【拡散希望】本日、日本大学哲学会『精神科学』に投稿していた私の論文「「マイナス内包」としての性自認の構成 (Gender as Irifuji’s Minus-Intensions)」に、不採用の通知が届きました。来年出る『精神科学』に掲載されるよう今年春に書いたもので、トランスジェンダーを巡っても注目を集めている pic.twitter.com/EaJD44DVxv
— 谷口一平 A.k.a.hani-an (@Taroupho) December 25, 2023
これの件ですね。
査読が出鱈目かは全く分からない
前提として、この論文著者の主張の要点であるところの「査読の水準が低かった」と「その査読がジェンダー論研究者によるものだ」はいずれも、話半分に理解すべきことだと思います。まず前者について、本当に査読の内容が低質であったかどうかは、論文本体がなければ判断しようがありません。ですが、著者は論文どころかアブストラクトすら公開していません。著者は、例えば『本論文は、そもそも普遍妥当的に「現実の人々がもつ性自認」を検討している、と一切主張していません』などと主張しますが、その真偽は不明です。現状、著者自身はそのつもりでも、原稿を読む限りそうとしか解釈しようがなかったという可能性も十分あり得ます。
後者については、もはや著者による一方的な憶測の域を出ません。『本論文の中心主題である哲学的議論については一切触れられて』ないからと言って、専門分野が哲学ではないとか、ジェンダー論であるという証拠にはならないでしょう。もちろん、『哲学部分へのほんのちょっとしたコメントでさえ誤りだらけ』という評価についても、論文本体が明らかでない以上、鵜呑みにするわけにはいきません。
なお、雑誌が紀要であるとはいえ、査読の体をとっている以上、その査読は匿名で行われていると考えてまず間違いないでしょう。つまり、著者は査読者の名前を知る由もありません。
加えて、査読において、その論文の分野にかかわりがあるがピンポイントに専門分野ではない研究者が査読を担当することはよくあること、というかほぼ常にそうです。分野がニッチになればなるほどその傾向は強くなるでしょうし、大学紀要のように査読の任を負う人員に極めて限りがある場合はなおさらです。ですから、性自認に関する論文が、哲学ではないジェンダー論を専門とする査読者の手に渡ることは特に不自然ではない印象です。
ですから、著者は『畑違いの「ジェンダー論」の専門家なんて、オマケで一人ぐらいなら許せもしますが、そこら辺の通行人に査読を依頼しているのと何ら変わりません。ふざけるな!』などと書いていますが、これはお門違いのいちゃもんにすぎないといえます。
SNSで叫んでも意味はない
今回の行為の問題点は、こうした振る舞いが一般的な査読プロセスにおける異議申し立てから逸脱しており、かつさほど意味もなさないと思われる点にもあります。確かに査読者はピンキリであり、中には不当としか思われない内容の査読も存在します。ですが、そうした事態に備え、大抵の雑誌は編集者に異議申し立てができるようになっていますし、そうすることで査読をやり直してもらうこともできます。この辺はSNSですでに指摘されているので屋上屋ですが。
加えて、今回のケースでは、そもそもSNSで公開することに意味があったのかも疑問です。今回の件は明らかに個別的な事例であり、社会全体にかかわることではないため、まずは雑誌の内部でやりあって解決すべきものでしょう。それがうまくいかなかった、あるいはうまくいきそうにない場合は手段の1つとしてあり得ますが、雑誌内部のプロセスが機能しているかも不明な状況でSNSにぶち上げても、ただ騒ぎになるだけでしょう。
特に、この論文にかかわった査読者や編集者が、SNSにアカウントを持っているかも不明です。もし持っていないなら、一応バズったといえるツイートではありますが、肝心の当人がSNSでの騒ぎを一切知らずという滑稽な事態にもなり得ます。
著者の研究者としてのイメージからすれば、紀要雑誌に論文がリジェクトされたことよりもむしろ、標準的な手続きを全うしたとは思われないかたちで本来公開されることが前提となっていない査読コメントを(しかも自分の原稿は秘しておくというアンフェアなかたちで)公開したり、査読者がジェンダー論研究者であるという真偽不明の情報を「犬笛」的に使うことでアンチフェミニズム的な側面からの用語を期待するような振る舞いをする方がよほど悪いでしょう。研究者コミュニティは間違いや失敗を許容するように動機づけられていますが、無神経さや粗雑さはそうではないからです。
査読者に正しく読まれないなら、だいたい著者の責任
ここからは査読論文一般に関する持論で、かつ心理学に関するものですが、私は、論文が査読者に正しい真意で読まれないなら、それはおおむね著者側に問題があると考えています。大前提として、その論文を最も熱心に読むのは査読者です。残念ながら、大半の読者はほとんどの論文をあっさり読むのであって、一言一句正確に拾おうとはしません。そうするにはあまりにも論文が多いからです。
もちろん、そのような読み方で誤読するなら、その責は読者にあるでしょう。しかしながら、「ここに書いてあるのに誤読しやがって」と文句を言うためには、少なくとも、最も熱心な読者である査読者が正しく読める程度には正確で分かりやすい記述を心がける必要があります。文章は基本的に、典型的な読者を想定して書かれるべきであり、その中で特に熱心な読者ですら著者の真意を読み違えるなら、より簡単にしか読まない読者には到底真意が伝わりません。そのような文章をよい論文とは言わないでしょう。
確かに、査読の中には「ここに書いてあるじゃん!」というコメントがあります。というより、そういうコメントが大半かもしれません。ですが、書いてあるのに査読でコメントされるということは、既に書いているはずの内容が正しく伝わっていないという意味なのであり、そこが論文を改善する好機であるともいえるのです。
査読は敬意をもって
もう1つ、一般的な原則として、査読はする側もされる側も敬意をもって行うべきであり、例えば一方的に非公開が前提であるコメントをSNS上に流布するとか、そのSNSで望む視点からの査読が行われなかっただけで『ふざけるな!』などと書くといった行為は避けるべきです。また、査読をされる側は、する側がボランティアでありなんら自身の業績にもならないところを時間を割いて査読していることも念頭に置かなければなりません。もちろん、査読コメントが詳しいほうがありがたいのですが、そうではなかったとしても、査読者を一方的に誹謗していい理由にはなりません。
もちろん、査読者に敬意を払うべきというのは、査読者に服従すべきという意味ではありません。納得のいかないコメントがあれば、丁寧にその旨を記して反論することもできますし、まっとうな査読者なら反論したこと自体をあげつらったりはしません。『「~という理解が一般的だと考えられます」とか、無根拠な個人の感想』だと思うなら、一般的な理解ではないことを自ら示せばよいのだし、そうする必要があります。
今回の騒動で懸念しているのは、すでに私に絡んできたアカウントもありましたが、著者が明らかに、「ジェンダー論的なポリコレによって学問的営みが抑圧されている」というアンチフェミニズム的妄想を煽るような振る舞いをしており(著者自身にそういう思想があるとまでは言わないでおきます)、それをSNS上で盛んに活動するミソジニストが利用するかたちで人文学や社会科学への攻撃を強めることです。著者は哲学界隈の現状を嘆くようなことを書いていますが、客観的にはむしろ、著者の振る舞いが、哲学分野にSNS上のアンチフェミニズムやミソジニーという外患を招き入れる機能を有してしまっています。