九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

フェミニズム

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

【書評】森美術館問題と性暴力表現

 今回は『不可視の性暴力』の参考文献に挙がっていた1冊……というわけではなく、実は本当は『証言・現代の性暴力とポルノ被害―研究と福祉の現場から』を読みたかったのですが、図書館になかったので、たまたま同じ「ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)」が編集した本として見つけたものを読むことにしました。

 森美術館問題とは?
 本書はタイトルにあるように、森美術館で起きた問題を取り上げつつ性暴力表現について論じています。では、森美術館問題とはそもそも何なのでしょうか。

 本書によれば、森美術館では2012年11月17日から「会田誠展:天才でごめんなさい」という展示会が行われました。まぁ、これだけで何となく問題の所在の察しがつく人も多いでしょう。
 会田誠の作品群の中には、少女が全裸で四肢切断され首輪に繋がれた「犬シリーズ」というものや、全裸の女性が模型の巨大なゴキブリと性交している作品など、性暴力的なものが多く存在します。検索したら多分出てきますが、普通に閲覧注意です。pixivのような場所でも慎重にゾーニングされたうえで公開される類のものではないかと思われます。

 もっとも、問題は美術館の展示だけにとどまりません。本書によれば、(具体的にどの作品が取り上げられたかは不明ですが)この展示会はNHKの「日曜美術館」や『美術手帖』で絶賛され、美術界からは少なく見積もっても比較的好意的に受け止められました。

 このような表現について、PAPSは撤去を求める抗議文を美術館側に送ったり、館長との面談を行ったりという活動をしました。しかし、その反応は芳しくなく、面談にあたっては美術館側は「議論を起こしたことに価値がある」という態度を貫きました。

 美術館のダブルスタンダード
 さて、この問題をどう考えればいいでしょうか。多くの人は、どのような表現も自由なのだから、美術館がどんな作品を展示するかも自由であると言うかもしれません。しかし、美術館の内部を見渡しても、話はそこまで単純ではありません。

 というのも、展示作品とそれに対する抗議への対応を見る限り、美術館には明らかなダブルスタンダードがあるからです。

 性的な、あるいは性暴力的な表現について、美術界は総じて寛容な(というか鈍感な)姿勢を貫いてきました。かつて本ブログの文化面でも『芸術作品は作者と切り離すべきかという話』でタイのセックスワーカーの姿を無許可で写真に収めて写真家面していた大橋仁を取り上げましたし、ついこの前は近距離で勝手に人の姿を盗撮してなんちゃらショットだと気取っていた写真家も叩かれていました。後者の例は性暴力表現とは少し違うかもしれませんが、主に女性個人の権利を軽視するという点では共通しています。

 また本書では、公共の場に開陳された裸婦像の問題も取り上げられています。中には明らかに性器を強調しているとしか思えないポーズをとったり、人体ではありえない変形を加えた体勢であったりするものもあり、筆者の「芸術はもともと女性蔑視」という指摘ももっともな有様です。

 一方、美術界は右翼からの圧力には超弱いことはあいちトリエンナーレの例でも明らかです。本書に挙げられている例では、トリエンナーレにも関係していた富山近代美術館が昭和天皇の写真を使用したコラージュ作品を撤去し、挙句図録を燃やすに至ったというものがあります。『≪自粛社会≫をのりこえる 「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」』が取り上げているニコンサロン事件も同様でしょう。

 つまり、美術界には「性暴力表現は寛容に、右翼の機嫌を損ねるものはさっさと消す」という二重規範が存在していることになります。前者のときは表現の自由を守ると言いながら後者のときにはそれが前に出てこない状況下ですから、前者を守る理由も表現の自由とは別のところにあるのではと考えてしまいます。

 女性へのヘイトスピーチ
 『性暴力表現を公から追放する論理』は、性暴力表現をヘイトスピーチと同じ次元で捉えられるという観点で書いています。その考えは私だけではないようで、本書には性暴力表現とヘイトスピーチの共通点を見出す記述が多くみられます。

 例えば、法学者の前田朗氏は、欧米各国でヘイトスピーチの中に女性への憎悪差別表現を含む規程ができつつあることを紹介しています。また、森田成也氏は性暴力表現を在特会によるヘイトスピーチと結び付け、後者に対する反応と比べて性暴力表現に対する反応が薄いことを批判しています。

 確かに、女性の四肢を切断し首輪に繋ぐという表現の「女性」を人種的な属性に入れ替えたら、仮に美術館の限られたスペースであっても差別的だという批判は免れませんし、おそらく表現は撤去されるでしょう。しかし、女性だとそれがなぜがスルーされてしまいます。括弧の中に入る属性が人種だと差別になるのであれば、それが性別でもやはり差別になると考えるべきです。本来は

 しかしそれは同時に、やはり表現の自由をどこまで守るかという問題をはらむことも事実です。私は、『性暴力表現を公から追放する論理』では極めて簡単な線引きとして、見ようと思わずとも目に入る場所を公と定義したうえでその公からは排除すべきだと主張しました。しかし、美術館という権威が差別的な表現にある種のお墨付きを与え公開するという機能を発揮する以上、この線引きは不完全なものでしかありません。

 そう、書いてて気づきましたが、重要なのはこの機能です。美術館が限られたスペースとはいえ展示するというのは、どこかの誰かが部屋に差別的な作品を飾ってみたい人に見せるのとは全く違う機能を持っています。一種の権威付けがなされる場所では、公でなかったとしても差別的な表現は排されるべきなのでしょう。

 前進しない表現の自由
 もう1つ興味深いのは、森田氏が「表現の自由派」という言葉を使いつつ、表現の自由の本質を全然理解しない人たちに苦言を呈しているという点です。言い換えれば、「表現の自由戦士」がこの頃すでにいたということです。

 氏によれば、かつてPAPSが「理論社問題」と呼んだ出来事がありました。これは理論社という出版社が、青少年向けの啓発書である「よりみちパン!セ」シリーズのなかでバクシーシ山下の著書『ひとはみな、ハダカになる。』を出版したという問題です。

 バクシーシ山下はAV監督であり、そのような人物が青少年向けの啓発書を書くというのが既に問題です。それに加えて、山下は出演する女優を実際にレイプしたり暴力をふるうことで作品を作る手法が問題視されていました。

 この問題がPAPS結成のきっかけとなったようですが、PAPSの抗議に対し理論社は「ファシスト」と呼んで一蹴したようです。このシリーズはのちにイーストプレスが復刊していますが、このときの抗議に対する対応も同様だったようです。

 本来、表現の自由は権力からの弾圧に対する自由です。強制力を持って表現を弾圧するものこそファシストでしょう。しかし民間の市民団体には何ら権力はありません。にもかかわらず、出版という文化の一端を担う人たちがそれを理解せず、民主的な抗議者をファシスト呼ばわりというのは何とも間抜けな事例です。

 本書の内容を検討すると、批判者が議論を重ねてその内部で理論を蓄積する一方、それに応じる側が一向に前へ進んでいないことがよくわかります。そのような態度こそ、表現を殺すのだと思いますがね。

ある分野で適当なことを言う人は、結局ほかの分野でも適当なことを言う

 新型コロナウイルスの騒動で、ネットには様々な言説が飛び交っています。とはいえ、本ブログは犯罪学がメインの話題なのでそのことにあまり触れることはありません。よくわからないし。

 しかし世の中には、よくわからないことにも一言モノ申さないと気が済まない人というのがいるようでして……。
 その1人は橘玲です。こんなことを呟いていましたが、リプでさんざん批判されていました。第一、ついこの前「議会での素晴らしい議論」として拡散されていた動画で議員が無料の検査とかを勝ち取っていたわけで、ちょっと考えれば貧困層が感染拡大の原因になりそうにないということはわかると思うのですが……。
 しかし、批判をされてもまだこんな風に居直っています。
 武漢で発生したCOVID19の爆発的感染拡大は、欧米での感染爆発に至り、とどまるところを知りません。日本では、武漢・欧米のような爆発的感染拡大(専門家会議は「オーバーシュート」と呼んでいます。)には至っていませんが、危うい綱渡りの状況にあります。
(中略)
 また、日本の𝑅₀が諸外国と比べて低かったという事実を押さえておく必要があります。これはとても不思議なことですが、おそらく事実です。欧米なみの𝑅₀だったら、なすすべもなく2月の段階で武漢や現在の欧米のようなオーバーシュート(感染爆発)の状況になっていたでしょう。日本の感染者数・重症者数・死者数の推移は、1月から一貫して𝑅₀が低いことを示しています。
 これに対して、検査を抑えているからではないかという疑問もあるわけですが、検査抑制は指数関数的増加を数日ずらすだけの効果しかなく、1月から一貫して緩い傾きが続いていること説明できません。
 専門家会議の「クラスター対策」の解説 ――新型コロナウイルスに対処する最後の希望-note
 もう1人は弁護士の吉峯耕平です。彼はコロナウイルスに関して、上のような「解説」をアップして拡散されていました。しかし、この「解説」は「日本が検査を十分に行っている」というパラレルワールドの話なので、前提からおかしく意味を成しません。検査を抑制すれば感染者として計上される人数を根底から減らすことができ、グラフの書き方も大きく歪めることができるので、「検査抑制は指数関数的増加を数日ずらすだけの効果しかなく」という説明の意味もさっぱり分かりません。

 そして案の定、オリンピックの延期が決まったとたんどかどかと感染者数が増えているわけです。この点に関して吉峯はだんまりです。そもそも、情報の錯綜する新型感冒に関して専門外の人間が、弁護士という職業一般の信頼性を盾に、そして不確かな情報をもとに「解説」を加えるなどという振る舞いそれ自体が軽率に過ぎると言わざるを得ませんが。
橘 イギリスの女性社会学者にキャサリン・ハキムという人がいて、『エロティック・キャピタル』という本を書いているんです。男女の外見の魅力がテーマですが、とりわけ若い女性は大きな「エロス資本」を持っていると述べていて、なるほどと思いました。経済学でいうヒューマン・キャピタル(人的資本)は基本的には学歴・資格・経験ですけど、それとは別に女性には大きなエロティック・キャピタルがある。それは思春期ぐらいから現れはじめて、20歳前後で頂点に達し、それから徐々に減っていって35歳くらいで消失する……。

鈴木 そのとおりですね。

橘 これは男にはないものだから、その経験がうまく理解できない。かつてのブルセラとか、いまはパパ活やギャラ飲みかもしれませんが、高校生くらいの女の子が自分のエロス資本をマネタイズしようとすると、うろたえたり怒ったりするのはそのせいですね。

鈴木 それこそ19歳くらいで稼ごうと思ったら、女の人は割と、少なくとも男性よりは簡単に稼げちゃったりもするわけです。で、ぜいたくを覚えちゃうんだけど。でも夜の仕事に就いてたことが、その後の人生のマイナスになる場合もありますからね。100万なり1000万なり稼いだのと、後で失っていたものの差額は結構、難しいところだと思うんですけど。
(中略)
橘 子どもがうまく育つかどうかは、けっきょく運ですよね。すくなくとも行動遺伝学では、家庭環境(子育て)は子どもの人格形成にほとんど影響しないという頑健な結果が出ている。賢くてかわいい子どもが生まれたらそれは幸せでしょうが、ギャンブルみたいなものだから、子どもを産めば自尊心が満たされるというのはちょっと違うのでは。
 若さという「エロス資本」を失ったあと、オンナはどうするか。-cakes
 ついでに、コロナとは関連しませんがTLで見たので上の記事を加えておきましょう。これはcakesというサイトに掲載された対談で、対談者の1人はすでに取り上げた橘玲でした。もう1人は「元セクシー女優の社会学者」という肩書で活躍する(皮肉)鈴木涼美です。

 もちろん、この記事には誤りが盛りだくさんです。というか正しい点があるのか?って感じです。若い女性が性風俗によって己の「エロス資本」を換金しようとする云々というのは、これまで宮台真司などが論じてきた陳腐な「自由意志による売春」論であり、これが性風俗への従事を「強いられる」側面を無視した議論であることはすでに『『異種族レビュアーズ』は性風俗の暗い側面を覆い隠す』で論じました。

 引用部分後半で述べている、行動遺伝学の知見も誤りしかありません。『【書評】遺伝と環境の心理学 人間行動遺伝学入門』で解説しましたが、行動遺伝学の知見は「親子の相似の原因は何か」ということしか明らかにしておらず、しかもそれは集団について論じたものなので個人に当てはめるのは誤りです。

 かつての登場人物
 実のところここで取り上げた橘玲、吉峯耕平、鈴木涼美の3名は、このブログで批判の対象としてすでに登場済みです。

 橘玲が初登場するのは『【書評】言ってはいけない 残酷すぎる真実』です。ここで彼は行動遺伝学について誤りをばらまきます。その後、『【記事評・上】「家族という病」を治す<七人の提言>(文藝春秋2019年8月号)』で再登場を果たし、進化心理学という「疑似科学」を用いて解説を試みます。(進化心理学の疑似科学性については『進化心理学は疑似科学である 【書評・上】進化心理学から考えるホモサピエンス』『それは反証可能性がないことの反論にならないよね? 【書評・下】進化心理学から考えるホモサピエンス』を参照のこと)

 鈴木涼美は『なんでも「なんでも女性差別」という愚 #KuToo と混浴ツイートに関して』で華々しく登場します。本ブログが#Kutooに触れた最初でもあります。ここで氏は、「(差別を訴える)女性の人生がパッとしないのは、男女差別のせいではない」などと頓珍漢なことを言いながら、そこに純然と存在する差別から目を逸らそうとしていました。

 吉峯耕平の登場は上の2人と少し事情が異なります。『「痴漢が性犯罪として計上されていない」のは正しいので、記事の訂正の必要はない』にまとめていますが、彼は私の書いた『「ポルノ利用と性犯罪発生件数には相関がある!」はなぜ無意味なのか』にいちゃもんをつけ、粘着しました。そして私が後続の記事でいちゃもんの誤りを指摘すると、「新橋九段は不誠実だ」といいながらブロックするという、どっちが不誠実なんだかよくわからない対応をしています。

 ちなみに調べたところ、氏は結構様々な記事に登場しており、ブログに名前が登場したのは『「抵抗しなかったのは被害者の精神状態によるものだから無罪」という輪をかけて意味不明な判決 あるいは性犯罪に限って慎重になる人々』が最初です。ここで彼は「判決文を読まずに判決を批判するな」と批判者の口を塞ぐ機能しかない発言をしています。さらに『「共産党が性行為の原則違法化を!」という主張の誤りと無意味さと』では不同意性交罪が推定有罪であるという無茶を言い、例のいちゃもん記事を挟んで『「女性を性的な広告に使うな」が「女性を広告に使うな」に聞こえる人がいるらしい』では、いわゆる「巨乳」の女性を「性的な文脈で」広告に使うことへの反論に何を錯乱したのか「巨乳を排除する気か!」という主旨の発言をしています。

 氏の名誉のために言えば、氏のアカウントは下手にフォロワー数が多く、表現の自由戦士からの支持もそれなりにあるせいで私のTLで目にする機会も少なくなく、また当時私は「クソみてえな意見のサンプルとしてとりあえずこいつの発言を使うと便利だな」程度に考えていた節があったために記事への登場回数が増えただけで、特段クソみたいな発言が多かったわけでもないと思います。
 あれ? 名誉のためになってないな?

 ちなみに、九段新報とは離れますが、上にあげたような実例もあります。典型的なミソ弁護士ってことですね。

 あるところでデマを言うものはほかのところでもデマを言う
 本ブログにおける橘玲、鈴木涼美、吉峯耕平の登場履歴を見ると、1つの真実がわかります。
 それは、あるところで適当なことを言うものは、別のところでもやはり適当なことを言うのだということです。
 鈴木を除く2名は、本ブログで取り上げた出まかせはコロナウイルスと無関係のものでした。しかし、彼らはコロナウイルスについても適当なことを言い始めました。というか、コロナに限らず極めて広い範囲で適当なことを言っているというべきでしょう。

 それは当然かもしれません。真実を口にする、あるいはそうするように努力することは、極めてコストのかかることです。わりと勢いで書いているこのブログ記事も、間違ったことは書かないように気を使っています。その結果、こんなのでも記事1つ当たりにかかる時間は1時間を超えます。場合によっては2時間とかかる場合も。

 しかし、適当を口走るコストはさほどでもありません。そして重要なことは、虚構は真実とは違い、常に人々の関心(歓心)を惹くことができるように勝手に「アレンジ」が可能だということです。これで周囲から承認を得るともう麻薬のようなもので、後戻りはできません。

 ゆえに、1つのところで適当なことを言うと、適当なことを言う快感に勝てなくなり、ほかのところでも適当なことを言うようになるのです。
 これは「人は常に間違いを犯しうる」というのとは別の話です。誠実なものなら、間違った後の対応も誠実であるはずです。しかし彼らは、上で取り上げた橘のように、いくら指摘されても間違いを正しません。

 幸いなことに、この問題に対して我々がとるべき対処法は1つだけで、とても簡単です。あるところで適当なことを言う者を、ほかのところでも信用しなければいいだけの話なのですから。

犯罪学者が #新大学生に勧めたい10冊

 今回は書評特別編。Twitterでハッシュタグが流行っていたので、乗っかろうという次第です。
 10冊という枠ですが、今回は以下の分類で行きましょう。また、その1冊を読んだ後におすすめのものもあれば挙げておきます。なお、書名にリンクがある場合は、本ブログに書評記事があります。

・犯罪を知るための4冊
・心理学を知るための3冊
・他分野を知るための3冊

 ではスタート。

 犯罪を知るための4冊
1.越智啓太 (2013). ケースで学ぶ犯罪心理学 北大路書房

 大学の講義で使用されることを想定して書かれたという1冊です。犯罪心理学の幅広い分野について、事例を交えながら基礎的な知識を学ぶことができます。特に事例を交えながらというのがポイントで、こういう知見は社会とのつながり抜きに理解しにくく、また繋がりがなければ意味のないものだからです。本書は薄く、内容も平易なので、最初の1冊に最適でしょう。

2.仁藤夢乃 (2014). 女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち 光文社
 大学で知識を学ぶことの1つの大きな意義は、無知ゆえの誤解を回避することです。この誤解が最も生じやすいといえるのが、性差別問題、犯罪心理学でいうならば性犯罪の問題でしょう。
 性犯罪の問題を扱った良著はそれこそ山のようにありますが、最初の1冊として、現在も社会問題となっている「JKビジネス」の実態を知るという意味も込めて本書を読むべきです。この1冊を読めば、少なくともヤフーニュースのコメント欄にくだらないコメントを残す状態からは卒業できるでしょう。
 次の1冊:角田由紀子 (2013). 性と法律――変わったこと、変えたいこと 岩波書店 

3.荻上チキ・浜井浩一 (2015). 新・犯罪論 ―「犯罪減少社会」でこれからすべきこと 現代人文社
 犯罪心理学における大きな誤解の1つは、犯罪が増加しているとか、治安が悪くなっているというものです。この手の主張は統計に当たればすぐにわかるのですが、その統計に当たるというのが実際は難しいところです。本書は犯罪統計の基本的な知識をフォローしつつ、そのあたりの議論を理解する第一歩として有用でしょう。
 次の1冊:河合幹雄 (2004). 安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学 岩波書店

4.廣井亮一 (2001). 非行少年 家裁調査官のケースファイル 宝島社
 誤解が生じやすい分野、最後の1つは少年犯罪です。少年犯罪の実情を知るために役立つ、良質なルポは数多く存在しますが、本書は家庭裁判所の調査官の立場から書かれており、その辺の仕組みをうかがい知ることもできる点が優れています。
 次の1冊:岡部健(2013). 現代日本の少年非行―その発生態様と関連要因に関する実証的研究 現代人文社

 心理学を知るための3冊
5.スコット・D・リリエンフェルド他 (2017).本当は間違っている心理学の話 50の俗説の正体を暴く 化学同人

 心理学を学ぶ方法は多くありますが、誤解を解くところから学ぶのは1つの手でしょう。DaiGoを真に受けるとか勘弁してほしいので。本書は50もの俗説が扱われていますから、まさしく幅広く心理学を学ぶのに最適でしょう。1つは信じ込んでいた俗説が出てくるはず。
 次の1冊:サリー・サテル他 (2015). その〈脳科学〉にご用心 脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店

6.高 史明(2015). レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット 勁草書房
 心理学を知るうえで、極めて本格的な学術書にチャレンジするのもいいでしょう。とはいえ本書は、Twitterにおけるヘイトスピーチという、ネットを使うものにとってはなじみある問題を扱っています。調査方法はいささか心理学の下手な手法からは離れてしまうところもありますが、それもかえって面白いかもしれません。

7.ポーラ・カプラン, ジェレミー・カプラン (2010). 認知や行動に性差はあるのか 科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房
 心理学にありがちなのが、ある変数をとって性差を見て云々するというものです。性別によって差があるというお話は万人が好むところですので、みんなやりがちです。みんなやりがちなところに「それってどうなの?」と泥をひっかぶせるのがいい心理学者です(断言)。
 本書は性差について批判的に検討したものですが、本書の方法はほかのあらゆる研究を批判検討する際にも役立つものです。学んでおけば一段上の研究ができるようになります。

 他分野を知るための3冊
8.前田健太郎 (2019). 女性のいない民主主義 岩波書店
 他分野……といっても結局犯罪学に近い何かにはなりがちですが、大学生の教養として知っておくべきものがいくつかあります。本書は政治学とフェミニズムを扱っており、書評でも言及しましたが、政治学の基礎知識を学びつつ、その基礎がいかに偏ったものだったか批判的な視点を提供してくれるという点で優れた1冊です。ぜひ読むべきです。
 次の1冊:加藤秀一 (2017). 初めてのジェンダー論 有斐閣

9.西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である データ社会を生き抜くための武器と教養 ダイヤモンド社
 私は犯罪学が最強だと思っているので題名に異論は挟みますが、それはさておき本書が統計学の良質な入門書であることは事実です。ほとんど数式を使わず、統計の考え方をインストールできる書籍は少ないでしょう。統計の講義が始まる前にこの1冊を読んでおくだけで、理解度が大きく変わるはずです。

10.北村紗衣 (2019). お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門 書肆侃侃房
 本書はフェミニズムでかつ批評の本です。私がカクヨムで『性暴力表現を公から追放する論理』を記したときに思ったのですが、社会の人は想像以上に「論理で主張を組み立てる」という振る舞いが理解できず、また自分でもできていません。批評はテクストを手掛かりに、ある種貧弱とも言われかねない証拠から論理によって自説を展開していく振る舞いなので、良質な批評を読むことでこの作法を学ぶことは重要です。本書冒頭にある批評そのものについての解説だけでも読むべきでしょう。

【書評】ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

 気になっていた本をようやく読めました。この前取り上げた『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』と同様、近年フェミニズム界隈で話題になった印象のある一冊です。

 男は「みんな」苦境に立たされているのか
 本書の著者は、女性同性愛者のカップルで男の子を養子として育てています。そのような背景もあり、ここ最近のフェミニズムの潮流について、ある疑問を抱いているようです。

 それは、女性の問題を扱うように男性の問題が扱われていないということです。「女らしさ」が社会的に構成されたものだと論じられ脱構築されていくなかで、「男らしさ」はそうなっていない。女性の苦境は解消されようと努力がなされているけど男性の苦境はそうなっていないということです。

 こう論じるとアンチフェミな皆様が「そうだ!男性差別が~」と言い出しそうですが、そういう話ではないと著者は釘を刺します。著者によれば、男性一般が苦境に立たされているというよりは、一部の特徴を持った男性が特に苦しめられているというわけです。

 本書は子供の発達について論じたものですから、学校場面に焦点を当てた議論が中心です。その場面では、発達障害を持つ子供と、人種的マイノリティの子供が不利な立場に立たされることになります。前者は言うまでもありません。後者は、例えばアフリカ系の子供の振る舞いがより「不良行為の前兆」とみなされやすく、懲罰の対象になりやすいことを示しています。イスラム系の子供が自作の時計を学校に持ち込んだところ爆弾だと疑われ処分されたという、あまりにもナンセンスな例も出てきます。

 あるいは、性犯罪との関連でいえば、いわゆる「有毒な男らしさ」に毒された少年たちの背景が語られています。「男らしさ」は弱みを見せたり誰かに頼ることを良しとしないため、様々な問題を子供たちが抱え込みがちになります。本書に登場する様々な取り組みが共通しているのは、このような「男らしさ」から少年を解放しようとしているところでしょう。

 「有毒な」ポピュラーカルチャー
 少年を育てる親に共通の悩みとして、ゲームのような暴力的なポピュラーカルチャーの悪影響を懸念する章もあります。もっとも、著者は「ゲームが危ない!」式の反応をすることもなく、逆に「ゲームは犯罪を減らす」式の反応もしていません。

 著者が懸念しているのは、ポピュラーカルチャーに登場する主人公が白人男性ばかりで、先住民族にルーツを持つ自分の子供のような少年少女たちのロールモデルが存在しないということです。著者が提示するデータには、子供向けの絵本に登場する有色人種の割合は、喋る動物や無機物の割合よりも低いというものもあります。

 このようなロールモデルの少なさは、実は白人男性である少年のほうにこそ悪影響を与えるかもしれないと著者は指摘します。白人男性ではない子供たちは、自分とは違うルーツのある主人公に自分を投影することに慣れているため、違う立場の人の気持ちを勘案するトレーニングになっている一方、主人公が自分と似ている白人男性はそうなっていないのではないかというわけです。これは一理あるかもしれません。

 さらに興味深いのは、「有毒な男らしさ」をばらまいている「有毒体育会系」の議論の中でも、eスポーツが言及されているということです。
 「有毒体育会系」は特に、身体的接触の多いアメリカンフットボールやアイスホッケーに関する議論から進んでいます。もちろん『ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』が取り上げた女性差別を促進する側面も強いのですが、一方で「負傷してもプレイする」「危険なプレイを称賛する」そして「相手への攻撃的な振る舞いを求める」という点で、プレイヤーにとっても有害でリスクのあるものになっています。

 そのような議論の中で、エナジードリンクを販売する企業が支援するeスポーツチームのことが取り上げられています。企業はプレイヤーを支援し自社製品を消費させることで、エナジードリンクの売り上げを増加させようと試みています。しかし、カフェインの大量に入った飲料水を短時間で摂取しすぎることで、腎不全を起こす事例すら出てきています。

 もっとも、少なくともアメリカやカナダでは、このような「有毒な男らしさ」を解消しようとする試みも数多く登場しています。本書でも多くの試みが取り上げられています。アイスホッケーでははじめ、身体接触を制限するルールのリーグが存在していましたが、メジャーなリーグが身体接触を制限するようになり存在意義を失ったとして解散するほどです。


 翻って日本を見ると……まぁ、身体接触どころかピラミッド作らせているような国ですし。そもそもアメリカのような事例と違い「明白な女性差別」すら解消できていない段階で、「有毒な男らしさ」にまで視野を広げるのは難しいかもしれません。

 レイチェル・ギーザ (2019). ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか DU BOOKS

「キャラクターが」攻撃されて可愛そう!などという意味不明の反応は「視点の欠如」に基づく


 まぁ、もういつもの光景ですね。 せめて「誰が」批判されているかくらいは理解してほしいところです。
 とはいえ、あまりにも毎回恒例すぎる気もします。今回は創作上のキャラクターだったので荒唐無稽さが際立っていますが、モデルが実在の人物だったときにはこの手の詭弁にコロッと騙される人が相当数いました。

 このような頓珍漢な反応が生じてしまう理由は主に2つあると考えられます。

 1つは、これはもうミソオタだけの病ではありませんが、批判と攻撃の区別がつかないということです。特に今回は、別に誰もキャラクターを「攻撃」してなどいないわけです。そもそも「エロい!」というのが可愛そうじゃないのに「その服は変じゃ……」というのが可愛そうというのがかなり倒錯した見方だと思いますが。

 透明化の技法
 もう1つの理由は、ミソオタたちが本来批判されている「広告を利用する側、作る側」を透明化し、モデルとなるキャラクターと批判者との二項対立という偽りの構造を作り上げているからです。この点は『「女性を性的な広告に使うな」が「女性を広告に使うな」に聞こえる人がいるらしい』でも指摘したことがありますが。
スライド2

 わかりやすく図にしてみました。まず、この図がミソオタたちの脳内で繰り広げられる模様です。
 しかし、ぱっと見でもこの図は相当おかしなことになっているのがわかると思います。

 まず、もちろんフェミニスト(に限らず批判者)はキャラクターを攻撃していません。批判もしていません。
 また、批判について「キャラクターが」かわいそうという反応は、キャラクターに自由意志を認めているかのような振る舞いですが、実際にはキャラクターにはそのような意志は存在しません。実在しない人物だからです。

 そもそも、創作物は創作者が、創作者の意志の元、性格外見服装から髪の毛の一本に至るまで「作られた」ものです。まぁ、そこまで深く考えて全てを作るわけではないにせよ、少なくとも「キャラクターの自発的な行動」などというものが存在しないのが事実です。

 創作ではよく「キャラクターが勝手に動く」といいますが、もちろん比喩表現です。まぁ、創作をしないミソオタたちはわからないと思いますが、あれは創作者がはっきりと自覚しない意志でキャラクターを動かすが故の比喩であって、本当に勝手に動くと思い込むのは湯気で動いているかつお節に活きがいいなどというようなものです。

 キャラクターに自由意志が存在し得ない以上、実際の構図は以下のようになります。
スライド1

 はい、きれいさっぱりキャラクターが消え去りました。こうすると、批判の対象がはっきりしますね。

 モデルに意志がある場合
 モデルが実在の人物であるときのような場合は、もう少し複雑です。ですが基本的な構造に変化はありません。
スライド3

 こうです。
 まず、モデルに細い矢印が伸びているのがわかると思います。モデルには意志がある以上、問題ある表現に参画した場合、一定の責任は問われますし批判もされます。ですが、広告の主体に対する批判ほどにはなりません。その理由は青い矢印が説明しています。

 特に日本の場合、モデルの所属する事務所であるとか、モデルを利用する立場の人々の力が強いことが多いです。故に、構造上、モデル自身の自由意志が十全に発揮されない場合があります。そうした事情から、表現の責任をモデル自身に帰すことが妥当でない場合は、モデルを批判することはなくなります。

 裏を返せば、明らかに自分の意志でやっただろという場合は容赦はありません。

 図に無い事情を補足しておけば、例えば広告への利用といった「利用場所」をモデル自身はコントロールできなかったり把握できなかったりした場合も、モデル自身に責任を帰すことができないので、モデルへの批判はほぼないでしょう。

 少なくとも、広告であれば、第一の責任は広告の主体に帰すべきであり、大抵の批判者はそのように批判を繰り広げています。

 現実を見ていないのはミソオタばかりなり……。

なぜフェミニストは「レディーズデー」にだんまりなのか

 男女平等というのは、性別による差を無くすことだと思ってるひろゆきです。
 先日、ハフポストの取材のときにも言ったのですが、男女平等を目指してるように見せかけて、特定の性を優遇するのを求めてる人は差別主義者だと思っていたりします。
(中略)
 「ジェンダーギャップ指数」という男女の差の広さを示す指数が問題だという人はいるのですが、「レディースディを辞める運動を一緒にやりましょう」とか「男性専用列車を作る運動に参加してください」って言ってる女性運動家を見たことがないです。
 本当にジェンダーギャップを改善するのが目的であれば、「レディースディ」を辞めることで少し改善するわけです。
 んでも、「レディースディを辞める運動」をしたくないってのは、「レディースディ」という特権は手放したくない差別主義者の考えだと思いますよ。。。と。
 フェミニストと名乗る人が、本当に男女平等を目指しているのであれば、「レディースデイの撤廃」や「男性専用列車の実現」に賛成してくれると思うので、その切り分けをしたくて書いてみました。
 男女平等というのは、性別による差を無くすこと-ガジェット通信
 いや、もうアホかよという感じなのですが、いまだに無くならないですね。「レディーズデーがー」言説。
 すでに多くの方が言葉を尽くして説明しているとは思うのですが、ここでもやっておきましょう。

 なぜフェミニストが「レディーズデー」に無反応かというと、以下の3点に理由を集約できるでしょう。

 1.そもそも差別ではない
 2.差別だったとしても些細すぎて優先順位が低い
 3.少なくとも「女性差別」ではない

 なお、この記事はひろゆき並みのアホが「レディーズデーがー」などというたびにURLを投げつけてお使いいただけます。

 1.そもそも差別ではない
 根本の話ですが、そもそもレディーズデーは差別ではないです。
 差別を極めて厳密に定義すれば、「ある集団と別の集団を区別し、扱いに差を設ける」ことと言えるでしょう。差別と区別は違うといいますが、区別したうえで扱いを変えるのが差別なのです。

 この極めて厳密な定義によれば、レディーズデーは差別であるといえるかもしれません。女性だけ料金を変えるわけですから。
 しかし、この厳密な定義を用いると明らかにおかしなことが起こります。つまり、差を設けることそれ自体が差別だとなれば、例えば入試などで「得点の高い受験者を合格させ、低い受験者は不合格にする」という措置もまた差別であり、許されないとなるでしょう。ですが、このような認識に同意する人はいそうにありません。

 人々をある観点から区別し差を設けるということは日常的に行われており、その全てが差別といわれるわけではありません。ここから考えるに、差を設けることが全て不当なのではなく、差を設けることに不当なものと正当なものがあるというべきでしょう。

 では、その正当性を区別する要素は何でしょうか。

 よく、違憲裁判などで「合理的な差別」という言葉が聞かれます。ここでいう「合理的」というのは法的合理性、違憲審査基準でいえば合理性の基準のことです。つまり、法律の目的や手段が著しく不合理でなければ、差別を生じさせているように見える法律も違憲にならないということです。

 法律ではありませんが、先ほどの入試の例で考えてみましょう。入試を行い得点の高低で合否を決定するのは、まず物理的リソース的な限界から大学に全員を受け入れることができず、何らかの方法で選別をしなければいけないからです。この目的は不合理とは言えません。

 また、学力試験で合否を決定するというのも、大学の性質を考えれば手段として妥当でしょう。ゆえに、入試は「合理的な差別」と言えます。
 仮に、受験生の選別に「大学への寄付金の額」を使用しようとなれば、手段としては明らかに不合理であり、差別であるということにもなるでしょう。

 で、レディーズデーです。まずレディーズデーの目的ですが、これは企業が女性の顧客を呼び寄せる目的で行っています。この目的自体は別に不合理なものではありません。男性客を排除しようとしているわけでもありませんし。

 また、手段は数百円程度の割引というサービスが大半であり、これも著しく合理性を欠くとは言えません。女性は無料にしますとか、程度が大きくなればまた話は変わってくるでしょうが、男女の賃金格差を考えれば数百円程度は誤差の範疇でしょう。

 ゆえに、レディーズデーはそもそも差別ではないのです。

 2.差別だったとしても些細すぎて優先順位が低い
 とはいえ、ここまで論証しても「差別だ!」と頑張る人はいるでしょう。あるいは、「差別ではないが優遇である。性別で差を作らないのが男女平等のはずだ!」と頑張る人もいるかもしれません。

 ですから、ここからは「レディーズデーは差別である」という仮定を持つ別のユニヴァースの話だと思ってください。

 仮にレディーズデーが差別だとして、なぜフェミニストがこれに声をあげないかというと、あまりにも些細すぎる問題だからです。なにせたった数百円の話ですから。

 フェミニストに限らずですが、人のリソースには限界があります。なので必然的に、興味関心や力を入れる分野には優先順位がつきます。数百円の問題というのは、優先順位としては極めて下でしょう。もちろん、社会的な重大性と個人の関心が比例するとは必ずしも言えないわけですが、たいていは相関します。

 かつて『女尊男卑コピペの真偽 真に「男性差別」をなくすために』を書いたときに調べたのですが、女性が優遇されている(ように見える)問題というのはもっとたくさんあります。かつて遺族年金を女性しか受け取ることができなかったなどは代表例でしょう。

 積極的に言行不一致とならない限りは、個人の中である程度優先順位がつくのはやむを得ないことですし、規模の大きな問題と小さな問題にかける熱意を同じにしろと外野が命令することこそ不当でしょう。

 3.少なくとも「女性差別」ではない
 仮にレディーズデーが差別だとしても、これは女性差別ではありません。

 フェミニズムは元来、侵害されていた女性の権利を守り尊重するための運動です。つまり、フェミニストの興味関心の中心は「女性差別」であって、それ以外の差別、ましてや「男性差別」なるものへの優先順位が女性差別に対するものより低下するのは当然といえましょう。

 もちろん、権利を守る運動という面から、女性差別以外の差別問題にも関心を払うべきであるという主張はあるでしょう。しかし、その主張は運動内部から登場する方法論であるから傾聴に値するのであり、またあったとしても「女性差別と同じ熱意でほかの差別に対応しよう」という優先順位の転倒までは起こさないはずです。

 外野からの指摘は単なるヤジにすぎません。ましてや、「レディーズデーに反対しないから駄目だ」というジャッジの基準にするつもりしかない発言に価値はありません。もしレディーズデーが気に入らないというのであれば、「差別されている」男性が自ら運動を起こせばいいのですから。

 フェミニストがレディーズデーに反対しないから駄目だというのは、労働組合が大企業減税に賛成しないから駄目だみたいな倒錯した判断というべきでしょう。

 気に入らないなら自分でやれば?
 レディーズデーにせよ女性専用車両にせよ、気になるのは「フェミニストがやらないから駄目」という議論ばかりで、「問題だから自分で行動しよう」という態度が全く見られないことです。

 結局のところ、本当に問題だと思っていないか、誰かに解決してもらうのを口を開けてぽかんと待つことしかできないのでしょう。しかし、どこかで聞いた言葉を借りるなら、社会はお前の母親ではないのです。

 解決したいなら自ら行動を起こせばいいのです。行動を起こすのに免許は必要ありません。

【書評】ひれふせ、女たち ミソジニーの論理

 今回書評するのは、フェミニズム界隈で話題となった1冊です。最近、この界隈で注目を浴びる書籍が多く、興味深く追っています。本書は一般向けに出版されたミソジニーの解説書……なのですが、分厚い、そして結構難しい。慶応義塾大学出版会ですからね、版元が。哲学議論の素養がない私には、著者の議論を十分理解できなかったかもしれません。

 それでも、著者が本書で指摘しているミソジニー概念の「改良」という点について、いくらかの手がかりを得ることは有益でしょう。

 ミソジニーがこうである必要はない
 本書は、エリオット・ロジャーが起こしたアイラヴィスタ銃乱射事件を取り上げるところから始まっています。この事件は、加害者がカルフォルニア大学サンタバーバラ校のソロリティ・ハウス(アメリカの大学にある社交的なシェアハウスのようなもの。共通点のある女子学生が集い生活する)に侵入し、その前に起きた殺人と合わせて最終的に6名を殺害、十名以上を負傷させた後自殺したものです。

 この事件を起こす前、加害者はYouTubeに予告動画をアップロードしていました。そこでは女性から選ばれなかったことに対する加害者の恨みつらみが述べられており、この事件は「ミソジニー殺人」として注目を浴びました。

 しかし、その見方に賛同する者ばかりではありませんでした。主に男性論者ですが、この事件は女性への憎悪という意味でのミソジニーがきっかけなのではなく、精神疾患、社会的孤立、欲求不満の産物であり、少し状況が違えばソロリティ・ハウスではなくショッピングモールに向かっていただろうと主張しています。

 『【書評】暴力の人類史 上』『【書評】暴力の人類史 下』で著書を取り上げたスティーブン・ピンカーもその一人です。彼は「統計的には、男性は女性よりも男性を多く殺している」という、どこかで聞いたことのあるような主張をした記事を引用して、この事件がミソジニー由来であることを否定します。

 ここでは、ミソジニーが「全ての」女性に「敵意」を向け「攻撃のみ」を行う心理的過程であると想定されています。しかし、著者はそうではないと指摘します。

 まず、著者はミソジニーを加害者ではなく被害者の視点から組み直します。つまり、加害者の敵意といった確かめようのない心理的過程を必須とするのではなく、結果として女性を害する行動をミソジニーの要素として規定すべきであるというのです。まぁ、当然でしょう。著者の主張するように、ミソジニー殺人の加害者の少なくない数が自殺するので、加害者の心理的過程をミソジニーに必須とするならば、ミソジニーと呼べる殺人は数少なくなります。

 さらに、著者はミソジニーが「全ての」女性に対するものではないし、「攻撃」ばかりが導かれるものではないと指摘します。ミソジニーはあくまで、性差別の「法執行機関」のようなものであり、敵意が向けられるのは性差別が規定する規範から逸脱した女性に対してのみです。むしろ、規範に迎合的な女性には慈悲的にふるまうことも考えられるでしょう。

 また、ミソジニー殺人に典型的ですが、女性への敵意は必ずしも、その男性を「傷つけた」女性個人へ向くとも限りません。ある種八つ当たり的に、全く無関係な女性に攻撃が向くということは、大量殺人のプロセスにおいてもよくあることです。

 つまりミソジニーは、あくまで「言うことを聞かない女を懲らしめる」といった方向性の振る舞いであり、全ての女性に対し敵意的である必要もなければ、その「懲らしめ」があらぬ方向を向いている可能性すらあるということです。

 ヒムパシー:名前のない問題
 もうひとつ、本書で取り上げられている重要な概念はヒムパシーというものです。これは、女性に加害をした男性に対し、世間が、時には女性すらも同情的になり、免責しようとする振る舞いを指しています。

 この件に関しては、本書でも言及されていますが、アメリカでは『【書評】ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』で取り上げたような事件が代表的でしょう。大学の著名なスポーツ選手が女性をレイプした事件で、「輝かしい将来」に同情した裁判官たちが極めて軽い刑を言い渡したような事例が起こっています。

 日本でも、例えば『【記事評】『DAYS JAPAN』最終号を考える(週刊金曜日2019年4月12日 (1228)号)』で触れたような事例があります。加害男性の話を聞こうという、一見もっともらしい態度によって、問題の視点が男性の内面へとずらされ、いつの間にか彼らを罰することが忘れ去れてしまうということが起こりえます。

 このような現象は、時に被害者を非難する原動力になると言えますが、著者はより巧妙で分かりにくい形式として、性暴力の語りから被害者が欠落するということを指摘しています。先例の大学スポーツ選手によるレイプ事件では、加害者とその関係者は呆れたことに、アルコール摂取と性的不品行の危険性について世間を啓もうする活動をする計画を開陳し、著者は「苛立ちを覚える」「他人を説教する前に、まずは自分から道徳教育を受けるべき」と指摘しています。

 上掲の広河氏の例でも、同様のことが起こっています。『【記事評】『DAYS JAPAN』元発行人手記 「性暴力」について謝罪し30年遅れで学ぶ(月刊創2019年4月号)』などが盛んに広河氏の主張を掲載したように、さも加害者の発言に何か価値があるかのように世間は扱います。しかし、被害者の声が表に出ることはあまり多くありません。

 本書ではこれ以外にも多数の概念を扱い、総体的にミソジニー概念のブラッシュアップを図っています。そのような視点は、世界で同時多発的に起こっている、女性へのバックラッシュへの理解を助けるのはもちろんのこと、それ以外のあらゆる差別問題を理解する基盤にもなるものでしょう。

 ケイト・マン (2019). ひれふせ、女たち ミソジニーの論理 慶応義塾大学出版会

【書評】女性のいない民主主義

 今回は犯罪学とは直に関係のない書籍ですが、フェミニズム関連として重要な話題を扱っているので取り上げましょう。
 本書は政治学の標準的な学説を取り上げつつ、それがいかに男性中心的な価値観で作られてきたか、女性の政治参加という視点が欠けていたかを指摘しています。政治学の基本を学びつつその学説を批判的に検討することもできるという贅沢な1冊ともいえましょう。

 マンタラプションとブロプロプリエイション
 本書の序盤では、女性の意見がなぜ政治の世界で広まりにくいのか、浸透しにくいのか、その原因を指摘しています。そのなかで女性に対して男性が説明したがる「マンスプレイニング」はよく知られているでしょう。

 もう2つ、あまり知られていない概念も紹介されています。
 1つはマンタラプションです。これは女性の話を遮って男性が話し始める現象のことです。例えば、あの「鉄の女」マーガレット・サッチャーですら、インタビューの際に発言を遮られることが男性政治家よりも多かったそうです。

 もう1つのブロプロプリエイションという舌を噛みそうなものは、女性の発言が男性の発言として横取りされてしまう現象をさしています。例えばジョン・スチュワート・ミルは『自由論』をはじめとする多くの著作を残しましたが、これは妻のハリエット・テイラーとの共著であることが明らかになっています。しかし、そのことはあまり知られていません。

 つまり、マンスプレイニングで男がでしゃばらず、マンタラプションで遮られず、ブロプロプリエイションで横取りされなければようやく女性が発言できるという状況にあるというわけです。

 このような、男性が女性の発言を妨害するような状況は、常に生じるわけではありません。このような状況は男性が集団において圧倒的多数を占めている場合に生じやすく、逆に30%でも女性が集団に存在すれば発言が通りやすくなるという性質があります。
 ですから、政府もとりあえずの目標として女性の割合30%を目標に掲げているわけですが、まぁ、まったく達成できる見込みはありません。

 男性中心は何を意味するか
 本書は様々な側面での「男性中心」の弊害を論じていますが、特に注目すべきなのは、福祉国家を中心に政策がどのように論じられていくかを明らかにした後半部です。
 福祉国家というと、その福祉は全国民のためになされるものであると漠然と考えられるかもしれません。しかし、実際には労働者たる男性を中心に、女性が家庭でのケアを負うことを前提としている、男性のための福祉国家となっています。

 そもそも、官僚と政治家の大半を男性が占める政界において、何をもって重要な政策とするか、何を優先して決めていくべきかというフレーミングは、当然男性が中心となって決定します。平たく言うと、男性が重要だと思わない問題は政策上の議論に上ることすら難しいのです。

 それは、性犯罪に関連する刑法が長年改正されず放置されていたことや、選択的夫婦別姓がいまだに制度化されないことからも明らかでしょう。

 類似のことはかつて『差別の存在を論じるときに「強固な」証拠を求めることはそれ自体が差別的な発想である』で述べました。女性差別がないということにしたい人々は、女性が直面する問題について逐一「確固たる証拠」を求めますが、政府がどのような統計を取りどのような調査をするかもまた男性が決めるので、そもそも女性の問題について調査が適切に行われないことも稀ではありません。証拠の不在は不在の証拠ではないのです。

 本書はデータも豊富なのがありがたいです。「女性差別なんてない!」という人にとりあえず投げつけるのもいいじゃないでしょうか。

【書評】#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム

 #KuTooとオタクに関連したことがいろいろあったこともあって、応援の意味を込めて買いました。
 ちなみに、購入にはKampa!で送ってもらったAmazonギフトカードを利用しました。Twitterアカウントを潰されたせいでいまは使えないサービスになってしまいましたが……。代替措置を早く検討しないといけませんね。

 ちなみに、#KuTooに関しては本ブログでも『なんでも「なんでも女性差別」という愚 #KuToo と混浴ツイートに関して』などで取り上げています。

 クソリプ展覧会へようこそ!
 さて、本書の内容の大半は実際のところクソリプ展覧会なるものに割かれています。まぁ、#KuTooの主張なんて「靴を強制するな」という一言で終わるもので長々と説明しなければいけないものではありませんし、本来このように社会運動にまで発展するのがそもそもおかしな話なわけです。

 じゃあなんで社会運動にまでなって「しまう」のかというと、本書に登場するクソリパーたちのようなのが社会に遍在しているからです。まぁ、直接顔を合わせてこのようなことをいう人は少ない(とはいえ存在している)んですが、メンタリティはクソリパーと大差ないようなのが大臣の席についていますしね。「セクハラ罪はない」の麻生しかり(『麻生太郎のセクハラ擁護発言は「ネットの議論」の本質をついている』参照)、パンプス強制をだめだと言い切れない根本厚労大臣しかり(『根本厚労相はパンプスパワハラを容認したのか、否定したのか #KuToo』参照)。

 興味深いのは、著者が指摘しているように、クソリプを送ってくる人の多くが「日本の国旗をアカウント名に」「皇紀」「日本大好き」な「普通の日本人」であるということです。「保守」「右翼」「愛国者」がどういう人間なのかはっきりしますね。愛国者を名乗るならば、同胞女性の苦境には人一倍敏感に反応しなければいけないような気がしますが、不思議です。まぁ、『沖縄・米兵の性犯罪もセカンドレイプの対象になる国』で取り上げたように、性犯罪被害にあった日本人女性よりもアメリカ人男性のほうを擁護するのが「愛国者」のふるまいらしいので。小林よしのりも外国で被害にあった女性を叩く漫画を描いていましたしね(『被告側代理人の弁護士の『伊藤詩織著 「Black Box」 が「妄想」である理由』が妄想である理由』参照)。私には理解できないことですが。

 ちなみに、このクソリプ博覧会に対して「著作権侵害だ!」的なクソリプがついているようですね。無限ループかよ。怖っ。どう見ても正当な引用の範囲ですし、正しく引用しようとするとかえってアカウント名がついていないと出典不明になるのでだめというおまけつき。第一アカウント名を晒されて困るようなリプを送らなければいいでしょう。

 「靴を強制するな」ってそんなに難しいことなのか
 書評しようとして、あまり書くことが思いつかずやはり意識したのですが、「靴を強制するな」ってそんなに難しいことなんですかね?
 別段#KuTooに関心がない人でも、不必要な服装の強制は問題であるという話は容易に理解できると思うのですが。少なくとも私はそうでしたし、だからこそわざわざ書評で書くことがほとんどなくて困っている有様なのです。

 まぁ、『性暴力表現を公から追放する論理』だって当たり前のことをわざわざ言語化したわけで、やろうと思えばできるんでしょうが……。

 興味深いのは、著者と労働政策の専門家である内藤忍氏、ハラスメント研究の第一人者である小林敦子氏それぞれとの対談です。内藤氏は40年前の研究を引き合いに出し、ヒールによる職場での転倒事故がそのころから問題視されていたことを説明します。そして小林氏は、そのことを裏付けるように、かつての経験談として、ヒールで階段から落ちたことが2回もあると述べています。それぞれの対談は別々に収録されたものでしょうが、ヒールの危険性を明らかにするうえでこれ以上ないケースとなっているといえるでしょう。

 幸い、靴の強制は問題であると社会の側が動きを見せ始めています。クソリパーがどう言おうが、社会は結局「正しいほうに」変わるということでしょう。

 石川優実 (2019). #KuToo 靴から考える本気のフェミニズム 現代書館

【記事評】まるごと一冊 女性の世紀(ナショナルジオグラフィック2019年11月号)

 今回の記事評はナショナルジオグラフィックの特集です。特集といっても「まるごと一冊」の看板に偽りなく、全部女性関連の記事で占められていました。
 通常、記事評は雑誌の中のさらに特定の記事に焦点を当てて論じるのですが、今回はナショナルジオグラフィック11月号全体を概観し、個人的に注目した部分をピックアップしようと思います。

 思わぬ機会:ルワンダの女性たち
 1つ目は『女性たちが作る新生ルワンダ』と題された記事です。
 ルワンダはご存じの通り、ルワンダ大虐殺の起こった国です。その虐殺から生き残った人々の多くは女性であり、女性が活躍できる国づくりはルワンダ復興の急務でした。

 記事で言及されているように、ルワンダの女性の地位向上は「思わぬ機会」だったわけです。
 しかし、外形上女性が活躍できる仕組みが出来上がったからと言って、人々の精神までついてくるわけではありません。ルワンダはアフリカ諸国の中でも特に女性の国会議員の割合が高い国ですが、一方でそのような国会議員を務める女性は家庭内での地位が著しく低いこともあるようです。つまり、外では地位が高くとも、その意識改革は家庭内に及んでいないというわけです。
 そのような観点から、ルワンダは次の改革のために試行錯誤を繰り返しているところです。

 思わぬ機会を得て仕組みを整えたが、人々の考え方が古いまま、というのはなんだか鏡を通して日本を見ているような気分にさせられます。日本も太平洋戦争の敗戦から民主主義を「思わぬ機会」として得ましたが、人々の精神がその民主主義に追いついているかというと微妙なところがあります。

 夜を取り戻せ:インドの女性たち
 犯罪学者的には、インドに注目した記事『インド 安全に暮らす権利』も興味深いものがありました。やはりこれもよく知られた事件ですが。かつてインドでは2012年、バスに乗っていた女性が集団でレイプされ、外へ捨てられるという事件が起こりました。この事件をきっかけに、インドの女性たちは声を上げていきます。

 顕著な運動の1つが、#TakeBackTheNightと呼ばれるものです。これは夜を取り戻せの名前の通り、危険な場所となってしまった夜道、そこを歩いていただけで非難される場所となった夜道を取り戻すため、勇気ある女性たちが連帯して夜道を歩きました。また、気候ゆえに戸外で寝ることを好むインドの人たちらしく、安全に野宿する権利を取り戻そうと#MeetToSleepという活動で、女性が団結して野宿するという活動もあったようです。

 本誌に掲載された情報によると、夜に道を一人で歩くことに不安を感じる人々は、発展途上国で多くなっています。このような場合、遠方からの通勤や通学が困難となり、女性の社会進出が遅れることとなります。

 本誌はここで取り上げた以外にも、各分野で活躍する女性のインタビューなど、多種多様な情報が掲載されています。ナショジオだけあって写真も豊富、デザインも秀逸とあって、ぜひ一読したい内容といえるでしょう。


犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
E-mailアドレス
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