九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

いじめ

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【書評】いじめと探偵

 遅れてやってきた書評第二弾。前回の『【書評】闇ウェブ』と同様、kindleのセールで入手、資金源はブログ上部で示しているようにカンパです。
 今回はいじめですね。いじめといえばかつて講談社新書の『【書評】いじめの構造』を書評しましたが、それ以外だとあんまり触れてない印象が。とはいえ『いじめは犯罪化で解決できるか』などいじめタグの記事もあるのですが。

 いじめは割と簡単に解決する(かも)
 で、今回はいじめの解決に乗り出した探偵という、ちょっと異色にも見える著者の本です。しかし証拠が必要でその収集方法を考えると、結構相性がいいような気もする組み合わせではあります。
 さて、いじめと探偵という題名ですから、本書に探偵の調査能力がビシバシと発揮されるシーンを期待する人も多いでしょう。しかし意外なことに、著者のもとに来る依頼の相当数が、わざわざ探偵が出向くまでもなくわりあい簡単に解決してしまうそうです。

 それはこういう経緯です。まず親が探偵に「子供がいじめられているみたいだ」と連絡します。すると著者はまず「子供ときちんと話し合ったか、学校ときちんと連絡を取り合ったか」と尋ねるのです。多くの場合、まず親が子供とのコミュニケーションをうまくとれておらず、信頼関係を築けていないという問題があるようです。また学校ともやり取りをできていないパターンも多く、ある意味では当事者の頭の上を超すように探偵に依頼しようとする状況にあります。
 こういう場合、著者はまず親に対し子供や学校との交流をするように促します。すると案外、簡単に解決してしまう事例も少なくないようです。

 ではどういう場合に探偵の出動となるのでしょうか。パターンを大きく分けると、学校が「証拠を持ってこい」などと言い出すパターンと、明らかに犯罪に関係しているパターンがあります。

 呆れた学校の先生たち
 実は親が子供とちゃんと交流できていないのと同様に、教師も子供との交流が疎かになっている現実があります。きちんとクラスでの子供の動きを見ていればわかるはずなのに、無関心からか雑事に追われているためか気づかない、あるいは気づかないふりをしている。
 酷い状況になると親ではなく先生が探偵に依頼してくる場合もあるようです。著者はさすがに、「せっちが専門家だろ」とやり返すようですが。

 もちろん先生のほうにも同情すべき事情はあります。教師の長時間労働は問題となり、過労死まで出る始末。これではいじめ問題に割く時間はないでしょう。
 しかしそれとは全然関係なしに、呆れた教師もいます。本書では母親が校長にいじめの相談をしたところ、かえってセクハラをされたという事例がありました。この母親はシングルマザー……あれ、確か『スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか』にも校長が母親にセクハラをした事例があって、その母親もシングルマザーだったような。セクハラおやじの思考は似るんでしょうか。

 そこまで極端な事例でなくとも、いじめを注意した教師が担任を外されたり、いじめを認めなくないがゆえに頓珍漢な対策に打って出たり、挙句の果てに泣き落としをしかけたりと呆れるような事例は枚挙にいとまがありません。もっとも、先のセクハラ校長も証拠を突き付けて解決を迫ったらあっという間に事が収まったらしいので、結局は周りの大人が本気になるかどうかでしょう。

 いじめも金とセックスの時代へ
 昨今のいじめも重大化、重症化の時代です。いや絶対、昔だってひどい苛めはあったとは思いますし、著者が回顧するほどあっけらかんとしていたとは限らないと思いますが、ともかく現在のいじめは重大問題に発展することがままあるのは事実です。上掲記事で論じたように、私はいじめを犯罪化すれば直ちに問題が解決するとは考えない立場ですが、しかし重大化したいじめには警察の手も必要でしょう。
 本書冒頭で登場した事例は、いじめられていた子供が万引きを強要されていた事例です。これはれっきとした犯罪ですが、しかし後半に登場する事例と比べるとかなりましなほうだったと思えてなりません。

 凄惨化したいじめは本当に酷いもので、集団強姦、援助交際の強要、被害額が何百万にのぼるゆすりたかりにまで行きつき、ここまでくると証拠を集めて警察に引き継ぐという処置になってきます。
 ところで、かつて話題になった被害額が莫大なゆすりですが、よく「親は途中で気づかなかったの?」という反応を聞きます。しかしこれ、案外気づかないようなのです。もともと裕福ということもありますが、被害者は結構巧みに親から金を引き出し、ときには盗み、場合によっては姉妹の下着を売るということすらしてまでお金を用意するので気づかないままに被害額が膨らむということがあり得ます。
 とはいえ当然、ここまで被害が大きくなる背景には親の、とりわけ父親の無関心があります。著者の担当したいじめ事例の多くは父親の存在がまるで透明であるかのようで、子供のことは何をするにしても母親が前に出て、父親は後ろで黙っているということがよくあるようです。裏を返せば、父親がもっと家庭にかかわり、子供と交流していれば防げる、あるいはもっと軽症で済むいじめも多くあるかもしれないということでしょう。

 阿部泰尚 (2013). いじめと探偵 幻冬舎

【書評】ゆがんだ認知が生み出す反社会的行動 その予防と改善の可能性

 先日は主に脳機能における犯罪の原因を紹介した本を取り上げました。今回取り上げるのはそれと似ていますがちょっと違います。
 今回の主眼は「認知」です。受け取った情報を解釈する方法によって、反社会的な行動が促進されたり抑制されたりするというのが、著者たちの大まかな主張です。
 認知の歪みを「言い訳のメカニズム」と表現すれば、興味を引きやすいでしょうか。

 社会的学習理論
 本書では認知の歪みについて多くの理論が紹介されており、認知が専門ではない私にはかなり混乱もする状態になっています。ここでは、恐らく一番有名であろうバンデューラの社会的学習理論を紹介しましょう。
 社会的学習理論とは、個人は観察やモデリングを通して行動を獲得し、観察を繰り返すことでその行動が強化されるという理論です。早い話が、よく目にする行動は自分もよくしやすいということです。
 この理論を示す有名な実験があります。大人がボボ人形に攻撃をする動画を子供に見せると、その動画を見ていない子供よりもボボ人形へ攻撃をするというものです。これは、人形への攻撃を目撃したために、攻撃を獲得あるいは強化され、それを実行したというものです。
 ゲームや漫画など、犯罪を扱った創作物には犯罪への悪影響があると考える心理学者の多くには、この理論が念頭にあるのでしょう。ゲームに悪影響があるというのは、何もゲームが憎くて適当に言っているわけではありません。
 しかしちょっとまて、ゲームと犯罪との間に関連がないという研究はいくらでもあるじゃないかという反論が出てくるかもしれません。
 社会的学習理論には、弱点があります。それは、学習と強化という行動面に着目している一方で、認知の側面を無視しているというものです。これが、一見社会的学習理論と矛盾するように見えるゲームと犯罪の関連のなさを説明してくれます。
 バンデューラは後に、社会的認知理論と唱えます。これは、反社会的な行動は自己調整過程によってコントロールされるというものです。自己調整過程には、自分の行動を知覚・モニターする自己観察、社会的・個人的水準による行為の判断、それへの肯定的・否定的な評価による自己反応という3つの機能があります。
 簡単に言えば、仮にゲームによる悪影響があり、攻撃行動が強化されたとしても、自分の行動を適切にモニターし、それを否定的に解釈できれば反社会的な行動へは及ばないのです。逆に言えば、反社会的な行動に対して適切に否定的な評価・反応が下されないために、それらの行動が発生するとも言えます。
 従来のゲームと犯罪の無関係さを論じた研究の結論は、ゲームに悪影響がないというよりはゲームの悪影響が犯罪にまで波及していないというべきなのかもしれません。

 『いじめの構造』の再解釈
 本ブログでは内藤朝雄著『いじめの構造』を取り上げたことがあります。『いじめの構造』における議論は極めて説得的なのですが、心理学者から見るとあくまで社会学的な知見であり、調査や実験といった手法で確かめられるまでは完全に信頼できるものとはいえないのも事実です。
 本書は、認知の歪みという視点からいじめを扱っています。心理学的な知見を組み込みながら、『いじめの構造』を再解釈してみます。
 『いじめの構造』では、いじめの原因として、時として一般社会の規範と乖離する「ノリ」の存在を挙げています。これは、集団規範そのものでしょう。
 いじめにおける集団規範の役割は、簡単にですが本書でも取り上げられています。しかし、それを抜きにしても、いじめを肯定する集団規範は、道徳不活性化(自身が非道徳的な行為をしたことへ対する言い訳をして、道徳心との葛藤を避ける認知方略)の丁度いい口実になるのです。
 学校という集団から抜けたとたんいじめをやめるというのは、この集団規範から抜け出したために認知の歪みが解消された状態とも言えるでしょう。

 認知の歪みの研究に関しては、扱う概念が「道徳」という厄介なものであることからも、まだまだ議論の多いところではありますが、今後の発展に期待したいです。

 吉澤寛之・大西彩子・G, Gini・吉田俊和(編著) (2015).ゆがんだ認知が生み出す反社会的行動 その予防と改善の可能性 北大路書房

【書評】いじめの構造

 本書の題名と同じ本が実は新潮新書からも出ているのですが、レーベルの信頼性的にこちらを読んだ方がいいでしょう。新書って言うのは基本的に眉に唾つけて読むものですが、中公新書、岩波新書と講談社現代新書は信頼性が頭一つ抜けています。著者にもよるけど。
 著者は社会学者でいじめ研究の実績があり、この分野の家元と言えるかもしれません。
 本書は題名通り、いじめが発生する構図を、図を交えながら簡潔に説明したものとなっています。

 ノリの国の子供たち
 本書の指摘で特に注目すべきなのは、いじめ加害者の心理状態に対する分析でしょう。
 いじめ自殺が問題になるたびに、子供たちの規範意識の低下だとか、絆の希薄さだとかが注目され、加害者は人ではない悪魔かのような反応をされます。
 しかし本書は、いじめ加害者の子供たちがいわゆる「普通の子供」であることを指摘しています。彼らは学校内で壮絶ないじめを行いながら、卒業すると「夢から覚めたように」いじめをやめ、普通の人に戻るのです。
 子供たちをいじめ被害者に、あるいは加害者にたらしめているのは、学校という共同体内にある秩序だと本書は指摘しています。学校は年齢が同じというだけの人々を無作為に抽出し、1つの部屋に押し込め親密にするように強制します。この親密な共同体では、クラスの「ノリ」が最重要視され、他のものはすべてその下に位置づけられます。学校外部の社会の規範も例外ではなく、「人を傷つけてはいけない」という当たり前の社会規範も、あるいは法律さえも校内では無力と化します。
  もう1つのキーワードは全能感です。いじめ加害者は全能感を確認するために被害者に暴力を振るいます。ここで重要なのは、この全能感を確認したいという動機がどこからやってくるのかということです。
 大半の子供は、別にいじめを好んでするような性格ではありませんでした(本書ではAモードと呼称されている)。ところが、親密すぎる集団の中でいじめに従事させられたり、いじめ被害から身を守るために徒党を組んだりする中で、徐々にこのモードが書き変わり、いじめを好んでするようなBモードになっていきます。すると今までAモードで暮らしていた社会と亀裂が生じ、「いらいらする」ようになります。これが不全感の表れであり、不全感を解消するために暴力を誰かにぶつけ、被害者を変えることによって自分の力を確認し全能感を得るというメカニズムがあるのです。

 学校的集団の延長線
 その集団内での秩序が重視され、外側の規範が通じないという状態は学校以外の共同体にも見られるものです。 
 その代表的な例が会社でしょう。会社の中で労働基準法が全く無視され、まっとうな権利の主張が反発を生むのは、それらが社内の秩序の下位に位置するからです。またセクハラやパワハラの中には犯罪と呼称しても差し支えのないレベルのものもありますが、これがあくまでハラスメントと呼ばれるのは、校内での暴行事件がいじめや体罰と呼ばれる仕組みと共通しているでしょう。
 地域社会も学校の延長線上にあるために、学校的な集団としての特徴をもっています。本書では戦時中の隣組での事例が挙げられていますが、現在でも町内会やPTAとしてその精神は温存されています。
 あるいは、国家すらも学校的な集団であると言えるかもしれません。国家の外側にある国際社会の規範をガン無視したが故に日本は国連から大量に勧告を受けていますが、改善に着手する気配すらないのは日本社会の秩序の下位に国際社会の秩序が位置しているからでしょう。無論このような傾向は日本に限りません。
 つい最近も、堀江貴文が労働組合を結成した高校生をTwitterで罵倒したことが話題に上がっていましたが、国内の法律や憲法ですら、日本社会の秩序に従属しているのではと思わされる事例でしょう。

 学校的な集団の解体
 このような問題を解決するためには、学校的な集団を解体し校内の秩序を市民社会の秩序と一致させることが重要だと本書は指摘します。具体的には、警察沙汰になるような事例は躊躇いなく通報することや、学級を解体して大学のようなシステムにすることが挙げられます。
 しかし本書の指摘の中で最も興味深かったのは、教育バウチャー制というものです。
 これは、教育サービスをうけるのに利用できる通貨(バウチャー)を与え、それを消費することのみを義務としその方法は各々の判断に任せるというものです。国家が関与するのは、義務教育として最低限の読み書き計算と権利教育が身についたかというチェックのための試験だけで、どのような教育を行うかはその教育サービスを提供する団体次第です。
 この仕組みは、学校をより市民社会に近づけ、学校の秩序を無力化すると共に、その団体が何か問題を起こせば一気に支持を失い淘汰されていくというメリットがあります。市場経済的な仕組みですが、サービスを受けるのに必要なのは実際の資本ではなく国から提供されるバウチャーであるため、経済的な格差を埋めることも可能です。
 私はむしろ、この仕組みをいじめ問題解決のための方略としてより教育の可能性を広げるための方略として支持したいと思います。というのも、この仕組みなら従来問題となっていた子供と教育内容のミスマッチを防ぐことが出来るからです。
 学校教育の大きな問題は、極端な差のある子供に一律に同じ教育を施す仕組みにあります。これでは平均以上に理解力のある子供もない子供も授業に適合しないことになります。バウチャー制度なら、理解力のある子供はより発展的な内容を、ない子供は基礎をしっかり固めるといったようにサービスを受ける団体を分けることが出来ます。
 また、今問題になっている道徳の教科化や教科書問題も解決します。「日本人としての誇りが云々」 という教育が受けたい人はそういう団体を選び、嫌な人は別の団体を選べばいいというだけの話になるからです。鹿児島県知事のように「女子に三角関数は不要」というのであればそういう団体へ行けばいいだけの話です。支持されるかは別として。
 また職業教育がいいというのであればそうすればいいし、いや学問を学びたいんだというのであればそうすればいいというだけの話になります。哲学や心理学を学びたいとか、音楽や芸術を習いたいという需要にも対応できるかもしれません。

内藤朝雄(2009). いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか 講談社 

暴行を「やんちゃ」と言ったりたった3%で「可視化」と言ったり

 セクハラとかヘイトスピーチのような、従来の言葉の定義を離れて乱雑に使われ続けた結果本来の被害告発能力を失い単なる悪口に堕ちてしまった言葉というのがあります。そのような乱雑な言葉づかいは、それらの概念でもって被害の告発をしてきた人々の告発そのものを、無邪気にあるいは意図せずして無効化することに繋がりかねないので厳に慎むべきです。

 その行為は「やんちゃ」か?
 しかし、元々馴染みのない言葉においてそのような現象が発生するのはまだ理解できなくもありません。しっかりその言葉の定義を理解せぬままに用いれば、自然と乱雑な運用にもなりましょう。しかし最近では、別に馴染みのないわけではない言葉でこのような事態が起こっているようです。厳密に言えば、ベクトルが違うんですが。
   「女性教師をトイレに閉じ込め、爆竹を投げ込んで快感だった」。自民党の国会議員がホームページ上で、若いときのこととしてこんな発言をしていたことが分かった。イジメなどを肯定しているのではないか、とネット上で批判が相次いでおり、議員が不快な思いをさせたと謝罪する事態になった。
(中略)
 あるとき、産休の補助で来た若い女性教師が生意気だとして、放課後にトイレ掃除の点検をしに来たこの教師をトイレに閉じ込め、天窓を開けて爆竹を次々に投げ込んだ。教師は最初、「開けなさい」と言っていたが、そのうちに悲鳴に変わり、熊田氏は、「『やった~』と快感でしたね」という。
(中略)
  自民党の国会議員としては、中川雅治参院議員(68)がホームページ上に載せた発言も物議を醸している。
  中川氏は、安倍首相と同じ派閥に属している。発言があったのは、09年1月に自民党の義家弘介衆院議員、橋本聖子参院議員と行った座談会「日本の再生とは教育再生のことです」だ。
  そこでは、男子校の中学時代に、「クラスの悪ガキ」を中心に皆いつもふざけていて、同級生を全部脱がして、服を教室の窓から投げることをよくやっていたと明かした。同級生は素っ裸で走って服を取りに行ったという。当時、テレビではやっていた外科医のドラマにちなんで、「ベンケーシーごっこ」と呼んでおり、脱がした同級生に対しては、「皆でお腹やおちんちんに赤いマジックで落書きしたりしました」という。同級生は怒っていたが、皆いじめと思わなかったともした。今ならいじめを受けたとノイローゼになることもあるとして、「いじめられている方も弱くなっているという側面はありませんか」と自らの意見を述べた。
 「女性教師トイレに閉じ込め、爆竹投げ込む」 自民・熊田議員のヤンチャ自慢が大炎上し、謝罪-j-castニュース
 爆竹を投げ入れるにしても、全裸にするにしても私の感覚ではやんちゃの域を越して犯罪レベルだと思うんですが、国会議員の先生方はそうは思わないようです。まあやんちゃの客観的な定義があるかと言われればないんですが。
 まだブログにそんなことを書くような人々が、暴行事件を「やんちゃ」などと表現するのは当然の帰結としても、問題はこのようなニュースにおいても見出しで「やんちゃ」と表現してしまっていることです。ざっと調べた限りそのような表現を見出しで使うメディアは少数ですし、使ったとしても批判的な取り上げ方をしているのでまだいいのですが、メディアの側までそのような加害行為の矮小化に繋がる表現にのる必要はありません。むしろ積極的にその行為はれっきとした犯罪であると表現し糾弾するのが報道の役割でもあるでしょう。

 たった3%で「可視化」?
 検察と警察の取り調べの録音・録画(可視化)の義務付けや「司法取引」の導入を盛り込んだ刑事司法改革関連法案が7日、衆院本会議で与野党の賛成多数で可決された。自民、公明、民主、維新の4党で政府案の一部を修正した法案は、参院での審議をへて今国会で成立する見通しだ。
 法案によると、可視化の対象は、殺人などの裁判員裁判対象事件と検察の独自捜査事件。全事件の約3%にあたり、容疑者の取り調べの全過程が録音・録画される。
 取り調べ可視化、衆院通過 司法取引も導入 刑事司法改革関連法案-産経新聞
 一応暴行を「やんちゃ」と表現しなかった良識を見せた大手メディアも、この法案には「可視化」という表現をあっさりに使っているような印象を受けます。一応朝日毎日は適応される事件の少なさを批判的に取り上げていますが、産経新聞はさらっと書くだけでスルーしています。たった3%に適応されるものを「可視化」となんの留保もなく表現することに違和感を覚えなかったのでしょうか。
 この法案の問題は、たった3%の可視化と引き換えに司法取引という、冤罪の温床になりかねない取調べ手段を警察に与えるというところにあります。元々この改革は度重なる冤罪事件への対策として始まったものであるにもかかわらず、蓋を開けてみれば可視化というアリバイを作りながらより冤罪を生み出す方向へ舵をきるものになっています。
 この法案を「可視化の実現」などと表現するのは詐欺まがいの行為といっても過言ではありません。そのような背景に、各メディアはあまりにも無頓着ではないでしょうか。

 言葉は正しく使おう
 一言の表現というのは、些細なものでありながらその実すさまじい影響力を持っています。特に情報拡散力のあるメディアによって繰り返し唱えられれば、我々情報の受け手の印象を否応なく汚染します。暴行を「やんちゃ」と表現すれば大したことないように感じられ、たった3%でも「可視化」とだけいえば全面的に変わったような印象を受けます。よくよく考えればおかしな話で、人の認識はそんな単純じゃないだろうと反論したくもなるでしょうが、気をはっていない事柄への認識なんて誰でもそんなものです。あなたも私も叩けば埃が出るでしょう。
 だからこそ、言葉の選択は極めて重要で、慎重に行う必要があります。また受け手も、その言葉の選択が正しいのか注視する必要があります。

いじめは犯罪化で解決できるか

 岩手県矢巾やはば町で、いじめ被害を訴えていた中学2年の男子生徒(13)が電車に飛び込み自殺したとみられる問題で、男子生徒は中学1年のときから、当時の担任教諭とやりとりする「生活記録ノート」に、「(別の生徒から)何回も『死ね』って言われる」などと記載していたことが分かった。
 いじめ訴え、昨春からノートに…岩手中2自殺-YOMIURI ONLINE
 いじめを原因とした自殺があったために、またぞろよく聞かれる主張が方々で聞かれるようになっていました。
 それはいじめを犯罪として処理して警察に委ねようというものです。
 確かに現状では、暴行や恐喝とされるであろう被害も学校内で行われれば「いじめ」の一言で済まされ、警察へ被害の通報がいくことは稀でしょう。そのような現状を変えることに意味はあるかもしれません。
 しかしいじめはそれだけで解決するものでもありませんし、犯罪化することへのデメリットも存在します。今回はこの点を整理しておきたいと思います。

 犯罪化のメリット
 いじめを犯罪化することの最大のメリットは、警察の介入によって速やかに現在継続しているいじめを止めさせることが出来るということでしょう。学校に解決を求めれば色々と時間がかかり、場合によっては隠蔽されることさえあるというのは過去の事例が明らかにしていることです。いじめ被害者にとって最も重要なのは、現在の辛い状態を少しでも改善することであるはずです。
 また被害の回復もより速やかになるかもしれません。身体的にせよ精神的にせよ経済的にせよ、受けた被害を弁償してもらえる可能性はより上がると思います。
 犯罪化は、ともすると加害者にも一定の利益をもたらすかもしれません。いじめと学外での犯罪にどれだけ関連があるかはわかりませんが、もし学内でいじめをしている児童生徒ほど学外での非行行動がみられやすい、つまりいじめが非行の兆候として現れるのであれば、早めに介入することでより酷い犯罪に発展することを防ぐことも期待できるかもしれません。
 ある意味では最大の効果となりそうなのは、学校内外の価値観の差を埋める機能です。学校外で犯罪とされることを学校内では犯罪としないことに正当性は全くありませんが、現状それがまかり通っています。それはいじめ問題に限らず、教師の体罰問題でも同様のことが起こっています。警察の介入があれば、このギャップを是正することが出来るかもしれません。

 デメリットは?
 デメリットとして考えられるのは、犯罪と言えない程度のいじめの存在が目立たなくなってしまう可能性があるというものです。例えば無視というのはいじめの中でも一般的にみられるものですが、どの犯罪にあたるというのは難しいでしょう。また悪口は侮辱罪などにあたるでしょうが、バカとかアホとか言った程度でそれらの犯罪に当たるとして処理するのも難しいでしょう。
 また犯罪化というのは処理の中でもインパクトが大きいので、余程のことでもない限り積極的に活用するのが躊躇われるだろうというデメリットもあります。「まだ警察に連絡するのは……」という判断が続き、酷い状態になるまで放置されるという状態が続きかねないことになります。

 どうあるべきか
 いじめを犯罪化する際には、重度のいじめだけでなく軽度のいじめをこれから酷くなる前に解決できる方策も同時に提示すべきでしょう。
 どのみち、犯罪化はいじめが重度化しないと使うのが難しい方略です。酷いいじめへの解決方法として警察を使うという選択肢を用意することは重要ですが、根本的な解決にはなりにくいということは留意すべきでしょう。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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