九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

刑務所

欲しいものリストを公開しています。
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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

【書評】人を殺すとはどういうことか 長期LB級刑務所・殺人犯の告白

 今回は2回の殺人事件で無期懲役を受け、刑務所に収監されている著者が記した1冊です。本書の刊行が2009年(ただし文庫化は2011年)、その後新潮新書として出版された『死刑絶対肯定論』は2010年という時系列です。

 本書の全体の印象としては、読み物としてはなかなか面白く興味深いものですが、著者が意図したような、犯罪者の本性を知る上で役に立つかというとさほどではないというのが正直なところです。

 犯罪者に「語らせ」たがる人々
 本書の原稿は通信の限られる刑務所から、どうにかこうにか送られてきたものだそうです。おそらく本書を出版するときに編集者の念頭に、当事者の主張だから説得力があるという考えがあったでしょう。

 本邦に限らず、犯罪者が語る犯罪論めいたものには常に一定の人気があります。窃盗犯が教える防犯対策とかがその典型です。

 本書も、自分の加害の責任を被害者に転嫁して反省しない犯罪者の存在など、おそらく犯罪者についてあまり知らない人が読めば、驚くような内容がてんこ盛りでしょう。
 しかしながら、これらの内容の多くは、専門家の間ではとっくの昔に周知されていることでした。

 例えば、加賀乙彦が『死刑囚の記録』を記し凶悪犯の素顔を明らかにしたのは1980年のことです。本書の出版から30年近く前になります。また、刑務所が犯罪者の学校となってしまっている現実は、刑務所のシステムが出来上がった初期から様々な国で指摘されていることです。だからこそ更生プログラムが発展していったわけですが。
 専門的な言葉を使えば、本書の知見には新規性がないということになるでしょう。

 もちろん、本書に登場する人々の来歴や考え方は面白いものですが、それはあくまで読み物として面白いのであって、それ以上ではありません。著者や出版社がもくろんだ様に、本書があったから犯罪者の真の姿が分かったということにはならないでしょう。

 本書を読んで思い出したのが、かつて書いた『「殺人犯の名前を呼ばない」NZ首相と、殺人鬼に深遠な何かを見出そうとする風潮』です。彼ら犯罪者の語る言葉の大半は、犯罪者に語らせるまでもない内容だったりします。

 自分を特別に思いたい心性
 同じ新潮社から出ている本として、長年犯罪者の更生教育かかわった岡本茂樹氏による『凶悪犯罪者こそ更生します』があります。当該書において、岡本氏は本書の著者を分析して「自分で正しいと思ったルールを破ったものは暴力で排除してかまわない」という方針から抜け出せていないと指摘しています。まぁ、本書に関しては著者自身がまだその段階にあると吐露しているので分析が当たるに決まっているわけですけど。

 ただ、それとはもう1つ別に、著者には「自分を特別に思いたい心性」が強くあるのかなと思わせられました。
 特に顕著なのが、氏が受刑者となる前に読んでいた本や雑誌の数を述べる部分です。月に単行本は100冊から200冊、週刊誌が20誌、月刊誌は60誌から80誌と書いています。私も読書家なので肌感覚はわかりますが、明らかに非現実的な数字です。そもそも雑誌はこれだけの種類を手に入れるのがまず困難でしょう。この数字では本と雑誌を合わせて最低でも月に240冊は読んでいることになります。つまり単純計算で1日に8冊。当時定職にあった著者がこの数を読みこなそうとすれば、もはや読んだというより眺めたといったほうが実態に近くなります。
 雑誌の大多数が漫画雑誌ならもっと現実的になりますが、それでも「盛った」値か、あるいは実態を書いていることは間違いないでしょう。

 本書にはこれ以外にも、著者が自分をよく見せようとして書いていると思しき記述が散見されます。知能が比較的高く、自己愛の強い犯罪者の典型と言えるでしょう。

 もっとも、自分が特別であると思いたがるのは人間一般の特徴であり、それ自体が悪いことというわけではありません。
 ただし、形式によっては不適応となることも多くあります。

 心理臨床には(どういう言葉だったが忘れてしまいましたが)「病の利益」というような概念があります。これは病に陥ったとき、それによって周囲から同情されたりするために病から利益を得ることで、これが強くなると病から回復する動機が薄れてしまいます。
 個人的には、病であることをもって自分を特別に見せる類の利益もあるのではないかと思います。Twitterのプロフ欄に自分の病を書く人にちらほらといるタイプです。

 本を書きたがる犯罪者というのは、この変形と捉えることができるでしょう。犯罪者であることに特別感を見出しているわけで、更生の観点からは不適応もいいところです。

 ただ、本書を読む限り、その特別感、あいつらと俺は違うんだという感覚が、著者に自分の行いを省みさせるきっかけになった節もあり、皮肉ともいえましょう。人間の心は一筋縄ではいきません。

 美達大和 (2011). 人を殺すとはどういうことか 長期LB級刑務所・殺人犯の告白 新潮社


入管は何のために収容があるのかもう一度よく考えなおせ

 東京・品川の東京入国管理局で3月12日、収容者のクルド人男性チョラク・メメットさんが体調不良を訴え、救急車が出動したにもかかわらず、入管が病院への救急搬送を拒否したとして、チョラクさんの家族や支援者らが抗議している。
(中略)
 朝、奥さんはいつものように品川の入国管理局に面会に行った。しかし、入管職員は「今日彼は、具合が悪いから面会できません」と奥さんに告げた。
 奥さんが入国管理局の4階に移動し、「何の病気ですか?」と聞くと入管職員が「面会の方で聞いてください」としか言わなかった。
 そのあと、奥さんは5分間だけチョラクさんと面会した。2人の入管職員がチョラクさんの両側を支えているが、彼は一人ではとても歩けない状態だった。
 チョラクさんが「息が苦しいよ、頭が痛い…」と訴えたため、奥さんは面会をすぐ終わらせ、総務課に声をかけた。
 奥さんが「外の病院に行かせてください」と申し出ると、入管職員は「13時から16時の間、入管に医者が来るから診てもらいます」と答えた。
 奥さんたちは、入管で15:30まで待ち、職員から「薬を出しましたから」と言われたので、その言葉を信じて埼玉県蕨市の自宅まで戻った。
 しかし午後5時56分、チョラクさんからの電話を受け、それが真実でなかったことを知る。薬はおろか、医者の診察さえなかったという。
(中略)
 午後7時20分、再びチョラクさんから奥さんに電話がかかり、「なぜ、外からも何もしてくれないのか」と訴えたところ、奥さんの友人が救急車を入国管理局に呼んだ。
 午後7時25分頃、救急車が到着。しかし入管職員は「看護師がいるから大丈夫、帰りなさい」といい、救急車は空のストレッチャーを乗せて帰ってしまった。
 しかしその後、入管職員は「看護師はいない」と奥さんに告げた。奥さんは「お願いですから、医者の診察をしてください」と懇願した。
 入管職員は奥さんに「明日医者が判断し、必要なら外の病院に行きます」に告げた。「責任者は誰ですか?」と奥さんが尋ねると、入管職員は「答えられません」としか答えなかった。
 その後、チョラクさんとは連絡がとれなくなった。入管の規則で、収容されている人が電話できるのは午後8時までだからだ。それ以降は外にいる家族とも電話ができなくなる。
 午後11時13分、2台目の救急車到着。奥さんによると119では対応してくれず、救急相談センターに電話をしたという。
 しかしその30分後、救急車はどこにも見当たらなかった。チョラクさんを支援する人たちが入管前に集まっていたが、彼らが気づかないうちに別の出口からいなくなってしまったようだ。その時、チョラクさんが搬送されたのかどうかもわからなかった。
 奥さんが、支援者たちと共に救急相談センターに確認したところ、チョラクさんを搬送していなかったことを知った。
 14カ月収容され、命の危機にあるクルド人男性。救急搬送を拒否した入国管理局の対応を問う-Forbes
 少し前の話になってしまいますが、この件です。
 このクルド人男性は結局、病院に搬送されたようです。ですが入管は今回に限らず、何度も同様の問題を起こしています。
 東日本入国管理センター(茨城県牛久市)で4月13日、収容されていた難民申請中のインド人男性(30代)が自殺した。亡くなる前日、男性の仮放免申請が不許可となっており、長期拘束を悲観したとみられている。
 不法滞在などの疑いを持たれた外国人は、入管の施設に収容され、審査を受ける。強制送還が決まれば、その日まで施設で待機。しかし、外部との接触が制限されるなど、長らく人権上の問題が指摘されてきた。
 入管施設での死亡事案はどのくらいあるのか。弁護士ドットコムニュースの取材に対し、法務省入国管理局は、2007年以降だけで今回も含め13件になると回答した(記事末にリスト)。うち自殺は5件。
 入管をめぐっては4月22日にも、収容者に対する人権侵害行為が報道された。共同通信によると、東京入国管理局が2017年6月、虫垂炎の手術をしたばかりのトルコ人男性収容者(29)について、患部の痛みを訴えているのに、約1か月診療を受けさせなかったという。
 遺族の代理人として死亡事案を担当したことがある児玉晃一弁護士は、「入管では収容者がモノのように扱われている」と強く非難する。
 入管施設の死亡事案、2007年以降で13件 「収容者がモノ扱い」の批判も-弁護士ドットコムニュース
 なぜ、このような「スタンフォード監獄実験」を地で行くような事態が起こってしまっているのでしょうか。

 何のための拘留制度か
 それは、外国人に限らず身体や自由の拘束がそもそも何のために制度化されているのかということを、日本社会が明確にしてこなかったためでしょう。
 いうまでもなく、自由の拘束はそれ自体が重大な人権侵害です。故に、それが認められるとすれば、そうしなければ他者の人権を著しく侵害する場合に限られるはずです。例えば受刑者の拘束は、そうしなければほかの市民や犯罪被害者の安全を脅かすからであり、暴れる精神疾患患者の拘束が認められるのは自傷他害の恐れがある場合のみです。

 そしてこの原則は、本来不法滞在の可能性がある外国人にも適用されるはずです。逃亡の恐れがある者を、不法滞在の可能性があることを告知しながら放置すれば、逃亡に伴い何らかの犯罪行為に手を染める可能性があり、これは他者の人権を著しく侵害するものです。一方、家族や仕事があり逃亡の恐れがない者を拘束することは、誰か他者の人権を守る効果がなく、よって拘束それ自体が著しい権利の侵害です。
 「入管」「収容」と聞いても、??な方も多いでしょう。
 「刑務所」とは違うの?逮捕されている人?と思う方もいらっしゃるでしょう。
 全然違います。
(中略)
 これに対し、入管は、退去強制事由(在留期限を超えた在留など)に該当する疑いさえあれば、逃亡の危険等の収容の必要性がない場合であっても、人身の自由を奪う収容が可能であるという「全件収容主義」という考えを一貫してとってきました。
 まずは、最大60日収容(身体拘束)することができます。
 この「収容」は、入管法上、裁判所(裁判官)による司法審査不要で、入管の判断だけですることができます。

 また、入管は、入管の判断だけで出すことができる退去強制令書(裁判所(裁判官)による司法審不要)を出せば、無期限収容することができるという考えをとっています。

 このように刑事事件の手続保障と入管手続の手続保障の間には雲泥の差があります。
 裁判所(裁判官)の判断も一切入りませんし、権利として身体拘束解放を要求することができません。
 身体拘束期間の時間制限も刑事手続に比べれば、無きに等しいものです。
 入国管理局による収容とは何か-暁法律事務所
 しかし入管は、どういう事情があれ全件収容でき、かつ無限に司法の審査なく収容できるという無茶苦茶な前提をとってきました。
 入管には様々な問題がありますが、まず収容に際して司法の判断を仰ぎ、かつ収容期間をより短く上限のある者に区切る強力な法改正が必要です。

 留置所や拘置所も同じ
 留置所は逮捕され起訴には至っていない者を収容する場所、拘置所は起訴され判決に至っていない者を収容する場所です。微妙に違いますが目的は逃亡と証拠隠滅の防止で共通しています。

 入管の収容所にせよ拘置所や留置所にせよ、「目的を達成する以上の権利の侵害はしてはならない」という原則が貫かれるべきです。つまり逃亡や証拠隠滅の防止が目的であればそれを達成するために収容者の権利を一定侵害するのはやむをえませんが、そうでないなら侵害は認められるべきではありません。収容者が体調不良を訴えているにもかかわらず診察を受けさせないなどは例外です。

 森友学園問題で籠池夫妻が拘置されたために有名になった感もありますが、拘置所には冷房がない、運動時間が極めて限定されているといった劣悪な環境も問題になっています。入管も同様でしょう。彼らは逃亡や証拠隠滅の阻止のために収容されているだけであり、冷房の不備などはその目的とは一切関係ありません。

 よく北欧の刑務所が恵まれすぎているといわれますが、本来懲役刑が自由の拘束を罰とし、それ以外は無関係であることを考えれば、むしろ北欧の刑務所のようになっていないことのほうが、原則から言えばおかしいのです。入管や拘置所に至っては、そもそも有罪判決が出たわけですらないのでなおさらです。

 刑事司法制度はあくまで、人権の擁護のためにあります。被疑者や受刑者の人権を制限するのも、他社の人権を擁護するために必要だからです。しかし犯罪を犯してもいない外国人を、不法滞在の可能性があるという理由で何年も収容して、いったい誰の権利が守られるというのでしょうか。

産経新聞・貳阡貳拾年 第7部 犯罪新時代について 上

 ここ最近、産経新聞の特集『弐千弐拾年』において犯罪についての特集が組まれていますので、いくつかに分けて考察していきます。(続きは『産経新聞・貳阡貳拾年 第7部 犯罪新時代について 下』)
 このブログでは何かと産経を引き合いに出してはぼろくそに言っている気がしますが、(2)で見られるような高齢者犯罪、あるいは過去に特集があった累犯障碍者問題などは積極的に取材・報道しており、そこは評価できます。他の新聞は読んでないのでどうだかわかりませんが。

 (1)司法取引・取り調べ可視化
 政府は今年3月、司法取引の導入▽取り調べの録音・録画(可視化)の義務化▽通信傍受の対象事件の拡大-などを盛り込んだ刑事訴訟法改正案を国会に提出した。衆院の審議で、論戦の的となったのが司法取引の導入だ。他人の犯罪を明かせば起訴見送りや求刑の軽減を受けられる制度だが、野党は「冤罪(えんざい)の温床になる」と反発。「司法取引には弁護士が関与する」との内容を盛り込むことで与野党はようやく折り合い、8月に可決された。
 しかし参院で民主党は、ヘイトスピーチ規制法案(人種差別撤廃施策推進法案)の審議を優先すべきだと主張。刑訴法改正案は審議入りできないまま閉会となり、継続審議となった。自民党と法務省は次期通常国会での成立を目指す。
 そもそも、司法取引の導入は、取り調べ可視化と“表裏一体”の関係にある。大阪地検特捜部の押収資料改竄(かいざん)事件を受けた検察改革で冤罪防止のため試験導入された可視化だが、カメラの前では容疑者が萎縮するなどし、供述が引き出しにくくなったとされる。
(中略)
  ただ、司法取引の本場・米国でも、冤罪を生むとの指摘は根強い。膨大な証拠をもとに詳細に事実認定を行い、真実に迫ろうとしてきた日本の“精密司法”。それが、司法取引の導入でどう変わるのか、必ずしも見通せてはいない。
 司法取引、取り調べに変革 可視化で増えた黙秘「引き換えに導入」-産経新聞
 特集の第1回は司法取引と取り調べの可視化についてです。
 記事では取り調べ可視化のために自供を引き出すことが難しくなるという懸念から司法取引を導入したいという検察側のストーリーを無批判に採用しています。しかし今回の刑事訴訟法改正法案が元々記事でも触れている大阪地検特捜部の改竄事件が背景にあるにもかかわらず、可視化されるのはごくごく一部の、全体から言えば数%程度の割合の事件だけであること一方で司法取引その他の捜査権限拡大策は何の制限もなくどんどん放り込まれた代物であるということに触れないというのは大問題です
 少なくとも可視化が一部の事件に限られることに触れないのはミスリードでしょう。
 つまり警察や検察は自身の問題点を解消するためであるという名目の法改正で、その改善を最小限にするだけでなく新たな権限という利得をもぎ取った格好になるわけです。盗人猛々しいとはまさにこのことでしょう。
 また、日本の検察の捜査を「精密司法」 であると前提することにも無理があります。本当に精密司法ならそもそも自白に頼る必要などなく、司法取引導入の理由も生まれてないでしょう。というか、数々の冤罪に違法捜査という刑事訴訟法改正の理由もなかったはずです。

 (2)受刑者の高齢化
 国内各地の刑務所で、高齢の受刑者の割合が増えている。法務省によると、昨年末時点で全国の刑務所が収容する受刑者5万2860人のうち60歳以上の受刑者は9736人。全収容者の18・4%を占め、5年前より2・1ポイント増えている。
 受刑者数も年々増加傾向だ。平成26年版犯罪白書では、25年に入所した65歳以上の受刑者は2228人で前年比約2%増で2年連続の増加。うち約34%が2~5度目、約39%が6度目以上の再犯者だ。
(中略)
 「高齢の女性は出所後の就職が困難なので、生活に困って再犯してしまう。今後、刑務官にも介護の資格が必須になるのでは」
 加速する受刑者の高齢化 刑務官に求められる介護資格-産経新聞
 2つ目では受刑者の高齢化問題について、多角的に触れられています。確かに受刑者が老人ばかりになれば刑務官に介護の専門知識も必要になるでしょう。
 この問題は早くから浜井浩一氏ら犯罪学者の間でも注目されてきました。塀の外では仕事にもつけず、かと言って中でも仕事をあてがうわけにもいかないほどに弱ってしまった老人をどうするか。刑務所は裁判所が懲役だと決定した人を拒否することが出来ません。故に、介護施設でもどこでもはじかれた人々の最後の砦になってしまうのです。

 (3)18歳の裁判員
 20歳か、18歳か-。平成28年夏の参院選から選挙権年齢が18歳以上に引き下げられることが決まり、未成年の飲酒や喫煙を禁じた法律のほか、少年法や民法についても、対象年齢の引き下げ論議がかまびすしい。
 平成21年に始まった裁判員裁判と選挙権年齢の関係は密接だ。裁判員は衆議院議員の選挙権がある有権者が対象で、候補者の名簿は、選挙人名簿に連動して作成される。選挙権と同じように裁判員の対象年齢も、いずれ引き下げが検討されるはずだ。
(中略)
 不思議なほど盛り上がらない裁判員の年齢引き下げ論議。その理由として、裁判員に求められる「格」を挙げる声も根強い。
 裁判員裁判を経験したある刑事裁判官は、「人の罪を判断するにはそれなりの社会経験が求められるのではないか」と指摘する。
 現在、学業への負担などを考慮して、学生は裁判員の選任を辞退できる。ただ、この裁判官は、「社会経験の浅い学生が裁判員の一翼を担うことへの違和感がある」と指摘。こうした意識が、裁判員年齢について「今のままでいいのでは」と突っ込んだ議論を避ける背景にあるという。
 別の裁判官は、「感覚的な意見で理屈が伴っているわけではない。引き下げるべきか、据え置くべきか、明確にするためにも近いうちに議論が必要」とみる。
 その時期はいつなのか。「少年法の対象年齢引き下げとセット」。司法関係者はこう口をそろえる。
 20歳未満を対象とする少年法の適用年齢引き下げの根拠に持ち出される「少年事件の凶悪化」は、数字上では浮かび上がらない。
 ただ、自民党の特命委員会が、少年法の適用年齢を18歳未満にするよう求める提言を今年9月、政府に提出。法務省が10月、少年法に関する省内勉強会を設置するなど、論議は始まりつつある。
 数々の少年事件を担当したベテラン裁判官は、「少年事件が減少傾向だとしても、凶悪事件が報道されると『悪化している』という印象になりやすい。これが適用年齢引き下げなどを求める声につながる」と指摘。「昔に比べ動機が理解できない」との声も多く、「漠然とした少年犯罪への不安」を厳罰化により取り除こうという構図だ。
 議論されない「裁判員年齢」 18歳が18歳を裁く日は来るか-産経新聞
 成人年齢引き下げに関わる裁判員制度の問題は確かに議論が盛り上がりません。私は元々裁判員裁判に反対なので何歳が対象だろうと関係がないのですが。
 しかしここで語られている、18歳が裁判員になることへの違和感は、本当に違和感としか表現しようのないほどに薄弱なものばかりです。
 社会経験が必要だという理由は選挙権の時にも聞かれましたが、別に年齢が高いからといって社会経験が豊富とは限らないでしょうし、逆もしかりです。そもそもどんな社会経験がどの程度必要かなどということは明確に線引きすることが出来ず、だからこそどんな人でも年齢が一定以上になれば自動的に与えられるのでしょう。
 保護される少年が裁くことへの違和感というのは、突き詰めれば裁かれる立場にもなりうる一般人が裁判員となる制度そのものへの違和感ということが出来るでしょう。
 裁判員に格を求めるというのはもう噴飯ものでしょう。格以外のものを求めたから、というか核を軽視したからこそ裁判員制度なんてものを始めたのであって、そんなものにこだわりたいのなら最初から始めなければよかっただけです。
 またこの記事で看過できないのは、少年犯罪の厳罰化への議論です。漠然とした不安を取り除くための刑罰などというものは刑事法の理論には皆目見当たりません。動機が理解できないというのも相手方の無理解と不勉強からくるもので、ようは自業自得です。それを棚に上げて牢屋に入る期間を長くするなどということが許されるはずもありません。厳罰化でも十中八九不安が取り除かれないであろうことは、それを漠然と表現していることからも明らかです。

 というわけで、評価した記事以外はやっぱり問題含みな記事でした。何回まで連載するかはわかりませんが、いくらかたまった下でも書こうと思います。 

【書評】犯罪不安社会 誰もが「不審者」?

 最近でこそ治安悪化が実態に伴わないと叫ばれて久しいですが、恐らく本書が登場した2006年は今よりもっと熱狂的に治安悪化が叫ばれていたでしょう。いや、実は案外今も大差なかったりして。私は早いうちから犯罪心理学に興味を持って勉強していたので、犯罪心理学を学んだことのない一般の人がどのようなイメージを抱いているのか想像しにくいんですよね。こういうイメージを持っているらしいと聞きはするんですが、どこまで蔓延しているのもなのかもよくわかりませんし。
 本書は4章構成になっており、第1章で浜井が統計をもとに治安悪化言説を批判、第2章では芹沢が犯罪に対する言説の変遷を分析、第3章では引き続き芹沢が地域防犯活動への批判を展開、第4章で浜井が刑務所の実態を述べるという形になっています。第1章の内容なかなり今更な感があるので割愛し、第2章以降について触れていきます。

 犯罪の語られ方
 現代型犯罪のはじまりとしての役割を与えられたのはあの宮崎勤事件でした。段ボールに死体を入れて送り付けるという手口にしても、彼が典型的な(と考えられた)オタクという当時の人々には理解できない生物であったことなどが理由でしょう。しかし不可解な動機による、衝撃的な手口による事件というのは宮崎勤事件以前にもありふれていました。一体なぜ宮崎勤事件は始まりとしての役割を与えられたのでしょうか。
 恐らくその事件における狂乱ともいえる報道合戦、そして数多の言論人が時代の象徴としてこの事件を語ったことが一因でしょう。言論人たちは彼を解明することに一生懸命になり、彼が平凡な人間ではないだろうというある意味自分勝手な前提のもとに語っていきました。言論人にとって宮崎勤は、自分の主張を補強したり、あるいは語りのきっかけになるような便利なおもちゃであり、世間にとってもこれらの事件の解明は手ごろな娯楽でした。
 重要なのは、その語りは彼を理解しようとする視点、あるいは彼は時代の被害者なのだとして自身の批判言説のだしにしようという視点が存在していたということです。この視点はしかし、次第に薄れていきます。
 酒鬼薔薇事件を経て、宮台真司が酒鬼薔薇フォロワーなどと呼称した少年たちによる、豊川市主婦殺害事件や佐賀バスジャック事件が発生すると、言論人たちの視点が徐々に変わります(宮台真司の酒鬼薔薇事件への反応は【書評】「脱社会化」と少年犯罪に詳しい)。
 そして犯罪被害者による運動があり社会が被害者を「再発見」します。今までは凶悪犯の心の解明という娯楽に現を抜かしていた世間が被害者への同情を覚え、反転して加害者には怒りを覚えるようになります。ここから犯罪の語られ方から犯罪者を理解しようとする視点が抜け落ち、彼らを徹底的に敵視するようになっていきます。
 その方向を大阪の池田小事件が決定づけます。報道は犯人である宅間守を解明しようとしますが、それは怪物に対する視点であり、人間に対するそれでなくなっていきます。昔なら同情の対象になったであろう彼の家庭環境は単なる怪物の生成過程であり、彼の子供の頃の些細な出来事は全て異常性の兆候として処理されていきます。
 こうした視点を得た現代の犯罪言説は、犯人の怪物視の他にもう1つ特徴的な視点を持っています。それはセキュリティの視点です。本書では法制度批判と別れていますが、私は同根だと考えます。なぜ犯罪が防げなかったのかという声が合唱の様に響き、犯罪対策が絶対的正義と目される社会の到来となったのです。

 こうした背景は私の中にあった疑問の答えにもなるものでした。様々な書籍で宮崎勤事件や酒鬼薔薇事件が社会の象徴として語られた過去があるにも関わらず、どうして最近の事件ではそのような視点の言説が登場しないのかという疑問です。しかし犯罪言説がそうした視点を失い、加害者を悪として糾弾する機能に限られたのだとしたら当然の結果なのでしょう。

 防犯マップに意味があるか
 環境犯罪学という分野があります。犯罪が起こりやすい環境というものがあり、その環境が人を犯罪に駆り立てるのだという考え方です。小宮信夫が積極的に提唱しており、本も存在します(犯罪は予測できる 新潮社 2013)。ていうか私も読んだことがあります。その時ははっきりと気が付かなかったんですが、少なくとも小宮が主張する意見に関しては、根拠が皆無です。特に防犯マップなるものが防犯に役立つという彼の主張には根拠がありません。恐らく「犯罪が起こりやすい場所がある」という考え方は一般人の想像に合致するが故に何の違和感もなく受け入れられるのでしょう。
 確かに犯罪の起こりやすい場所は存在しえるでしょう。盗みを行う者も、人通りの多い道のど真ん中でやろうとは考えないでしょう。しかしそれはあくまで相対的な価値観です。ある場所が犯罪のしにくい場所になったら、別の場所が相対的に犯罪のしやすい場所になるというだけの話ではないでしょうか。これは想像ですが、一応犯罪学の考え方の一つに犯罪の転移というものもあるようです。
 本書によれば、民間のボランティアによる防犯パトロールは増加傾向にあるようです。私の地元にもあるようですし、最近は珍しくないのでしょう。しかしこのボランティアの増加はある弊害を招きます。
 それは社会の不寛容化とも言うべき現象です。彼らは子供を守るという大義名分の元に、脅威となる環境や人物を発見し排除しようとします。防犯マップに代表されるような「危険な場所を探そう」という考え方が援用されれば当然の結果ともいえます。そして排除の矛先は障碍者やホームレスといった社会的弱者に向きがちになります。家を持たずに公園で寝泊まりする人間や、パッと見少し変わっていて言動も少し普通ではないと感じられるような、特に知的障碍者は彼らにとって不安を与える者と解釈されます。実際に子供が好きで、見つけると微笑んだり笑いかけたりする自閉症の男性が「見つめられて子供たちが怖がっている、何とかできないか」と言われたというエピソードも本書に紹介されています。
 それら不寛容の行き着いた先が第4章に登場する刑務所の実情に繋がります。

 刑務所は福祉の砦
 刑務所の収容人員が増加しているとどのような印象を受けるでしょうか。きっと刑務所は凶悪な人間であふれかえっていると想像するでしょう。事実犯罪白書においても、治安の悪化による収容人員の増加というストーリーを採用しています。
 しかし浜井はそうではないと主張します。刑務所に収容されるのは高齢者や障碍者、外国人ばかりで懲役の労働に必要な人員が不足するという事態にすらなっているというのです。
 例えば病院や福祉施設であれば、面倒を見きれない人が入ってくることを断ることが出来ます。一方で刑務所はそこに入れるべしと裁判所に判決を下されれば拒否することはできません。どんな犯罪者でもある意味平等に受け入れるのです。そういったシステムのために今や刑務所は福祉最後の砦ともいえる状態に陥っています。刑務所自体はそのような受刑者を想定して作られていないために、あちこちで不都合が出てきているといいます。
 また刑務所自体に対しても実態に基づかないイメージが流布しています。例えば無期懲役。15年程度で出てこれるというイメージが蔓延していますが、実際には2005年の段階でたったの3人しか仮出獄が認められておらず、彼らの平均所在期間は20年を超えています。人を殺した事件の犯人はよほどのことがない限り認められないともいいます。

 エビデンスベースの議論を
 これら実態に基づかない犯罪言説は、芹沢の言葉を借りれば「おしゃべり」「床屋談義」の域を出ないものです。本来は一笑に付すべきであり、その程度でいいはずのものですが、行政から立法、挙句は司法にまで蔓延っているという笑えない現状です。
 流石にまずいと思った世界各国の犯罪学者たちはキャンベル共同計画という、様々な犯罪対策の効果を統計的に分析しようというプロジェクトを立ち上げています。しかし彼らの努力も、それを聞こうとする社会の姿勢がなければ水泡と帰すでしょう。
 私もいくつかの記事で何度も言っているように、犯罪に限らず議論においては根拠を必ず示すことを意識せねばなりません。根拠のない主張は妄想と同価値だとして取り合わないことが重要です。

 不安という漠然としたものに基づく治安対策には際限がありません。根拠を見ない以上犯罪の減少という客観的な事実に気が付くことがないからです。そうした不安はまず無駄な対策によって予算を食いつぶし、我々の自由を喰らった後にSF小説も真っ青なディストピアを残しかねません。「本当に」犯罪の減少を願うなら、根拠に基づく議論を求めてゆくべきでしょう。

 浜井浩一・芹沢一也. (2006) 犯罪不安社会 誰もが「不審者」? 光文社
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
E-mailアドレス
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