみつくが故に、科学者というよりは伝道師になってしまう人々は大勢います。「反」反原発の人々なんて言うのはまさにこの好例でしょう。
 そのような事態に陥ってしまうのは、彼らが「科学がなぜ科学なのか」という根本を忘却してしまうからです。

 よく科学は宗教であるとわかったようなことを言う人がいますが、信仰することは科学にとって最も不釣り合いな所作です。科学に神がいるのだとすれば、その神に対する信仰を示すために、我々科学者はその神を「疑い続け」なければいけないのです。極めて倒錯した状況にも見えますが、合理的に疑うことをやめ、信じることを始めたとき、その人は科学の信徒ではなく、「科学教」という似て非なる宗教の信徒になるのです。

 フリーマンも、ロボトミー術後の患者の様子をもう少し時間をかけて観察していれば、あるいはロボトミーの欠陥を早々に認めていれば、その過ちを糧として科学を進歩させる優秀な科学者となっていたでしょう。しかし自ら自動車のハンドルを握り、全米を駆け巡るロボトミー「伝導」の旅に出た時点で、彼は科学の信徒でなくなっていたのです。

八木秀次曰く、同性愛は「治せる」らしい そのエビデンスを探索する

 前回からの続きで、再び『正論』2019年6月号です。
 今回取り上げるのは、そこへ寄稿された八木秀次の『最高裁ヘンテコ判決はなぜ繰り返されるか』です。ここでメインになっている法律のことについては、正直詳しくないので専門家に批判は任せてここではさておきましょう。本ブログが注目したのは、いかに引用する氏の主張です。
 もう1つは、性同一性障害の原因に関わることだ。日本では日本精神神経学会などがホルモン原因説に傾いているが、欧米圏の研究では性同一性障害は「生理的原因説は根拠が乏しく心理的原因の可能性が高い」(N・E・ホワイトヘッド)とする有力な見解が唱えられている(『性同一性障害Q&A』ファミリーフォーカスジャパン、2005年)。精神療法で治癒した多数の臨床例があるとされ、本人が望めば、80%は性同一性障害が治癒するともいわれる(ジェリー・リーチ)。要するに、元の性別の生殖腺を残したままでは元の性別に心理的に戻る可能性があるということだ
 はい、聞いたことないぞ。そんなパラダイムシフトが起これば、さすがに犯罪が専門とはいえ曲がりなりにも心理学者である私の耳に入ってこないはずはないでしょう。というわけでいろいろ調べてみました。

 ちなみに、記事はここから「生殖腺を残したまま男が女になったりすれば、子供の戸籍上の父親が母親になったりして混乱するでしょ?」みたいな論調に展開していくのですが、それで困るのは異性婚を前提とした戸籍制度があるからであって、それらを取っ払えば終わる話じゃないかと思いました(小並感)。

 n=3です
 まずは「生理的原因説は根拠が乏しく心理的原因の可能性が高い」と主張しているホワイトヘッドなる人物です。ざっと日本語でググっただけでは以下のまとめに言及があることしかわかりません。

 GID(性同一性障害)反対学会-togetter
 GID神話の崩壊・欧米で起きているGIDの終焉-togetter

 そこでの言及の内容は一貫しており、『性同一性障害(GID)と主張していた3人の男性が精神療法によって、自分の違和感がまちがっていたと悟り、全員、男性に戻った、と報告』していたということです。まぁ、n=3では何の根拠にもなりません。

 よしんばこの報告が全面的に信頼できたとしても「精神療法で性同一性障害が治る」とは言い切れません。総じてカウンセリングというのは、カウンセラーが支配的な立場に立つことが可能です。つまり自分の性自認について思い悩んでいるクライアントを誘導して「やっぱり気のせいだったかもしれない」と思わせるくらいはできるということです。「自分は女性じゃないか」「いややっぱ気のせいかも」の間を揺れ動くことがGIDの1つの苦しみでしょうし、その苦しみに乗じれば「気のせいだった」方へ揺さぶることは難しくないでしょう。ですが、この方法で「気のせいかも」となってもクライアントが救われるかは不明ですし、結局「やっぱ気のせいじゃないじゃん」となる可能性もあるわけです。

 ちなみに、N.E.Whiteheadの名前を英語で調べてみると"My Genes Made Me Do It!"というPDFファイルがみつかり、これが元ネタなのではないかと思われました。ただページ数が多いので、こちらの探索はまた時間を見つけてということにします。ほんやくこんにゃくほしいな。

 ちなみについでに言うと、性同一性障害の治療と聞いて私は真っ先に「コンバージョン・セラピー」を思い浮かべました。
 コンバージョン・セラピーとは、ひとの性的指向や性自認をヘテロセクシャル、あるいはシスジェンダー(身体的性別と性自認が一致している人)の基準や規範に当てはまるように変えることを目的として実施される一連の行為で、多くは宗教的動機に基づいて行われる。
 治療には会話療法や電気ショック療法、LGBTとしてのアイデンティティを麻薬や酒の依存症と同じような問題として扱う手法などが用いられる。会話療法など、一部はメンタルヘルスに問題を抱えた人々の治療に用いられる正当な治療法だ。しかし、ゲイであることは、もちろん、精神疾患ではない。
(中略)
 TCさんは、自分とともに治療プログラムを受けた未成年者のうち何人もが、後に自らの命を断つことになったと話した。
 「彼らによって、僕たちは自分自身が敵になるように変えられてしまったんです」と彼は言った。「自殺する人が多いのはこのせいです。僕たちはみんな、自分自身のあり方や、自分が愛した人に対する嫌悪感を抱えていました。これはよくある自己嫌悪とは違います。自分という人間にうんざりして、違う人になれるならなんだってしたいという気持ちです。しばらくすると、周りから人が消えていくのもただの日常になります。慣れてしまうんです」
 若いクィアの自殺とコンバージョン・セラピーの相関関係を示すデータは少ないものの、調査では実際にLGBTコミュニティの自殺者が多いという結果が出ており、若いクィアの自殺率は4倍、トランスジェンダーの若者の半数近くが、今までに自殺しようと考えたことがあると答えた。
 同性愛の"矯正"治療「コンバージョン・セラピー」経験者が語る トランプ政権で起こりうるクィア迫害とは-ハフィントンポスト
 これは上掲記事にあるような非人道的な取り組みで、参加者の自殺率が高いことも知られています。八木の主張する80%は、治療率よりも自殺率に近いかもしれません。

 キリスト保守だった!
 もう1つ、出典元の『性同一性障害Q&A』ですが、これはどうやらキリスト教系の出版社から出ているもので、そうやすやすと手に入るものではないようです。ただ、編者の主張からその内容を窺い知ることはできました。

 というのも、編者の前島常郎という人物は、ブログでセクシャルマイノリティに関して、以下のような内容を投稿しています。
 感情的な反対意見はあるものの、同性愛が生まれつき,
 つまり遺伝であるという科学的な証拠はありません。
 同性愛の原因について現在知られていることは
 一般的には、性的な自己像が混乱した不幸な家庭生活に
 由来している可能性があります。

 ジェームス・ドブソン「劣等感からの解放」
 同性愛が遺伝だという科学的な証拠はない-家族をめぐるどこにでもあるオハナシ
 男女の役割のあいまいさが、同性愛の流行の一因と
 なっていることは疑いがなく、恐ろしい傾向です。
 ニューヨーク市クレイ大学の人類学教授
 チャールズ・ウィニック博士は、
 二千の文化を研究し、そのうちの五十五の文化には
 性的にあいまいだという特徴があり、
 そのすべてが滅んだことを発見しました。
 この点から、博士は米国の将来は危機に直面している
 と感じており、私も同意見です。

 ジェームス・ドブソン「劣等感からの解放」
 同性愛の流行の一因-家族をめぐるどこにでもあるオハナシ
 いずれも、エビデンスにかけ、現在の科学的知見に真っ向から反するものです。文化云々に至っては意味不明です(でも何となく見覚えも……元ネタはいったい)。ちなみに引用元となっているジェームズ・ドプソンの『劣等感からの解放』も同じく、キリスト教系の出版社からのものと思われます。
 2010年4月1日、アメリカ小児科医師協会は、
 「反対の性の言動をまねる子どもでも、周囲がそれを助長さえしなければ、
 思春期に達するまでにその願いがなくなることが多いので、
 学校は性急な判断を慎むように推奨する」
 という趣旨の書簡を全米の公立学校の校長宛に送りました。
 子どもに同性愛、また性同一性障害的な症状が出ても、
 学校の性急な対応によりそれを固定化させないようにとの目的があります。
 学校が子どもの性同一性障害を助長する危険に医学者が警鐘!-家族をめぐるどこにでもあるオハナシ
 そして極めつけはこれです。記事がリンクを張っている"Should Schools Identify and Affirm Students as “Gay” or “Transgender?”"は、記事中では『アメリカ小児科医師協会』と訳していますが、組織の正式名称は"Facts About Youth"というものであり、"American College of Pediatricians"、直訳すれば「アメリカ小児医科大学」のプロジェクトの一環であると説明しています。

 この"American College of Pediatricians"がどういう組織なのかはよくわかりませんが、体罰を肯定している声明文"Spanking: A Valid Option for Parents"をページに見つけてあっ(察し)となりました。

 だいたい、この声明文の言うところの「助長」とは一体何なのか判然としません。男子校や女子校でなければ、男女が入り混じって生活しているのであり、子供はどうあれ、「異性のふるまい」とやらを観察し学習します。それを防ぐには、すべての学校を性別ではっきり切り分けるしかないでしょう。無理ですね。

 八木がエビデンスとして挙げている書籍の編者が、こういう主張を持つものである以上、その書籍も偏っている可能性は大いにあるといえるでしょう。そもそも性同一性障害に関する書籍にはもっとポピュラーなものがあるにもかかわらず、あえてマイナーでアクセスしにくい書籍を持ってくるのは、そこにしか自分に都合のいいことが書いていないからでしょう。

 保守論壇というのは9割がた、エビデンスを出しません。そしてその1割は、ここでみたように実に怪しいものなのです。

「%が理解できない子供がいる」ことは教育しなくていいという意味ではない

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 こういう質問が来ていたので、元ネタになった記事を読んでみました。
 20世紀から21世紀になって、各種経済データの見方で大きな変化があった。例えば、1万人の社員で1000億円の利益を上げる企業と、100人で100億円の利益を上げる企業を比べるようなとき、20世紀までの「足し算」から21世紀は「割り算」による「1単位当たり」の視点で考える時代になった。そこで現在においては、「%」の発想が基本になる。
 ところが、この「%」に関して現在、大学生の理解で異変が起きている。「2億円は50億円の何%か」という質問に対して、2を50で割って正解の4%が導けない学生や、消費税込みの代金は定価の1.08倍になることの説明ができない学生が多くいる。毎年行われている全国学力テストで、それらを裏付けるものも報告されている。
 たとえば2012年度の全国学力テストから加わった理科の中学分野(中学3年)で、10%の食塩水を1000グラム作るのに必要な食塩と水の質量をそれぞれ求めさせる問題が出題されたが、「食塩100グラム」「水900グラム」と正しく答えられたのは52%にすぎなかった。1983(昭和58)年に、同じ中学3年を対象にした全国規模の学力テストで、食塩水を1000グラムではなく100グラムにしたほぼ同一の問題が出題されたが、このときの正解率は70%だったのである。
 ここ数年、他大学のさまざまな分野の教員から、「%」を理解していない大学生の情報が寄せられるようになった。さらに、本年2月下旬に発行された雑誌『数学文化』第31号でも思わぬ記事を見た。
 大学生が「%」を分からない日本の絶望的な現実-東洋経済オンライン
 まず大元になっているこの記事です。
 まるで%を理解できない大学生が一定数存在するかのような書きぶりですが、具体的なエビデンスは出てきません。示されているのはあくまで小中学生における理解力の示唆であって、大学生のそれではありません。

 もちろん、大学進学率の向上と数学を必要としない入試形態の拡大によって、以前より%を理解できない大学生が増えたように見えるという現象が起こっている可能性は大いにあります。しかしながら、それがそのまま大学生年代の学力低下を意味するわけではありません。単に、昔は大学に行かなかった人々が進学するようになったというだけでしょう。

 しかし、質問箱で示された、山本一郎による記事にはさらなる事実誤認と問題が含まれています。

 知能の遺伝観が単純すぎる
 しかしながら、遺伝子解析の進歩により、実際には「勉強不足、教育の問題により%が分からない子ども」だけではなく「遺伝的に抽象的思考力が欠けている子ども」が多数いることが分かってきました。
 単純な話、教育すれば全員が「%計算ができるようになる」とは言えない。
 教育すれば「どんな子どもでも」一定の数学、国語能力が身に付くという、そんなエビデンスは特にないのです。
 逆に、遺伝と非共有環境に関する事実は、教育がその人の資質や性格に及ぼすことのできる影響は限定的で、かつ、40代にはほぼその教育の影響は失われて、その子どもが本来持っていた資質や性格がそのまま発現します。教育の役割は、いままでのように「教え込んで、組織や社会への協調を促す」よりも「勉学への動機付けをし、考えるきっかけを与える」方向へと変遷していく過程に現在あります。
(中略)
 一番の問題は、その子どもにあった学習をできる仕組みを構築できるようにすること、その子どもの特質を明らかにし、一般の公教育では能力開発のむつかしい外れ値の子どもや意欲を高く持つ子どもを発掘しながら個別教育の知見を高め、将来的にすべての子どもが学問として必要と思われる各分野の進捗ごとにピンポイントで学習できる仕組みを政策・社会的にきちんと構築することです。数学者ガロアにはガロアの、発達障碍児や自閉症スペクトラムにある子どもなど外れ値を持つ子どもには彼らの、その特質の把握から始める必要があります。将来的にはすべての日本人の子どもたちに、その子どもたちの特性を調べ把握し、その子どもの習熟進捗や意欲にあわせた教育ができるようにすることが理想です。
(中略)
 さらには、%で物事を考えることの大事さ以前に、%で物事を考えることのできない遺伝的特性を持つ人が、実は違う能力を持っている可能性を考え、そういう人には無理に%を教えないことのほうが大事だという結論が出ることもあり得ます。また、能力を秘めた自閉症スペクトラムの子どもを探した結果、単に低スペック人間に過ぎないということが判明することもあり得ます。そのような調査がその人にとって幸せなことなのかという問題も、併せて考えなければなりません。
 蛇足ながら、人工知能時代と言われる一方、大学生の能力が下がっていると大学職員からたびたび相談をされるのですが、大学生の能力低下は実のところ「大学に入ろうと考える子供の絶対数が減った」という少子化の問題のほうが、教育制度の問題よりも大きいことは指摘されるべきだろうと思います。良くあるのが「いまの学生は昔の学生よりも向学心が足りない」「学問の基礎的な素養に欠けるようになった」ということで、単純に昔の学生の水準といまを比較されるケースが多くあります。
 しかし、実際にはデキる学生の数は単純に人口における割合でおおむね決まっていて、私のような73年生まれのベビーブーマーは209万人いて国立私立名門を受験するのに18倍とかいう熾烈な競争による狭き門だったものが、現在は年間出生数も100万人を割り、有力中学でもせいぜい4倍という倍率となって受験産業が壊滅するぐらい受験校を狙う家庭が減りました。同じ偏差値70でも、同年代209万人と94万人では母数がそもそも違います。
 「大学生なのに%が計算できない」と日本の初等中等教育の憂鬱(修正あり)-ヤフーニュース
 まずシンプルな事実誤認は、「遺伝的に抽象的思考力が欠けている子ども」という想定です。記事中の記述からでは判然としませんが、仮に筆者が、抽象能力を司る単一の遺伝子があるのだと想定しているとすればこれは間違いです。人間の能力というのは複数の遺伝子の組み合わせで発現するものであり、親の知能がそのまま子供に遺伝するような単純な宿命論のように捉えることはできません。確かに、確率的には、頭のいい親の子供は頭がいい可能性が高いかもしれませんが、あくまで確率の話です。

 仮に、筆者がそうではなく、きちんと遺伝の特徴を理解していたとしても、「遺伝的に抽象的思考力が欠けている子ども」という表現を用いて教育問題を語るのは語弊が大きすぎます。遺伝的な問題にせよそれ以外の問題にせよ、結局そういう子供は「先天的に抽象能力を欠いている」のであり、原因はさておいてその対処方法には共通のものがあります。ゆえに、わざわざ「遺伝的に」などと人の能力を宿命づけるような表現を使う必要はないでしょう。

 %を教えなくていいのか
 この記事に含まれる問題は、抽象能力に欠く子供に%を教える必要はないと断じてしまっているところにあります。これが誤りである理由は大きく2つあります。

 1つは、%という極めて基本的な概念を教えないということは、結局のところその子供の学習の機会を奪うだけではなく、日常生活を営む上で必要が知識を得る機会も奪うことになりかねないことです。
 確かに、勉強が苦手な子供に無理をして三角比を教える必要はないかもしれません。しかしそのように高度な数学の知識と%を同じように扱い、教えなくてよいとすることはできません。%のような基本的な概念は、数学というよりは日常生活を営む上で必要な知識なのです。
 教育の目標の1つは、日常生活を営む上で困らないように知識を教えることです。ゆえに、%くらいは勉強が苦手な子供にも何とか教える必要があります。

 もう1つの問題は、「遺伝的に理解できないのだから仕方がない」という風潮を作り上げることで、実はそれ以外の原因で理解が進んでいないだけかもしれない子供を「遺伝的にできない」という枠組みに押し込んでしまう可能性です。
 はっきりと自閉症や学習障害の診断がつくような場合を除けば、実際のところ、その子供の勉強の遅滞の原因が遺伝にあるのかはわかりません。遺伝子を覗き見ることができないので当たり前です。
 つまり、%が理解できない子供の中には、遺伝子的な原因よりもむしろ、単に理解に時間がかかっているだけとか、教え方のフレームワークが悪いだけという子供も一定数含まれるはずだということです。このような子供は適切に時間をかけたり、教えた方を工夫すれば%を理解できる可能性があります。そのような対処をせずに「遺伝子的な原因だから」と早々に決めつけることは、結局子供の学ぶ機会を奪うだけになります。

 この記事にあるような、遺伝子の要素を重視する人々は、教育の影響力を過小評価する傾向にあります。その点は『「性差(有意差)がある」というのは何を意味し、何を意味しないのか』や『【書評】言ってはいけない 残酷すぎる真実』で論じたことでもあります。

 しかし、彼らが思っているよりも教育は無力ではありません。例えば『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』が論じているように、「遺伝的に」脳機能が劣っていて、それ故に非行行動の見られた子供でも、その脳機能を改善するためのトレーニングを行えば改善することが知られています。
 また幼少の子供の思考能力に限界があることを示した心理学者としてはピアジェが有名ですが、そのピアジェが「この年齢ではできない」とした課題も、尋ね方を変えれば達成可能であることをのちの心理学者たちは明らかにしています。
 このように、先天的な能力を改善したり、改善できずとも考え方を変えて課題をクリアすることは可能であり、そのためにも教育は必要なのです。

 「遺伝的に抽象的思考力が欠けている子ども」という考え方は、結局のところ、その子供が勉強できない原因を遺伝というどうしようもないように見えるものに転嫁できるために、解決方法を考えなくてもよくなって楽ちんだから流行るのでしょう。しかしながら、その子供が%を理解できないのが遺伝を原因としているのかは実のところ判然としませんし、仮にそうだったとしても%を教えなくてもいいということにはなりません。

リリーアルバ&マック赤坂当選で精神医療冬の時代がやってくる?

 最近、忙しさにかまけてブログの更新をさぼっていたらとんでもねぇニュースが。
 54人で34議席を争った東京都港区議選で、これまで独特の選挙活動を展開してきた無所属新顔のマック赤坂氏(70)が30番目の得票で初当選を果たした。
 マック赤坂氏は「スマイル党」を立ち上げ、2016年の東京都知事選や国政選挙など、過去に10回以上立候補。政見放送に奇抜な服装で臨むなどして、ネット上で話題を呼んできた。
 マック赤坂氏、港区議選に初当選 奇抜な政見放送で話題-朝日新聞
 あのマック赤坂氏が当選したと。そしてもう1人。
 皆様
 10081票という多大なる票を賜り、
 大田区議会議員に2位当選することができました。
 みなさま本当にありがとうございました。
 期間中に訴えてまいりました政策を
 しっかりと前に進めて参ります。
 一票一票に託された思いをしっかりと受け止め
 ご期待に応えられるよう、働いて参ります。
 おくもとゆり当選のご報告-おくもとゆり 都民ファーストの会
 あの奥本友里氏も当選していました。
 なぜ本ブログがこの2人を注視するのか、そしてなぜこの2人がやばい候補であり、そしてやばい議員になっていくであろうかを説明していきましょう。

 マック赤坂のスマイルセラピー
 かつて『都知事候補たちのトンデモ心理学』で論じたことがありますが、マック赤坂氏はかつて、スマイルセラピーなる、きわめて怪しげな精神療法を提唱、推進を画策していました。実際に、スマイル党のHPにあるマニフェストのページには以下のような記述が。
スクリーンショット (31)

 スマイルセラピーの推進だけではなく、抗うつ剤のような標準医療の否定までしています。仮に標準的な抗うつ剤の使用を禁止したならば、うつ病患者が治る希望は全く絶たれるでしょう。
 ちなみに、ここに挙げられているSSRIはうつ病その他の代表的な治療薬です。これを使えなくすると、ヘタすると自殺者が東京だけで3万人オーダーに行くんじゃないでしょうか。笑顔じゃどうにもならないから薬を使うんです。
 そして、銃乱射事件の犯人の80%がパキシル服用者であるというデータも、出所が不明です。仮にこれが正しいとしても、銃乱射の原因は薬物よりも精神状態と考える方が妥当でしょう(精神疾患患者の犯罪率は健常者と同等か、低い場合すらあることは申し添えておきますが)。
 精神科の診断方法も批判していますが、この人は本当に心理学を学んだことがないのだなということが露呈する発言です。一時の気の落ち込みをうつ病と診断するのは、余程のヤブでないと出来ない芸当です。診断は質問紙や構造化された面接などを通して行われ、はっきりと目に見える数値も出てきます。一切数字に現れないというのはデマです。

 無論、マックは泡沫候補であり、まともに取り合う必要がない人物ではありますが、時折「意外といいこと言っている」という論調で取り上げられることがあるので、念を押しておきました。
 都知事候補たちのトンデモ心理学-九段新報(太字は引用者)
 などと以前のブログでは書いていましたが、まさか当選するとは。

 奥本友里はスピリチュアルカウンセラーである
 さて、もう1人の奥本友里氏って誰やねんという人もいるのですが、リリーアルバという名前を出せば思い出してくれる読者もいるのではないでしょうか。
スクリーンショット (32)

 さて、リリーアルバ=奥本友里氏は一般財団法人日本スピリチュアルカウンセリング協会の代表を務めていたことがあります(今のなのかな?)。上にスクショも貼りましたが、ここに証拠のウェブ魚拓もしっかり残しておきますね。ここで行われているスピリチュアルカウンセリングというのは、『シードクリアリングって何だよ……』で論じたように、なんか手をごにょごにょ動かすだけでうつ病やパニック障害、果ては霊的防御も可能という意味不明なカウンセリングです。
スクリーンショット (33)

スクリーンショット (35)

 あぁ、ちなみにですが、リリーアルバ=奥本友里ではないという擁護もあるようなので、それはないという証拠も出しておきましょうか。奥本氏はかつて、リリーアルバ名義で活動しているときに美魔女として注目されたことがあるようで、その際の痕跡が残っています。ネットの情報はなかなか自分でコントロールできないですね。
 上のスクショはインスタグラムからのものであり、下は個人のブログからです。

 それと、なぜ私がしつこいくらいに証拠をはっきり示しながら論じるのかというと、『シードクリアリングを批判したら日本スピリチュアルカウンセリング協会に訴えられそうになっている』で書いたことがあるように、この日本スピリチュアルカウンセリング協会から「記事を消さなければ名誉毀損で訴える!」と脅されたことがあるからです。名誉毀損が成立するためには事実の公共性、目的の公益性、事実の真実性あるいはそれを信じる足る相当性の免責要件を満たしていないことを明らかにせねばなりません。区議会議員である奥本氏がかつて行っていた事業に関する論評が前者2つを満たすのは自明ですから、あとは事実が真実であることをしっかり示せばいいわけです。

 幸いなことは、奥本氏が議員活動において、スピリチュアルカウンセリングを推進し標準医療を排するような主張を、少なくとも表だっては行っていないということでしょう。
安心安全な街づくり
 子供、女性、お年寄りが安心して暮らせるように、空き巣や性犯罪を抑止するため
 防犯カメラの設置を推進し、設置費用を助成します。
 見通しの悪い公園にドッグランを整備したり、落書きを消すなど
 清掃を徹底し、犯罪機会を抑止する街づくりを目指します。

いじめ対策強化、小中学校の防犯カメラの増設
 従来の防犯カメラからネット回線による監視にし、コストダウンを図り、公立小中学校に増設します。
 LINEやSNSでの、いじめや虐待の相談窓口を増やします。
 学校に行かなくても学習ができるようにICT教育、個別指導や少人数指導を取り入れます。
 私の政治理念、政策集-おくもとゆり 都民ファーストの会
 もっとも、ここに挙げられた「防犯カメラの設置」に関しては、それをやっても効果ないですよと専門家として一言言わせてほしいのですが。
 あとなんで公園の防犯対策がドッグランなんだ。

 今後の動向に注意
 マック赤坂氏にしても奥本友里氏にしても、今後の動向に注意を払うべきでしょう。もっとも、東京の区議会議員の動向を遠く離れた土地から監視するのも無理があるので……読者に港区や大田区の人がいればぜひ、お願いします。

 もちろん、民主主義社会における市民に求められる政治参加は、投票だけではありません。議員の動向を監視し、評価すること、変な政策を通そうとしていたら止めることなども期待されているはずです。
 私も、住んでいる町の議会の動向くらいは知っておかないとなぁ……。

「性差(有意差)がある」というのは何を意味し、何を意味しないのか

 夫婦間のコミュニケーションのすれ違いを「脳の性差」で説明する『妻のトリセツ』(講談社+α新書)がベストセラーになっている。「脳科学本」はこれまでもたびたび話題を呼んでいるが、科学的根拠はどうなのか、何が人々を引きつけるのか。
 『トリセツ』の編著者は人工知能研究者の黒川伊保子氏で、累計部数は約35万部に達した。本では「女性脳は、半径3メートル以内を舐(な)めつくすように“感じ”て」「女性脳は、右脳と左脳をつなぐ神経線維の束である脳梁(のうりょう)が男性と比べて約20%太い」など、男性と女性の脳の機能差を示すような具体的なデータを出す。そして「いきなりキレる」「突然10年前のことを蒸し返す」など夫が理解できない妻の行動の原因を脳の性差と結びつけ「夫はこういう対処をすべし」と指南して支持を集める。
 一見科学的に見える主張だが、科学者はどう読んだのか。
 脳科学や心理学が専門の四本(よつもと)裕子・東京大准教授は、「データの科学的根拠が極めて薄いうえ、最新の研究成果を反映していない」と話す。たとえば「脳梁」で取り上げられたデータは、14人の調査に基づいた40年近く前の論文で、かつ多くの研究からすでに否定されているという。本に登場するそのほかのデータも「聞いたことがない」。
 男女の脳の機能差はあるという研究は複数あり、四本さん自身もそれを否定しない立場だが、「集団を比較した平均値の差をもって、男性の脳はこう、女性の脳はこうと一般化することはできない。また、脳は個体差が大きく、さらに環境や教育など様々な要因から影響を受けて変わる。ひとつの因果関係だけでは説明できない」と話す。
 また、四本さんは、『トリセツ』で女性の「理不尽な不機嫌」を「生まれつき女性脳に備わっている」母性本能に求めたり、「男性脳に、女性脳が求めるレベルの家事を要求すると、女性脳の約3倍のストレスがかかる」として、男性でもできそうな家事として「米を切らさない」「肉を焼く」などごく簡単な仕事だけをリストアップしたりする記述は、「ニューロセクシズム的」とも指摘する。
 ニューロセクシズムとは2000年代に現れた言葉で、男女の行動や思考の違いのほとんどが、脳の性差によるかのように説明すること。四本さんによると「男女の行動の差は生得的な脳のせいで、解消できない」という考えを招く恐れがあるして、近年学術界で問題視されているという。
 記者が黒川氏に主張の根拠を尋ねると、「『脳梁の20%』は、校正ミスで数値は入れない予定だった」とし、そのほかは「『なるほど、そう見えるのか』と思うのみで、特に述べることがありません」と回答があった。
 「脳の性差」語る本が人気 その科学的な根拠は?-朝日新聞
 この記事です。記事中で取り上げられている『妻のトリセツ』はベストセラーですが、脳科学についての記述がいい加減で、著者も独自研究と開き直るというものでした。
 科学的エビデンスを重視するという態度の元、自身の差別的な主張を正当化する態度は脳科学に限らず多くの科学においてみられます。
 I.D.Wは明確な定義も外縁も存在しない曖昧なネットワークだ。とはいえ、彼らには一定の共通項もある。一つ目は、様々な理由から自身がメインストリームのメディアやアカデミズムから排除されているという認識を持っていること。二つ目は、科学的エビデンスの重視。
 これら二つの共通項は密接に絡み合っている。彼らはこう主張する。科学的エビデンスに基づく「不都合な現実」を提示したり啓蒙したりすることは、現代のポリティカル・コレクトネスに支配されたリベラル社会では不可能になっている。それでもあえてそうしたことを行おうとする者(つまり自分たち)は、不可避的にメインストリームから外れた場所で活動せざるをえないのだ、と。
 I.D.Wの唱える「不都合な現実」、それはたとえば、ジェンダーや人種の根底にある生物学的あるいは遺伝学的差異である。
 彼らによれば、科学データに基づいてジェンダーや人種の差異について論じることは、現在の主流アカデミズムでは半ばタブーになっている。それというのも、1960年代以降のアカデミズムにおいては、それらの差異は社会的に構築されたものであるとするドグマ(教義)が強くあるからだという。
 そこにおいては、社会制度や家父長制度、文化ジェンダー規範、あるいは差別などといった、ジェンダーや人種の差異を人為的に作り出してきたとされる社会的因子にフォーカスが当てられる。こうした社会構築主義は、主に左派陣営のアイデンティティ・ポリティクスやポストモダン理論を通して盛んに喧伝されてきた。
 だが、I.D.Wはこうした考え方を退ける。ジェンダーや人種の間に横たわる乗り越えがたい生物学的差異は厳然と存在しており、それは諸々の科学的/統計学的エビデンスによっても証明されている。それなのに、お行儀の良いリベラル左派たちは、その「現実」を見ようとしない。「不都合な現実」から目をそらし、あまつさえそうした「現実」を提示しようとする科学者や知識人の「言論の自由」まで抑圧しようとするのだ、云々。
 欧米を揺るがす「インテレクチュアル・ダークウェブ」のヤバい存在感-現代ビジネス
 ここで指摘されているインテレクチュアル・ダークウェブの、日本の代表的論客は『言ってはいけない 残酷すぎる真実』の著者橘玲氏でしょう。最近続編を出版したところからも、このような主張が大衆に受け入れられやすい下地を持っていることがうかがえます。
 しかしI.D.Wが主張するような「科学的事実」の大半は、実は全く「科学的」ではありません。大半は限定的な知見を過度に一般化する詭弁で成り立っています。『妻のトリセツ』の具体的な主張は多くの場所で批判されているので、この記事ではより一般的に、「性差があること」が何を意味し、何を意味しないかを論じていきます。

 あらかじめまとめれば、「差があることは」
 ①その差が重要であることを意味せず
 ②その差が生来的であることを意味せず
 ③目の前のその人が傾向に適合することを意味せず
 ④その差に基づいていいことを意味しない
 ということになります。

 ①その差が重要であることを意味しない
 話の前提として、「差がある」ということを「統計的な有意差がある」ことだとします。これは「その差が偶然の誤差ではなさそう」であることを意味します。言い換えれば、その差には偶然以上に何かの理由があるということです。

 この前提の上では、まず第一に、その差が重要であるとは限りません。
 これはどういうことでしょうか。例えば男女それぞれ100名ずつで100点満点の数学のテストをしたとしましょう。この結果で男子が平均80点、女子が平均50点だったとします。この結果を見れば、男子のほうが数学が得意だという傾向はかなり重要な意味を持っているとまず言えるでしょう。
 ではこの得点が、男子80点に対し女子79点だったらどうでしょう。この点差は統計的に有意だとします。その点では80点と50点の差と同じです。だから「男子のほうが女子より数学が得意な傾向がある」というのは正しい解釈です。しかし1点差であるのも事実です。ちょっと答えを書き間違えたくらいで逆転できそうな「差」に、重要な意味があると言えるでしょうか。

 「科学的な性差」を強調する人々は、このように「有意差がある」ことをそのまま「社会的に重要な差がある」ことであるかのように論じます。しかし実際には、有意差があることは重要な差があることを必ずしも意味しません。本当に重要な差があるかどうかは、個々でまた検討する必要があります。

 ②その差が生来的であることを意味しない
 とりわけ脳について顕著ですが、性別の差があることの理由を「そういう風に進化してきたから」というような、生来的な原因でそういう差が現れたのだという説明をしがちです。女性が共感的であるということの説明に「女性は子育てをしてきたから~」ということを言うのが典型でしょう。
 しかしもちろん、そうとは限りません。単に脳に差があることは、その差が生物の性質としてあることを意味しません。脳に関しては後天的な要因、例えば虐待被害などで変化することがよく知られています。
 脳の差の原因を知るためには、そのために整えた手続きの研究を行う必要があります。少なくとも、単に差があることを示すだけでは、その差の原因を説明することはできません。

 ③目の前のその人が傾向に適合することを意味しない
 では仮に、その差が重大な意味を持つほどであることも確かであるとしましょう。しかしそうだとしても、そのことが意味することは人々が思っているほど広くありません。

 まず大事なのは、性差があって何らかの傾向があるということは、目の前の誰かがその傾向の通りの人間であることを意味しないということです。
 例えば女性のほうが男性より体力が劣ることははっきりとした性差ですが、目の前の女性が自分よりも体力がないかどうかはそれだけではわかりません。私のように女性の平均といい勝負という男性もいるでしょうし、吉田沙保里に対して「女性のほうが体力ないから~」という人はいないでしょう。
 その人が実際どうなのかということは、個々で確かめてみなければいけません。

 ④その差に基づいていいことを意味しない
 ③にも関係するのですが、科学的に何らかの差があることは、その差に基づいて差別的な取り扱いをしていいことをもちろん意味しません。それには人権という概念をさておいても2つの背景があります。

 1つは、③で述べたように、個々人が必ずしも「科学的に明らかになった傾向」に沿うわけではないからです。男性のほうが体力に優れるからといって、例えば土木関係の就職試験の際に男性を優遇するということはしてはいけません。体力に優れる人材を採用したいならば、男女の傾向を云々するのではなく、そのための試験を課すべきでしょう。

 むろん、科学的に明らかになった傾向を利用しても構わない場面はありますが、極めて限られているでしょう。例えば洪水のとき屋根に取り残された人を救わなければならないが一度に救える人数が限られているという場合、いちいち体力テストを課す余裕なんて当然ないので、全体的な傾向から体力が低いことが分かっている女性を優先して救助するようなことは認められるわけです。もちろん、はっきりとわかる事情は勘案すべきでしょうが。

 もう1つは、「科学的に明らかになった傾向」を単なる傾向ではなく「全くの宿命」であるかのように論じているという点です。例えば前述の橘氏は、学力が遺伝的に決定されることをもって、遺伝的に学力が高くない人物が勉強することが無駄であるかのように論じています。しかし、よしんば学力が遺伝的に完全に決定されたとしても、勉強が無駄であるという結論にはなりません。勉強すれば当然、身につく速度や効率に差異があるとしても、勉強しただけの知識が身につくわけですから当然です。
 しかし「科学的」な人々は、単なる傾向をそれ以上のものであるかのように論じます。そして、その過大な一般化に基づくことが「科学的」であるかのように論じるのです。

 ここまでの議論を見てもらえばわかるように、「科学的な知見に基づく」と主張する人々の主張の中身は、実際には全然科学的ではないのです。本当に科学に精通しているのであれば、このようなおおざっぱな主張はしません。

「ビンゴ5必勝法」番組に日本マスメディアの知的退廃を見た

 昨日、偶然ですが『10万円でできるかな』という番組を見ました。その日は「1000円ガチャで高額商品が当選するか」というどこぞのYouTuberみたいな企画のほかに、「宝くじ高額当選SP」なる企画を放送していました。
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 番組では「ビンゴ5」という最近登場した宝くじを扱っていました。これは上掲図のようなマークシートで1マスごとに数字を1つ選び、抽選された数字でビンゴを作るというものです。「高額当選SP」を謳うだけあって、番組ではある「必勝法」を武器として紹介していたのですが、それも含め番組の構成はあまりにもひどいものでした。

 番組はまず、宝くじの専門家なる人物を紹介。Kis-My-Ft2のメンバーに必勝法を授けるのですが、その方法というのがまず必勝法としての妥当性が皆無なものでした(詳しくは後程)。
 そしていざ宝くじを購入するのですが、その枚数なんと3500枚。1枚200円なので計70万円。ただの投資です。それだけ買ったら何か当たるほうが自然でしょう。

 「数字あってた人いますか?ほとんどじゃないですか!」という茶番
 宝くじの番号抽選の段になると、いよいよひどさか加速します。さすがにアイドル数名で3500枚の宝くじをさばくことは不可能なので、一般の参加者350名に10枚ずつくじを持ってもらって番号を見ていくことにします。

 いざ抽選。過去の抽選結果によれば、番組が収録されたのはおそらく1月9日の第91回抽選の頃でしょう。まず中段右側の番号が24番と発表されます。この時点で、MCのサンドウィッチマン伊達が参加者に「番号ありましたか?」などと呼びかけ、大半の人が手を挙げたことで「必勝法すごい!」みたいな流れへ盛り上がります。

 いや、馬鹿じゃないのか?
 落ち着いて考えればすぐにわかるはずですが、宝くじは1人10枚持っています。1マスの数字は5つで、ここから1つ選ぶルールです。では1人が持っている宝くじ10枚の中に24が選ばれたくじが1枚もない確率はいくつでしょうか。

 そもそも、5つの数字から1つ選ぶことを10回繰り返すときの数字の選び方は5の10乗で976万5625通りあります。一方、24が1回も登場しない選び方は、要するに24を除く4つの数字から1つ選ぶことを10回繰り返すときのパターンなので4の10乗で104万8576通りあります。つまり全ての可能性のうち24が1度も登場しない確率は10%程度しかありません。計算が間違っていなければですが。350人いたら35人いるかどうかでしょう。
 ただし、この確率はくじを購入する際に数字が選ばれる確率が同様に確からしいことを前提にしています。人間、何かを選択するときにはできるだけ均等に選びがちな傾向があるので、24が選ばれないくじの登場確率は理論上の確率よりもさらに低いと予想されます。また、そうしたくじを1人で2枚3枚抱える人も出てくるかもしれないので、実際の人数も35人より少なくなるかもしれません。

 ここまで計算せずとも、素朴に考えれば「5つから1つ選ぶ試行を10回繰り返せば、たいていの場合それぞれの数字が1回は登場するだろう」とすぐにわかるはずです。番組はあくまで演出として行っているだけでしょうが、しかし茶番にもほどがあります。

 「5足す理論」のくだらなさ
 さて、番組で紹介されていた必勝法の紹介をしましょう。そもそもすべての数字の登場確率が同様に確からしい限りにおいて、どのような数字の選び方をしても当選確率は必ず等しいので必勝法とか無駄なのですが、それはさておきます。

 その必勝法とは、「5足す理論」です。それは数字を選ぶとき、あるマスの数字を選んだらその1つ横の数字は、そのマスで選んだ数字に5を足したものにするというものです。これをくじの中に1つか2つ入れるといいと主張されています。
 番組によれば、過去の抽選全100回のうち79回で登場している理論だそうです。これだけ聞くとなんだか確率が高いように聞こえますが、ちょっと待ってください。
 人間には確率推定がへたくそだという特性があります。これも感覚で判断すると必勝法に見えますが、きちんと計算すると違います。

 「5足す理論」をわかりやすく言い換えると、「あるマスの数字を選んだとき、隣のマスの数字が特定のものになる」ということです。1つのマスには5つの数字があるので、こうなる確率は単純に5分の1=20%です。
 この時点で結構高い確率ですが、この理論は最後の1マスを除く7つのマス全てで登場する余地があります。
 あるマスにおいてこの理論が登場しない確率は80%です。理論が登場しうるマスは7つあるので、0.8の7乗≒0.21で、要するに1回の抽選で「5足す理論」が登場しない確率は21%程度ということになります。100回の抽選の結果と近い数字になっていることがわかります。

 しかもこの理屈は「5足す理論」だけでなく、例えば「6足す理論」でも「7足す理論」でも、「点対象を塗る」理論でも、とにかく「あるマスで選んだ数字によって次のマスの数字を決定する」理論ならすべてに当てはまります。必勝法が「5足す理論」を推奨するのは、単にそれが全ての数字に当てはまり一番単純だからでしょう。「6足す理論」などでは「一番大きな数字を選んだときには、6足して5引くべし」といった但し書きをつけなければ成立しません。

 41理論も同様
 私は途中で見るのをやめていましたが、その後「41理論」というものも登場したようです。これは縦・横・斜めで数字の合計が41になるように選ぶというものです。番組によれば100回中57回登場しているようです。
 5足す理論を超える必勝法とか煽ってたはずなんですがね。

 これも、先ほど5足す理論同様に計算して理論上の登場確率を求めてみましょう。ラインは縦と横に3つ、斜めが2つの計8ラインですが、まず最初から空いているFREEが絡む縦横の1つと斜めの2つを見ていきます。これは5足す理論と同様、1つが決まった時点でもう1つのマスの数字が決まるという方法なので登場確率は5分の1です。

 FREEが絡まない縦と横の2ラインは実は、どう数字を選んでも41になりえないので割愛できます。つまり1回の抽選で41理論が登場しない確率は0.8の4乗≒41%。登場確率は大体60%ということで、これも観測値に近い結果となっています。

 っていうかこれ5足す理論の劣化版では。

 必勝の定義
 さて、ではなぜこのようなくだらない必勝法とやらが、地上波のゴールデンタイムにもてはやされることになってしまったのでしょうか。それはおそらく、人間が確率推定を苦手としているだけではありません。

 その一因には、「必勝」の定義が実に恣意的であることが挙げられます。
 必勝というのは、字義通りにとれば「必ず勝つ」ことで、宝くじであれば1枚でも高額当選できるような方法のことを「必勝法」というべきでしょう。しかし必勝法を妄信する人であっても、そこまでもものがあるとはさすがに信じていません。あくまで「勝ちやすい理論」を求めています。そこに「必勝法」の専門家が入り込む余地があります。

 というのも、必勝と違って「勝ちやすい」という表現に明確な基準がありません。どこまで勝てば「勝ちやすい理論」なのかは、きわめて恣意的に決定されます。番組では当選金額の合計が40万前後で元すら取れていない惨めな有様でしたが、これでも「必勝法を使わなかったらもっと当選金額が低かった」と強弁し、必勝法の優位性を主張することは不可能ではありません。

 そう、ほとんどカルトの手法です。不幸を予言しておいて、結果に応じてそれっぽいことを言うだけの仕事です。

 私は、テレビ番組が必ずしも有益であるべきとは思いません。息が詰まるでしょうし。
 しかし基本的な確率推定をないがしろにするような反知性的で低俗な番組を大盛り上がりで放送するのはさすがにいかがでしょうか。これならまだ「ハンドパワーで宝くじ当てる!」とかのほうが振り切っている分無害です。

「ふるさと納税で100億円キャッシュバック」は典型的な社会的ジレンマ状況だ

 ふるさと納税の返礼品をめぐり、大阪府泉佐野市は5日、返礼品に加えてアマゾンのギフト券100億円分をプレゼントするキャンペーンを始めたと発表した。現行法上問題ないとしているが、総務省はギフト券による還元を問題視しており、真っ向から反旗を翻した格好だ。
 同省は、返礼品の調達費は寄付額の30%以下などとする基準を設け、守らない自治体は6月以降、制度の対象外とする法改正を目指している。泉佐野市は規制強化に反対しており、法改正されればこれまでのような取り組みはできなくなるとして今回のキャンペーンを決めたという。
 期限は来月末だが、ギフト券発行が100億円分に達すれば終了するとしている。泉佐野市の担当者は、法改正されれば基準は順守すると説明。ギフト券については「返礼品ではなく、あくまでキャンペーンのプレゼント」と強調した。
 平成29年度に寄付受け入れ額が全国トップの135億円となった同市は、これまで総務省の規制強化に「地方自治の精神にそぐわない」などと反発。一方、ギフト券は、静岡県小山町が昨年末まで返礼品として贈り、多額の寄付を獲得したことで、石田真敏総務相が先月「良識ある行動とは思えない」と不快感を示したばかりだった。
 ふるさと納税、Amazonギフト券で「100億円還元」 泉佐野市、総務省に反旗-ITmedia
 この件です。昨日ニュースで見たんですが、泉佐野市の認識があんまりにも酷すぎて記事にすることにしました。 

 そもそもふるさと納税とは
 そもそもふるさと納税とはなんでしょうか。
 ふるさと納税(ふるさとのうぜい)とは、日本に於ける寄附金税制の一つ。”納税”という名称だが制度上の実態は「寄付」であり、現に居住する地方自治体への納税に代えて、任意の自治体に寄付を通じて”納税”するというものである。「ふるさと寄附金」とも呼称される。
 ふるさと納税-Wikipedia
 ウキペディアの解説はこんな感じです。ざっくりとイメージすると、本来自身の自治体へ納める税金の代わりにほかの自治体へ納税して、返礼品を受け取れてお得というシステムでしょう。
 そもそもこのシステムには様々な批判が付きまとっています。例えば、ふるさと納税分の金額だけ住民税が控除されれば、居住地の公共サービスをふるさと納税非利用者よりも低額で受けられることとなり、公平性が損なわれます。また多額の寄付をできる金持ちは税金の控除と返礼品を受け取ることができ、金持ちほど得をする合法的な脱税であるとも言えます。
 一方で、このシステムをうまく利用して活性化した自治体があるのも事実です。

 返礼率と社会的ジレンマ
 泉佐野市のいう「Amazoギフト券は返礼品ではなくプレゼント」というのがただの詭弁であることは火を見るよりも明らかで、自治体としての見識を疑います。しかしここで問題したいのは、そこではなく泉佐野市の「地方自治の精神にそぐわない」という主張のほうです。
 なるほど、確かに上からルールを押し付けられる格好になれば、地方自治とは程遠いでしょう。
 ですが、この事例に関しては押しつけと言われようがトップダウン的にルールを決定しなければならないと思います。なぜなら、この事例は典型的な社会的ジレンマ状況だからです。

 社会的ジレンマとは、社会心理学の用語で「個人が最も合理的な行動をとったら集団として不利益を被る」という状況を指します。典型例はゲーム理論です。あるいは有名な例には共有地の悲劇というものがあり、これは牧草の生えた共有地にできる限り多くの羊を放牧するのが個人の利益にかなう一方で、羊の数が際限なく増えれば共有地がはげ山となり利用不能となり、集団としては不利益を被るという状況を説明しています。

 ふるさと納税の仕組みも、典型例な社会的ジレンマ状況です。ふるさと納税を募集する自治体としては、極端な話返還率が9割でも得をします。本来自分のところに入らなかったお金が入ってくるわけですから、返還率にかかわらず得をすることになります。
 しかしふるさと納税をした人が住んでいるほかの自治体は、本来入ってくるはずだった税収が控除されてしまうので損をします。なのでほかの自治体も高い返還率でなんとかふるさと納税を集めようとします。これが「個人として最も合理的な行動をとる」部分です。
 ですが、日本の地方自治体という集団で見ると、この状況は損をする一方ということになります。ふるさと納税がなければ100%入ったはずの税金が、返礼品によってどんどん目減りしていくわけですから。しかもそれぞれの自治体が損をしまいと返礼品を豪華にしていくために、この損失は際限なく膨らんでいきます。

 このような状況を解決するためには、不満があってもトップダウン式にルールを定めるしかありません。もちろん、泉佐野市のような無謀な行動で集団の利益を損なうアクターは反発するのですが、このようなアクターの意見を聞いてルールの導入を躊躇えば、損失は広がる一方です。

 っていうかそもそも、こんな事態はあまりにも簡単に予想できたわけで、加えて返還率がいくら少なくてもやはり損失は損失なわけで、ふるさと納税なんかやらなきゃよかったのにと思いますが。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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