九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

書評

欲しいものリストを公開しています。
https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/1CJYO87ZW0UPM?&sort=default
詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

【書評】痴漢外来―性犯罪と闘う科学

 今回は最近出版された、性犯罪治療について広範に論じた一冊です。著者も性犯罪者治療にかかわってきた第一人者です。
 なお同著者のものには『入門 犯罪心理学』もあり、こちらもブログで取り上げています。

 治療って何するの?
 性犯罪者治療といっても、何をするのかはっきりとイメージしづらいものであると思います。かつて『加害者を描く意味とバランス #ETV特集 『性犯罪をやめたい』感想』で触れたように、NHKが治療について報じていましたが、今となってはこの番組を見ることはかないませんし。

 治療の基本方針は、ストレスに対する対処方法をたくさん作り、痴漢へ引きずられることを防止するというものです。典型的な方法は、満員電車で痴漢を繰り返していた者が電車に乗らないようにするというものです。

 ここで大事なのは、後述するように痴漢のような性犯罪が「依存症である」という認識のもと、意志の力には絶対に頼らないことです。意志の力でどうにかなっているならそもそも性犯罪なんか起こさないわけで、頼れないものは最初からあてにしないことで加害を防ぐ必要があります。例えば盗撮で捕まった人が最初に治療へ来たときには、必ずスマートフォンのカメラのレンズを破壊するということをするようです。

 治療は多くの依存症治療がそうであるように、グループで行われます。グループ間の交流や意見交換によって、自身の凝り固まったものの見方を自覚し、適切な対処方法を自分で考える力をつけるようにします。

 性犯罪が依存症であるということ
 さて、先ほど性犯罪が依存症であると書きました。
 依存症には、大きく分けて2つの種類があります。アルコール依存や薬物依存のような物質依存症と、ギャンブル依存やゲーム依存のような行動的依存症です。性犯罪は後者に当たります。

 依存症の特徴は、望んでいるはずの行為を行っているにもかかわらず、行為によって得る快感より罪悪感のほうが次第に大きくなっていくということです。本書でも、当初は性的快楽のために痴漢を行っていたものが、次第にスリルを求めるようになり、それがさらに発展するとやめたいと思っているのにやめられない状態に陥っていくケースが書かれています。

 このように性犯罪を病として扱うことに、一定の反発もあります。最たるものは、犯罪を病気化することで責任や刑が軽くなるのではないかというものです。
 著者が本書で一蹴するのとは裏腹に、この懸念は決して的外れなものではありません。『【記事評】『DAYS JAPAN』広河隆一さんの性暴力問題を考える(月刊創2019年5・6月号)』で論じたように、加害者にも理由があるという言説は、特に被害者が軽んじられやすい性犯罪のような犯罪において、加害者側の責任を免責する口実として機能しかねません。「加害者にも理由があったんでしょう」から「だから被害者は騒ぐな」までの距離はさほど遠くありません。

 もちろん、法的には依存症だからと言って減刑されるわけはまずないでしょう。依存症で痴漢をするというのは「アルコール依存症で酒を飲んで人を殴った」みたいなもので、そういうレベルの影響が心神耗弱と判断されることは稀です。

 ただ、被害者の立場が軽視されている現状で、配慮なく加害者の背景を論じれば被害者軽視に直結しかねないと気を付ける必要があります。社会は実のところ、性犯罪を犯した男性を免責する口実を常に探しているのです。

 本書が優れているのは、加害者臨床を中心に論じつつ、最後に被害者の置かれた実情についても紹介しているところです。データも多く出典もはっきりしており、研究の足掛かりにもなるレベルの高い書籍といえましょう。

 原田隆之 (2019). 痴漢外来―性犯罪と闘う科学 筑摩書房


【書評】女性のいない民主主義

 今回は犯罪学とは直に関係のない書籍ですが、フェミニズム関連として重要な話題を扱っているので取り上げましょう。
 本書は政治学の標準的な学説を取り上げつつ、それがいかに男性中心的な価値観で作られてきたか、女性の政治参加という視点が欠けていたかを指摘しています。政治学の基本を学びつつその学説を批判的に検討することもできるという贅沢な1冊ともいえましょう。

 マンタラプションとブロプロプリエイション
 本書の序盤では、女性の意見がなぜ政治の世界で広まりにくいのか、浸透しにくいのか、その原因を指摘しています。そのなかで女性に対して男性が説明したがる「マンスプレイニング」はよく知られているでしょう。

 もう2つ、あまり知られていない概念も紹介されています。
 1つはマンタラプションです。これは女性の話を遮って男性が話し始める現象のことです。例えば、あの「鉄の女」マーガレット・サッチャーですら、インタビューの際に発言を遮られることが男性政治家よりも多かったそうです。

 もう1つのブロプロプリエイションという舌を噛みそうなものは、女性の発言が男性の発言として横取りされてしまう現象をさしています。例えばジョン・スチュワート・ミルは『自由論』をはじめとする多くの著作を残しましたが、これは妻のハリエット・テイラーとの共著であることが明らかになっています。しかし、そのことはあまり知られていません。

 つまり、マンスプレイニングで男がでしゃばらず、マンタラプションで遮られず、ブロプロプリエイションで横取りされなければようやく女性が発言できるという状況にあるというわけです。

 このような、男性が女性の発言を妨害するような状況は、常に生じるわけではありません。このような状況は男性が集団において圧倒的多数を占めている場合に生じやすく、逆に30%でも女性が集団に存在すれば発言が通りやすくなるという性質があります。
 ですから、政府もとりあえずの目標として女性の割合30%を目標に掲げているわけですが、まぁ、まったく達成できる見込みはありません。

 男性中心は何を意味するか
 本書は様々な側面での「男性中心」の弊害を論じていますが、特に注目すべきなのは、福祉国家を中心に政策がどのように論じられていくかを明らかにした後半部です。
 福祉国家というと、その福祉は全国民のためになされるものであると漠然と考えられるかもしれません。しかし、実際には労働者たる男性を中心に、女性が家庭でのケアを負うことを前提としている、男性のための福祉国家となっています。

 そもそも、官僚と政治家の大半を男性が占める政界において、何をもって重要な政策とするか、何を優先して決めていくべきかというフレーミングは、当然男性が中心となって決定します。平たく言うと、男性が重要だと思わない問題は政策上の議論に上ることすら難しいのです。

 それは、性犯罪に関連する刑法が長年改正されず放置されていたことや、選択的夫婦別姓がいまだに制度化されないことからも明らかでしょう。

 類似のことはかつて『差別の存在を論じるときに「強固な」証拠を求めることはそれ自体が差別的な発想である』で述べました。女性差別がないということにしたい人々は、女性が直面する問題について逐一「確固たる証拠」を求めますが、政府がどのような統計を取りどのような調査をするかもまた男性が決めるので、そもそも女性の問題について調査が適切に行われないことも稀ではありません。証拠の不在は不在の証拠ではないのです。

 本書はデータも豊富なのがありがたいです。「女性差別なんてない!」という人にとりあえず投げつけるのもいいじゃないでしょうか。


【書評】≪自粛社会≫をのりこえる 「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」

 図書館の蔵書を検索していて、たまたま本書を見つけました。岩波ブックレットは少ないページ数で重要な論点を知ることのできるものなので、この機会を逃すべきではないと早速借り、読んでみました。

 ニコンサロン写真展中止事件とは何か
 本書は、2011年に起こった「ニコンサロン写真展中止事件」を扱っています。この事件は、若手写真家の登竜門的な立ち位置であったニコンサロンの写真展において、戦時中の朝鮮人性暴力被害者を扱った安世鴻氏の展示が、運営側の一方的な判断によって中止になった問題です。展示が中止になった背景には、いわゆるネトウヨ、極右たちの「抗議」がありました。

 こう書くと、今年発生したあいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」を巡る騒動と酷似しています。奇しくも、氏の写真はその後、ギャラリー古藤で行われた「表現の不自由展」にて展示され、その場には「平和の少女像」もありました。

 つまり、我が国は2011年から2019年の8年間にかけて、全然成長していないということです。

 もちろん、本件とトリエンナーレ問題とでは異なる点もあります。それは、本件が一種の「過剰反応」によって発生したものであるという点です。
 極右の抗議があったとはいっても、件数としては高が知れたものであり、明確な脅迫があったわけでもないようです。一方、件数も多くトリエンナーレではガソリンをまくという脅迫もあり、一方的であったことは問題であれど中止はある種やむを得ない状態でもありました。

 また、背景の違いもありましょうが、ニコンサロン写真展の件では政治家がこぞって妨害に走るということもありませんでした。うん、こう書くと成長していないどころか劣化している気すらします。実際、この前には在特会による朝鮮学校襲撃事件や徳島県教組襲撃事件があり、その後に河村たかし名古屋市長の「南京事件も虐殺もなかった」発言があるのです。差別と歴史修正主義を駆逐できていません。

 何が「自粛」をもたらしたのか
 もっとも、異常なまでの脅迫と政治家の介入があったトリエンナーレのほうが例外的な事例であり、表現の自由を抑圧されるプロセスとしては、ニコンサロン写真展のほうが一般的ではなかろうかと思われます。

 そもそも何が、サロン運営者たちの「自粛」に繋がったのでしょうか。本書には裁判の過程が簡単に述べられていますが、そこから読み取れる2つの原因があります。

 1つは、運営者の「ネット言論」に対する見識の浅さです。当時の担当役員は、2ちゃんねるの書き込みを見、またネットにアップされている動画を見て右翼団体による「抗議」の危険性を認識したと裁判で述べています。しかしながら、ネットを常態的に使っている側からすれば、2ちゃんねるの書き込みにみられる攻撃性が現実社会でもみられる可能性は低いということは常識の範疇でしょう。実際、いわゆる電凸的な行為もさほど件数はありませんでした。

 2つ目の、より重要な原因は、運営者に「表現の自由を守る」社会的責任があることが全く意識されていないことです。裁判での供述を読むと、担当役員は会社のトップにこのことを報告しないと「怒られる」かもしれないと繰り返し述べています。その部分の執筆を担当した李氏は「脱力するような思いでその発言を聞き、同時に底知れない恐ろしさを感じた」と書いています。

 会社の一員である担当役員にとって、トップから叱責されるかどうかのほうが、写真展を中止したことによる社会的影響よりも重要なのです。念のために書いておけば、ニコンサロン写真展の担当役員どこぞの平社員ではなく常務です。会社でも相当な立場にいる人間の認識がこの程度なのです。

 本来、表現は、不当な脅迫を乗り越えてその表現を全うすることに意義があります。一見すると脅迫の殺到は運営者である企業の評判を落としているように見えるでしょうが、実態はむしろ、そのような脅迫に早々に屈するほうがよほど評判にかかわるのですが、彼らにはそのことが見えていません。

 「社会的責任」という概念の理解されなさ、あるいは中身を見ない人々
 もっとも、脅迫に屈するほうが評判にかかわるとわからない点については、一概に会社の責任とも言い切れないかもしれません。

 というのも、もしニコンサロン写真展をきちんと開催していたら、「慰安婦の捏造だ!」と叩かれていた可能性が否定できないからです。日本人の民度ってそんなもんです。

 『【Twitter凍結記#2】Twitter社には社会的責任がある』でも言及したことですが、本邦の人々は「社会的責任」という概念が理解できていません。企業が営利にかかわらず果たすべき責任があることが理解できないので、短期的な快不快や損得にしか反応しません。そのような顧客を相手に商売する以上、企業もまた社会的責任を果たさないのが最適解になってしまいます。

 また、中身を見ずに外形で判断するという悪癖もあります。つまり、「抗議」が寄せられているという事実のみに着目し、その抗議が妥当かどうかという点を一切見ずに「抗議が来たなら悪いことだ」と反応するようなのがわんさかいます。現に、安倍政権はこうした特性を利用して「謝らない認めない」ことで延命に成功しているわけですし。

 表現の自由を守るために必要なのは、表現者の努力だけではありません。表現を受容するものもまた、表現の自由の最前線に立たされているのです。宮下紘氏は本書の中で、今回の問題を「表現を鑑賞する自由を奪われた」と位置づけて論じています。

 表現の自由を守るためには、市民の権利意識を底上げする必要があります。そうしなければまた8年後、同じことが繰り返されるだけでしょう。そのときが表現の自由の最後にならないという保証はありません。

 安世鴻・李春熙・岡本有佳 (編) (2017). ≪自粛社会≫をのりこえる 「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」 岩波書店

【書評】テロリズムの心理学

 今回書評するのは、真っ赤な表紙が印象的な1冊です。
 本邦におけるテロリズムの議論は、どこか上滑りな印象がありました。そもそも、本邦は専門家の話をまともに聞かないまま政治をやりがちなうえ、テロを呼べる事件もあまり起こらないままに対策だけが必死こいて語られるというアンバランスさがその原因でしょう。

 本書は、心理学の知見を中心にテロリズムという現象を概観し、テロ対策に必要な知識を提供して地に足のついた議論を進めるために必要なものです。

 テロリズムは「特殊な」現象ではない
 特に注目なのは、本書の前半、社会心理学の知見からテロリズムを説明する部分です。
 テロリストというと、一般には「精神のおかしくなった狂信者」とか「貧困にあえぐ復讐者」のような印象を持つかもしれません。しかし、大半のテロリストはそうではないことを先行研究は明らかにしています。

 テロリストが精神障害を持っていることは少なく、また学歴も低くありません。そのような人がなぜ、テロ行為に走るのでしょうか。

 本書の説明では、集団間代理報復の概念が使われています。例えば、卵が先か鶏が先かですが、アメリカが中東のテロ組織を攻撃したとしましょう。その攻撃では多くの場合、民間人が巻き込まれたりします。また、欧米先進国ではテロリストとして扱われている人物も、その人物の地元では英雄視されていることが少なくありません。

 そういう人物が攻撃されたりすれば、その集団は「我々が被害を受けた」と思うでしょう。そうして攻撃を仕掛けた集団を報復するわけですが、その被害を受けるのは攻撃した軍隊ではなくて市民です。すると今度は、市民が「被害を受けた」とテロリストへの攻撃を支持することになります。以下無限ループ。

 重要なのは、少なくとも現象的には、市民がテロリストへの攻撃を支持することと、テロリストが攻撃をすることが等価になっているということです。テロリズムというラベルを貼っているからそれが特殊な現象に見えますが、背景にあるのは我々と同じような心理メカニズムに過ぎないのです。

 社会的支配志向性と攻撃への懸念
 とはいえ、外集団攻撃は滅多に起こるものでもないことは社会心理学の実験が明らかにしています。自身の所属する内集団を優位に立たせたいのであれば内集団をひいきすれば済む話ですし、わざわざコストをかけて外集団を攻撃する必要はないからです。

 外集団を攻撃するためには、それを肯定するような考え方が必要です。本書で注目されている要素として、社会的支配志向性(SDO)と攻撃への懸念です。

 前者は近年注目されている要素です。「社会は支配するのに相応しい種類の人が支配すべき」という、平等の観点と相いれないような考え方への支持の度合いを指します。この考え方は格差を拡大させるような政策や人種差別への支持と関連することが明らかになっていますが、同時にテロリズムへの支持にも関係することが分かっています。

 ただし、SDOとテロリズム支持との関係は、テロリズムへの背景によって異なります。中東の人々は、SDOが低いと自国のテロリストが欧米を攻撃するのを支持します。これは中東のテロリズムが「欧米の支配への反発」という文脈を持つため、支配を嫌う考え方と合致するからでしょう。逆に、欧米の人々は、SDOが高いと自国の軍隊がテロリストを攻撃するのを支持します。

 もう1つの要素は「攻撃への懸念」です。ある実験では、先制攻撃ゲームというパラダイムを用いてこのことを明らかにしています。先制攻撃ゲームでは、1つのボタンと2人の参加者を使い、どちらかが赤いボタンを押すと相手の報酬を大幅に減らせるが、ボタンは1回しか押せないという状況でどのように行動するかを検討します。

 その結果、参加者の半数がボタンを押しました。一方、ボタンを押す権利が1人の参加者にしかない場合(つまり相手からは攻撃されない場合)にはほとんどの人がボタンを押しませんでした。お互いの報酬がわずかに減るだけのボタンを用意すると、大半がそちらを押すようになります。

 つまり、過剰とも思える攻撃は、相手から攻撃されるかもしれないという懸念から生じているというわけです。

 こう考えると、近年多くの為政者が、自身の攻撃の正当化のために相手からの攻撃の懸念を持ち出していることの罪深さがわかるというものです。もちろん、本邦の首相もその例には漏れませんが……あの人は同じ行為でも攻撃だと言ったり言わなかったりしますからね……。

 越智啓太 (編) (2019). テロリズムの心理学 誠信書房
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【書評】#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム

 #KuTooとオタクに関連したことがいろいろあったこともあって、応援の意味を込めて買いました。
 ちなみに、購入にはKampa!で送ってもらったAmazonギフトカードを利用しました。Twitterアカウントを潰されたせいでいまは使えないサービスになってしまいましたが……。代替措置を早く検討しないといけませんね。

 ちなみに、#KuTooに関しては本ブログでも『なんでも「なんでも女性差別」という愚 #KuToo と混浴ツイートに関して』などで取り上げています。

 クソリプ展覧会へようこそ!
 さて、本書の内容の大半は実際のところクソリプ展覧会なるものに割かれています。まぁ、#KuTooの主張なんて「靴を強制するな」という一言で終わるもので長々と説明しなければいけないものではありませんし、本来このように社会運動にまで発展するのがそもそもおかしな話なわけです。

 じゃあなんで社会運動にまでなって「しまう」のかというと、本書に登場するクソリパーたちのようなのが社会に遍在しているからです。まぁ、直接顔を合わせてこのようなことをいう人は少ない(とはいえ存在している)んですが、メンタリティはクソリパーと大差ないようなのが大臣の席についていますしね。「セクハラ罪はない」の麻生しかり(『麻生太郎のセクハラ擁護発言は「ネットの議論」の本質をついている』参照)、パンプス強制をだめだと言い切れない根本厚労大臣しかり(『根本厚労相はパンプスパワハラを容認したのか、否定したのか #KuToo』参照)。

 興味深いのは、著者が指摘しているように、クソリプを送ってくる人の多くが「日本の国旗をアカウント名に」「皇紀」「日本大好き」な「普通の日本人」であるということです。「保守」「右翼」「愛国者」がどういう人間なのかはっきりしますね。愛国者を名乗るならば、同胞女性の苦境には人一倍敏感に反応しなければいけないような気がしますが、不思議です。まぁ、『沖縄・米兵の性犯罪もセカンドレイプの対象になる国』で取り上げたように、性犯罪被害にあった日本人女性よりもアメリカ人男性のほうを擁護するのが「愛国者」のふるまいらしいので。小林よしのりも外国で被害にあった女性を叩く漫画を描いていましたしね(『被告側代理人の弁護士の『伊藤詩織著 「Black Box」 が「妄想」である理由』が妄想である理由』参照)。私には理解できないことですが。

 ちなみに、このクソリプ博覧会に対して「著作権侵害だ!」的なクソリプがついているようですね。無限ループかよ。怖っ。どう見ても正当な引用の範囲ですし、正しく引用しようとするとかえってアカウント名がついていないと出典不明になるのでだめというおまけつき。第一アカウント名を晒されて困るようなリプを送らなければいいでしょう。

 「靴を強制するな」ってそんなに難しいことなのか
 書評しようとして、あまり書くことが思いつかずやはり意識したのですが、「靴を強制するな」ってそんなに難しいことなんですかね?
 別段#KuTooに関心がない人でも、不必要な服装の強制は問題であるという話は容易に理解できると思うのですが。少なくとも私はそうでしたし、だからこそわざわざ書評で書くことがほとんどなくて困っている有様なのです。

 まぁ、『性暴力表現を公から追放する論理』だって当たり前のことをわざわざ言語化したわけで、やろうと思えばできるんでしょうが……。

 興味深いのは、著者と労働政策の専門家である内藤忍氏、ハラスメント研究の第一人者である小林敦子氏それぞれとの対談です。内藤氏は40年前の研究を引き合いに出し、ヒールによる職場での転倒事故がそのころから問題視されていたことを説明します。そして小林氏は、そのことを裏付けるように、かつての経験談として、ヒールで階段から落ちたことが2回もあると述べています。それぞれの対談は別々に収録されたものでしょうが、ヒールの危険性を明らかにするうえでこれ以上ないケースとなっているといえるでしょう。

 幸い、靴の強制は問題であると社会の側が動きを見せ始めています。クソリパーがどう言おうが、社会は結局「正しいほうに」変わるということでしょう。

 石川優実 (2019). #KuToo 靴から考える本気のフェミニズム 現代書館


【書評】82年生まれ キム・ジヨン

 今回は上で公開しているアマゾンの欲しいものリストから送っていただいたものの書評です。同様のタイミングで食料品なども提供いただき、本当にありがたいです。犯罪学とは直接の関係はありませんが、希望していただいたものですし、フェミニズム関連の話題はこのブログでも取り上げてきたことなので、書評しましょう。

 なお、Twitter"クソ"社がアカウントを凍結しやがったおかげでKampa!は使えなくなりましたが、欲しいものリストは生きています。九段新報をぜひご支援ください。

 韓国の2つの女性差別
 解説で伊東順子氏が述べているように、本書には2種類の女性差別が登場します。

 1つはキム・ジヨン氏の母や祖母の世代が経験した、ある種古典的な女性差別です。女に教育はいらないと言われ、劣悪な環境で男兄弟の学費を稼ぐ日々。結婚すれば男児を望まれ、ついにはジヨン氏の「妹」となるはずだった子供は中絶されてしまいます。

 そのような差別は、ジヨン氏の世代に改善されつつあったとはいえ、残っていました。女子はおとなしくお淑やかであるべきという価値観から服装規定が厳しくなり、露出狂を捕まえた女子生徒は罰を受けます。弟がずっと優遇され、氏と姉がないがしろにされてきたというシーンも出てきます。私は男ばかりではあれ兄弟の多い家庭で育ったので、些細なことでもこのような兄弟間の差異がもたらすダメージの大きさのついてはよくわかっています。それが日常では参るでしょう。

 男子ばかりの学級委員長
 象徴的だと思ったのは、クラスの学級委員がほとんど男子ばかりであるというエピソードです。女子生徒のほうが優秀であり、そのことは教師も認めているのに、選ばれるのは男子。そのことを母に言うと、それでも女子生徒の学級委員は増えているといいます。その割合は40%。

 このようなエピソードは、私自身の経験ともダブるところです。ブログですでに書いたことがあるかもしれません。忘れもしない中学三年生の1学期、学級委員決めのときです。私は男子ですが、学級委員は男女1名ずつ出すことになっていました。立候補制をとりますが、男子の立候補が全く出ません。前期の学級委員は修学旅行から文化祭まで、とにかくやることが多く面倒この上ない仕事でした。結局籠城戦に耐えかねた私がやることになりましたが、問題はこの後です。

 2名の学級委員は、一方が学級委員長、もう一方が副学級委員長という立場になります。これはどのクラスでもたいてい、多数決で決められます。私のクラスはもう1人の女子が学級委員長になりました。経緯を考えれば当然の決定でしょう。

 その後、全クラスの学級委員が集まる委員会へ出ました。そこで驚いたのが、私のクラス以外すべて「男子が学級委員長、女子が副」という構成だったのです。多数決で決まるはずなのに!
 もしかすると、その経験が私の原点になったのかもしれません。

 韓国の現代的レイシズム
 もう1つ、ジヨン氏が直面し、決定的になったのは「新しい女性差別」とも言うべき物事です。
 ジヨン氏は子供をベビーカーへ乗せ、近所のカフェでコーヒーを飲んでいました。そこにサラリーマンの集団がいて、彼女のことをひそひそと話します。そこで飛び出してきた言葉が「ママ虫」でした。

 これは元来ネットスラングで、専業主婦を寄生虫のように扱う侮蔑の強い言葉です。専業主婦が夫の稼ぎに寄生する存在であるとか、ごくわずかな「セレブ主婦」が一般的であるかのように扱うといったありようはまさしく日本のそれと同じだといえましょう。差別の陳腐さは海を越え普遍というわけです。

 このような「男尊女卑はなくなったのに女性が優遇されている」という態度は、社会心理学の言うところの「現代的レイシズム」と呼ばれるものです(『【書評】レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット』参照)。実際には、ジヨン氏が就活で経験したように、男尊女卑は解決していないのですが。

 成長しない男たち
 本書のもう1つの注目点は、女性ではなく男性ではないか、というのが私の感想です。
 本書に登場するジヨン氏の夫、チョン・デヒョン氏を、伊東氏は解説で「妻に寄り添おうとしている」と評しています。しかし実際には、家事や育児のことをいつまでも「手伝う」と言っていたり、無遠慮な出産計画を押し付けてくる親族にだんまりだったりと、2016年当時の感覚からすればあまりにも遅れていると言わざるを得ません。寄り添いが失敗に終わるのは当然といえましょう。

 本書に登場する女性は、多かれ少なかれ自らの意思で歩み、少しずつ自分や周りを変えています。一方、男たちは、社会の変化に流されてある程度ましになることはあっても、成長することがありません。

 象徴的なのは、ジヨン氏の元の職場で起きた盗撮事件でしょう。普通ならそんなものを知った瞬間、男だって大騒ぎすると思うのですが、職場の男たちはポルノサイトで見つけた盗撮画像を共有し、公然の秘密としていました。発覚した後も、男性の中では若い感覚を持つと評されていた社長ですら男性社員を庇う始末です。

 極めつけは、本書の報告書を書いているという体で最後に登場する男性精神科医です。彼はジヨン氏の境遇に自分の妻の境遇を重ね、女性の権利の解放を望むようなことを書いています。にもかかわらず、同僚の女性カウンセラーが辞めるという話になって、辞められると困るから次は未婚の女性を雇わないと書いています。これを読んだ瞬間がっくり来た人も多いでしょうが、結構リアルを反映した描写ではないかと思います。

 キム・ジヨンの「バーナム効果」
 さて、本作の主人公キム・ジヨン氏の名前が、当時最も多い韓国人女性の名前から来ていることは周知のとおりです。それは、この物語が自分の物語だと感じてほしいという作者の意図に基づくものであり、心理学的に言えばバーナム効果を狙ったものであるともいえましょう。

 彼女のエピソード自体にも、そのような工夫の跡が見られます。ジヨン氏は小学校でのイジメや職場でのセクハラ、なにより塾に通っていた際に被害にあった付きまといなど、様々な被害にあっています。が、レイプという最終局面には至っていません。盗撮被害も運よく回避しています。それは、レイプというある種極端な被害を描いてしまうと、自分の物語だという共感が得られにくくなってしまう可能性があったからでしょう。

 一方で、そのような工夫は、レイプに至らずとも性暴力は重大な被害であり、積み重なって被害者の心身を蝕むことをありありと書くことにもつながっています。この辺のバランス感覚というのは、さすがの技術といえましょう。

 本書を読むと、本書がベストセラーになった理由がよくわかります。韓国の社会情勢を色濃く反映した分、外国人からすればとっつきにくい面があることは否めませんが、そこで描かれているキム・ジヨン氏の生涯は普遍のものであり、我々の心に深く訴えかけてくるものです。

 チョ・ナンジュ (2016). 82年生まれ キム・ジヨン 筑摩書房


【書評】脳科学と少年司法

 今回書評するのは、少年司法に関する最近の動向がまとめられた一冊です。
 日本においては昨今、選挙権を得られる年齢が18歳以上に変更されたことを受け、少年法の適用年齢も引き下げようという動きがあります。しかし本書が紹介する知見は、そのような試みが無残な結果に終わるだろうことを適切に指摘しています。

 脳は発達の途上である
 なぜ、少年法の適用年齢は引き下げるべきではないのでしょうか。
 それは、18歳前後の少年の脳はいまだに発展途上で、可塑性に富むからです。

 俗にこういう話を聞いたこともある人がいるでしょう。脳の発達は20歳でピークを迎え、それ以降は衰えていく一方であると。この話を念頭に置くと、20歳以降の人の脳を変えることは難しく、故に少年法の範囲を引き下げても問題なさそうな感じがしてしまいます。

 しかし、最新の知見では、非行や犯罪と密接にかかわる前頭葉の発達はむしろ、20歳を超えても続き、最終的に完了するのは25歳ぐらいだということが示されています。
 つまり、少なくとも少年法の適用年齢を引き下げる根拠は、脳科学にはないということです。この知見からすれば、適用年齢を引き上げたっていいくらいです。

 また、少年期には親の不適切な養育などの影響も大きいことが知られています。このような段階において、適切にその悪影響を減じるための措置を行えば、非行少年の反社会性が収まっていく可能性は小さくありません。

 脳が発達途上で、可塑性に富む段階の公正可能性は高いといえるでしょう。このような段階に更生プログラムを受けさせず、犯罪を成人と同様の刑事罰、あるいは適当な訓戒や罰金刑で済ませてしまうのは、再犯率を押し上げ社会にかえって悪影響を与えることになります。

 アメリカ厳罰主義の転換点
 本書はアメリカにおける少年司法の動向をかなり詳しく紹介しています。その背景には、日本の少年法がアメリカの少年法に由来するという事情があります。

 本筋から離れますが、時折聞く「少年法は戦後まもなくの苦境にあえぐ少年を保護するためにつくられたもので、いまはもう必要ない」という主張がデマなのはこの辺の事情からも分かるところですね。(参考『【急募】少年法が「戦後の貧しい子供を保護するためだった」という元ネタはどこに』)

 さて、アメリカといえば「三振法」「メーガン法」そして学校におけるゼロ・トレランス政策など、厳罰主義のメッカといえましょう。セサミストリートに親が刑務所に収監されているキャラが登場するくらいですから(『【記事評】スペシャルインタビュー『セサミストリート』リリー(THE BIG ISSUE JAPAN364号)』参考)。

 しかし、その流れも変わりつつあります。
 刑罰においては、18歳未満の少年への死刑を違憲としたローパー判決を皮切りに、少年の非殺人事件において仮釈放のない終身刑(LWOP)を違憲としたグラハム判決、LWOPが最低の量刑である事件においても少年であることを考慮せずに義務的にLWOPを科すことを違憲としたミラー判決、さらにミラー判決以前にLWOPを科された元少年に対し判断をやり直すことを示したモントゴメリー判決が出ています。

 特に注目すべきはモントゴメリー判決でしょう。この裁判を起こした受刑者は当時69歳でしたが、ミラー判決の基準が遡及的に適用されることが確認されました。一見おかしいように見えますが、これは専門的な用語を使えば「新たな実態法規範」の効果なので遡及適用する、平たく言えば新しく法律ができたのではなく過去の拘禁がそもそも違法だったことが確認されたので当然遡及適用するという話です。

 また刑事手続きに関しても、同様の流れにあります。
 アメリカのドラマを見るとよく、警官が人を逮捕するときに権利を読み上げるシーンがあります。あれは被疑者の権利を告知すべきという判決に基づくミランダ警告と呼ばれるものなのですが、あれは身体拘束下にあるときにしなければならないというルールがあります。

 裏を返すと、日本における任意同行のような、身体拘束のないときには別に言わなくてもいいということです。

 しかし、少年に関してはその「身体拘束」を広く取り、精神的にあらがうことが難しい場面、例えば学校の校長室で教師立会いの下事情聴取をする場面ではミランダ警告をしなければならないということを示したのが、J.D.B.判決です。

 これは、少年が権威の誘導を受けやすいことといった心理学な知見が反映されています。またこのような背景から、ミランダ警告に対し一般になされる権利の放棄も、少年に関しては鵜呑みにすべきではないという指摘があります。

 日本の少年法はどうあるべきか
 本書の後半では、少年法の適用年齢を引き下げた場合の弊害とそれへの対策を議論した法務省「若年者に対する刑事法制の在り方に関する勉強会」の報告が取り上げらています。

 いろいろ書かれていますが、全体的に一貫して「対策は非現実的」かつ「そもそも引き下げなければいいんじゃない」という、辛辣でシンプルな批判が投げかけられています。

 元々、少年犯罪の増加や凶悪化といった実態は存在しません。そのうえ、心理学・脳科学上のエビデンスもないとなれば、いよいよ少年法改正は立法根拠を失うでしょう。

 そもそも、選挙権と少年司法は性質も目的も全く違うものです。それぞれに適した線引きがあるのであり、その2つの年齢を統一すべき理由も特にありません。

 山口直也 (編) (2019). 脳科学と少年司法 現代人文社
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【書評】死刑

 今回の書評は、映画監督でありオウム真理教の関係者を追った著作やドキュメントで著名な森達也氏の1冊です。
 本書は著者も書いているように、死刑全体をめぐる果てしないロードムービーになっています。

 非公開にされる死刑
 著者が本書をしたためるうえでまず見ようと考えたのが、死刑場でした。しかし、本書の中ではついぞ叶いません。その代わりに、当時死刑廃止議員連盟の国会議員として死刑場を見学することのできた保坂展人氏にインタビューを行います。

 そもそも、なぜ死刑場は見学ができないのでしょうか。百歩譲って、刑務所の中を自由に見ることができないのは理解できます。受刑者のプライバシーやセキュリティの問題があるからです。しかし、使用されていない死刑場を見せたところで何か問題があるとは思えません。

 死刑の閉鎖性は、死刑場を閉ざすことにとどまりません。今ではいくらか改善されましたが、確定死刑囚はかつて弁護士と家族以外の面会が許されていませんでした。死刑囚となったのちに冤罪が明らかとなり出獄した免田栄とのインタビューによれば、死刑囚同士の交流も厳しく制限されているようです。

 このような閉鎖性の理由を、死刑囚の心の平穏のためであると法務省は説明します。しかし、そういう割には、死刑囚のためにカウンセラーを派遣したという話は聞いたことがありません。外界から全く隔絶した状態、いつ死刑になるかわからないまま長期間過ごせば精神が崩れるに決まっているにもかかわらず、死刑囚の心の安定を保とうとすること自体が噴飯物といえるでしょう。

 私は死刑廃止派なので、そもそも死刑の非公開性を真面目に考えたことはありません。ごちゃごちゃ言う前に止めればそれで終わる話だからです。ですが、死刑廃止のめどが未だに立たない状況にあっては、死刑の非公開性の問題も訴えて制度の矛盾を明らかにする方がよいのかもしれません。

 「理」か「情」か:死刑廃止のために
 さて、著者は他にも様々な人たちにインタビューを行い、死刑問題について議論を深めていきます。おそらく日本で最も有名な死刑廃止論者の国会議員である亀井静香氏、『殺された側の論理 犯罪被害者が望む「罰」と「権利」』『少年をいかに罰するか』『「脱社会化」と少年犯罪』と本ブログでも著書に触れた藤井誠二氏、死刑囚を題材にした漫画『モリのアサガオ』の作者郷田マモラ氏。中には廃止とも存置とも取れない態度の人たちと対話する中で、著者はある考えにたどり着きます。

 それは、死刑廃止のためには理屈ではなく情に訴えるべきではないかということです。
 理屈でいえば、死刑はすでに存在理由を全く失っています。死刑に犯罪抑止効果はなく、単に犯罪者を隔離するだけなら無期懲役で事足りる。にもかかわらず死刑を支持する人が多いのであれば、それはもう理屈の問題ではないので、情に訴えるほかないのではないか。

 しかし、私はむしろ反対であろうと思います。
 そもそも、情に訴えてうまくいくなら死刑がここまで問題となっていないでしょう。情に訴えれば当然、「遺族の気持ち」云々といういつものあれが出てきて議論を成立させることすらできないのは目に見えています。

 心理学的には、死刑囚個々人の苦境に注目すれば死刑廃止に傾きやすくなるかもしれません。ですが、共感を得やすいという意味では犯罪被害者に勝るものはないので、情で訴える戦略が有効であるとは到底思えないのです。

 ではどうすればいいかと言われると答えはないわけですが。
 フランスのように、国民の判断をある種押し切る形で廃止を断行してしまえれば、みんなすぐに慣れるでしょう。しかしそれができないというのが、民主主義の長所であり短所でもあります。

 結局のところ、死刑問題があくまで権利の問題であり、被害者遺族の感情や応報とは別の次元に位置するのだという意識を徹底させるほかないのかもしれません。もっとも、権利意識の低いこの国でうまくいくとは思えないのですけど。

 森達也 (2008). 死刑 朝日出版社
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【書評】犯罪被害者の声が聞こえますか

 今回は全国犯罪被害者の会、通称あすの会の結成から被害者支援制度の確立までを追ったドキュメンタリーです。
 2004年に犯罪被害者等基本法が制定され、2008年に給付金制度が成立するまで、被害者の心身および経済的な負担は想像を絶するものがありました。当時被害者や遺族に給付される金額は葬式代になるかどうかという程度であり、一家の稼ぎ手を失ったり重度の障害を負ったりした場合の治療費の負担はすべて自分でどうにかしなければいけませんでした。

 また、裁判に参加することもできず、傍聴券を自分で手に入れなければならない、記録を見ることもできないといった問題もあり、被害者は司法制度の蚊帳の外に置かれていたといっていいでしょう。

 本書で特に取り上げられている遺族の一人、岡村勲氏は妻を殺害された弁護士です。氏は弁護士でありながら、遺族になって初めて被害者の苦境に気付いたと回顧しています。

 なぜ被害者が置き去りにされたのか
 では、なぜ日本の諸制度では被害者が置き去りにされたのでしょうか。本書でもたびたび登場するように、あるいはそれ以外の場面でも聞かれるように、「加害者の人権は保護されるのに……」という言葉は典型的な恨み言となっています。

 これは、そもそも刑事裁判の形式に由来するといえましょう。
 刑事裁判はあくまで、犯罪者を取り締まる国家権力と、取り締まられる個人との戦いになります。この構図では、加害者たる個人のほうが圧倒的に不利。なので、個人の権利を最大限守るためにあれやこれやと手を打つことになります。

 一方、被害者は基本的にこの刑事裁判の構図から外れたところにいます。犯罪被害者に限らず、原則として弱者の権利擁護意識に乏しい日本のこと、こうなると被害者の権利を守ろうという動機も薄いため放置されることになったのでしょう。

 裏を返せば、巷で耳にするのとは違い、加害者側の権利擁護と被害者側の権利擁護は、常に対立するというものでもありません。まるで両者をトレードオフであるかのように論じる人がいますが、実際には両者を最大化することは可能なのです。

 刑事裁判への参加と日弁連の危惧
 本書で多く紙幅の割かれている話題の1つが、刑事裁判への被害者参加制度でした。本書では、会のメンバーが制度のあるドイツやフランスへ視察へ行く様子も描かれています。その中では、被害者が裁判へ参加しても混乱や長期化は起きないことが明らかにされています。

 そのような根拠の元、会は制度の制定を強く訴えるのですが、ここで強固に反対する人々がいました。関係省庁と日弁連の弁護士たちでした。
 もっとも、日弁連も否定的だった人はさほど多くないようですが。

 著者はこのような、とりわけ日弁連の姿勢に恨み言を書いています。しかしながら、本書で言及されている理事会の決議、意見書のような全否定姿勢はあんまりだとしても、懸念それ自体は妥当なものではないかと思えました。

 刑事裁判において、少なくとも建前上は、推定無罪、つまり被告は無罪であることが前提視され、検察側の証明が十分だったとき初めて有罪となります。ここに、被告を訴える被害者が登場するとどうなるでしょうか。

 被害者はあくまで、当然ですが、目の前の被告が真犯人である前提で話を進めます。そして被害者がその口で語る「犯行当時の事実」には、被害者が直に語っているという意味付けのためにそれ以外の証拠とは比べ物にならない「信憑性」が生まれることになります。このような状態であれば、まるで被告が真犯人であり、被害者が語る事実こそが真実であることが前提であるかのような状態が成立しかねません。

 実際に被害者参加制度が始まり、裁判員制度も始まりました。当初懸念されていた厳罰化の方向にはあまり進まなかったようですが、しかし、結果的懸念が杞憂に終わったことはその懸念が的外れだったことを意味しません。当時の状況から考えれば、被害者参加の悪影響を懸念する日弁連の立場はそれなりに妥当であるといえるでしょう。

 あすの会の活動によって被害者の苦境に注目が集まり、その権利が擁護されるようになったのは素晴らしいことです。しかし、かつて(ずいぶん昔だ)『犯罪被害者団体の功罪』で簡単に述べたように、その活動には良い面だけでなく、死刑への賛成や少年法の「改悪」など、被告の権利擁護の面からみれば悪い方向に進んだものもあります。

 我々の大半は、幸いなことに犯罪とは距離のある生活を送っています。であればこそ、犯罪に関連して権利を侵害されるようなことが少しでも減るような社会をどうしたら形作っていけるのかを考えるべきです。

 東 大作 (2008). 犯罪被害者の声が聞こえますか 新潮社

【書評】その〈脳科学〉にご用心 脳画像で心はわかるのか

 今回は巷で蔓延する「疑似」脳科学を批判した1冊です。著者の1人であるスコット・O・リリエンフェルドはかつて取り上げた『本当は間違っている心理学の話 50の俗説の正体を暴く』の著者の1人でもあります。

 脳画像という「占い」
 本書の内容の大半は、脳画像という一昔前に流行った、もしかすると今も流行っているかもしれない「脳科学」の方法を批判しています。

 脳画像を多用する脳科学では、これこれこういう刺激を見せたときにここが反応した、だからこの刺激はこういう風に解釈されていると論じます。例えば、あるものの写真を見せた時に報酬系をつかさどる偏桃体が強く反応したので、これは快をもたらすものとして認識されているというようにです。

 しかしながら、このような論じ方は様々な誤謬を含むものです。
 第1に、脳の各部位というのは、単一の感情に反応するものではありません。偏桃体は不安のようなネガティブな感情でも強く反応することが知られており、単に偏桃体が強く反応したからといって、ある特定の感情が喚起されているとは言えません。

 第2に、脳画像の撮影に使われるfMRIなどの機器の大半は、リアルタイムでの反応を測定することができず、多かれ少なかれ反応と撮影にタイムラグが生じるという点です。つまり、画像を見て反応しているように映っていても、実際には少し前の画像に対する反応かもしれません。
 また、脳は「将来の期待」に対しても同様に反応します。つまり、撮影された脳画像は現在の刺激に対する反応ではなく、数秒前の過去に対するものかもしれず、ともすると見た刺激から予想される将来に対する反応かもしれないということです。

 これでは、脳画像が何を示しているのかさっぱりわかりません。

 「脳が元々こうだから」
 誤った脳科学は、脳画像だけではありません。脳にすべてを語らせる姿勢は、人間のあらゆる行動の原因を脳に求め、宿命論に陥らせる危険性があります。

 その最たる例が、裁判で犯罪者の脳画像を示し、「脳がこうなっているので彼には犯罪を止めることができませんでした」と減刑を求めることです。
 確かに、脳の器質的な状態によって我々は影響を受けます。極端なものが、鉄棒が頭に突き刺さったために性格が大きく変容したフィニアス・ゲージでしょう。

 しかしながら、脳に「ある程度」影響されるということは、脳に「完全に」支配されることを意味していません。ある程度影響を受けていたとしても、我々は自分の意志で行動を決定し、責任をもって動くことができます。

 脳の特徴に、犯罪に結びつきやすいものがあるのは事実です。しかし、『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』が指摘するように、適切に対処すれば犯罪や非行へつながることを防ぐことができます。このようなことからも、脳の形状を宿命論のように考える必要がないことがわかります。

 それでも、脳に原因を求める人は「そうすることによって、犯罪者や薬物中毒者に対する非難を回避できる」と主張するでしょう。病に近いものであるとすれば、道徳的な批判からは逃れられるかもしれません。
 しかし、脳の形状を宿命として扱うことは、結局「脳がそうなら危ないのでずっと閉じ込めておきましょう」という態度に反論できなくなることも意味します。利益よりも副作用が大きい態度といえます。

 脳科学に期待しすぎるな
 脳科学は現状、発展途上の学問です。心理学者から見れば、実験手続きなど危うい面も多く、今日の常識が明日の非常識になりかねない不安定さを持っていると言ってもいいでしょう。

 それでも人々が脳科学に惹かれるのは、脳科学的な説明が何らかの本質をついているように感じられるからです。実際、本書は論理的に誤った説明に脳画像を添付すると信じる人が増えるという研究を紹介しています。

 心理学にせよ脳科学にせよ、まだまだ人の行動を完璧に説明できるほどにはなっていません。丁寧に研究したとしても、行動の一因を説明するに過ぎないでしょう。人間の行動は無数の要因に影響されるからです。

 現状、脳科学的な説明にはあまり期待しすぎず、わからないものもあると受け入れることが大切です。

 サリー・サテル他 (2015). その〈脳科学〉にご用心 脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店


犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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