九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

フェミニズム

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http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/53595799.html

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フェミニズムの一人一派は、おそらくこういうことだと思う

 フェミニズムではしばしば「一人一派」という言葉が聞かれます。これはおおむね「いろいろな立場はあるがどれもフェミニズムだ」というくらいの意味なのですが、フェミニズムについて理解しないことが基本姿勢となっているネットでは誤解が散見されます。
 そもそもですよ!?
 既存のフェミニズムは禁欲的な女性に対して都合が良すぎるんですよ。
「女性=保護の対象」
「優遇されてるところだけ残してブスや非モテに当たる人達に美人と同じような振る舞いを求めるのはやめましょう」
 みたいに言う人が多すぎるんです。
 それに対して迷惑している女性も多いじゃないですか?
 強い女性の味方になるフェミニズムがあってもいいと思うんですよ。
 かわいい子にかわいいって言うのはかわいくなる努力を尊重する意味で当然だし、
 経済力を持つ努力をした女性がお金を出したり、危険な環境に飛び込んでいくことに対して「いいぞ、もっとやれ!!」というフェミニズムがあってもぼくはいいと思う。
 俺がフェミニストだ!-ミサワブラック
 例えばこれは、どちらかというと一人一派というか、すでにフェミニズムが主流の主張として扱っているものをそうでないかのように論難し、男性の論者が改めて述べるという悪辣な功績の収奪という問題になっているという側面のほうが強い気もしますが、要するに「何でも言っていいんだろ?何言ってもフェミニズムなんだろう?」くらいの雑な理解がよく見られます。

 フェミニズムの一人一派を理解するためには、それが発生した背景を考える必要があるでしょう。もっとも私は学問的な意味ではフェミニズムの専門家でないのでいささか不完全な解説にならざるを得ないのですが、しかしフェミニズムの一人一派はネットで検索してもろくな解説が出てこないので、不完全さを承知の上で書いておきましょう。非専門家とはいえある程度フェミニズムの本とかは読んでいるので、まぁ大きく外れない推測にはならないでしょうたぶん。

 フェミニズムの一人一派はその背景に大きく分けて2つの由来があるのではないかと思います。

 分断を否定する
 フェミニズムに限らずですが、マイノリティ運動の多くの困難は分断にあります。どんな主義主張でも全く同じになることはありえず、故に運動内部でも様々な主張が混在することは避けられないのですが、そもそもの人数が少ないマイノリティ運動には意見の決裂が致命的な結果につながることもままあります。
 それでも運動が意見を戦わせた結果としての物別れであればやむを得ないでしょうし、ネガティブな面ばかりではないでしょうが、マイノリティ運動は時折「マジョリティが都合のいいマイノリティを祭り上げて『これが本当の○○だ!』とやる」という格好で意図的に(あるいは非意図的に)分断を試みるという手段を用いることがあります。Twitter上の表現の自由議論やフェミニズム界隈では森なんちゃらとか、まさにそんな感じですね。
 あるいは具体的な個人を祭り上げずとも、引用した三沢坊のように「これが本当の○○だ!そうじゃないものは嘘だ!」ということを言って否定するという手法を使うこともあります。

 フェミニズムの一人一派という概念は、このような分断を否定する効果があります。「そう思うならそうなんだろ、お前の中ではな」という理屈で「本物の○○」という存在それ自体を排除することができるのではないでしょうか。それはそれで、明らかに(女性の権利の尊重や拡大という意味としての)フェミニズムではないものを否定する論理がいささか難しくなるという短所はあると思いますが。この手の人にはそもそも話が通じないということもあって。

 分断とよく似た話ですが、「権威による認定」を防ぐという機能もあるのではないかと思います。『「フェミニズム」とは知識ではなく心の持ち方である-togetter』でまさにタイトル通りのことが指摘されていますが、要するに「こいつは大学で学んでいないから駄目だ」式の否定を無化し、同時に後述するような体験を重視するという意味で広く一般の思想を拾い上げるためにも、一人一派という概念は必要だったのでしょう。

 フェミニズムは体験を重視する
 もう1つの理由は、フェミニズムが体験を重視するという性格からくるものであろうというものです。「私がエビデンス」とかありましたもんね。体験を重視しそれに立脚する以上、そこから伸びる主張は千差万別であり、一人一派となることは必定でありましょう。

 ではなぜフェミニズムが体験を重視するのでしょうか。それは1つには、フェミニズムが問題する様々な問題は公的な統計や研究に表れにくいという背景があるからでしょう。『「ポルノ利用と性犯罪発生件数には相関がある!」はなぜ無意味なのか』でも論じたように、例えば性犯罪であれば統計に表れるまでにハードルが多いという原因もありますが、そもそも統計や研究が存在しないということも少なくありません。

 それはどのような統計を取るべきか決定する権力や研究者の中にまだまだ女性が少なく、統計や研究の興味関心もまた男性中心的になる傾向があるという原因から来ています。「エビデンスがないぞ!」と言いつつエビデンスを自分では用意しないというわけですね。
 いまや懐かしくなりつつある『続報・「JKビジネス13%」への反応がやっぱり明後日すぎる』で言及しましたが、国連の報告者が女子高校の売春経験の割合が13%という信頼性にはいささか疑問のつく数字を用いたのも、元をたどればそれを示す公的な統計が欠けていたからです。

 このような背景からかフェミニズムは個々の体験を重視し、一人一派という概念を築き上げたのではなかろうかと思います。もしかすると重要な由来をすこっと抜かしている可能性はありますが、ネットに氾濫している雑な理解よりは妥当な解説を提供できたのではないでしょうか。
 そもそも一人一派って誰が言い出したのか調べてもわかりませんでしたし。上野千鶴子がなんちゃらという文章も見ましたがいささか信頼性に欠けるのでどうにも。

私(男)が性犯罪を語るときに気を付けていること


 上にあるような議論があって、なんだかなと思います。
 それこそmetoo以前にも、 伊藤詩織氏の以前にも女性が性犯罪について声を上げるということは数えきれないくらいありましたし、遡ろうと思えばいくらでも遡れるでしょう。
 しかし性犯罪の問題について、男性が発言するのは重要であるというのも事実です。そこで今回は、同じく男性である私が性犯罪について発信するときに気を付けていることをまとめておこうと思います。気を付けているといっても、あぁそういえばこんな感じで書いてるなという程度のものなんですけど。

 あくまで「社会の理不尽を批判する」姿勢を貫く
 これもすでに何人かの人が指摘していることではありますが、なぜか女性の性犯罪被害を「知ってしまった」人たちは勝手に盛り上がって「女性に」物申したりあれをやれこれをやれとアドバイスしがちです。しかし後述するように、フェミニズムや性犯罪にはすでに多くの積み重ねがあります。素人が一朝一夕に知れる範囲、思いつく範囲というのはもう掘りつくされている鉱山のようなものなのです。
 ゆえに、こういう人が女性に物申そうとするとたいていの場合余計な発言となって、場合によっては女性の不況を買います。今更やってきて今更な発言を得々とされたら当然イラっとします。しかしフェミニズムに目覚めたつもりの男は自分が女性の味方のつもりでいるので、自分が彼女たちに受け入れられるだろうと見込んでおりその当てが外れると憤慨しかえって敵対するようになるという本末転倒な反応を示す場合があります。
 このようなことにならない一番簡単な方法は、あくまで物申す対象は女性を取り巻く社会の理不尽であり、その社会をおおむね構成している男性であるという姿勢を貫くことです。21世紀もそこそこ進んだ頃に今更男の側から女性に言えることなんて大してないでしょう。

 過去と今を知る
 フェミニズムにせよ性犯罪研究にせよ、今までに多くの蓄積がなされています。これを読み解かずして性犯罪問題を語ることはできないでしょう。
 【書評】女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち
 【書評】性と法律――変わったこと、変えたいこと
 上掲の書籍はかつてこのブログで書評した、新書で読みやすい、性犯罪に関する本です。性犯罪に言及するのであれば最低限これくらいの見識は欲しいものです。
 【書評】女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識
 【書評】性犯罪の行動科学
 また少し専門的にはなってきますが、性犯罪に関する知識を網羅的におさえることができます。特に後者は犯罪心理学の知見を一覧することができ、おすすめです。

 最もわかりやすい、フェミニズムに目覚めたばかりの男の姿勢として一番おすすめなのは「半年ROMる」という古典的なものです。これは要するに、せめて発言するなら最低限の知識と姿勢を身に着けるべきだということです。
 女性を取り巻く問題に気付いたことそれ自体は喜ばしいことです。しかし裏を返せば、その年になってようやく気付いたということであり、それまでにあなたの頭の中には世に蔓延する「常識」や「定見」で目一杯詰め込まれているはずです。そのような常識と対抗するには、かつての先人の仕事を借りて自分の頭の中にある認識を点検し、改めていくほかありません。

セクハラ・性犯罪への対処で被害者をまずは信じるべき理由

 前回記事『性犯罪内閣にセクハラへの正しい対処法を教えよう』同様、財務省事務次官のセクハラ問題に関してです。

 上掲のようなやり取りを経て、やはりというかなんというか、音声データという証拠が出てきてもなお捏造を疑いたがる人々が無視できない割合で存在することを確認した次第です。なお音声データ捏造説が信用できないという話は前回記事に書いています。
 しかし「推定無罪だ!」という主張も一見するとそれっぽく、また被害者を信じようというある種素朴な認識というのは言語化しにくいという面もあるので、また馬鹿が馬鹿なこと言ってるよなどと放置するといつの間にかこういう主張がまかり通っているという事態にも陥りかねません。もうなってるんですけど。
 今回の事例に関しては前回記事に書いたことが全てであろうと思うので、今回は一般論として「なぜセクハラ・性犯罪の対処をするときに被害者をまずは信じるべきなのか」ということに関して論じていきます。

 被害者を信じるべきこれだけの理由
 被害者をまずは信じるべき理由を一覧にして書き出すとこんな感じです。
・セクハラや性犯罪が被害者の捏造であるという神話があるから
・被害者の方が社会的な立場が弱いから
・推定無罪云々はあくまで刑事裁判のはなしだから
・極めて細かいことを言い出したら一生被害を証明できないから
・そもそも被害者の信用を貶めるのが加害者側の戦略だから
 順番に見ていきましょう。

・セクハラや性犯罪が被害者の捏造であるという神話があるから
 レイプ神話というのは、性犯罪に関する事実に反する思い込みや偏見のことです。このレイプ神話はセクハラにも適応できるでしょう。
 そんなレイプ神話の中には、性犯罪やセクハラの大半が被害者の捏造であるというものがあります。加害者とされる男性を貶めるために被害を捏造するそうですが、これが虚偽であることは財務省の対応を見ればわかります。セクハラをした事務次官が懲戒されない社会で、いったいどうやってセクハラを利用して相手を貶めることができるのでしょうか。
 ともかく、レイプ神話というのは性犯罪にまつわる偏見です。つまり世の中に蔓延し、自分の中に知らず知らずのうちに入り込むフレームワークです。なので人々というのは誰でも、気を抜くとこの神話を信じ込み、あるいはそこまでいかなくて神話を信じる方向へ傾きがちです。
 そのような状況で、無自覚に性犯罪やセクハラ問題に接すれば、当然の帰結として被害者を疑う方向へ偏ります。後述するようにセクハラで二者間の中立に立とうとすることにはそもそも問題がありますが、これでは中立ですらありません。
 自分の中にレイプ神話が存在し、主義主張に影響を与えている以上、まず被害者を信じる方向へ頭の中をシフトしなければバランスが取れません。

・被害者の方が社会的な立場が弱いから
 前の項目は、中立に立とうとしてもレイプ神話があるからそのままでは無理だよという論調で書きましたが、そもそも性犯罪やセクハラ問題において裁判官でもないのに中立に立とうとするという出発点がそもそも間違っています。
 性犯罪にせよセクハラにせよ、これらの被害の多くは被害者がその被害を訴えにくいという事情に乗じて行われます。その事情というのは、極めてプライベートな事項である性的な事柄をある程度は公開しなければ告発できないということと、社会的な立場の違いによるものです。
 言うまでもなく、自分より社会的に偉い人には逆らいにくいものです。上司に逆らったりすれば最悪首になるかもしれませんし、ほかにもそれぞれの場面で細かい事情は特有ですが、偉い人が自分にとって重要な何かを握っているというケースは広く見られます。
 性犯罪やセクハラは、そのような権力を利用することで発生します。つまり元から被害者と加害者は対等ではなく、被害者のほうが加害者よりも立場が弱いのです。そしてその立場は、訴えに対する扱いに関して社会や自分の所属する集団に主張するパワーの違いや、その問題に対して割くことのできる経済的、時間的、あるいは人的なリソースの違いとなって現れます。
 このような状況で「よし、俺は中立の立場に立つぞ」とあなたが思ったとしましょう。その場合この権力勾配は温存され、加害者の立場が強い状態が維持されるので本質的には全然中立でも何でもない状況になります。もしバランスをとりたいと本気で思うなら、部外者は被害者に最大級肩入れしなければそれは実現できないのです。
 またそもそも、もっと素朴なことを言えば、加害者のほうが悪いんだから被害者を全力で援護することに何の問題があるんだという話にもなると思いますが。

・推定無罪云々はあくまで刑事裁判のはなしだから
 こういうことを言うと「推定無罪だ!」という人がいますし、実際に私に言ってきた人もいます。
 しかしかつて『当然だが、行政に「推定無罪」は適用されない』で論じたように、推定無罪は刑事裁判における原則です。これは被告と検察の対立では検察のほうが圧倒的に強いので、その格差を是正するために検察が有罪を証明できなければ無罪であると定めているものです。
 セクハラも刑事裁判として扱って加害者を牢屋へぶち込んでやるという場合にはこの原則が適応されますが、今回のような場合はそうではありません。途中で会社が出てきましたが元々は被害者と加害者の直接対決です。故に推定無罪が登場する余地はありません。
 また事実認定にどの程度の正確性を求めるかに関しては、加害者にどの程度の処罰を求めるかによると思います。前述のとおり刑事罰を求めるのであれば推定無罪の原則を適応するレベルで厳しい水準を設ける必要があるでしょう。一方管理職を退かせる「程度」(あえてこう書くけど)であれば、セクハラが事実行われたというもっともらしい証拠さえあれば十分で、被害者がだれかとか具体的にどのような被害があったかなどが明らかになる必要はないと思います。つまり、新潮が公開した音声があれば十分でしょう。それに反論するのであれば、音声が捏造であったことを示すことができる程度の証言なりなんなりを出す必要が加害者にあります。

・極めて細かいことを言い出したら一生被害を証明できないから
 原理的にはどんな証拠も捏造の可能性を皆無にはできません。これはあくまで原理的にはという話で、実際には警察が悪辣でない限りは無視できるレベルの可能性にすぎません。今回の音声にしても、記者にとってみればリスクを負ってまでセクハラを捏造する理由はなく、また万が一捏造するにしても存在しない音声を合成して作り上げる必要性は皆無です。だいたい、合成で作れたということは音声そのものはあったというわけで、セクハラ以外にどういう経緯があったらあんな音声が記者の手に渡るのか、論理的な説明を付すことは不可能です。
 私がやり取りした人は「性風俗で行われた会話である」と「親しい友人に対するものである」という2つの可能性を提案していました。が、前者であればやはり記者が音声を持っている理由が説明できませんし、相席居酒屋に行った前川前事務次官をあんなに批判したのに福田事務次官はお咎めなしとなると一貫性がなくなります。後者であれば、そのやり取りに記者が同席していたと考えれば音声を持っている理由は説明できますが、女性がいる中で男性同士で性的な会話を大っぴらにするというのはその時点でセクハラなので詰みです。
 こう考えると、現実的で音声の捏造を疑う理由はなく、今後もよほど信頼できる反論が登場しない限りそれは変わらない、むしろ今後発売される新潮の報道の如何によっては信頼性が増す可能性のほうがあるという状況にあることが容易にわかります。
 しかし原理的にはやはり、捏造の可能性は皆無にはならないので、否定したい人はそこの点を延々とつくわけです。被害を証明するのは被害者だというのであれば、捏造を証明するのは加害者ということになると思うのですが。

・そもそも被害者の信用を貶めるのが加害者側の戦略だから
 最後にこの話です。
 レイプ神話の中にあるものの1つに、被害者は風俗嬢だという話だとか、むしろ誘ってたんだという話もあります。別に風俗嬢だったり誘われたりすればレイプしていいということにはならないと思うのですが、この手の話は加害を否定したい層に人気があるようです。
 性犯罪やセクハラは多くの場合、物証に乏しく証言が重要な争点となることがあります。合意があたのかどうか、そんなやり取りがあったのかどうか……今回のように音声が残っていてもなお疑われるのですから、証言しかない場合に被害者がどのような扱いを受けるかは想像に難くありません。
 また先述のように、加害者のほうが立場が上ということも多いです。こうなると証言においても加害者のほうが信用されるという事態に陥り、被害の証明が非常に困難になります。
 そしてこのような状況まで見込んだうえで、加害者は加害に及びます。故に、このような状況に対し無批判のまま被害者の証言を疑うということは、それ自体が次の被害の準備に利用されることでもあります。
 そのような事態を避けるためには、まず被害者の証言を信用するのだという社会的な合意を形成し、加害者へ加害を誤魔化すことはできないというアピールをし現状を変える必要があります。被害者の証言をまずは信じるという原則が徹底されれば、被害者と加害者の間にある勾配も是正され、そのときようやく被害者が対等に戦うことができるようになるでしょう。

「ドクター差別」の議論の誤りをとことん洗い出す(それ以外のあれこれ編)

 最後です。前回前々回記事『「ドクター差別」の議論の誤りをとことん洗い出す(女性専用車両は差別か編)』『「ドクター差別」の議論の誤りをとことん洗い出す(女性専用車両は法的にどうなの編)』の続きとなります。
 「ドクター差別」は記事の中で世にある「男性差別」の事例を挙げています。多分女性方からすれば「またレディースデーの話してるの?」という感じでしょうからそこは飛ばして、もっと別の話をしましょう。

 大阪市の職員採用は男性差別?
 それよりも「問題」なのは、公務員採用試験の女子受験者への「えこひいき」です。以下は、大阪市の2013年度職員採用試験の結果ですが、男女の合格者比率でこれほどの「偏り」が出るのは、尋常ではありません。受験者数を「男女同数」と見なして、男女の合格者比率を調整すると、その数値(の偏り)は「女子合格者85%、男子合格者15%」と、さらに大きくなります。これは、ほんの一例です。なお、地方公務員採用試験だけでなく、国家公務員採用試験でも、これほどひどくはありませんが、その傾向は見られます。

大阪市2013年度職員採用試験
女子受験者数 335人
女子合格者数 53人    合格率 15.8%  合格者の81.5%
男子受験者数 425人
男子合格者数 12人    合格率  2.8%  合格者の18.5%

 女性の市職員が少ないから? そんな理由で、女子受験者を「えこひいき」して良いのでしょうか? いいえ、良いはずがありません。女子受験者は、まったく差別されていないのに、なぜ優先して合格させる必要があるのでしょうか? 一方、何の落ち度もない男子受験者にとっては、合格点に達しているはずなのに不合格になる人が出てくるわけで、(男性)差別以外の何物でもありません。一生を左右する(公の)就職試験で、こんな「不正」が行なわれていいわけがありません。
 それとも、この結果は「偶然の産物」と言うのでしょうか? あるいは「公正な試験の結果」だと言うのでしょうか? この結果を(大阪市に)問い合わせた人によると、電話に出た市職員は「女子は、男子よりも、コミュニケーション能力(=面接能力)があるからだろう」などと言ったそうです。もし、それが本当だとしても「男女でこんなに隔たりのある結果を生じるような選抜方法自体が極めて差別的」と言えます。「間接差別」の考え方では、「結果的に大きな格差が生じるような方法は、たとえ取り扱いに差がなくても、(不当な)差別と見なされる」のです。
 大学入試でも「女子を優先して合格させる、入学させる」という「女性優遇」が生じつつあります。2010年に問題になった九州大学(理学部数学科)は、結局「女子優遇」を取りやめましたが、昨年には東大の「女子学生だけに家賃補助」というのが問題になりました。しかも、東大は「推薦入学で、女子を優先的に入学させている」という指摘もあります。「私学」と違って、どちらも「国立」ゆえ、「大学の勝手でしょ」というわけにはいきません。
 ここに注目しました。「ドクター差別」曰く大阪市の採用試験は差別的だということです。
 ここでメディアリテラシーをうまく機能させるちょっとしたコツをご紹介。それは「なぜいまは2018年なのにデータは2013年のを使っているの?」と疑問を抱くことです。こういうデータの使い方をする理由はおそらく
・昔手に入れたデータを更新する努力を怠っている。
・状況が変化していて最新のデータを使うと自分の言いたい結論が導けないから使わない。
・このデータはその年だけたまたまそうなっているだけなので都合のいい部分を引き抜いた。
 あたりでしょうが、どのみち不誠実なことには違いありません。
 なので調べてみました。

 実はデマ臭かったこの話
 まず大阪市の職員採用の実施状況をまとめたページを見てみます。するとここでは応募者や採用者の男女比が開示されていないことがわかります。いろいろ調べてみましたがどうも大阪市は細かい男女比のデータを一般には公開していないようです。
 ではなぜ「ドクター差別」は男女比のデータを知っているのでしょうか。もっと調べてみると以下のようなブログの記事にたどり着きました。
大阪府・市採用、合格の8割が女性…人物重視で
2013年9月18日 読売新聞
 大阪府、大阪市の2013年度職員採用試験で、事務職(大卒程度)の合格者の約8割が女性となった。
 教養問題を廃止し、エントリーシート(ES)や論文など「人物重視」の試験に切り替えたところ、女性比率がアップした。女性のアピール力の高さが浮き彫りとなった形だが、府・市は「男女半々が理想で、ここまでの偏りは予想外。女性に有利になっていないかなど試験変更の影響を検証したい」としている。
 大阪市は今春、主に市長部局で働く事務職を55人程度募集。受験者760人のうち女性は335人(44%)で、1次試験は志望動機や自己PRを記入するESと小論文を実施した。2次試験では、集団で架空の商店街の振興策を企画するなどの「グループワーク」と論文、3次試験では面接と適性試験を行い、最終的に65人が合格。うち53人(82%)が女性だ。
 府の採用試験は受験者1121人で、女性は464人(41%)。最終合格者86人のうち67人(78%)が女性だった。府・市は12年度も、女性が最終合格者の6割以上を占めた。
 職員採用試験(大卒)合格者に占める女性の割合 大阪府78%・大阪市82% 「人物重視」試験で上昇↗-前から後ろから!
 ようするにかつて読売新聞が報じたので、この年だけ公開されていな男女比の細かいデータを彼は知っていたということですね。未だに2013年のデータを使っていることもこれで説明ができます。
 さて、ここから導ける結論はなんでしょうか。それは「大阪市が男性差別的な採用をしている」ではなく「2013年の採用は女性が多いがその傾向がその後も続いているかは不明で、故に差別かどうかはよくわからない」です。

 もっとも、仮に「ドクター差別」の示したデータの傾向が今に至るまで続いていたとしても、それだけでは「男性差別」と断じることはできません。
 まず第一に、彼は「女性を優先して取り本来であれば合格するはずだった点数の男性を排した」かのように書いていますが、そのような処理がなされた証拠はありません。読売新聞の記事などを読む限りむしろ「上からとったら女性ばっか残った」というニュアンスもありますし。
 また間接差別云々に関しても、女性のほうが男性に比べて著しくコミュニケーション能力が高いという根拠があるわけではないので説明としてはかなり怪しいです。一応女性のほうが高いだろうとは言われていますが、ここまで採用に大差がつくとは思えません。
 最後に、女性が多く取られるという外形的には女性を優遇しているという結果は、必ずしも男性を差別しているために生じているとは言えません。この論点は『女尊男卑コピペの真偽 真に「男性差別」をなくすために』でも論じたことがありますが、例えばの話「事務職なんて女性で十分だろ」という発想で女性が多く採用されるのを誰も女性優遇とは考えないでしょう。
 「人物本位」を謳う採用にありがちなことですが、大阪市の採用にバイアスがかかっているのは間違いないでしょう。しかしそのバイアスがどのようなものか不明である以上、男性差別だとも女性差別だとも言えないのが現状です。

 なお「ドクター差別」は引用部分後半で大学における男性差別の例として九州大の女性枠と東大の家賃補助をやり玉に挙げています。しかし九大の件はすぐに廃止されており、その動きだけを見るとむしろ入試における女性優遇が進んでいないことの証左になるでしょう。また家賃補助は女性学生が遠くの大学に入学することに否定的な親が多いという現状を踏まえられて作られたもので、これはマイナスを0にする類の施策であり優遇にはなりません。

 女性専用車両は真に痴漢対策となるか
 ところで、私は「男性差別と同様、女性差別にも反対」ですし、「痴漢対策には大賛成」です。ただし、「女性差別を解消すると称して、男性差別をするのは大反対」ですし、「痴漢対策と称して、男性対策をするのは大反対」なわけです。もちろん、「女性専用車」以外にも、痴漢対策はいろいろありますし、そもそも痴漢犯罪が減らない、痴漢被害が減らない「女性専用車」では「痴漢対策」としては失格です。
 現行の「女性専用車」の一番ダメなところは、「痴漢対策」と言いながら、痴漢被害が減らないことです。たしかに、「女性専用車」に乗ったA子さんは、痴漢に遭う可能性は(ほとんど)なくなるでしょうが、「女性専用車」に乗らないB子さんが、A子さんの代わりに痴漢に遭う、というのが今の仕組みです。これでは、被害者が代わるだけで、痴漢被害に遭う女性の数は減りません。男性にとっては「協力」のしがいがない状況になっています。
 最後に、この部分に関して簡単に反論しシリーズを締めようと思います。
 確かに、女性専用車両は痴漢対策としてはあまり本質的ではなく応急処置の意味合いが強いです(『本当に効果のある痴漢対策選手権』参照)。もっと効果性のありそうな対策もあるでしょう。
 しかし何度も繰り返すように、そのような効果のあるかもしれない対策を渋っているのは他ならぬ鉄道会社です。そのような状況にあっては女性専用車両という緊急避難先の存在はどうしても必要なものになります。
 さて、そのような緊急避難先に対して「ドクター差別」ら男性差別に反対すると称する人たちがしていることは何でしょうか。女性専用車両に乗り込み乗客を恫喝するという行為は「あぁこんな危険な人がいるならやっぱり女性専用車両は必要だよね」という結論しか導けません。だいたい、痴漢を本当になくしたいならばもっとそのことを鉄道会社に訴えるとかいろいろと手段があるのに、そのような活動をしている節はありません。記事最後尾に書かれているもっと効果のある対策をという話が女性専用車両反対の口実であるとみなされても仕方ないでしょう。

 三回にわたって書いてきた記事の中でわかったことは、「ドクター差別」の差別観や現実認識が妥当なところから大幅に逸脱しているということです。このような、単なるミソジニストに発表の場というお墨付きを与えた産経新聞の責任も問われるべきでしょう。

「ドクター差別」の議論の誤りをとことん洗い出す(女性専用車両は法的にどうなの編)

 前回記事の続きです。
 一方、「女性専用車」に乗車するのは、「抗議」が目的ではありません。電車内で抗議(活動)なんぞしたら、鉄道係員に降車させられても文句は言えません。ですので、基本的には「ただ粛々と乗車しているだけ」です。と言っても、乗車形態としては「その通り」ですが、その目的は、やや難しく言うと、「任意性が担保されているかどうかを確認するため」です(注:これを、私らは「任意確認乗車」と呼んでいる)。
  裁判所も、国交省も、そして各鉄道会社も「女性専用車には男性も乗れる(=あくまで「任意の協力」で成り立っている)」という見解で一致しています。法解釈としても、運送契約としても「どの車両に乗ろうが、その人の自由(=任意)」なわけです。とは言え、ホームや車体には、「女性専用車」「Women Only」などの文言が書かれたステッカーがベタベタと貼ってあります。まあ、どっちが「本当」かは分かっていますが、実際乗車してみないと「真実」は分かりません。
 案の定、「任意性が担保されていない場合」がしばしばあります。今はそれほどでもなくなりましたが、数年前までは停車駅ごとに駅員数人がやって来て、他の車両への移動を「お願い」してきました。時には発車時刻が過ぎても、「任意協力」のお願いをやめようとしないこともありました。それで、電車の遅延を私のせいにされたら、たまったものではありません。
 私が「ドクター差別」として女性専用車両に乗り続けるワケ-iRONNA
 「ドクター差別」を始めとする女性専用車両に反対する人々が拠り所としているのが、女性専用車両があくまで「任意に基づく」ものであるという点です。
 実際のところ、主義主張をでかでかとプリントしたTシャツを着て集団で女性専用車両に乗ることを「ただ粛々と乗車しているだけ」と表現するのは明らかに詭弁であり、抗議の目的を持った行為であることは論を待ちませんが、それを抜きにしても「任意だから自分たちが乗っていい」という論理構造にはそもそも無理があります。

 確かに法的な拘束力はない
 「ドクター差別」が主張するように、女性専用車両への男性の立ち入りを禁じるルールは今のところありません。例えば鉄道営業法には女性専用の車室に男性が立ち入ることを禁じる条文がありますが、以下に述べられているように鉄道会社が女性専用車両を寝台列車のような意味での女性専用とはしていないためにこの条文が適用されていない状態になっています。
 そもそも男性が女性専用車両に乗ることは、法に触れるのか。鉄道営業法34条では「制止を肯せすして左の所為を為したる者は十円以下の科料に処す」と定め、該当する行為として「婦人の為に設けたる待合室及車室等に男子妄に立入りたるとき」(同2号)をあげている。明治33年公布の法律なので言葉づかいや10円以下という過料の額に時代を感じるが、素直に解釈すれば、男性が理由もなく女性専用車両に乗るのは違法だと読める。
 実際はどうなのだろうか。国土交通省に問いあわせたところ、次のように教えてくれた。「現行の女性専用車両に、鉄道営業法34条2号の適用は想定していません。女性専用車両は、鉄道事業者が輸送サービスの一環として実施しているもの。法的な強制力はありませんが、利用者のご理解とご協力のもとで成り立っています」
 微妙な言い回しだが、要は男性が乗っても法的にはお咎めなし。高齢者や妊婦、身体障害者のための優先座席と同じく、あくまでもマナーや道徳の問題としてとらえればいいようだ。なぜこのような法解釈が可能なのだろうか。刑事事件に詳しい長谷川裕雅弁護士は次のように解説する。
「『婦人の為に設けたる待合室及車室等』(鉄道営業法34条2号)に女性専用車両は該当しないというのが、国土交通省の考えなのでしょう。女性専用車両は女性向けのサービスで、男性の乗車を刑罰によって禁止するほどの強力な法的意味は持っていないことになります。実際、女性専用車両のステッカーには、違反した場合の罰則も書かれていません。罰則が明記してある車内暴力に関する警告ポスターなどとは異なります。『婦人の為に設けたる待合室及車室等』で想定されているのは、もっと厳格な排他的領域をいうと考えられます」
 そもそも、鉄道各社も男性を完全に閉めだしているわけではない。たとえばJR東日本は女性専用車両のステッカーに「小学生以下の男の子、お身体の不自由な方とその介助者の男性にもご利用いただけます」と記載。こうした対応は他社も同様で、常識的な範囲で男性客の乗車は認められている。
 鉄道営業法 -「女性専用車両」男が乗っても法的にはOK-PRESIDENT Online
 任意の協力、というのは単に鉄道会社が強制力を持ってこれを運営すると「ドクター差別」のような反発をより生むだろうという恐れ、それから妊婦や傷病者に付き添う男性、あるいは母親に連れられた子供や比較的空いている(かどうかは実際のところわかりませんが)車両に乗りたい交通弱者、または誤って乗ってしまっただけの人を積極的に排除しないという意味合いも含むのではないかと思われます。

 裁判での結論
 「ドクター差別」とは関係ないようですが、女性専用車両に反対する会という集団がつくばエクスプレスに対し訴訟を起こしたことがあるようです。詳しくはこの件について調査した資料屋本舗『「女性専用車両に反対する会」、つくばエクスプレスと警視庁相手に訴訟を起こして見事訴えを退けられた』の記事を参照してください。そこでは女性専用車両が事実に反し女性専用であると表示されているために男性が乗車できないという点、乗務員が強く説得したために車両から排除されたという点(もう1店ありますが割愛)の2点における違法性を訴えています。
 まず前者について、裁判所の判断を引用しましょう。
 そして、現在、被告を始めとする多くの鉄道運行事業者が実施している女性専用車両の設定(甲6の1、6の2、弁論の全趣旨)は、平日の通勤通学の時間帯に相当な混雑をする首都圏等大都市圏の通勤電車(公知の事実)において、痴漢犯罪の被害を受けるおそれのある女性の乗客に対し、少しでも安心、快適な通勤通学環境等を提供するために行われていると解せられ(甲6の1)、これは目的において正当というべきである。しかも、本件鉄道において、被告女性専用車両が設定されるのは、上記第2の2(2)に記載のとおり平日の通勤時間帯の一部電車、しかも、同車両が設定されるのは6両編成の車両のうちわずか1両のみに過ぎず、これは健常な成人男性の乗客をして他の車両を利用して目的地まで乗車することを困難なら占めるものではないから、健常な成人男性の乗客に対し格別の不利益を与えるものでもない。
 さらに、上記のような被告女性専用車両の設定目的に鑑みると、その実効性の確保は重要であり、これを男性も含む本件鉄道の利用客に周知させる必要があることは論を待たないというべきところ、本件鉄道の利用者は不特定多数に及ぶものであることからすれば、かかる不特定多数の利用者に対し、被告女性専用車両の存在を周知させるためには、その表示も相当程度簡明であることが必要であると考えられる。
 つまり女性専用車両は目的や手段、その程度において正当であり差別ではないと結論しています。
 後者の点はどうでしょうか。
 原告ら等健常な成人男性が、しかも集団で同車両に乗車するとなれば、現に同車両に乗車する他の乗客に対し少なからぬ不安感を与えるであろうことは容易に想像ができる。そうすると、公共交通機関である本件鉄道を運行する会社であり、かつ自ら同車両を設定した被告には、現に同車両に乗車する乗客の不安感を払拭するため最大限の行為を行うことがむしろ期待されているというべきであって、そのためには原告らに対しある程度強い説得行為が行われたとしても、これをもって直ちに社会的相当性を逸脱した行為と断ずることはできない。
 この点においても、ある意味では当然といえる判断が下されています。このような判断を考慮すれば、女性専用車両を男性差別であると法的にも主張することはできないでしょう。

 「ドクター差別」の行為は通常の乗車の範疇を逸脱するのでは?
 ところで、記事前半で「ドクター差別」の乗車行為が粛々としたものであるとするのは詭弁だろうという話をしました。彼の乗車行為は明らかに抗議を目的としたものであり、彼が自身で書いている理屈が適用されるのであれば彼は女性専用車両から排除されても仕方がないということになります。
 それを抜きにしても、裁判で言及されているように本来男性が立ち入ることが想定されていない車両に、女性専用車両に反発することが明白なメッセージを掲示しつつ大挙して乗車するという行為は乗客からすれば不安や身の危険を喚起する行為であることは想像に難くありません。鉄道会社としては女性に安心して乗車してもらうことを目的に運用している車両においてそのような事態が起これば対処するほかありません。そのことも裁判において言及されています。
 私は法律の専門家ではないのではっきりしたところはわかりませんが、条文だけを素直に解釈するとこの行為は威力業務妨害にも該当する可能性があると思われます。

 鉄道会社は毅然とした対応を
 一方でこのような「抗議活動」をのさばらせてきた原因は鉄道会社の煮え切らない態度にもあります。そもそも「任意で協力を求める」という表現自体が極めて微妙で解釈しにくいものです。現に任意という文言に付け入る形で「抗議活動」が行われているわけです。
 元来から鉄道各社は痴漢問題の対応に消極的であるという傾向がありました。その点は駅に掲示されている痴漢ポスターの歴史的経緯を見てみてもはっきりしていることです(詳しくは『「痴漢は犯罪」ポスターが生まれるまで 大阪「性暴力を許さない女の会」の28年』を参照)。
 しかし鉄道会社には、乗客が安全に鉄道を利用できる環境を整える社会的な義務があるはずです。女性が被害にあう痴漢への対策はまさにその中核を担う要素の1つであり、これを放置することができないはずです。
 女性専用車両から積極的に男性を排することが反発を招くことは容易に想像ができます。しかしそれをしなければ鉄道会社が果たすべき最低限の役割を果たしたとは言えないでしょう。

「ドクター差別」の議論の誤りをとことん洗い出す(女性専用車両は差別か編)

 産経新聞が運営するサイトであるiRONNAにおいて、ドクター差別を称する活動家兼松信之の記事が配信されました。
 私、「ドクター差別」は週に1回か2回、仲間と一緒に、あるいは単独で「女性専用車」に乗車します。「1回か2回」と言っても、その日の早朝から「設定時間」の終了(=午前9時半)まで、いくつもの路線に乗車します。最近は「東急パス」や「メトロパス」などの1日乗車券を購入して行ったり来たり、終了後も移動のために乗車するので、十分元が取れています。
(中略)
  「動機」は単純です。鉄道会社が「乗れる」と言っているからです。ですから、何かトラブル等が起こって、鉄道係員に説明が必要な場合には「もし、鉄道会社が『男性は乗れない』と言うのなら、乗らない」と申し上げています。「わざわざ」乗っていますが、「無理矢理」乗っているわけではありません。ただし、「男性は乗れない」なんてのは到底受け入れられない話ですので、その場合は別の手段を用いて「抗議」いたします(注:「女性専用車があるなら、男性専用車をつくるべき」という意見もあるが、つくったとしても「(男性も乗れる)女性専用車」と同様、「(女性も乗れる)男性専用車」でしかない)。
 私が「ドクター差別」として女性専用車両に乗り続けるワケ-iRONNA
 内容としては女性専用車両が男性差別に当たるというものであり、はっきり言って多量の事実誤認に彩られたものであり見るに堪えない仕上がりとなっています。なので今回からの記事で、これらドクター差別と女性専用車両が男性差別であると執拗に主張する人々の誤りを徹底的に洗いざらい指摘してしまおうと思います。
 なおこの記事中に登場する引用は、特に記述がない限り上掲記事からの引用となります。

 そもそも差別とは何なのか
 論を進める前にはっきりさせておくべきことがあります。それは何をもってある事柄を差別とするのかという問題です。これが了解されていなければ話になりません。
第1条
 1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
 あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約
 きわめて端的な定義は国連条約に見られます。これは人種差別について書かれたものですが人種をほかの属性に読み替えればほかのものにも援用できるでしょう。
 ちょっと使われている言葉が難しいのでざっくり要約すると、属性によって区切られた人々のうちある属性の人々を不当に扱い、人権や自由を侵害することを差別と呼んでいるということでしょう。あるいは一方の属性に不当な利益を与えている場合も裏を返せばもう一方が利益を損なっているので差別ということができるかもしれません。
 女性専用車両の問題に置き換えるならば、女性専用車両によって同一の運賃を支払っているにもかかわらず男性が著しく排除されているか女性が著しく利益を得ているのであればこれは差別であるということができそうです。

 なぜ女性専用車両が存在するのか
 もう一つの前提を確認します。それは女性専用車両が存在する理由です。
 言うまでもないことですが、女性専用車両が存在する最大の理由は痴漢対策です。とりわけ通勤時間のように混雑がひどい場合において、日本の鉄道では痴漢が頻発しています。
 この状況はつまり、女性は電車に乗った場合つねに身体の個人的な領域を侵害される可能性が無視できない程度に存在しているということです。見ず知らずの人間に性的な意図をもって接触されるという経験は誰にとっても極めて大きなストレスになりうるものであり、このような危険がある乗り物に女性は安心して乗ることができないでしょう。

 本題:女性専用車両は男性差別か
 上の状況を言い換えれば、女性は男性と同一の運賃を支払っているにも関わらず性犯罪の被害にあう恐れを抱きながら乗車することを強いられているということです。そのような現状にあって、女性専用車両の登場は女性がそのような不安を感じることなく乗車することができる、つまり男性が普段から電車に乗っているような犯罪被害を懸念しなくてもよいという心持ちで乗車することができる唯一の車両の登場と捉えることができます。
 極端な言い方をすれば、「「女性だけの街」は男性排除ではない、むしろ女性を排除するものである」で論じた構造と同じように、女性はむしろ女性専用車両以外の車両から排除されているということもできるのです。
 さて、上述のような背景や前提を考慮した際に女性専用車両について導かれる結論は一つしかありません。それは「女性専用車両は差別ではない」です。
 そのせいでしょうか、世の中には、さまざまな「女性専用」「女性優遇」があふれています。身近なところでは、「女性割引」「レディースデー」です。「女性専用席」「女性専用フロア」「女性専用マンション」なんてのもあります。そうそう、公務員採用試験や大学入試において、女子受験者に下駄を履かせる(=えこひいきする)、優先的に合格させるのは「不正入試」と言っても過言ではない異常事態です。
(中略)
 図書館の「女性専用席」は、「女性専用車」と同様、公共性が高いので、不当性が高いと言えます。一説には、「実はホームレス対策で、そうハッキリ言えないから女性専用(=男性お断り)にした」とありますがどっちもダメ、「非常に汚い人は入館不可」とした方がまだマシでしょう。ホテルの「女性専用フロア」も、ホテル側とすれば「営業戦略」「企業の自由」などと言いたいのでしょうが、まるで「男性がいると安心できない」「男性は皆、不審者」と言われているようで、不快です。ただ、「女性専用マンション」は公共性、代替物の有無からすれば、比較的、不当性は低いでしょう。
 記事では同じ男性差別の例として女性専用の座席、フロア、マンションを挙げていますが、これらも発想は同じものです。犯罪被害を懸念するというマイナスを埋めるためになされる施策が、外形的には女性を優遇しているように見えるというだけです。
 ではなぜ、「ドクター差別」はそのような結論に至らず、むしろ女性専用車両が男性差別であるという結論に固執することになるのでしょうか。
 実は上掲記事にはその答えがはっきりと書いてありません。上掲記事はあくまで「鉄道会社の表示が誤りだから云々」と書いていますが、そんな些細な理由で何年も女性専用車両への乗車を続けていると解釈するのは自然ではありません。過大な労力に対して理由が小さすぎます。
 本当の理由は「ドクター差別」がこの記事の中で、女性専用車両とは本来何ら関係のない大阪市の職員採用の男女比を持ち出していることが明確に示しています。
 つまり「ドクター差別」やその支持者たちは、男性をないがしろに女性を優遇する社会が出来上がりつつあり、女性専用車両はその一端かあるいは象徴であるとみなしているのです。
無題2

 しかしここまでで論じたように、その見方は現実を反映していません。上の図のように示すと非常にわかりやすい(小さいけど)のですが、女性専用車両はあくまで女性が被っているマイナスを是正するための措置であり、男性をないがしろにしているものではありません。それがあって初めて、女性は男性と同じような立場で電車を利用することができるのです。女性専用車両にケチをつけるというのは、現状では「視覚障害者のための点字ブロックは健常者差別だ」と言っているのとあまり変わりがありません。

 次回は法律的な話をしましょう。

レースクイーンがなぜ女性差別とみなされるか

 自動車レースのフォーミュラ1(F1)は今季から、レース前に華やかな衣装で登場する「グリッドガール」を撤廃することを決めた。1日までに公式ホームページが伝えた。
 「グリッドガール」は、日本で「レースクイーン」とも呼ばれる女性モデルのことで、ピットやスタート前のスタートグリッドで、チームスポンサーの広告塔になっていた。
 F1の商業面を統括するブラッチ氏は「グリッドガールは長年、F1と切り離せない存在だったが、F1のブランドイメージや、現代社会の常識に合わなくなった」とコメントした。
 F1レースクイーン、今季から廃止 「社会常識を考慮」-朝日新聞
 これの件です。

 女性の活躍の場を奪うのか?
 この件でまず多いのがいつもの「フェミが(以下略)」ですが、記事を読めばわかるようにグリッドガール廃止はどちらかというと業界の営業戦略によるところに大きく、フェミニストがこのような職業の差別性を指摘したことはあってもそこまで積極的に廃止に動いていたという事実はないので、この件で二言目にはフェミニストを引き合いに出す人の話は無視していいでしょう。社会問題を語るには現実認識能力に問題があります。
 まぁそれは置いておいて、いつもの人たちの主張それ自体に目を向けてみましょうか。
 まず女性の活躍の機会を奪うという主張について。まぁ職業がなくなるのだから活躍の場が減るというのは事実なのですが、重要なのはここでいう活躍の意味です。
 通常活躍といえば、個々人がその能力を十分にかつ主体的に発揮することを指すでしょう。そのような意味での活躍ならばグリッドガールのような立場は残念ながら「活躍」には程遠いと言わざるを得ません。
 「容姿も能力のうちだ!」とかそういう話ではないのです。容姿という能力を生かしたいならばそれに相応しい職業があるのでそちらに行けばいいでしょう。問題は、グリッドガールという立場が「容姿を生かして活躍している」と果たしてそういっていい職業なのかという点にあります。あるいは、その活躍が果たして主体的かという問題があります。
 そしてその問題点こそが、グリッドガールのような職業が女性差別であると言われるゆえんでもあるのです。

 グリッドガールがなぜ女性差別的なのか
 カーレースという本来を考えれば、そもそもグリッドガールが「華やか」である必要は本来ありません。若い女性である必要も派手な衣装に身を包む必要もありません。彼女たちの本来の役割は「プラカードを持つ」ことであって、極端なことを言えば手足さえあれば誰にでもできることです。
 ではなぜ若い女性だけがグリッドガールになれるかと言えば、それが「本来ではない役割」、つまりレースに花を添えるという役割を求められているからです。
 このレースに花を添えるという役割に問題が集約されています。なぜレースに添える花が「若い女性」に限られるのでしょうか。それはレースの観客、いわば消費者が男性であると、少なくとも興行側がそう認識している証左にほかなりません。
 つまりグリッドガールは花として容姿というリソースを提供することを求められているのですが、その提供の仕方は決して主体的ではなく、レースそのものの本質にかかわらずただその場にいて衆目にさらされるという極めて客体的なものです。これは出演する作品に容姿が少なからぬ影響を与え、また自身も積極的にそこへかかわってく女優のような職業にはない特徴であるといえます。
 本質的ではないところで容姿を求められるというのはルッキズムの典型的な特徴です。そのような客体の状態にある女性を「活躍している」と評し、その立場を肯定的に「女性の勝ち取った地位」と表現することはそのルッキズムを肯定し女性を客体に押し込めることにつながります。そもそも本当に「勝ち取っている」ならば女性は客体状況にないはずですけど。

 ルッキズムであるというだけでは性別の要素は入ってきませんが、男性のレースクイーンが存在しないことからもわかるようにこのようなルッキズムに晒されるのが男性ではなく女性であることがこの職業を女性差別的であると規定しています。
 グリッドガール廃止に絡んで、あれは男性がなれないからむしろ男性差別なのだという頓珍漢な主張も見かけましたが、あれはグリッドガールに男性がいないという外形的な状況だけを見て考えずにものを言っているだけでしょう。男性がいない理由を突き詰めて考えれば、その背景に女性差別があることがはっきりとわかるはずです。
 腐女子のある種極端な隠れ方からも推察されるように、日本のように男尊女卑的な社会ほど男性が性的な客体として消費されることを忌み嫌います。その一方で女性はコンビニでエロ本を売るほどにがっつり消費するという非対称性が差別となっているのであり、グリッドガールにもこの考え方が援用されています。

 グリッドガール廃止批判に今更騒ぐ人々を信用できないわけ
 上掲ツイートにあるように、女性の職業というのは社会の調整弁として扱われる不安定な立場にありました。改札口の話に限らず、バーコード導入前のレジ打ちなど社会の変化によって必要とされなくなっていった女性の職業というのは多くありますが、グリッドガール廃止を批判している人の一体何割がその時に何か反応し、また今も反応しようとしているのでしょうか。

「女性だけの街」は男性排除ではない、むしろ女性を排除するものである

 これの件です。大元のツイートはまとめの上部にあるのでご確認を。
 この、ある種素朴な空想に対しては「男性を排除している」などとかなり反発が出ていました(表現の自由はどうした?)。
 しかしそもそも、女性だけの街という発想は男性を排除しているものではない、むしろ女性こそを排除している発想であるというのがこの記事の要旨です。

 アパルトヘイトとは大違い
 まずは「女性だけの街」が男性を排除する思想ではないという話をしましょう。
 このツイートは問題となった発想が登場した直後にその応答として登場したものですが、大きく的を外しています。しかし題材としてアパルトヘイトと「女性だけの街」を比較するのはわかりやすいのでちょっと比べてみましょう。
 いうまでもなく人種差別には加害者と被害者がいます。現実にはここまではっきりと区別できるものではないかもしれませんが、大まかな傾向としてはあります。アパルトヘイトでいえば白人が加害者側で黒人が被害者側です。アパルトヘイトというのはつまり、加害者が実態に伴わない被害者意識を肥大させた結果、自身の安全のために被害者側を特定地域に押し込めようとしたというものです。
 これを男女問題に置き換えれば、加害者側は男性で被害者側は女性です。少なくとも「女性だけの街」で前提となる、女性に対する身体的あるいは性的な侵害の背景には男性の女性蔑視がある場合が大半だからです。
 しかし女性だけの街は他ならぬ女性自身の口から登場した発想です。つまり被害者側が現実に存在する被害の懸念から、そのような恐れのない空間を望んだという構造でありアパルトヘイトのそれとは真逆です。
 「女性だけの街」をアパルトヘイトになぞらえる発想は問題の構造を理解していないがゆえに起こる、くだらない与太話であると断言できるでしょう。

 「女性だけの街」はなぜ女性を排除するものなのか
 ではそこから一歩進み、なぜ「女性だけの街」は女性を排除する発想であるとすらいえるのでしょうか。
 ここで話を分かりやすくするために、我々が普段暮らしなんの制限もない空間をP、「女性だけの街」のように男性を除外した生活空間をWとします。
 そもそも、この発想の発端は女性が夜に男性から被害にあうのではないかという懸念があり、また実際にその事実があるというところからきています。しかし本来、Pで生活する人はあまねく安全に暮らす権利を有しているはずです。
 現実問題として、男性も女性もPにおいて犯罪被害にあう可能性は存在します。しかし女性が男性に比べそのような被害にあう確率が特異的に高い、あるいは被害を受けても救済されにくいという現状がある以上、女性は男性に比べ人権状況でマイナスを負っているということができます。
 さて、そのような現状において本来なされるべき対策は何でしょうか。それは他害をした加害者を刑務所へと隔離し被害者のダメージを回復できるように支援に努めることです。が、現状はそうなっていません。むしろレイプ神話なる言葉が象徴するように女性の被害は自己責任であり救済の対象とされず、またネット上での痴漢冤罪への過剰反応などをみていてわかるように予防的な行動も男性差別であると「断罪」されかねない状況にあります。
 そのような状況にあって女性の取れる最適解は、Pから脱しWへ避難することだけです。被害が救済されなければ被害にあわないようにするほかなく、しかもその手段は究極系である必要があるというわけですね。
 しかし本来、上述のように女性はPにおいても攻撃されるいわれはないはずです。言い換えればPにおいてもWと同様の安全性を得る権利があるはずです。Pがそういった空間にならず、安全をWでしか得られないとすればどうでしょう。これは女性がPから排除されWへ隔離されていることにほかなりません。
 つまり「女性だけの街」という発想はその街から男性を排除しているように見えて、実際はそれ以外の場所から実質的に女性を排除しているのです。
 この発想は女性の口から出てきました。故に歪められた受け止められ方をされ、また正しく受け取った人はおおむね「女性の切実な願い」としてとらえました。しかしこれが男性の口から出ていればもっと違った受容をされていたでしょう。

 ちなみに、女性だけの街というのは防犯対策としてはこの上なく有効であろうと考えられます。犯罪者の大半は男性なので、それがいなくなるだけで犯罪件数はぐっと下がります。女性だけの街になればそれ特有の犯罪も出てくるかもしれませんが、男性が存在することによるリスクに比べれば微々たるものでしょう。

九段新報プレゼンツ #総選挙に役立つ本

 衆議院総選挙が告示されたので、今回は特別編。来る総選挙に向けて役に立つ本をピックアップしていきます。ただし犯罪学ブログという立場上、そっち方面へ分野が偏ることになりますのでそこはあしからず。
 また取り上げた本の中には、今すぐ候補者選びに役立つというものは少ないかもしれません。しかし短期的に役立つ知識ばかりが知識ではなく、貯め込んでおき忘れたころに火を噴くようなものもまた知識です。そのような長期的な観点からも、書籍を選んでいきます。
 なおリンクは本ブログの書評記事に通じています。また取り上げるものはすべて私が読んだことのあるものに限ります。

 安倍政権が何に立脚しているか
 中村一成(2014). ルポ京都朝鮮学校襲撃事件 <ヘイトクライム>に抗して 岩波書店
 高 史明(2015). レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット 勁草書房
 まず挙げるのはレイシズム、とりわけ排外主義にかかわるものを取り上げた2冊です。
 いうまでもなく、安倍政権の根幹にある要素の1つが排外主義です。『差別主義者は無限の証明を要求する』でも取り上げましたが、朝鮮学校に対する補助金排除の政策が代表的です。まぁこれは自民党だけの問題ではないのですが、終戦後から長年政権を担当してきた自民党に最も大きな責任があることは間違いありません。
 そして長期政権がそのような姿勢をとるということは、それを支持する人々の思想を反映しているためであろうと考えられます。そのような排外主義の行き着く先、不寛容と差別を放置する社会が表出するほんの一部が表れているのがこの2冊です。
 気鋭の社会心理学者である高氏による著作は、インターネットとヘイトスピーチという密接にかかわる二者の分析へ先鞭をつけるものです。ネット上での選挙運動も盛んになった今だからこそ目を通すべき一冊でしょう。
 中村氏による著作は岩波ブックレットであり、手に取りやすく読みやすくなっています。在特会による朝鮮学校襲撃事件は、野蛮な側面のヘイトクライムが日本においてピークだった頃に発生した事件でした。カウンターが盛んになった現在ではこのように露骨な事件もなりを潜めつつありますが、一方で政権に就く権力者による丁寧な側面のヘイトスピーチはかえって目立つようになりました。麻生による「武装難民銃殺」が最たる例でしょう。排外主義の行き着く先を、気分が悪くなるほど精巧なタッチで描いています。
 なおヘイトスピーチに関しては以下の2冊も読みやすく参考になります。
 師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店
 安田浩一 (2012). ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて 講談社

 角田由紀子 (2013). 性と法律――変わったこと、変えたいこと 岩波書店
 牧野雅子 (2013). 刑事司法とジェンダー インパクト出版会
 安倍政権がもう1つ立脚するのは女性蔑視的な視点です。まぁこれだって自民党の責任だけじゃないんですけど(以下略)。これは非嫡出子に対する差別的な制度を裁判所に是正するように判決された際の反応であるとか、夫婦別姓制度に対する態度から推し測れるものです。また自民党の今回の公認候補の男女比率からもわかります。
 さて、そこで取り上げるのはとりわけ性犯罪を規制する法律について考察された角田氏の著作です。先ごろ改正された強姦罪が実は性的自由を保護法益とせずに、夫の妻に対する貞操権を保護していたのではないかという主張には説得力があります。
 制度上の性差別もさることながら、排外主義の項でも指摘したように意識の上での差別もその放置は社会に重大な問題を表出させます。その1つを取り上げたのが牧野氏による著作です。これは知人の逮捕を契機として、警察が容疑者と「協働」し「性欲が抑えられなかった故の性犯罪」というレイプ神話を再生産していく過程が描かれています。むろんそれは神話であって事実とは異なるのですが、性差別を是とする警察組織の中ではそれが事実とされてしまい、それが桶川ストーカー事件にみられるような様々な齟齬を生み出す一因となっているのです。
 ジェンダーに関して全く前知識がないという場合には、以下の著作が非常に役に立ちます。
 加藤秀一 (2017). はじめてのジェンダー論 有斐閣
 また社会的な性差別の別の側面を把握するためには以下の著作をお勧めします。
 仁藤夢乃(2014).女子高生の裏社会  「関係性の貧困」に生きる少女たち 光文社

 芹沢一也(2006). ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち 講談社
 芹沢一也(2005). 狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか 講談社
 もう1つ、精神障害者に対する姿勢も取り上げておきましょう。なぜなら、理由はよくわかりませんが安倍首相と日本精神科病院協会が非常に懇意で、晋精会なんて講演会もあるくらいです。マジで理由はよくわかりませんが、日本精神科病院協会は世界の潮流に反し長期入院を推し進めるような方針をとり、悪名高き神喪失者等医療観察法を支持する組織です。故に、日本における精神障害者に対する政策の問題は自民党というよりも安倍首相にダイレクトに帰属される面があります。
 上掲2冊はこのような方針、政策の問題点を平易に理解することのできるものです。

 疑いの力を味方につける
 浜井浩一・芹沢一也. (2006) 犯罪不安社会 誰もが「不審者」? 光文社
 荻上チキ・浜井浩一 (2016).  新・犯罪論 「犯罪減少社会」でこれからすべきこと 現代人文社
 森達也(2015). 「テロに屈するな!」に屈するな 岩波書店
 民主主義国家において権力の監視は主権者たる国民へ課せられた義務であり、その行使は健全な政治を推し進める原動力でもあります。そのためには、政府や権力の一挙手一投足を批判的かつ懐疑的に見つめる必要があります。
 権力が民衆を騙そうとするとき、まず行うのは虚偽の流布による恐慌の誘発でしょうか。とりわけ犯罪という要素はこの目論見に都合よくつかわれる場合の多いものです。しかし浜井氏による2冊は犯罪がもはや民衆にとって脅威とは考えにくいことを端的に示しています。同時に、政府の行う政策がいかに根拠に基づかないか、そしてどのようにエビデンスベースの政策論議を進めていくべきかを考えるうえでも役に立ちます。
 政府が恐怖を煽ろうとするとき、かつての石原慎太郎の「三国人発言」のように犯罪を利用することもありますが、実際にはテロというより限定されたキーワードを利用する場合が多くあります。そのような欺瞞に対抗するヒントを森氏の著作は与えてくれるでしょう。実際に日本では、余計なことさえしなければテロの脅威はさほどでもないのですが、それでも緊急事態条項や強力な防護策が求められる現状もあります。それが本当に役に立つのかという視点も必要ですが、そもそも必要なのかという疑いにも立脚することを忘れるべきではありません。

 浅野健一 (2004). 新版犯罪報道の犯罪 新風舎
 ネットの一部の層では、マスコミが政府を嫌い偏向報道をしているということが「定説」と化していますが、実際には真逆の様相です。いまやマスコミの幹部が首相と会食し、政府の主張を批判抜きで垂れ流す状態です。というか、幹部と会食しておきながらばかすかバッシングされているのだとしたらどんだけ首相根回し下手なんだよという話になりますが。
 浅野氏の著作は、直接的ではないもののこうしたマスメディアが権力とねんごろになった結果の弊害を存分に描き出しています。警察権力と密接に結びつくことでスクープを得ようとする刑事記者の姿は、国会に張り付き議員のご機嫌を取って独自の情報を得ようとする政治部の記者に重なることでしょう。

 荻上チキ (2011). 検証 東日本大震災の流言・デマ 光文社
 ネットのデマという分野では、この一冊がダイレクトに響くでしょう。疑う力といっても、それが明後日の方向へ向かっては意味がありません。本書は東日本大震災に関するものですが荻上氏が指摘するようにデマはパターンを繰り返します。ゆえに事例が異なるデマでもその情報を理解することはデマへ対抗するワクチンとなるのです。

 坂井豊貴 (2013). 社会的選択理論への招待 : 投票と多数決の科学 日本評論社
 最後は、選挙の構造自体を疑おうというものです。小選挙区制が与党有利に働いているのではないかという指摘もありますが、ここではより大枠の仕組みへ疑問を投げかける一冊を提示します。
 一番だけへ票を投じるのではなく、順位を投じることでより細やかな民意を反映しようとするボルダルールを本書では提唱しています。詳しくは『多数決は意思決定手法の欠陥製品であるという話』で取り上げましたが、重要なのは選挙のルールの根幹すら疑うという徹底した懐疑主義的な姿勢です。口を開けて権力の言いなりになるのは簡単ですが、民主主義国家に生きる主権者であれば常に権力は批判的に見つめるものなのです。
 なお同内容の書籍(といってもこればかりは私も読んでいないのですが)に、以下のものがあります。こちらは新書なので入手も容易で読みやすいでしょう。
 坂井豊貴 (2013). 多数決を疑う――社会的選択理論とは何か 岩波書店

 というわけでざっと紹介しました。これらの本を読んでもすぐに選挙に役立つというわけでもありませんが、ここにある知見を下地とすることは必ず政治を論じるうえで役に立つはずです。

セカンドレイプ(というか単なるバッシングというか)乱舞警報

 暗澹とした気分になるような情報が最近連続して入ってきてしまっていますね。

 女子高生の妊娠に対するバッシング
 1つは、妊娠した女子高生に対するバッシングです。
 確かに、若すぎる妊娠や出産は身体経済両面でデメリットが多く、社会的にもあまり推奨はされていません。しかし、本来は年齢に限らず子供を産み育てる権利を人々は持つはずで、周囲にとやかく言われる筋合いはないはずです。
 また、学校は生徒に十分な教育を施す義務があり、その際生徒個々人の事情は最大限酌んでしかるべきでしょう。少なくとも今回の事例でいえば、体育の実技を簡単なレポートに切り替える程度で対処できることであり、また従来も病気などで実技に参加できない生徒にはそのように対処していたはずでしょう。それをせずに参加か退学かを選択させるのは学校側の怠慢に他ならないのですが、なぜこの副校長が新聞記事にあるように当たり前のような面をできるのか理解に苦しみます。
 しかも副校長は、府民の理解などという不確かなものを持ち出して自身の責任をぼかすという卑劣さを見せています。しかし、上掲のような反応が2万RT以上されてしまう現状を考えると、副校長は本気でそう考えているのかもしれません。
 さらに暗い気分にさせられるのは、このようなバッシングを行う人物が、女子高生を妊娠させた男を同じようにバッシングしているところは一切目にしないということです。妊娠は1人ではできないという単純な事実も、彼らの前には無意味なのでしょう。
 とりあえず、高校は誤りを認めたようでよかったですが。

 AV女優の権利問題
 あまり詳しくフォローしていないのですが、ある元AV女優が出演を強要されたとして被害を告発したという事件もありました。
 女性をアダルトビデオ(AV)の撮影に派遣していたとして、警視庁が都内のプロダクション元社長らを労働者派遣法違反(有害業務就業目的派遣)の疑いで逮捕した。モデルへの憧れを巧みに利用したこの種の勧誘は多い。無理やり出演させられたある二十代の女性が「私のように巻き込まれる女性をもう出したくない」と本紙の取材に体験を語った。
 バイト感覚で登録 「AV」記載なく 出演強要された被害女性が証言-東京新聞
 その告発者は、既に現役でなく複数人での告発だったようですが、特定の女優が告発者だと実名を挙げられ、バッシングに晒されているようです。
 別にAV業界に限った話ではないのですが、内部の不正を暴露した人間を裏切者であるが如くにバッシングするということは、巡り巡って自身が所属する組織の不正に直面し不利益を被った時の対策手段を減らしていることになるのですが、バッシングしている人にはそのような意識は全くないのでしょう。
 被害を告発しただけでこのようなバッシングに晒されるののであれば、今後誰も被害の告発などしないのが必定であり、それは自分自身にも言えることです。
 百本以上出演しておいて、今更騙されたというのがおかしいという意見もありましたが、寝言は寝て言えと断じてよいでしょう。今更ではなく、今になってやっと被害を訴えることが出来たのだと解釈すべきです。その点に関しては、ヒューマンライツナウの伊藤弁護士のブログに詳しいです。
 今あふれている批判には、様々なものがありますが、
「そのAV女優さんたちが強要されているように、まったく見えなかった」というものがあるようです。また何年にもわたり、多数の出演を繰り返してきたことを理由に、「強制なんてありえるの?」という意見もあるようです。
 しかし、長期間DVがあっても逃げ出せずにむしろ幸せな結婚生活を懸命に装う人、長期間にわたって会社でセクハラにあっても会社をやめられない人、親から虐待され続けているが施設に逃げ込めない人は、社会のあちこちに存在するのではないでしょうか。
 力を失い、孤立し、抜け出せない、装って自分までも騙し耐えてきた方がいるかもしれない。そういう人たちの気持ちは理解できなくても、せめて、「そういう女性たちがいるかもしれない」その可能性だけでも思いやっていただけること、できないでしょうか? 
 最近、東京新聞で取り上げられたAV強要の被害者のインタビューもやはり、5年で100回以上出演したという話でした。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016061490135710.html
そこにはこんなことが書かれています。。
「誰にも相談できないまま、この状況を招いたのは自分の至らなさのせいだと思い「私さえ我慢すれば」と追い込まれていった。「撮影は次第に過激になった。両手足を縛られ、複数人の男性を相手にした。「自分を守るには、心を閉ざして、忘れるしかない」
そして
「支配され続けることで心が壊れた」
AV強要でなくても、同じように長いこと、DVやセクハラ境遇に置かれて、だれにも相談せずに逃げ出せずにいる人たち、自分さえ我慢すればと笑顔でいることで、なんとかなる、そう耐えている人が、あなたの周囲にもいるかもしれません。
その表面的な笑顔をみたこと、そういう態度でいたことを責めたてることが、問題の根本の解決の役にたつのでしょうか。
 皆様へのお願い・AVプロダクション関連逮捕報道とその余波を受けて-人権は国境を越えて-弁護士伊藤和子のダイアリー
 二次元への表現規制に反対する御仁の口癖は、「そんなことよりも実際の被害を防げ」ですが、今回の事例に際しなにか声を上げたという話は全く聞きません。このこともしっかりと記憶に留められるべきです。
 若い女性がアダルトビデオ(AV)に出演を強要されたという被害が大きく注目をあつめるなか、女優たちの権利を守ろうとする新たな動きが起きている。元AV女優で、作家の川奈まり子さん呼びかけで、女優のための団体が7月に設立される予定だ。
 元AV女優・川奈まり子さんが「女優の権利保護」の新団体設立へ-弁護士ドットコム
 ちなみに、今回の事件を受けて業界も権利団体を設立したそうですが、代表が監督兼社長夫人という、どっからどう見ても制作側の人間なので実行可能に不安しかありません。それを抜きにしても素人に労働問題を解決するのは困難でしょうし、弁護士会や適切な団体を挟んだほうがいいでしょう。

 街頭インタビューはやらせなのか
 このツイート自体、書いてあるようなレベルの想像もできない馬鹿のたわごとなのですが、問題はそこではありません。ぶら下がっているリプライの酷さです。
 顔がアッチの民族っぽいだのなんだのと在日コリアンへのヘイトスピーチで彩られています。マスコミ嫌いのネトウヨには、マスコミの偏向報道が在日コリアンの仕業だという根拠のない妄想が支配的なので、このような発想になるのでしょう。
 仮にやらせだったとしても、このようなヘイトスピーチを垂れ流す正当性にはなりませんし、やらせだったとしたらそれは紛れもなく日本人の仕業でしょうよ。

 と、どこまで知性と品性が下劣なんだと思うような事例ばかりですが、唯一の希望はこのような事例の多くは世の中がよくなる過程で出てきているということです。女子高生の妊娠の件も、新聞は一貫して応援調でしたし、文科省も学校を批判していました。AV女優の件も被害が告発され、警察が動いています。
 願わくば、古い価値観はさっさと一掃されてこの国がもう少しましになってくれればいいのですが。 
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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